メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』有志英訳を管理人拙訳にて。有志英訳が今回分で終わっており、尻切れトンボではありますが、ついに最終回となります。ジェイソンのベースについての話題が多い『...And Justice For All』の制作過程ですが、また別の角度からの秘話を。

    metallica_1987

    1987年の終わりには、メタリカのファン層は巨大なものとなっていた。それはグローバルで、忠実で、献身的で、本当にただ「メタリカ」と呼ぶしかない自分たちが築いたメタルのニッチ分野に分類されるものだった。それは、どんなロックバンドや音楽のマーケッターにとっても夢のシナリオだ。

    しかし、純粋に芸術的にも、メタリカはいくつかの挑戦に直面していた。ヘヴィメタルのほとんどのファンは、新旧ファンともに、『Master Of Puppets』は最高傑作だと考えていた。大雑把なスラッシュメタルのテンポとエネルギーに行き詰まり、速さ目的のためのただのスピードから、アルバムのオープニングとエンディングの曲(「Battery」「Damage Inc.」)でやったごとく、メタリカは大きな一歩を踏み出した。何よりも、タイトルトラックと「Welcome Home (Sanitarium)」で完璧に示されたように、即時で極度なエネルギーと感情的で深みのあるバイヴを1曲のなかに入れ込む素晴らしいバランスを保つバンドの能力が『Master Of Puppets』の揺ぎない力となっていた。

    メタリカが実際にリフに基づいたメタルソングをどこまで技術的にこなせるのか、もしメタリカが望んだとしたら?それが分かった時には、とんでもないものとなった。

    メタリカは『Master Of Puppets』の曲を書くのに数ヶ月を要していた。新曲作りはさらに早いペースだった。そう驚くべき早さだ。9つの新曲をたった8週間で書いたのである。一方で、メタリカには今やスケジュールの問題があった。「壊れていないものを直すな」は音楽業界でもおなじみの標語だ。それはすなわち、メタリカの意図は、年が明けてすぐにフレミング・ラスムッセンとレコーディングを行うということを意味していた。しかし、スウィート・サイレンス・スタジオとラスムッセンは、すでに歌手アン・リネット(Anne Linnet)の予約が入っており、早くとも2月の途中からでないと一緒に仕事ができないということだった。

    したがって、ラーズとメタリカは明白なジレンマに直面しなければならなかった。とりわけサウサリートのスタジオでのスロースタートを経た後で、ほぼ2ヶ月間ラスムッセンの準備ができるのを待つべきなのか?それともレコーディングは始めておいてラスムッセンが現在のプロジェクトを終えたら加わってもらうべきか?

    解決策は後者だった。

    メタリカはガレージのカバーで成功を収めていた一方、自分たちのやり方でアンダーグラウンドからチャートに這い上がってきた新しいガレージバンドがいた。ガンズ・アンド・ローゼズである。ラーズはすぐにこのバンドのセンセーショナルで熱狂的で無鉄砲なデビューアルバムを好きになった。ガンズ・アンド・ローゼズはメタリカとは全く異なり、ロックンロールに基づいた音楽を演奏していたが、アルバムのドライでダイナミックなサウンドはほとんどのロック愛好家に一杯食わせるものがあった。このアルバムのプロデューサー、マイク・クリンクは1987年という年にロック界で最もホットな名前のひとつとなっていた。

    目まぐるしく変わる状況のなかで、ゲディ・リー(ラーズとジェイソンの大好きなラッシュ(Rush)のベーシスト/シンガー)を雇うこともメタリカは考えていたが、彼も1988年の最初の月は他のことにスケジュールを押さえられていた。そこでマイク・クリンクに選択肢が落ち着いた。彼は幸いなことに当時充分時間があった。しかも彼の履歴書にはこうあった。ラーズとカークの70年代バンドのお気に入り、UFOのスタジオ・エンジニアであったと。

    年が明けてすぐに、メタリカはバンドの実の誕生地であるロサンゼルスに位置する小さいながらも設備の整ったスタジオ、ワン・オン・ワン(One On One)でクリンクに会った。しかしメタリカとクリンクは一緒にノることはなかった。ラーズとデモテープ時代からの友人であり、バンドの最初のファンクラブ会長K.J.ドニントンは自著本『Metallica Unbound: The Unofficial Biography』のなかで「クリンクはピンとこなかった(原文:Clink didn't click)」としっかり述べられている。

    ワン・オン・ワンの外でメタリカが始めていたアルバム・レコーディングがほとんど実りのないものだったと最初に気がついたのは・・・フレミング・ラスムッセンである。

    「1月下旬にLAからラーズが電話をかけてきて、こう言っていたんだ。「ダメだ。全然うまく行ってない!」彼らはアルバムをレコーディングするだけならできると思っていたようだが・・・パーだ!「曲は全曲ある。アルバムにしないといけないんだ!」彼らはそう言っていた。ラーズが電話してきた時、彼らはまだコイツができてない、全部クソみたいなサウンドだと思っていた。それで私はこうさ。「すぐにそっちに行こうか?」実際に可能だったからね、14日後には。もし全ての週末を犠牲にして、私がすでにやったことを他の誰かにやらせればの話だけど。そしたらラーズはこう言ったよ。「最高だ、契約書をそっちに送るよ!」」

    フレミングがワン・オン・ワン・スタジオに到着したのは2月中旬だった。航空機のエンジントラブルのせいで夜遅くの到着だった。

    「そこで私は全ての曲をもぎとって、私が望むように一緒にして戻したんだ。」

    フレミングが語るところによると、彼はバンドメンバーと同じように、メタリカが初めてコンサートを行った(そして、そこから彼らは新しいツアーを始めることになる)いくつかのクラブの近く、サンセット大通りすぐのところのアパートに移った。

    レコーディングは午前10時か11時に始まり、「俺たちはもう構わないよ」というところまで行われたとラスムッセンは語る。そして、ワン・オン・ワン・スタジオにいた3ヶ月のうち3日しか休みがなかったという。その3日はバンドがマスコミ用の撮影をしていた日だった。

    『...And Justice For All』と題されたこのアルバムのレコーディングでメタリカが抱えていた問題は、盗まれたアンプが奏でていた素晴らしいギターサウンドを探すというジェイムズのおなじみの問題だった。

    「クリックトラックは時間がかかったよ。」フレミングは慎重にそれが「ドラマー」であることをほのめかして、そうコメントした。「でもラーズは初めて会った時よりも百万倍良くなっていたよ。当時、私はこう思ったんだ。「あちゃー、彼は一体どこでドラムを学んだんだ?」ってね。でも私はこうも思った。彼は自分の限界を知っていると。彼は四六時中、限界を押し広げようと努めていた。あれはとても合理的だと思ったよ。4ヶ月もスタジオにいたわけだからね・・・それは4ヶ月の集中トレーニングみたいなものだ。そりゃあ良くもなるだろう。」

    ドラムトラックに多くの時間がかかり、すぐに終わると思われた、すでに形になっていた9曲のレコーディングは、この年の最初の5ヶ月を費やすことになった。アルバムのミキシングを除いて。

    フレミング・ラスムッセンはこう説明する。「メタリカのアルバムにこれだけ時間がかかった理由のひとつは、彼らの熱望した水準が音楽的に彼らが提供できるものよりも純粋にもっと高いところにあったからだ。小分けのパートにしていかなければならないんで時間がかかるんだよ。」

    「小分けのパート」に取り組むなかで、ラスムッセンがアルバムに入るドラムの多重録音のひとつをこなすことさえあった。

    「そうなんだ。ラーズが打てなかったジャスティスアルバムのドラムのひとつを実際に私が叩いてレコーディングしたんだ。あれは彼を相当怒らせたね。ひとつだけビートに欠けるドラムがあってね。残りは超クールだったんだが。そこで我々は余分なトラックを作って、そこに入れたんだ!ラーズは何回も挑戦していたけど、うまくできなかった。だから私は言ったんだ。「あぁもう、ボタンを押すだけだろ、そっちに行って私がやる!」そうして(レコーディングルームの)中に入って一気にやってしまったんだ。彼は怒っていたよ。プライドの問題だった。持ち合わせていなければならないものだけどね。」

    ラーズとジェイムズはニューアルバムを誇りに思っていた。夏のツアーのオフ日は全てアルバムのリリースのために押さえられた。ラーズとジェイムズの2人はミキシングの進捗をチェックするためにニューヨークのベアズヴィル(Bearsville)まで出向いていた。

    一般的に、新しいメタリカのアルバムを聴いてすぐの印象は、曲から曲、テンポの変化からテンポの変化と新しい素晴らしいリフが行き交う確たる魅力がある。1曲目とタイトルトラックのような曲は、実にこのアルバムがどんなものであるかを要約してくれている。ドラマチックで、シャープで、ハードで、素晴らしいリフ、目まぐるしく変わるテンポ、素晴らしいツインギター。そしてヘヴィで、ソリッドで、メタルでありながら、壮大で、プログレッシヴで、きらびやかだ。

