メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:ピーター・メンチ

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    ラーズ・ウルリッヒとメタリカのマネージャー、ピーター・メンチがMusic Weekのインタビューにて、映画『Through The Never』や、2012年と2013年の2回行われたきり再開の目途が立っていないメタリカ主催の「ORION MUSIC + MORE Festival」について語っていました。管理人拙訳にてご紹介。

    ttn_orion

    メタリカはどのようにして芸術的感覚とビジネス的なを両立させるのだろうか?

    ピーター・メンチはこう主張する。「全ては同じ意味合いなんだ。我々はルー・リードとアルバムを制作したが、何のビジネス的な意味もなかった。でも我々はトライした。評論家はあれを嫌っていたようだが、数年前にダウンロード・フェスティバルやレディング・フェスティバルに出て、人々が見に来るのを(批判によって)止めることはなかった。彼らは交響楽団とのアルバム(1999年の『S&M』)もやったし、20年経っても誰もそんなことやっていない。メタリカは今や図太いって観点で言えば、誰も傷つけることはできない。彼らは挑戦できるし、遅かれ早かれ全てはメタリカに返ってくるんだ。」

    そのような賭けの1つが映画『Through The Never』だった。このプロジェクトについてラーズ・ウルリッヒは、メタリカがハリウッドの配給システムを避けようと「噛みつく以上に」食いちぎるところを示したと語る。自己資金で作ったこのIMAX映画は数百万ドルの赤字を出したと報告されている。

    メンチはこう説明する。「私はコンサート映画をやるべきだという考えだった。ジャスティスのツアー(1988年)をした時にたった7歳だった人たちが観たことのないものを再現するべきだと思っていた。バンドメンバーは座ったままこうだ。『OK、それは良い考えのように聞こえるけど、俺たちはその背後に物語があるべきだと思う。』私は『OK、わかった。もっとお金がかかるけど、どれやってみよう。』と言ったよ。我々はそれで何とかやった。素晴らしいコンサート映画だよ。振り返ってみてもそう悪い映画じゃない。いつかはみんなあれを理解するだろう。誰か『あの映画がクソだったから二度とメタリカは聴かないなんて言ってたかい?そうはならなかった。面白くなかったかもしれないし、わからなかったかもしれないが、クソじゃない。」

    同じように大胆なものとして挙げられるのが、フェスティバルへの挑戦だった。2012年、メタリカはアトランティックシティでOrionフェスを開始し、2013年のデトロイト開催へと続いた。数百万ドルと噂される莫大な費用にもかかわらず、ウルリッヒはその復活を否定していない。

    「Orionは俺たちのものだ。」ラーズはそう口火を切った。「相応しい時と相応しい場所で、俺たちは間違いなくあれを復活させるだろう。」

    彼はバンドの思考プロセスを思い出して笑った。「よし!俺たち自身のフェスティバルを始めようぜ!言うのは3.5秒だけど、企画としてまとめるには35億時間かかる。フェスティバルを始めた人はおそらく5年から10年は専念しないとと言うだろう。俺たちはサイコロを振って、身を投じた企画はどちらも最終的には望ましい企画とならなかった。アメリカで2回やったが、どちらも芳しくなかった。ヨーロッパで何かやるかもしれないと話していたと思う。間違いなく復活させるだろうね。」

    Music Week(2017-12-11)

    以前にもOrionフェス復活を語っていたラーズ。ヨーロッパで行うにしてもその他のフェスとどう差別化していくのか企画力が問われるところ。Orionフェスは未経験なので復活となれば、ぜひ行ってみたいです。

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    2011年9月14日にヤンキースタジアムで行われたメタリカ、スレイヤー、メガデス、アンスラックスの“BIG4”によるニューヨーク公演。当時、メガデスのデイヴ・ムステインは首と頸椎を痛めており手術が必要だったため、出演キャンセルとなるはずでしたが、メタリカのマネージャー、ピーター・メンチの一言で参加することになったとのこと。

    dave-mustaine-and-peter-mensch
    デイヴ・ムスタイン(左)とピーター・メンチ(右)

    以下、BARKSの記事から転載。
    ムステインは当時、“長年のヘッドバンギング”が原因で激しい痛みに襲われていた。それを押し切り出演することにした理由をポッドキャスト『The Jasta Show』のインタビューでこう明かした。

    「ヤンキー・スタジアムで“BIG 4”公演をやったとき、俺は首に頚椎カラーを装着し、ゴルフ・カートに乗ってステージへ向かったんだ。ステージには“ヘッドバングはするな”って書いたものを張り巡らした。あの夜、ヘッドバンギングしてたら俺は死んでたかもしれない。なんたって、俺はその2日前、緊急手術室にいて、首のオペを受けるとこだったんだから。で、そのとき、マネージャーのMark Adelmanに電話してこう言ったんだ。“俺はすでにメタリカ、アンスラックス、スレイヤーとプレイしてる。NYでもプレイしてきた。野球のスタジアムでもだ。だから、この公演は俺にとって何も目新しいところはない。それに、緊急手術受けなきゃならないから、キャンセルしないとな”ってね。それで、Adelmanがメタリカのマネージメントにそれを伝えると、あの野郎なんて名前だっけな、ディックとかピーターとかいう奴だ…、ピーターだ! そいつが、俺のこと女々しいって言ったらしいんだ」

