メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:フレミング・ラスムッセン

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の管理人拙訳を久しぶりに再開。前回までで『Ride The Lightning』のリリース、Qプライムとのマネジメント契約、メジャー大手のエレクトラとのレコード契約を果たしたメタリカ。『Master Of Puppets』の制作から始まる第5章の1回目です。

    - メタル・マスターの悲劇 -

    1984年から1985年頃、メタリカは「唯一の」ハードで騒々しい「スラッシュメタルバンド」として見られていた。それ自体、メタルの外にいた人々には真剣には受け取られていなかった。しかしラーズはその状況を心配していなかった。多くの出来事が過去3年に渡ってバンドに起きていたのだ。自発的に行った「Hit The Lights」のレコーディングから、ガタガタな一連のデモテープ、最初のギグで感じた絶望を経て、メジャー・レーベル、そしてマネージメント契約まで至ったのである。

    純粋なビジネスと戦略的立ち位置から、バンドはラーズやその他のメンバーが望んだ状態に整備された。メタリカはすでにインディペンデント系ヘヴィメタルバンドとして信じられない数のアルバムを売っていた。そして真っ当な会社にいる真っ当な人々はバンドの将来性をそこに見ていたのである。ラーズとバンド、そして彼らの弁護士は、国際企業であるエレクトラ・レコードとバンドの今後の作品との関係において意識的に芸術的自由を確保していた。

    ラーズ・ウルリッヒは前述したMM誌のインタビューをこう締めくくっている。「だから俺たちはもうレコード会社やマネージメントのせいにできない。彼らがうすのろなんじゃない。うまくいかなかったら、それはもう俺たち自身のせいなんだ。」(MM誌1984年11月10日号)

    バンドの3rdアルバム時代の到来はラーズの必須要件を課すものでもあった。その時代は全くの対照をなす出来事を含むこととなる。つまり「バンドの芸術的頂点と実際の躍進」 vs 「バンド最大の個人的悲劇」である。

    『Ride The Lightning』時代はまだ終わってなかった。1985年前半、メタリカは有名なヘヴィメタルバンド、W.A.S.P.の前座を含む『Ride The Lightning』ツアーを続けていた。これだけがバンドとアルバムのプロモーションを行う唯一の方法だった。ビデオとラジオ向けシングルはまだバンドのプロモーション戦略を担ってはいなかったのだ。メタリカはきっちりアメリカのツアーに集中し、バンドの拠点であるメタリマンションから車でわずか20分のオークランドの巨大な野球場で8月31日に行われたプロモーター、ビル・グラハム主宰の伝説的コンサート「Day On The Green」でクライマックスを迎えた。

    数日後、8月から9月になり、ラーズとジェイムズは(訳注:デンマークのコペンハーゲン空港のある)カストルプに上陸し、フレミング・ラスムッセンの待つスウィート・サイレンス・スタジオの近所にやってきた。重要な3rdアルバムは事実上、メタリカのカレンダーのうち、1986年の残りを全て費やした。

    この時、アマー島のスウィート・サイレンス・スタジオは、バンドの最初の選択肢ではなかった。夏に行われたメタリカのツアーの合間にラーズとジェイムズとフレミングは、一週間でロサンゼルスのさまざまなスタジオをチェックした。

    「存在している全てのスタジオに行ったよ。」ラーズはそう語る。「次のアルバムをレコーディングできる場所をみつけるために毎日8つのスタジオを廻ったんだ。最高のスタジオはワン・オン・ワン(One On One)だという結論に至るまでね。俺たちは85年秋にレコーディングすると話したんだけど、彼らはオーバーブッキングしてやがったんだ。マヌケ野郎どもだよ。だから俺はフレミングに、デンマークに戻ってレコーディングして、50%近く経費削減した方がよくないか?って言ったんだ。」

    スウィート・サイレンス・スタジオは、ワン・オン・ワンに欠けていたおなじみの利点が全てあった。

    「俺たちはフレミング、スウィート・サイレンスの(スタジオのオーナーである)フレディ・ハンソンともとてもいい関係だった。」ラーズは語る。「スタジオルームではさらに良いセットアップになったと感じていた。できるだけ早くレコード会社を出て、できるだけ多くの時間をスタジオに費やす。それはとても重要だったんだ。だからワン・オン・ワンで7、8週間いる代わりに、フレミングとスウィート・サイレンス・スタジオに戻って4週間とれたことは最善だったんだよ。」

    最終的に、レコーディングする場所を決めたのはバンドそのものだった。はるかに安い料金のスタジオが、ニューアルバムのレコーディングにことのほかピッタリであることを証明した。そしてメタリカのメンバーはもはやスウィート・サイレンスの屋根裏部屋で一緒に寄り集まって寝泊りする必要はなくなった。

    「俺たちはアマー島のホテル・スカンジナビアに移ったんだ。そこはリッチー・ブラックモアやその他のアーティストがデンマークにいるときに住んでいたとこだったからね。」ラーズは70年代にノートとペンを持ってホテルの外で待っていたことを引き合いに出してそう話した。「俺たちにとって、デンマークでのレコーディングは経済的にも本当によかったんだ。(レートの良かった)ドルのおかげでもあるんだけどね。それで俺たちは角2つの互いに面したスイートを予約した。ジェイムズと俺でひとつのスイート、カークとクリフでもうひとつをね。あれはよかったよ。それが4ヶ月も続いたんだ。走り回ってたら、靴擦れまで出来たよ。ハッハッハ!(笑)」

    そんなことがありながらも、やっていたことのほとんどは完全にアルバム制作に集中していた状態だった。ラーズ・ウルリッヒとジェイムズ・ヘットフィールドは完璧なメタルアルバムを作ることに本当に集中していた。そして確かに完璧なアルバムでありながら、さまざまな感情表現、これらの表現が互いに息づく、耳目を引く特別なものであった。細部に宿る力は、いわばアルバムの駆動力をなしており、単純化した「スラッシュメタル」というラベルからメタリカは喜んで最後の一歩を踏み出したのだった。ラーズは、長きに渡って続く素晴らしいロックバンドは常に出自のサブジャンル以上のものになるということをよく知っていた。

    「スラッシュという言葉は、いずれにしろ俺たちには合っていなかったんだと思う。」とラーズは『Master Of Puppets』と題する次の新しいアルバムについて論じた。「たしかに俺たちはその手のスタイルの枠内だった。スピードもエネルギーも不快な感じも俺たちの曲にはあるからね。だけど、俺たちはいつもその限界の向こう側を見ていたし、メタルに対してヨーロッパ的なアティテュードを持ったアメリカのバンドという方が俺たちにはふさわしい定義だな。『Ride The Lightning』で、俺たちはペースがゆっくりになっても、充分パワフルでいられるのだということを学んだ。そして今、俺たちは音楽に繊細な部分があっても、充分ハードに攻撃できるということを理解したんだよ。」(マーク・パターフォード/ザビエル・ラッセル共著「Metallica : A Visual Documentary(邦題:Metallica 激震正史)」(1992)より)

    『Master Of Puppets』はその前作同様に成功したテンプレートとなっていった。『Ride The Lightning』のように『Master Of Puppets』は美しいアコースティック・ギターのイントロから始まり、モンスター級のスピードが後に続く「Battery」は、サンフランシスコのバッテリー・ストリートにあるオールド・ウォルドルフで行われたクラブ・コンサートについて歌っている。A面のタイトルトラックでもある「Master Of Puppets」は「Ride The Lightning」よりもはるかに良い編曲で、どれだけバンドの(特にラーズ・ウルリッヒの)アレンジセンスが早くに成長していたかを示すいい例だ。ヘットフィールドが全ての歌詞を書き、とりわけ薬物中毒者の依存症と無力感について歌った「Master Of Puppets」は強烈だった。この曲と幻想的なミドルセクションはメタリカが今やメタル、不快な音、ハーモニー、美しさ、哀愁、巧妙さのあいだの平衡を保つマスターであることを明らかにしている。

    A面(我々はまだLP時代にいるのだ)でも激しいバラード「Welcome Home (Sanitarium)」で静まっていき、B面では『Ride The Lightning』の「The Call Of Ktulu」のように明らかにクリフ・バートンが手がけたH.P.ラヴクラフトを参照した長編のインスト曲(「Orion」)が含まれていた。