    『...And Justice For All』は耳だけでなくその他の感覚への挑戦であることがわかった。メタリカは叙情的に辛辣な社会批判をしている。アルバムで最もアップテンポな曲のひとつである「The Shortest Straw」の主題が(50年代のマッカーシーによる赤狩りを引き合いに出した)さまざまな人への嫌疑追求である一方、前述のタイトルトラックでは司法の汚職と腐敗が主軸となった。同様に「Eye of the Beholder」は、この数年前に(映画『エイリアン』でのSFデザインの仕事で知られる)H・R・ギーガーによるペニスの肖像を描いたポスターを含むアルバム『Frankenchrist』を通じて未成年者に有害な画像をみせたと告発されたサンフランシスコのパンクバンド、デッド・ケネディーズのシンガーで風刺家で社会評論家でもあるジェロ・ビアフラの裁判を取り上げて前述した2つのテーマを共生させている。

    それからアルバムのなかで最もエモーショナルな曲「One」は、おそらくアルバムのなかで最も洗練された歌詞と音楽であろう。繊細でキャッチーでパワフルで「Fade to Black」「Welcome Home (Sanitarium)」の系譜を行くバンド自身が築いてきたパワーバラードの形を見事に発展させている。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    「The Shortest Straw」の題材となったマッカーシズムについてはこちらを参照。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%8B%A9%E3%82%8A

    マッカーシズムがハリウッドに与えた影響を題材にした『真実の瞬間(とき)』というタイトルの映画があるのは何かの偶然でしょうか?ちなみに「Eye of the Beholder」のインスピレーションになったという、裁判で争われた『Frankenchrist』のアートワーク。興味ある方は「frankenchrist poster」で検索してみてください(^^;


    英訳が完結していないので続きを知ることができないのが本当に残念ですが、翻訳を通じて異様に詳しいラーズの生い立ちなど新しく知ったことがたくさんあり、読んでいて楽しかったです。ラーズが掲げたメタリカという旗印のもとにメンバーやさまざまな人たちが出会い集っていった過程が胸熱でした。英訳してくれた有志の方に感謝です。

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    『...And Justice For All』レコーディング時のジェイソン・ニューステッドの扱いが思った以上に酷かった件
    ジェイソン・ニューステッド、「Blackened」作曲エピソードやジャスティスアルバムのリマスターについて語る。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』翻訳シリーズもついに最終章です。有志英訳を管理人拙訳にて。

    ヘヴィメタル界の『Master Of Puppets』のブレイクはラーズとバンドに経済的に良い見返りをもたらした。そしてバンドメンバーたちはメタリカにお金を再投資することを選んだ。彼らは次のレコーディングの準備ができており、稼いだドルを無駄にする時間などなかったのだ。しかし、1987年2月の「Damage Inc.」ツアーの終演後、ラーズと(一緒にアメリカに渡ったパートナー)デビーはストックトン・ストリートのアパートを売り払っていた。そして今は亡きメタリマンションから2ブロック先にあるノース・バークレーでもっと広い家を借りたのだった。

    メタリマンションから離れることによって、メタリカは新しい編成が導入されてから本物の素晴らしいリハーサルルームに別れを告げた。(防音のために)壁にとりつけた卵トレイでは、「最も優遇された」隣人の座を守るには充分ではなかったのだ。(たしかに)苦情は多かったが、メタリカに最初のいくつかのレコーディングの基礎を創り出したであろう、不変のリハーサルルームだった。

    メタリカはようやく適切なリハーサル場所を見つけるための経済的な手段を持ちえたのだ。1987年春、バンドがまず選んだのは、サンフランシスコ北部の摩天楼であり、アルカトラズ刑務所と壮大な港の景色を臨むサンフランシスコの象徴、ゴールデンゲートブリッジ出口、サウサリート郊外の小さなスタジオを借りることだった。ジェイソン・ニューステッドと初めてのレコーディング、『Master Of Puppets』の続編のための新曲作りを始める計画だった。

    しかし、メタリカがこのスタジオがパッとしないことに気付くのに5分とかからなかった。スタジオは同じ時期に違う部屋で始まっていた別のバンドたちの間にあって機能不全となっていたのだ。メロディック・ハードロックバンドのナイトレンジャーが隣の部屋でレコーディングを行っており、60年代のバンド、ジェファーソン・エアプレインの現在のラインナップである(名前を変えた)スターシップがもう片方の部屋にいた。初日は古き良きNWOBHMのカバーで時間を浪費した。2日目も似たようなもので、メンバー同士で楽器を取り替えてみた。ただ面白いというだけで、実りの多い違いはなかった。

    おそらく聞くに堪えないこのようなセッションでは、バンドが1日の休みを取るのは当然のことだった。「スタジオ入り日」4日目は、ジェイムズ・ヘットフィールドが、スケーターにとって夢のような斜面、水を抜いて空になったプールを試走するためにオークランドへスケートボードを持って行った。ヘットフィールドは数ヶ月前の事故から何も学んでいなかった。転倒してスケートボードからプールの底に落ちてしまったのである。その結果、腕を2箇所痛めることとなった。

    どんな作曲でも出発点はメンバーたちが「リフ・テープ」と呼んでいるものからいつも始まっていたため、メタリカは曲を書くことが不可能となってしまった。ラーズはジェイムズに自分のリフのアイデアを口ずさみ、ジェイムズはそれをギターで弾いてみせて、ラーズのテープに録音していたのだ。スタジオでのジェイムズのヘヴィなリズムギター無しにリフのアイデアを再現するという選択肢は絶対になかったし、ジェイムズが回復する6月か7月まで手持ち無沙汰でいる場合でもなかった。

    ヘレルプ駅の大時計の針は動いても、バンドはそうもいかなかった。ラーズは自分の新居を見渡して、バンドが飛躍していくためにジェイムズの腕がギブスで固定されていても何か役に立つものはないものだろうかと考えていた。サウサリート・スタジオで非建設的な日々を送った後、ラーズとバンドは一点の曇りもない認識に至った。バンドは音楽、そして作曲、演奏、そしておふざけのできる自分たちの場所が必要だと。スタジオ入りして、ただそこに突っ立って、古い曲のカバーをジャムしてばかりで、深い意味があったのかもしれない?うーん・・・

    ラーズの頭のなかでピースがうまくハマっていった。彼は労働者のように、動けるバンドメンバーに連絡を取った。

    5月の終わりまでにラーズとカークとジェイソンは、ラーズのダブルガレージにしっかりとした防音装置を取り付けたリハーサルルームを創るために懸命に動いた。6月の初めには、メタリカは極私的な場所で再び古き良きご機嫌なガレージ・メタル・カルテットとして立ち、ゆったりとジャムっていた。ジェイソンの感触はある程度、(メタリカとしての)資格を有するものであった。ビニール盤が支配的だった最後の年に、メタリカが次のリリースをミニアルバムあるいはEPから始めるくらいには。(こうしてリリースされたのが)『The $5.98 EP:Garage Days Re-Revisited』である。タイトル自体が物語るように、小売業者がより高値のLPとしてEPを売ることを防ぐためにメタリカが取ったやり方だった。EPに収録された5曲と、歪ませたアイアン・メイデンの「Run To The Hills」のフェードアウトは、ガレージの燃えるように熱いマーシャル・アンプの前に立った時、参考としたのはNWOBHMのバンドだけではないことを示していた。明らかにNWOBHM時代から持って来たダイアモンド・ヘッド(Diamond Head)、ブリッツクリーグ(Blitzkrieg)、70年代初期のブリティッシュロックバンド、バッジー(Budgie)といった粋を超えて、メタリカはお気に入りのホラーパンクバンド、ミスフィッツ(The Misfits)、そして同様に70年代のニューウェーブ・シーンから出てきた英ロックバンド、キリング・ジョーク(Killing Joke)のカバーも選んでいる。彼らは後にインスピレーションの点で、サウンドガーデン(Soundgarden)やトゥール(Tool)のようなスタイリッシュなバンドによる90年代ルネサンスをもたらすことになる。

    EPはラーズのガレージではレコーディングされなかった。メタリカは『Master Of Puppets』の頃まで長いこと探してきたスタジオで最終バージョンのレコーディングを行った。それがロサンゼルスのコンウェイ・スタジオ(Conway Studios)である。そこで彼らは7月4日から数日を使って、ジャズ/カントリー/ウェスタン担当のサウンドエンジニアの指揮であっさりレコーディングしたのだ。メタリカは自分たちをプロデューサーとして名前を載せたが、自嘲してアルバムカバーには「not very produced by Metallica」と記された。

    このEPのやり方は、ラーズの好きな表現を使えば、とても「ルーズ」だった。そんなコンセプトではあったが、EPは8月に発売された。EPのレコーディングやライヴセットの練習もできるほど、フルパワーのジェイムズが戻ってきて、Qプライムのマネジメントは主要なパートナーであるラーズ・ウルリッヒと、8月にヨーロッパの大きなフェスティバルにブッキングすることに合意した。

