メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:リッチー・ブラックモア

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    ロックの殿堂入り式典が行われ、ラーズ・ウルリッヒがディープ・パープルのプレゼンターとして登場。ディープ・パープルへの思いの丈をぶつけるスピーチを行いました。Metallica.comにて全編文字起こしされていたのでどうにかこうにか管理人拙訳にてご紹介。

    こんばんわ、ラーズだ。ここにいられることを本当にメチャクチャ光栄に思う。

    今夜は2つの音楽的旅路のクライマックスだ。ひとつは俺の。もうひとつは俺の人生と・・・ロックンロールを変えたバンドのね。

    俺が9歳の頃、父は1973年2月の暗く寒い夜のデンマーク、コペンハーゲンでディープ・パープルの公演を観に連れて行ってくれた。それまでの人生より全てが重大なことだった。音も光景も楽曲もミュージシャンも彼らが楽器でやっていること全て、それまで観たことのないものだったし、可能なものだとさえわからなかった。ディープ・パープルは美しき矛盾だった。絶好調な5人のミュージシャンに混じって、生々しい激しさで次から次へと名曲を演奏していくようなものだ。そしてあたかも自分たち以外誰もいないガレージにいるかのようでありながら、同時に1000ヤード先のアリーナの奥深くまで凝視しているんだ。

    ちょっと紹介させてもらうよ・・・

    シンガーのイアン・ギラン。センターステージに立ち、みんなの目を惹きつける、クールで最高のフロントマン気質の体現者、肺から絞り出すような叫び。彼の声は街中のガラスを割っただろうと思うほど高い。

    彼の後ろにいるのがドラムのリトル・イアン・ペイス。髪、汗、唾、精密さ、それらを混ぜ合わせたロックンロールのカクテル。どうにかしてメガネのくもりを拭おうと、この貨物列車を前に推し進める・・・8インチのプラットフォームヒールでもってね!

    ステージ右側にいるのが威厳漂うジョン・ロード・・・。俺はオルガンであんなに身体を使っている人を観たことがなかった。でもちょっと待ってくれ。俺はまだ9歳だったんだ!彼はC-3ハモンドオルガンで、それまで誰もやってこなかったことをやってのけた。マーシャル・アンプとレスリー・スピーカーの壁を通じて、他に類を見ない未知の領域へと音をヘヴィにして熱狂させてくれた。これだけは言わせてくれ。ジョン・ロードは本当にハモンドオルガンをアンプを使ってディストーションをかけた初めての人だったんだ。残念ながら俺たちは2012年に彼を喪った。

    ベーシストのロジャー・グローヴァー。カウボーイ・ハット、ペイズリー柄のシャツ、別次元の人柄、地に足のついた人。グルーヴィーであえて言うならセクシーだ。彼のエゴのないステージでの存在感は、バンドメイドたちのエネルギーの応酬を助けていたし、彼らの最も重要なレコードのソングライターと共同プロデューサーとしての確固たるバイタリティーを覆い隠してもいた。

    それからそう・・・リッチー・クソやべぇ・ブラックモアがいた。彼がギターでやっていたことは実現不可能に思えた。ギターを普通に弾いたり、横向きにしたり、上下逆さまにしたり、あらゆるやり方で弾いていた。彼の指、手、腕は不変のバレーの動きだったり、予測不可能な動きだったりしていた。サウンド、金切り音、ピックスクラッチ・・・ギターをスピーカーにこすりつけたり、ケツやブーツで弾いてみせたり、宙に投げたりして、いつも突出して一風変わったショーマンシップと支配力と超然とした態度が織り交ざった人だ。ブラックモアはほとんど自分自身のために自己顕示して、エレキギター・ナルシシズムの端で浮かんでいるかのようだった。同時に彼はクールなんてものを超えていた。彼からよそ見なんてできなかったよ。

    彼らは演奏できた。即興音楽をね。彼らは絶えず、お互いに好奇心をそそる熾烈な競争を通じて、音楽を何か新しい場所、何か未知の場所へと連れて行った。そして同じ場所へは絶対に二度と同じ場所には行かないんだ。

    (公演を観てから)12時間後に早送りすると、地元の家族経営のレコード店にディープ・パープルの何もかもをリクエストして、すぐにアルバム『Fireball』を手渡されたんだ。こうして俺の人生は本格的に変わったんだ。永遠にね。

