メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:トーベン・ウルリッヒ

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    2014年10月26日(日)にコペンハーゲンにてラーズ・ウルリッヒが父親トーベン・ウルリッヒとライヴを行った模様。

    lars_torben01

    共演はコペンハーゲンが会場のWundergrund Festival 2014で実現。その他のバンドメンバーは地元デンマークのミュージシャンで、(カタカナ表記がわからないので記載そのまま)ピアニストで作曲家のSoren Kjargaard、ドラマーのClaus Boje、ベースのPeter Friis Nielsen。

    lars_torben09

    ラーズとのライヴ動画はみつけられませんでしたが、過去に撮られたトーベンさんとSoren Kjargaardの共演動画を拾ってきました。




    いやぁ前衛的ですね。ちなみにこの2人でこれまで3枚のアルバムを出しているとのこと。

    『Suddenly, Sound: 21 Songlines』 (2009)
    『Alphabet, Peaceful, Diminished: 29 Proposals From The Towers Of Babble』 (2010)
    『Meridiana: Lines Toward A Non-Local Alchemy』 (2014)

    ここで紹介してきたラーズ伝記本に何回も登場してきたトーベンさん。息子よりも多才なイメージがありますが、今も現役なんですねぇ。この感じだとラーズとの共演も『Lulu』の時みたいに即興演奏に近いものなのかしら。

    当日のその他の写真はこちらからどうぞ。
    http://gaffa.dk/galleries/gallery/56277

    BLABBERMOUTH.NETより(2014-10-28)


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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。有志英訳を管理人拙訳にて。日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。今回はテニスファン・テニス選手としてのラーズのお話。

    - ドラムを始める前にテニス -

    ラーズはドラムは休んでいたが、長年のあいだ、テニスの練習中ですらエアギターを続けていた。「いつもテニスコートでラケットを手に持ってギターソロを披露していたよ。」同じテニスクラブの選手だったクリスチャン・シェルフィグはそう振り返る。ラーズは全ての少年のアイドルだった同世代の一流選手、ビョルン・ボルグのファンにならないだけの潔さをいつも持っている若き音楽オタクだった。

    「ビョルン・ボルグは75年、76年、77年、そして78年、デンマークでだって他のどこでだってスターだった。」ラーズは子供の頃のテニスのスター選手の歴史を語り始めた。「スウェーデンのことなら何でも、もしスウェーデンの選手がいたら、相手選手を応援する(笑)。でも長年に渡ってビョルン・ボルグは俺にとって信じられないくらい素晴らしい選手だ。見るたびにね。1976年にエキシビジョン・マッチで(デンマークで)試合をしたんだ。76年のポンドゥス・カップ(Pondus Cup)っていうトーナメントでKBホールでビョルン・ボルグ vs イリ・ナスターゼ戦のボール・ボーイをやったんだ。ボルグが街にやってきた時、俺はいつもネットでボール・ボーイをしていたよ。彼らと一緒にコートに立てるから、花形のポジションなんだ。本当にすごかったし、ビョルン・ボルグはとてもクールだった。」

    クールであることはそれほど問題じゃなかった。後年になってからもラーズはいつも流れに逆らって、ニッチの方へ向かっていた。テニスのアイドルの場合、彼はアルゼンチン選手、ギリェルモ・ビラスに模範となる姿を見いだした。

    「75年、76年、そして77年は、ジミー・コナーズとボルグの年だった。イリ・ナスターゼの力が落ち始めて、ジョン・マッケンローが初めて出てきたのが77年だ。でも77年のビラスは凄かったね!彼はスター選手だよ。77年のすべてのトーナメントに勝って、何度かボルグにも勝っていた。そしてボルグよりも髪が長かったしね!親父がアメリカで買ってきたエスクァイア誌に、ビラスがどんな詩を書き、音楽を演奏するか、また全ての女性やモデルが彼をめぐって争うほどの素晴らしい人なのかデカくて深くて長い記事が載っていた。」