    ヨーロッパにおけるメタリカの新しいレコードレーベルのポリグラムは、収穫前の地ならしを非常によく準備していた。HR/HM界の2つのビッグネーム、ボン・ジョヴィとディープ・パープルが、ドニントン、そしてドイツで2公演行われるモンスターズ・オブ・ロックにそれぞれヘッドライナーとして名を連ねていた。この3つのショーで延べ12,000人のハードロックファンにメタリカを紹介することは、ポリグラムとしては当然の選択だった。このようにしてポリグラムは今やメタリカのために少なからぬ努力をみせていた。メタリカはバンドの形を固めていくほど、文字通りゴールド以外の何かを出すことは難しくなっていた。『The $5.98 EP:Garage Days Re-Revisited』のような国外に出ていない商品でバンドはゴールド・ディスクを獲得した。つまり、アメリカで50万枚売上げ、デンマークではTOPシングル・チャートにさえランキングされたのである。

    以前のビニール盤時代のように12インチのマキシシングルである『The $5.98 EP:Garage Days Re-Revisited』はシングルチャートの資格を得て、TOP5という高い位置を獲得したのだ。

    「あれでデンマークがメタリカに初めて気付いたんだ。」レーベルのマーケティング担当者デニス・プロウグはそう振り返る。「マスコミはバンドにラーズがいることをキャッチしていた。デンマーク人だし、有名なお父さんがいたからね。でも『Garage Days』が出てチャートに入った・・・それからみんな彼らに本当に気付いたんだ!ライバル会社たちが電話をしてきてこう言ったよ。「おい、やめるんだ!数字をごまかしてるんだろ!本当にあんなに売ったのか?」それで私は彼らにこう言うのさ。「小売業者に電話して、どれだけ彼らが買ったか聴いてみてごらん!」ってね。」

    (こうした快進撃は)世界規模のツアー無し、あるいは重要な(本当にそうなのか?)ラジオやテレビの報道さえ無しでのことだった。ミュージック・ビデオもまだラーズにとって問題ではなかった。

    ドイツ南部での後半のモンスターズ・オブ・ロックの日々のなか、ラーズは例外的にチャートはチャート、メタリカはメタリカだと放っておいた。ラーズとガールフレンドはかなりロマンティックな夏の休暇を取っていたのである。

    「ドイツでのモンスターズ・オブ・ロックのショーの後、デビーと俺はバハマに飛んで、ナッソーの市役所で結婚したんだ。それは俺たちだけの秘密だった。」ラーズは回想する。しかし自身で少し訂正した。「秘密だったかどうかわからないけど、俺たちが行くことは公表してなかったからね。でも俺たちはそこで結婚したんだ。そう、とても自然なことだったんだ。とても自然な流れだった。」

    ラーズは新たに「夫」という立場を獲得して、87年秋にノース・バークレーで次のメタリカのプロジェクトに取り組んだ。そして、リフ・テープを聴き、新しい曲のかけらをみつけ、バンドのために小さな先駆的プロジェクトを考え出していた。

    そのプロジェクトは傷の付いたオーディオビジュアルのようなものを作るというもので、『The $5.98 EP:Garage Days Re-Revisited』に代表される芸術的にうってつけなガレージの美学でもあった。もちろんビデオという表現法を使うというメタリカの最初の試みは、ただ曲やシングルのビデオを撮影するというわけにはいかない。メタリカのスポークスマンとして、ラーズは外見上、クリフの死を重要視しないことにとても気を使っていた。(そのためにやったことは)これまでにしばしばみられたような死んだロックスターを食い物にしてきた歴史として記憶されることを避ける一方で、バンドの全般的な歴史としてクリフの思い出を尊重することだった。

    ハイテクとは程遠いが、クリフと共にあったメタリカのほぼ4年の時代を写した正真正銘のビデオクリップを集めて、認められるにふさわしいクリフ・バートンへのトリビュートというコンセプトをラーズは見いだした。1986年のロスキレ・フェスティバルを含むたくさんのクリップは、ファンによって撮影された様々なアマチュアの撮影物だった。サブタイトルに『Cliff 'Em All』と付けられたこのビデオは、クリフの一連の写真と『Master Of Puppets』収録の「Orion」でエンディングを迎える作品だ。ビデオは1987年のクリスマスにリリースされ、古くからの筋金入りのファンにとって、コレクターアイテムとして予想された以上のものとなった。

    数年後、ラーズは『$19.98 Home Vid Cliff 'Em All!』といううんざりするようなフルタイトルにした、このビデオについてコメントを残している。「あれが成功したのには驚いた。それ以前に何回も言ってきたように、ビッグヒットになるべきものだとは決して思わなかった。筋金入りのファンが面白いと思ってくれるかもしれないと思っただけさ。俺たちの考えとしては、『Garage Days』のビデオ版みたいなものだった。アメリカだけで100,000も売り上げたと聞いて、相当驚いたよ。」(マーク・パターフォード著『Metallica: In Their Own Words』2000年刊行より)

    同時にメタリカはさらなる経験を積んだ。特にビデオという分野において。副次的な利点がひょっとしたらあったのだろうか?

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    garagedays

    この頃のリリースにいちいち値段をタイトルにつけていたのはメタリカ株が急上昇していた証でしょう。『Garage Days』のカセット版が発売された時には、「ヤツらがこれ以上の値段にしやがったら、盗め!(If they try to charge more, STEAL IT!)」と書かれたステッカーが貼られていたとか。

    残念なお知らせがひとつ。これまでラーズ伝記本(原著はデンマーク語)の有志英訳を和訳してきたわけですが、この有志英訳が完結していませんでした・・・。タイトルはグラミー賞取るところまでとなっていますが、グラミー賞取る前に終わっています。前回予告どおり、次回がこのシリーズの最終回となりますが、尻切れトンボになっていることをあらかじめご了承ください。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章8回目。『Master of Puppets』リリース後のラーズの母国デンマークの反応など。

    アメリカに戻り、メタリカ初の中規模クラスのアリーナ会場でヘッドライナーを務めるツアーが始まった。彼らの友人であるメタル・チャーチがサポートバンドとして参加し、4000〜6000人収容のマイナー・ホッケー・ホールを一杯にした。アイスホッケーの試合での楽屋部屋をバンドは最大限使ったが、インディアナであったようなジェイムズのスケートボード事故は二度と起きなかった。このツアーはとても寒い冬のアメリカで行われたことから「永遠の暗黒ツアー(the Eternal Blackness Tour)」と名付けられた。

    新年を迎えても冬は厳しい寒さを衰えさせることはなかった。メタリカが凍てつく冬のコペンハーゲンを訪れた時、日中の気温はマイナス20度から25度だった。幸いなことにメタリカのメンバーたち(の滞在する場所)はスウィート・サイレンス・スタジオの屋根裏部屋から快適なホテルの部屋と暖房の効いたリハーサル・ルームへと改善されていた。彼らはおよそ4ヶ月前に悲劇的に中断されたヨーロッパ・ツアー再開のためにそこに集まって練習を重ねていた。

    バンドは新しい編成で初めてデンマーク/ヨーロッパ向けの記者会見を行うことにした。メディアは特に手配されていなかった。出席したマスコミはバンドの宿泊するホテルの大きなエリアに集まり、バンドと何の関係のない人々がそこに座っていった。3月の『Master of Puppets』のリリースから、デンマークのメディアのメタリカに対する関心がわずかに増していたことが明らかとなった。

    『Master of Puppets』は、デンマークではバルビュー(Valby)郊外のSkelmosevej沿いに慎ましやかにある独立系レーベルのメドレー・レコード(Medley Records)からリリースされた。デンマークのポップ・デュオ、レイド・バック(Laid Back)が海外でヒットしてから、メドレー・レコードは海外のレコード会社のライセンスを取得することにしたのだ。小さな会社の共同プロモーション、そしてミック・クリステンセンは、1985年にデンマークにおけるミュージック・フォー・ネイションズの全ての商品をメドレー・レコードで行う出版権を確保していた。そのときミックはメタリカのことは知らなかった。しかし、すぐに(メタリカのことを)「当時支配的だった80年代のヘヴィ・ポップが好きな人たちに対する反発と攻撃的な声明」と考えるようになった。

    「メタリカはストリート・ネームだったんだ。」ミック・クリステンセンはそう語る。「彼らはヘヴィー・シーンで異常なまでに高い信頼性を持っていた。でも、一歩その環境から出ると誰も彼らのことは知らなかったんだ。彼らのファンはとても忠実だ。私たちがメタリカのピクチャー・ディスクとかそういったものを出すと、お客さんたちがいつもすぐにお店に現れた。『Master of Puppets』のための我々のマーケティングは、フライヤー、ポスター、そしてメタル・ファンジンへの広告といった街頭キャンペーンに基づいていた。加えてRock Uglenと(ラーズにさまざまなヘヴィメタルを教えた)ケン・アンソニーのいたHMVみたいな専門店がメタリカの宣伝をしてくれたんだ。彼らはさながらバンドの特命大使のようだったよ。」クリステンセンはそう思った。

