メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:ダイアモンド・ヘッド

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    前回の記事に引き続き、ラーズ・ウルリッヒお気に入りのヘヴィメタル/ハードロックのアルバム15選から5つのアルバムをラーズのコメントともにご紹介。

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    DIAMOND HEAD - "Lightning To The Nations" (1980)

    もし「メタリカのサウンドの青写真となるレコードをひとつ挙げろ」と言われたら、これを挙げるよ。俺は何千回と言ってきた。何千回とね。

    1981年の夏、俺はシンガーとギタリスト、つまりシーン(・ハリス)とブライアン(・タトラー)と一緒に過ごすことになった。彼らの居間に住み着き、ソファで寝て、彼らと一緒にいたんだ。カリフォルニアに戻った俺はバンドを始めたいと思っていた。彼らはより伝統的なハードロックのアプローチをとったバンドだったね。レッド・ツェッペリンの大ファンで、旅、探求、経験としての曲が、純粋なギターリフのエネルギーに融合していた。シンプルなドラムでグルーヴィーな素晴らしい曲たちだ。

    ひと頃、メタリカで全ての収録曲を演奏したよ。「Am I Evil」もリリースしたし、「It's Electric」「Helpless」「The Prince」もリリースした。「Sucking My Love」もずっと前にやっていたしね。「Sweet and Innocent」も「Lightning to the Nations」もジャムってた。俺たちはこの収録曲全てと切っても切り離せない関係なんだ。

    (メタリカとしての)最初のコンサートで、ダイアモンド・ヘッドの曲を4曲やったはずだ。俺たちはカヴァーバンドとして始まって、そのグレーゾーンにいたってわけ。曲を弾くようになったばかりだったし。俺たちは誰にもカヴァー曲とは言わなかった。でも俺たちの曲だとも言わなかった。ただあの収録曲をやったんだ。2回目か3回目のライヴでサクソンの前座を務めた時、彼らのサウンドエンジニアのポールがやってきてダイアモンド・ヘッドっていうバンドを聴いたことがあるかと訊いてきたんだ。俺は「もちろん、彼らの曲を4曲カヴァーしているよ」と答えていたよ。でもまぁ俺たちは基本的にダイアモンド・ヘッドのカヴァーバンドとしてスタートしたんだな。


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    GUNS N' ROSES - "Appetite For Destruction" (1987)

    『Appetite〜』についてまだ言われていないことについて俺が何が言えるっていうんだ?これまでレコーディングされたなかで数少ない素晴らしいロックレコードのひとつだね。『Appetite〜』はある意味、ジャンル無しだ。史上最高のHR/HMレコードのひとつってだけじゃなく、史上最高のレコードのひとつでもある。間違いなく世代を形成し、文字通り何千ものバンドの青写真になったんだ。(ビートルズの)『Revolver』やローリング・ストーンズのベスト・レコード、(ブルース・)スプリングスティーンのベスト・レコード、U2のベスト・レコードもそこに入れられるだろう。誰もが関わりのあるレコードのひとつってわけ。ほとんどの人の人生のなかでサウンドトラックになってるんだ。

    あのレコードのことを考えると、1987年を思い浮かべる。あのレコードは3年くらい大胆不敵なものだった。改めて聴いてみると、初めて聴いた時のことを思い出すよ。俺はニューヨークに飛んでいた。それまでLAのレコード会社に行っててね。A&Rのヤツが先行版カセットを俺にくれて「このバンドからこのレコードが出てるんでチェックしてみて」って言われたんだ。リリース2ヶ月前くらいだったかな。「Welcome to the Jungle」あれはかなりクールだったね。気に入ったけど、ぶっ飛ぶとこまでではなかった。でも「It's So Easy」?俺はあんな曲をそれまで聴いたことがなかった。歌が始まったら、全てが「It's so easy, so fucking easy」ってアティテュードなんだ。あんなものは聴いたことがなかったよ。「Nighttrain」では自信たっぷりなアティテュードだ。「Out Ta Get Me」は意地悪く「ヤツらは俺を捕まえられやしない」って感じだ。あの意地悪さと怒りとアティテュードはクソ最高だね。それから「Mr. Brownstone」「Paradise City」もあった。(カセットで聴いたのは)アルバム収録曲の4、5曲って感じだ。俺は文字通り飛行機内で座って、口はあんぐり目もぱっちり「俺は何てものを聴いてるんだ?」って具合だった。(カセット収録時間は)20分だ。飛行機から降りると、俺は真っ赤な目をしてた。それでLAにいたあいつに電話してこう言った。「あれは何だ!?これは誰なんだ?これはどこから来たんだ?」あれは人生を変えるものの始まりだったね。


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    IRON MAIDEN - "The Number Of The Beast" (1982)

    俺にとって、あのレコードは文字通りアイアン・メイデンの最高潮なんだ。ベストソングがあるし、ベストなプロダクションをしている。あれは昔のディープ・パープルのレコードやレインボーの作品をたくさん手がけていたマーティン・バーチのプロデュースでね。ちょうどピークにあった頃なんだ。「The Number Of The Beast」はたぶん彼らがリリースしたなかでも最高のシングル曲じゃないかな。もちろん大ヒットとなったもっとコマーシャルなシングル「Run to the Hills」もある。超ディープな「Hallowed Be Thy Name」もね。あれは(ジューダス・プリーストの)「Beyond the Realms of Death」、(ディープ・パープルの)「Child in Time」と共にメタル叙事詩のひとつだね。(メタリカの)「Fade to Black」「One」「Welcome Home (Sanitarium)」の青写真みたいなものだ。

    それからいつだってちょっとしたクールなものもある。「The Prisoner」のイントロはTVシリーズから取られた。「22 Acacia Avenue」は彼らの1stアルバムの収録曲「Charlotte the Harlot」の続編だ。そしてブルース・ディッキンソンがポール・ディアノから引き継いで新ヴォーカルとなった最初のレコードだ。これはプロダクション、ソングライティング、アティテュードが全て一体となった作品だよ。オリジナル・ドラマーのクライヴ・バーが参加した最後のアルバムでもある。RIP。彼は本当に強く響くスネアロールをしていて、そういったものは俺に大きな影響を与えたんだ。ドラムを技巧楽器にするんじゃなくて、もっと重みとかアティテュードみたいなところで俺を触発させてくれた。エアドラムしてた頃のようにね。彼(のドラミング)はシンプルな方だったけど、彼がやった全てが超効果的だったんだ。

    いかにアイアン・メイデンがメタリカにインスピレーションを与えたかということを俺はいつだって公にしてきた。俺たちはいつも彼らを主たる影響として挙げているよ。彼らは他のどのバンドよりもクールだった。彼らにはクールなレコードジャケット、クールなパッケージ、クールなツアーブック、クールなTシャツ、クールなステージ装置がある。彼らは常に上を行っているように見えた。クールな照明設備もあったね。一番ファンに優しいバンドだし。俺の友だちがアイアン・メイデンからのエディがプリントされたクリスマスカードを持っていたのを覚えているよ。彼らはクレイジーでクールで、他のどのバンドよりも徹底してファンに優しいイメージを持っている。


