メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:デンマーク

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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。前回同様、有志英訳を管理人拙訳にて。大きな家に住んでいたことによって、ラーズの性格形成に及ぼした影響について。なかなか音楽の話が出てこない、マニアックなラーズのルーツをどうぞ。

    - 人とは違う毎日の生活 -

    たとえラーズが長期間旅行に出て欠席をしていたとしても、クラスメートから特別レッテルを貼られるようなことはなかった。彼はあまりに違うリズムの生活をしていたのだ。それは両親の国際人的な生活のためだけではなかった。

    Lundevang通り12番地の自宅には、慌しい朝もなければ、時間通りにしろとしつける両親もいなかった。朝食はもっぱら独りで食べ、早朝には時計から目を離さないようにしていた。

    ラーズは語る。「両親とかに何かしら反抗を示すようなことはなかったね。親友みたいなもんさ。でもあの頃を思うと、俺はかなり早くに完全に独りで何とかすることを学んでいた。俺は朝のルーティーンを独りで確実にやり始めていた。7時に起き、オートミールを作るために階下に降りる。毎朝同じことをね。母さんはいつもオレンジジュースを絞って前夜に冷蔵庫に入れてくれていた。だから果肉はいつも底に沈んでいた。俺はいつもちゃんと混ざっているか確かめていたっけ。でもあの一杯のオレンジジュースは最高だったよ。オートミールを作れるようにSolgryn(訳注:オートミールの商品名)と計量カップは大概出しっぱなしだった。皿とかバターのかけらとかも・・・。母さんは俺が学校に行く前に摂る昼食を前の晩にいつも詰め込んでいた。」

    自分への躾の結果として、ラーズは日付・時間・数・早く着席することに集中した。学校へ行く途中、家からMaglegaard小学校のあいだにあるヘラルプ駅の時計をいつも見ていた。

    「俺が自転車で駅を7:53に通れば、ぴったりに着くんだ。もし7:54だったら、ちょっと遅れている。7:55だったら、よろしくないね。」とラーズは言う。

    「彼は時間通りに着くことに集中していた。集中するのは本当にすごかったね。」従兄弟のステインはそう付け加えると、すぐに別の例を引き合いに出した。「ラーズは、10歳から12歳の頃には、アメリカン航空の運航スケジュールをそらで暗記していたんだ!あんなものをわかってたんだぜ!俺に112ページぐらいに載っている、日に4回あるいは今と同じくらい運航していたシアトル発サンフランシスコ行きの便について俺に言ってみせるんだ。あいつはいつも自分を管理していたし、管理しなければならなかったんだ。」

    ラーズはヘラルプ駅から中央駅までのあいだ、本当に時間のことで頭がいっぱいだったのを思い出していた。自分のとても計画的なふるまいや熱情をコントロールしてきたことは、子供の頃に放っておかれたところから来ていると今日でも彼は信じている。ざっくり言えば、彼は自分の人生をコントロールし続けなければならなかったのだ。両親が何かしてくれるとは期待できなかったために。

    「でも否定的な意味で(親が)必要ないっていうわけじゃないんだ。両親は彼を放っておいたわけじゃないからね。」ステイン・ウルリッヒは語気を強めた。「彼の両親は別のことに重きを置いていた。例えば、「おまえはこれを見なきゃダメだ!」と言って彼をジャズのコンサートに連れて行ったり、ジャズについて教えたりすることで彼の面倒をみていたんだ。だから、彼の面倒をみていなかったから、必要ないってわけじゃない。彼の両親は別の生活リズム、別のやり方で子育てをしていたんだ。」

    自立した子供時代に、ラーズは自分で何とかやっていき、後に自分をコントロールすることを学んだ。それは1973年10月に起きた、かのオイルショックも彼の理性ある基本的感覚に長く影響を及ぼした。オイルショックはガソリンと燃料不足を引き起こした(これに従い、デンマークではいわゆる「車無しの日曜日(カー・フリー・サンデー)」が導入された)。その現象はLundevang通り12番地の大きな家にも特にあてはまる事態となった。