    「当時の新聞やラジオでは難しかった。でもバンドの「ビデオなんて作りたくはない」っていうアティテュードが、彼らをこの時点であるべき姿よりももっと見えにくいものにしていたんだ。ラーズは『Master of Puppets』のプロモーションでSkelmosevejの私たちのオフィスに数回やってきた。彼がここに来て2日目のことを覚えているよ。彼はデンマークのマスコミにほとんど話せなかったんだ。1日のあいだにたった3つのインタビューしか受けなかったんだから!たとえすべき仕事があまりなくとも、彼はここに来てよかったよ。でも彼はそうは考えてはいなかったようだ。彼は家にいるのが最高だと考えていた。家族と会い、街にビールを飲みに出かける。ラーズはとても誠実で地に足の着いたヤツだよ。彼は音楽のためなら何でもするハッピーボーイさ。ロスキレ・フェスティバル後に(HR/HM以外の)他のメディアが来るようになった。ロスキレのショーが全てを変えたんだ。」クリステンセンはそう付け加えた。

    晩秋、再びメタリカのチケットには大きな需要があった。1987年1月8日の新年のショーは(デンマークの)サガではブッキングされなかったが、ほぼ2倍の収容を誇るファルコナー劇場(Falconer Theatre)で行われた。その翌日、メタリカはオルステブロ・ホール(Holstebro Hall)でもブッキングされた。そして両公演とも売り切れとなったのである。

    ファルコナーでは「Whiplash」の前に切り込むジェイソンのベースソロが山場のひとつとなった。オルステブロではラーズ自身が「当時俺たちが演った最もクールなショーのひとつ」と呼ぶライヴそのものが特徴的なものとなった。すなわち、サポートバンドのメタル・チャーチがステージに現れてから、メタリカのアンコール曲「Damage Inc.」「Fight Fire With Fire」まで、ユトランド半島出身のメタリカファンが作り出した激しい雰囲気を経験し、群集がすでに戻ったこの場所でメタリカを観たり聴いたりする経験そのものだ。

    ラーズとバンドにとっての勝利だけでなく、何年も孤独にメタリカの良さをレポートしてきたデンマークのアンダーグラウンドなヘヴィメタルの勝利でもあった。

    1987年2月13日、メタリカは「Damage Inc.」ツアーをスウェーデンのヨーテボリ公演で終えた。その公演では昔からのインスピレーションの源であり、仲間であるキング・ダイアモンドと、彼と同じ名前の新しいバンドと共にジャム・セッションを行った。

    ラーズとメタリカはこのようにして、よろめきながら創造的な頂点に達し、キャリアにおけるたくさんの山場を経験した一方、友人であり同志でありベーシストでありいろいろな意味でジェイムズ、ラーズ、カーク(そして実際ジェイソン)にとって音楽的なメンターであったクリフ・バートンを失う痛みによって青年たちの夢が完璧に奈落の底へ突き落とされるという相反する両極端な出来事を経験した時代を終えたのだ。

    そしてこれら全て、1年未満に起きたことだったのである。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    文中に出てきたデンマークのHR/HM専門店「Rock Uglen」。まだ現役でデンマークに存在しており、今でもデンマークでは聖地のような扱いのお店のようです。Facebookページはこちら。
    https://www.facebook.com/rockuglen

    そしてこちらがデンマーク公演の後で行われた当時のドイツ公演のポスター。
    metallica-grugahalle

    この画像は当時の公演のサポートをつとめていたメタル・チャーチのメモラビリアを集めた下記のページから拝借させていただきました。87年当時のメタリカのサインも見れる貴重なサイトです。
    http://www.metallipromo.com/mchurch.html

    これにてこの章は完結。次は最終章で、英訳元が完結しているかもまだわかっていないですが、この伝記シリーズも残りあと2回になります。このペースで何とか今年中には終わらせたいところですが、いましばらくお待ちください。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章7回目。予告どおり、メタリカの初来日の様子など。

    MetallicaJason

    メタリカは計画通り、日本でのツアーを続けた。この国の観衆は長年に渡り、数え切れないほどのHR/HMのバンドたちに大きな衝撃を与えていた。70年代には献身的な日本の観衆の神話が、ディープ・パープル(『Made in Japan』(邦題:ライヴ・イン・ジャパン)(1973))、ジューダス・プリースト(『Unleashed in the East』(邦題:イン・ジ・イースト)(1979))の2つのライヴアルバムによって創られた。日本文化では、「忠誠」と「伝統」がいつも密接につながっており、それはヘヴィメタルの観衆にまで広がっていた。前述のバンドから70、80年代のヘヴィメタルでは、特にキッスやエアロスミス、ホワイトスネイクは、日本でいつもリーダーでなくてはならなかったし、とりわけ新世代の日本のロックファンに影響を受けて絶え間なく変わるトレンドに適合していかなければならなかった。

    日本では、世界で最もユニークな音楽雑誌のひとつ「Burrn!」が月間発行部数ほぼ50万部のピークに達していた。「Burrn!」とともに壮大な数の日本の観衆もアメリカから来る新しい「スラッシュメタル」についての情報をたくさん受け取っていた。80年代半ばの通訳やメタリカのようなヘヴィメタルの伝統の革新者たちは、いっそう健全な経済と強い購買力を持った日本の市場で間違いなくチャンスを得たのだ。

    したがってメタリカの初来日ツアーのブッキングというのは、大西洋の両端という西洋世界で築いたバンドの特徴的なプロフィールからすれば、ただの異国情緒あふれる余談ではなかった。メタリカが日本で行った5公演は、いわば非西洋の領域の征服を開始する最も自然なやり方だったのだ。

    空港では、たくさんのファンにバンドは歓迎された。彼らはいつもどおり献身的で熱狂的でしかも礼儀正しい日本スタイルで、カメラ撮影やサインや、多くの場合バンドの肖像画が描かれていたプレゼント攻めにあった。それから日本でのツアーではとても特別なことがバンドを待っていた。(1つめは)彼らは街から街へツアーバスではなく、高速かつ正確な新幹線に乗って移動したこと。(2つめは)サポートバンドは無し、ステージの最初からヘッドライナーまでが自分たちで、6時か7時には開始だ!最後に3つめ。それはコンサートのあいだのことだった。義務的な拍手に加えて、日本は曲と曲のあいだ、とても静かだったのだ。それは尊敬と関心、そして控えめな英語力から、バンドがステージで何を言わんとしているのか注意深く聴くためであった。

    日本のツアーはバンドにとっても、今や大人になった都会人ラーズ・ウルリッヒにとっても、ちょっとしたカルチャーショックだった。彼はその後いくつかの驚きについて語っている。「こういったことだけじゃなく、ほとんどのファンが女性なんだ。12歳の女の子のファンがみんな、まるで俺をボン・ジョヴィか何かであるかのようにしてるんだ。俺は日本はラットやモトリー・クルーみたいに見た目によりかかったバンドにとっては素晴らしいと思ったよ。それから突然俺たちみたいな醜い23歳のど阿呆どもが来た。でも歓迎ぶりは俺たちが夢見たものをはるかに超えていたね。」(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    メタリカが女子たちのアイドルバンドになるちょっとした前兆なのかもしれない(日本の女性がちょうど味わったように)。

    コンサートが午後9時から9時半という早い時間に終わりを迎えると、東京・大阪・名古屋で素晴らしく長い夜が待っていた。メタリカはキリンビールと寿司と日本酒に夢中になった。ジェイソンは真夜中にベッドでシェービングクリーム攻撃で起こされるといった乱暴なジョークをいくつも体験しなければならなかった。残りのメンバーから「ジェイソン・ニューボーイ」と呼ばれたジェイソン・ニューステッドは、成田に到着した際にローディーと間違われる屈辱を受け、ファンからは何もプレゼントをもらえなかった唯一のメンバーとなってしまった。ファンがようやくジェイソンにサインをもらいにやってくるようになった時も、新しいジョークが発動している真っ最中だった。ジェイソンは通常サインに自らのニックネーム「bass face」を書き添えていたが、他のメンバーがすぐに「b」をバツで消してしまったため、日本のファンは「ass face(ケツの顔)」の男として知られるようになったのだ。

    子供じみたジョークではある。ここで書かれていることはそのいくつかにすぎない。しかしラーズ、ジェイムズ、カーク3人のやり口には深い意味があった。3人は自分たちの置かれたポジションにとても自信を持っていた。メタリカは今やヘヴィメタルシーンを手にしただけでなく、夜はそれぞれ魅力的なシングルルームに泊まって冷たいビールと熱燗を流し込む一方、多くの仕事と100%の献身を要求されていた。バンドにとって、ジェイソンがただ上手いだけのベーシストではないことを当たり前と思っていることは重要だった。残りのメンバーに合わせて強くしっかり主張する水準を築くことが絶対に不可欠だったのだ。その上、メタリカ、とりわけラーズは新入りと新しい課題に懐疑的だった。彼らは慎重に慎重にバンドを守った。そうしてジェイソンに成功してやるという決意をさせたのである。