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    JUDAS PRIEST - "Unleashed In The East" (1979)

    これは初期ジューダス・プリーストの頂点だね。たくさんいたヨーロッパのハードロックバンドで、彼らはアメリカ市場に風穴を開けようとして曲を書いていた時期なんだ。つまり曲を短くする−それは必ずしも悪い方法ではなかったけど、原点から外れて行ったものもある。これはヒットシングル以前に、ライヴで絶対的ベストにあったジューダス・プリーストなんだ。

    『Sad Wings of Destiny』からの曲がたくさんある。もちろん伝説の「Victim of Changes」も入ってる。ディープ・パープルの「Highway Star」みたいにエネルギーと騒がしいリフとダウンピッキングのみ。彼らはおそらくAC/DCと共に2つのギターが同じものを奏でる最初のバンドだったんじゃないかな。モーターヘッドやディープ・パープルみたいなバンドはギタリストが1人で違うこと、より重層的なことををやってたけど、ジューダス・プリーストに関しては両ギタリストが一緒に同じリフを弾くんだ。それによって音が倍増しただけじゃなく、よりヘヴィで大きくて厚みがあって没入感のあるサウンドになっている。オープンEでダウンピッキングになっているヘヴィメタル版の「The Green Manalishi」を聴けば、彼らが最前線にいたとわかる。このレコードは1979年に出たけど、サウンド全体は76年、77年、78年に始まっていた。彼らは先を行っていたんだ。俺にとってこれはいまだにジューダス・プリーストの最高のアルバムなんだ。


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    MERCYFUL FATE - "Melissa" (1983)

    マーシフル・フェイトは間違いなく俺たちにとって重大かつ極めて重要なバンドだった。メタリカのサウンドを形成するうえでも、アンダーグラウンドなハードロック界のたくさんの人たちにとっても、やたらと名前が挙がるくらい大きな役割を果たしたんだ。これは彼らの最初の正式なアルバムだった。俺たちみたいな(当時の)たくさんいた次世代のバンドにそれは大きな影響を与えたよ。彼らは素晴らしい友人でもあるし、「悪事」のパートナーにもなった。俺たちは彼らのスタジオでリハーサルをやって一緒にショーをやった。(メタリカの)『Garage〜』アルバムでは実際に彼らの曲のメドレーもやった。2つのギター、たくさんのハーモニー、音楽的な冒険があったね。ある曲はものすごく長いんだ。「Satan's Fall」っていう少なくとも10分かそこらの曲があるんだよ。

    彼らのコンサートはクレイジーだよ。(フロントマンの)キング・ダイアモンドは曲の前に主の祈りを逆から暗唱する。ある曲ではガチョウの羽を持って、この儀式の全てを執り行うんだ。彼はその行為に超情熱的でね。彼はスーパー・クールガイだよ。俺たちは本当に彼らの楽曲に夢中になってた。とても新鮮でオリジナルなものだったから、俺たちは彼らのことが大好きなんだ。彼らは本当に長年の間、戦友みたいなもんだね。


    RollingStone(2017-06-22)
    DIAMOND HEAD - Sucking My Love


    GUNS N' ROSES - It's So Easy (Live Recording)


    IRON MAIDEN - Hallowed Be Thy Name


    JUDAS PRIEST  - Victim of Changes


    MERCYFUL FATE - Satan's fall



    続きはまた後日に。

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    ラーズ・ウルリッヒ「Spotifyとは現時点ではうまくいっている」
    ラーズ・ウルリッヒのお気に入りのHR/HMアルバム15選(1)

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第2章2回目。有志英訳を管理人拙訳にて。ラーズとジェイムズが出会ってすぐにメタリカ結成とはならず。ラーズはヘヴィメタルの「本場」を自分の目で観るためにイギリスへと向かいます。

    - 夢の国への片道切符 -

    81年春、ラーズのNWOBHMへの狂信ぶりはいまだ健在だった。4月、ラーズは絶対的お気に入りバンドのひとつ、ダイアモンド・ヘッドの『Lightning Strikes』LPをメール便で受け取った。このアルバムは彼を完璧にぶちのめした。彼は半年以上もこのアルバムを待っていたのだ。ギターリフとバンドの新鮮味は彼を驚愕させた。『Lightning Strikes』は数年間のNWOBHM集中期における爆発的なクライマックスだった。いまやあの都会っ子はポケットに少しばかりの貯金を持った17歳の少年となっており、夏休みは目前に迫っていた。

    「学校が6月に終わると、俺は落ち着かなくなっていた。これまで興味を持ったもの全てがイギリスにあったんだ。「Sounds」誌を購読していたから、郵便屋が来るたびに「Soundsの最新号は?・・・Soundsの最新号は??」って感じさ。メール便に入ってたら、玄関前で2時間「Sounds」誌を読み漁るんだ。自分の部屋まで歩くことさえしなかったよ。」

    「ジェフ・バートンは「Sounds」誌におけるヘヴィメタルのゴッドだった。彼は毎週アンダーグラウンド・シーンから新しいバンドを紹介していた。そして毎週、彼のプレイリストと着ている服が載ってたんだ・・・。いやぁあれはバイブルだったよ!」

    「当時、サクソン、アイアン・メイデン、デフ・レパード、ガールスクール、サムソン、そしてタイガース・オブ・パンタンといったメジャーなバンドたちがトップ記事になり始めていた。ある週はガールスクールが表紙を飾り、次の週はクラッシュといった感じでね。「Sounds」はヘヴィメタルだけじゃなくて、全ての独立した音楽シーンを網羅していたんだ。」

    「だからもう俺はイギリスに行かなきゃなんないって思ってた。コトが起きている場所へ行かなきゃなんないって。81年の俺のお気に入りのバンドはダイアモンド・ヘッドだった。そして俺はバンドのマネージャーであり、ヴォーカルのショーン・ハリスのお母さんでもあるリンダ・ハリスと文通をし始めていた。彼女は俺にこう伝えてきてくれた。「もしイギリスに来るんだったら、いつでも歓迎するわ!」とね。」


    「ダイアモンド・ヘッドは6月最後の週と7月最初の週のあいだ、ツアーでヘッドライナーを務めていた。だから7月最初の週に俺は荷物を詰めてロンドンに飛んだんだ。ダイアモンド・ヘッドはロンドン郊外のウールウィッチ・オデオンでライヴをしていた。俺はヒースローに着くと、直接空港からウールウィッチまでバッグを手に持ったまま行って、バックステージのドアをノックして、リンダ・ハリスがここにいるかときいたんだ(笑)。「こんにちわ・・・ご存知かと思いますが・・・アメリカから来たラーズです!」って言ったら、両手を広げて歓迎されたよ。」

    「ロンドンのダイアモンド・ヘッドはこれ以上ないってくらいよかったね!会場はたぶん1500人収容だったんだけど、あのダイアモンド・ヘッドをたった300人しか見に来そうもないってことには間違いなくちょっと驚いたよ。でもそれから、そんなことはどうでもよくなったんだ・・・。ただ単に最高だった。そして(訳注:メタリカが後にカバーすることになる)「Helpless」も「The Prince」も演ってくれたんだから。」