    表面的には、このアルバムは『Ride The Lightning』とある種の類似性を持っていたが、それにもかかわらず強力な価値を持っていた。バンドが革新的な『Ride The Lightning』によりすでに富を得て、エレクトラとの契約により制作期間の延長が可能となった。『Master Of Puppets』は、この2つの要因によって創造力に富む雰囲気のなか創られたのだ。85年秋の創造的な特典として、メタリカが自分たちの音楽、そしてヘヴィメタルそれ自体も新たな高みへと突き動かしていく巨大な力を持っていた。『Master Of Puppets』という驚くべきメタルの作品がもたらしたこれらすべての要因が、速さと技巧のバランスのとれたメタリカ自身のスタイルを完成させた。

    『Master Of Puppets』のレコーディングのため、ジェイムズとラーズがコペンハーゲンに前ノリしたのは、主にひとつの事柄のせいだった。盗まれたアンプがみつからず、ジェイムズがまだ適切なギターサウンドをみつけるために奮闘していたのだ。それまでに確保しておかなければならないプロセスもあった。ラーズが自身のドラムを揃えてもらうようマネージャーのピーター・メンチと彼のもうひとつのクライアントであるデフ・レパードの助けを必要としていた。その年のはじめにデフ・レパードのドラマー、リック・アレンはオートバイ事故によって片腕を失った。メンチはリック・アレンのLUDWIGの特注ブラック・ビューティー(手作りの黒く塗装されたドラム)をロンドンからコペンハーゲンに持ってきたのだ。

    しかしラーズはコペンハーゲンの店で生産終了になろうとしていたまさに同じモデルのスネアドラムを見つけた。たとえ古い「1978」の値札がついていたとしても。(訳注:デフ・レパードのレコードデビューは1980年のため、リック・アレンのニセモデルと思われる。)一方、リックは足で操作できるユニークなオペレーティングシステムによって失った片腕の代わりを務める自身のドラムキットを設計していた。

    ギターサウンド、スネアドラム、その他万事整って、『Master Of Puppets』のレコーディングが始まった。

    「私たちは本当に一生懸命やったよ。日に12時間から14時間、それを3ヶ月毎日さ。」プロデューサーのフレミング・ラスムッセンは振り返る。彼はスタジオで争いがあったことも思い出していた。「でも兄弟・姉妹喧嘩よりひどいことはなかったよ。私たちは家族のような関係だったからね。」フレミングはそう付け加えた。彼はすでにメタリカと最初に共作した頃から「親父(Dad)」とあだ名で呼ばれていた。

    さらにメタリカファミリーにおいては明確に定義された役割があった。フレミングは回想する。「クリフがベースにまつわることに対して中心に置かれながらも、ラーズとジェイムズの手中にあった。ラーズとジェイムズはスタジオでは独裁的権力は持っていなかった。でも彼らの言葉はある種の重みを持っていたね(笑)」フレミングは外交的な言い回しで笑いながらそう言った。

    さらにメタリカのマネージャーとして、ラーズが初期に果たした役割は『Master Of Puppets』のレコーディングのあいだ、ますます顕著になっていた。

    「ラーズは純粋にプロのドラマーとして非常に進歩していた。」ラスムッセンはそう語る。「でも彼はまた、物事のビジネス面において、とりわけビッグバンドの一員として、明らかに著しく素晴らしい掌握力を持っていたよ。『Ride The Lightning』から『Master Of Puppets』までにたくさんの進歩があったわけだけど、ラーズはほとんどの時間を電話に費やしていた。ジェイムズが理想のギターサウンドを探し求めていた頃、多かれ少なかれ彼自身がバンドを管理していたんだ。ラーズはツアーやTシャツやその他もろもろのために可能な限りの場所に連絡を取っていた。」

    アマー島にいるラーズとマンハッタンにいるクリフ・バーンスタイン、あるいはロンドンにいるピーター・メンチとのあいだで交わされたたくさんの会話は、来るべきツアーに向けての戦略に焦点を当てていた。前述の通り『Master Of Puppets』のレコーディングの前日、バンドは有名な「Day On The Green」で6万人のハードロックファンを前に自らの力量をテストすることが出来たし、ベイエリアに戻って、メタリカはスコーピオンズやラット、Y&Tのようなバンドの前座を務めてもいた。この経験は、メタリカに小さなクラブや会場の親密さよりも、幾分大きな場所で全力を傾けることができるという感覚を与えた。ラーズとQプライムの計画は自身がヘヴィメタルのアイコンであるオジー・オズボーンのサポートアクトとなることだった。彼は86年の春と夏を通じて、15000人から20000人収容のホッケーやバスケットボールの最も大きなアリーナで全米ツアーをしていた。そしてメタリカは最後までそのツアーに帯同することとなった。

    ソロアーティストとして、オジーは『Blizzard Of Ozz』『Bark At The Moon』アルバムを出して熱狂的ファンを増やしていた。よって(そんなオジーのファンを迎える)タフなギグがメタリカを待っていたのだ。しかしタイミングは絶好だった。この戦略は正しいことを証明した。ラジオ向けシングルやビデオは、86年当時のメタリカの選択肢ではまだなかった。オジーとブラック・サバスが70年代初頭にヘヴィという定義そのものを打破するためにこういったプロモーション手段を必要としなかったのと同じように。そしてある程度、『Master Of Puppets』は、オジーとサバスの時代の『Black Sabbath』から『Paranoid』『Sabotage』までの一連の陶酔感以来、最もクラシックな傑作アルバムとなった。

    実際、オジーとメタリカはお似合いのペアだった。オジーと彼のクルーはメタリカにまともな待遇を施し、ツアーの最後にはメタリカを観た昔からのサバスファンのなかでゴッドファーザー(訳注:オジーのこと)のセット中におむつをつけることでオジーに感謝の意を示すものもいた。

    『Master Of Puppets』のレコーディングは1985年のクリスマス・イヴに完了し、その後3人のアメリカ人たち(訳注:ラーズ以外のメタリカのメンバー)はアメリカへ帰っていった(ジェイムズのみ、デンマークを学ぶ試みとして伝説的な「スノー・ビール」ツアーを行った後で)。一方、ラーズは母親の住むコペンハーゲンの家でクリスマスと自身の22歳の誕生日を祝った。ラーズとフレミングはその後、スタジオ入りし、ラーズがサンフランシスコへ去る前に最後のドラムのレコーディング処理をしていた。サンフランシスコでメタリカは、カリフォルニアの新たな熱狂的なメタルシーンから出てきた仲間たちと大規模な新年コンサートのブッキングがあったのだ。83年以来初めて、ラーズ、ジェイムズ、クリフは以前のギタリストで今や自身のバンド、メガデスのフロントマンであるデイヴ・ムステインとステージを共にすることになった。カークの前のバンド、エクソダスもそこにいた。オジーとの今後のツアーで重要な役目を果たすこととなるジョン・マーシャルがギタリストとして在籍するメタル・チャーチ同様に。

    『Master Of Puppets』がアメリカでマイケル・ワグネルによってミキシングされていた頃、ジェイムズとクリフはホームであるサンフランシスコでお遊びバンド、スパスティック・チルドレンを組んで楽しんでいた。ラーズは1986年3月7日のアルバムのリリースまで熱心にメディア取材ツアーを行っていた。ラーズは話題がメタリカとなり、メイントピックが『Master Of Puppets』となるといつも夢中になっていた。バンドは著名なハードロックの出版物のなかで、表紙を飾る存在となっており、購入者からの反応は目に見える形で現れた。リリース最初の週に『Master Of Puppets』はアルバムヒットチャートTOP30まで登りつめたのだ。(メタリカが86年夏の終わりにオジーとのツアーを終えた時点で、アルバムはアメリカでゴールドディスク、つまり50万枚を売り上げた。)

    そんなわけで、3月27日から始まったカンザスシティーのオジーとのツアーは確かにメタリカのための春といえた。1時間のセットを終え、シャワーを浴びたら、バックステージでアルコホリカ・パーティーの始まりだ。忘れてはいけないことは、彼らのアイドルのコンサートを毎夜タダでそしてベストの位置で見られるということだった。

    1986年のツアーのあいだラーズはこう語っている。「俺たちはこのギグ以上のサポートを得るなんて望むべくもないことだよ。オジーは本当に度を越えた観衆を魅了していた。俺たちは最も度を越えた新進気鋭のハードロックバンドのひとつなわけで、理想の観衆のためにキッチリ演奏する機会を得たってわけだ。バンドは55分のセットを毎夜やって、本当にクールに迎え入れられた。メタリカもオジーのクルーからファーストクラス級の扱いを受けたんだ。」(マーク・パターフォード著『Metallica in Their Own Words』(2000年刊行)より)