    ほぼ例外なく、ここ40年間の全てのハードロックバンドは、俺も含めて、ブラック・サバス、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルの系譜を直接たどっている。自分に関して言えば、この3つのバンドはいつもその楽曲制作、レコード、そしてその成果を等しく考えられるべきだと思っている。俺が大人になって、北米以外の世界ではその名声と影響力において3バンドは同等のものだった・・・。だから俺の気持ちとしては、俺の仲間のミュージシャンと何百万ものパープルファンのために俺が話すべきことはわかっている。彼らがこんなにも後になってロックの殿堂入りすることにちょっと困惑していることを告白しよう。強力なサバスと輝かしいツェッペリンの数十年後になるなんて(訳注:ブラック・サバスの殿堂入りは2006年、レッド・ツェッペリンの殿堂入りは1995年)。これはもちろんこれらの素晴らしいバンドやロックの殿堂を見下しているわけじゃない・・・俺はただディープ・パープルは世界中の他のどの場所でも崇められているんだってことをハッキリさせなきゃいけない
    だ。

    もちろん、今夜殿堂入りする他の3人を含む、この物語のなかで役割を果たしている殿堂入りして当然の皆さんに(祝福の)叫び声をあげたい。(訳注:今回殿堂入りするメンバーは、現メンバーのイアン・ギラン(Vo)とロジャー・グローヴァー(B)、第一期のジョン・ロード(Key)、リッチー・ブラックモア(G)、イアン・ペイス(Ds)、ロッド・エヴァンス(Vo)、元メンバーのデイヴィッド・カヴァデール(Vo)とグレン・ヒューズ(B))

    彼らのうち2人がライヴデビューするのを、ディープ・パープルが1973年12月のコペンハーゲンに戻ってきた時に観ている。シンガーのデイヴィッド・カヴァデール。彼の独特なブルージーな高音域の声と突飛なマイクスタンドにはぶっ飛んだよ。そしてベーシスト、グレン・ヒューズ。白のサテンスーツ、超絶クールなロッカーヘアーでもって、R&Bの影響を受けたヴォーカルだ。そして最後に実際に最初のオリジナルシンガーであるロッド・エヴァンス。60年代後半のパープル草創期のヴォーカルであの最初のヒットシングル「Hush」を歌っている。

    だから今夜殿堂入りした8人から、このバンドで演奏してきた14人のメンバーまで、しばしば緊張関係から素晴らしい音楽が生み出されたことは間違いない・・・そしてどれだけ素晴らしい楽曲なのかってこともね!!!

    アルバムは、いくつか名前を挙げるにとどめる。『The Book of Taliesvn』『Deep Purple in Rock』『Fireball』『Machine Head』『Burn』『Stormbringer』。

    そして驚異的な楽曲についてもいくつか名前を挙げるにとどめる。「Wring That Neck」「Black Night」「Speed King」「Child in Time」「Strange Kind Of Woman」「Highway Star」「The Woman From Tokyo」「Mistreated」。

    知っての通り、「なんじゃこりゃあ」ってなったのはスタジオバージョンとライヴバージョンの違いだね。「Space Truckin’」を例に挙げてみよう。アルバム『Machine Head』では4分超程度だ。それが伝説的なライヴアルバム『Made In Japan』だと、ほぼ20分もある!!!ディープ・パープルのパフォーマンス全てにおけるソロ、ジャム、衝撃的な力が、42もの公式ライヴアルバムがWikipediaで一覧表示される理由だ。彼らは毎夜すばらしく毎夜違って、毎夜触発される。今だにだよ。

    でも待ってくれ!・・・もう一曲あるよな?みんな知ってるフランク・ザッパと燃えたスイスの湖のカジノ、そして空まで炎が上がったとか何とかって曲がさ。あれはおそらく最も古典的なギターリフを特徴とする曲で、ギターを練習するみんなが初めてやる曲だね。あのリフは実際、店員の健全性を守るために音楽店で弾くことを禁止されていたんだぜ。あれは地球上で最もひどいギタリスト、不肖ラーズ・ウルリッヒでさえ実際に弾けるリフなんだ。

    曲名はもうお分かりの「Smoke on the Water」。これは折り紙付きの最大のヒットシングルだ。あまりにヒットしすぎて、ディープ・パープルが「一発屋」と間違われるかもしれない。でも、みんな知っての通り、今日でさえ、終わりなき伝説へと通ずる巨大でヘヴィな扉だと考えられている。最新のヴァージョンだって、世界中をツアーし、人々を圧倒して、いまだにいろんな人生を変え続けている、これまでと同じように重要で不可欠なままなんだ。

