メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:MetalMassacre

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章5回目。ジェイソン・ニューステッド加入にいたるお話。有志英訳を管理人拙訳にて。

    ラーズがつま先を負傷していたため、彼らは新しい曲のリハーサルができなかった。そこで葬儀後の数週間、ラーズはもっぱら公式お気に入りツール、電話を使うこととなった。昔なじみのヘッドバンガー友だちやクリフのメタリカ加入を手助けした男、ブライアン・スレイゲルに電話をかけていたのだ。メタリカが急速にキャリアの勢いを増しているあいだ、ブライアンは自身の情熱を傾けたプロジェクトであるメタル・ブレイド・レコーズ(Metal Blade Records)というレコードレーベルをゆっくりだが着実に進展させていた。スレイゲルは最新の有望なアメリカのメタルバンドと別の『Metal Massacre』のコンピレーション盤をこの1年前にリリースしている。そのバンドのなかにはアリゾナ州フェニックス出身のフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam And Jetsam)がいた。ブライアンはこのバンドのベーシスト、ジェイソン・ニューステッドがメタリカにふさわしい男かもしれないと考えていた。

    ジェイソン自身が売り込んでいるバンドからヘッドハントすることにスレイゲルは少し悩んだが、ジェイソンがメタリカの大ファンであることを知っていたし、時宜を得たといってメタリカに接触を図ろうとするような残忍な考えはジェイソンにはおそらくなかっただろう。そして、もちろんラーズはスレイゲルの昔なじみの仲間であった。ラーズは、特にこのような状況下で彼の助けを必要としていた。

    もちろんジェイソンはスレイゲルの言葉に大喜びだった。その後すぐにラーズは電話に出て、このジェイソンという男がオーディションのためにサンフランシスコに飛んでくる日に合意した。

    ジェイソンは人生を賭けたオーディションに集中して準備した。ガレージで何時間もメタリカの全曲を練習した。車でフェニックス・スカイハーバー国際空港へ行き、飛行機で天国のようにヘヴィな目的地、メタリカのリハーサルルームに向かうまで。

    短くも集中したその期間で、40人以上の有望なベーシストたちがメタリカのオーディションを受けた。そのうち2人だけまた戻ってくるよう言われた。その1人が充分に準備を重ね、意欲充分なジェイソン・ニューステッドだった。

    この2次オーディションの後、メタリカの3人のメンバーはジェイソンをサンフランシスコ、ダウンタウンにある伝説的なビストロバー、トミーズ・ジョイント(Tommy's Joynt)に連れて行った。しばらくして、ラーズ、カーク、ジェイムズはみなトイレにたち、用を足してジェイソンについて評議した。ラーズの心はすでに決まっていた。ジェイソンは「クール」だ。だが他のメンバーはどうなのか?ジェイムズとカークは完全に同意した。ジェイソンこそがその任にふさわしいと。

    彼らがテーブルに戻ると、ラーズはジェイソンをみつめて尋ねた。「仕事が欲しいか?」わずかに緊張し不安だったジェイソンは無意識のうちに、ラーズ、カーク、ジェイムズ、そしてこの小さなバーで近くのテーブルにいた全ての客の耳をつんざくデカイ雄叫びを上げてその言葉に反応した。ジェイソン・ニューステッドはメタリカに加入した。メタリカはベーシストをみつけ、アルコホリカは新しいビール愛好家の兄弟をみつけたのだ。サンフランシスコで最も品揃え豊富な場所のひとつと認められるこの店ほど彼ら4人がいた場所としてふさわしいものはないだろう。

    トミーズ・ジョイントで長い夜を過ごしたが、新ヴァージョンのメタリカは、その翌日からライヴ・セットのリハーサルを行っていた。かの日本公演の日程はラーズ、ジェイムズ、カークにとって精神的な救いとなっていた。彼らは緊急の課題の真っ只中だったが、バンドはバートンの家族について忘れていなかった。日本へ出発する前夜に、ジェイソン・ニューステッドと来たるツアーのセットリストを弾いていたリハーサルルームをバートン夫人(訳注:クリフ・バートンの母)が訪ねてきた。トーベン・ウルリッヒもそこにいた。バンドが曲を演奏しているあいだ、トーベンは彼女をハグしていた。親として彼ら2人は、子供たちが大きく広がった世界を旅するなかで、子供たちのパフォーマンスと無事を心配することが自然と染み付いていた。トーベンが語ったように、彼とラーズの母ローンの心配は、ラーズがテニスアカデミーをあきらめて、このようにテニスのキャリアをドラムに変えたことではない。彼らの心配事は「長いリハーサルからの帰途にラーズが運転する車が溝に落ちること」のようなものだった。