    しかしメタリカのビーカーに苦味が数滴落とされた。『Master Of Puppets』の最後の曲に触発され公式ツアーのタイトルは「Damage Inc.」だった。この超高速の曲はこの当時のメタリカで支配的なムードを完璧に捕らえていた。ステージ上でもバックステージでも彼らのキャリアの面でも。しかし情け容赦ない運命は、全くツアータイトルの文字通りのごとくとなっていくのである。

    ニュージャージーのメドウランズ・アリーナ(現アイゾッド・センター)で、オジーの観衆が凶暴化し、機材が壊され12万5千ドルの被害に遭ったこともそのひとつであり、一方でロングビーチアリーナでファンがバルコニーから転落し、オジーのライヴ中に怪我が元で死亡したというもうひとつの悲劇的な側面もあった。そしてそれから2ヶ月と経たないうちに信じられない悲劇がメタリカを襲うこととなる。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/
    metallica-ozzy-86
    メタリカとオジー・オズボーン(1986年)

    ちょっとずつ訳しためていたものを一気に放出してしまったので、続きはまたしばらく先になりそうです。しばらくお待ちください(汗)

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    引き続き『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第4章3回目。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。今回は『Ride The Lightning』のレコーディングについての話が中心です。

    metallica-on-tour-1984

    思いつきの一時的な郊外でのアパート住まいではあったが、メタリカが2ndアルバム『Ride The Lightning』をレコーディングした時にたまたま住むこととなったブレンビュベスター地区という場所に、我々は実際に明らかな歴史的特色を見ることができる。60年代初め、ミドルクラスの郊外は活況となり、多くの家庭が郊外に移り住んだ。そのようなどこにでもある活気づいた郊外でコンクリートのビルと一戸建ての住居だけでなく、ロック史における魅惑的な展開があったのである。

    1965年、ラーズ・ウルリッヒが初めて本当に好きなバンドとなったディープ・パープルが、コペンハーゲンひいてはヨーロッパの現代ポップ・ミュージックにおける有数の拠点であるKirkebjerg通りから数キロ離れたブレンビュー・ポップ・クラブでコンサート・デビューを果たした。その当時、バンドはラウンドアバウトと呼ばれていたが、ラーズの初めてのスーパーヒーローとなったイアン・ペイス、リッチー・ブラックモアがメンバーにいたのだ。同じ場所でレッド・ツェッペリンもデビューしている。(1968年にニュー・ヤードバーズの後身として登場し、アルバム毎に段階的な進化を遂げてきたバンドとして、後にメタリカとよく比較されることになる。)メタリカの一時的な住まいの角を曲がったところにブレンビュー・ホールがあった。若きファンとしてのラーズが昔からのお気に入りであるディープ・パープルとレインボーを観てきた場所であり、アイアン・メイデンがデンマークにブレイクスルーをもたらした場所でもあった。

    だが、メタリカの創造的な進展が起きたのはアマー島だった。一部はStrandlods通りのスタジオで、また一部はメタリカのインスピレーションとなったマーシフル・フェイトや新しい若きメタルバンド、アーティレリーと共有していたスタジオ施設の向かいにあったリハーサル室で。メタリカはこの部屋を使って、アルバムのレコーディング前に曲を書き、仕上げていった(実際にそのリハーサル室で作られたバラード曲「Fade To Black」のアレンジを含む)。

    しかしながら、メタリカがリハーサル室に行っていた時、マーシフル・フェイトはツアーで離れていた。その代わり、アーティレリーがメタリカを迎えることとなったのである。彼らはその当時、ヨーロッパで最も革新的なメタルバンドのひとつであり、革新・パワー・アグレッションにおいてメタリカと多くの点で合致していた。

    メタリカがリハーサル室の前を初めて通りがかった時、トストルプ(ブレンビュベスターの西部)の今どきの少年たちはリハーサルに忙しかった。アーティレリーのリードギタリスト、マイケル・ステュッツァー・ハンセンはこう振り返る。

    「彼らは静かに座って、俺たちのジャムを最後まで聴いていた。「さぁ、続けて続けて!」彼らはそう言っていた。信じられないくらい堅実でとてもポジティヴだった。彼らは音楽に対して本当に何か感じるものがあったんだ。俺たちのものでさえね。」


    マイケルはラーズの熱意、そしてデンマークのメタルシーンに関する知識について覚えている。「彼はデンマークのヘヴィメタルバンド全てをチェックしていて、Maltese Falcon(※1)とEvil(※2)ってバンドについて詳しく語っていたよ。どんなバンドも知っているんだ。82年以来リリースしてこなかった俺たちの『We Are The Dead』のデモテープのことまでラーズは知っていたからね!ラーズは俺たちのことをサクソンをファストにしたサウンドだと思っていた。」マイケルはそう付け加えた。

    ラーズとメタリカは70年代あるいはNWOBHMのヨーロッパのメタルサウンドをとりわけ好んでいた。そして今、バンドはヨーロッパで新しきヨーロッパのヘヴィメタルバンドと共にいる。さらには、メタリカが必要であれば、リハーサル室も機材もアンプも使える準備もできている。そして、メタリカが『Ride The Lightning』をレコーディングしている間、(アルバムのために)作曲を必要としているという理由だけではなく、作曲をしばしば行っていた。

    (後にキャンセルとなった)ボストンにあるチャンネルクラブでの1月のショーの前に、バンドは盗難にあった。盗まれたものの中にはラーズのドラムキットやジェイムズが『Kill 'Em All』で使っていた特別なギターが含まれていた。その晩、マサチューセッツ州では強烈な猛吹雪に見舞われており、そんな危険を冒してまで機材は盗まれた。ジェイムズが特に気に入っていたアンプを失ったことは、バンドのレコーディングにとって残された問題となっていた。それは時間、お金、そして終わりのない労力というコストとなっていたのだ。

    「アーティレリーとアージ(アージ・ジェンセン音楽店)からさまざまなアンプを借りなければならなかったし、それらを試すのには時間がかかったよ。7つぐらい違うマーシャルアンプがそこにはあった。」フレミング・ラスムッセンはそう振り返る。彼はラーズの(新しい)ドラムをスタジオの中の広くて何もない奥の部屋に置いていた。

    「ガツンとくるサウンドを得るためにね。」フレミングはそう説明する。「ラーズはちょっと訝しんでいたけど、私はレインボーのレコードもそういう風にしていたから。」

    ガツンとくるサウンドは『Ride The Lightning』の至るところで響いていた。メタリカがクリスマス前に書き上げた最初の4曲のデモは大部分のファンの心をすぐにとらえた。そう、「Fight Fire With Fire」は『Kill 'Em All』の収録曲に速度と重さの両輪を合わせた圧倒的なスピードと重量感だ。タイトルトラックの「Ride The Lightning」もそうだ。そしてインストゥルメンタルの長編曲「When Hell Freezes Over」(後に「The Call Of Ktulu」と改題。)はミドルテンポでしっかり構築されていた。最後は、最初の4曲の中でも後にバンドの定番曲となる「Creeping Death」だ。しかし最も保守的なファンたちは恐れるべきものをそこに見た。メタリカはバラードもレコーディングしていた。「Fade To Black」である。

    ラーズは新しいメタリカがどこに行こうとしているのかハッキリ分かっていた。

    「俺はあの音楽的変化は、それ自身とても妥当だったと思ってる。計画されたものじゃない。」ラーズはその当時、新曲についてそう考えていた。(K.J.ドートン著『Metallica Unbound: The Unofficial Biography』(1993年刊行)より)

    「『Kill 'Em All』全曲ほとんどは1982年の春に作られた。俺たちが音楽的にやってることは下手くそだった。それからたくさん学んできたんだ。そして俺たちは作詞作曲、ハーモニー、その他もろもろについて、以前の2人のメンバーよりもよく知っている2人がバンドに加入した。」

    ラーズ・ウルリッヒと彼のバンド、メタリカはすぐに自分たちの音楽について、とても気にするようになった。したがってフレミングがプロデューサーだけでなくサウンド・エンジニアとして、監修する以上にバンドを手助けできたことは重要だった。

    フレミング・ラスムッセン「彼らは音楽的にどこに行きたいのか、クレイジーでハッキリとした感覚を持っていた。彼らがやったことは実に新しいものだったんだ。それまでそのジャンルでは誰もやったことはなかった。少なくとも同じだけヘヴィにはね。彼らは「音楽プロデューサー」がやってきて、コントロールされすぎるということを恐れていたんだと思う。」

