メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:マーシフル・フェイト

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    前回の記事に引き続き、ラーズ・ウルリッヒお気に入りのヘヴィメタル/ハードロックのアルバム15選から5つのアルバムをラーズのコメントともにご紹介。

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    DIAMOND HEAD - "Lightning To The Nations" (1980)

    もし「メタリカのサウンドの青写真となるレコードをひとつ挙げろ」と言われたら、これを挙げるよ。俺は何千回と言ってきた。何千回とね。

    1981年の夏、俺はシンガーとギタリスト、つまりシーン(・ハリス)とブライアン(・タトラー)と一緒に過ごすことになった。彼らの居間に住み着き、ソファで寝て、彼らと一緒にいたんだ。カリフォルニアに戻った俺はバンドを始めたいと思っていた。彼らはより伝統的なハードロックのアプローチをとったバンドだったね。レッド・ツェッペリンの大ファンで、旅、探求、経験としての曲が、純粋なギターリフのエネルギーに融合していた。シンプルなドラムでグルーヴィーな素晴らしい曲たちだ。

    ひと頃、メタリカで全ての収録曲を演奏したよ。「Am I Evil」もリリースしたし、「It's Electric」「Helpless」「The Prince」もリリースした。「Sucking My Love」もずっと前にやっていたしね。「Sweet and Innocent」も「Lightning to the Nations」もジャムってた。俺たちはこの収録曲全てと切っても切り離せない関係なんだ。

    (メタリカとしての)最初のコンサートで、ダイアモンド・ヘッドの曲を4曲やったはずだ。俺たちはカヴァーバンドとして始まって、そのグレーゾーンにいたってわけ。曲を弾くようになったばかりだったし。俺たちは誰にもカヴァー曲とは言わなかった。でも俺たちの曲だとも言わなかった。ただあの収録曲をやったんだ。2回目か3回目のライヴでサクソンの前座を務めた時、彼らのサウンドエンジニアのポールがやってきてダイアモンド・ヘッドっていうバンドを聴いたことがあるかと訊いてきたんだ。俺は「もちろん、彼らの曲を4曲カヴァーしているよ」と答えていたよ。でもまぁ俺たちは基本的にダイアモンド・ヘッドのカヴァーバンドとしてスタートしたんだな。


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    GUNS N' ROSES - "Appetite For Destruction" (1987)

    『Appetite〜』についてまだ言われていないことについて俺が何が言えるっていうんだ?これまでレコーディングされたなかで数少ない素晴らしいロックレコードのひとつだね。『Appetite〜』はある意味、ジャンル無しだ。史上最高のHR/HMレコードのひとつってだけじゃなく、史上最高のレコードのひとつでもある。間違いなく世代を形成し、文字通り何千ものバンドの青写真になったんだ。(ビートルズの)『Revolver』やローリング・ストーンズのベスト・レコード、(ブルース・)スプリングスティーンのベスト・レコード、U2のベスト・レコードもそこに入れられるだろう。誰もが関わりのあるレコードのひとつってわけ。ほとんどの人の人生のなかでサウンドトラックになってるんだ。

    あのレコードのことを考えると、1987年を思い浮かべる。あのレコードは3年くらい大胆不敵なものだった。改めて聴いてみると、初めて聴いた時のことを思い出すよ。俺はニューヨークに飛んでいた。それまでLAのレコード会社に行っててね。A&Rのヤツが先行版カセットを俺にくれて「このバンドからこのレコードが出てるんでチェックしてみて」って言われたんだ。リリース2ヶ月前くらいだったかな。「Welcome to the Jungle」あれはかなりクールだったね。気に入ったけど、ぶっ飛ぶとこまでではなかった。でも「It's So Easy」?俺はあんな曲をそれまで聴いたことがなかった。歌が始まったら、全てが「It's so easy, so fucking easy」ってアティテュードなんだ。あんなものは聴いたことがなかったよ。「Nighttrain」では自信たっぷりなアティテュードだ。「Out Ta Get Me」は意地悪く「ヤツらは俺を捕まえられやしない」って感じだ。あの意地悪さと怒りとアティテュードはクソ最高だね。それから「Mr. Brownstone」「Paradise City」もあった。(カセットで聴いたのは)アルバム収録曲の4、5曲って感じだ。俺は文字通り飛行機内で座って、口はあんぐり目もぱっちり「俺は何てものを聴いてるんだ?」って具合だった。(カセット収録時間は)20分だ。飛行機から降りると、俺は真っ赤な目をしてた。それでLAにいたあいつに電話してこう言った。「あれは何だ!?これは誰なんだ?これはどこから来たんだ?」あれは人生を変えるものの始まりだったね。