    「だから、俺は“よし、わかったぜ。切り上げる。俺はNYへ行く”って言って、首に山ほど注射してもらい、頚椎カラーを着けて、飛び立った。で、プレイして戻ってきたんだ。このことはそいつ以外誰も知らないと思ったね。ホントに女々しいのは誰かってんだ」


    ムステインはこの公演前、『Rolling Stone』誌に「俺は神を信じている。彼が守ってくれるはずだ」と話していた。

    手術から5年以上が経過し、首の調子は悪くはないが、ムステインはいまでもヘッドバンギングには要注意。彼いわく、メタリカのジェイムス・ヘットフィールドやスレイヤーのトム・アラヤも過去に同じ手術を受けており、それぞれツアーに支障をきたしたはずだという。

    BARKS(2017-12-06)

    管理人はこの公演に行っていたのですが、メガデスは体感的にもかなり短い公演でした。当日のメガデスのセットリストはこちら。
    01. Trust
    02. Hangar 18
    03. She-Wolf
    04. Public Enemy No. 1
    05. Head Crusher
    06. A Tout Le Monde
    07. Sweating Bullets
    08. Symphony of Destruction
    09. Peace Sells
    10. Holy Wars... The Punishment Due
    デイヴはMCで、1週間前にケガを負ったこと、本当ならライヴを出来る状態じゃないけど、キミたちのために演るよと語っていました(と言っても当日はこのMCが聞き取れず、全てを知ったのは翌日の新聞を読んだ後のことでしたが)。メガデスが短くなった分、後にステージに上がったスレイヤーが14曲を披露しました。

    2010年6月のSonisphere Festivalで始まったBIG4公演は、デイヴ自身が出演を決めるまで「何度も行きつ戻りつした」と後のインタビューで語っており、イベントとして決まるまで紆余曲折を経ていたようです。そんな経緯もあり、BIG4最後の公演となったニューヨークで出演キャンセルを伝え聞いたピーター・メンチが「女々しい(原文ではPussyなのでもっと強い表現かも)」と思わず口走ったのかもしれません。

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    デイヴ・ムステイン、『No Life 'Till Leather』の公式CD化が破談になった理由を語る

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    11月5日にニューヨークで行われたインタビューでラーズ・ウルリッヒが90年代のグランジ・ブームやマスター音源を自分たちの手に取り戻したことについて語っていました。管理人拙訳にてご紹介。

    lars_2017_

    −90年代のグランジのブームが与えたメタリカへの影響について、ストレスに感じたことはあるのか

    いいや、何よりも刺激的だったよ。メタリカで良いところって、いつも完璧に自立していると感じるところなんだ。俺たちが何かに属していると感じたことはない。だからその良いところっていうのは、何にも属していると感じたことがないってことで、他で何が起きようとも、まだ自分たちの世界のなかでちょっと何かが終わったと感じるだけ。それでそういう(周りで起きていた)ものが霧散したとき、俺たちはその一部になることはなかった。俺たちは今こうして自分たちのことをやっている。

    アリス・イン・チェインズが大好きで、最初の2枚のレコードは91年から92年のあいだ、俺のCDプレイヤーから離れることはなかったね。1992年に俺が聴いていたのはアルバム『Dirt』だけだったと思うよ。ニルヴァーナも大好きだし、サウンドガーデンの最初の数枚のアルバムは触発させるものがあった。だからそういうものに対して脅威とは
    全く感じていなかったよ。

    alice-in-chains-dirt
    Dirt


    −自立的というテーマからマスターテープの所有権についての重要性を語るラーズ

    (メタリカのマネージャー)クリフ(・バーンスタイン)とピーター(・メンチ)は最初の20年のキャリアの終わりにおいて主な報酬がマスター音源だと予見するには十分なほど賢かった。つまりマスター音源、レコーディング・テープ、レコードだ。

    自分たちのレコードの所有権を得るってことが、みんなにはちょっと奇妙に聞こえるのもわかるよ。「じゃあ前は誰が所有してたんだ?」ってね。それはレコード会社のものなんだ。レコード会社は基本的に・・・レコードを制作するためのお金を支払ってレコードの権利を所有し、そこから永遠に所有し続ける。だからピーターとクリフは言ったんだ。「よし、マスター音源を自分たちの手に取り戻そう」当時は(マスター音源を持っているアーティストは)本当に誰もいなかったんだ。(ブルース・)スプリングスティーンとか、プリンスとか、そのレベルのアーティストぐらいなものだ。でもそれが俺たちが求めようとしたものだった。

    いや驚いたことに、俺たちはマスター音源を取り戻すことができた。だからメタリカが5年だか7年前に自分たちのレコード会社となったとき、突然俺たちのビジネスモデル全体が変わったんだ。今、全てを自分たちで実行しなければならないからね。

    だから俺たちは北カリフォルニアに拠点を置いて、そこでこれまで以上に管理してくれるたくさんの人たちがいて、HQと呼んでいる傘下に素晴らしい人たちが住んでいる。それが俺たちのレコード会社であり、ツアーやマネジメントのスタッフがいる。俺たちのマネージャーのQプライムはここニューヨークに大きなオフィスを持っている。LAにもスタッフがいるよ。

    ビジネスの観点から、全てのやり方で貫かれているものがある。それはつまり「自立性」ってこと。俺たちは自由で自立的であろうとしている。メタリカにとって、そして自分たちの進む道にとって、何が正しいかってこと以外のことで意思決定をするなんてないんだ。

