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先日3月3日にリリース30周年を迎えたメタリカの3rdアルバム『Master Of Puppets』。RollingStoneのインタビュー企画で、ラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット、そしてアルバムの共同プロデュースを行ったフレミング・ラスムッセンが『Master Of Puppets』を振り返っていました。元ネタ記事があまりに長いので前編後編に分けて紹介します。(後編はまだ翻訳中…)
結局、どこにも収録されなかったFangの「The Money Will Roll Right In」のカバー。オリジナルはこちら。
彼らの2ndアルバムタイトル『Where The Wild Things Are』は、後にメタリカの『Reload』収録曲と同名のため、このバンドから引用したのかもしれません。
後編は少々お待ちください。
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ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇
先日3月3日にリリース30周年を迎えたメタリカの3rdアルバム『Master Of Puppets』。RollingStoneのインタビュー企画で、ラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット、そしてアルバムの共同プロデュースを行ったフレミング・ラスムッセンが『Master Of Puppets』を振り返っていました。元ネタ記事があまりに長いので前編後編に分けて紹介します。(後編はまだ翻訳中…)
「『Master Of Puppets』を今聴くと、俺はただじっとして「何だこれは!あれはどうなってんだ?」ってなるね。」ラーズ・ウルリッヒは笑いながらRollingStoneにそう語る。「とてもガッツのある音楽だよ」
このドラマーとメタリカのバンドメイトたちが気の遠くなるような傑作をリリースしてから30年が経過したが、依然として大胆不敵でありながらパワフルなサウンドだ。『Master of Puppets』は、1986年3月3日に発表され、メタリカだけに留まらずメタルというジャンルにとっても最高水準であり続けている。(収録された)8曲は内側からの深い、あらゆる形態の操作を作り上げているが、ヘドバン仕様のリフとリズムのミックスのおかげで、激しさと引き換えにヘヴィなサウンドを手離してはいない。
このLPはメタリカとしてわずか5年のキャリアで世に出された。その5年のあいだに彼らはスラッシュメタルを開拓したデビュー作、1983年の『Kill 'Em All』、そして複雑でエレガントなメロディーを加えた翌年の『Ride The Lightning』をすでに出していた。しかしタイトルトラックの「Master Of Puppets」の曲の展開、「Disposable Heroes」の散弾銃で打ったような熾烈なリズム、そして「The Thing That Should Not Be」のヘヴィな引き、その他の曲でも息を吹き返したように集中したサウンドを包含している。当時平均年齢23歳のメタリカが逃げようにも逃げられなかった伝説のレコードだ。
暗鬱な「Welcome Home (Sanitarium)」、ブルータルな「Battery」は、その後何年もライヴの定番曲となった。一方、(薬物中毒についての致命傷をにおわせた)タイトルトラックは最もライヴで演奏された曲となっている。「数年前にヨーロッパでツアーをしてファンにセットリストを選んでもらったら、そのうちの20から30公演で「Master Of Puppets」が連日最もリクエストされたNo,1の曲だったんだ。クレイジーだね。」ドラマーはそう語る。
このアルバムは、その半数の曲を共作し、レコードが出た6か月後にツアーバスの事故で亡くなったベーシストのクリフ・バートンと切っても切り離せない。近年、バンドはクリフに敬意を表して『Master Of Puppets』に収録されている8分のインスト曲「Orion」を演奏し始めている。
アルバム自体がメタルの殿堂におけるメタリカの居場所を確保するに十分なものだった。たとえその後、同じ年に(クリフの死による)バンドの再編成がなく、その後いくつかのリリース、そしてメガセールスを記録したブラックアルバムにより世界最大のバンドのひとつにならなかったとしても。この伝説は今秋、著者マット・テイラーによる新著『Back to the Front』で、アルバム『Master Of Puppets』、その後に続く「Damage Inc.」ツアーについて、これまで公開されていなかった写真やバンドとクルーに対するインタビューによって深く掘り下げられている。今週、アルバムのリリース記念日を迎える。ウルリッヒ、ギタリストのカーク・ハメット、そして共同プロデュースを務めたフレミング・ラスムッセンが『Master Of Puppets』から30年後、彼らにとってどんな意味を持つのかRollingStoneに語った。
「あれは狂気の時間だった」ウルリッヒは1985年の夏をそう回想する。その年の春、バンドは『Ride The Lightning』の数ヵ月間のツアーを経て、サンフランシスコのベイエリアに戻ってきた。ウルリッヒの1986年のインタビューによると、ハメットはキャンプや釣りに行っていた一方、ヘットフィールドとウルリッヒはディープ・パープルを追いかけてアメリカ中を旅していた。彼らが落ち着き、曲を書く準備が出来たと感じると、エルサリートで同居していたシンガーとドラマーは、ガレージでバートンとハメットのアイデアが収録されたカセットを使って新しい素材を練習し始めた。彼ら全員が集まったり、ジャムったり、ラジカセ上の他のメンバーとレコーディングを行ったりしていた。
「俺たちは本当に若かった。本当に新顔だったのさ。」ドラマーはそう語る。「当時の俺たちの写真を見ると、純真さがある。俺たちはみんな音楽ファンだった。みんな壁にアイアン・メイデン、マイケル・シェンカー、UFO、リッチー・ブラックモアのポスターを貼っていたしね。音楽が全てだった。俺たちはディープ・パープル、AC/DC、モーターヘッドとかその他もろもろを聴いていた。下心なしで四六時中、音楽に生き、呼吸していたんだ。」