    ラーズ「俺たちは大きな家を持っていた。もちろんオイルショックのあいだ、暖房は節約した。寝室とバスルームと階下の家族の部屋だけ暖房をつけた。そのときにドアをちゃんと閉めることを学んだんだ。そんなだから、今じゃアメリカ人といるときは特に(ドアを閉めてくれと)あがくはめになっているよ。ドアを開けなければならないときは、熱を逃げさないように再び閉めなければならないことを意味するってことを叩き込まれたんだ。暖房のかかっていない部屋がたくさんある家のなかでは、ドアを閉めることをすぐにでも学ぶってわけ。

    俺にとってはいまだにその影響があって、部屋を出るときはドアを閉めて明かりを消すのもそうさ。それで妻とさえ問題が起きる!家では、英語で言うところの「Shutting the House Down(窓閉め/電気を消す)」が進行中なのさ。毎晩寝る前に俺は家をくまなく廻って電気を消し、ドアを閉めていく。誰もやらないからね。アメリカでは部屋に入って電気をつけて、また部屋を出るときは電気を消さない。俺はそれとはまったく真逆なところで育った。1973年のいまいましいオイルショックから端を発しているのさ。」


    ラーズに影響を与えた子供の頃の家について、もうひとつ付け加えるならば、彼は幾度も大きな家で独りでいたということだ。父親がツアー中は通常、母親は祖父母の住むローウラライ(Raageleje)にいたのだ。

    「暗いところは怖くなかったけど、不気味な妄想にとりつかれた。いつも何てことないこともチェックしなければならなかった。ドアを閉めて、クローゼットの中から何から全てチェックしていた。俺がこの話をすると父は大げさだって言うんだけど、少なくともかなり早くから自立する方法を学んだ。週末36時間は独りで家の中をぐるぐる移動していたよ。

    そしてそこから不気味な妄想に行き着くんだ。いまだにそういうものがある。今日も家に帰ったら、全ての部屋と窓をチェックして、クローゼットに誰かいないかチェックするんだ。長い手順になるよ、特に今みたいな大きな家に住んでいるとね。3つあるゲストルームのクローゼットの中とかそういう諸々に誰もいないことをチェックする。家全体を見廻るには毎晩15分はかかる(笑)」


    ラーズは子供の頃からとりつかれた妄執を心から笑う。もちろんあの家は、主に人々と暖かさにあふれていた。ユニークなウルリッヒ家はたしかに退屈することはなかった。

    音楽、テニス、旅行の繰り返しというおなじみのラーズの人生を飛び越え、父親が不在中に母親としばしば養われたずっと見落とされてきた情熱もあった。映画である。

    「俺は映画にいつだって興味を抱いていた。父が4、5、6週間とツアーで不在のとき、母と一緒に映画館に行っていた。いとこのカレンはトライアングル・シネマのチケット売り場で働いていたから、いつも俺たちのために無料チケットを用意してくれていた。もちろん70年代の話だけど、あの頃は毎日新しい映画が上映されていた。75年・76年の夏休みなんかは週5回は映画館にいたね!PG-12とかR15とかは俺のいとこが入口にいるときには大して意味がなかった。もちろん俺たちはホールの真ん中でチケットをもらうんだ。

    母と俺は上映前に食事をとっていた。Osterbro通りの右側にあるカフェテリアに駆け込んで食べていた。ベアルネーズソースとグリーンピースが入ったハンバーガーを買ってね。家を6:15に出て、ハンバーガーを食べて、トライアングル・シネマの7時台の上映回で観るんだ。

    『The Olsen Gang』(訳注:シリーズ化されたデンマークのコメディー映画)を観にパレスシネマまで行ったのを覚えているよ。あの映画はいつも秋休みの金曜日に公開で、最初の2時の回の上映には映画館にいられるように最後の数時間の授業をすっ飛ばさなきゃならなかったんだ。

