メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:クリフ・バートン

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章3回目。メタリカの歴史に触れるならば、避けて通れないあの事故について。有志英訳をさらに管理人拙訳にて。

    歴史的にヘヴィな日曜日となったDyrskuepladsen(ロスキレ・フェスティバルの会場地)まで話を戻そう。ロスキレ・フェスティバルのコンサートはいろいろな意味で境界線を超えた。フェスティバルの歴史、そして背景を考慮しても。しかし、それでもここデンマークの大衆にメタリカの実質的なブレイクはなかった。メタリカはまだロスキレ・フェスティバルのメインステージのような巨大なシーンのなかでは、あまりに騒々しくあまりに異様だったのだ。だがメタリカのパフォーマンスは、ヘヴィメタルへのプログレッシヴなアプローチを大きく発展させた、間違いなく絶対不可欠な表明だった。このコンサートとメタリカの存在感自体が、新たなスピードメタル文化の勝利となったのだ。

    そしてこの勝利は続いていった。ショーというショーがこの年の残りを埋めていき、もちろん若いデーン(訳注:ロスキレ・フェスの観衆のひとりと思われる)はバンドの次のデンマーク訪問についてすでに知っていた。彼はロスキレ・フェスのことから話すことにした。「9月27日に(デンマークの)サガで会おう。」半分は熱狂的、半分は大口を開けて呆然としていた、信頼のおけるDyrskuepladsenの観衆に向かってラーズは叫んだ。そこにはライヴ前のサウンドチェックの時間からメタリカを観ることのできた、昔からのファンもいた。

    実際、メタリカはデンマーク再訪問への道のりはすでに順調であったし、このサガのコンサートもすぐに完売することとなった。メタリカはアメリカでのオジーとの「Damage Inc.」ツアーを終わらせて、それからイギリスでツアーを行わなければならなかった。しかし、オジーのツアーが8月3日のヴァージニア公演で終わろうとする1週間前に、インディアナ州エバンズビルのメスカー円形劇場(The Mesker Amphitheatre)で、ジェイムズはバックステージでは欠かせないスケートボードでふざけて遊んでいたところ、ボードから滑り落ちた。彼は腕を負傷し、残りの3人のメンバーは15,000人の期待に満ちたメタルファンの前でステージに歩み出て、その夜のショーは行えないことを発表しなければならなかった。

    「あれは俺がステージ前に飲まなきゃやってられなかった初めての出来事だった。」ラーズはそう語った。彼が話し出すとすぐに、3人のメンバーたちは強烈なブーイングと罵声の悲しき受け手となっていた。

    逆に言えば、観衆の反応は良い兆候でもあった。メタリカが、ヘッドライナーの大御所オジーを観るために支払った価格の重要なパートであり、呼び物であったことが明らかにそこに表れていたのだ。しかし最も重要なのは、バンドとQプライムが今やとても緊急の問題を抱えていたということだ。メタリカはアメリカにおけるメタルの大観衆のあいだで大きな飛躍を遂げようとしていた。オジーとのツアーはもう残り数週間しかなかった。その直後には半月のヨーロッパツアーが彼らを待っていた。その後には初来日公演があった。

    リズムギタリスト無しのメタリカのステージ?不可能だ!

    オジーはこう叫んだ。「レッツゴー、ファッキン、クレイジーーーーーーーー!エバンズビル!!」その声の限りの絶叫はメスカー円形劇場のステージ、メタリカ、そして病院から戻り包帯で巻かれたジェイムズ・ヘットフィールド、そして横に座っていたバンドのギターテクで以前のツアー仲間だったメタル・チャーチのジョン・マーシャルにも聴こえた。ジョンはステージ経験もあり、メタリカの曲も知っており、すでにツアー全日程にブッキングされていた。そう、ジョンは第5のメンバー、そしてリズム・ギタリストとして参加する準備はできていたのだ。

    バンドの次の公演となったナッシュビル、テネシーを乗り切るため、ジョンは集中して車の中で『Master Of Puppets』を聴いていた。ジェイムズの泊まっていたハイアット・リージェンシー・ホテルの部屋でも、メタリカとのコンサート・デビュー前に最後の手がかりを掴もうとしていた。