    俺のベッド脇のテーブルに置いている写真がある。相棒フランクにずっと前にもらったんだ。それはディープ・パープルの写真だ。フォトショップでイアン・ペイスの上に俺の顔写真が貼りついているんだけどね・・・ごめんよイアン!だからディープ・パープルは俺にとっても、今夜ここにいるファンにとっても、そして世界中の何百万人ものファンにとっても、いまだに重要な意味を持っているんだ。ディープ・パープルを次のように思っているみんなのね。

    壮大で
    予測不可能で
    エネルギッシュで
    クールで
    激しくて
    輝かしくて
    衝動的で
    即興的で
    魅惑的で
    口をあんぐり開けてしまうほど驚異的で
    別次元で
    容赦なくて
    先駆的で
    結局のところ、時代を超越している

    リッチー・ブラックモア、デイヴィッド・カヴァデール、ロッド・エヴァンス、イアン・ギラン、ロジャー・グローヴァー、グレン・ヒューズ、ジョン・ロード、イアン・ペイス。

    彼らはずっと前にここにいたはずだ。彼らはいるべき場所にこうして今ここにいる。

    俺は常々これを言いたかったんだ。「ご列席の皆さま、拍手でお迎えください・・・。ロックの殿堂入りをする・・・ディープ・パープル!」


    Metallica.com(2016-04-08)

    スピーチ動画はこちらから。


    メタリカのinstagramではさらに写真がアップされています。
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    やはりリッチー・ブラックモアは不参加の模様・・・

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    左上:(左から)イアン・ギラン、イアン・ペイス、ロジャー・グローヴァー、ラーズ
    右上:ドン・エイリーとラーズ
    左下:イアン・ペイスとラーズ
    右下:ロジャー・グローヴァーとラーズ


    イアン・ギラン、ロジャー・グローヴァー、イアン・ペイス、現メンバーのスティーヴ・モーズとドン・エイリーによるディープ・パープルのライヴも行われた模様。曲目は「Highway Star」「Hush」「Smoke On The Water」。

    Highway Star


    Hush


    Smoke On The Water


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    これまで何度も取り上げているラーズ・ウルリッヒのディープ・パープル推し。ついにロックの殿堂入りを果たすディープ・パープルに対してRadio.comのインタビューでその偉大さを語っています。BLABBERMOUTH.NETさんが文字起こししてくれたので管理人拙訳にてご紹介。

    larsulrichdeeppurpleradio

    70年代、俺がデンマークのコペンハーゲンで育った時、ディープ・パープルは一番のロックバンドだった。当時、彼らは3大ビッグバンドだった。つまりレッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、そしてディープ・パープルだ。ディープ・パープルは、スカンジナビア半島やドイツ、その他もろもろの場所で一番のバンドだった。みんな彼らのことを他の2バンドよりも知っていたんだ。レッド・ツェッペリンは、アメリカでより評価されている傾向にあると思う。そしてブラック・サバスは間違いなく超ヘヴィだったけど、数年経つまで俺は知らなかったんだ。

    ディープ・パープルはライヴのエネルギーが信じられないほどすごいんだ。彼らは楽器の演奏で知られているけど・・・つまり彼らは本当に技術的に有能だし、毎夜、彼らがショーをやるたびに前の晩とも次の晩とも違うものなんだ。彼らはレコードでは3、4、5分の曲をライヴでは10、15、20分の曲に変えてしまうんだ。何が起きるか分かっていたことなんて一度もないよ。リードギタリストのリッチー・ブラックモア、この種の伝説的で衝動的で予測不可能なキャラクターは常にバンドを違う方向へと向かわせるし、各メンバーの間でたくさんの面白い押し引きがあったわけだ。つまり彼らはジャズの領域に入っちゃってる夜があったんだ。全く別物のようだったよ。

    ツェッペリンはもう少しブルース寄りだ。サバスもそう・・・よりヘヴィなブルースという感じだ。ディープ・パープルは違う場所から来ていた。当時は他に類を見ない技術的な能力があった。それから間違いなく「Smoke On The Water」から「Strange Kind Of Woman」「Woman From Tokyo」「Space Truckin」「Highway Star」まで一連のシングルやその他の彼らの作品は売れに売れたヒットだったよ・・・。彼らの音楽的な伝説はディープ・パープルのメンバーのあいだで生まれたレインボー、ホワイトスネイクといったすべてのバンド・・・イアン・ギランのソロバンド・・・を生み出した。つまり彼らの伝説はこの30年間で成長し続けているんだ。そして彼らは実際にいまだ現役だ・・・違うラインナップとかでね。でもディープ・パープルの系譜はいまだに世界中で広範囲に広がっているのさ。