    後に俺は独りで映画を観に行くようになった。ひっきりなしに上映されていた信じられないようなバカげた映画を全部観たよ。『ワイルド・ギース』とか『ナバロンの要塞』とか『激突!タイガー重戦車 最後の砲火』とか『史上最大の作戦』とかそういう戦後に作られたヤツ。あとジョン・ヴォイトが出てた・・・『オデッサ・ファイル』ね!そういう映画ばっかりさ(笑)」


    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/6/

    larsulrich_student
    ありし日のラーズ

    さりげなくデカい家に住んでいるところを自慢するのはさすがラーズです(笑)クローゼットまでチェックするのは、後の「Enter Sandman」の歌詞に反映されたのかな等と思ったり。

    ちなみに『オデッサ・ファイル』は管理人がずっと観たいと思っていた(まだ未見の)映画のひとつなんですが、ラーズの中では馬鹿げた映画(stupid movies)にカテゴライズされているんか・・・。

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    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(2)

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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。前回同様、有志英訳を管理人拙訳にて。前回はラーズの生家にまつわる恵まれた音楽環境についてがメインでしたが、今回は父親トーベン・ウルリッヒがラーズに施した「教育」についての面白いエピソードが書かれています。長文にてお時間あるときにどうぞ。

    - グローバルな子 -

    Lundevang通り12番地は、心地のよい近隣者に囲まれた不思議で素敵な場所だったが、トーベンとローンのウルリッヒ夫妻は世界中を仕事で飛び回っていた。頻繁に夫妻がツアーに出ていたとき、トーベンとローンには確固たる地盤がなかった。トーベンはまだ世界トップクラスのテニス選手だった。彼は60年代後半からベテラン・トーナメントに参戦し、世界を飛び回り、生計を立てることのできた唯一のデンマーク人テニス選手だったのである。

    ラーズは人生最初の1年で、すでに世界を飛び回る赤子であった。

    「俺たちはよく旅行に行った。」ラーズは回想する。「60年代最後の数年は、ヨーロッパ中を廻ったし、アメリカは何回も行った。オーストラリア、フィジー、タヒチまで行ったよ。68年頃にはデンマーク人家族とヨハネスブルグ(訳注:南アフリカ共和国)に住んでいたんだ。どうやら俺はアフリカーンス語(訳注:南アフリカとナミビアで話される、オランダ語の方言から生まれた言葉)を学んでいたらしい。4、5歳の子供にとっては朝飯前みたいなものだったんだな!」

    1970年8月、ラーズはゲントフテ(Gentofte)のMaglegaard公立小学校に通い始めた。シンプルで良きデンマークの学校だ。だがラーズは出席日数についてはあまり気にしていなかった。教室で起きている事よりも、ラーズの両親こそが教育における必須要素であり、真っ当な学習手段だったのである。

    彼の両親は旅行を、ラーズの「教育」の一部とみなしていた。そして家族が家に戻ると、トーベン、ローン、あるいは広大な家にやってくる多くの友人誰しもがラーズに音楽について教えたり、テレビで放送されたことをあれやこれや議論したりするのに時間を割いてくれた。それはしばしば夜遅くまで続き、夜12時をまわることさえあった。そんなわけで、ラーズは時おり数時間遅刻したため、トーベンとローンはラーズの学校への連絡帳に遅刻を正当化する理由を書かなければならなかった。

    「親父は俺が遅刻するのが大好きだったんだ。」
    ラーズはニヤリとしてそう語る。「俺たちは台所に座って音楽を聴くか、何かについて話しながら、親父は連絡帳にこう書くのさ。『ラーズは今日は学校に4時に到着します。これは私どもが彼に深夜までジャズをしっかりと聴かせることが重要だと考えているからです。そして彼のためには寝坊することも重要なことなのです!』」

    ラーズはいったん話を止めると、さらにニヤニヤしながらこう語る。「俺の連絡帳は本当に見事なもんだった(笑)。『すいませんが、ラーズは昼休みも出席できません!!』とかね。親父と俺は同じオルガー・ザイアー(Holger Thyrre)先生だったんだ。だから通学最初の1年、親父は(自分の先生だった)彼にメッセージを書いていたんだよ。」