    今、そのような心配事がバートン夫人にとって実際に起きた悪夢になってしまった。彼女が受けた最大の犠牲は人生二度目で(クリフが13歳の時、3歳違いの兄スコット・デヴィッドが亡くなっている)数週間前に24歳の息子を埋葬したが、彼女はこうして立ち、リハーサルルームで割れんばかりに鳴っている亡き息子とその友人の曲を聴いていた。リハーサルが終わると、バートン夫人はメンバーに歩み寄り、ジェイソンとハグをした。それによってメタリカの仕事は彼女の静かで思いやりのある祝福を受けたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    管理人は昨年、FearFestEvilで渡米した際に文中で登場するトミーズ・ジョイントを訪れることができました。夜にはいっそう目立つ外観。
    TommysJoynt

    たしかにビールの種類が豊富で、Alcoholicaにとってはこれ以上ないお店です。
    TommysJoynt_Beer

    ジェイソンがフロットサム・アンド・ジェットサムで参加した『Metal Massacre VII』はこちらから。
    metalmassacre7
    Metal Massacre VII


    01. Impulse / Heretic
    02. Sentinel Beast / Sentinel Beast
    03. I Live, You Die / Flotsam and Jetsam
    04. Rented Heat / Krank
    05. Backstabber / Mad Man
    06. Widow's Walk / Detente
    07. High 'n' Mighty / Commander
    08. In the Blood of Virgins / Juggernaut
    09. Reich of Torture / Cryptic Slaughter
    10. The Omen / Have Mercy
    11. The Awakening / Titanic
    12. Troubled Ways / Lost Horizon

    Flotsam And Jetsamは9:37から。


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    デビュー前のデモ・テープ『No Life 'Til Leather』のカセット復刻版を行うメタリカ。今回はメタリカの曲が初めてレコードに収録されたコンピレーション・アルバム『Metal Massacre』の制作秘話を。収録曲「Hit The Lights」のリードギターをつとめたロイド・グラントの(2015年2月27日に行われた)インタビュー。BLABBERMOUTH.NETさんのインタビュー文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    lloyd-grant

    −どのようにしてメタリカと関わっていったのか

    何が起きたのかいろいろと違った説明がなされているね。私の見解では、私とラーズがカリフォルニアのオレンジ・カウンティーでジャムっていた。私たちと何人かでジャムったり、一緒にジャム・セッションしてくれる他の人たちを探していたんだ。そして、私たちは出会ったんだ・・・リサイクラーという週間紙を通じてね。あれを通じて出会ったんだ。それが始まりさ。

    私たちは長いことプレイしていた。彼は私のアパートにやってきては、私に一緒に来てバンドでジャムをしようと頼み続けていたんだ。でも私は他のことをやるのに本当に忙しくってね。私は根負けして彼らと一緒にやったんだ・・・私と彼とジェイムズ、その3人だけでね。ジェイムズはベースを弾き、私はギターを、ラーズはドラムを叩いていた。そして私たちは「Hit The Lights」をリハーサルした。しかし、そうなる前にラーズは私にあの曲を聴かせてくれた。私たちはサッカーを見てつるんでいた。彼は「俺、コイツに会ったことがあるんだぜ」とかベラベラ喋っていた。そして「彼はまさに俺たちが一緒にジャムしたいヤツだ」と言っていた。そして彼はこの1曲を弾いた。素晴らしかったね。それが「Hit The Lights」との出会いだよ。その後、何回か私たちはジャム・セッションをした。それから彼は私に電話してきて、彼らがコンピレーション・アルバム(『Metal Massacre』)に参加するつもりで、4トラックで録音した「Hit The Lights」のテープを渡したと言っていた。それでそのためにいくつかソロを弾いて欲しいということだった。彼らは4トラック録音機を持ってきて、録音だけすると、それをコンピレーション・アルバムで出したんだ。