    「ツアーの最終日、彼らの故郷であるバーミンガム郊外のスタウアブリッジに招待されたんだ。俺はちょうど立ち寄ることができて、彼らと何日か過ごすことができた。1日か2日はロンドンの安ホテルに泊まって、それからバーミンガムまで電車に乗った。本当に緊張したよ。ショーン・ハリスが駅まで俺を迎えに来てくれるって話だったからね。でもこの頃の俺はアルコールが「勇気」をくれると気がついていた。だからバーミンガム行きの電車で俺はスミルノフボトルのウォッカをストレートであおったんだ。まだ昼下がりだってのに!」

    ラーズはちょっと話を止めると、笑ってまた話し始めた。

    「そうそう(笑)。ショーンが駅まで迎えに来てくれたんだけど(笑)彼はガールフレンドのヴィッキーと一緒だったんだ。俺たちは車に乗り込んだわけだけど、わかっておかなきゃならないのは、あのショーン・ハリスと同じ車に座っているってことだ。レッド・ツェッペリンかディープ・パープルのファンがロバート・プラントかリッチー・ブラックモアに駅まで迎えに来てもらっているかのようだった。俺にとってはそれと同じレベルだってことだよ。ハッキリ覚えているのは車に乗って5分後くらいにショーンが俺に言ったこと。「ここウォッカ臭いな、オマエ飲んだのか?」とね。俺は「いやいやいや・・・もちろん飲んでませんよ!」と答えた。「本当にウォッカの臭いがするぞ、おかしいな」とショーンはまだ言っていた。もちろん俺は「ウォッカの勇気」をもらってたんだけどね(笑)。」

    「バーミンガム郊外の労働者階級の地区にある彼の家に着いた。実際、俺はここで2、3週間居座ることになるんだけどね!俺はリビングで生活して長椅子の上で寝ていた。そしてダイアモンド・ヘッドに関する全てのものに夢中になることを許された。リハーサル風景、作曲過程やギグも観たし、彼らが演奏しているところも見た。もはやこれ以上ないくらい最高だったよ。」

    この訪問はブリティッシュ・メタルの先駆者であるダイアモンド・ヘッドにとっても貴重な体験だった。

    「俺たちは彼を追い出せなかったんだ。」ショーン・ハリスは語る。(マーク・パターフォードとザビエル・ラッセル共著「Metallica : A Visual Documentary(邦題:Metallica 激震正史)」(1992)から引用)「でも俺たちにとってもちょっと特別な感じだったんだ。彼はバンドに夢中になってくれた最初の外国人だったから。だから俺たちは彼の熱意を気に病まなかった。だって、ファンがカリフォルニアからわざわざ自分たちを見に来たんなら、自分たちは何か正しいことをしていると思えたからね。」

    ショーン・ハリスはラーズが泊まった初めての夜にお気に入りのダイアモンド・ヘッドの曲でどう狂っていたかハッキリと覚えている。

    「でも彼はいい子だったよ。ひくほど熱心なファンだった。彼は一晩中起きて「It's Electric」を聴いているんだ。俺は明け方まで起きていたんだけど、眠ってしまった。数時間後に目が覚めたら、彼はまだそのレコードをかけていたよ!」

    ラーズはヘヴィメタル天国にいた。自分の国、言うまでもなくニューポート・ビーチへ早く帰りたいという証言などまったくなかった。もっと留まりたかったが、外向的で熱狂的であるにも関わらず、ダイアモンド・ヘッドと永遠に一緒にいるということは叶わなかった。お金の問題があったのだ。ラーズはイギリスへの旅行に必要なだけのお金しか持っていなかったし、おかしな話だが、イギリスという夢の国への片道切符しか予約していなかった。しかし、計画を達成するにはそれで充分だった。彼は前年去った街に戻っていた。

    「8月にコペンハーゲンに戻って、そこで4週間楽しく過ごしたよ。」ラーズは振り返る。「叔母のボーディルと叔父のヨルゲンと一緒にゲントフテで暮らした。そこでアメリカに飛んで帰るためのお金を稼いだんだ。(訳注:ラーズが所属していたテニスクラブ)HIKで働いて、そこで毎日舗床を掃除していた。」

    しかし、デンマークの晩夏にストリートを楽しむこともできた。皮肉なことにラーズがフロリダのテニス・アカデミーにいたあいだに、アイアン・メイデンはキッスのサポートでコペンハーゲンのブロンディー・ホールでライヴを行っていた。しかし今度はラーズがコペンハーゲンに戻ってきているのだ。そしてアイアン・メイデンも。バンドは『Killers』ツアー最後のギグを行なった。アイアン・メイデンへの関心はブロンディー・ホールでの不可解な行動の後、激変した。キッスは脅かされキャンセルとなったのだ。バンドはもはやブレッド通りのオッド・フェロー・パレットでヘッドライナーを張っていた。

    ラーズといとこのステインは当然参加した。ラーズにはコンサートが終わったらすぐに行動に出る奥の手があった。

    「1980年のクリスマスにアイアン・メイデンのクリスマスカードを受け取ったのがブライアン・スレイゲルだったと思う。彼はPRとか宣伝が得意なんだ。そのカードをヨーロッパへ持っていくことを許してもらった。オッド・フェローで、俺は警備員の一人に言ったんだ。「ほら、ボクはクリスマスカードを持っている。だからクリスマスト・リスト(訳注:バックステージ・パスのリスト?)に名前が載っているよ。バックステージに入りたいんだけど。」ってね。彼はまんまと騙されていたよ!(笑)」

    「俺たちは寒い更衣室に着くと、スティーヴ・ハリスとデイヴ・マーレイがそこにいた。とても取っ付きやすい人だったよ。ポール・ディアノはひどく酔っ払っていて、ローラースケートを履いていた。「イイものあるけどいるか?」ってきかれて、アフガンブラック(訳注:大麻)みたいなものを作らなきゃならなかった。それから座ってポール・ディアノと大麻タバコを吸ったんだ。」

    ステイン・ウルリッヒ「彼らはみんな信じられないほどフレンドリーでみんな「おいで!」って感じだった。もちろんラーズは彼らについて俺なんかよりずっとよく知っていたけど、いろいろきいていたよ。後になって、ラーズは俺に彼らはシンガーに欠点があると言っていた。だから彼らが新しいメンバーを入れればいいのにと思ったのを思い出すよ。そしてそれを数週間後にやったんだ。それから彼らはビッグになった。(真の意味で)バンドになったんだよ。」

    確かに。ラーズはバンドで機能したかしなかったかを見極めるセンスをすでに持っていた。ポール・ディアノの脱退、そして新しいシンガーで元サムソンのシンガーのブルース・ブルース(ブルース・ディッキンソン)加入のニュースは、再びバーミンガムのスタウアブリッジに滞在していたラーズに届いた。このときはダイアモンド・ヘッドのギタリスト、ブライアン・タトラーと一緒だった。止められないヘヴィメタル巡礼者ラーズは、いまだにヘヴィメタルが無きに等しいアメリカへの帰途、ヘヴィで崇高な啓示を受けるもう数日を要しなければならなかった。