    フレミングはそうではなかった。彼はすぐにグループの5番目のメンバーとなり、監修者としてよく働き、スタジオにいるメタリカの4人のエネルギーによって、よりいっそうワイルドになった。

    「スタジオの他の人が彼らの楽曲を聴くと、彼らはこれまで聴いてきた中で最悪で最も酷いノイズだと思っていた。我々はただ駆けずり回り、手をとめることはできなかった。単純にめちゃくちゃクールだと思っていたからね!(笑)「こいつはクソだな、おい!」とみんなは言ったが、「こいつは最高だ」と私は言っていたよ。」

    『Ride The Lightning』のレコーディングは、フレミングがハッキリとメタリカと出会った日から数週間を共にした日々を覚えている通り、5歳年下のラーズとの長い交遊の始まりでもあった。

    「彼は全速力で走るただの子供だった。我々が一緒にすごいことをやっていると気づくのにそれほど時間はかからなかった。効果的なリズムと言葉をみつけて、本当にただ前進したんだ。」フレミングはそう語る。彼はラーズの自己認識や壮大な野望、ラーズが実際にできることと、まだできないこと、その間をどうバランスをとっていくのかもわかったのだ。

    「彼は学ぶことに間違いなく興奮していたよ。でも他のドラマーの音を聴いて、彼らが演奏したものについてよく考えていたのも明白だった。彼はフィルインとかそういうことに関しては最高によかった。でもフィルインとそれ以外の間でテンポを保つことは・・・彼は全くうまくいってなかったね。」フレミングはそう言って忌憚なく笑う。

    「彼は「For Whom The Bell Tolls」をクリックに合わせて叩いたんだ。最初は彼にとって本当に難しかったんだよ。彼はそんなことを以前に全くやったことなかったからね。まぁあの曲は本当に難しいってこともあるけど。」フレミングはそう補足した。彼は、どうあってもラーズを使いこなすというもうひとつの素晴らしい能力も備えていたのである。フレミング・ラスムッセン自身、昔はドラマーだったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    文中に出てきたデンマークのバンドについてはこちらを参照。

    ※1:Maltese Falcon
    http://www.metal-archives.com/bands/Maltese_Falcon/1597

    ※2:Evil
    http://www.metal-archives.com/bands/Evil/5242

    さすがにデンマーク語で書かれた伝記本だけあってデンマークに関するメタリカスポットは異常に詳しく描かれています。次回はレコード契約がらみの話です。続きはいましばらくお待ちください。

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    続きが気になっていた方、お待たせしました。ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第4章2回目です。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)メタリカにとってのキーパーソン、フレミング・ラスムッセンも登場します。有志英訳を管理人拙訳にて。

    - 次のステップ -

    知っての通り、良いビジネスマンは他のみんなより先にアイデアを考え出す。ニューヨーク市にあった大きな多国籍レコード・レーベル、エレクトラ・レコードのマイケル・アラゴの場合もそうだ。この若きマネージャーは1年前に雇われ、『Kill 'Em All』は発売以来、彼のターンテーブルでかかりっぱなしだった。アラゴは真新しくてスカッとするヘッドバンギングと共にみぞおちに一撃食らわされた、この異形でとても激しいメタルに病み付きになっていた。メタリカには投資する価値がある、メタリカが「唯一の」インディペンデントなバンドであると確かに気付いていた。しかしながら、彼は思い切ってアプローチして、強力な国際レーベルのエレクトラにメタリカがサインをする準備ができているとは感じなかった。この壮大なメタルガイたちは「ありふれた一般人」に向けて演奏してはいなかったし、ましてやたいてい次のデュラン・デュランやヒューマン・リーグを探しているようなメジャー・レーベル向けでもなかった。エレクトロ・ポップのヒットは多くの若者向けであったが、高速で急進的なヘヴィメタル・ヴァージョンはそうではなかったのだ。

    しかし、マイケル・アラゴはすぐに行動に移した。1984年の初頭にラーズに連絡を取ったのだ。『Kill 'Em All』でバンドにいくらかのお金が入ってきたおかげで、(メンバーの住む)メタリマンションには電話とテレビの両方が備え付けられていた。

    「私はメタリカが大好きであるということ、そして絶対にメタリカとサインを交わさなければならないということを彼に告げた。」アラゴは回想する。(クリス・クロッカー著『The Frayed Ends Of Metal』(1993刊行)より)

    この時、ラーズは自信をより深め、バンドを集めて東海岸へ出発した。ラーズはアラゴに、バンドが次にニューヨークに行く時に連絡を取るよう約束した。すでにラーズにはある見通しがあったのだ。(実際、メタリカ出演の全ライヴで、ラーズはいつだってそのような見通しを持っていた。)メタリカはニューヨークのクラブ、ローズランドで、良き仲間であり地元ニューヨークのバンド、アンスラックスとレイヴン(メタリカが現れる前まで、アラゴが契約を考えていたもうひとつのバンドである)と共に夏のあいだに一度、出演する予定だった。

    マイケル・アラゴは、メタリカがマンハッタンでライヴを行っている時に要点をもちろん伝えるつもりだった。しかし、メタリカには別の予定が先にやって来てしまった。ヨーロッパだ。ラーズは『Kill 'Em All』時代から確固たる前進をメタリカにもたらすであろう計画を携えていた。最初に『Kill 'Em All』でヨーロッパにメタリカが創り出した喧騒を受ける形でバンドのツアーを行う。それから次のアルバムに取り掛かる。そしてまた同じようにツアーをするのだ。

    1984年2月3日、メタリカは初のヨーロッパツアーをチューリッヒから開始した。ツアーは「Seven Dates Of Hell(地獄の7日間)」と呼ばれ、メタリカは、ダークで荒々しいブリティッシュ・ブラックメタルのパイオニアであり、草創期メタリカのインスピレーションの源でもあったヴェノムとライヴを行った。最後から2番目の「地獄の日」には、オランダのズヴォレで初めてフェスティバルに出演した。このフェスティバルはオランダのヘヴィメタル誌「Aardschok」(オランダ語で地震の意)によって企画されたものだった。同雑誌記者のメタル・マイクは『No Life Til Leather』のデモが出回り始めた時には、すでにメタリカを称賛していた。Aardschokショーは特別なものとなった。それは6000人の荒ぶるヘヴィメタルファンたちが、新しいヘヴィメタルのヒーローたちと同類のバンドを褒め称え、拍手を送ったことも、もちろんあるだろう。

    ベルギーで終えた「Seven Dates Of Hell」ツアーから数日経ち、メタリカはコペンハーゲンへと飛んだ。そこで、テキパキとコトを進めるラーズはアルバム・レコーディングを行うため、適切なプロデューサーとエンジニアのいる手頃なスタジオを予約した。おそらくコペンハーゲンで安く、あるいは無料で生活することだってできたはずだ。低予算はまだメタリカにとってのキーワードだった。モチベーションも熱意も夢もビジョンもあったが、金はなかった。

    しかしコペンハーゲンでのレコーディングに対するモチベーションは、コストをかけないようにするには程遠かった。レインボーのアルバム『Difficult To Cure(邦題:アイ・サレンダー)』(1981)でベテランギタリストのリッチー・ブラックモアが前面に出るプロダクションを、ラーズは「めちゃくちゃ良い」と思っていた。そのアルバムはディープ・パープルのベーシスト、ロジャー・グローヴァーによってアマー島にあるスウィート・サイレンス・スタジオでプロデュースされている。そこではフレミング・ラスムッセンという名の男がエンジニアとして働いていた。フレミングのエンジニア、プロデューサーとしての経歴は70年代にもっと大人しいアルバムのプロダクションですでに始まっていた。Savage Rose、Pia Raug、Rasmus Lyberth、Bifrostといったアーティストとともに。それから後、The SodsとLost Kidsのデンマーク初のパンクアルバム、そして前述したブラッツの1980年のデビューアルバムも手がけていた。

    フレミングのスタジオはStrandlods通り85番地(85 Strandlodsvej)にある、コペンハーゲン中心街よりもスウェーデン南部のスコーネ地方の方がよく見える場所にあった。とある日、スタジオの電話が鳴った。知っている依頼人だろうか?ラスムッセンは電話を取った。受話器の向こうから聴こえたのは、はるばるカルフォルニアからの熱心なデンマーク人の声だった。

