メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:ジョニーZ

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    更新ご無沙汰してます。
    今回は、昨年からご紹介してきたラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の続きを。ようやく第4章に入りました。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。

    Metallica

    1983年の晩夏から秋にかけて、メタリカはジョニーZの手がけるメタルバンドのひとつ、レイヴンと初めてのツアー「Kill 'Em All for One」を行った。予算は低く、1日1人当たり約5ドルの安ホテルに4人同じ部屋に入れられた。稀にたった100人しか現れなかったオクラホマで14,000席のアリーナが用意されたように余分にブッキングされた場所もあったが。ツアーは彼らのホームであるベイエリアの3つのコンサートで終えた。ツアーバスに『No Life 'Til Frisco』(「Hit The Lights」の歌詞やモーターヘッドの1981年の伝説的アルバムのタイトル『No Sleep 'Til Hammersmith』のもじり)とペイントされたツアーバスがバンドを奮起させた。

    「Kill Em All for One」ツアーの生活はメタリカの4人が夢見た生活であった。ツアーの真っ只中にいるということが、どんなに刺激的であるかがわかったのだ。ファンの家の棚にある『Kill Em All』によって、これまでよりも新しくソリッドなヘヴィ・メタルのムーブメントが高まっていた。ファンの小集団はメタリカをショーからショーへとアメリカ中を追いかけた。それからパーティー、酒、マリファナ、そしてバンドが大好きで淫らな若いレディーたちとお酒や一夜を共にしたりした。4人のバンドメンバーはホテルのベッドや酒、あるいは女性を分かち合うことを気にすることはなかった。

    最初のビールはショーの前の昼過ぎには開けられていた。メタリカは酔っ払っていたが、決してそんな姿を互いにステージには持ち込まなかった。1983年当時の他のバンドでは、これほどショーの前や真っ最中のビール何杯かで大きな違いが生まれるようなことのない、ヘヴィメタルで最もタイトでテクニカルなオーケストラにはなりえなかった。さらにセットリストは『Kill Em All』収録の悪魔のような曲のバリエーション、そしてセルジオ・レオーネ監督のウェスタンの名作『続・夕陽のガンマン』のために書かれたエンニオ・モリコーネの曲「The Ecstasy of Gold」という不変のイントロがテープで流されることによっていろんな対処が可能となった。

    メタリカは若く、騒々しく、エネルギーに満ちていた。恍惚の幸せな今を楽しむ怒涛のツアーで新しく激しい生活を送った。そんななかでもすでに、最初のアルバムとツアーでラーズはメタリカのビジネスマンとみなされていた。ビジネスマンには宣伝と広報、つまりマスコミ報道とファンとの永続的な関係が必要だった。バンドが始まった最初の日から、ラーズは最も熱狂的なファンとしての経験、メタルや自身のバンドであるメタリカへの初期衝動をプロジェクトに持ち込んできた。

    ラーズはメタリカの天性のスポークスマンだった。ファンからファンへ言葉を広げる時には話しぶりが特に重要だ。ラーズのモーターのような口は自由自在に走り回り、どのファンジンの記者も読者に届けるには充分すぎるほどの話を聞くことができた。アンダーグラウンド・シーンにおいてラーズの話したいという単純な欲望は、常に新しいサブカルチャーから始まる新しいバンドへの無関心という沈黙の壁をぶち壊す強烈な一撃となった。彼はアンダーグラウンドからどうにか全注目を浴びることができたのだ。俺たちにはラーズ・ウルリッヒとメタリカがいると。

    ラーズは魅力的かつ真っ直ぐに自身と自分のバンドについて熱心に話した。彼にも素晴らしい経歴があった。ラーズはステージ上にいる他の全てのバンドと同じくヘヴィメタルの大ファンであったが、メタリカは全メタル・シーンに火をつけ、音楽やバンドの美学に関するこれまでの基準や限界を変えようとしていたのだ。