    BLABBERMOUTH.NET(2017-11-14)
    UltimateGuitar(2017-11-17)

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    ラーズ・ウルリッヒ「5年後には次のアルバム制作に没頭できていればいいなと思っている」

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    レコードストアデイ関連企画としてラーズ・ウルリッヒが「BBC Radio 6 Music」にてレコード店に関するインタビューに答えていました。BLABBERMOUTH.NETさんの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    larsulrich_2016_rsd

    −レコード店との出会い

    俺はデンマークの家族のもとに生まれた。基本的には、親父が音楽に熱中していて、レコード収集に没頭していた。実際、デンマークの新聞なんかで親父はパートの音楽評論家だったんだ。だから覚えているよ、俺が小さい頃、親父と一緒にレコード店に行ったのも。コペンハーゲンの中心部にある店は特にね。10歳か11歳の頃に自分でレコード店に行ってイギリスのたくさんのシングル盤とかステレオ盤 (45-45方式)を買い始めた。それから73年、74年、俺が11歳だか12歳の頃には、アルバムとかそういうものを全部買い始めたよ。コペンハーゲン中心部でレコード店に行って、レコードを見て、店でレコードを聴いて、店の人たちと会話する。世界へ旅しているようで一番エキサイティングなことだったんだ。レコード店は扉、つまりすべての音楽への入口だったね。

    −なぜレコード店がメタリカにとって意義深いのか

    レコード店はいつだって俺の人生にとってとても重要な場所なんだ。メタリカはいつだって間違いなく自主自立であろうとしてきたし、先端であろうとしてきたし、そんなような・・・つまり、あまり詩的表現にならないように言うならば、現状を打破しようとしてきたし、デカい池のなかの小さな魚であろうとしてきたわけだ。だから身近にある独立したレコード店を支援して、その価値を声高に叫ぶことに俺たちはとても満足しているよ。


    −レコード店が生き残ることは全てのアーティストにとって重要だと考えているか

    俺が思うに・・・1人のアーティストとしてだけじゃなく、みんなにとってもレコード店が生き残ることは重要だよ。俺には3人の子供がいるけど、1人は去年か2年前頃からビニール盤に手を出し始めた。北カルフォルニアにある地元の大きな2つのレコード店、アメーバ・ミュージックとかラスプーチン・ミュージックとかに行っているよ。1人のアーティストとしても重要だと思うし、1人の音楽ファンとしても、とりわけ特定の文化に関する1人の目利きとしても重要なんだ。人間の繋がりがね。

    −最初に買ったアルバム

    最初に買ったフルアルバムはディープ・パープルの『Fireball』。あれを1973年の2月にコペンハーゲンで彼らの公演を親父と観に行った次の日に買ったんだ。あの当時、俺が買っていたもののほとんどは当時のイギリスで出たものだった。スレイド(Slade)、ステイタス・クォー(Status Quo)・・・アルバン・スターダスト(訳注:イギリスのグラムロック・シンガー)、マッド(MUD)(訳注:イギリスのグラムバンド)みたいなやつでも買っていた。それが最初に買っていたものだね。

    −アルバムを買って、最初から最後まで聴くことについて

    人はこれまでより注意力が続くのが短くなってきていると思う。でも、どう育てられ、どう育ってきたか、成長期にしてきた体験によって(注意力が)保持される傾向にあると思う。レコードを回して、15分や20分の価値がある音楽を座って傍で聴くということは、間違いなく俺が育てられたやり方だ。だからこういう類の体験をいつだって大切にしているんだ。

    BLABBERMOUTH.NET(2016-04-29)

    ラーズがレコード店の重要性を叫ぶ一方で、マネージャーのピーター・メンチがYouTubeなどのオンラインの動画配信事業について批判的な発言をして話題を呼んでいました。

    メタリカのマネージャーが「YouTubeは悪魔だ」と痛烈に批判
    http://jaykogami.com/2016/05/13071.html

    NMEでも取り上げられていたこの話題をピーター・メンチ、YouTube双方の意見について分析的に論じられています。音楽ビジネスのあり方については、YouTube以前にもナップスターで散々語られてきたところがありますが、変容激しい現在では全てのアーティストに通ずる正しい在り方など存在せず、アーティストそれぞれの最適解をみつけるしかなさそうです。

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    メタリカがナップスターを訴えてから早14年。
    ファイル共有サービス「Napster(ナップスター)」の盛衰を描いたドキュメンタリー映画『Downloaded』の予告映像が公開

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    なかなかメタリカのニュースに追い付けていませんが、取り急ぎのネタをひとつ。メタリカの「One」のミュージックビデオにも使われている映画「ジョニーは戦場へ行った(原題:Johnny Got His Gun)」がNHK BSで放映予定とのこと。

    放送は1月29日(金)午後11:45〜1:38

    johnny_got_his_gun

    「究極の孤独とは社会とのあらゆる接点を断たれることではないか?」という疑問から始まった「One」の制作過程で、メタリカのマネージャー、ピーター・メンチがメタリカにダルトン・トランボによるこの映画の原作小説を渡してイメージが広がったとか。1971年に映画化され、前述のとおり「One」のMVで映像の一部が使用されています。

    映画の概要については、NHKオンラインから引用。

    「栄光への脱出」「ローマの休日」で知られる名脚本家ダルトン・トランボが、自身の小説を映画化。第一次世界大戦に参戦し、両手足、耳、目、口までを失ってしまった青年ジョー。軍医長は彼を生きているだけで意識のない存在としてあつかうが、ジョーにははっきりとした意識があった。カラーとモノクロームの映像を効果的に使い、人間の尊厳と戦争の愚かさを描いた作品。カンヌ映画祭審査員特別グランプリほか受賞。