    BLABBERMOUTH.NET(2016-04-02)
    インタビュー動画はこちらから。


    おそらくプレゼンターとして4月8日に行われるロックの殿堂入り授賞式に出席するラーズ。感慨もひとしおでしょう。本当はジョン・ロード存命中に殿堂入りしてほしかったでしょうが・・・。

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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の(相当長い)第1章の続き。有志英訳を管理人拙訳にて。キッスとリッチー・ブラックモアに関する思い出話。HR/HM界の公然の秘密が明かされます。

    70年代も終盤になると、ラーズが興味を抱いたアグレッシヴなパンク・ウェーヴがやってきた。しかし、まずは70年代に多く現れた長髪の恐るべきバンドたちに話を戻さなければならない。

    1974年、アメリカでデビューを遂げたバンド、キッス。世間に認められていた批評家たちは彼らを嫌っていた。(後にハードロックのジャンルの進化を示すものとして逆に認められた。)しかしバンドは増え続ける熱心なファンを惹きつけていた。キッスのイメージといえば、コミック雑誌に出てくるようなヒーローやホラー・キャラクターが混ざった変装をして−少なくとも当時は−とんでもなくヘヴィで、リフ・ベースの曲とセックス、おふざけ、密通についてのキャッチーなフックを持ち、それはほとんど10代男子のファンタジー・ロックの最終形と言えるものだった。Lundevang通りのジャズ文化に浸った巨大な家に住むあの少年の部屋のなかにもそれはあった。

    それから1975年に出たキッスのライヴアルバム『Alive!』は当時制作されたヘヴィ・ロック・シーンの全て可燃物に火をつけるほど危険なものだった。その後、キッスがデンマークで初めてコンサートをすると発表したとき、とりわけラーズに火をつけた。残念なことに、ラーズは北ユトランドのフェレッツレヴへのサマーキャンプに登録されていた。実に残念なことにラーズのためにキッスが地元のフェレッツレヴのホールでライヴを行うことはなかった。最も由緒ある劇場地区、コペンハーゲンのフレゼレクスベアにあるフォークナー・シアターで行われたのであった。

    しかしラーズはただの6年生の少年ではなかった。オープン・マインドな両親が支えている彼は何よりもまず先に一人のファンであった。彼は独りでスクール・キャンプを電車に乗って離れ、キッスのコンサートを観て、その後のサインをもらう追っかけのためにコペンハーゲンまで行くことを許されたのだ。

    いとこのステインはラーズと共にそのコンサートに行き、その夜に最高潮だったことをハッキリと覚えている。

    「フォークナー・シアターは俺たち初めてだった。ライヴ後に俺たちはバンドの車をひとめ見ようと外で張っていたんだ。実際に車は見たけど、窓のなかまでは見ることができなかったよ。だからその代わりにシェラトン・ホテルまで急いだんだ。彼らはそこに滞在しているっていう噂を聞いていたからね。そうして待っていた。車が到着すると、彼らはメイクを取っていた。ポール・スタンレーとジーン・シモンズがメイクなしだぜ!!可笑しかったし、メイクを取った彼らを見るのはかなりスリルがあったね。」最も多くの神話を創り、実行に移した神話が創られていったロック史におけるスタント、一貫してメイクをしたロック・スターであるキッスのイメージについてステインは語った。

    それはたしかにステインと、しつこいほどのキッス・ファンであるラーズにとって最高の出来事だった。それからラーズは、すぐに電車で北ユトランドのスクール・キャンプに戻っていったのだ。

    この真っ正直なファンの物語は、頑強で献身的なロックファンとしてのラーズの驚くべき進化の始まりに過ぎなかった。

    ロックファンであった当時のラーズにとって、ガッカリする出来事もあった。ガッカリしたことのひとつが起きた日のことを彼はハッキリと覚えていた。「親父はステインがアメリカを経験すべきだと考えていたので、77年の秋休みの頃に俺たちを呼び寄せたんだ。俺は本当に楽しみにしていた。でもリッチー・ブラックモアズ・レインボーがコペンハーゲンでコンサートを行うことになっていた。俺はアメリカに行けない。だってデンマークに留まって、リッチー・ブラックモアを観なきゃならなかったからね!」