    さらに学校期間の数年は、尋常じゃないほど多くの旅行に出かけていたが、トーベンは学校に連絡を取り続けていた。

    ラーズは言う。「親父が、俺の教育にとって1ヶ月のアメリカ旅行がどれだけ重要かを説明し、(授業に出れない分の)算数、国語、ドイツ語を追いつけるようしっかり確認するということを書いた手紙を学校査察官のヴィクター・ラインヴァルトさんに送った。だから俺は両親とアメリカに1ヶ月行っているあいだ、母親と一緒にドイツ語や算数の教科書と格闘していたんだ。毎日ね。

    4、5年生になるまでにたくさん旅行をした。1、2回は学校期間のあいだに3週間はここ、5週間はあそこなんてこともあった。刺激的だったし、もちろん最高だった。でも5週間もアメリカにいた後で、学校に戻って、自転車をラックに停めて、「Hej Hej(デンマーク語でHey)」なんて言うのは奇妙な感じだった。

    俺はMaglegaard小学校のCクラスにいる他の生徒みんなとはちょっと違う状況だった。でも、問題なかった。ある意味、全然目立たなかったんだ。特別称賛されるものでもなかったし、ましてやそれで俺が特別クールになったわけでもなかった。だから、振り返ってみると、クールでもなかったし、アウトサイダーでもなかったし、いじめられたようなこともなかった。「へぇ!ラーズがアメリカに3週間行くってよ!」みたいな感じかな・・・(笑)。まぁそんなもんだった。俺が知る限り、それが俺の現実さ。俺はそれがとても変わっているとは思っていない。それがずっと続いていたしね。」


    学校側からすれば、睡眠はラーズに必要というトーベンのドラマチックなスタンスには、おそらくそこかしこで驚かれたことだろう。しかし、教員陣もほとんどの場合、ラーズ・ウルリッヒとその特別なライフスタイルに大きな反対はしなかった。彼の物理学教師、フレミング・ステンサー(Flemming Stensaa)(戦後、ジャズを弾くトーベンの熱心な聴衆の一人でもあった)は回想する。「あの当時、すでに彼はずいぶん学校を欠席していた。(沈黙後)しかし、彼は非常に楽しい生徒だった。勤勉ってタイプじゃなかったが、丁寧で礼儀正しかったよ。彼も両親と家族の良いところを受け継いでいた。」(1994年2月取材)

    かなり特別な彼の両親は、教育において有益でさえあったのだ。

    ラーズは思い出していた。「俺にはかなりイカした先生がついていた。3年間俺についたその先生はジョン・ピーターセン(John Petersen)って人だった。彼は流行に敏感で、親父と一緒にいろんなことに夢中になってた。あるとき、現代社会の時間で教室にウッドストックのアルバムを持ってくるように頼まれた。俺たちがベトナム戦争に抗議するジミ・ヘンドリックスのアメリカ国歌を教室で聴けるようにね。あれは家族が所有しているものだと言っても先生の耳には届かなかったから、俺はあのアルバムを自分のところに持っておかなきゃならなくなった。彼はそういったことでは本当に新奇な人だったよ。Maglegaard小学校の保守的な生徒はたぶん彼はちょっと左寄りすぎると思ったかもしれないけどね。でも彼は本当にそういったものに夢中だったんだ。

    学校に通っていた最後の数年間で、突然そういう右とか左とかってことを理解し始めたんだ。ある時期には核兵器「賛成」か「反対」かどっちだと決め付ける人たちがいた。それで7年生ぐらいに俺たちは核の力についてヤンチャで収拾のつかない議論をしたんだ・・・。俺たち何歳だったと思う?12歳だよ!!でも俺たちは核の力とその将来についての答えをもつ人となったんだ。」

    ラーズが女の子に興味を持ち始めたのも、その歳だった。

    「俺にはたくさんガールフレンドがいた。もちろんそこには同じ学校の子もいた。チネとカトリーヌとは手紙のやりとりなんかしてた。そして、ターストラップ(Taastrup)から来てたマリアンヌ・ハンセン(Marianne Hansen)に首ったけだったね。俺が15歳ぐらいだったかな。彼女は実際にアメリカまで何回か俺を訪ねてきてくれたんだ。後に俺がコペンハーゲンでレコーディングしたときにも通りがかった。彼女はとってもとっても可愛かったね。」