    80年代中頃の新しいヘヴィメタルバンドがうねる大海のなかで、もしメタリカが新手の瞬間的な大波以上の存在となれば、ビジネスはうまくいくとラーズはわかっていた。この時、メタリカのビジネスは契約とジョニーZのブレイクさせる能力の下で行われていた。((訳注:ジリ貧だったため)「枯れ井戸」がメタリカや彼が手がけたその他のバンドから呼ばれていたジョニーZのあだ名だった。)独立系の販路を含め、アルバムの売上げも充分よかった。そしてメタリカの「Metal Up Your Ass」Tシャツ(限りなく美しい、便器から(訳注:剣が握られた)突き上げられた拳のデザイン)はファンのあいだで既にカルト的なアイテムとなっていた。しかし、多くのお金がプロモーションのツアーとアルバムのレコーディングに使われてしまったため、『Kill 'Em All』はメタリカやジョニーZと彼のクレイズド・マネージメントにとってすぐに金の卵とはならなかった。もちろん、この段階のバンドにとっては上々だったが、世界征服の遂行は言うまでもなく、さらなる拡大すらとてもポジティヴにとはいかなかった。

    ラーズ・ウルリッヒは完全にそれに気付いていた。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    まだ第4章の前置き感が否めない内容ですが、続きではメジャー・レーベルとの契約や『Ride The Lightning』の制作についての話が出てきます。続きはいましばらくお待ちください・・・。

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    スコット・イアン、メタリカのデイヴ・ムステイン解雇、カーク・ハメット加入の逸話を語る。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章完結編。有志英訳を管理人拙訳にて。前回予告どおり、デイヴ・ムステインの解雇、カーク・ハメットのメタリカ加入、そして『Kill 'Em All』のリリースまで。

    - レコード契約(後編) -

    言い伝えによれば、ジョニーZはすぐに店を飛び出し、電話ボックスをみつけて、この明らかに(どこのレコード会社の契約)サインのないバンドを探し始めた。さらに言い伝えによると、ジョニーZはそれからメタリカに興味を示していることを昔からの仲間でありファンジン編集者のロン・クインターナに伝えたという。ロンは、メタリマンションにいたラーズとバンドにその情報を提供した。そこにはギタリスト、マイケル・シェンカーのクールなポスターはあったが、ひとつの電話もなかったのだ。すばらしいことだが、メタリカの経歴の最も重要なこの部分のあまりにドラマ仕立てにされた説明でもある。少なくともラーズ・ウルリッヒはジョニーZが自分を造作もなく見つけたと振り返る。

    「俺たちはメタリマンションで電話を持っていた。でも電話代を払っていなかった期間だったかもしれないね(笑)通常、電話を持っていた時には、俺たちまでたどり着くのはそんなに不可能なことではなかった。」ラーズはそう語り、自分の考えるレコード契約への道のりについて続けて語る。

    「ジョニーZが電話してきた時、彼は2つのことに本当に熱心になっていた。(1つは)俺たちに東海岸でコンサートをさせたがっていた。そして、俺たちに東海岸でレコードを作らせたがっていた。俺たちはちょっとした旅行の準備くらいメチャクチャできていた。さらに俺たちが興味を持ったのは、彼の働きかけでヴェノムが4月にニューヨークでライヴをすることになりそうだってことだった。俺たちはヴェノムの大ファンだったからね。その当時俺たちはテープのトレードがうまくいきだして、東海岸からのファンメールも届き始めていた。だから俺たちはそこで始まろうとしていることにもう夢中になったよ。それにジョニーZは面白そうな人だったしね。俺たちがつかんだチャンスだった。俺たちは契約も何もなかったから。」

    メタリカにはお金はなかったが、大きな野心があった。『No Life Til Leather』が好評だったことと、とりわけジョニーZが野心を植えつけてくれたおかげで。選択肢はもはや明白だった。4月1日、バンドはUホールで車を借りて、アメリカ大陸の向こう側、もっと具体的に言えば、エルセリートのメタリマンションから4,726キロ離れたクイーンズにあるミュージック・ビルディングに向かった。