    ラーズはまず、ストーク=オン=トレントのポート・ヴェイルFCで行なわれた本物のヘヴィメタル・ミサに行った。そこではモーターヘッド、オジー、ライオット、サクソンのような名前が連ねたワン・デイ・フェスティバルのヘヴィ・メタル・ホロコーストが行われていた。

    「もちろん俺はコンサート後に何とかしてバックステージに忍び込もうとした。俺はそういうことがかなり得意だったんだ。」ラーズは皮肉っぽく言ってから、1981年夏の幸せなイギリス訪問の後半について話し始めた。

    「"ファスト"・エディ・クラークのギター・ローディーのグラムと仲良くなった。それから俺は「やぁ!」とか「ハロー!」とか言われていた。モーターヘッドと一緒にいることを許されるまでになった。1週間、ブライアン・タトラーと暮らして、3日間ロンドンに行った。そこでノー・ミスと呼ばれていたモーターヘッドがリハーサルをしていた場所をみつけた。そこへ行って、ドアをノックしてみたんだ(笑)そしたらモーターヘッドのリハーサルに立ち会えたよ!昨日のように覚えているよ。"ファスト"・エディとフィルシー・"アニマル"・テイラーとレミーと俺が同じ部屋で座っているんだ。そこは次のアルバムのための曲を作っている場所だった。彼らを見て、フロアに座ってさ、「Iron Fist」を作っているときのことをよく覚えてる。レミーが俺の真ん前で歌詞を思いついて、彼らが次のアルバムのタイトル曲になる「Iron Fist」を弾くのを見たんだ。」

    「同じことを言うようだけど、それはレッド・ツェッペリンのファンが『Physical Graffiti』の曲を彼らによって作られているところを見ているようなものだよ。変な感じだったけど、俺はそういう取り巻きグループに正しく入る方法を持っていたってだけだよ。」


    本当に驚くべき能力だ。その能力はユニークで長年に渡って素晴らしいままであった。それはラーズ本人さえわかっていない。

    「俺はたぶん真っ当なことを言っていたんだ。あるいはいくらかの熱意、誠実さ、あるいはバカさ加減かな?」彼はそう思った。

    「でも釣り合うようになるには、そういうもの全てが充分だった。シーンで何が起きているかを理解できたんだ。俺はそこまで没入してなかったけど、すぐそこにいることを許されていた。たぶんうやうやしい態度とちょっと際立った感じだったからかもしれないね・・・。「デンマークの鼻タレ小僧が外に立っているぞ・・・かまうもんか!」ってね。俺は外に立っていた唯一のファンだった。もちろんそういうバンドがどこにいるのか知っている唯一のファンでもあったわけだけどね(笑)」

    ラーズは心から笑った。自分の「能力」を、自分自身を、若き日の熱意を。そしてあの頃の思い出を。自然と歯に衣着せない積極的な能力は、おそらく子供の頃、世界を廻ってたくさんの人々との出会い、そしてLundevang通りの家に訪れたミュージシャンやアーティストから来たのではないだろうか?

    「まぁ、たぶんそうだろうね!全部。あの頃、つまり親父がコペンハーゲンで一緒にいたすべてのミュージシャン、フランツ・ベッカリーとかそういう近くにいた全ての人々から来ているのは間違いない。俺はたぶん見えない境界線があるのも理解していた。そんな境界線はスミルノフをいただけば消えるけどね。無知だったこともあるかな。俺はノー・ミスに行けばモーターヘッドの人たちと喋ることができると信じていたんだ!」

    いずれにしても、ラーズ・ウルリッヒはそうなることを強く望んでいたのだ。彼は自分のプロジェクトをやり遂げた。さらにファンとしての夢をめいっぱい追い続けたのだ。都会のヘヴィメタルマニアにとって、1981年の夏は魔法にかかったかのようだった。そんな夏はこの年の終わりまで続いていったのである。

    「10月、俺はまだイギリスにいた。あの忌々しいコロナ・デル・マーは9月中旬に新学期が始まっていた。だから俺はすでに「最終期限」を逃してしまっていたんだ。戻ることに特に興味がなかったから、イギリスで立ち往生し続けていた。ふっ(笑)。でも10月中旬には戻った方がよかったんだ。」

    「でもサクソンとライオットのコンサートが(訳注:イギリス南東部の)ブライトンであったから、俺は行ってライオットの人たちと会うためにバックステージに忍び込んだ。サクソンはもういなくなっていたんでね。その翌朝、LA行きの飛行機に飛び乗ったんだ。」


    ラーズは戻った先ですぐにサクソンとも接近することとなった。直に接したわけではないかもしれないが、ラーズがヘヴィメタルの熱狂的なファンから、自分のアイドルたちをサポートするバンドの結成メンバーになるまでわずか半年であった。

    ロックにおける歴史的規模の変革が起きようとした。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

    Mkeynes
    1993年、ミルトンキーンズ・フェスのバックステージにて。左からショーン・ハリス、ラーズ・ウルリッヒ、ブライアン・タトラー

    ラーズの恐るべき行動力はここに来てさらにエスカレートした感があります。イギリスと離れたところに住んでいたことさえも逆にアドバンテージにしているような・・・。

    途中出てきた『METALLICA激震正史』についてはこちらからどうぞ。
    http://metallica.ninja-web.net/books.html#gekishin

    第2章はこれで最後。次回の第3章ではついにラーズがメタリカ結成へ動きます。

    ※麻薬、ダメ、ゼッタイ

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    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第2章1回目。有志英訳を管理人拙訳にて。(日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。)
    コペンハーゲンからロサンゼルスへと引っ越したラーズ・ウルリッヒがついにテニスと決別し、バンド結成へ動き始めます。

    - Lundevang通りからロサンゼルスへ -

    ウルリッヒ家はカルフォルニア州ロサンゼルス南部ニューポート・ビーチでいわゆる「コンドミニアム」の(訳注:あくまでデンマークのときの家と比べて)小さな家に引っ越した。1階にキッチンとダイニングとリビングルームと2つの寝室、そして2階にはゲスト用の寝室。ラーズの部屋には初めてTechnicsのステレオにJBLのスピーカーが据え付けられた。部屋の残りの壁はレコードでビッシリの棚で覆われた。

    (いまだに彼の家にある)茶色い机はLundevang通りの家から持って来れたが、残念なことにドラム・セットを置くスペースはなかった。もちろんドラムを演奏するためにわざわざ大西洋を横断することはしなかった。しかしテニスをし、高校・大学の試験をパスする傍ら、ファンとして娯楽レベルで音楽への関心を保ち続けていた。

    引越しの身支度で外せない重要なこととして、音楽シーンに触れ続けていくために、ブリストルのケン・アンソニー、イギリスの通販会社、そしてイギリスの週刊音楽誌「Sounds」の予約購読課へ自分の新しい住所を伝えることが必要だった。