    しかしラーズは18歳になるまで女の子と寝たことはなかった。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/6/

    愛されてるなぁラーズ・・・。
    larsulrich_childhood
    ラーズ・ウルリッヒ、両親と共に

    本人はそれほど変わってないと言ってますが、かなり特殊な家庭環境だったことがこのエピソードからも、うかがい知れます。

    ちなみに文章中に出てきたジミ・ヘンドリックスのアメリカ国歌はこちら。


    その時代に起きていたことをすぐに題材にするなんて何とも楽しげな授業です。

    ざっと見た限り、しばらく続く第1章はデンマーク編のため、ラーズのコイバナは出てこない模様(笑)。やる気が出れば、さらに続きも紹介できればと思いますが、続きメチャメチャ長すぎ・・・。

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    ラーズ・ウルリッヒの母国デンマーク語で書かれた伝記本、『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』を有志の方が英訳してくれていました。

    larsbio

    その冒頭部には、ラーズと名付けられるまでの過程、ラーズに大きな影響を及ぼしたであろう生家について書かれていました。英訳されたものをさらに管理人拙訳にてご紹介します(日本語読みがわからないところはアルファベット表記のままにしています)。長文のため、お時間のあるときにどうぞ。

    第1章 音楽の名における洗礼

    1964年の初め、トーベンとローンのウルリッヒ夫妻のあいだに生まれた赤子は「ラーズ(Lars)」と正式に名付けられた。名付けられる過程にはユニークな他の名前候補をめぐるやり取りがあったのだが、トーベン・ウルリッヒはそれを覚えていた。

    「マッズ(Mads)かラーズ(Lars)のあいだで悩んでいたが、私はイーベン(Iben)もいいなと思っていた。私たちは必要とあらば、気のきいたデンマーク流の良い名前をいくつか見つけることもできた。(イーベンをミドルネームとして)ラーズ・イーベンかマッズ・イーベンはどうかと私たちは話したんだが、ローンはまだ他のたくさんの名前を候補として探し続けていた。彼女はイーベンは女の子の名前みたいだと考えていたんだ。私は他の候補よりは気に入ってたがね。」

    かくしてラーズ・ウルリッヒが彼のフルネームとなった。家族の別荘があるローウラライ(Rageleje)の近くにあるブリストロプ教会(※1)でラーズは洗礼を受ける。ウルリッヒ夫妻は息子の教父として、家族ぐるみで友人として付き合いのあったアメリカ人のジャズ・サクソフォン奏者、デクスター・ゴードン(Dexter Gordon)を選んだ。

    「デクスターがそれだけ強烈な才能の音楽人だと思ったんだ。それに、そうやってラーズの良き音楽人生を願ったんだよ。ハッハッハ(笑)」トーベンは笑顔を浮かべて「このことについて考えてみると可笑しいね。」とそっと付け加えた。

    同時にローン・ウルリッヒと彼女の両親の良き親友であるカイア・ケーアボー(Caia Kjaerboe)がラーズの教母となった。

    「彼女は劇場の出でね。彼女も強烈な才能を持った人物だったよ。」トーベンは語る。

    しかし、ラーズはすぐに「Knirke(キーキー声の意)」というあだ名を付けられている。

    「ラーズが子供の頃はずっと「Knirke」と呼んでいた。なぜなら子音に「N」がつく発音が出来なかったんだ。あの子にはそれが難しかったようだ。あの頃から「Knirke」と呼んでいて今でもそう呼んでいる人はいっぱいいるよ。」とトーベンは言う。