    ラーズ・ウルリッヒ「ジョニーZはいくらかお金を送ってくれた。ほんの少しのお金だったけど、Uホールで車を借りて自分たちの持ち物を突っ込むには充分だった。バンの後ろはたぶん5から6フィート(訳注:1.5〜1.8メートル)くらいあったかな。そこに自分たちの機材、スーツケース、安いマットレスを入れたんだ。全然豪華じゃなかったよ。ジェイムズとデイヴが前に座って運転して、クリフとマーク・ウィテカーと俺が後ろのマットレスの上でマーシャル・アンプとか俺のドラムセットに囲まれて、横になったり寝たりしていた。俺たちが出入りできたのは、誰かが後部ドアを開けた時だけだ。運転中、12時間暗闇の中で過ごした。唯一の明かりはクリフのライターだけだったね。そんな感じでサンフランシスコからニューヨークまでちょっと刺激的でハッピーな数日があったんだ。」

    ジェイムズ、ラーズ、クリフ、マークがバンドのトラブルメーカーにうんざりする日もあった。デイヴ・ムステインは自分が運転しなければならない時でさえ、かなり酔っ払っていた。酔っていると、雪だまりにバンを突っ込んだり、マークにケンカをふっかける時さえあった。

    ラーズ「西海岸から東海岸への旅で俺たちはデイヴ・ムステインの邪悪な面を見た。彼はあまりに予測不能で、あまりに飲酒その他もろもろ羽目を外しすぎたんで、おそらくそこで俺たちが決めたんだと思う。ジョニーZに会ったその日に、たしか俺はジョニーに、バンドあるいはバンドのうちたった一人のメンバーが東海岸に戻る交通費を払ってもらわないといけないと伝えなければならなかった。俺たちはデイヴをクビにしなくちゃいけないかもと考えていたからね。」

    もうひとつの「実務上の問題」もあった。ザズーラ夫妻は既に彼らの2人の子どもと共にいくつかのバンドにスペースを占有されていた。メタリカはミュージック・ビルディングに引越し、地元ニューヨークのバンド、アンスラックスとリハーサル室を共有した。彼らとメタリカはすぐに友だちになった。アンスラックスはこの貧乏なメタルバンドをヒーター、冷蔵庫、ある時は少しの食べ物によって手助けした。ミュージック・ビルディングの地区に出回っていた麻薬はバンドにとって大きな関心を寄せるものにはならなかった。

    彼らのヘヴィメタルの野心は、明らかに低予算の宿泊施設に基づいていた。特にヘレルプとその他の世界に慣れていた若者にとっては。しかしミュージック・ビルディングの半ば哀れな生活はラーズと今や有望株の彼のバンドにとって最も差し迫った問題ではなかった。日曜の夜、ヴァンデンバーグとザ・ロッズのサポートで行われたバンドのショーの後、バンドにおけるムステインの将来はもはや論議することではなくなった。手に負えないデイヴを追い払わなければならなかったのだ。しかしそれを誰が彼に告げるのか?次の日の朝、バンドはジェイムズをその役に選んだ。ジェイムズは寝ているデイヴの肩をつつき、手厳しい言葉で起こした。「俺たちは決めたんだ・・・おまえはもうこのバンドの人間じゃない!」西に向かうグレイハウンズの始発バスが出発する2時間前だった。長い別れへの理由は何もなかった。彼らは全員先へ進んだのだ。

    ラーズはこの悲しくも必要だったエピソードについて説明する。「時おり彼はちょっと羽目を外すことがあった。(そんな状態で)彼が予測もできなかったことに直面したらどうなっちまうんだろう?ってね。それで俺たちは彼を早朝に起こして、サンフランシスコ行きのグレイハウンドのバスにできるだけ早く乗せた方がいいと決めたんだ。彼が何が起きようとしているのか完全に理解する前にね。それで彼はバンドから放り出されて、4時間のフライトの代わりにあの忌まわしいバスで3日間不機嫌に過ごさなければならなかった。でも当時、俺たちには(航空)チケットを買うお金がなかったんだ。俺はデイヴと一番仲が良かったし、おそらく彼と一番緊密な友情関係があったと思う。だから俺にとって彼にそんなことを告げるのはあまりに難しいことだと思っていた。クリフはまだ新メンバーでバンドに来て5、6週間しか経っていなかった。だから俺たちが言わなくちゃいけないことを言う資格はなかった。そうしてジェイムズが担当者として選ばれた。でも俺たちはみんなジェイムズと一緒にいたんだ。ジェイムズ一人でやることじゃないからね。」