    ヨーロッパから最新のレコードを得るためにお金が必要になったラーズは、すぐに新聞配達員の仕事を始めた。毎朝4時から5時まで「Los Angeles Times」を配達したのだ。学校に行く前までに配達を終えなければならなかったが、幸運なことに運転免許証をすでに取得していた。両親は喜んで自分たちのライトブラウンの白いルーフ付きペーサー(アメリカン・モーターズの販売車種)をラーズに貸した。

    ラーズは9月の初めからコロナ・デル・マー高校に通い始めた。子供の頃のように自転車で学校に行き、それからテニスの練習をしたのだ。しかし場所や気候面を超えた明らかな違いがそこにはあった。

    「学校の近く、2マイル(約3キロ)くらいのところに住んでた。毎日学校まで自転車さ。おかしなもんだよ。ご近所さんはかなり裕福だった。俺はこれまでと違う上流階級に慣れていなかった。何が違うって、もちろんアメリカにいるってことがね。俺たち家族はヘラルプにいた頃は自分たちが裕福だとは本当に思わなかった。階級の違いなんて知らなかったんだ。ニューポート・ビーチではピンクのラコステTシャツを着た16歳のヤツらがあたりにウジャウジャ突然あらわれるようになったのさ。」

    「その輪の中に入っていくのは俺にとって変テコで驚くべきことだった。俺は毎日、サクソンやアイアン・メイデンやモーターヘッドのTシャツを着て学校へ行って、フットボールをしていた筋肉ムキムキのヤツらと一緒にいた。俺はそう(筋肉をつけたり)はしなかったけど、(パール・ジャムの)エディ・ヴェダーや(ニルヴァーナの)カート・コバーンのインタビューで耳にしそうな、いじめられたり、「俺はのけ者だ」みたいなことはなかった。そんなに悪くはなかったよ。テニスをして、ヘヴィメタルを聴く。ケンにデンマークとイギリスから送ってもらったレコードを持って、学校に行って、そんな自分の小さな世界のなかで生きていたよ。間違いなく俺はちょっと・・・まぁ「ユニーク」だった。でも学校からの帰り道でぶん殴られるようなこともなかった。そんなことは一切なしだ。学校へ行って、スペイン語と少しばかりジャーナリズムについて勉強して、メタルを聴いて、アイアン・メイデンTシャツを着て歩き回り、テニスを続けようとしていたんだ。」


    「そこで実際に何が起きたかというと、自分には充分な才能や積極性がなかったし、あのテニスチームにいる資質さえなかったと気付いたということだ。それが1980年から81年のあいだで、そんなことに気が付き始めたもんだから、たぶん俺が想像していたような方へ転がり始めたんだよ(笑)」

    大きな望みを持っていたテニス界からラーズを突然引き離したのは直観ではなかった。長く意識的なプロセスと環境の組み合わせの結果だった。

    「コンサートに行き始めたからさ。AC/DC、ヴァン・ヘイレン、テッド・ニュージェント、シン・リジィ、パット・トレイヴァーズとかその他いろいろとね。2種類のコンサートがあった。つまり、ロング・ビーチ・アリーナやLAフォーラム、サンタ・モニカ・シヴィックでやるような大きなアリーナ・ライヴと、スターウッド、ウイスキー(・ア・ゴー・ゴー)、トレバドールといったハリウッドのクラブでやるようなライヴがね。1980年も終盤になると、そんなクラブ・シーンを楽しんでいた。最高だったのはイエスタデイ・アンド・トゥデイってバンドを観た時だね。彼らがY&Tと名乗る前に4、500人ぐらい入る小さなスターウッドでライヴをやっていた。ウチの親は俺に車を貸してくれた。俺はあのクラブで立ち見したのをハッキリと覚えているよ。」


    「あれは本当に最高な時間だった。バンドはヘヴィメタルを楽しんでいた。本当にロックンロールの雰囲気があったよ。そして、最大500人のためにライヴをやるようなレベルのバンドになる方が、テニスで走り回ったり、もがき苦しんだり、練習や真剣な鍛錬のために走ったり、腕立て伏せしたり、ビール禁止、ハッパ禁止なんてことやるよりもずっといいじゃないかと思ったのを覚えているよ。あの夜に感じた自由をよく覚えている。俺たちみんな楽しんでいたし、限界も何もなかった。ロックンロールの自由という素晴らしいゲーム、それはあのレベルに行くまで何か始められるか試してみるには充分な魅力だった。それからテニスとかくだらないこと全てを指で弾き飛ばしたんだ。」

    いつもどおり、ラーズは考えたら即行動に移した。すぐに新しい夢を追いかけ始めたのだ。

    「コペンハーゲンでは俺の地下室の部屋でドラムを叩いていた。そして80年12月、俺はこう思い始めた。「よし、アメリカでドラムセットを手に入れるにはどうしたらいいだろうか、うーん・・・」そうして俺は親父にあの有名なセリフを言ったのさ。「今からバンドを組んで、ドラムセットを手に入れて10日でドラムの演奏を勉強しようと思う!」ニューポート・ビーチから10分から15分くらいのところのサンタアナにあるウエストコースト・ドラムっていうドラムの店があった。ウチの親はそこで小さな茶色のドラムセットを借りることを許してくれた。住んでいたコンドミニアムは2階があったけど、そう大きくなかった。だから両親の部屋と俺の部屋のあいだにあったゲスト用の寝室にあのドラムセットを置かなきゃならなかった。窓をマットレスで覆って、それからドラムを演奏したんだ。ま、と言うよりはドラムを演奏しようとしていたという方が正しいかな。」


    新しくデザインされたドラムルームにはトーベン所有のAIWAのテープレコーダーがあった。ラーズはそれを使ってドラムの演奏を学ぼうとした。当然のことながら10日以上かかることとなった。しかし彼は1980年最後の数週間、毎日ドラムを叩いて過ごしたのだ。

    「当時の俺のお気に入りはダイアモンド・ヘッド、タイガース・オブ・パンタン、そしてトレスパス(Tresspass)と呼ばれたバンドやその他そういった類のバンドだった。ドラムの演奏を学ぶ代わりにヘッドホンでバンドの曲を聴きながら、それに合わせて叩いていた。そんなことがクリスマスまで続いていたんだ。クリスマスも日柄一日ドラムを叩いて過ごしていたよ。」


    ドラムを叩くことで、ラーズの中で新しく決定的な何かに火がついた。

    家族と住んだニューポート・ビーチは、ブリティッシュ・ヘヴィ・メタルの若いファンが街角のいたるところに必ずしもいるわけではなかった。しかしロサンゼルスは大都市で、当然、彼のような情熱の持ち主はまったく一人というわけではなかった。前述したクリスマスにラーズがドラムを叩いていたことで、ドイツ人ギタリスト、マイケル・シェンカー(70年代のバンドでラーズのお気に入りのひとつ、UFOに在籍)のカントリークラブでのコンサートへとつながっていく。そこで2人の地元のヘヴィメタルファンが長髪で間違いなくヨーロッパのサクソンTシャツを着ていた小柄なラーズに目をつけた。この時だけは、話の主導権を握ったのはオープンマインドなラーズではなかった。しかし、ウッドランドヒルズからやって来たわずか4歳年上のブライアン・スレイゲルとその友人、ジョン・コーナレンスもそこではヘヴィメタルファンは自分たちだけだった。つまり熱狂的なラーズ・ウルリッヒと同じ境遇だったのだ。