    −2011年12月にフィルモアで行われたメタリカ結成30周年ライブに参加したことについて

    あぁ、あれは私の生涯で最高の経験だったね。あそこに行ったら、オジー、ギーザー・バトラーといったロック・スターたちが姿を見せていたんだから・・・。誰もが本当によく知っている、そんなロック・スターが私が立ったその夜の同じステージにいたんだ。あれはかなり素敵な経験だったよ。あの人たちはそのステージのために本当に懸命に取り組んでいたよ。つまり、彼らは午前中には着いていて、セットリストに載っている弾くつもりの曲を全曲弾いていたんだ。数回は練習していた。午前中にリハーサルをスタートして、ショーが始まる直前でやめたのさ。そんな感じで彼らは本当に懸命に取り組んでいたんだよ。ホントよくやっていた。彼らは一生懸命やっていた。それだけじゃない。それだけじゃなくって、彼らは本当に親切だったね。正直言ってあれは素晴らしい経験だよ。本当にいい経験だった。

    BLABBERMOUTH.NETより(2015-03-28)

    さらにBLABBERMOUTH.NETさんの記事の続きでは、別の側面からこのあたりのエピソードを取り上げていました。

    ハードロック・ジャーナリストのK.J.ドートンによるメタリカの伝記本『Metallica Unbound』のなかでは、ロイド・グラントとメタリカについて次のように書かれています。

    ラーズとジェイムズは決めた。「Hit The Lights」のデモ提出期限のたった数時間前に、第2ギタリストによる第2のリードギターが必要不可欠であると!ラーズはロイド・グラントという名前の手の空いたジャマイカ人ギタリストを知っていた。そこで、ブライアン・スレイゲルが『Metal Massacre』の他の曲のミキシングを既に終えていたハリウッドのビジョウ・スタジオ(Bijou Studio)までの道すがら、バンドはグラント家の私道に車を停めると、4トラック録音機を部屋に運び込み、彼が第2ソロをぶちかますのを見守った。こうして「Hit The Lights」のレシピは完成した。

    ジェイムズは土壇場の苦悩を回想する。「この4トラック録音機のことは覚えているよ。ドラム、ベース、ギターとボーカルはあった。曲のある部分ではボーカルがなかったから、ボーカル・トラックにリードギターが入れられた。思い出すよ。別のソロを入れたいと思っていたんだ。だからロイドの家に車を停めて、あのアンプをつないで、ソロだけ録ったんだ。最初のテイクだったよ。それからスタジオに行って、あのソロをレコードに入れたんだ。クソ素晴らしいソロだったね!」

    多くの話がグラントが実際にメタリカのメンバーだったということを物語っているにも関わらず、ジェイムズはこのシングルのずさんな出会いが彼がバンドに関わった唯一の時間だったと主張している。他の仲間はグラントが味のあるリードを心得た、才能あるデルタ・ブルースのギタリストだったと記憶している。ジェイムズはこう語る。「彼はマザーファッカーみたいなリードを弾くことができた。でも彼のリズムギターはあまりタイトではなかった。」

    『Metal Massacre』第2、第3プレス盤の「Hit The Lights」ではグラントではなく、デイヴ・ムステインがリードギターをつとめている。

    BLABBERMOUTH.NETより(2015-03-28)

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    メタリカ、デビュー前のデモ・テープ『No Life 'Til Leather』の復刻版をリリース

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。ついに第3章に突入しました。有志英訳を管理人拙訳にて。ラーズがいよいよメタリカ結成へと具体的に動き出します。

    - メタリカ結成(前編) -

    イギリスでラーズはヘヴィメタルの音楽そのものや雰囲気を体験し、その背景にいる人々と会ってきた。モチベーションはかつてないほど強くなり、集中力は変わらず鋭くなっていた。ついにラーズはテニスやその他トップレベルのスポーツの経歴をあきらめ、純粋な気持ちでバンドを始めたのだ。(バンドを始めることは)この若者にとっては文化的な面、あるいはミッションでもあった。つまりそれはヘヴィメタルの本質を普及させることだ。アメリカ、特に当時のロサンゼルスにはそれが決定的に欠けていたのである。

    ラーズが「ホーム」であるカリフォルニアに帰った時、ついにバンドを始めるという火がついた。ただ、処理すべき些細な点もあった。学校だ。

    「3ヶ月もヨーロッパとイギリスにいて、ダイアモンド・ヘッドとモーターヘッドとお近づきになって、本当に夢中になっていた。帰ったらバンドを組もうと思った。」ラーズはそう認めた。「でも学校の問題があった。俺たちが住んでいたカウンティーには4つか5つの学校があったんだけど、そのなかには学校になじめない生徒や他の学校に行けなかった生徒のためにいわゆる補修学校があった。バックベイ高校っていう学校だったんだけど、自分のスケジュールで受講できたのがクールだったね。学んで、取り組んで、合格しなきゃならないことがあった。でもそれが多かれ少なかれ、自分のスケジュールで進めることができたんだ。それは俺にぴったりだったよ。他のことを夢中になって続けていたあいだ、バックベイ高校で卒業証書を取るために通うことができたんだ。だから俺はこう思っていた。「いったい俺は今何をやってるんだろう!?」ってね。」