    しかしながら、ラーズ、ジェイムズ、クリフ、そしてマークにとって悲しい状況だった。とりわけ、その経験と紛れもないギターの才能によって確かな成果をバンドに持ち込んでくれたデイヴと1年以上過ごしたラーズとジェイムズにとっては。創造性とユーモアで満たされたギャングな日々はそう多くなかった。全員マンハッタンの観光に行き、変わっていったメンバー編成のなかでも飲み続けていた物、ウォッカを飲んで酔っ払った。

    しかしメタリカは運を持っていた。タイミングが良かったのだ。バンドが優先したギタリストの選択肢、カーク・ハメットはチャンスをつかむ準備ができていた。エクソダスにいた彼の人生も悪くなかったが、メタリカと共にアルバムをレコーディングするためニューヨークに飛ぶことを考えた彼は完璧なキャリアアップを果たした。カークはデイヴが去った同じ日の夜に到着した。ミュージック・ビルディングで行われたカークのオーディションはほとんど形式的なものだった。これより数週間前にラーズとジェイムズはカークが『No Life Til Leather』デモを手にできるよう適切に手配した。彼らはカークの特質や音楽の好み、そしてギター・プレイはメタリカの相性や展望によく合っていると確信していた。そして彼らは正しかった。

    「カークは彼のギターとマーシャルのアンプと共にやってきた。デイヴを追い出した日と同じ日に彼とジャム・セッションをしたんだ。俺たちがやった最初の曲は「Seek And Destroy」だった。ソロの途中でジェイムズと俺は互いを見て同時にうなずいたよ。そうやって(オーディションが)行われたのさ。俺たちがムステインを追い出した時、カークはバンドにいなかった。彼は間違いなく最初の選択肢だったんだ。俺たちはそれがうまくいくとかなり自信を持っていたよ。でも月曜日の夜のジャム以前は彼はバンドにいなかった。そこで俺たちは互いに親指を立てて(OKサインを出して)彼にバンドに加わるか尋ねたんだ。」そうラーズは付け加えた。

    カーク・ハメットのジャム・セッションのデビューは最高だった。1週間しないうちに彼はニュージャージー州のドーバーでメタリカとしてのステージ・デビューを果たす。

    カークもメンバー編成の中でサンフランシスコ出身だ(カリフォルニア州サンフランシスコ出身1962年11月18日生まれ)。彼は悪名高いヘイトアシュベリー地区でヒッピー生活を送っている年上の親族と共に育った。そしてその期間にジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、そしてグレイトフル・デッドのような音楽のビッグネームと出会った。15歳でカークはギターを弾き始め、そこで70年代のシン・リジィ、キッス、UFOのようなハードロックバンドに自らのアイデンティティーを見つけた。後にカークはセックス・ピストルズや暴力的なパンクに夢中になった。しかし同時に名手ジョー・サトリアーニを師にもっていた。そこでカークはメロディー、テクニック、スピード、そして攻撃性のあいだの完璧な共生関係を有効に探すことができた。1981年、カークは初めてのバンド、レジェンド(Legend)を結成する。これは後にエクソダスとなった。

    ジェイムズのように、カークは離婚した家庭の生まれだ。カークの父親は飲んだくれだった。そして、しばしばカークとカークの母親を殴っていた。16歳の誕生日、彼が父親からもらったのは尻に大量に見舞われた蹴りだけだった。カークの父はその後すぐに家からいなくなった。そして母親がカークと彼の妹を育てるためにしっかり奮闘しなければならなかった。彼が10歳の時、カークは隣人に性的虐待を受けた。したがってギターを弾くことはカークにとって間違いなく癒しとなった。トラウマとなった全ての体験は彼を攻撃的で激しいヘヴィメタルの上に立つ怒りへと向かわせた。