    コンサートの後、2人はラーズの元へ行き、見かけない変わったTシャツについて尋ねた。ラーズはデンマークからLAに引っ越したばかりであることを彼らに話した。1週間ほど後には、3人でラーズの家でヘヴィメタルのレコードを聴いていた。彼らはすぐに仲良くなり、必ずしも近所にはなかった真っ当なレコード店へ遠出する用意をした。ブライアン・スレイゲルもラーズと同様、積極的で創造的だった。彼はここから1年しないうちにラーズが夢のバンドを始める手助けをすることとなる。

    年が明けてすぐ、希望に満ち溢れたラーズはロサンゼルスの新聞「The Recycler」に広告を出した。

    「みんながそこで中古車、家具、カーペット、台所用品を売っていたよ・・・。それにたくさんの広告があったんだ。『彼女募集中』『ゲイの彼氏募集中』とかね。「ミュージシャン」の欄にはマーシャル・アンプやドラムも売っていたし、個人的な欄つまり『バンドメンバー募集中』とか『加入バンド募集中』とかもあった。そこで俺はこんな広告を出した。『ヘヴィメタルのドラマーがヘヴィメタルバンド結成のために他のミュージシャンを探しています。影響を受けたバンド:タイガース・オブ・パンタン、ダイアモンド・ヘッド、エンジェル・ウィッチ、ホワイト・スピリット』」

    「そうしたら電話が鳴り始めた。でも毎回バカの一つ覚えみたいに「イェー!ヘヴィメタル!エンジェル・ウィッチだかダイアモンド・ヘッドだかは聴いたこともねぇけど、カンサス、スティクス、ジャーニーはマジで好きだぜ!」っていう感じだった。ヴァン・ヘイレンを聴いていたヤツやジューダス・プリーストは聴いたことあるかもってヤツもいたっけ。当時のLAにアンダーグラウンド・シーンなんてなかったんだよ。アメリカのFMラジオで流れているアメリカン・ハードロックしかなかったんだ。」

    ラーズは彼らを(NWOBHMへ)転向させることができるかもと希望を持って、さまざまな若いミュージシャンのうちの何人かと会いはじめていた。

    「大概は連絡してきたヤツがやって来ると、俺がタイガース・オブ・パンタンとダイアモンド・ヘッドを聴かせる。俺の考えとしては、こういうバンドに影響を受けたバンドを作りたかったんだ。でも実際はカバーバンドを作ることに、より一層興味を持っていた。NWOBHMカバーバンドをね!LAにいるバンドはカバーかオリジナルだったけど、カバーバンドはみんなヴァン・ヘイレン、ジャーニー、キッスの曲ばかりだった。だから俺は言ったんだ。「俺たちでカバーバンドを作ろう。でもみんなが知ってるような曲はやりたくない!」ってね。それは誰も本当に理解できないような新しい(カバーともオリジナルとも)どっちとも言えないスレスレの領域みたいなものだった。」


    ラーズはニンマリとして話を続ける。「初めて何かを始められたのはジェフ・ワーナーってヤツと。奔放でほれぼれするヤツだった。彼はヘヴィメタルなタイプだったから、俺は彼に曲を聴かせたんだ。ワーナーは本当に初心者だったんで、トレスパスの曲を何曲か台無しにしてしまって、実際には数ヶ月で他に何かないかと思っていた。それからある日、俺たちはジャマイカから来た黒人のロイド・グラントってヤツと会った。彼はヒッピーみたいな出で立ちで、フライングVとマーシャルのアンプを持っていた。サイケデリックなリードギターを弾けたってだけで、俺たちは彼のことを「ブラック・シェンカー」って呼んでいたよ。本当によかった。彼はそんなにギターを弾けるわけじゃなかったけど、本当にすごいソロを弾けたから、ジェフにはリズムギターをやってもらうことにした。それが最初のプロジェクトだった。」

    「そうして俺は81年春にはそのプロジェクトをやっていた。それから、1人だったか2人だったかがもう興味がなくなったとかそういうことで止めてしまったんだ。俺はコロナ・デル・マーに通いながら、変わらず広告を出して、いろんなイカれたヤツらと会っていた。でも81年5月、ヒュー・タナーってヤツから電話があった。彼と会ったことはクールだったね。彼はリード・ギタリストだったんだけど、彼と一緒にもう一人いたんだ。ペーサーにドラムセットを積む空きスペースがあったんで、俺が彼らに車で会いに行った。場所はフラートンだったか、ブレアだったか、まぁどこであろうと、俺たちはそこで伝説的な初めてのジャムをしたんだ。俺とヒュー・タナーと、電話では話していなかった第三の男、ジェイムズ・ヘットフィールドとね。」

    「俺は当時たった半年しかドラムを演奏したことがなかった。だから何も特別なものはなかったけど、少なくとも曲のペースは保っていた。初めてのジャムではヒュー・タナーがギターで、ジェイムズは歌っただけだった。とても良かったんだけど、俺が叩くたびにシンバルが落ちたんだ!あれは本当にマズかった。特別な何かはなかった。俺たちはちょっと話してから言ったんだ。「連絡を取り合おう」とね。でも部屋の隅に立っていたヘットフィールドのことはとても興味深いと思っていたよ。」

    ラーズとヘットフィールドは初めてのジャムから数ヶ月経っても、ほとんど話すことはなかった。しかしついに彼らは少なくともお互いの電話番号を交換し、どんな音楽が好きかをやり取りしたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

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    80年代初頭のジェイムズとラーズ

    Y&Tがラーズ・ウルリッヒにミュージシャン志向となるきっかけを与えたとは知らなんだ。そして、ついにと言うかようやくと言いますかジェイムズ・ヘットフィールドが登場してきました。叩くたびにシンバルが落下するというラーズにとっては気まずいジャムから始まった出会いですが、人生何があるかわからないものです。

    このまま両者が接近すると思いきや、次回は思わぬ方向へ物語が進みます。


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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章デンマーク編最終回。有志英訳を管理人拙訳にて。日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。今回はラーズとヘヴィメタルとの本格的な出会いからアメリカに移住するまでのお話。

    - ヘヴィメタルとの出会い -

    フロリダのテニス・スクールに通い始めた時、ラーズはよりもっと私的な、それでいて非常に興味を持てる「学校教育」をコペンハーゲンで既に受け始めていた。この「学校教育」は後に彼がヘヴィメタルへ進み、テニスを排除する決断を下す上で重要な影響を及ぼすこととなる。「学校」で受けた基本的な授業はNWOBHM(New Wave Of British heavy Metal)だった。