    この子は世界の至るところにいる善意に溢れた愛情深い人々に囲まれていたのだ。

    彼が子供の頃の家は、ヘレルプ(Hellerup)のLundevang通りに面したおとぎ話に出てくるような4階建て(訳注:地下室含む)の大きく特別な建物(※2)だった。はじめは両親と共に家の最上階に住み、祖父母は真ん中の階に住んでいた。その家には1973年から74年にかけて家族がローウラライの休暇用の別荘に完全に引っ越すまで住んでいた。それからウルリッヒ夫妻はLundevang通りの家をリフォームし、1980年夏に完全にロサンゼルスに引っ越すまで再び家族の普段の住処とした。

    トーベンとローン、そしてラーズは自分たちのLundevang通りの家をより堅固なものとしたが、国際人としてのライフスタイルは決して捨てられなかった。たしかにラーズの子供の頃の家は、ヘレルプの小さな居住地で、大きくエレガントな家々と人目をひく大使館(※3)の建物があるLundevang通りに面しており、Ryvang街道や並行して走る鉄道はその騒音でメチャクチャになるにはあまりに遠すぎた。さらに現在では、屋根を越えるほど高く大きい象徴的な「瓶」がまっすぐ誇らしげに立っている近隣のツボルグ(Tuborg)の醸造所(※4)からホップとモルトの香りがしている。ラーズはNorgesminde通りを渡り、Phister通りにあるHIK(※5)の設備でテニスを練習し、近くの学校に通っていた。このMaglegard小学校は父トーベンも通っていた学校である。(※6)

    以前言及したとおり、29年前(訳注:伝記本は2009年刊行?)にラーズと家族は完全に引っ越したが、ラーズは子供の頃の家をハッキリ覚えていた。2003年初夏に、父親と過ごしたコペンハーゲンに戻ったときには、よくこの近くを走っていた。(この様子は2004年の『Some Kind of Monster』DVDの特典映像で見ることができる)。

    「大きな庭のあるとても特徴的な家だった。」ラーズは思い出していた。「フロアがたくさんあるし、いつも騒音を響かせることができたんだ。大好きだったよ。親父はあのバルコニーの部屋に上がっては毎日夜にジャズを聴いていたよ。俺は自分の部屋で音楽を流すか、何も聞かせないようにみんなが寝静まってから、地下室までの長い道のりを歩いていったね。」

    Lundevang通りの家はとても大きな敷地で、それは子供の頃のラーズの全てを形成した精神的にも文化的にも広大な良きシンボルでもあった。彼の両親は音楽、文化、アート、地理学についてのさまざまなことを「文字どおり」彼に説明するのに多くの時間を費やした。常に外の世界からの新しく刺激と衝撃によって子供の頃のラーズに非常に魅力的なもの、好奇心、旺盛な知識欲をもたらした。

    ウルリッヒ家のおもてなしとイカした家によって、この場所は日が暮れるとデンマークやその他のあらゆる場所から多くのミュージシャンや著名人たちが賑やかす場所となった。そのなかには世界的なジャズマンであるスタン・ゲッツ(Stan Getz)、ジョン・チカイ(John Tchicai)、ドン・チェリー(Don Cherry)、そして前述したラーズの教父デクスター・ゴードンもいた。ガソリン(Gasolin')のフランツ・ベッカリー(Franz Beckerlee)は、エリック・ウィダーマン(Erik Wiedemann)、ヨルゲン・リーグ(Jorgen Ryg)、ベント・ファブリシアス=ビュール(Bent Fabricius-Bjerre)、マックス・ブリュエル(Max Bruel)、ヒュー・シュタインメッツ(Hugh Steinmetz)といったデンマークのミュージシャンを伴い頻繁に訪れていた。

    トーベンは次のように語る。「午後にウチにやってきて居座り、コーヒーを飲んで音楽を聴いている者もいた。あるときには皆がディナーにやってきたし、またあるときには私やフランツ、ヒューが座って音楽を聴き続けていた。夜明けまでなんてこともあったね。私たちはいろんな音楽を聴いていた。マディ・ウォーターズからインディー・ミュージックまで何でもさ。リビングにはピアノもあったから、ジャム・セッションをしたこともあった。スタン・ゲッツとだったり、別の日にはベント・ファブリシアス=ビュールともやったのを思い出すね。そんなわけであの家にはデンマークやアメリカのあらゆる人たちで埋め尽くされていたことがあったんだ。」