    メタリカは最初のアルバムのための大部分の曲を『No Life Til Leather』の曲に基にして書いていた。ついにミュージック・ビルディングで、来たるべき東海岸でのバンドのギグのためにバンドの曲をたくさんリハーサルする時が来たのだ。一方、ジョニーZはレコーディングに使えるスタジオをみつけた。ジョーイ・ディマイオというジョニーZが担当するニューヨークのバンド、マノウォーのベーシストがジョージ・イーストマンのコダック社でよく知られるカナダ国境近くのニューヨーク州ロチェスターにあるスタジオを薦めてきた。そのスタジオは「ミュージック・アメリカ」と呼ばれるマンハッタンのとても(使用料の)高いスタジオ以外の地元のスタジオよりもさらにずっと安かった。ミュージック・アメリカの2階にある大きなホールはラーズのドラムの音に完璧に合っていた。なぜなら「ラーズは不明瞭なドラムの音を出していた」からだとジョニーZは彼を見ていてそう打ち明けた。

    若く熱心なメタルファンがホールでドラムを叩いている間、ジョニーZはニュージャージー州の家に戻って予算に対処するよう頼まれた。ミュージック・アメリカとそのオーナーであり、プロデューサーのポール・カーシオ(に払う金額)はニューヨーク価格からすれば安かったが、全てがそれほど安いわけではなかった。メタリカは5月末まで6週間アルバムをレコーディングした。そしてホームのロック天国で得たレコード売上げから超過金をロチェスターのアルバム制作陣に渡した。ザズーラはこのバンドに本当に一か八か賭けたのだ。しかし、アルバムのセールに関して誤算していた。タレント・スカウトやあらゆる種類のレコード会社にいるA&Rの人々との数え切れないほどのミーティングは何の実りのなく終わった。ジョニーZが身銭を切ってメタリカのアルバムを出さなければならないことが明白となったのだ。

    自身のレコード・レーベルの設立は、ジョニーZの膨大な計画においてこれまでやってこなかったところだった。だが、もはや引き返せない。彼は「この1つのアルバムのために」Megaforceを始めたのだ。ジョニーZ、そしてラーズと彼のバンドにとって幸いなことに、Megaforce Recordsは2つの善意あるディストリビューターと接触した。アメリカのRelativityとニュー・ブリティッシュ・ヘヴィメタル会社、Music For Nationsだ。この会社はニューヨークのバンド、ヴァージン・スティールのリリースでその前の年に始まったレーベルだった。しかし前者は、せっかちな若者がロチェスターでエネルギーをぶちまけた後に思いついたアルバムのタイトルに問題を抱えていた。そのタイトルは『Metal Up Your Ass』だ。

    最初は仮タイトルだったが、バンドは最終的に選んだタイトルとして、もはや本気になっていた。彼らは断固として譲らなかったが、ラーズと彼のバンド、メタリカに音楽業界の本当の状況について少し学ぶ時が来た。メッセージは明らかだった。どうあってもタイトルを『Metal Up Your Ass』することも、提案された妥協案『M.U.Y.A』やその他頼んでもないのに送りつけられた提案に乗ることもできなかった。怒ったクリフは制約を課してくるディストリビューターに対する感情を露にした。「あいつら全員殺っちまえ・・・とにかく殺っちまえ」

    それがタイトルになった。『Kill 'Em All』だ。

    『Kill 'Em All』は7月に発売された。ジェイムズ・ヘットフィールドによってデザインされたバンド・ロゴと無検閲の一節「Metal Up Your Ass」とともに。アルバムは9曲から成り(『No Life 'Til Leather』からさらに発展した6曲を含む)、クリフのソリッドなベースソロも収録されていた。リフを基調としたヘヴィメタルの速い曲が次から次へと繰り出され、使える場所があればすぐにテンポの変化や燃えるようなソロが差し込まれ、メタリカがアメリカのシーンから無視されていると感じてきたヘヴィメタルへの愛の大々的な声明を抒情詩調の領域でもって表現していた。

    全世界的にラーズとメタリカと同じ意見を持った人々がいた。2週間以内で『Kill Em All』は20,000枚近く売れた。それは独立系レーベルのリリースでは全く聞いたことのない数字だった。

    「それまで書いてきた最初の9曲をこのアルバムに使った。次のアルバムでは次にできた9曲を使う。そしてその次も・・・ってね。それがメタリカの世界征服計画なんだ。」とは、ものすごい熱意とものすごく若く陽気な、ほとんど絶え間なくメタリカについて話していそうなラーズの言だ。