    「でも俺はジェイムズのようには弾けなかったよ。違って聴こえるんだ。ローディーとして、俺は一日に4、5時間も練習できなかった。ギターをチューニングして、5分演奏するんだ。」ジョン・マーシャルは後にこう説明している。(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    メタリカ活動初期のメンバー変遷のなかでジェイムズが(ギターを弾かずに)歌うのみだった5人編成はあったが、ナッシュビルのショーでは完全に別問題の話だった。バンドの観客はもはや2桁ではない。5桁なのだ。ジョンはもちろん緊張していたが、この束の間のラインナップ変更はこんな自体を予期できなかったであろうラーズにとって最も困難だったかもしれない。メタリカがブレイクを果たすツアー最後の前夜と紛らわしいほど似ていた。彼は5人編成を続けていくことをとても心配していた。数回のコンサートを経てようやく実際にこれでいけるとわかったのだ。

    ヘレルプの時計がラーズの頭のなかでチクタクいっていたが、オジーのツアーは計画通りに恐れていた失敗をすることなく終えることができた。ラーズが練っていたメタリカの計画の中、運命の待ち伏せは回避されてきた。また、医者はジェイムズの腕が9月10日に(ウェールズの)カーディフから始まるメタリカのヨーロッパツアーには間に合うよう治癒すると考えていた。全てが順調に調整されたツアースケジュールに従うことができた。

    オジーとの最後のコンサート後、ラーズとバンドは5週間の素晴らしい休暇を楽しみにしていたはずだった。ジェイムズの事故はさておき、メタリカにとっては素晴らしい春であり、クールな夏だった。今や国際的な少年は、待ち受けるツアーに責任を持ち、残りの夏を最高の思い出の地、イギリスで楽しもうとしていた。

    ツアー開始前にラーズとジェイムズとマーク・ウィテカーはメタリマンションを発ち、8月初旬にラーズはマネージャーのピーター・メンチの家を仮の宿として一ヶ月過ごした。

    「あぁ彼は私と一緒に住んでいたんだ。」ピーター・メンチはそう振り返る。「彼はイギリスにやって来て、一緒にうろついていた。つまり彼が起きたら一緒に出かけていたんだ。彼は朝4時に完璧に酔っ払って家にやってきた。私は毎日気にかけながら仕事をしていたよ。私はバンドのマネージャーだからね。」メンチはニューヨーク仕立ての皮肉を交えてそう付け加えた。

    ラーズは残りの夏のあいだ、ロンドンのナイトライフを楽しんでいた。しかし、キッチリと描いていた彼の計画の道筋は狂ってしまった。ヨーロッパツアーの日程が近づくと、12日間のツアーのうち最初の10日はジェイムズがギターを弾くことができないことが明らかとなった。幸いなことに適切な緊急策として、ジョン・マーシャルがメタリカのステージセットの大きな十字架の近くを控えめに陣取って、ウェールズとイングランドに渡る「Damage Inc.」ツアーは継続された。

    ジョンにとって、ローディーに加えてギタリストという役割が倍増したことで実入りの良い仕事となったが、彼は同時に糖尿病と戦っていた。それは定期的なインスリン注射が必要であることを意味していた。彼はボロボロに燃え尽きており、「Damage Inc.」ツアーの最後のコンサートが日本で行われたらすぐに11月で全ての仕事をやめようと決めていた。

    ツアーがヨーロッパ大陸まで至ると、ジョンとメタリカにとって良いニュースができた。ジェイムズ・ヘットフィールドは3ヶ月ぶりにギターの演奏を再開し、9月26日の金曜夜に行われたストックホルムのソルナ・ホールのステージにバンドが立った時にはモチベーションは最高だった。

    「あぁ、ジェイムズがリズムギターを再開した最初のショーだったんだ。あれは本当にクールだったね。」ラーズはそう話す。

    メタリカの列車は再びレールの上に戻った。ロスキレ南部の、あの記念すべき日曜夜に約束したように、9月27日の土曜夜にサガでプッキングされていたのだ。ラーズと元に戻ったラインナップは(サガ公演翌日の)日曜夜にコペンハーゲンに行くことを考えて幸せ一杯だった。日曜日はハンブルグに向かう前に一日オフだったのである。