    「ラーズは私がアルバムを制作することに興味があるかどうか、スタジオを使うのにいくらかかるのかを尋ねるために電話をしてきた。」とフレミングは回想する。「彼らはプロダクションの手助けもできるエンジニアを探していた。私がレインボーと一緒に仕事をしたのを聞いていて、良いものだと思っていた。」「私は当時、彼らが何者なのか全く知らなかった。『Kill 'Em All』でここらの多くの人たちも知っていたとは思えなかった。少なくとも『Ride The Lightning』の前までは。メタリカはまだ本当にハードコアなメタルファンのものだったんだ。私はその一員ではなかったし、それまでもその一員になったこともなかった。」

    しかしフレミングはラーズのようにディープ・パープルの昔からのファンであり、プロのプロデューサーであり、エンジニアであった。そして仕事ができると考えた。故に彼はこの一部デンマーク人のヘヴィメタルバンドをプロデュースするというオファーを受けたのだ。

    「彼らは前払いしてきた。我々は知りもしないバンドを一ヶ月前にブッキングしたんだ。そして彼らは海を越えてやってきた。」フレミングはそう付け加えた。彼にはバンドのデモテープと『Kill 'Em All』が送られた。

    「こりゃヒドいなと思ったのを覚えているよ。」フレミングは笑みを浮かべ、新しいタバコに火をつけてそう言った。「なぜなら・・・あんなにファストだなんてわかるかい?当時あれだけファストに演奏していた人はそう多くなかった。」

    一方、コペンハーゲンの別の地域ではケン・アンソニーがメタリカとそのスピードについて正反対のことを思っていた。ラーズとメタリカはケンのスピードを必要としていたのだ。

    ケン・アンソニー「ラーズが俺に電話をかけてきてこう言ったんだ。「コペンハーゲンのホテルを予約できないか?お金を持ってないから、一番安くて安くて安いところでお願い!」俺はあちこちに電話して空きをチェックしたんだけど、結局折り返しの電話で俺はこう言ったんだ。「あのさぁ、おまえら俺のアパートに引っ越せよ!俺はおまえらがいるあいだ、街で彼女と3、4週間住むからさ。そうすればおまえらも節約できるだろ。」そしたらもちろんあいつらはとっても喜んでいたよ。空港であいつらを拾って、俺のアパートに連れてきた。そしてこうさ。「ジャーン、ここがそのアパートだ!」あいつらは一文無しだったから、あいつらのための充分な食べ物があるか確認しなくちゃならなかった。」

    ケンは、後に有名なブレンビュベスターの居住者となる4人のことを話すとニッコリ笑った。

    「他の居住者たちはこう思ったろうね。「何だってこんなところに4人の男が住むんだ!?」バンドは日中はスタジオで演奏して、夜にアパートに帰ってきた。俺は何千ものヘヴィメタルのレコードと大量のホラー映画を持ってたから、あいつらは夜毎、ヘヴィメタルを聴き、ホラー映画を観ていたよ。俺の両親も同じ建物に住んでいたんだけど、アパートの一階に夜になると騒がしい若者がいると文句を言っていたよ。だから俺は様子を観に行かなくちゃならなかった。アパートはさながら戦場のようだったよ!さすがに俺も少しイラついたけど、あいつらときたらただこう応えるだけさ。「やぁ・・・すげぇなこれ・・・ロックしようぜ、ケン!」俺もそんなロックバンド生活が楽しいと思っていた。俺たちは時々出かけて、とても楽しい時間を過ごした。でもあいつらはレコード制作に忙しかったんだ。」

    ケンはニヤリと笑って自分のアパートを取り戻した日のことを話した。「俺がアパートに戻った時、母が掃除に来るほど散らかし放題だったよ。一番可笑しかったのは、母がバスタブを掃除した時だね。メタリカの各メンバーのズラが出来るほど排水口に髪が落ちていたんだ。クレイジーだったね。あと覚えているのは、コーヒーテーブルの上に数本抜き取られた1パックのビールとメモ書きが置いてあって、そこにはこうあった。「ありがとう、大変お世話になりました!」とね。」

    このアパートはブレンビュベスターのKirkebjerg通り113番地(113 Kirkebjerg Alle)にある。(ジェイムズはバンドのリードギタリストになぞらえて、「カーク」ebjerg通りと呼んでいた。)この場所はラーズにとって、音楽の師のもとにたくさん訪れたいい思い出しかない。

    「クソ最高なケンが自分のアパートに俺たちを泊めてくれたんだ。あそこで暮らしたのは本当に楽しかった。あれより3年前にはケンのファンとしてあそこに行っていたんだからね。そして今や彼のファンとしてではなかったが、自分の世界を確立して戻ってきたのさ。」ラーズはブレンビュベスターへのバンドの短い滞在についてこう語った。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    metallicadaddy_stor
    フレミング・ラスムッセン(2007年頃)

    ちなみに現在のスウィート・サイレンス・スタジオはメタリカがレコーディングしていた当時の場所にありません。文中のStrandlods通り85番地(85 Strandlodsvej)は以前スタジオがあった場所。現在、スタジオとしては使われていませんが、建物自体は残っているようです。
    sweetsilencestudio
    GoogleMapより

    以前のスタジオのホームページも残っています。
    http://www.sweet-silence.dk/

    現在のスウィート・サイレンス・スタジオのページはこちら。
    http://fwrproduction.com/FWR_Produktion/FWR.html

    Venomとの共演を果たしたAardschokのフェスについては、実際に行った方のこちらのページが詳しいです。チケットやポスター、Tシャツの画像が拝めます。(英語表記のみ)
    http://www.livemusicandstuff.com/1984-02-11-aardschokdag.html

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    ロックの殿堂が『Ride the Lightning』『Master of Puppets』『...And Justice For All』のレコーディングに関わったサウンド・エンジニア/プロデューサー、フレミング・ラスムッセンにメタリカとのレコーディングについてインタビューを行いました。以前ご紹介した『Ride the Lightning』30周年を記念したRollingStoneのインタビューの補足的内容となっています。管理人拙訳にて。

    メタリカとともに初期のアルバム『Ride the Lightning』『Master of Puppets』『...And Justice For All』をレコーディングしたとき、スタジオではどうだったのだろうか?プロデューサー、フレミング・ラスムッセンは知っている。1984年にジェイムズ・ヘットフィールド、ラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット、クリフ・バートンに指名され、ラスムッセンはメタリカの2ndアルバム『Ride the Lightning』をプロデュースするために雇われた。1983年のデビューアルバム『Kill 'Em All』に続く、(今や)スラッシュのクラシックとなったアルバムは、メタリカとラスムッセンを結びつけたデンマークのコペンハーゲンにある「Sweet Silence Studios」へとバンドを呼び寄せた。

    『Ride the Lightning』30周年にちなみ、フレミング・ラスムッセンはオハイオ州クリーブランドのロックの殿堂を訪れた。(中略)そして、2009年にメタリカがロックの殿堂入りを果たした3つの独創性に富んだヘヴィメタルアルバムのレコーディング、「For Whom the Bell Tolls」「Master of Puppets」各曲のレコーディング、そして彼がメタリカでベストと思うレコーディングについて語ってくれた。


    −まずどのようにしてメタリカと仕事をし始めることになったんでしょうか?

    まずメタリカに起きたことは、『Kill 'Em All』を小さな独立レーベルのもと、ニューヨークでレコーディングしたということだった。彼らはヨーロッパでレコーディングスタジオを探していた。(当時は)とてもドル高で、アメリカ本国のレコーディングと費用を比較したら、ヨーロッパでは2倍の時間はスタジオを使えるということがわかったからだ。だから彼らはそうした。彼らはたくさんのアルバムを聴いていたよ。いいエンジニアがいるスタジオを望んでいたし、違うスタジオだとどう聴こえるか聴いてみたかったようだ。そして彼らは私がリッチー・ブラックモアとレコーディングしたアルバム、おそらくレインボーの『Difficult to Cure(邦題:アイ・サレンダー)』に目をつけた。そして実際に私に連絡を取ったんだ。私はバンドの名前をそれまで聞いたことがなかった。ラーズはデンマーク出身だったから、彼にとっては帰郷して友人や家族に挨拶しに行くいい機会になった。それが実際起きたことだよ。


    −『Ride the Lightning』収録曲の「For Whom the Bell Tolls」のレコーディングについて教えてください。

    あれはちょっと特別なんだ。『Ride the Lightning』レコーディングのためにコペンハーゲン入りした時、まったく書かれていなかった唯一の曲だったからね。夜にレコーディングしたんだけど、冬だったし寒くてね。ラーズは大きな倉庫部屋にいて、大きなところで鳴る音を得ようとしていた。だから私たちはガスヒーターをそこに持って行った。しかし実際に曲を書くのはスタジオのなかだ。(今となっては)私には全くわからないのだが、私の記憶では彼らはスタジオであの曲を書いていたはずだ。あの曲はメタリカと初めてレコーディングした曲で、きっちりリズムに合わせてレコーディングした曲なんだ。私はあの曲をタイトにしたかったからね。



    −タイトルトラックとなった「Master of Puppets」のレコーディングはどうでしたか?