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    IRON MAIDEN - "The Number Of The Beast" (1982)

    俺にとって、あのレコードは文字通りアイアン・メイデンの最高潮なんだ。ベストソングがあるし、ベストなプロダクションをしている。あれは昔のディープ・パープルのレコードやレインボーの作品をたくさん手がけていたマーティン・バーチのプロデュースでね。ちょうどピークにあった頃なんだ。「The Number Of The Beast」はたぶん彼らがリリースしたなかでも最高のシングル曲じゃないかな。もちろん大ヒットとなったもっとコマーシャルなシングル「Run to the Hills」もある。超ディープな「Hallowed Be Thy Name」もね。あれは(ジューダス・プリーストの)「Beyond the Realms of Death」、(ディープ・パープルの)「Child in Time」と共にメタル叙事詩のひとつだね。(メタリカの)「Fade to Black」「One」「Welcome Home (Sanitarium)」の青写真みたいなものだ。

    それからいつだってちょっとしたクールなものもある。「The Prisoner」のイントロはTVシリーズから取られた。「22 Acacia Avenue」は彼らの1stアルバムの収録曲「Charlotte the Harlot」の続編だ。そしてブルース・ディッキンソンがポール・ディアノから引き継いで新ヴォーカルとなった最初のレコードだ。これはプロダクション、ソングライティング、アティテュードが全て一体となった作品だよ。オリジナル・ドラマーのクライヴ・バーが参加した最後のアルバムでもある。RIP。彼は本当に強く響くスネアロールをしていて、そういったものは俺に大きな影響を与えたんだ。ドラムを技巧楽器にするんじゃなくて、もっと重みとかアティテュードみたいなところで俺を触発させてくれた。エアドラムしてた頃のようにね。彼(のドラミング)はシンプルな方だったけど、彼がやった全てが超効果的だったんだ。

    いかにアイアン・メイデンがメタリカにインスピレーションを与えたかということを俺はいつだって公にしてきた。俺たちはいつも彼らを主たる影響として挙げているよ。彼らは他のどのバンドよりもクールだった。彼らにはクールなレコードジャケット、クールなパッケージ、クールなツアーブック、クールなTシャツ、クールなステージ装置がある。彼らは常に上を行っているように見えた。クールな照明設備もあったね。一番ファンに優しいバンドだし。俺の友だちがアイアン・メイデンからのエディがプリントされたクリスマスカードを持っていたのを覚えているよ。彼らはクレイジーでクールで、他のどのバンドよりも徹底してファンに優しいイメージを持っている。


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    JUDAS PRIEST - "Unleashed In The East" (1979)

    これは初期ジューダス・プリーストの頂点だね。たくさんいたヨーロッパのハードロックバンドで、彼らはアメリカ市場に風穴を開けようとして曲を書いていた時期なんだ。つまり曲を短くする−それは必ずしも悪い方法ではなかったけど、原点から外れて行ったものもある。これはヒットシングル以前に、ライヴで絶対的ベストにあったジューダス・プリーストなんだ。

    『Sad Wings of Destiny』からの曲がたくさんある。もちろん伝説の「Victim of Changes」も入ってる。ディープ・パープルの「Highway Star」みたいにエネルギーと騒がしいリフとダウンピッキングのみ。彼らはおそらくAC/DCと共に2つのギターが同じものを奏でる最初のバンドだったんじゃないかな。モーターヘッドやディープ・パープルみたいなバンドはギタリストが1人で違うこと、より重層的なことををやってたけど、ジューダス・プリーストに関しては両ギタリストが一緒に同じリフを弾くんだ。それによって音が倍増しただけじゃなく、よりヘヴィで大きくて厚みがあって没入感のあるサウンドになっている。オープンEでダウンピッキングになっているヘヴィメタル版の「The Green Manalishi」を聴けば、彼らが最前線にいたとわかる。このレコードは1979年に出たけど、サウンド全体は76年、77年、78年に始まっていた。彼らは先を行っていたんだ。俺にとってこれはいまだにジューダス・プリーストの最高のアルバムなんだ。