    NHKオンライン

    ちなみに1989年1月23日は、「One」のMVが公開された日としてメタリカのFacebookページでMVが紹介されています。また、このMVには通常版の他、映画の映像が使われていないJammin' Versionが存在します。

    Metallica - One [Official Music Video]


    Metallica - One [Jammin' Version]


    cowboybluesさん情報提供ありがとうございます。

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    グラミー賞2014にてメタリカ&ラン・ランで「One」を共演。
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    ラーズ・ウルリッヒ、ガレージからグラミーへ(2)

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章6回目。ジェイソン・ニューステッドの経歴とメタリカとしてのデビューライヴについて。有志英訳を管理人拙訳にてご紹介。

    metallica1986

    ジェイソンは当初、慎ましやかな新しい家としてリハーサルルームで「Jeppe on the Mountain」(訳注:17〜18世紀のデンマークの劇作家ルズヴィ・ホルベアによって書かれた喜劇)のように寝起きすることに満足していた。1年前、フェニックスの州立劇場でメタリカがコンサートを行った際、彼は最前列近くに立って友人とモッシュピットで暴れていた。それが今やバンドと共に日本に旅立とうとしているなんて!

    間違いなくジェイソンはただの熱心なファンではなかった。とても音楽に没頭していたし、キッチリ練習を重ねていたし、バンドを組む経験もしていた。実際に彼はフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam And Jetsam)で作曲と作詞の両面で立役者となっていたのである。それは間違いなくラーズ・ウルリッヒのベストスタイルであった。ラーズもまたプロモーター、出演交渉担当者、その他もろもろの役割を務めていたのだから。

    ジェイソンが音楽や新しいバンドのためにやってきたことは、彼自身の非常に本格的な音楽との関わりによってなされてきたことだった。ジェイソン・ニューステッド(ミシガン州バトルクリーク出身1963年3月4日生まれ)はミシガン州の馬の農場で育った。その場所は音楽を演奏する上で大きな役割を果たすこととなる。ニューステッド家は音楽をよく聴き、地元の劇場でよくミュージカルを観に行く家庭だった。

    ジェイソンは学校でサックスを吹き始め、その学校でロックとも出会った。彼が初めてベースとアンプを手にしたのは13歳で、初めてレッスンを受けたのは16歳の時である。ジェイソンの兄弟も音楽を演奏していたが、そのほとんどがミシガン地域では重要な遺産と伝統であるモータウン・ミュージックだった。

    ジェイソンが10代の頃、ミシガン州カラマズーに引越してから、ヘヴィメタルが彼の耳を捕らえ始めるようになった。当時のほとんどの若者と同様、キッスに強く惹かれていった。ジェイソンの初めての「バンド」は、ただキッスをプレイする4人の若者で構成されていた。数年後、彼は気がつくとテッド・ニュージェント、AC/DC、そして当然キッスといったパーティーロックを演奏していた。バンドの名前が家で叫ばれることはなかったが、我々はこう呼んでいる。ギャングスター(Gangster)だ。

    ギャングスターのリーダー、ティム・ヘルムリンを手本として、ジェイソンはロックの楽しさを経験したいと決めた。ヘルムリンとバンを借りて出発した。この旅の最終的なゴールはロサンゼルスだったが、ジェイソンは天使とグラムロックの街へとドライブを行うことを途中でやめ、結局フェニックスに落ち着いた。

    10月下旬のことだったが、ミシガン出身のフェニックスに落ち着いた少年は頬に熱い砂漠の風を感じていた。街で何人かの若い仲間に出会うことも出来た。ジェイソンは大したお金も持っていなかったが、サンドイッチのお店で仕事をみつける。そしてすぐにドラマーのケリー・デヴィッド・スミスと共にパラドックス(Paradox)というバンドに入る。しかしそれも真剣なものではなく、そのハチャメチャにスウィングしていたグループは、新しいバンド、フロットサム・アンド・ジェットサムに見いだされた。そしてジェイソンはケリーと共にスコッツデールに移り住んだ。(フェニックスでも最も裕福な層が住み、テニスやゴルフ場で知られる。さらにアリス・クーパー、ロブ・ハルフォード、そしてあのデイヴ・ムステインといったハードロックの住人がいることでも知られている。)

    ジェイソンは、フロットサム・アンド・ジェットサムとしての活動はブライアン・スレイゲルのメタル・ブレイド・レコーズからアルバム『Doomsday for the Deceiver』(1986)をリリースして終わった。フロットサム・アンド・ジェットサムで最後のギグをハロウィンに行い、その数週間後、カリフォルニア州レセダ・カントリークラブで300人を前にバンドの忠実な友人であるメタル・チャーチというサポートバンド付きでメタリカとしてデビューしたのである。

    その夜のカントリークラブでのメタリカは緊張で張り詰めていた。もちろん、特にジェイソン・ニューステッドにとっては。実際、ジェイソンには重要かつ命運を左右するテストが残されていた。技術的にもパフォーマンスに関しても、両面伴ったライヴを行えるのかと。(必要なことは)昔から激しいバンドの崇拝者であり、ファンでさえあった楽曲のタイトなビートを保つだけではなかった。クリフ・バートンはステージ上では真の怪物であったし、ほとんどの点でクリフが優れていることをジェイソンは知っていた。彼は1年半前にフェニックスの州立劇場でのショーに行き、クリフがショーを引っ張っているのを目にしてさえいたのだ。