    あの曲は壮大だった。本当にいい曲だ。レコードのなかでも珠玉の1曲だよ・・・。あの曲は、すごく良く書かれた曲だったし、各パートが非常にうまく繋がっていたから、あまり苦労しなかったと思う。あの曲のセッションは実際、観てて満面の笑みだったよ。私たちはポジティヴなエネルギーを持った。「これは私たちがやったなかでもベストなアルバムになるぞ。これは何もかも吹き飛ばすだろうし、みんな図抜けてる!」と思った。本当に本当に良いアルバムだよ。


    −『...And Justice For All』のレコーディングのあいだスタジオはどうでしたか?

    Justiceは難しかった。それくらい複雑なパートがあったからね。私が思うに、メタリカを何かやるってことは、いつもバーを非常に高く設定されるんだ。あの当時、彼らは今ほど演奏スキルはなかった。でもパフォーマンス・レベルを上げたいと彼らは思っていたから、難しいことと言えば時間がかかったってことだけ。うまくできるまで、何回も何回も没頭してやっていたよ・・・。基本的に彼らはバーをとても高く設定していたから、時間がかかったんだ。『...And Justice For All』全曲でドラム・トラックは2つずつあった。ちょっと難しくて、変わっていたね。全てのパートのなかで一番難しいと思ったのは「One」のマシンガン・パートだね。あれは一発録りだったんだ。ラーズはあれをモノにしたんだ。


    −(一緒に仕事をして)最も誇らしいお気に入りのメタリカのレコーディングはありますか?

    たぶん『Master Of Puppets』の「Sanitarium」だろうと思う。あの曲はMono-Stereoでやったんだ。私はそういうのに弱くてね。ヘッドフォンで聴いたら「一体どうなってるんだ?」ってなるよ・・・。そういう曲はたくさんある。(関わった)3つのアルバムには本当に誇らしい曲がたくさんある。おそらく我々が初めて本当にメタリカ・サウンドをモノにした曲は「Creeping Death」だと思う。壮大と言うべきものだ。それにとてもいい曲だとも思う。もちろんそうなるようにやってきたんだが。

    私たちはみんな、自分たちがやっていることで成功してやるんだという気持ちを持っていた。音楽史を変えるつもりだった。始まりからあれはそういうプロジェクトだったと思う。そして、ご存知の通り、そう考えた私たちは自分たちのやり方で進み、とんでもなくデカいエネルギーを持ち、そういったものがバンドのトレードマークになった。彼らはMTVで自分たちのビデオが放送されるのに頼りたがらなかった。ビデオは全く制作しなかった。彼らはそんなこと気にしなかったし、彼らにとって重要なことじゃなかったからだ。メタリカといるっていうのはいつもそういうことだったんだ。


    RockHall.com(2014-08-05)

    有名なスタジオでもドル高のおかげで安く使えたわけですね。そして以前紹介したインタビューのなかで語られていたラーズがガスヒーターを独り占めしていた理由がようやくわかりました(笑)

    MetallicaMOPStudio
    『Master of Puppets』レコーディング当時のメタリカ

    カナダ公演を終え、「By Request」ツアーをひとまず終了したメタリカ。これから新譜制作へと集中していくのでしょうか。

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    30周年を記念してメタリカが『Ride The Lightning』を振り返るインタビュー
    1984年のラーズ・ウルリッヒのインタビューが「Metal Forces」誌のウェブサイトに掲載。
    ドイツ版「Metal Hammer」の付録で『Ride The Lightning』30周年記念トリビュート盤CD発売
    ブラック・アルバム発売20周年を記念し、プロデューサーのボブ・ロックが解説。
    プロデューサー、ボブ・ロックによるブラック・アルバム全曲解説(その1)
    プロデューサー、ボブ・ロックによるブラック・アルバム全曲解説(その2)
    プロデューサー、ボブ・ロックによるブラック・アルバム全曲解説(その3)
    フレミング・ラスムッセン

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    『Ride The Lightning』発売30周年を記念してRollingStoneのサイトででラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット、そしてサウンドエンジニアのフレミング・ラスムッセンへのインタビューが掲載されました。超絶長いですが、どうにかこうにか管理人拙訳してみましたので、お時間あるときにどうぞ。

    Ridethelightning


    「俺たちは本当に一文無しだった」2ndアルバム『Ride The Lightning』を制作していた時期のメタリカのありさまについて、ドラマーのラーズ・ウルリッヒはそう語る。「その日しのぎの生活をしなければならなかった。俺たちがレコーディングしているあいだ、友だちは文字どおり自分のアパートを与えてくれた。ジェイムズと俺は寝室で、カークとクリフはソファを分け合って寝ていたよ。」

    1984年春、ベイエリア・スラッシュメタルの4人組はラーズの母国であるデンマークのコペンハーゲンのレコーディング・スタジオに閉じこもっていた。そのスタジオを選んだ理由は2つ。1つはレインボーがアルバム『Difficult to Cure(邦題:アイ・サレンダー)』をレコーディングしていたこと。もう1つはもっと切迫した理由で、安かったからだ。その当時ラーズとギター・ヴォーカリストのジェイムズ・ヘットフィールドはハタチで、ギタリストのカーク・ハメットは21歳、ベーシストのクリフ・バートンはグループ最年長の22歳だった。後にメガデスを結成するデイヴ・ムステインを解雇し、カークが加入して、速度制限を破壊するデビューアルバム『Kill 'Em All』のリリースによって、スラッシュメタルを明示してみせてから、1年と経っていなかった。今度はメタリカを明示してみせるアルバムに取り組んでいたのだ。

    30年後、『Ride The Lightning』は、バンドのディスコグラフィーのなかでもメロディーの宝庫として紹介される突出しているアルバムとなった。ヘヴィ・バラード「Fade to Black」と強烈な「For Whom The Bell Tolls」は後のメタリカのヒット曲「Nothing Else Matters」「Sad But True」の青写真としての役割を果たした。そして不気味な9分のインスト曲「The Call of Ktulu」によって彼らがどの程度できるのかを実演してみせたのだ。シングルの「Creeping Death」は、アウトロに沿って何万ものメタルファンが一斉に「Die! Die! Die!」と繰り返し叫ぶことの出来るおかげでコンサートの定番曲となった。

    レコードはその後、6回プラチナム(全米で100万枚以上売り上げたアルバム)として認定された。しかし、このアルバムを制作していたときのメタリカは、貧乏で、お金の使い方に気をつけていた若いヘッドバンガーだった。『Ride The Lightning』30周年を前にして、RollingStoneは、ラーズとカーク、そして彼らがレコーディングしたコペンハーゲンのSweet Silence Studioでプロダクション・アシスタントだったフレミング・ラスムッセンに、アルバムがどのように制作されたのか、今ではどんな位置づけとなっているのかについて話をきいた。


    −『Ride The Lightning』というタイトルはどこから来たんですか?

    カーク・ハメット
    「俺はスティーヴン・キングの小説『The Stand(邦題:ザ・スタンド)』を読んでいたんだけど、そこに出てきた一節で、死刑囚監房にいた男が「稲妻に乗る(ride the lightning)」のを待っていると書いてあったんだ。「曲のタイトルにはもってこいだな」って思ったのを覚えているよ。それをジェイムズに話したら、結局のところ曲とアルバムのタイトルになったんだ。」



    −コペンハーゲンでのレコーディングは、当時あなたの人生のなかでも楽しいことでしたか?

    カーク・ハメット
    「あそこで始めた当初はよかった。でも3、4週間も経つとホームシックになっちゃってね(笑)。3人のアメリカ人と1人のデンマーク人だったから。デンマーク人にとっては適応するのは容易いことだったけど、アメリカ人にとってはそう容易いことじゃなかった。俺たちは少しばかりカルチャー・ショックを経験したんだ。」


    −どうやってホームシックに対処したんですか?

