メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:初来日

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章7回目。予告どおり、メタリカの初来日の様子など。

    MetallicaJason

    メタリカは計画通り、日本でのツアーを続けた。この国の観衆は長年に渡り、数え切れないほどのHR/HMのバンドたちに大きな衝撃を与えていた。70年代には献身的な日本の観衆の神話が、ディープ・パープル(『Made in Japan』(邦題:ライヴ・イン・ジャパン)(1973))、ジューダス・プリースト(『Unleashed in the East』(邦題:イン・ジ・イースト)(1979))の2つのライヴアルバムによって創られた。日本文化では、「忠誠」と「伝統」がいつも密接につながっており、それはヘヴィメタルの観衆にまで広がっていた。前述のバンドから70、80年代のヘヴィメタルでは、特にキッスやエアロスミス、ホワイトスネイクは、日本でいつもリーダーでなくてはならなかったし、とりわけ新世代の日本のロックファンに影響を受けて絶え間なく変わるトレンドに適合していかなければならなかった。

    日本では、世界で最もユニークな音楽雑誌のひとつ「Burrn!」が月間発行部数ほぼ50万部のピークに達していた。「Burrn!」とともに壮大な数の日本の観衆もアメリカから来る新しい「スラッシュメタル」についての情報をたくさん受け取っていた。80年代半ばの通訳やメタリカのようなヘヴィメタルの伝統の革新者たちは、いっそう健全な経済と強い購買力を持った日本の市場で間違いなくチャンスを得たのだ。

    したがってメタリカの初来日ツアーのブッキングというのは、大西洋の両端という西洋世界で築いたバンドの特徴的なプロフィールからすれば、ただの異国情緒あふれる余談ではなかった。メタリカが日本で行った5公演は、いわば非西洋の領域の征服を開始する最も自然なやり方だったのだ。

    空港では、たくさんのファンにバンドは歓迎された。彼らはいつもどおり献身的で熱狂的でしかも礼儀正しい日本スタイルで、カメラ撮影やサインや、多くの場合バンドの肖像画が描かれていたプレゼント攻めにあった。それから日本でのツアーではとても特別なことがバンドを待っていた。(1つめは)彼らは街から街へツアーバスではなく、高速かつ正確な新幹線に乗って移動したこと。(2つめは)サポートバンドは無し、ステージの最初からヘッドライナーまでが自分たちで、6時か7時には開始だ!最後に3つめ。それはコンサートのあいだのことだった。義務的な拍手に加えて、日本は曲と曲のあいだ、とても静かだったのだ。それは尊敬と関心、そして控えめな英語力から、バンドがステージで何を言わんとしているのか注意深く聴くためであった。

    日本のツアーはバンドにとっても、今や大人になった都会人ラーズ・ウルリッヒにとっても、ちょっとしたカルチャーショックだった。彼はその後いくつかの驚きについて語っている。「こういったことだけじゃなく、ほとんどのファンが女性なんだ。12歳の女の子のファンがみんな、まるで俺をボン・ジョヴィか何かであるかのようにしてるんだ。俺は日本はラットやモトリー・クルーみたいに見た目によりかかったバンドにとっては素晴らしいと思ったよ。それから突然俺たちみたいな醜い23歳のど阿呆どもが来た。でも歓迎ぶりは俺たちが夢見たものをはるかに超えていたね。」(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    メタリカが女子たちのアイドルバンドになるちょっとした前兆なのかもしれない(日本の女性がちょうど味わったように)。

    コンサートが午後9時から9時半という早い時間に終わりを迎えると、東京・大阪・名古屋で素晴らしく長い夜が待っていた。メタリカはキリンビールと寿司と日本酒に夢中になった。ジェイソンは真夜中にベッドでシェービングクリーム攻撃で起こされるといった乱暴なジョークをいくつも体験しなければならなかった。残りのメンバーから「ジェイソン・ニューボーイ」と呼ばれたジェイソン・ニューステッドは、成田に到着した際にローディーと間違われる屈辱を受け、ファンからは何もプレゼントをもらえなかった唯一のメンバーとなってしまった。ファンがようやくジェイソンにサインをもらいにやってくるようになった時も、新しいジョークが発動している真っ最中だった。ジェイソンは通常サインに自らのニックネーム「bass face」を書き添えていたが、他のメンバーがすぐに「b」をバツで消してしまったため、日本のファンは「ass face(ケツの顔)」の男として知られるようになったのだ。

    子供じみたジョークではある。ここで書かれていることはそのいくつかにすぎない。しかしラーズ、ジェイムズ、カーク3人のやり口には深い意味があった。3人は自分たちの置かれたポジションにとても自信を持っていた。メタリカは今やヘヴィメタルシーンを手にしただけでなく、夜はそれぞれ魅力的なシングルルームに泊まって冷たいビールと熱燗を流し込む一方、多くの仕事と100%の献身を要求されていた。バンドにとって、ジェイソンがただ上手いだけのベーシストではないことを当たり前と思っていることは重要だった。残りのメンバーに合わせて強くしっかり主張する水準を築くことが絶対に不可欠だったのだ。その上、メタリカ、とりわけラーズは新入りと新しい課題に懐疑的だった。彼らは慎重に慎重にバンドを守った。そうしてジェイソンに成功してやるという決意をさせたのである。