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    MERCYFUL FATE - "Melissa" (1983)

    マーシフル・フェイトは間違いなく俺たちにとって重大かつ極めて重要なバンドだった。メタリカのサウンドを形成するうえでも、アンダーグラウンドなハードロック界のたくさんの人たちにとっても、やたらと名前が挙がるくらい大きな役割を果たしたんだ。これは彼らの最初の正式なアルバムだった。俺たちみたいな(当時の)たくさんいた次世代のバンドにそれは大きな影響を与えたよ。彼らは素晴らしい友人でもあるし、「悪事」のパートナーにもなった。俺たちは彼らのスタジオでリハーサルをやって一緒にショーをやった。(メタリカの)『Garage〜』アルバムでは実際に彼らの曲のメドレーもやった。2つのギター、たくさんのハーモニー、音楽的な冒険があったね。ある曲はものすごく長いんだ。「Satan's Fall」っていう少なくとも10分かそこらの曲があるんだよ。

    彼らのコンサートはクレイジーだよ。(フロントマンの)キング・ダイアモンドは曲の前に主の祈りを逆から暗唱する。ある曲ではガチョウの羽を持って、この儀式の全てを執り行うんだ。彼はその行為に超情熱的でね。彼はスーパー・クールガイだよ。俺たちは本当に彼らの楽曲に夢中になってた。とても新鮮でオリジナルなものだったから、俺たちは彼らのことが大好きなんだ。彼らは本当に長年の間、戦友みたいなもんだね。


    RollingStone(2017-06-22)
    DIAMOND HEAD - Sucking My Love


    GUNS N' ROSES - It's So Easy (Live Recording)


    IRON MAIDEN - Hallowed Be Thy Name


    JUDAS PRIEST  - Victim of Changes


    MERCYFUL FATE - Satan's fall



    続きはまた後日に。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章3回目。有志英訳を管理人拙訳にて。※カタカナ表記がわからないところはアルファベットのままにしてます。デイヴ・ムステインが加入した後もバンドメンバー構成で二転三転していたところを。

    - ヘヴィメタルへの誓い(前編) -

    メタリカのデモテープの音楽は相当速かった。6つのオリジナルのリフを中心とした、生々しく、アグレッシヴな曲が狂気じみたペースで演奏されていた。音楽にしても曲名にしても、ダイアモンド・ヘッドとモーターヘッドの両方を思わせ、4人のヘヴィメタルへの宣誓を貫く楽しげな表明ともとれる「Motorbreath」「Seek And Destroy」「Jump In The Fire」「Phantom Lord」そしてヘヴィメタル・アンセムの「Metal Militia」があった。もちろんそこにはデイヴ・ムステインの新しいソロが加わった「Hit The Lights」も。

    NWOBHMからのインスピレーションは、メタリカの初めての楽曲の構成や速いテンポのなかに明白にある。しかし、メタリカは新しいインスピレーションも発揮し始めていた。それはイギリスからではなく、ロイヤル・コペンハーゲンからであった。ビズオウア通りのキム・ベンディクス・ピーターセン(キング・ダイアモンド)とRene Krolmark(ハンク・シャーマン)がまったく新しい草分け的なヘヴィメタルを始めたのだ。

    ラーズ・ウルリッヒ「おかしなことにヘヴィメタル・ケンが1980年に制作されたアルバムのデモを俺に送ってくれたんだ。彼らはブラッツ(Brats)と呼ばれていて、1981年にマーシフル・フェイトとして活動を始めた。1981年、ケンは彼らのマネージャーだったんだ(さらにバンド名をつけることになる)。そうして送ってもらったデモはマジですごいものだった。ジューダス・プリーストと他のヘヴィなものを混ぜたようなものだった。俺たちはただただ本当にクールだと思ったよ。マーシフル・フェイト、モーターヘッド、ダイアモンド・ヘッド、そしてヴェノム。彼らは当時の俺たちにとってのインスピレーションの中心だったんだ。「Motorbreath」はモーターヘッドから影響を受けたものだし、「Seek And Destroy」はマーシフル・フェイトへのハッキリとわかる初めての賛同の表れだった。あれは「Doomed By The Living Dead」「Corpse Without Soul」のようなマーシフル・フェイトの初期の曲に影響を受けたものだったんだ。」