    カーク・ハメット
    「俺たちは音楽に取り組むか、カールスバーグのビールを飲む以外のことは本当に何もしなかった。友だちのアパートでは全てのビール瓶を確実に集めていた。空のビール瓶6本4セットを持って行くと、6本1セットのビールと交換してくれたからね。いったんそれがわかったら、俺たちがやったことはほんの少しのことだった。ホームシックが俺たちにもたらしたのは、正しい量の、こういう言い方したくないけど「絶望」だ。でも俺が思うに、少しばかりの切望がレコーディング過程に向かって進んでいったとも言えるね。」



    −あなたは(友人のアパートでは)良き客人でしたか?

    カーク・ハメット
    「俺たちは泊まった友だちの家を完全に破壊してた。バスタブは詰まらせたし。その友だちはあらゆるバンドのビデオテープのコレクションをたくさん持っていた。ライヴのビデオもね。朝起きたら、一部は俺たちのものとなり、観るためのミュージック・ビデオを選んでいた。スタジオに行き、スタジオから戻り、何かミュージック・ビデオをつけて観る。そしてビールを飲む。それが俺たちがやっていたことさ。」


    −フレミング、メタリカの第一印象はどうでしたか?

    フレミング・ラスムッセン
    「彼らのことについてはそれまで一切きいたことがなかった。しかし、人間として彼らを本当に気に入ったよ。私が働いていたSweet Silence Studioはデンマークでは名高いスタジオだった。私の師匠はジャズに入れ込んでいて、ある日彼が私を脇に連れ出して言ったんだ。「あいつらとはどうなっているんだ?彼らはろくに弾けないぞ」。それで私はこう言ったよ。「どうでもいいでしょう?彼らのエネルギーを聴いてください」とね。」

    ラーズ・ウルリッヒ
    「フレミングは俺たちがやっていることに対して完全に理解を示してくれた。彼はたくさんの音質環境でレコーディングしてくれた。俺たちはヘヴィなサウンドと大きいドラムが欲しかったんだ。」

    カーク・ハメット
    「俺たちはニューヨーク州ロチェスターのローカルなスタジオで『Kill 'Em All』をレコーディングした。あの場所を使っていたかもしれないビッグ・アーティストはデモ録りか何かで使っていたフォリナーのシンガーだったと思ったよ。確かじゃないけど。でも、Sweet Silence Studioにいたときは本当に興奮したよ。だってレインボーが『Difficult to Cure』で使ったところでしょ。あのアルバムのサウンドが俺たちみんな好きだったからね。俺たちのアルバムも似たサウンドになることを目指したんだ。あのスタジオと、(レインボーと)同じエンジニアであるフレミングと一緒にね。」



    −レコーディングを始めたとき、どのくらい曲は完成していたのですか?

    カーク・ハメット
    「『Ride the Lightning』レコーディングの3、4ヶ月前に俺たちは小さな劇場のショーで「Creeping Death」「Ride the Lightning」「Fight Fire With Fire」「The Call of Ktulu」を演ったんだ。これらの曲は90%はできていた。アレンジやギターソロに関してもすでに書かれていたよ。」


    ラーズ・ウルリッヒ
    「83年から84年にかけての12月から1月はニューヨークでぶらぶらしていた。「Fade to Black」は友だちのメタル・ジョー(・キメンティ)の家の地下室でほとんど書いた。」


    −「Fade to Black」「For Whom the Bell Tolls」「Escape」のような曲は『Kill 'Em All』の曲に比べてよりメロディックでスローになっています。何か音楽的に違うことを試そうとしたのでしょうか?

    ラーズ・ウルリッヒ
    「4人一緒に曲を書いたのが初めてのことだったんだ。俺たちの視野を広げるチャンスでもあった。音楽的に何かから決別する意識的な努力があったとは俺は思わない。それは「Fight Fire」や「Trapped Under Ice」を聴けば明らかだ。まだこういうスラッシュタイプの曲もあった。でも、あまりにも(こうあるべきと)制限したり、1次元に留まったりしないように気をつけないと、とは認識していたかな。

    俺たち4人はみんなそれだけたくさんの違いがあった。『Kill 'Em All』の曲はジェイムズと俺とムステインによって主に書かれた曲だった。だからカークとクリフは『Kill 'Em All』の曲のどこにも本当の意味で貢献はしていない。『Ride the Lightning』はクリフとカークの2人がそれに加わるチャンスを初めて得たアルバムなんだ。2人は通った学校も違うし、特にクリフはずっとメロディックなアプローチをするところから来たしね。」



    −コペンハーゲンについてすぐにレコーディングに向かったのですか?

    カーク・ハメット
    「ヨーロッパに出発する直前にボストンで機材をみんな盗まれたんだ。持っていたのは自分たちのギターだけだった。」

    フレミング・ラスムッセン
    「ジェイムズは『Kill 'Em All』のレコーディングのときに改良された特別なマーシャルのアンプを持っていた。(そのアンプも盗まれたため)当時デンマークにいたメタルバンドから全てのマーシャルのアンプを持って来た。全部で9つだったかな、それらをテストするのに初日を費やした。そして『Kill 'Em All』のジェイムズのギターサウンドを実際に再現したんだ。音を強化しただけだけどね。彼は本当に喜んでいたよ。」

    カーク・ハメット
    「特別楽しいとかハッピーな時間じゃなかった。でも素晴らしいスタジオの良い条件でいられたことは嬉しかったね。スタジオ外の全ては困難極めたよ。」


    −クリフはどのようにして「For Whom the Bell Tolls」のイントロの(音階が)下がるベースリフを思いついたのでしょう?

    カーク・ハメット
    「俺とぶらついていたとき、彼はあのリフをホテルの部屋でよく弾いていたよ。弦を緩めることのできるデチューンしたアコースティックのクラシカルなギターを持ち歩いていた。とにかくあのリフを弾いていたとき、俺は思ったんだ。「何て風変わりで無調なリフなんだ。少しもヘヴィじゃないな」とね。彼がジェイムズにあのリフを弾いてみせると、ジェイムズはそれにアクセントを加えたんだ。そしたら突然変わった。クレイジーなリフにね。今でもまだ「あれはどうやって書いたんだろう?」って思うよ。最近じゃ、あれを聴くたびに「OK、クリフがここに登場だ」って感じだね。」



    −曲の始まりの鐘の音はどこから来ているんでしょう?

    フレミング・ラスムッセン
    「スタジオに鉄床があったんだ。ラーズがそれを叩かなければならなかった。あの音でも音響効果のレコードからでもよかったんだ。でも本当に“ヘヴィ”な鋳鉄製の鉄床と金属ハンマーがあった。コンクリートの部屋にそれらを置いた。ラーズはただ(叩いて)ワーンと音をさせるだけだった。」


    −レコーディングは2月に行われました。寒くなかったですか?

    フレミング・ラスムッセン
    「私たちは夜にレコーディングしていたから、ときおり凍えたよ。大きなガスヒーターがドラムの部屋を暖めていたから、ラーズは風邪を引かなかった。ちなみにあのスタジオは今では誰かのアパートになっている。誰かのリビングルームはラーズが実際に座ったところや『Ride the Lightning』をレコーディングしたところもある。驚きだよね(笑)。私なら引っ越すべきだと思うよ。」



    −カーク、あなたがメタリカ以前に所属していたバンド、エクソダスの「Die by His Hand」と「Impaler」のリフが「Creeping Death」と「Trapped Under Ice」にそれぞれたどりつきます。あなたが曲作りの場に持って来たのですか?

    カーク・ハメット
    「いいや。俺が思うに、ラーズとジェイムズがデイヴ(・ムステイン)を追い払おうと考えていたとき、俺たちのサウンドエンジニアでエクソダスのマネージャーでもあるマーク・ウィテカーがエクソダスのデモテープを彼らに送った。そこで「Die by His Hand」が彼らの耳を捕えたかもしれないね。だから「Creeing Death」を書いていて、「いいね、「Die by His Hand」をあれに入れよう」ってなったのかも。明らかに違うのは俺が「エクソダスの曲のリフがここにある。このメタリカの曲にこれを入れる必要がある」ってしたわけじゃないってこと。ちなみにあの「Die by His Hand」のリフを書いたとき、俺は16歳ぐらいだったよ。」



    −バンド全員がスタジオで「Die! Die! Die!」と叫んだのですか?