    「彼は何かを持っていた。彼には未知な素養、ミステリアスな何かがあった。他と違って、「アンチ・ボルグ」でもあった。彼が「アンチ・ボルグ」なのは、彼がボルグではないからだ。それが大きかった。他のテニスの駆け出しの選手たちはみんな「ボルグ、ボルグ、ボルグ、ボルグ!!!」ってだけ。他の誰も知っちゃいない。だから俺は親父のおかげでもっと他のことをたくさん知っていることを自慢したし、少しばかり誇りに思っていた。親父は国際テニス連盟だか何だかいう組織のメンバーだった・・・。そうだ!ATPだ!76年から77年にATP週刊国際テニスっていう週刊紙が送られてきていた。たぶんデンマークでそれを読んでいたのは俺たちだけだったと思って間違いないと思う。それを(ラーズの所属するテニスクラブ)HIKまで持っていった。それは毎週16ページ、テニスについて書かれていた。それからクラブにはデンマークのテニス雑誌が3ヶ月おきにやってきた。他のクラブの選手はみんなそこから選んでいたから、ビョルン・ボルグについてはデンマークの雑誌で読むことがあった。一方、俺はと言えば英字新聞もあったのさ。クラブの他の連中よりもテニスについてより詳しく知っていたんだ。欠けていたのは他の駆け出しの選手たちのように上手にプレーできなかったってことだけ(笑)。でも俺はもっと夢中になっていたんだ。」

    ラーズ・ウルリッヒは本当にテニスの全ての面において夢中になっていた。自分の部屋で自分のテニストーナメントを作ってしまうまでに。

    「俺と友だちのピーター・スタースと何ヶ月も「机上テニストーナメント」を一緒に作っていたよ。32人の名前を挙げて、スイスのバーゼルで1週間開催するテニストーナメントを作った。ランキングリストから選手たちを組んで、選手の名前を選んでから小さなティーカップを引くんだ。だから700は違うセット数のティーカップがあった。6-3とか4-6とかそういうの。週末はそれにかかりきりだったね。」


    ラーズがビラスの名前で、もし負けているセットのティーカップを引いたときズルをしなかったかどうかは教えてくれなかった。「それはピーターにきかないとダメだね。」ラーズはいたずらっぽく笑ってそう答えた。

    10代のラーズは自分のテニスにますます集中していった。彼は学校からまっすぐPhister通りのテニスコートに行って、数時間のあいだ、そして学校のなかでさえもテニス選手として過ごした。

    「最後の数年間は学校との取り決めをした。俺たちがスポーツをする時、週に2回はあったんだけど、俺は砂利の上で走り回る代わりにHIKでテニスをしてもよいとお墨付きをもらったんだ。悪くないだろ。」ラーズは言った。彼は時おりハートマン通りのクラブショップにいたり、試合に備えてテニスコートを取っておいたりしていた。彼はコートが空いていたらすぐにテニスをした。ほとんどの時間は彼の優秀ないとこで、後にデンマークのナショナルチームの選手となるステインと一緒に。

    「ラーズは自分のテニスに時期尚早なくらい集中していたよ。彼は13歳だった。当時のデンマークを振り返ると、多くの人たちはテニスにそこまで集中していなかった。彼は日に2時間はテニスをしていた。俺なんかよりずっと多くやっていたし、ある時点では俺よりも上手かった時さえあった。あまりの熱心さに少し驚いたよ。「何であいつはそんなに集中できるんだ!?」って。あれは普通じゃないんだって思ったね(笑)。かなり印象的だったよ。」
    ステイン・ウルリッヒはそう語る。

    ラーズは昔ながらのテニスの平均的な練習マシーンではなかった。ラーズが他の人とトレーニングをしていると、強調した言い方で「ラーズ!集中集中!」という声がPhister通りに響き渡った。叫び声はほとんど錯乱状態の女性トレーナー、ロス・ジョーンズのものだった。