    クラブに詰めかけた300人のうち、ブライアン・スレイゲルも間違いなく胸のつかえを抱えていた。彼は有望なバンドのひとつのリーダーをヘッドハントしたのだ。だからこそジェイソンはわざわざより良いとされるメタリカと共にしたいと思ったのである。

    「ジェイソンは私の生涯見てきた人物のなかでも最も神経質な方だった。」スレイゲルはそう語る。「彼はおびえていた。これは彼のオーディションだった。彼はバンドにいたが、私はこれが彼が充分に足るかを知るための通過しなければならない最後のテストなんだと思った。」(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    それはバンドもほぼ間違いなくわかっていた。ラーズはこの次のメタリカファンクラブ会員に向けたニュースレターのなかで、このショー全体の雰囲気について言い表していた。

    「このショーを通じた雰囲気は、俺たちみんなクソ緊張していたってこと。でもエネルギーに関しては、このギグはこれまでやってきたなかでも最も楽しいものがあったよ。」

    数日後、メタリカはアナハイムの小さなクラブ、イザベルズ(Jezabelle's)でも同じようにプレイした。このときはゲストにデンマークからフレミング・ラスムッセンが来ていた。

    「私が事故以来バンドを観たのは初めてだった。ショーはそれはそれはクールだったね。」フレミングは熱を帯びて17年後にそう振り返った。

    メタリカにはまだ熱意の余地があったが、バンドを続けていくことを余儀なくされた過程でのことである。カウンセリングもセラピーも無かったことに加えて、いつも音楽表現が付いて廻っていた。そして今度、メタリカは日本へのロードに向かう。「Damage Inc.」ツアーは再びトラックに戻り、スウェーデンの悲劇からわずか6週間。しかしこれはバンドに強制されたものではなかった。それは彼らが望んだことだったのだ。

    ピーター・メンチは9月27日早朝、サウンドエンジニアのビッグ・ミックの電話で起こされた。こう説明する。「間違いなく私はそのメッセージに愕然としたよ。コペンハーゲン行きの飛行機を取り、スウェーデンまで運転した。恐ろしいことだったが、このような状況下でどう振舞うべきか話したんだ。プレスリリースを発行し、それから新しいベーシストを探した。今振り返ると、1年間は議論しているかもしれないね。でもバスに乗っていた誰かがそうすべきと私に言ったとは思わない。サウンドエンジニアのミックでさえ、私に言ったことは我々がすぐにツアーに戻っていなかったことへの後悔だった。我々は葬儀に行って、なすべきことをした。そしてバンドをやめようとはしなかった。それが全てだ。」ピーター・メンチはそう語った。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    メタリカとしての初コンサートを迎えたジェイソンを写した写真など。

    http://eddiemalluk.photoshelter.com/gallery/METALLICA-1985-1986/G0000qc96ffJ8u0M/C0000toV.S5Y1s2k

    そして、ジェイソン加入から2回目のショーとなったアナハイムのイザベルズ(Jezabelle's)の公演もブート映像が存在しており、ほぼYouTubeで視聴可能です。音響システムのトラブルに見舞われていますが、とにかく凄まじいエネルギー量です。


    次回はメタリカ初来日の様子など。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章4回目。クリフが亡くなった後、バンドの継続を決断するメタリカ。有志英訳を管理人拙訳にて。

    ジェイムズとカークが酒に酔い、悲しみ、絶望、そして怒りを叫んでいた頃、ラーズは静かにショックと痛み、そして想像を絶する事態に対処しようとしていた。ゆっくりと容赦なく重苦しい時間が9月の日々を暗く覆っていくなか、ラーズは会ったばかりの女性、デビーについて考えていた。

    「クリフが死ぬ2週間前に、ロンドンのナイトクラブで彼女に出会った。彼女はいつも一緒にいたんだ。」ラーズはそう語る。「彼女は最悪であり最高だった。俺はそれまで深夜のお出かけに本当についてくるような女の子に出会ったことはなかったんだ。彼女は完全に夜型人間だったし、ルートビアやら何やらよく飲んでいた。だから彼女はえらく調子がよかった。事故の前、イギリスのツアーのあいだ、何回か俺のことを訪ねてきた。あのひどい事故が起きた後、彼女は叔父のヨルゲンと叔母のボーディルと数日間滞在していたコペンハーゲンまでやってきて、一緒にいてくれたんだ。それで俺がアメリカに戻る時、デビーに一緒に来てくれるか尋ねたんだ。なぜなら・・・彼女が必要だったからね。」

    暗闇の中の一筋の光だったのだろうか?ラーズは確かにデビーをサンフランシスコに連れて行った。近くのノース・ビーチの雰囲気漂う、サンフランシスコのストックトン・ストリートのアパートにこのカップルは移り住んだのだ。そしてジェイムズも同時期に近くに越してきた。

    ラーズ、ジェイムズ、カークが直面したような個人的な難局に、誰もが生まれつき対処できるようにはできていない。彼らは23歳の少年で、(バンドとして)始動したばかりのあいだは厳しく困難な状況ではあったが、このツアーに向けた最初のリハーサルの日から大抵は大いに楽しいものだった。バンドは芸術的に、創造的に、かつ商業的に彼らのやり方でここまでやってきた。バス事故は単純に存在そのものへの問いを投げかけられた。メタリカを続ける価値はあるのだろうか?と。