    このジェイソンへのハードで教育的なアプローチの粋を超えて、鬱積してくすぶっていた気持ちをラーズ、ジェイムズ、カークは抱えていた。そう、ツアースケジュールには従ったものの、3人の若者はクリフの突然の死が引き起こした心の傷が癒えたわけではなかったのだ。ある夜、HR/HM界のメディアから「思考する男たちのメタルバンド」と呼ばれたいい部分がバンドからどこかへいってしまった。純粋な怒りでもって日本のホテルのバスルームを完全に破壊してしまった。酩酊と破壊行為は轟音鳴らすロックンロールバンドのツアーにおける神話のひとつとしておなじみだったが、最も勤勉な実行者であるラーズのいた自意識の強いメタリカはいつも細心の注意と気品でそんな神話を回避してきたこともロックンロールのお決まりのひとつとなっていた。

    そんなロックンロールお決まりの愚かな部分が例外的にあったことは礼儀正しい日本のメタルファンまで届いていたかどうかはわからないが、とにかくメタリカは1986年のBurrn!誌における「Band of the Year」「Live Act」「Song of the Year」にランクインした。メタリカのコンサートが始まる前に、ラーズが自身にとって最高のヒーローであるディープ・パープルが1972年8月に2日間に渡り『Made in Japan』をレコーディングした大阪フェスティバルホールで跪き、ステージにキスをしたことは(愚かな行為のマイナス点を)軽減する要素となったかもしれない。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    以下、初来日公演音源や以前にも紹介した初来日時のインタビュー映像など。

    Metallica - 1986/11/15 Tokyo, Japan
    https://youtu.be/sM-G8l-Z64Y?list=PLBcuDVuGbeazN1OFpUQxIIqOmm3JpsglC

    Metallica - 1986/11/18 Osaka, Japan
    https://youtu.be/aUdaqGhNJAY?list=PL5FB211BDFAA48C38

    メタリカ (1986) | MTV BackTrack
    http://www.mtvjapan.com/video/program/2395

    Metallica - Interview - Music Tomato - 1986



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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章6回目。ジェイソン・ニューステッドの経歴とメタリカとしてのデビューライヴについて。有志英訳を管理人拙訳にてご紹介。

    metallica1986

    ジェイソンは当初、慎ましやかな新しい家としてリハーサルルームで「Jeppe on the Mountain」(訳注:17〜18世紀のデンマークの劇作家ルズヴィ・ホルベアによって書かれた喜劇)のように寝起きすることに満足していた。1年前、フェニックスの州立劇場でメタリカがコンサートを行った際、彼は最前列近くに立って友人とモッシュピットで暴れていた。それが今やバンドと共に日本に旅立とうとしているなんて!

    間違いなくジェイソンはただの熱心なファンではなかった。とても音楽に没頭していたし、キッチリ練習を重ねていたし、バンドを組む経験もしていた。実際に彼はフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam And Jetsam)で作曲と作詞の両面で立役者となっていたのである。それは間違いなくラーズ・ウルリッヒのベストスタイルであった。ラーズもまたプロモーター、出演交渉担当者、その他もろもろの役割を務めていたのだから。

    ジェイソンが音楽や新しいバンドのためにやってきたことは、彼自身の非常に本格的な音楽との関わりによってなされてきたことだった。ジェイソン・ニューステッド(ミシガン州バトルクリーク出身1963年3月4日生まれ)はミシガン州の馬の農場で育った。その場所は音楽を演奏する上で大きな役割を果たすこととなる。ニューステッド家は音楽をよく聴き、地元の劇場でよくミュージカルを観に行く家庭だった。

    ジェイソンは学校でサックスを吹き始め、その学校でロックとも出会った。彼が初めてベースとアンプを手にしたのは13歳で、初めてレッスンを受けたのは16歳の時である。ジェイソンの兄弟も音楽を演奏していたが、そのほとんどがミシガン地域では重要な遺産と伝統であるモータウン・ミュージックだった。

    ジェイソンが10代の頃、ミシガン州カラマズーに引越してから、ヘヴィメタルが彼の耳を捕らえ始めるようになった。当時のほとんどの若者と同様、キッスに強く惹かれていった。ジェイソンの初めての「バンド」は、ただキッスをプレイする4人の若者で構成されていた。数年後、彼は気がつくとテッド・ニュージェント、AC/DC、そして当然キッスといったパーティーロックを演奏していた。バンドの名前が家で叫ばれることはなかったが、我々はこう呼んでいる。ギャングスター(Gangster)だ。

    ギャングスターのリーダー、ティム・ヘルムリンを手本として、ジェイソンはロックの楽しさを経験したいと決めた。ヘルムリンとバンを借りて出発した。この旅の最終的なゴールはロサンゼルスだったが、ジェイソンは天使とグラムロックの街へとドライブを行うことを途中でやめ、結局フェニックスに落ち着いた。

    10月下旬のことだったが、ミシガン出身のフェニックスに落ち着いた少年は頬に熱い砂漠の風を感じていた。街で何人かの若い仲間に出会うことも出来た。ジェイソンは大したお金も持っていなかったが、サンドイッチのお店で仕事をみつける。そしてすぐにドラマーのケリー・デヴィッド・スミスと共にパラドックス(Paradox)というバンドに入る。しかしそれも真剣なものではなく、そのハチャメチャにスウィングしていたグループは、新しいバンド、フロットサム・アンド・ジェットサムに見いだされた。そしてジェイソンはケリーと共にスコッツデールに移り住んだ。(フェニックスでも最も裕福な層が住み、テニスやゴルフ場で知られる。さらにアリス・クーパー、ロブ・ハルフォード、そしてあのデイヴ・ムステインといったハードロックの住人がいることでも知られている。)

    ジェイソンは、フロットサム・アンド・ジェットサムとしての活動はブライアン・スレイゲルのメタル・ブレイド・レコーズからアルバム『Doomsday for the Deceiver』(1986)をリリースして終わった。フロットサム・アンド・ジェットサムで最後のギグをハロウィンに行い、その数週間後、カリフォルニア州レセダ・カントリークラブで300人を前にバンドの忠実な友人であるメタル・チャーチというサポートバンド付きでメタリカとしてデビューしたのである。

    その夜のカントリークラブでのメタリカは緊張で張り詰めていた。もちろん、特にジェイソン・ニューステッドにとっては。実際、ジェイソンには重要かつ命運を左右するテストが残されていた。技術的にもパフォーマンスに関しても、両面伴ったライヴを行えるのかと。(必要なことは)昔から激しいバンドの崇拝者であり、ファンでさえあった楽曲のタイトなビートを保つだけではなかった。クリフ・バートンはステージ上では真の怪物であったし、ほとんどの点でクリフが優れていることをジェイソンは知っていた。彼は1年半前にフェニックスの州立劇場でのショーに行き、クリフがショーを引っ張っているのを目にしてさえいたのだ。

    クラブに詰めかけた300人のうち、ブライアン・スレイゲルも間違いなく胸のつかえを抱えていた。彼は有望なバンドのひとつのリーダーをヘッドハントしたのだ。だからこそジェイソンはわざわざより良いとされるメタリカと共にしたいと思ったのである。

    「ジェイソンは私の生涯見てきた人物のなかでも最も神経質な方だった。」スレイゲルはそう語る。「彼はおびえていた。これは彼のオーディションだった。彼はバンドにいたが、私はこれが彼が充分に足るかを知るための通過しなければならない最後のテストなんだと思った。」(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    それはバンドもほぼ間違いなくわかっていた。ラーズはこの次のメタリカファンクラブ会員に向けたニュースレターのなかで、このショー全体の雰囲気について言い表していた。

    「このショーを通じた雰囲気は、俺たちみんなクソ緊張していたってこと。でもエネルギーに関しては、このギグはこれまでやってきたなかでも最も楽しいものがあったよ。」

    数日後、メタリカはアナハイムの小さなクラブ、イザベルズ(Jezabelle's)でも同じようにプレイした。このときはゲストにデンマークからフレミング・ラスムッセンが来ていた。

    「私が事故以来バンドを観たのは初めてだった。ショーはそれはそれはクールだったね。」フレミングは熱を帯びて17年後にそう振り返った。

    メタリカにはまだ熱意の余地があったが、バンドを続けていくことを余儀なくされた過程でのことである。カウンセリングもセラピーも無かったことに加えて、いつも音楽表現が付いて廻っていた。そして今度、メタリカは日本へのロードに向かう。「Damage Inc.」ツアーは再びトラックに戻り、スウェーデンの悲劇からわずか6週間。しかしこれはバンドに強制されたものではなかった。それは彼らが望んだことだったのだ。

    ピーター・メンチは9月27日早朝、サウンドエンジニアのビッグ・ミックの電話で起こされた。こう説明する。「間違いなく私はそのメッセージに愕然としたよ。コペンハーゲン行きの飛行機を取り、スウェーデンまで運転した。恐ろしいことだったが、このような状況下でどう振舞うべきか話したんだ。プレスリリースを発行し、それから新しいベーシストを探した。今振り返ると、1年間は議論しているかもしれないね。でもバスに乗っていた誰かがそうすべきと私に言ったとは思わない。サウンドエンジニアのミックでさえ、私に言ったことは我々がすぐにツアーに戻っていなかったことへの後悔だった。我々は葬儀に行って、なすべきことをした。そしてバンドをやめようとはしなかった。それが全てだ。」ピーター・メンチはそう語った。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    メタリカとしての初コンサートを迎えたジェイソンを写した写真など。

    http://eddiemalluk.photoshelter.com/gallery/METALLICA-1985-1986/G0000qc96ffJ8u0M/C0000toV.S5Y1s2k