    こうして、その年の秋は2人ともアメリカには行かなかった。しかし話はここで終わらない。

    ラーズ「レインボーのコンサート3日前に、ブラックモアがキャンセルしやがったんだ!誰かが風邪を引いただか、病気になっただか、そんなようなことだった。だからその代わりに友だちみんなを誘って一緒にリングビーまで映画を観に行ったのを思い出すよ。」

    不十分な慰みと巨大な失望感のなか、ラーズにはひどい後ろめたさが残った。「その後その年にステインは一緒に5週間アメリカに行った。でも俺は罪悪感を感じていたよ。」

    しかし、リッチー・ブラックモアのキャンセルの理由は言われていたものとは全く違うものだった。12年後、ラーズはずっと賢くなり、自身でファンを惹きつけるようになった時、ディープ・パープルのデンマークとスカンジナビアのコンサートを担当していたプロモーター、エリック・トムセンと会った。

    「俺はエリック・トムセンに77年にあったことを全て話したんだ。アメリカへの旅行をあきらめたこと、リッチー・ブラックモアが病気か何かだったことをね。そしたら彼は俺にすぐに本当のことを話してくれた。ブラックモアは病気でも何でもなかった。彼はとうとう植毛の予約をしたんだ!それでブラックモアはスカンジナビアの全ツアーをキャンセルして、どこかから髪を取ってきて、生え際だかどこかにつけたんだ!あれは俺のなかでリッチー・ブラックモアのバブル崩壊が起きたよ。」
    とラーズは言う。

    そう、ブラックモアはギターのカリスマであり、77年の秋に失敗を犯した。しかし一方で、彼はロックシーンに新しく、より若く、よりワイルドな名前を持ちこんだ。パンクはその年、1977年に爆発した。センセーショナルなイギリスのバンド、セックス・ピストルズは実質、全てと言っていいくらいの人やものに対して反抗と侮蔑を先導した。セックス・ピストルズは77年7月にコペンハーゲンと今はなきダディーズ・ダンスホール(Daddy's Dance Hall)の地下フロアを訪れコンサートを行った。同じ頃、13歳のラーズ・ウルリッヒはオッド・フェロー・マンション(Odd Fellow Mansion)で長髪のアメリカ・パンクロックのパイオニア、ラモーンズのコンサートに行った。パンクは全く新しい若者たちのグループを新しく定義された環境へと惹きつけた新しい音楽シーンだった。ラーズはただのロックファンであり、サブカルチャーやアイデンティティーについて深く考えることはなかった。ただコンサートに出かけ、音楽を聴き、シーンを体験したのだ。

    ラーズ「もちろん、ダディーズでセックス・ピストルズを観る人たちには、俺がチボリでシン・リジィを観ることとは違う他の考えや意見を持っているってことがわかってきた。でも、だから何だってんだ!俺はセックス・ピストルズよりもラモーンズが好きだったんだ。「Commando」や「Now I Wanna Sniff Some Glue」の曲のなかにはヘヴィメタルなリフがある。でも全ての音楽には密接な関係がある。俺はロスキレ・フェスにも行って、78年にはボブ・マーリーを観た。「アイドル」(後にラーズのヘヴィメタルの師匠となるケン・アンソニーのこと)がいる、よく行っていた一番身近なレコード屋に入ったときに言ったよ。「ボブ・マーリーのレコードだって言うから、『Babylon By Bus』や『Exodus』を手に入れることさえできなかった・・・。」そしたらケンは「あんなものどうしろってんだ?」って言うから、俺は「参ったな、俺はレゲエだって確かに好きなんだぜ!」って答えたけどね。そういう全ての異なるもの、分離し始めた独立したシーンには・・・俺はたどり着けなかった。父トーベンとその音楽、オープンな心、そういった全てのものなしに今の俺みたいには育たなかった。」

    ラーズは70年代を通じて、ロックとヘヴィメタルに対する情熱を深めた。彼は憧れの人たち全てのサインを持っていたし、目の前で演奏するのを観てきた。さらにはメイクなしのキッスも観た。しかし、ラーズ・ウルリッヒは演奏者としてはどうだったのか?ドラマーとしてはどうだったのだろうか?我々は再び1970年代終盤、ラーズが初めて楽器を手にした時まで時計の針を戻さなければならない。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

    1983年の『Lick It Up(邦題:地獄の回想)』で素顔をさらすまで公には「マスク」のままだったキッス。
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    キッス『地獄の回想』