    ロック史におけるその他多くのストーリーと同様、それはジャズから始まった。1978年秋のある日、ラーズとトーベンはストロイエにある街の音楽店、ブリストル・ミュージック・センターに行った。1階がトーベンが頻繁に出入りしていたジャズのフロアで、地下フロアがロックが大半を占めるフロアとなっていた。よってラーズは父親が上でブルースを鑑賞しているあいだ、地下フロアに居座ることができたのだ。

    ロック・フロアのカウンターには、ケン・アンソニーというヘヴィメタル界ですでに大きな経験をしてきた当時23歳の長髪の青年が立っていた。ケンもディープ・パープルやその他70年代のハードロックを聴いて育った。しかしさらに新しいものやもっと強烈なサブジャンルとされていた「NWOBHM」に関してとんでもなく膨大な知識を持っていた。「NWOBHM」はこれまでより攻撃的で、ブラック・サバスやジューダス・プリーストのような革新的なバンドから影響を受けたヘヴィメタルの明示型だった。78年、NWOBHMは反体制的でかなり市場に出回ってきたパンクの影にまだ隠れていた。セックス・ピストルズとそのマネージャー、マルコム・マクラーレンの無秩序でありながら、よくしつらわれた「パンク革命」のおかげで新しい波が来ていたのだ。

    ラーズはいつも先取りした好奇心の強い子だったので、すぐにケンと連絡を取り合うようになった。ケンは自分の好みだがあまり人気のない音楽スタイルを自分より若い弟子に紹介することができて本当に幸せだった。

    「ラーズにはたくさんの音楽をみつけてきたよ。ちょうどNWOBHMが始まった頃だったから、その界隈のタイガース・オブ・パンタン、ダイアモンド・ヘッド、ウィッチファインダー・ジェネラルといったバンドを(店内で)流していた。彼は少なくとも週に1度は店に来るようになった。」とケン・アンソニーは振り返る。

    ラーズ「ブリストルはコペンハーゲンの音楽の聖地だった。地下フロアは当然のごとく(笑)ロックとハードロックがあった。「ヘヴィメタル・ケン」がドイツやカナダ、日本からたくさんレコードを仕入れていた。バウワウ、トライアンフ、ティーズ、ストリートハード、ナイト・サン、ルシファーズ・フレンド、トラストとかそういった全てのバンドをね。週に何度も行っては、午後ずっと居座ってヘッドホンが使えたカウンターで曲を聴いていたんだ。」

    ケンとの出会いはラーズにとって新しい音楽、つまり目立たないNWOBHMのバンドたちに関する啓示となった。ラーズがフロリダに発つ時、両者は連絡のやり取りを続けることをお互いに同意した。ラーズがフロリダの学校で過ごした時間は全然ハッピーな時間ではなかったので、それはいいことだった。

    「あそこは全寮制のテニススクールだった。でも俺は「テニス刑務所」って呼んでいたけどね・・・。急に学校の生活リズムに合わせるのは俺にとってはハードなことだった。俺は自由に育てられたってこともあるし、78、79年頃にはハッパを吸い始めていたからね。そんな生活から途端にあそこじゃ貯蔵庫のある1つの部屋に4人ぐらいが生活していた。俺とベルギーのヤツを除いて、みんなあのアカデミーの近くの学校に通っていた。だから俺たちがテニスをしていた時は午後中、他の誰もいなかった。夜11時には消灯でテレビもないのにそこから出られないんだぜ。」

    あらゆる意味で、あのLundevang通りの天井の高い家でアートと音楽で夜更かししていた生活から突如変わったのだ。したがって、1979年のクリスマス休暇は学校から離れる待ち望んでいた時間となった。ヘラルプで過ごす待ちに待ったクリスマスはラーズを生気づけた。一番重要だったのはブリティッシュ・ヘヴィメタルをケンと一緒に天国のようなブリストルで過ごしたことだった。

    「あの当時、イギリスでは本当に何かが起こっていた。」とラーズは回想する。特に覚えているのはモーターヘッドの2つのアルバム『Bomber』と『Overkill』、そして「ブルースブルース」と呼ばれていたリード・シンガーがいたサムソンというデビューしたてのバンドだった。アルバム『Survivors』はその当時からのラーズのお気に入りの1枚となった。

    しかし大晦日の後、すぐにラーズは「フロリダ刑務所」に戻っていった。

    「2、3ヶ月で、もう耐えられなくなったよ。同部屋の外国人にできうる全ての悪いことを提案した。学校をこっそり抜け出して、ビールを買おうと地元のセブンイレブンに行き始めた。ある晩にはハッパを吸った。才能あるアメリカの上流階級のお方々が寝静まった後で俺たちはハッパを吸っていたんだ(笑)。それから彼らが俺たちをチクった。そうして先生と5、60人の生徒とで会議が招集されて「誰かが悪かった」だの「ここでこんなことは許しません」だの言う人がいた。それから俺たちは全生徒の前で立たされて、悪い見本だと言われたんだ。親父があんな人だから、平手打ちだけでどうにか済んだ。親父はとても人気があって尊敬もされていたから、そこで退学にはならなかった。」

    こうしてラーズは自らの決断でテニス・アカデミーを退学することにした。

    「3月、4月の段階でもうこんなくだらないことは十分だと思った。あの自由なコペンハーゲンで育った後じゃ、あらゆるルールをしっかり守るなんてできなかったから、俺は最悪のトラブルメーカーのひとりになっていた。でも、たぶん退学を決めたのはさまざまなことが起因していたと思う。毎日2時にバックハンドをライン上に打つ練習を30分、2時半からフォアハンド、それから1時間サーブの練習して、50回の腕立て伏せ、それからコートのサーブ・コーナーからネットラインまでダッシュしなければならなかった。日柄一日そんなクソみたいなことをやっていた。とてもよく規律が守られていたよ。まるで軍隊さ。(退学の決断をしたのは)だんだんテニスから離れていって、全ての時間を費やして誰かさんになるために練習をするっていうのは自分のためにならないと気が付き始めたからかもね。」


    「振り返ってみると、俺には続けられるだけの持って生まれた才能が充分になかったんだ。ジョン・マッケンローみたいな人は100%持って生まれた才能だし、彼の当時のライバルだったイワン・レンドルは別の極致、つまり毎日8時間練習漬けだったんだ。こういう2つの極致、すなわちテニスをたやすくやっていた選手とテニスに多くの時間をつぎ込まなければならなかった選手がいた。俺は自分のやり方だけでやっていくだけの充分な才能は持っていなかったんだ。ちゃんと練習しなければならなかった。トップに留まるためのあらゆる練習をやる忍耐力を持っていないと気付き始めたんだ」

    「デンマークではそこまで競争はなかったし、ウルリッヒという名だけで扉が開けた時もあった。でもアメリカでは才能の次元が違ったし、みんなもっと覚悟を持っていたし、ハングリーだった。アメリカでは親からのプレッシャーがもっとキツかった。70年代のデンマークではそんなことはなかったかもしれない。でも、このフロリダでの滞在によって俺は結論を得たんだ。あれは俺のためにならないと。でも、1年経つまでそのことに気付かなかった。」