    それは決定的なデモテープとなった。メタリカは形となり、楽曲、スタイル、そして凄まじい楽曲は『No Life Til Leather』というタイトルの元に集められた。そのタイトルは最初の曲の最初のセンテンスだ(もちろんジェイムズの冒頭の「ウォーー」は別として)。

    No life til leather/we're gonna kick some ass tonight/We got the metal madness/when our fans start screaming/its right/when we start to rock/we never want to stop again

    それからジェイムズのけたたましい声でコーラスが響く。

    Hit The Lights...Hit The Lights...Hit The Lights

    『No Life Til Leather』のどこを切ってもメタル、音楽、ライフスタイル、そして高揚感が中心にあった。そのデモテープによって、バンドが軌道に乗り、有名になっていく方向転換が始まったのだ。ラーズ・ウルリッヒに象徴される積極的な宣伝販促マシーンとして。彼は造作もなく伝言したりテープをコピーするメタルファンのいる場所でテープを配っていった。そして、メタル雑誌(あるいはファンジン)でテープやバンドのことを掲載させることさえできた。このようなメタリカを広く伝えるラーズの努力は1982年からだった。レコード契約を得るには充分に足るものだった。しかし、最初にメタリカを真に称賛する記事が掲載されたのは1982年4月、(最初のデモテープである)『Power Metal』をリリース後に(Metallicaと呼ばれるかもしれなかった)ファンジン「Metal Mania」のなかであった。

    「メタリカはアメリカのメタルゴッドになる可能性を秘めている」ジャーナリストのパトリック・スコットは82年6月の記事のなかでそう書いている。しかしこの予言のほとんどは、デモテープの音楽からというよりはむしろ、おしゃべりで熱狂的なメタリカのドラマー兼広報の家で熱狂的かつ親しげに交わされたヘヴィメタル話から得た直観に基づくものだった。

    メタリカと『No Life Til Leather』のデモを広める活動中においても、ラーズは決してここ数年のメタルの源を忘れてはいなかった。コペンハーゲン、そして特にラーズがまだ存在を知らなかったバンドからひらめきを得る助けを知らず知らずのうちにしていたケン・アンソニーのことを。2人のデンマークのメタルファンは離れていても、やはり大まかな連絡を取り合っていた。しかしラーズが電話で最新の音楽への情熱について話す時、ケンは本当に驚いたものだった。

    「ある日、電話で話していたら、ラーズが音楽をやり始めるつもりでドラムキットを手に入れたって言ってたんだ。「おぉ!いいね!」と思ったよ。そしたらあくる日、ラーズが電話してきて「俺たちデモを録ったんだけど、聴いてみたいかい?」って言ったんだ。聴いてみたいって言ったよ。まだ『No Life Til Leather』は持ってなかったしね。それでテープを俺に送ってくれたんだ。「俺のバンド:メタリカ」と言葉を添えてね。」

    「驚いたよね。ドラマーだって??俺は彼がドラムをやってるとは思いもしなかった。彼にリズムの才があるなんて少しも思わなかったよ。家で狂ったようにエアギターとかエアドラムをすることはあっても、それはそれでしょ。バンドを始めるってことさえ・・・ねぇ!?」

    取り巻きの外側、すなわち、ブライアン・スレイゲルと地元LAのメタルファンの中では、ラーズは自分のドラムへの関心やバンドに抱く野心については全く口外しなかった。ラーズのメタリカとしての突然の活動にケン・アンソニーだけが驚いたわけではなかった。憧れのダイアモンド・ヘッドと一緒に過ごしていた間もラーズはバンドで演奏したいという話は一切していなかった。当時、彼はジェイムズ・ヘットフィールド、ヒュー・タナーと初めてのジャムを行っただけだった。

    「おかしいのは、当時彼はバンドを始めるなんてことは一言も言わなかったことさ。」ダイアモンド・ヘッドのギタリスト、ブライアン・タトラーはそう振り返る。(『Metallica 激震正史)』(1992)より)「(中略)テニスのことばかり話すこともあったし、自分の好きなバンドの話になると止められなかった。でもメタリカのことについては一切何も言わなかったんだ。」

    それはメタリカに至る構想がどれだけ自然に生まれてきたか明白にあらわしている。実際ラーズがいろんなドラムとドラムスティック、そして音楽で何かしたいと動き始めたのは1981年夏のイギリス滞在後だった。