    フレミング・ラスムッセン
    「クリフはしなかったはずだ。あぁ、クリフかカークだったかな。でも彼らのうちどちらかは口だけ動かして立っていたよ。あるところでチェックするために他の3人が歌わないことにしたんだ。そしたらクリフかカークが何も言ってなかったんだ(笑)」



    −クリフはスタジオではどんな感じでしたか?

    フレミング・ラスムッセン
    「彼はユニークな存在だった。80年代、みんなタイトなパンツを履いてパンクなことをしていた。でも彼はまだベルボトムを履いていた。他人がどう考えようが、彼はちっとも気にしなかったんだ。彼は人間性も本当に素晴らしい、良きミュージシャンであり、良きポーカー・プレーヤーだった。ベーシストとしては、彼は通常のベーシストよりはソリストに近かった。初めて彼のレコーディングをしたとき、私は彼が心地よく感じられるようにあらゆるものを試した。結局、彼のアンプを別の部屋に置いて、ステージの上みたいに彼はメインルームで弾くことになった。スピーカーから音が爆発していたよ。かなりワイルドだったね。(1986年のツアー中にバス事故で)彼が亡くなったのは、悲しい日だった。」



    −レコーディングの中盤でツアーをするために休みましたね。レコーディングに戻ったときどんな感じでしたか?

    ラーズ・ウルリッヒ
    「俺たちが戻ったとき、スタジオで寝なければならなかった。どこかに泊まるような余裕はどこにもなかった。文字どおり4人全員同じ部屋の床で寝泊りしていたんだ。」

    フレミング・ラスムッセン
    「彼らはまだ若いキッズだった。スタジオに寝泊りすることについて何も問題なかったよ。数週間後に彼らが臭ってきたから、シャワーに行けとドヤさなければならなかったけどね。同じTシャツを1週間ぐらい着ていたときには「ほら、新しいTシャツ」「あぁわかった」って。でもおわかりの通り、彼らは子供のようだったが、私はそれを楽しんでいた。夜7時にレコーディングを始めて午前4時か5時まで続いた。だから彼らはただ崩れるように寝るんだ。日中ずっとね。」


    ラーズ・ウルリッヒ
    「マーシフル・フェイトのリハーサル部屋がSweet Silence Studioのすぐ隣にあったんだ。最後の数曲を実際に終えると、俺たちは彼らのリハーサル部屋で『Ride the Lightning』を演ったんだ。「Fade to Black」「For Whom the Bell Tolls」「Escape」とかね。俺たちは間違いなく彼らの大ファンだった。でもそこから友だちにもなったんだ。彼らは俺たちの仲間だった。」


    カーク・ハメット
    「彼らの音楽を聴くと彼らは悪魔のようにとんでもなく邪悪で人間を生贄に捧げる悪魔崇拝者のように思える。だからマーシフル・フェイトに会うことは強烈な体験だった。でも実際はみんなおっちょこちょいのデンマーク人だったんだ。キング・ダイアモンドは少しオーラがあった。でも彼ほど愛らしく、可笑しいヤツは見つけられないよ。」


    ラーズ・ウルリッヒ
    「俺たちはライヴ・ブートレグのテープを聴いていたところで、彼らが話していたんだ。「今、我々はローディを1人加入させるつもりです、そして彼と血を注ぎ出します。そして強大なる闇の主にそれを捧げます。」そんなようなことを言っていた。そしたら突然、ガチョウの羽毛が見えて、ローディから血を注ぎ出すのに使われていたんだ。あれは非現実のことのようだった。でも本当のことだ。それで尊敬しないのは難しいし、あれを称賛しないのは難しいことだね。」


    カーク・ハメット
    「ひところ、俺はマーシフル・フェイトが世の中で最もヘヴィなヘヴィメタルバンドだと思っていた。彼らに俺たちが『Ride the Lightning』の曲を演ったのを思い出すよ。ギタリストのマイケル・デナーが後で俺のところにやってきて言ったんだ。「「For Whom the Bell Tolls」を聴いた後はマーシフル・フェイトが一番ヘヴィなバンドだと思っていた。でも今やメタリカが一番ヘヴィなバンドだ」と。俺はちょっとショックを受けて彼を見たよ。」


    −フレミング、「Fade to Black」のジェイムズのアコースティック・ギターのレコーディングははじめからすんなりいったんですか?

    フレミング・ラスムッセン
    「たぶんたくさんいろんなことをやったんじゃないかな。あるテイクでは、ミステリアスなサウンドを得ようと実際にテープをひっくり返して、テープを巻き戻して聴きながら、彼の弾いているパートをレコーディングした。(『Master of Puppets』の)「Battery」のアコースティックのイントロでもやったね。彼らは(「Fade to Black」で)フェイドイン/アウトするときのエレクトリック・ギターもレコーディングしていた。」


    −「Escape」はキャッチーな曲のひとつで、アルバムのなかでコマーシャルな曲です。しかしバンドとしてはOrionフェスで演奏するまで28年間ライヴで弾きませんでした。シングル曲になるはずだったのですか?

    フレミング・ラスムッセン
    「それについては彼らと話した記憶がある。彼らは小さな独立レーベルにいた。だから(「Escape」をシングルにすることで)メジャーのレーベルを喜ばせて、契約することもできた。幸運なことに彼らは“レコード・レーベルを喜ばせる何たら”を遠ざけていたんだ。」

    カーク・ハメット
    「Orionフェスで「Escape」を演奏したとき、俺たちはなぜあの曲が演奏されてこなかったのかみんな同意したんだ。ライヴで演奏するには本当に素晴らしい曲ではない。「The Call of Ktulu」や「Metal Militia」のようにAのキーが入っているけど、どういうわけかAのキーがしっくりこない。あの曲を演奏することは他の曲より目新しさがあった。でも俺たちはその他の曲をやるのが大好きなんだ。」


    −メタリカがスタジオにいるあいだ、誘ってくるレーベルはありましたか?

    フレミング・ラスムッセン
    「メタリカはあのとき、Bronze Recordsと交渉をしていた。しかし、彼らはレーベルのオーナーの息子のプロデュースで再び全てのレコーディングをさせようとしていた。彼らは言っていたよ。「確かに良い。でも、もっと良いサウンドになる」とね。みんな顔を見合わせて、こうさ「何だって?」。それでレーベルは吹き飛んだ。Bronzeはそれから破産したんだ。」


    −『Ride the Lightning』が1984年7月27日にMegaforce Recordsから発売されました。そしてその後メジャーレーベルであるElektraとサインし、その年の11月19日にリイシューされました。アルバムのよりメロディックな曲への反応について、何を感じましたか?

    ラーズ・ウルリッヒ
    「「Fade to Black」やあのレコードの多様性に異様な反応があった。それは俺たちを少しばかり驚かせたけど、まぁわかるよ。俺たちのことをセルアウトだのそういったタイプのように呼び始めた。アコースティック・ギターが曲中にあるという事実に少し当惑している人もいた。偉大なブラック・サバスもディープ・パープルもアイアン・メイデンもジューダス・プリーストもマーシフル・フェイトも彼らのレコードはそんなパートの宝庫だろ。まさか俺たちが先人の道の後を続いていったっていう事実じゃ誰も驚かせることができないなんてね。」


    −30年経って、あのアルバムはあなたのなかでどのように支持し続けていますか?

    ラーズ・ウルリッヒ
    「もちろん、とても良いと思っているよ。若いエネルギーがレコード中からほとばしってるね(笑)。これらの曲の良いところはいまだに俺たちのライヴセットリストの定番になっている。「For Whom the Bell Tolls」に「Creeping Death」、「Fade to Black」もあって「Ride the Lightning」もある。悪くない打率だ。」

    カーク・ハメット
    「Orionで全曲やれたのは最高だった。あのアルバムは本当に良いよ。あのアルバムのサウンドは大好きなんだ。とってもアナログでね。俺たちのなかで最も暖かいサウンドのアルバムじゃないかって思ってる。『Master of Puppets』をレコーディングするまで、バッシングされた日々は、『Ride the Lightning』な日々よりもずっと少ない。バッシングはいつも俺にとってはより自然なサウンド・パフォーマンスへと通じていくんだ。」

    RollingStone(2014-07-28)

    初めて知ることも多く、非常に長いインタビューですが訳しているあいだ楽しかったです。おそらく別々にインタビューしたのを再構成した記事なのかなぁと思ったのは、「Die! Die! Die!」と歌っていないのは誰かをカークに追及していないところ。クリフとカーク、どっちだったのか非常に気になります(笑)。

    インタビュー内容を踏まえて、アルバムを聴き直して見ると新たな発見があるかもしれませんね。

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