    Qプライムのパートナー、バーンスタインとメンチはそういった悲劇を伴う経験を実際に味わっていた。ピーター・メンチは1980年2月の破滅的な朝、AC/DCと働いていた。それはリード・シンガーのボン・スコットがロンドンで夜に深酒をした後、車のバックシートでアルコール中毒で死んだ時であった。また1984年の大晦日には(デフ・レパードの)ドラマー、リック・アレンが交通事故に遭い、前述の通り片腕を失うという事態も経験していた。AC/DCとデフ・レパードはすぐに再結成をし、大きな成功を収めた。そのうえ、(AC/DCの場合)続いて出したのが『Back in Black』という名盤である。Qプライムのパートナーたちの考えは、メタリカにも至急同じことをしてもらうことだった。

    クリフの葬儀の前日、ジェイムズとラーズとカークはサンフランシスコでバーンスタインとメンチに会った。このミーティングは、メタリカを続けていくべきかどうかよりも彼らがどう前に進んでいくのかについて話し合われた。この感情的で苛立たしい期間の真っ只中で、スケジュールとタイムテーブルのプログラミングにあてたラーズの焦点はバンドを助けることになる。こうしてラーズとメタリカは、忠誠心が極めて強いファンがいる、伝統的にヘヴィメタルが愛されている国、日本で初めてのツアーのブッキングを(とりやめずに)継続することにした。未来都市、東京の渋谷公会堂で初めてのコンサートまで半月もなかったが、ツアースケジュールを変えることなく、彼らは新ベーシスト問題に対する明確な期限を持つことにもなった。

    クリフ・バートンという傑物が埋葬される前日に彼の代わりについて考えるというのは皮肉に見えるかもしれない。しかし残されたメタリカの3人のメンバーにとって、「メタリカ」の話題は、単にバンドとして生き残ることだけでなく、彼ら自身の精神的健康を保つことでもあったのだ。バンドは彼らの人生そのものであり、クリフの存在も同様だ。そしてこの向こう見ずな男は同じ状況になったら一番にメンバーを励まし元気付けたことだろう。

    ラーズが直後にマスコミに説明したように。「俺はクリフのことをわかっている。バンドのメンバーの誰よりもクリフが、まず俺たちに蹴りをいれるだろうし、俺たちが手をつかねて何もしない状態でいることを彼は望まないだろう。それが彼が望んでいることだと思う。」

    ラーズは、騒々しいヘヴィメタル・トリビュートであるバンドの1stアルバムについて言及していたのかもしれない。アルバムA面の終わりには、歪んで生々しいにも関わらず、卓越したクリフ・バートンのベースソロ(Anesthesia (Pulling Teeth))が超高速曲「Whiplash」の前に収録されていた。「Whiplash」の最後の節は、初々しい83年の春、そして悲劇的な86年秋当時に、バンドがどうであったかについて説いていた。

    The show is through, the metal's gone, it's time to hit the road
    Another town, another gig, again we will explode
    Hotel rooms and motorways, life out here is raw
    But we'll never stop, we'll never quit, 'cause we're Metallica

    ショーが終わってメタルは去った 旅立つ時が来たようだ
    他の場所 他のギグで また爆発してやる
    ホテルとハイウェイの繰り返し 荒れ果てた暮らし
    でも止まらねぇ やめやしねぇ だって俺たちはメタリカだから


    クリフの葬儀は10月7日に執り行われた。まずフォーマルな葬儀が行われ、数日後に音楽の探求のために使っていた彼の愛した場所、マックスウェル・ランチで非公式な集まりが催された。クリフの遺灰が山盛りに置かれ、出席者がそれぞれ遺灰を一掴み取って、彼に言い残したことを言いながらマックスウェル・ランチに撒いた。

    クリフ・バートンの後継者を見つけるのは簡単なことではない。どんなに音楽的能力と人間力が素晴らしくとも、クリフ・バートンの後継者となるのは確かに簡単なことではなかっただろう。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    ラーズが救いを求めたデビーという存在。下世話ながらデビーとされる写真を2つ(真偽不明)。後にラーズは、このデビーと結婚することになります。

    debbie-ulrich-pictures
    Metal Injectionより

    lars-ulrich-debbie-ulrich
    cinemarxより

    次の項は後任ベーシスト、ジェイソン・ニューステッドの登場です。続きはしばらくお待ちください。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章3回目。メタリカの歴史に触れるならば、避けて通れないあの事故について。有志英訳をさらに管理人拙訳にて。

    歴史的にヘヴィな日曜日となったDyrskuepladsen(ロスキレ・フェスティバルの会場地)まで話を戻そう。ロスキレ・フェスティバルのコンサートはいろいろな意味で境界線を超えた。フェスティバルの歴史、そして背景を考慮しても。しかし、それでもここデンマークの大衆にメタリカの実質的なブレイクはなかった。メタリカはまだロスキレ・フェスティバルのメインステージのような巨大なシーンのなかでは、あまりに騒々しくあまりに異様だったのだ。だがメタリカのパフォーマンスは、ヘヴィメタルへのプログレッシヴなアプローチを大きく発展させた、間違いなく絶対不可欠な表明だった。このコンサートとメタリカの存在感自体が、新たなスピードメタル文化の勝利となったのだ。