    話は戻って、1982年夏、ラーズとメタリカに関する噂はヘレルプのPhilester通りのテニスコートにまで届いていた。ステイン・ウルリッヒはある日、叔父で名付け親でもあるトーベンと一緒にテニスをしていた時のことを振り返る。「ある人がトーベンのところにやって来て言うんだ。「ラーズは音楽を始めたんだって?」彼がロッカールームに行くと今度は彼にこう尋ねるんだ。「トーベン、キミは昔からミュージシャンじゃないか。息子のやってる音楽は知っているかい?あの子たちは良いものを持っているかい?」トーベンはその問いに対してこう答えた。「あぁ・・・まぁ・・・でもベースを演奏している子は別の楽器をやるべきだね!」ってね。」

    昔からの熱狂的ジャズファン・評論家からの本当に的を射た指摘だ。彼はその後何年にも渡って、初期あるいはメタリカの曲となる前の楽曲に関する息子の審判となった。ロンは実際、他がますます強力になっていく4人組の中で最も弱い部分となっていた。ややモチベーションに欠け、暇を持て余し気味のマクガヴニーの代わりをラーズとジェイムズが見つけるまで数ヶ月しか要しなかった。

    この頃、メタリカの主要メンバー2人(ラーズとジェイムズ)はバンドメンバー構成に関する新しい考えがあった。ジェイムズはバンドが2人目のリズム・ギタリストを雇うまでリズム・ギターを演奏する方を選んだため、全面的にボーカルに集中することができた。しかし、1982年夏に起きた問題は別にあった。

    ラーズはその時のバンドの考えを大まかに話した。「どういうことかというと、ジェイムズが初めてリズム・ギターを演奏し始めた時、それを容易にこなせたってことさ。彼に本当にぴったりハマっていて、それだけの才能があったんだよ。彼とムステインが一緒になったらとてもすごいことになった。ジェイムズはこう言ってたよ。「クソッ!俺がステージを駆け回って歌う代わりに別のシンガーを一人見つけようぜ!俺がリズム・ギターを弾けば、マルコム・ヤングかルドルフ・シェンカーみたいじゃないか。」ってね。1982年夏、後半の数ヶ月は、ギタリストじゃなくて、リードシンガーを探していたんだ!それで何人か試した。有名なヤツはいなくて、地元のファンだけだったけど。そこにはアーマード・セイントもいた。LAで俺たちみたいなヘヴィメタルをやっていた他では唯一のバンドさ。彼らはジューダス・プリーストやアイアン・メイデンの影響を強く受けていて、俺たちよりメロディックだった。それでも彼らは他のバンドなんかより幾分ラウドだったしヘヴィだったね。俺たちは彼らと何回かギグをやったんだけど、彼らは本当に可笑しかったよ。ジョン・ブッシュっていうシンガーがいて、俺たちは才気溢れるヤツだと思った。」

    「俺たちは実際数ヶ月の間、ジョンに対して、騎士の鎧を身につけてステージを駆け回るような、アーマード・セイントがやっているクソみたいなことで時間を無駄にする代わりに真っ当なヘヴィメタルバンドに加わるべきだと言って説得を試みた。でも彼は何も話を聞こうとはしなかった。アーマード・セイントはLAでは俺たちより大物だったからね。それに実際俺たちは彼らのサポートを何回かやっていたし。でも俺たちは本当のヘヴィメタルがどんなかってことをわかってたし、(相手が大物だろうが)そんなことは気にもしなかった。俺たちはただジョンに俺たちのバンドに加わるべきだと伝えたんだが、彼はそれを望まなかった。そんなわけでヘットフィールドは歌い続けているんだ。」

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    ちなみにアーマード・セイントも『Metal Massacre』に参加したバンドのひとつですね。鎧を着たメンバー集合写真が画像検索で見られると思います。ジョン・ブッシュが後にアンスラックスのボーカルとして加入することになるのも何かの縁でしょうか。

    johnbush_metallica
    メタリカ結成30周年のフィルモア公演にて実現したジョン・ブッシュがボーカルのメタリカ

    そして、ギターを弾いているうちにリズム・ギターの才能が開花してしまうジェイムズ!(笑)結局、新しいボーカルを加入させるのは諦めることになりますが、この後もメタリカの運命を大きく変える出来事が起こります。

    次回、クリフ・バートン登場予定。

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