    その答えは問い自身が答えているようなものだった。

    ラーズの良き友人ブライアン・スレイゲルも、より具体的かつ創造的な面ではあるが、ロサンゼルスでヘヴィメタルに囲まれた夏を過ごしていた。スレイゲルは毎日普通のレコード店で働くだけでなく、自分のお気に入りの音楽のためにインディーズから広範囲にわたるサポートが得られるよう働きかけていた。空いた時間にはファンジン「The New Heavy Metal Review」の編集者として地元のクラブショーを宣伝推進していた。加えて、趣味の全ての要素を一本化するプロジェクトに取り組んでいた。そのプロジェクトとは新しく若いアメリカのメタルバンドのコンピレーション盤である。充分なだけの今日的なバンドと曲を集めたら、自身のレーベル「Metal Blade Records」からコンピレーション盤『Metal Massacre』をリリースできるようスレイゲルはいくつかの販売業者と契約をしたのだ。

    ラーズ・ウルリッヒ「俺はその頃「バンドで演奏した」とかそういうことを触れ廻っていた。彼はLAの新しいクールなバンドたちでコンピレーション盤をと考えていた。もちろんそんなバンドは少なかったけどね。もし俺がバンドを組んだら、そのコンピレーション盤に収録してくれると約束してくれた。だからもはや俺は機能する何かのバンドを組まなければならなかった。今じゃセルフプロデュースのアンダーグラウンドなものはたくさんあるけど、当時はアルバムに収録されることがメジャーなことだったんだ。」

    ブライアン・スレイゲルの『Metal Massacre』プロジェクトの話を聞いた時、ラーズはすぐに反応した。ラーズには他の人もそのレコードに収録されることが不可欠なことだと感じるかもしれないという考えがあった。そしてこの方法なら、とてもシャイであまり乗り気ではなかったジェイムズ・ヘットフィールドをバンド結成に誘うことができるかもしれない。いずれにしてもラーズはスレイゲルにバンドを組んで、『Metal Massacre』アルバムのためにオリジナル曲を作ると約束した。それはコンピレーション盤に参加する全てのバンドの条件だった。スレイゲルも同様に「ラーズのバンド」のためにレコードに収録する空きを確保することを約束した。

    それからラーズはジェイムズ・ヘットフィールドに電話をする。

    「そうさ、俺はジェイムズ・ヘットフィールドには何かあると思っていた。」
    ラーズはそう語る。「だから俺は彼に電話して言ったんだ。「友だちがレコードに収録する空きを確保してくれたんだ。だからキミさえよければ、俺たちでバンドを組んで、曲を書いて、それで俺たちのバンドの名前をアルバムに載せようよ。それからバンドを続けようぜ!」ジェイムズはヒュー・タナーとやっていた全てのことがぶち壊しになっていて、新しく何かやる準備は万端だった。ジェイムズは6月に高校を卒業していて、ベーシストのロン・マクガヴニーと同時にノーウォークに引っ越していた。そこで彼らはリハーサルをしていた。俺たちは81年の10月には毎日集まって一緒にやり始めた。あの落ちまくったシンバルは忘れ去られた。あるいは少なくとも大したことじゃなかったんだな。」ラーズはそう付け加えた。

    (訳注:デンマーク訛りの)おかしなアクセントとすぐ落ちるシンバルを持ち合わせた小柄な男からの話という疑念はあった。しかしラーズ同様、若く熱烈なメタルファンであり子どもの頃からヘヴィメタルを聴いて育ったジェイムズにとってそのような好機に恵まれることはとても難しかった。

    ジェイムズ・ヘットフィールド(1963年8月3日生まれ)が8歳の頃、彼は兄デヴィッドの部屋に忍び込んではブラック・サバスの1stアルバムを聴いていた。そのレコードによって好奇心旺盛な幼いジェイムズはメタルのブラックホールへと引きずり込まれた。