    ラーズは明らかに正しかった。そのウィットに富んだ「世界征服」という言葉は。そのうち、曲やレコーディング、メディアやレコード会社とのミーティング、リハーサル、スタジオ(数ヶ月、それから数年)、家からの電話やファックス(時おり)、バンクーバーや全世界へのロードにおける、世界征服への戦いはそう容易くはなくなった。

    しかし、ラーズは全ての準備ができていた。重要な利点である疲れを知らない献身と固い決心を彼は持っていた。最も重要なのは、彼は1983年夏、ついに完全なバンドを持ったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    dave-and-kirk
    メタリカ時代のデイヴ・ムステインとエクソダス時代のカーク・ハメット

    ラーズの認識と裏腹に、カークはこの時点でハッキリと正式メンバーと言われたわけではなかったようで、しばらく自分が正式メンバーなのか助っ人なのかわからなかったそうです(苦笑)

    女手ひとつでカークを育てたお母さんとは今年(2014年)2月のFearFestEvilにいらしていてお会いすることができたのですが、非常にパワフルで可愛らしい方で「この方があのカークを生み育てたのかぁ、なるほど。」と妙に納得したのを覚えています。

    そしてデイヴ・ムステインの解雇については、スコット・イアンが自叙伝で語っているところがあるので、後日紹介します。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章5回目。有志英訳を管理人拙訳にて。クリフ・バートンの紹介から、メタリカにさらなる変化をもたらす2人、カーク・ハメットとジョニーZが登場します。

    - レコード契約(前編) -

    ラーズはクリスマスの19歳の誕生日を祝った。1983年2月中旬、ただの子供だった彼がようやく永久的に実家を出た。そして気が付くと自分が今、すごい集団にいたのだ。彼らは静かな通りの小さな家、具体的に言うとバークレー大学から北のエルセリートにあるカールソン大通り3132番地の新しい家を「メタリマンション(The Metallimansion)」と名づけた。(この地域はデッド・ケネディーズが先頭切った目まぐるしいイーストベイのアンダーグラウンド・パンク・シーンの本拠地でもあった。)

    彼らがリハーサルをしたこの家のガレージはカーペットと卵トレーで敷き詰められ、壁にはモーターヘッドやその他何百ものメタルバンドのポスターが飾られた。ツボルグのプレートがドアの反対側にあるリビングに置かれ、その部屋はバンドのパーティールームとなった。

    メタリマンションでは絶え間なく、リハーサル、ジャム・セッション、パーティー、飲酒、そして曲作りが行われていた。クリフ・バートンが入ったメタリカはもはや各々が自分の創造的なアイデアを持つ4人で成るバンドとなった。クリフはその基礎的な音楽のバックグラウンド、音楽理論、ハーモニーに関する知識によってバンドに大いに貢献した。

    ラーズがポテトチップスを食べながら(訳注:デンマークの)ブレンビュベスターでNWOBHMのレコードを聴いていた頃、またイギリスのパンク革命が世界中のヘッドライナーをかっさらっていた頃、16歳の学生、ベーシストのクリフ・バートン(1962年2月10日、カリフォルニア州カストロバレーにて、高速道路の建築士レイと教師であり教育者のジャンとの間に生まれる。)は音楽教師スティーヴ・ドハーティーによってクラシックからジャズまでありとあらゆる音楽スタイルを仕込まれた。寡黙だが親切で優しいクリフは高校で3つの音楽の授業に現れた時にはいつも耳を研ぎ澄ませ、予習をしっかりしてきた。そしてカストロバレー高校を1980年に卒業した。おそらく、この若き音楽フリークの最も特筆すべきことは地元の電動装置機器のレンタル店、カストロバレーレンタルズで働いていた頃の話だろう。カストロバレーレンタルでクリフは最も若い従業員で、長髪だったことから、同僚からもたくさん苦情を受けていた。彼らはクリフを怒らせることは一度もなかった。ただ笑って「いつかアイツはあの長髪でもって金儲けするだろうさ。」と答えていた。