    60年代、70年代はLundevang通りは本当にイカした場所となった。家には子供用の部屋があった。ラーズは同い年のフランツ・ベッカリーの子供とよく遊んでいた。アメリカで出会い、ヘレルプに一時住んでいたトランペッター、ドン・チェリーが訪問してきたこともトーベンは覚えていた。ときおりドンは幼い継娘ネネを連れてやってきた。「たぶん2人とも2、3歳頃じゃなかったかなぁ、彼女とラーズはつまずきながらドクター・ジョン(Dr. John)のレコードに合わせて踊っていたよ。」

    しかし、最も長く遊び相手を務めたのは、ラーズと半年早い生まれの従兄弟ステイン・ウルリッヒ(Stein Ulrich)だった。ラーズの叔父ヨルゲン(Jorgen)(ちなみにトーベンにステインの教父となるよう頼んだ人物でもある)の息子だ。ラーズは後にステインについて、叔父ヨルゲンと叔母ボーディル(Bodil)と話していたときに「まるで兄貴のような存在」だと語っている。

    今日までステインはあの魅力的な家への訪問がどれだけ刺激的だったかハッキリと覚えている。
    「俺はラーズといつも連れ廻ったんだけど、よく覚えているのは4、5歳の頃、Lundevang通りの家に行ったときのことさ。ホールまで歩いていくと天井まで見えたし3階まであるのがわかった。ホールには幅3フィートの階段が地下室へと続いていた。いつも彼らはそこにいたんだ。大家族のキッチンみたいに準備していたからね。彼らはほとんどそこに住んでいたんじゃないかな。(他の人が出入りしない)あの場所なら日中ほとんどいることができたからね!」

    ウルリッヒ家はゲストがいるいないに関わらず、ほとんど地下室にいたようだ。ラーズの祖父母が引っ越した時に、家の大部分はリフォームされた。ラーズはなぜ家族の長年のたまり場が今日の世界には普通に存在しないのかとハッキリ思い起こしていた。「俺たちはスーパーモダンなキッチンがあったんだ・・・。ドイツのミーレ社製のキッチンと新しい調理器具とかその他もろもろ、すごいの何のって。まぁそういうものが流行りだす前だったっけな。」

    リフォームのあいだ、遊び部屋は地下室にもできた。寝室として装飾された1階をラーズは引き継いで使うことを許された。よってこのとき彼には(後にたくさんの騒音をたててクレイジーになるにも)十分な部屋があったのだ。この音楽愛好家の遊び部屋にはステレオと彼の憧れの人のポスターが貼られた。数年後の1976年には遊び部屋は再びリフォームされ、このとき彼にとって初めてのドラムキットが設置されたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/5/

    ※1:ブリストロプ教会(Blistrup Kirke)
    http://www.blistrupkirke.dk/
    http://www.visitdenmark.co.uk/en-gb/denmark/blistrup-church-gdk621148

    ※2:ラーズの生家。
    07larshouse

    ※3:イスラエルの大使館が同じLundevang通りにあり、近くのNorgesminde通りにはタイ大使館もある。

    ※4:全長26メートル。デカイ(笑)
    tuborg

    ※5:ヘレルプ・スポーツ・クラブ(HELLERUP IDRATS KLUB)のこと。

    ※6:『Some Kind of Monster(邦題:メタリカ 真実の瞬間)』の特典映像によると、父トーベンを教えていた教師が自分のことも教えていたとラーズは語っている

    特典映像はYouTubeにアップされてました。(日本語字幕はありませんが)


    文章中に出てきた場所のうち、洗礼を受けた教会以外はヘレルプに集中しています。少し地図でまとめてみたのでご参考までに。(リンク先で拡大縮小可能)

    ラーズ・ウルリッヒのふるさとMAP
    larsMAP
    http://batchgeo.com/map/8f73f0a18d0373a960a850a57e9ae158


    ラーズの生家はジャズのいわゆるサロンのような役割を果たしていたんですね。教父が音楽人で教母が劇場の出ということで、ラーズが音楽と映画に興味を抱くようになったのは生まれたときからの必然だったように思えます。