    そして、ジェイソン加入から2回目のショーとなったアナハイムのイザベルズ(Jezabelle's)の公演もブート映像が存在しており、ほぼYouTubeで視聴可能です。音響システムのトラブルに見舞われていますが、とにかく凄まじいエネルギー量です。


    次回はメタリカ初来日の様子など。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章5回目。ジェイソン・ニューステッド加入にいたるお話。有志英訳を管理人拙訳にて。

    ラーズがつま先を負傷していたため、彼らは新しい曲のリハーサルができなかった。そこで葬儀後の数週間、ラーズはもっぱら公式お気に入りツール、電話を使うこととなった。昔なじみのヘッドバンガー友だちやクリフのメタリカ加入を手助けした男、ブライアン・スレイゲルに電話をかけていたのだ。メタリカが急速にキャリアの勢いを増しているあいだ、ブライアンは自身の情熱を傾けたプロジェクトであるメタル・ブレイド・レコーズ(Metal Blade Records)というレコードレーベルをゆっくりだが着実に進展させていた。スレイゲルは最新の有望なアメリカのメタルバンドと別の『Metal Massacre』のコンピレーション盤をこの1年前にリリースしている。そのバンドのなかにはアリゾナ州フェニックス出身のフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam And Jetsam)がいた。ブライアンはこのバンドのベーシスト、ジェイソン・ニューステッドがメタリカにふさわしい男かもしれないと考えていた。

    ジェイソン自身が売り込んでいるバンドからヘッドハントすることにスレイゲルは少し悩んだが、ジェイソンがメタリカの大ファンであることを知っていたし、時宜を得たといってメタリカに接触を図ろうとするような残忍な考えはジェイソンにはおそらくなかっただろう。そして、もちろんラーズはスレイゲルの昔なじみの仲間であった。ラーズは、特にこのような状況下で彼の助けを必要としていた。

    もちろんジェイソンはスレイゲルの言葉に大喜びだった。その後すぐにラーズは電話に出て、このジェイソンという男がオーディションのためにサンフランシスコに飛んでくる日に合意した。

    ジェイソンは人生を賭けたオーディションに集中して準備した。ガレージで何時間もメタリカの全曲を練習した。車でフェニックス・スカイハーバー国際空港へ行き、飛行機で天国のようにヘヴィな目的地、メタリカのリハーサルルームに向かうまで。

    短くも集中したその期間で、40人以上の有望なベーシストたちがメタリカのオーディションを受けた。そのうち2人だけまた戻ってくるよう言われた。その1人が充分に準備を重ね、意欲充分なジェイソン・ニューステッドだった。

    この2次オーディションの後、メタリカの3人のメンバーはジェイソンをサンフランシスコ、ダウンタウンにある伝説的なビストロバー、トミーズ・ジョイント(Tommy's Joynt)に連れて行った。しばらくして、ラーズ、カーク、ジェイムズはみなトイレにたち、用を足してジェイソンについて評議した。ラーズの心はすでに決まっていた。ジェイソンは「クール」だ。だが他のメンバーはどうなのか?ジェイムズとカークは完全に同意した。ジェイソンこそがその任にふさわしいと。

    彼らがテーブルに戻ると、ラーズはジェイソンをみつめて尋ねた。「仕事が欲しいか?」わずかに緊張し不安だったジェイソンは無意識のうちに、ラーズ、カーク、ジェイムズ、そしてこの小さなバーで近くのテーブルにいた全ての客の耳をつんざくデカイ雄叫びを上げてその言葉に反応した。ジェイソン・ニューステッドはメタリカに加入した。メタリカはベーシストをみつけ、アルコホリカは新しいビール愛好家の兄弟をみつけたのだ。サンフランシスコで最も品揃え豊富な場所のひとつと認められるこの店ほど彼ら4人がいた場所としてふさわしいものはないだろう。

    トミーズ・ジョイントで長い夜を過ごしたが、新ヴァージョンのメタリカは、その翌日からライヴ・セットのリハーサルを行っていた。かの日本公演の日程はラーズ、ジェイムズ、カークにとって精神的な救いとなっていた。彼らは緊急の課題の真っ只中だったが、バンドはバートンの家族について忘れていなかった。日本へ出発する前夜に、ジェイソン・ニューステッドと来たるツアーのセットリストを弾いていたリハーサルルームをバートン夫人(訳注:クリフ・バートンの母)が訪ねてきた。トーベン・ウルリッヒもそこにいた。バンドが曲を演奏しているあいだ、トーベンは彼女をハグしていた。親として彼ら2人は、子供たちが大きく広がった世界を旅するなかで、子供たちのパフォーマンスと無事を心配することが自然と染み付いていた。トーベンが語ったように、彼とラーズの母ローンの心配は、ラーズがテニスアカデミーをあきらめて、このようにテニスのキャリアをドラムに変えたことではない。彼らの心配事は「長いリハーサルからの帰途にラーズが運転する車が溝に落ちること」のようなものだった。

    今、そのような心配事がバートン夫人にとって実際に起きた悪夢になってしまった。彼女が受けた最大の犠牲は人生二度目で(クリフが13歳の時、3歳違いの兄スコット・デヴィッドが亡くなっている)数週間前に24歳の息子を埋葬したが、彼女はこうして立ち、リハーサルルームで割れんばかりに鳴っている亡き息子とその友人の曲を聴いていた。リハーサルが終わると、バートン夫人はメンバーに歩み寄り、ジェイソンとハグをした。それによってメタリカの仕事は彼女の静かで思いやりのある祝福を受けたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    管理人は昨年、FearFestEvilで渡米した際に文中で登場するトミーズ・ジョイントを訪れることができました。夜にはいっそう目立つ外観。
    TommysJoynt

    たしかにビールの種類が豊富で、Alcoholicaにとってはこれ以上ないお店です。
    TommysJoynt_Beer

    ジェイソンがフロットサム・アンド・ジェットサムで参加した『Metal Massacre VII』はこちらから。
    metalmassacre7
    Metal Massacre VII


    01. Impulse / Heretic
    02. Sentinel Beast / Sentinel Beast
    03. I Live, You Die / Flotsam and Jetsam
    04. Rented Heat / Krank
    05. Backstabber / Mad Man
    06. Widow's Walk / Detente
    07. High 'n' Mighty / Commander
    08. In the Blood of Virgins / Juggernaut
    09. Reich of Torture / Cryptic Slaughter
    10. The Omen / Have Mercy
    11. The Awakening / Titanic
    12. Troubled Ways / Lost Horizon

    Flotsam And Jetsamは9:37から。


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    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
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    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃
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    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇
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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章3回目。メタリカの歴史に触れるならば、避けて通れないあの事故について。有志英訳をさらに管理人拙訳にて。

    歴史的にヘヴィな日曜日となったDyrskuepladsen(ロスキレ・フェスティバルの会場地)まで話を戻そう。ロスキレ・フェスティバルのコンサートはいろいろな意味で境界線を超えた。フェスティバルの歴史、そして背景を考慮しても。しかし、それでもここデンマークの大衆にメタリカの実質的なブレイクはなかった。メタリカはまだロスキレ・フェスティバルのメインステージのような巨大なシーンのなかでは、あまりに騒々しくあまりに異様だったのだ。だがメタリカのパフォーマンスは、ヘヴィメタルへのプログレッシヴなアプローチを大きく発展させた、間違いなく絶対不可欠な表明だった。このコンサートとメタリカの存在感自体が、新たなスピードメタル文化の勝利となったのだ。

    そしてこの勝利は続いていった。ショーというショーがこの年の残りを埋めていき、もちろん若いデーン(訳注:ロスキレ・フェスの観衆のひとりと思われる)はバンドの次のデンマーク訪問についてすでに知っていた。彼はロスキレ・フェスのことから話すことにした。「9月27日に(デンマークの)サガで会おう。」半分は熱狂的、半分は大口を開けて呆然としていた、信頼のおけるDyrskuepladsenの観衆に向かってラーズは叫んだ。そこにはライヴ前のサウンドチェックの時間からメタリカを観ることのできた、昔からのファンもいた。

    実際、メタリカはデンマーク再訪問への道のりはすでに順調であったし、このサガのコンサートもすぐに完売することとなった。メタリカはアメリカでのオジーとの「Damage Inc.」ツアーを終わらせて、それからイギリスでツアーを行わなければならなかった。しかし、オジーのツアーが8月3日のヴァージニア公演で終わろうとする1週間前に、インディアナ州エバンズビルのメスカー円形劇場(The Mesker Amphitheatre)で、ジェイムズはバックステージでは欠かせないスケートボードでふざけて遊んでいたところ、ボードから滑り落ちた。彼は腕を負傷し、残りの3人のメンバーは15,000人の期待に満ちたメタルファンの前でステージに歩み出て、その夜のショーは行えないことを発表しなければならなかった。

    「あれは俺がステージ前に飲まなきゃやってられなかった初めての出来事だった。」ラーズはそう語った。彼が話し出すとすぐに、3人のメンバーたちは強烈なブーイングと罵声の悲しき受け手となっていた。

    逆に言えば、観衆の反応は良い兆候でもあった。メタリカが、ヘッドライナーの大御所オジーを観るために支払った価格の重要なパートであり、呼び物であったことが明らかにそこに表れていたのだ。しかし最も重要なのは、バンドとQプライムが今やとても緊急の問題を抱えていたということだ。メタリカはアメリカにおけるメタルの大観衆のあいだで大きな飛躍を遂げようとしていた。オジーとのツアーはもう残り数週間しかなかった。その直後には半月のヨーロッパツアーが彼らを待っていた。その後には初来日公演があった。

    リズムギタリスト無しのメタリカのステージ?不可能だ!