    それよりも前にキッスの素顔を見られたのはファンとしては貴重な体験だったことでしょう。そしてリッチー・・・それが理由で公演キャンセルってマジかよ・・・。

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    2014年にロックの殿堂入りしたのは、キャット・スティーヴンス、ダリル・ホール&ジョン・オーツ、ニルヴァーナ、キッス、リンダ・ロンシュタット、ピーター・ガブリエル。ディープ・パープルはここ数年、その名前が挙がりながら今年も殿堂入りに至らず。

    以前もディープ・パープルのロックの殿堂入りへ働きかけていると語っていたラーズ・ウルリッヒ。
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    メタリカは2009年に殿堂入りしているわけですが、自身が初めてライヴを目にして大きな影響を受けたバンドにも殿堂入りをして欲しいと熱望しているようです。RollingStone誌に語ったインタビュー、BARKSさんの翻訳を拝借しながら、省略された部分を管理人拙訳の補足でどうぞ。

    「俺はあそこの駆け引きやなんやらに口をはさむつもりはないが、この2つの言葉は言っておきたい。ディープ・パープル。これが俺の言うべきこと全てだ。ディープ・パープル。みんな、マジだぜ。ディープ・パープルだ。でも間違いなくニルヴァーナは初めて殿堂入り候補となった年で、考えるまでもなくふさわしいバンドだし、長いこと延び延びになってたキッスが認められて良かった。彼らはパイオニアであり、そのどれをとっても(殿堂入りに)値する。で、この2つの単語、ディープ・パープルだ! ああ、もう言ったっけ?」

    RollingStone(2014-04-09)

    ディープ・パープルのなかでもラーズが特に大好きなのは、リッチー・ブラックモア。リッチーのもうひとつのバンドであり先ごろカバー音源を出したレインボーについてもRollingStone誌の別のインタビューで次のように語っています。(管理人拙訳)

    「「A Light in the Black」を聴けば、かなり速いダウン・ピッキングだとわかる。「Kill the King」を聴けば、メタリカのそれと全く違うとは言えないだろう。たしかにこれらの相関関係は、それほど根本的なものじゃない。でも突き詰めると、音楽を演奏し、ライヴをし、毎日呼吸するたびに俺たちを奮い立たせてくれるよ。」

    RollingStone(2014-04-02)

    以前のディープ・パープル激推しラーズ語録やディープ・パープルのロックの殿堂に関するあれこれは関連記事からどうぞ。

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    パート:ドラムス

     

    担当:叩きのめすような、ドライブするリズム

     

    誕生日:1963年12月26日

     

    出身:デンマーク、ゲントフテ

     

    身体的特徴:身長170cm、体重58.97kg、ブロンドがかった茶色の髪、緑の目

     

    結婚:既婚(1997年1月27日) ※この後、離婚(2004年)

     

    :ポルシェ、Chevy Blazer、レンジ・ローバー、サーブ

     

    好きな飲み物:辛口白ワイン、エヴィアン、お茶

     

    好きな食べ物:フランス料理、マグロ、寿司、フローズン・ヨーグルト

     

    好きなスポーツチーム:サンホセ・シャークス、サンフランンシスコ49ers、
    タンパベイ・バッカニアーズ

     

    メタリカ以前:なし

     

    メタリカをやる前の仕事:新聞配達、ガソリンスタンド店員

     

    好きなもの(こと):妻と一緒にいること、ランニング、スキューバ・ダイビング、
    映画、ファッション、アート

     

    よく聞くもの:オアシス、ALICE IN CHAINS、ブラック・グレープ、うちの奥さん

     

    ヒーロー:Guillermo Vilas(アルゼンチンのテニス選手)、リッチーブラックモア、
    エース・フレーリー

     

    初めてのコンサート:ディープ・パープル、1973年コペンハーゲンにて

     

    自分評:先のことを考える、頑固、自然体、皮肉屋、おしゃべり、ばか、うるさい

     

    引用:アルバム『Garage INC.』のライナーノーツより

     

    さりげなくノロけてますね(笑
    こちらも同じく誕生日(12月26日)で調べてみました。


     

    誕生花:オキザリス(花言葉「輝く心」
    誕生石:エメラルド(宝石言葉「幸福」

     

    同じ誕生日の人:毛沢東


    なんかすごい・・・。誕生日の花と石、ちょっとうらやましい(笑


    GARAGE INC.

     

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