    By Requestの北欧ツアーを計画したときは、ここまで正確な位置もわからず、時間も取れないということで断念しましたが、またデンマークへ行く機会があればぜひ訪ねてみたいものです。

    やる気が出れば、続きも紹介できればと思います。やる気が出れば・・・

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    ラーズ・ウルリッヒの夏休みの過ごし方。

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    管理人含む総勢4人で、2014年5月28日から6月3日までかけて行ってきたメタリカのツアー観戦記をようやくアップし始めましたのでご紹介。完成したのが1日目だけで、まだメタリカの公演のことすら触れられていませんがいったん公開します。

    メタリカスポットもご紹介していますので今後行かれる方の何がしかの参考になれば幸いです。写真はカールスバーグ工場で購入したカールスバーグとラーズ・ウルリッヒのコラボ瓶、通称「Larsberg」。

    015

    今後、この記事の追記で更新状況をお知らせする予定です。

    ■旅程
    http://metallica.bakufu.org/pic/europe2014.html

    ■1日目(2014年5月28日)
    http://metallica.bakufu.org/pic/denmark2014.html

    ■2日目(2014年5月29日)
    http://metallica.bakufu.org/pic/sweden2014.html

    ■3日目(2014年5月30日)
    http://metallica.bakufu.org/pic/stockholm2014.html

    ■4日目(2014年5月31日)
    http://metallica.bakufu.org/pic/norway2014.html

    ■5日目(2014年6月1日)
    http://metallica.bakufu.org/pic/oslo2014.html

    ■6日目(2014年6月2日)
    http://metallica.bakufu.org/pic/return2014.html

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    関連記事
    「Kirk von Hammett's FearFestEviL」レポについて
    BIG4ニューヨーク公演レポート(メタリカ抜粋版)

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    オーナーシェフがラーズ・ウルリッヒと親交があり、世界レストラン番付で一位をとったことがあるデンマークの名店「NOMA(ノーマ)」が、2015年に東京へ進出するとのこと。CNNの配信記事から。

    「世界一」のレストラン、東京に進出へ

    (CNN) 英レストラン誌の2014年版ランキングで「世界1のレストラン」に選ばれたデンマーク・コペンハーゲンの「ノーマ」が2015年、東京に進出する。

    ノーマのシェフ、レネ・レゼピ氏(36)は日本進出について、「2年前から計画していた」と語る。きっかけは京都の料亭「菊乃井」の主人、村田氏に招かれて5年前に日本を訪れたことで、「日本の食文化の豊かさに心を打たれた」という。

    東京店には料理人や厨房スタッフも派遣して、豆腐やスダチなど、これまで使ったことのない食材も取り入れる予定。ただ目下のところ最も困難が予想されるのは、皿洗いなどを担当するグアテマラやメキシコ、ガンビアなどの出身スタッフに3カ月の就労ビザを取得することだという。

    ノーマはウニのトーストや、アリなどをトッピングした牛肉のタルタルといった料理で定評がある。東京店については「日本料理店にするつもりはないが、考えはある。ノーマの大きな計画の中で、日本は今後5年で非常に重要になる」とレゼピ氏。

    食材は地元デンマーク産にこだわってきた同氏だが、実はこれまでにも味噌やゴマ、北海道産の昆布といった食材を取り入れてきたという。

    東京のどこに出店するのかはまだ不明。数週間後に詳しい発表を予定している。

    Yahoo(2014-04-30)

    NOMAのサイトでは、全スタッフがいったん日本に移り、6月には最終的な詳細を発表するとありました。本気で日本に注力していることがうかがえますね。
    http://noma.dk/japan/

    NOMAといえば、以前ラーズがオーナーシェフの執筆したレシピ本の序文を書いていました。本店とはまた違ったことを試みたりするのでしょうか。お値段はしそうですが、一度は訪れてみたいものです。
    Restaurant_Noma
    Nomaデンマーク本店とオーナーシェフ、レネ・レゼピ

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