    オジーはこう叫んだ。「レッツゴー、ファッキン、クレイジーーーーーーーー!エバンズビル!!」その声の限りの絶叫はメスカー円形劇場のステージ、メタリカ、そして病院から戻り包帯で巻かれたジェイムズ・ヘットフィールド、そして横に座っていたバンドのギターテクで以前のツアー仲間だったメタル・チャーチのジョン・マーシャルにも聴こえた。ジョンはステージ経験もあり、メタリカの曲も知っており、すでにツアー全日程にブッキングされていた。そう、ジョンは第5のメンバー、そしてリズム・ギタリストとして参加する準備はできていたのだ。

    バンドの次の公演となったナッシュビル、テネシーを乗り切るため、ジョンは集中して車の中で『Master Of Puppets』を聴いていた。ジェイムズの泊まっていたハイアット・リージェンシー・ホテルの部屋でも、メタリカとのコンサート・デビュー前に最後の手がかりを掴もうとしていた。

    「でも俺はジェイムズのようには弾けなかったよ。違って聴こえるんだ。ローディーとして、俺は一日に4、5時間も練習できなかった。ギターをチューニングして、5分演奏するんだ。」ジョン・マーシャルは後にこう説明している。(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    メタリカ活動初期のメンバー変遷のなかでジェイムズが(ギターを弾かずに)歌うのみだった5人編成はあったが、ナッシュビルのショーでは完全に別問題の話だった。バンドの観客はもはや2桁ではない。5桁なのだ。ジョンはもちろん緊張していたが、この束の間のラインナップ変更はこんな自体を予期できなかったであろうラーズにとって最も困難だったかもしれない。メタリカがブレイクを果たすツアー最後の前夜と紛らわしいほど似ていた。彼は5人編成を続けていくことをとても心配していた。数回のコンサートを経てようやく実際にこれでいけるとわかったのだ。

    ヘレルプの時計がラーズの頭のなかでチクタクいっていたが、オジーのツアーは計画通りに恐れていた失敗をすることなく終えることができた。ラーズが練っていたメタリカの計画の中、運命の待ち伏せは回避されてきた。また、医者はジェイムズの腕が9月10日に(ウェールズの)カーディフから始まるメタリカのヨーロッパツアーには間に合うよう治癒すると考えていた。全てが順調に調整されたツアースケジュールに従うことができた。

    オジーとの最後のコンサート後、ラーズとバンドは5週間の素晴らしい休暇を楽しみにしていたはずだった。ジェイムズの事故はさておき、メタリカにとっては素晴らしい春であり、クールな夏だった。今や国際的な少年は、待ち受けるツアーに責任を持ち、残りの夏を最高の思い出の地、イギリスで楽しもうとしていた。

    ツアー開始前にラーズとジェイムズとマーク・ウィテカーはメタリマンションを発ち、8月初旬にラーズはマネージャーのピーター・メンチの家を仮の宿として一ヶ月過ごした。

    「あぁ彼は私と一緒に住んでいたんだ。」ピーター・メンチはそう振り返る。「彼はイギリスにやって来て、一緒にうろついていた。つまり彼が起きたら一緒に出かけていたんだ。彼は朝4時に完璧に酔っ払って家にやってきた。私は毎日気にかけながら仕事をしていたよ。私はバンドのマネージャーだからね。」メンチはニューヨーク仕立ての皮肉を交えてそう付け加えた。

    ラーズは残りの夏のあいだ、ロンドンのナイトライフを楽しんでいた。しかし、キッチリと描いていた彼の計画の道筋は狂ってしまった。ヨーロッパツアーの日程が近づくと、12日間のツアーのうち最初の10日はジェイムズがギターを弾くことができないことが明らかとなった。幸いなことに適切な緊急策として、ジョン・マーシャルがメタリカのステージセットの大きな十字架の近くを控えめに陣取って、ウェールズとイングランドに渡る「Damage Inc.」ツアーは継続された。

    ジョンにとって、ローディーに加えてギタリストという役割が倍増したことで実入りの良い仕事となったが、彼は同時に糖尿病と戦っていた。それは定期的なインスリン注射が必要であることを意味していた。彼はボロボロに燃え尽きており、「Damage Inc.」ツアーの最後のコンサートが日本で行われたらすぐに11月で全ての仕事をやめようと決めていた。

    ツアーがヨーロッパ大陸まで至ると、ジョンとメタリカにとって良いニュースができた。ジェイムズ・ヘットフィールドは3ヶ月ぶりにギターの演奏を再開し、9月26日の金曜夜に行われたストックホルムのソルナ・ホールのステージにバンドが立った時にはモチベーションは最高だった。

    「あぁ、ジェイムズがリズムギターを再開した最初のショーだったんだ。あれは本当にクールだったね。」ラーズはそう話す。

    メタリカの列車は再びレールの上に戻った。ロスキレ南部の、あの記念すべき日曜夜に約束したように、9月27日の土曜夜にサガでプッキングされていたのだ。ラーズと元に戻ったラインナップは(サガ公演翌日の)日曜夜にコペンハーゲンに行くことを考えて幸せ一杯だった。日曜日はハンブルグに向かう前に一日オフだったのである。

    ツアーバスはストックホルム北部のソルナから深夜に運転されていた。それはジェイムズがいつもの寝台で寝なかった例外を除けばいつも通りだった。彼はいつもクリフの隣の二段ベッドの上で寝ていたが、このルートではドラッグ(の煙?)を避けるために他の場所に移動していたのだ。

    イギリス人の運転手が車の制御を失ったのは、ユングビューの小さな町に差し掛かった朝6時頃のことだった。ラーズがこのエピソードで覚えていることは次の通りだった。

    「俺は寝ていたんだ。それからもう眠れなかったよ!バスは停まっていて、横転していた。寝ていた時に何が起きたのか本当のところはわからない。でも俺は古き良きハリウッド映画みたいにバスが爆発する前に逃げなきゃって思ったんだ!だから俺は現場から森に向かって駆け出していったんだ。あの忌々しいバスから遠く離れて無事止まって振り返るまで走って走って走りまくった。何の爆発もなかった!だからバスに戻っていったんだ。そして他の人たちと落ち合った。1人、2人、3人、4人、5人とね。1人はちょっと足を引きずっていたし、もう1人はあちこちに痣ができていた。でも大きなケガとかそういうのはなかった。奇妙に思った唯一のことは、もちろん、俺たちの中にクリフがいなかったことだ。それから救急車が来て、病院まで運ばれて診察された。俺はかかとつま先の3分の2が損傷していると言われたよ。俺が覚えているのは、ジェイムズと俺が診察室のベンチに座っていると、スウェーデン人の医師がやってきてこう言ったんだ。「キミたちの友だちのひとりは助からなかった!」俺は彼が「キミたちの友だちのひとり」と言ったことを奇妙に思っていた。クリフはただの「ひとりの友だち」以上の存在だったから。医者がクリフ・バートンが死んだと告げると、ジェイムズと俺は互いを見合わせた。俺たちは本当に理解できなかったんだ。スウェーデンで第二位の病院で座ってそんな言葉を聞くなんてことはとても不思議だったんだ。ゆっくりと夜が明け始めていた・・・俺たちはそこでクリフを見てはいなかった。」

    「それから叔父のヨルゲンがコペンハーゲンからやってきて、俺を車に乗せていった。ピーター・メンチはロンドンからやってきた。彼が実際にクリフの身元確認をしたんだ。俺がユングビューを出た頃、ジェイムズとカークは飲みに出て行き、あの忌々しい道の近辺を歩き、わめき叫び、正気を失い、泣いていたのを覚えているよ。でも俺は家族のいる安定した環境であるコペンハーゲンへと向かう途中だった。」


    クリフはバスの窓を突き抜け、倒れたバスの下敷きになり即死だった。8時になる頃には、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、そしてコペンハーゲンといった世界中の電話が鳴り始めた。同じ悲劇と気の遠くなるような「クリフ・バートン死去」というメッセージを添えて。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    不運とよぶにはあまりにむごい事故でした。次項ではクリフの事故からいかにしてラーズ、そしてメタリカが再び歩み出したのかが描かれます。続きはしばらくお待ちください。

    クリフの訃報を伝えるRollingStoneの記事
    cliffobit_RS_300

    バス事故を伝える各写真。
    cliff_case

    管理人らが2014年にクリフ最期の地に建てられたクリフ・バートンの記念碑を訪れた探訪記はこちらから。
    http://metallica.bakufu.org/pic/sweden2014.html