    クリフはミュージシャンを志し、前述したバンド、トラウマに高校卒業後すぐに加入した。高校ですでにクリフはEZストリートというバンドにいた。そのバンドには(後にフェイス・ノー・モアとなる)ギタリストのジム・マーティン、(後にフェイス・ノー・モア、オジー・オズボーン・バンド、さらに再結成ブラック・サバスに参加する)ドラマー、マイク・ボーディンがいた。EZストリートはレッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ローリング・ストーンズのカバーに加えて、自分たちが試作した曲を弾いていた。

    彼らの出会いは1978年。ジム・マーティンは音楽的にも社会的にもクリフの最も重要な知り合いのひとりだった。ドラマー、デイヴ・ドナートと共にマックスウェル・ランチと呼ばれていたサンフランシスコのダウンタウンにある空家に集まってよくジャム・セッションをしていた。3人の少年にとってその場所はビールも飲めてマリファナをキメて長い時間ジャム・セッションをできる楽しい安息の地であった。

    クリフの人生にはたくさんの音楽が存在していたが、ホラー・パンク・バンドのミスフィッツほど彼を深く感動させた音楽はなかった。クリフの腕には彼らのロゴのタトゥーが彫られていた。彼は車に乗ると自作のミスフィッツのテープを流してはいつも狂ったようにハンドルを叩いて叫んで運転中でもヘッドバンギングをしていた。もちろん彼はロック、パンク、メタルが大好きだったが、ウェザー・リポートのベーシスト、ジャコ・パストリアスも大好きだった。そして「バッハは神だ」と考えていた。(クラシックの作曲家のことであり、メタリカと同年代のスキッド・ロウのクレイジーなフロントマン(訳注:セバスチャン・バック、スペルが一緒)のことではない。)クリフは20年代から30年代にかけてホラー小説のシリーズを書いた小説家、H.P.ラブクラフトのファンでもあった。そのような文学から得たものは初期の何曲かにハッキリと見受けられる。

    人としてミュージシャンとして、クリフはまさしくラーズとジェイムズが探し求めていた人物だった。この新しいメンバー編成でメタリカは1983年3月5日と19日の2回、ストーンで凱旋公演を行った。2回目の公演はメタリカが撮影された初めてのビデオによって不朽の名声をメタリカに与えることとなった。

    しかし依然としてバンドには問題が浮上していた。デイヴ・ムステインである。彼は、公演中のギターソロ、ステージ上でのほとんどのMCを負っていた。飲酒の時においても彼はリーダーだった。もちろんバンドで飲むことはよくあることだったが、ムステインは度を越えていた。彼は他のみんなが機嫌がいい時は典型的な暴力男になった。そしてしばしばジェイムズと音楽的な意見の不一致というより個人的な理由によって争っていた。

    3月のある夜、ラーズはジェイムズとマーク・ウィテカーと話し合いをしていた。マークが持ってきたエクソダスの最新デモテープをメタリマンションでよく使っていたカセットプレーヤーに入れて。エクソダスは何回かメタリカの前座を務めており、ラーズとジェイムズは彼らのことをよく知っていた。その会話の間、ラーズの鍛え抜かれたメタルな耳が突然、エクスダスの速くてアグレッシヴなメタルのリズムにタイミングよく織り挟まれたギターソロを捉えた。彼の関心はプレーヤーの中にあるデモテープへとすぐに移っていった。ラーズとジェイムズは同意したのだ。このギタリスト、カーク・ハメットは速くてアグレッシヴなヘヴィメタルにおいて何か特別なものを持っている、こいつがメタリカでプレイすると。

    「このカーク・ハメットってヤツが何かを持っているってことは明らかだった。」ラーズはそう振り返る。「本当にクールでメロディックなギタープレイでシェンカーやUFOみたいだった。彼はとても頼りがいがあると思えた。否定的なものは何もなかった。」

    しかし、カークがラーズとジェイムズと出会い、メタリカに加入するまでには、もう数ヶ月要することになる。

    デイヴ・ムステインは何も知らなかった。しかしメタリカは間違いなく、もうひとつのメンバー交代への道を歩んでいた。

    しかし、ラーズの慎重かつ意欲的な『No Life 'Til Leather』の流通後、バンドはアンダーグラウンドのメタル・シーンでどうだったのだろうか?