    ステインはうなずいて回想する。「ラーズには俺たちとは全然違うテクニックがあった。ロス・ジョーンズは俺たちにとても昔ながらのテニスを教えようとしていた。そして単にラーズを見限ったんだ。彼は極端なトップスピンを使っていたビョルン・ボルグとギリェルモ・ビラスの好きなところを真似しようとしていた。ラーズがやっていたことは技術的にはいいものじゃなかった。でも彼はたくさん練習をしていたよ。うまくなるために集中していたんだ。」

    ステインはソファから立ち上がると、エアテニスでラーズ独特のスタイルのストロークを実演してみせた。それからまた座るとこう続けた。「ラーズは練習時間で何も得ることはなかった。他の子や父親、父親の友だちと一緒の練習で腕を磨いた。真夜中にテニスをしに行く方法をみつけて、次の日ラーズは学校を遅刻して来るんだ。それからまた真夜中にトレーニングさ。それはバックハンドのストロークの練習と同じくらい重要だったんだけどね。彼はそれを知る必要があったね・・・。」

    「テニス選手として、トーベンは伝統的スタイルで、基本的に昔ながらのプレーだった。でも別のスタイルも発展させていた。予測を元にプレーしたり、新しい要素や動きを加えたりしていた。ちょっと芸術的かもしれないね。そしてトーベンは誰でもラーズみたいにプレーするのはたやすくできるとわかっていたので、もっと違った規律あるやりかたでプレーするように勧めていたんだ。トーベンはラーズをしっかりサポートしていたよ。」

    ステインは振り返る。「それがトーベンとローンが持っていたもうひとつの素晴らしい手腕なんだ。彼らはラーズをサポートして、あれやこれやと口出しせず、ラーズが考えていることに注意を払っていた。もちろん、そうして彼らは彼を導き手助けしようとしていたんだ。でも彼はテニス選手としての方向へ進みたかったんだ。」

    両親にとって、とりわけトーベンにとって、彼ら自身の豊富な体験とラーズのテニスの上達ぶりには開きがあった。両方ともバランスの重荷となり、自然と彼のモチベーションは別の興味、つまり音楽へと傾いていった。

    父親とは違い、ラーズは真剣勝負のプロスポーツの経歴と音楽の経歴を併せ持つことはほとんどできなかった。彼がテニスに打ち込めば、国内あるいは国際レベルまで上手くなったかもしれない。必要だったのはよりいっそう多くのテニスの練習と、よりいっそう多くの有酸素運動と食事制限だけだった。昔ながらの、芸術的で、別のやり方で、あるいはさらにぎこちないテニスで。

    「ラーズの母と私は、ラーズがある時期にはとても優秀だったので、どれだけテニスをやらなければならなかったのか自分で気づいて欲しいと本当に思っていた。」
    トーベンはそう考えていた。「私が同じ年齢だった頃のように身体的な努力をしていたら、選手として進化していただろうね。(自分自身を振り返ってみると)あれだけ練習をする選手はそう多くない。20年後には状況はすっかり変わっていた。テニススクールはあるし、奨学金で世界中を廻れるようになったんだ。」

    「ラーズがフロリダのテニススクールに行った時、興味を引くものに基づいてのことだったから、彼は挑戦するのを後悔しなかった。そこで私たちはラーズがあの学校に戻りたがっているのか、あるいは音楽にも関心があるから、たとえもうテニスができなくなっても充分と思っていたのか、チェックしなければならなかった。」


    そうして決断は下された。79年6月、ラーズは学校の試験が終わったらすぐに、テニスの経歴で重大な試みを行うこととなった。79年夏のはじめ、彼はフロリダ州サラソタの近くにあるニック・ボロテリー・テニスアカデミーに送られたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

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    父トーベンとテニスコートに立つラーズ・ウルリッヒ

    たしかに当時のボルグもビラスも長髪イケメン系で成績も言うことなし。当時のテニス界でスターだったのもうなづける。
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    左:ビョルン・ボルグ、右:ギリェルモ・ビラス

    ラーズの自慢癖は後にNWOBHMでも発揮されるのかと思うとニヤニヤがとまりません(笑)
    いよいよ次回で第1章デンマーク編は最後になります。

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