85年の夏、依然として新鮮さを感じていたウルリッヒには、特に際立ったひとつの思い出がある。「俺たちは座ってライヴエイドを観ていた。俺たちはこのコンサートを録って、ブラック・サバスが朝9時にプレイしたり、起きていたことは何でも観たよ。ステイタス・クォーとかレッド・ツェッペリンもいたな。あれは狂気の時間だったね。」
このLPのためにメタリカが書いた最初の曲は「Battery」で、その次は「Disposable Heroes」だった。伝えられるところによるとライヴエイドの後、夏にラフバージョンのデモがレコーディングされた。そのデモにはインストとヴォーカルのバージョンの「Battery」「Disposable Heroes」、そして「Welcome Home (Sanitarium)」「Orion」、さらに「Only Thing」として知られるインストバージョンの「Master Of Puppets」が収録されている。この時までにスタジオで完成していなかった曲は、「The Thing That Should Not Be」と「Orion」だけだった。元々彼らはラッシュのシンガー、ゲディー・リーにLPをプロデュースしてもらうことを望んでいたが、彼は時間的制約により都合がつかなかった。そこで彼らは以前『Ride The Lightning』のプロデュースを行ったラスムッセンと再び組むことに決めた。
Metallica - Master of Puppets (1985 Demo)
「メタリカはいつも本当に凝った良いデモを作っていたよ。」ラスムッセンはそう回想する。「全てがいつもアレンジされていて、すぐにでもロックできた。」
「20代の時に発する活気とか自発性とか衝動性があった。」ウルリッヒは言う。「俺たちはあの夏のあいだ、およそ8週間で『Master Of Puppets』の曲を書いた。今じゃスタジオまで運転するだけで8週間はかかっちゃうね。だから「何だって?俺たちは85年の夏に、8週間で最初の曲から最後の曲まで生み出したってのか?」ってなるよ。『Death Magnetic』は曲を書き始めてからレコーディングを始めるまでにおよそ18か月かかってる。今やってるレコードは、(すでに)およそ9か月かかっている。どうやって『Master Of Puppets』みたいなレコードを8週間でレコーディングしたってんだ?」
ライヴエイドの1か月後、メタリカは 彼らのこれまでで最大のギグ、キャッスル・ドニントンでのモンスターズ・オブ・ロック・フェスティバルのためにイギリスへ飛んだ。「ピッチリした衣装を着込んだり、アイメイクをほどこしたり、どの曲にも“ロックンロール、ベイビー”なんて歌詞を入れたりするヤツらを見たいって言われても、俺たちはそんなんじゃないぜ!」とヘットフィールドは観衆に言い放ったのである。「俺たちはお前らの頭に一撃食らわすために来たんだ。」ZZトップをヘッドライナーにしたこの日のフェスティバルには8万人がやってきたと報告されている。
メタリカはすぐにカリフォルニアに戻った。気ままにビールを燃料にベイエリアのパンクとメタルの前哨基地であるルーシーズ・イン(Ruthie's Inn)、そして8月31日にサンフランシスコで名高い「Day on the Green」フェスティバルで四騎士(Four Horsemen)たちのライヴを組むために。それからデンマーク人のプロデューサーと再会するためにコペンハーゲンのスウィート・サイレンス・スタジオに向かった。次にサンフランシスコでライヴを行ったのは1985年の大晦日で、真新しいアンセム「Master Of Puppets」を初披露したのである。
「我々は多かれ少なかれ『Ride The Lightning』をやり直したいと思っていた。もっとずっと良くなるとね。」ラスムッセンは言う。「私はいつもメタリカはスタジオに行くたびにレベルを上げていると思っていた。彼らはいつも技術的な能力に挑戦していたし、それこそがもっと良くなることのできる唯一の方法だったからね。」
メタリカが『Master Of Puppets』のために最初にレコーディングした曲はビニール盤にも他のメディアにも収録されることはなかった。アルバムのためのセッションは1985年9月3日に始まった。ラスムッセンのレコーディング記録によると、バンドは「我々は(ミスフィッツの)「Green Hell」と(ダイアモンド・ヘッドの)「The Prince」をやった」彼は記録を見ながらそう語る。「我々は「Money」と呼ばれる何かもやろうとしていた。私は「Money」って曲が何かわからないけど「Green Hell」の代わりにやったんだ。」
「少なくとも俺自身は、その2つのカバー曲のレコーディングによって他の曲でどうドラムを演奏すべきか、つまりスタジオのなかでだってもっとアグレッシブに演奏するってことを掴んだんだ。俺は俺たち全員が攻撃的に演奏していたと思う。今、スタジオでとても手ごたえがあるよ。」1986年にウルリッヒはそう語っている。
1985年のメタリカの「Money」は、サンフランシスコのパンクバンド、ファング(Fang)の「The Money Will Roll Right In」のことだろう。このバンドはルーシーズ・インのショーで演奏しており、1992年のレディング・フェスティバルでニルヴァーナがカバーしたことでも知られている。メタリカは後にその他2曲をベーシスト、ジェイソン・ニューステッドと共にレコーディングしている。「Green Hell」はもうひとつのミスフィッツの曲「Last Caress」と組み合わせて1987年の『$5.98 EP: Garage Days Re-Revisited』の収録曲に、「The Prince」は1988年のシングル「One」のB面曲となった。
RollingStone(2016-03-02)
結局、どこにも収録されなかったFangの「The Money Will Roll Right In」のカバー。オリジナルはこちら。
彼らの2ndアルバムタイトル『Where The Wild Things Are』は、後にメタリカの『Reload』収録曲と同名のため、このバンドから引用したのかもしれません。
後編は少々お待ちください。
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