    デンマーク本国のメタルレコード店で、ケン・アンソニーは若きヘヴィメタルの子分が今や「彼のバンド」メタリカにいることにニヤリと笑う。メタルショップの仕事に加え、ケン・アンソニー自身も活動的だった。ミュージシャンとしてではなかったが、若いデンマークのメタルバンド、プリティ・メイズや前述したブラッツやマーシフル・フェイトやその他のバンドのマネージャーとして。ケンは自分の担当するバンドのデモテープをレコード会社に配って、その多くを実際にレコード会社の契約までこぎつけていた。したがって彼はヘヴィメタル界の多くの知識としっかりとしたネットワークを築いていたのだ。しかし、ケンはどうやってもメタリカの将来性を持ってして自分が商業的に関与してお金をどうこうすることはできないことを知っていた。その代わり彼は当時デンマークで一番大物のヘヴィメタル・プロモーター、エリック・トムセンに連絡をした。

    「俺は彼にデンマーク人のいるアメリカのバンドでこれからビッグになるバンドがあるから気を付けないといけないよって言ったんだ。でもエリックはそれを信じなかった。」ケンはそう振り返る。

    その代わり、デモテープはニューヨーク市郊外に住む元証券仲買人の注意をひいた。彼の名前はジョニー・ザズーラ。ジョニー・ザズーラ(ジョニーZとしてよく知られている)と長年連れ添った妻マーシャはウォール街の競争に飽き飽きし、個人的に充実したもっとゆったりとした実りある人生に専念したいと思ったのだ。夫妻はニュージャージー州東ブランズウィック国道18号線のインドア・マーケットにあったレコード店で取引をした。そこで2人のベテランの音楽ファンは店の隅っこで自身の店を開くことを許可された。ジョニーZは自分でも音楽を演奏していたし、マーシャは素晴らしいレコードのコレクションを持っていた。2人とも60年代の大きなロック革命の間に青春を迎えていた。そしてドアーズ、グレイトフル・デッド、MC5のような草分け的なロックバンドやチック・コリア、ジョージ・ベンソンのようなジャズ・アーティストのファンだった。まもなくザズーラ夫妻の音楽的嗜好は変わっていき、もっとヘヴィな方向へと向かっていった。

    夫妻は棚にあった180ドル相当のLPレコードから始めた。しかし7ヵ月後には仕事で80,000ドル相当のレコードになっていた。いまや「ロック天国」として知られるようになった。誰もが全国で買えるようなメインストリームのレコードに集中する代わりに、ザズーラ夫妻はヘヴィメタル、とりわけヨーロッパのものに集中することを選んだ。ロック天国はこのようにしてすぐに音楽を買いに行く場所もない、あるいはたむろしたり情報を得たり他のファンと会う場所もない何百もの若いメタルファンからヘヴィメタル天国として知られるようになった。元証券仲買人は東海岸のヘヴィメタル文化を引っ張る成果を確立したのだ。

    反旗を翻す生々しいメタル音楽に対する夫妻の企業家精神と興味は徐々に膨らんでいき、彼らは新しい考えを思い浮かべた。まもなくジョニーZはニュージャージーからマンハッタン、ブルックリンまでのメタル・ショーの出演契約交渉担当者としても知られるようになった。ジョニーの熱意は、音楽の自己出版の可能性についてさえ話したようにメタルバンドのマネージャーさえも始めたかもしれない。

    しかしながら、レコード店は依然としてあった。最新アルバムを買いに来るファンは、居心地の良い雰囲気の中たむろしたり、ヘヴィメタルを聴いてシーンの最新情報を共有することが大好きだった。ある午後、その客のうちの一人が店にテープを携えてやってきた。おそらくそのファンはカリフォルニアまでの旅の間にテープを買ったのだろう。その音楽は目を見張るほど素晴らしいから、ザズーラのロック天国でこのテープを流さないといけないと思ったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    cliff_kirk
    クリフ・バートンとカーク・ハメット

    次々とメタリカのステップに関わる人物が登場してきて、それぞれの点がつながって線になっていく展開。次回はデイヴ解雇、カーク加入、そして『Kill 'Em All』のリリースまで。

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