    ツアーバスはストックホルム北部のソルナから深夜に運転されていた。それはジェイムズがいつもの寝台で寝なかった例外を除けばいつも通りだった。彼はいつもクリフの隣の二段ベッドの上で寝ていたが、このルートではドラッグ(の煙?)を避けるために他の場所に移動していたのだ。

    イギリス人の運転手が車の制御を失ったのは、ユングビューの小さな町に差し掛かった朝6時頃のことだった。ラーズがこのエピソードで覚えていることは次の通りだった。

    「俺は寝ていたんだ。それからもう眠れなかったよ!バスは停まっていて、横転していた。寝ていた時に何が起きたのか本当のところはわからない。でも俺は古き良きハリウッド映画みたいにバスが爆発する前に逃げなきゃって思ったんだ!だから俺は現場から森に向かって駆け出していったんだ。あの忌々しいバスから遠く離れて無事止まって振り返るまで走って走って走りまくった。何の爆発もなかった!だからバスに戻っていったんだ。そして他の人たちと落ち合った。1人、2人、3人、4人、5人とね。1人はちょっと足を引きずっていたし、もう1人はあちこちに痣ができていた。でも大きなケガとかそういうのはなかった。奇妙に思った唯一のことは、もちろん、俺たちの中にクリフがいなかったことだ。それから救急車が来て、病院まで運ばれて診察された。俺はかかとつま先の3分の2が損傷していると言われたよ。俺が覚えているのは、ジェイムズと俺が診察室のベンチに座っていると、スウェーデン人の医師がやってきてこう言ったんだ。「キミたちの友だちのひとりは助からなかった!」俺は彼が「キミたちの友だちのひとり」と言ったことを奇妙に思っていた。クリフはただの「ひとりの友だち」以上の存在だったから。医者がクリフ・バートンが死んだと告げると、ジェイムズと俺は互いを見合わせた。俺たちは本当に理解できなかったんだ。スウェーデンで第二位の病院で座ってそんな言葉を聞くなんてことはとても不思議だったんだ。ゆっくりと夜が明け始めていた・・・俺たちはそこでクリフを見てはいなかった。」

    「それから叔父のヨルゲンがコペンハーゲンからやってきて、俺を車に乗せていった。ピーター・メンチはロンドンからやってきた。彼が実際にクリフの身元確認をしたんだ。俺がユングビューを出た頃、ジェイムズとカークは飲みに出て行き、あの忌々しい道の近辺を歩き、わめき叫び、正気を失い、泣いていたのを覚えているよ。でも俺は家族のいる安定した環境であるコペンハーゲンへと向かう途中だった。」


    クリフはバスの窓を突き抜け、倒れたバスの下敷きになり即死だった。8時になる頃には、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、そしてコペンハーゲンといった世界中の電話が鳴り始めた。同じ悲劇と気の遠くなるような「クリフ・バートン死去」というメッセージを添えて。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    不運とよぶにはあまりにむごい事故でした。次項ではクリフの事故からいかにしてラーズ、そしてメタリカが再び歩み出したのかが描かれます。続きはしばらくお待ちください。

    クリフの訃報を伝えるRollingStoneの記事
    cliffobit_RS_300

    バス事故を伝える各写真。
    cliff_case

    管理人らが2014年にクリフ最期の地に建てられたクリフ・バートンの記念碑を訪れた探訪記はこちらから。
    http://metallica.bakufu.org/pic/sweden2014.html

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    今年1月のNAMMショーで発表されていたクリフ・バートンのトリビュートモデルのファズ&ワウ「CLIFF BURTON POWER FUZZ WAH」が2015年4月3日から発売されたとのこと。

    わかりやすい特徴解説をBARKSさんより引用。

    ヘヴィメタルバンドのトップに君臨し続けるバンド、メタリカの初期メンバーであり、メタリカの音楽性に大きな影響を与えたベーシスト、故クリフ・バートンのトリビュートモデルとして、彼が生前愛用していたMorley社の70年代のモデル「POWER FUZZ WAH」が復刻された。復刻したのは、スーパーギターリストのスティーブ・ヴァイをはじめ数多くのプロミュージャンが長年に渡り愛用するワウペダルをラインナップするMorley。