    このジェイソンへのハードで教育的なアプローチの粋を超えて、鬱積してくすぶっていた気持ちをラーズ、ジェイムズ、カークは抱えていた。そう、ツアースケジュールには従ったものの、3人の若者はクリフの突然の死が引き起こした心の傷が癒えたわけではなかったのだ。ある夜、HR/HM界のメディアから「思考する男たちのメタルバンド」と呼ばれたいい部分がバンドからどこかへいってしまった。純粋な怒りでもって日本のホテルのバスルームを完全に破壊してしまった。酩酊と破壊行為は轟音鳴らすロックンロールバンドのツアーにおける神話のひとつとしておなじみだったが、最も勤勉な実行者であるラーズのいた自意識の強いメタリカはいつも細心の注意と気品でそんな神話を回避してきたこともロックンロールのお決まりのひとつとなっていた。

    そんなロックンロールお決まりの愚かな部分が例外的にあったことは礼儀正しい日本のメタルファンまで届いていたかどうかはわからないが、とにかくメタリカは1986年のBurrn!誌における「Band of the Year」「Live Act」「Song of the Year」にランクインした。メタリカのコンサートが始まる前に、ラーズが自身にとって最高のヒーローであるディープ・パープルが1972年8月に2日間に渡り『Made in Japan』をレコーディングした大阪フェスティバルホールで跪き、ステージにキスをしたことは(愚かな行為のマイナス点を)軽減する要素となったかもしれない。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    以下、初来日公演音源や以前にも紹介した初来日時のインタビュー映像など。

    Metallica - 1986/11/15 Tokyo, Japan
    https://youtu.be/sM-G8l-Z64Y?list=PLBcuDVuGbeazN1OFpUQxIIqOmm3JpsglC

    Metallica - 1986/11/18 Osaka, Japan
    https://youtu.be/aUdaqGhNJAY?list=PL5FB211BDFAA48C38

    メタリカ (1986) | MTV BackTrack
    http://www.mtvjapan.com/video/program/2395

    Metallica - Interview - Music Tomato - 1986



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    YouTubeってスゲーなぁ。。

    初来日時(1986年)の若き日のメタリカ
    テレビインタビューまで見れちゃうなんて(うっとり


    しかもインタビュアーは伊藤政則氏。
    今よりももっとべらんめぇ口調なのが印象的ですw

    インタビュー後はリハーサルの模様まで見れちゃいます。


    字幕読みにくいので一応以下に文字起こししときます。
    伊藤政則氏の早口な質問は文字起こしをしないので
     自分でちゃんと聞き取ってくださいw


    ジェイムズ:
     いつまでも悲しんではいられないね。
     俺たちは、ただ前進するのみという意気ごみ
     でやっている。彼も、それを願っているでしょう。

    ラーズ:
     自分でもよくわからないけど、まず俺達の
     ファーストアルバムは他とは違う。
     曲作りとかパフォーマンス、バンドの姿勢が
     良かったのが、早く成功した要素だと思う。

    カーク:
     俺たちはメタリカミュージックを演奏するだけで、
     他がどう評価しようと自分達の音楽をするだけさ。

    ジェイソン:
     ずっとあこがれていたグループだった。
     今になってみると夢がかなったという
     感じで、僕は世界一幸せだね。

     性格も合ってるし、みんな辛抱強く僕を
     暖かく見守ってくれるから、最高だね。

    ジェイムズ:
     ギラギラとした派手なものはないけど
     ストレートな楽しさがある。
     観客と自分達のあふれんばかりのエネルギー
     を見せるという感じとかね。

     最低です・・・・・。まぁ冗談だけど。
     受けとる側の自由で、決してこういう事を
     信じろとか、やれとか、強制しているわけ
     じゃない。ただ楽しくやりたいだけさ。

    カーク:
     そうじゃなくて・・・。たった1度だけ怪獣
     の絵を“Jumpin' The Fire”のEPで
     使ったんだ。
     今、ジャケットはないけど、俺は好きだよ。

    ジェイソン:
     もちろん、みんなに来てもらわないと・・・。
     すごく盛り上がるから楽しめるよ。

    カーク:
     来ないと、何を見逃してるかわからないよ。

    ラーズ:
     来ないと君たちをさらいに行くよ。
     親が困るでしょ・・・。

    カーク:
     街角で見つけたら、スシを顔にぶつけるよ。

    ラーズ:
     家の中にPAをセットして、演奏しちゃうよ。

    ジェイムズ:
     来なかったら、これだぞ。


    当たり前だけど若いよね。。
    ジェイムズなんて今みたいな「威圧感」は微塵もないw


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