    ラーズは自らの才能を徐々に気付かせたフロリダでの学校生活を振り返るのを終えた。気付いたのは「テニスの経歴とテニスそのもの」vs「強く浮かび上がってきた他の情熱」であった。

    コペンハーゲンに飛んで帰る代わりに17歳の都会っ子は西海岸、正確に言うとサンフランシスコのベイエリアの東側、バークレー・ヒルズへ引っ越した。そこは70年代、トーベン・ウルリッヒがベテラン・トーナメントでプレーしていた頃にウルリッヒ家が滞在していた場所であった。テニス選手たちは地元のテニスクラブのメンバーと個人的にしばしば住宅を提供されていた。そうしてウルリッヒ家はフォルミケッリ家と良き友人となった。

    「彼らと自由に外出していた。」ラーズは語る。「俺たちは家の女主人、マリエルのことを「西のおばあちゃん(Grandma West)」と呼んでいた。彼女は実際、アメリカでは家を提供してくれた俺のおばあちゃんだった。」

    1980年の春、ラーズはそのフォルミケッリ家と「西のおばあちゃん」と共にそこに住んでいた。この滞在でラーズがヘヴィメタル界に深くのめり込んでいくさまざまな出会いがあった。

    「ある日、地元のレコード屋でヘヴィメタルの輸入盤が置いてあるところに行った。レコードを見渡していると、それまでで一番クールなジャケットのレコードを見つけたんだ。本当にヘヴィに見えた。それはアイアン・メイデンという、それまで聞いたことのないバンドだった。俺はそこに立ってアルバムを眺めていた。それは新しくリリースされたばかりで、たくさんのライヴ写真とかそういうものが裏面にプリントされていた。それから俺はそのレコードを数週間聴いたよ。本当に最高だったんだ。」

    アルバム『Iron Maiden(邦題:鋼鉄の処女)』は、表のカバーに骸骨のようなモンスターの絵がプリントされていた。先にラーズが語ったようにバンドメンバーのライヴ写真はラーズを極致まで魅了した。この『Iron Maiden』でラーズは後に最も伝説的な筋金入りのファンの一人となった。

    ラーズは5月にコペンハーゲンに戻った。穏やかな空気、花香る木々や低木に春の輝き、生き生きとした人々の笑顔と相まって、おそらく街に戻る最も理想的な月だっただろう。同時にNWOBHMはピークを迎えていた。ラーズはケンの店にいた。そこでは絶えず若きメタルの弟子のために新しいレコードと情報が仕入れられていたのだ。

    「ケンのことはヘラルプの友だちや家族の前では「アイドル」と呼んでいた。」ラーズは80年春当時のケンの立ち位置について語る。「彼は本当にヘヴィメタルのアイドルだったんだ。彼はメタルとつながる全てだった。彼の家に招待された日には、お店が閉まった後もレコードを聴くことができた。俺はヘヴィメタルの聖地に招き入れられたみたいだった。」

    ケン・アンソニー「ブレンビュベスターにあった俺のアパートにヘヴィメタルのコレクションがたくさんあった。だからラーズはよくやってきた。彼のためにテープに録音して、その全てのバンドについて教えてあげなければならなかった。俺たちは座ってソーダを飲んでチップスを食べてヘヴィメタルを聴くのさ。彼はまだ全てを知りたがる少年に過ぎなかった。俺たちは同じ趣味を共有していた。それは素晴らしいことだ。音楽はその核となった。テニスとか他のことについては一切話さなかったよ。」

    夕方にトーベンはKirkebjerg通りに面したケンのアパートまでラーズを車で送り、真夜中に車で家に連れて帰った。ラーズは数日後、新しい何かが手に入ったかどうかケンに電話するのだった。

    「ラーズはひっきりなしにここにやってきた。」
    ケンは笑顔を浮かべて語る。「週に何度も電話してきて新しいレコードはないか、それらを聴くために金曜日に来なくちゃならないかと尋ねるんだ。そうして頻繁に来ていた。そういった全ての音楽は持っていたのは俺だったからね。」

    しかし、街の反対側にあるウルリッヒ家では、テニスはまだ重要なものだった。ベテランのトーベンはまだかなり熱心に多くのトーナメントに参戦していた。ラーズの最も基礎となるゲームの楽しみはいまだ無傷だった。フロリダで意気消沈を味わったにも関わらず、彼の野心はそのままだった。おそらくテニスをプレーすること、テニスの経歴に適切な場所を見つけることができたからでは?もしそうならば、答えはコロナ・デル・マーにある。そこはロサンゼルスにあるスポーツスクールで、ラーズが奴隷のようにテニスを練習することなく、テニスと勉強に集中した場所である。

    ラーズ「俺は高校を出て大学に進み、そのあいだテニスをし続けて、大学を出てからプロ選手になろうとしていた。そういう考えだったんだ。」

    「ラーズは集中していたよ、本当に。」ステイン・ウルリッヒは語る。「彼はテニスのスター選手になるんだと言っていた。テニスで食っていくんだと。コロナ・デル・マーのテニス・キャンプはテニス選手製造所だった。当時すべての最高のテニス選手たちがここで育てられたんだ。」

    そのうちの一人がアンソニー・エマーソンだ。彼はウィンブルドンの覇者ロイ・エマーソンの息子でロイはトーベン・ウルリッヒと一緒にプレーをした選手だった。エマーソン家とウルリッヒ家は一緒に旅行をしたこともある。ラーズがオーストラリアで初めてアンソニーと会ったのは、わずか2歳の時だった。

    「親父はロイ・エマーソンの真の良き友人だった。彼は(カリフォルニアの)ニューポート・ビーチに住んでいて、それが俺たちがそこに行った主な理由だったんじゃないかな。」
    ラーズはそう考えていた。

    ニューポート・ビーチへの引越しは息子のテニスに対する明るい将来への関心だけでなく、親自身の希望もその動機となった。トーベンの参戦するテニス・トーナメントのほとんどはアメリカだった。そしてアメリカとデンマークのあいだを行ったり来たりするのに多くの時間を費やしていた。ローン・ウルリッヒもロサンゼルスですでに交遊関係を持っていた。

    こうして1980年夏、トーベンとローン夫妻はLundevang通り12番地のあの大きな家を売り、家族はヘラルプを離れカリフォルニアに引っ越した。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

    アルバム『Iron Maiden』での強烈な出会いを考えると、念願かなって共演できたバックステージでラーズがこんな顔になってしまうのは無理もない。

    maidenallica
    ラーズ・ウルリッヒ、スティーヴ・ハリス(アイアン・メイデン)とともに

    メタルの師とあおぐケン・アンソニーとのエピソード、興味があるとトコトン行くとこまで行ってしまうのは今も昔もあまり変わっていないようです(笑)。なかなかあきらめきれないテニスはいつ踏ん切りがつくのでしょうか。

    いよいよ第2章アメリカ上陸編ではジェイムズとの出会いが待っています。
    (2章から記事のタイトルは変更予定)

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