    ジェイムズ・ヘットフィールドは『Black Sabbath』について筆者にこう語った。「全世界で最高のアルバムだよ(笑)。俺が大好きで、妹をとにかく怖がらせたジャケット。そしてあの音楽・・・。兄貴は俺より10歳年上だったんだけど、自分の部屋に自分のレコード・プレーヤーを持っていた。だからいつもこっそり忍び込んでは、あのアルバムを出して再生していた。それがトラブルを招いた。多くの家はまだそんなものは持っていなかった。ある友だちが家に来てあのアルバムを聴いていたら、そのうちの一人がこう言ったんだ。「えっ、キミのママはブラック・サバスみたいなものを本当にキミに持っていいって言ったのかい?」とね(笑)。でもトニー・アイオミは本当にヘヴィなリフをあのアルバムのなかで書いていた。俺にとって彼は究極のギタリストなんだ。」(1997年4月4日のインタビューにて)

    1978年、ジェイムズの兄はジェイムズにとって初めてのコンサートへと連れて行った。エアロスミスとAC/DCのコンサートで、15歳のジェイムズはこの体験を本気で楽しんだ。ファンの絶叫さえも。彼は世界中の何にも増してこれをやりたいと思ったのだ。

    ジェイムズは幼い頃、母親とピアノの演奏を学んだ。後に兄がリハーサルをしていた家のガレージに忍び込んでは別の楽器を試していた。学校教育で彼は初めてのギターを得た。そのギブソンSGは彼のギター・ヒーローであるトニー・アイオミが使っているものに見えるよう黒く塗られた。小さい頃、ジェイムズはオブセッション(Obsession)というバンドで、LAのダウニー東中学校の友人と一緒に演奏し始めた。ジェイムズはその後、ファントム・ロード(Phantom Lord)、レザー・チャーム(Leather Charm)といったバンドで演奏した。最初の頃はカバー曲を演っていた。(どちらのバンドもヒュー・タナーがギター、ロン・マクガヴニーがベース担当だった。)しかし徐々にジェイムズは他のバンドをブラック・サバスとシン・リジィの定番曲を演って打ちのめすよりも自分自身の曲を書きたいと思い始めていた。ただしバンドの仲間たちはオリジナル曲を作曲したいという願望を共有していなかった。そんな時にラーズが登場してきたのだ。彼はオリジナル曲を書くことを了承し、2人は音楽雑誌とインスピレーションの源を分け合った。ラーズはレコード会社との契約の一切を引き受けた。おそらくテクニックや才能よりも熱意と意志の強さが勝っていたであろう、この「ラーズ油田採掘会社」は、ジェイムズにとってそれほど問題ではなかったのだ。

    2人のティーンエイジャーは社会的にも個人レベルでも明らかに違っていた。ラーズはヘレルプの芸術的で自由で奔放な家で育った。一方、ジェイムズはLA育ちであり、ネブラスカ出身でカントリーミュージック愛好家のトラック運転手と、たとえ彼が日曜日は寝ていたいと思っていても愛ゆえに息子を教会にしょっちゅう連れて行くような、芸術的には才能があったがとても信心深い母親のあいだに生まれた息子だった。

    ラーズはいまだに両親が健在(訳注:母親のローン・ウルリッヒさんは1998年に亡くなっている。)で、彼らは優れた洞察力を持ち、とても活動的だ。ジェイムズはトラウマとなる幼少期を過ごした。父親は家を出て行き、続けて妹と衝突を繰り返し、ラーズと会うすぐ前には病気の母親が若くして亡くなっていた。ジェイムズはまだ死んだ母親とその悲劇によって、その後何年にも渡って彼を特徴付ける罪悪感で満たされた、ただの子どもだった。(それはメタリカの曲のなかにも影響している。この話にはまた後ほど触れる。)前述したようにジェイムズは10代のあいだ兄のデヴィッドと暮らし、高校を卒業してから家を出た。そしてこれも前に述べたようにロン・マクガヴニーとともに。

    そんなわけで2人の若者のあいだの行動的、そして社会文化的な違いは充分すぎるほどハッキリと存在していた。しかしラーズとジェイムズは最初の具体的な音楽の仕事、つまり『Metal Massacre』アルバムのために曲を書くという楽しみを分かち合ったおかげでうまくやっていくことができたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

    Young_Lars_and_James
    マーシャル・アンプとフライングVを前に若き日のラーズとジェイムズ。

    生まれた環境の違いを考えると、コンピレーション盤という「餌」を手にしたラーズが一番に連絡したのが、ジェイムズというのは不思議な感じがします。でも、音楽的嗜好や音楽に対する熱意に何か通ずるものを感じたのでしょう。そして、その連絡したタイミングが少しでもズレていたら、今のメタリカはなかったかもしれませんね・・・。

    次回は「大佐」が登場予定。

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