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    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(2)

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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の(相当長い)第1章の続き。前回同様、有志英訳を管理人拙訳にて。今回はラーズのバイト生活や最も影響を受けたディープ・パープルとの出会いについて書かれています。

    - 自由に甘やかされて -

    たしかにラーズ・ウルリッヒは裕福に暮らし、映画やコンサートや世界をまたいだ旅に連れて行ってくれる素晴らしい家族と暮らした一人っ子であった。しかしデンマークの家ではお小遣いを自分で稼ぐ方法を見つけなければならなかった。

    「両親から完全に自由だった。もちろん自分のお金をいつも補填していた。一年中、テニスに出かけ働いていた。Hartmann通りのHIKのショップとかその他の店でクロックムッシュ(訳注:チーズとハムを食パンに挟んでトーストしたホットサンド)、リコリス菓子、ゼリー、コカコーラ、水を売っていた。午後にはそこに行っていたよ。水曜日には新聞・雑誌(Villa CitiesとGentofte Magazine)も配達していた。それが70年代に俺がBristol Music Centerであらゆるイカしたレコードを買うためにお金を稼ぐやり方だったんだ。

    俺は何かを買うにはお金を稼がなければならなかった。そして、俺はそれに慣れっこだった。親から自由を与えられていたけど、ラクラクと自分のお金を得ていたわけじゃ決してなかったんだ・・・。」

    いとこのステインはラーズと一緒にチラシ配りをすることもあった。またあるときにはテニスコートで相手をすることもあった。変わったこととしては、ラーズはテニスコートを練習や試合用に整備するグラウンド整備員としても働いていた。

    それがラーズにとって天から降ってくるわけじゃないお小遣いを得る道だったのだ。ラーズ自身が語っているように「自由だけが俺を甘やかせた唯一のこと」だった。自由は、彼が本気で獲得するやり方を順に知っていった要素だった。特に(レコードが欲しいと)涎をたらした音楽ファンとして。

    1973年2月にKBホールで行われたディープ・パープルのコンサートでロック、そしてハードロックを好きになり始めたとラーズはいつも語っている。しかし、実際はそれ以前の1969年夏にロックコンサートに出かけている。ウルリッヒ家がトーベンのウィンブルドン出場のために7月初旬にロンドンに滞在中、5歳のラーズは新聞の興味をそそるある部分に目星をつけた。そこには長い髪の男たちの写真が・・・。ラーズはその新聞記事をいぶかしげに指差して母親を見て尋ねた。「お母さん、これなあに?」

    ローン・ウルリッヒは新聞をつかむと、ローリング・ストーンズと呼ばれるバンドが街でコンサートを行うという記事を読み上げた。ラーズは即座に「行きたい」と叫んだ。それはウルリッヒ家での定型的な率直でざっくばらんな表現だった。ローンは答えた。「わかったわ。でも独りで行くのは大変よ。わたしも一緒に行きましょう!」幸運で風変わりなヒッピーやロックファンたちが集まったハイドパークでのストーンズのコンサートへ5歳の息子と母親、トーベンと彼のテニス仲間である南アフリカのレイ・ムーアと一緒に行った。レイ・ムーアは1973年2月10日、コペンハーゲンのKBホールで行われたラーズが初めて観たハードロックのコンサートにも同席している。

    ラーズ「KBホールで開催されるテニス・トーナメントに行くという話だった。トーナメントの開催前の日曜日にテニス選手はコンサートに招待されていたんだ。父とレイ・ムーアがそこにいたのを覚えている。父とレイ・ムーアは同じ音楽嗜好や見方を共有していた。レイはそんなヒッピーだった。」

    たとえジャズが数十年間、我が家を特徴付けていたとしても、多くの異なる音楽的表現−ロックあるいは彼らがビート音楽と呼んでいた音楽の目覚しい発展−にいつもオープンだったのだ。そしてそれらは60年代、Lundevang通り12番地の音楽領域の一部まで広がり、支持されていった。レッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックス、ディープ・パープルのような開拓者たちの名前は、後にロックをよりハードでヘヴィな方向に向かったバンドたちの地ならしを助けた。特にディープ・パープルは、今でもラーズのハードロック界への旅路として存在していた。

    2月の魅惑的な夜の啓示と両親から与えられた素晴らしい自由は9歳の少年に強い結びつきをもたらした。しかしすでにラーズ・ウルリッヒは快活で行動的だった。独りでコンサートに行き始めるのにそう時間はかからなかった。付き添いもなしに次のディープ・パープルのコンサートに出かけて行ったのだ。

    ステイン・ウルリッヒは我々に語った。「ラーズと俺は6歳か8歳の頃にはディープ・パープルのレコードをすでに持っていた。ラーズのお爺さんがいるローウラライ(Raageleje)の夏の別荘に行っては、ディープ・パープルでエアギターとエアドラムで完全に狂ってたよ。そりゃもう、汗いっぱいかいてね。エアギターをたくさん弾いた後はお風呂に入らなきゃならないほどだった。ある日、ラーズは俺を呼んで、KBホールのディープ・パープルの公演に行きたいか尋ねてきたんだ。そんなこと考えもしなかったよ。だからラーズに連れて行ってもらったんだ。」

    1973年12月9日、デイヴィッド・カヴァーデイル、グレン・ヒューズが新加入した第3期ディープ・パープルの初めてのコンサートだった。「あの日はカー・フリー・サンデーだったね。」ラーズは前述したオイルショックを回想していた。

    その当時、(普段使われている)貴賓席は舞台に変えられていたため、ディープ・パープルが現れる貴賓席は2階へと続く席となっていた。若き少年2人はさも当然かのようにその席の隣に座る機会をつかんだ。

    「俺たちはコンサートのあいだ、ほとんどそこに座っていたんだ。」ステインは熱を帯びて続ける。「バンドがアンコール前に休憩でバックステージに戻る時、彼らは俺たちのすぐそばを歩いていったんだ・・・俺たちは彼らが通れるように足をどけなければならなかった。それでリッチー・ブラックモアがさ・・・彼が俺に手を差し出したんだ!彼が俺にだぜ!!」

    それはヘラルプへ帰るバスの中でも話されたことだった。どうにかしてロックないとこ同士2人はLyngby駅までたどり着いた。そこはステインによると「すっごい興味のわく」ある女の子と出会った場所であった。彼らは駅前の駐車場で1時間ほど過ごし、少しばかりナンパをしていたのであった。

    ステインは笑う。「あぁ、あそこで馬鹿げた時間を過ごしたよ。家に帰ったら怒られたのさ。」

    自由には責任が付きものだ。それはウルリッヒ家もしかり。次の年、いとこ同士の2人はコペンハーゲンのコンサートに歩いて行くことを許可された。たとえ反対側の街外れであろうと、ディープ・パープルが1975年3月20日にブロンディ・ホールでコンサートを行った時は、ラーズはコペンハーゲン中央駅のロックスター御用達のホテル・プラザまで新メンバーのカヴァーデイルとヒューズのサインをもらいに行ったのである。

    疑う余地も無い。ディープ・パープルは若き日のラーズの人生にとって最も重要なバンドだったのだ。73年2月に初めてコンサートを観てすぐに、ラーズはレコード店に駆け込み、ディープ・パープルのLP『Fireball』を買った。発掘すべき新しいものだった。そして(リッチー・ブラックモアと)ほとんど目と鼻の先だった、もうひとつのお気に入りのコンサートの後、音楽の炎は絶対的なファンになり始めた少年たちの中で燃え上がった。ラーズはいつも音楽を聴くのを楽しんでいたが、ますますファンとしてのふるまいに磨きがかかった。次から次へとレコードを買い、コンサートに行き、サインをそろえていくのであった。

    70年代、ブラック・サバス(ラーズは1973年のクリスマスに『Sabbath Bloody Sabbath(邦題:血まみれの安息日)』のLPを手に入れた)、AC/DC、シン・リジィ、UFO、ステイタス・クオー、そしてリッチー・ブラックモアズ・レインボー(ディープ・パープルの後、ギターのカリスマが立ち上げたプロジェクト)など、キッズが献身的なファンになることのできた良いバンドをみつけることはそう難しいことではなかった。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/6/

    しかし、その若さでナンパとは(笑)

    73年に父親に連れられて行った、ラーズにとって初めてのディープ・パープル公演でラーズと会ったことをグレン・ヒューズは覚えていたようです。そのときのグレンの回想。

    グレン・ヒューズ
    「(前略)俺は73年のディープ・パープルのコペンハーゲン公演でラーズと会った・・・。彼は俺のサインを欲しがっていた。俺は何て若いんだと思い、直接彼と彼のお父さんのところに向かったんだ・・・。惚れ惚れしたね。(後略)」

    グレンは2011年、自らディープ・パープルの本『Deep Purple & Beyond: Scenes from the Life of a Rock Star』を出したときにラーズにサイン付き限定版を送っています。

    lars_glenn
    限定本をSonisphereFestival2011のバックステージで受け取るラーズ

    GlennHughes.com(2011-07-09)

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