    そしてこの勝利は続いていった。ショーというショーがこの年の残りを埋めていき、もちろん若いデーン(訳注:ロスキレ・フェスの観衆のひとりと思われる)はバンドの次のデンマーク訪問についてすでに知っていた。彼はロスキレ・フェスのことから話すことにした。「9月27日に(デンマークの)サガで会おう。」半分は熱狂的、半分は大口を開けて呆然としていた、信頼のおけるDyrskuepladsenの観衆に向かってラーズは叫んだ。そこにはライヴ前のサウンドチェックの時間からメタリカを観ることのできた、昔からのファンもいた。

    実際、メタリカはデンマーク再訪問への道のりはすでに順調であったし、このサガのコンサートもすぐに完売することとなった。メタリカはアメリカでのオジーとの「Damage Inc.」ツアーを終わらせて、それからイギリスでツアーを行わなければならなかった。しかし、オジーのツアーが8月3日のヴァージニア公演で終わろうとする1週間前に、インディアナ州エバンズビルのメスカー円形劇場(The Mesker Amphitheatre)で、ジェイムズはバックステージでは欠かせないスケートボードでふざけて遊んでいたところ、ボードから滑り落ちた。彼は腕を負傷し、残りの3人のメンバーは15,000人の期待に満ちたメタルファンの前でステージに歩み出て、その夜のショーは行えないことを発表しなければならなかった。

    「あれは俺がステージ前に飲まなきゃやってられなかった初めての出来事だった。」ラーズはそう語った。彼が話し出すとすぐに、3人のメンバーたちは強烈なブーイングと罵声の悲しき受け手となっていた。

    逆に言えば、観衆の反応は良い兆候でもあった。メタリカが、ヘッドライナーの大御所オジーを観るために支払った価格の重要なパートであり、呼び物であったことが明らかにそこに表れていたのだ。しかし最も重要なのは、バンドとQプライムが今やとても緊急の問題を抱えていたということだ。メタリカはアメリカにおけるメタルの大観衆のあいだで大きな飛躍を遂げようとしていた。オジーとのツアーはもう残り数週間しかなかった。その直後には半月のヨーロッパツアーが彼らを待っていた。その後には初来日公演があった。

    リズムギタリスト無しのメタリカのステージ?不可能だ!

    オジーはこう叫んだ。「レッツゴー、ファッキン、クレイジーーーーーーーー!エバンズビル!!」その声の限りの絶叫はメスカー円形劇場のステージ、メタリカ、そして病院から戻り包帯で巻かれたジェイムズ・ヘットフィールド、そして横に座っていたバンドのギターテクで以前のツアー仲間だったメタル・チャーチのジョン・マーシャルにも聴こえた。ジョンはステージ経験もあり、メタリカの曲も知っており、すでにツアー全日程にブッキングされていた。そう、ジョンは第5のメンバー、そしてリズム・ギタリストとして参加する準備はできていたのだ。

    バンドの次の公演となったナッシュビル、テネシーを乗り切るため、ジョンは集中して車の中で『Master Of Puppets』を聴いていた。ジェイムズの泊まっていたハイアット・リージェンシー・ホテルの部屋でも、メタリカとのコンサート・デビュー前に最後の手がかりを掴もうとしていた。

    「でも俺はジェイムズのようには弾けなかったよ。違って聴こえるんだ。ローディーとして、俺は一日に4、5時間も練習できなかった。ギターをチューニングして、5分演奏するんだ。」ジョン・マーシャルは後にこう説明している。(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    メタリカ活動初期のメンバー変遷のなかでジェイムズが(ギターを弾かずに)歌うのみだった5人編成はあったが、ナッシュビルのショーでは完全に別問題の話だった。バンドの観客はもはや2桁ではない。5桁なのだ。ジョンはもちろん緊張していたが、この束の間のラインナップ変更はこんな自体を予期できなかったであろうラーズにとって最も困難だったかもしれない。メタリカがブレイクを果たすツアー最後の前夜と紛らわしいほど似ていた。彼は5人編成を続けていくことをとても心配していた。数回のコンサートを経てようやく実際にこれでいけるとわかったのだ。

    ヘレルプの時計がラーズの頭のなかでチクタクいっていたが、オジーのツアーは計画通りに恐れていた失敗をすることなく終えることができた。ラーズが練っていたメタリカの計画の中、運命の待ち伏せは回避されてきた。また、医者はジェイムズの腕が9月10日に(ウェールズの)カーディフから始まるメタリカのヨーロッパツアーには間に合うよう治癒すると考えていた。全てが順調に調整されたツアースケジュールに従うことができた。

    オジーとの最後のコンサート後、ラーズとバンドは5週間の素晴らしい休暇を楽しみにしていたはずだった。ジェイムズの事故はさておき、メタリカにとっては素晴らしい春であり、クールな夏だった。今や国際的な少年は、待ち受けるツアーに責任を持ち、残りの夏を最高の思い出の地、イギリスで楽しもうとしていた。

    ツアー開始前にラーズとジェイムズとマーク・ウィテカーはメタリマンションを発ち、8月初旬にラーズはマネージャーのピーター・メンチの家を仮の宿として一ヶ月過ごした。

    「あぁ彼は私と一緒に住んでいたんだ。」ピーター・メンチはそう振り返る。「彼はイギリスにやって来て、一緒にうろついていた。つまり彼が起きたら一緒に出かけていたんだ。彼は朝4時に完璧に酔っ払って家にやってきた。私は毎日気にかけながら仕事をしていたよ。私はバンドのマネージャーだからね。」メンチはニューヨーク仕立ての皮肉を交えてそう付け加えた。

    ラーズは残りの夏のあいだ、ロンドンのナイトライフを楽しんでいた。しかし、キッチリと描いていた彼の計画の道筋は狂ってしまった。ヨーロッパツアーの日程が近づくと、12日間のツアーのうち最初の10日はジェイムズがギターを弾くことができないことが明らかとなった。幸いなことに適切な緊急策として、ジョン・マーシャルがメタリカのステージセットの大きな十字架の近くを控えめに陣取って、ウェールズとイングランドに渡る「Damage Inc.」ツアーは継続された。

    ジョンにとって、ローディーに加えてギタリストという役割が倍増したことで実入りの良い仕事となったが、彼は同時に糖尿病と戦っていた。それは定期的なインスリン注射が必要であることを意味していた。彼はボロボロに燃え尽きており、「Damage Inc.」ツアーの最後のコンサートが日本で行われたらすぐに11月で全ての仕事をやめようと決めていた。

    ツアーがヨーロッパ大陸まで至ると、ジョンとメタリカにとって良いニュースができた。ジェイムズ・ヘットフィールドは3ヶ月ぶりにギターの演奏を再開し、9月26日の金曜夜に行われたストックホルムのソルナ・ホールのステージにバンドが立った時にはモチベーションは最高だった。

    「あぁ、ジェイムズがリズムギターを再開した最初のショーだったんだ。あれは本当にクールだったね。」ラーズはそう話す。

    メタリカの列車は再びレールの上に戻った。ロスキレ南部の、あの記念すべき日曜夜に約束したように、9月27日の土曜夜にサガでプッキングされていたのだ。ラーズと元に戻ったラインナップは(サガ公演翌日の)日曜夜にコペンハーゲンに行くことを考えて幸せ一杯だった。日曜日はハンブルグに向かう前に一日オフだったのである。

    ツアーバスはストックホルム北部のソルナから深夜に運転されていた。それはジェイムズがいつもの寝台で寝なかった例外を除けばいつも通りだった。彼はいつもクリフの隣の二段ベッドの上で寝ていたが、このルートではドラッグ(の煙?)を避けるために他の場所に移動していたのだ。

    イギリス人の運転手が車の制御を失ったのは、ユングビューの小さな町に差し掛かった朝6時頃のことだった。ラーズがこのエピソードで覚えていることは次の通りだった。

    「俺は寝ていたんだ。それからもう眠れなかったよ!バスは停まっていて、横転していた。寝ていた時に何が起きたのか本当のところはわからない。でも俺は古き良きハリウッド映画みたいにバスが爆発する前に逃げなきゃって思ったんだ!だから俺は現場から森に向かって駆け出していったんだ。あの忌々しいバスから遠く離れて無事止まって振り返るまで走って走って走りまくった。何の爆発もなかった!だからバスに戻っていったんだ。そして他の人たちと落ち合った。1人、2人、3人、4人、5人とね。1人はちょっと足を引きずっていたし、もう1人はあちこちに痣ができていた。でも大きなケガとかそういうのはなかった。奇妙に思った唯一のことは、もちろん、俺たちの中にクリフがいなかったことだ。それから救急車が来て、病院まで運ばれて診察された。俺はかかとつま先の3分の2が損傷していると言われたよ。俺が覚えているのは、ジェイムズと俺が診察室のベンチに座っていると、スウェーデン人の医師がやってきてこう言ったんだ。「キミたちの友だちのひとりは助からなかった!」俺は彼が「キミたちの友だちのひとり」と言ったことを奇妙に思っていた。クリフはただの「ひとりの友だち」以上の存在だったから。医者がクリフ・バートンが死んだと告げると、ジェイムズと俺は互いを見合わせた。俺たちは本当に理解できなかったんだ。スウェーデンで第二位の病院で座ってそんな言葉を聞くなんてことはとても不思議だったんだ。ゆっくりと夜が明け始めていた・・・俺たちはそこでクリフを見てはいなかった。」

    「それから叔父のヨルゲンがコペンハーゲンからやってきて、俺を車に乗せていった。ピーター・メンチはロンドンからやってきた。彼が実際にクリフの身元確認をしたんだ。俺がユングビューを出た頃、ジェイムズとカークは飲みに出て行き、あの忌々しい道の近辺を歩き、わめき叫び、正気を失い、泣いていたのを覚えているよ。でも俺は家族のいる安定した環境であるコペンハーゲンへと向かう途中だった。」


    クリフはバスの窓を突き抜け、倒れたバスの下敷きになり即死だった。8時になる頃には、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、そしてコペンハーゲンといった世界中の電話が鳴り始めた。同じ悲劇と気の遠くなるような「クリフ・バートン死去」というメッセージを添えて。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    不運とよぶにはあまりにむごい事故でした。次項ではクリフの事故からいかにしてラーズ、そしてメタリカが再び歩み出したのかが描かれます。続きはしばらくお待ちください。

    クリフの訃報を伝えるRollingStoneの記事
    cliffobit_RS_300

    バス事故を伝える各写真。
    cliff_case

    管理人らが2014年にクリフ最期の地に建てられたクリフ・バートンの記念碑を訪れた探訪記はこちらから。
    http://metallica.bakufu.org/pic/sweden2014.html

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