    ビンテージなサウンドのクラシックワウとファズを組み合わせることにより、それぞれ単独でも、もちろん組み合わせても使用可能。ファズサウンドはビンテージサウンドと現代風のモダンサウンドを切り替えて使用できる。その他おもな特徴は以下のとおり。

    ・故クリフ・バートンが愛用したオールドモデルをMorley自ら復刻
    ・クラシックワウとファズペダルが一体化・ワウとファズにはそれぞれのオン/オフスイッチを搭載しているので、単独でも同時でも使用可能
    ・クラシックワウにはワウエフェクトの音量コントロールを装備
    ・ファズのサウンドキャラクターは、ビンテージとモダンで選択可能
    ・ファズにはエフェクトの音量と歪み量を調節するコントロールを装備
    ・堅牢なスチールボディー
    ・ベースだけではなく、ギターやキーボードにも最適
    ・底面のバッテリーボックスは簡単に電池交換が可能(9V角型乾電池)

    BARKS(2015-04-05)

    日本では、Morley社製品を取り扱っている株式会社フックアップから発売されます。
    価格は29,800円。

    製品概要と商品説明動画はフックアップのページからどうぞ。
    CLIFF BURTON POWER FUZZ WAH
    http://www.hookup.co.jp/products/morley/powerfuzzwah.html


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    ワウペダル/エフェクター・メーカーのMorley、クリフ・バートンのトリビュートモデル「Power Fuzz Wah」を発表

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    『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の続きを。第4章4回目。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。予告どおり、レコード契約の話を中心に。

    アマー島に戻ってジョニーZが結局約5万ドル支払ったレコーディングを完了する前に、レコーディングの間で、メタリカはイギリスへ渡りロンドンの伝説的なライヴハウス、マーキー・クラブで数回のショーを行った。『Ride The Lightning』のレコードという器は天文学的な金額ではなかったが、ジョニーZの予算とメタリカの野心がもはや釣り合わなくなっていたことは明らかだった。

    メタリカが4月にスウィート・サイレンス・スタジオに戻って、最後の曲をレコーディングし終えた時、メタリカはスタジオの天井部屋(家具なしの物置き部屋)にしばらく住んでいた。そこにはフレミングが持っていたメルクリン社製の鉄道模型が置いてあった。例えるなら、ラーズと彼のバンドは『Ride The Lightning』によって自分たちの列車を線路に載せたと言える。

    これまでにメタリカはスウィート・サイレンス・スタジオでいくつかの訪問を受けた。例えば、ラーズの昔からの憧れであるモーターヘッドが所属するブロンズ・レコードの重役の訪問があった。重役ジェリー・ブロンからの『Ride The Lightning』をアメリカでリリースする前にリミックスするという提案は、バンドのテイストではなかった。しかしジェリー・ブロンがお金をふりまいて、マネージメントとレコード契約の両方を提示していたため、交渉の扉を開け続けておくことが重要だった。ビジネス意識の高いラーズは契約というスタートの洗礼を熱望していたが、自分たちの音楽に関する全創作のコントロールを持つという信念をすでに固めていた。だからリミックスは行わない。そうでなければ、契約を結んでいたのだ。

    アマー島のスタジオで作曲されたため、『Ride The Lightning』にこだわる本当に正当な理由があったのだ。『Kill 'Em All』から始まった狂乱した反逆は、重量、ニュアンス、バリエーション、コントラストを増していた。『Ride The Lightning』はアコースティックのイントロでそっと美しく始まり、突然『Kill 'Em All』のどの曲よりも速いと思わせるこの上ない速度のハードコアなヘヴィ・リフと打ち鳴らされたツー・バスへと変わる。「For Whom The Bell Tolls」のような曲はヘヴィという言葉に安心感を与えた。「Creeping Death」はど真ん中の巨大なメタルサウンドにオリエンタルな雰囲気をまとっていた。そしてH.P.ラブクラフトのテーマであるプログレッシブなインストゥルメンタル長編曲「The Call of Ktulu」である。そこには「リード・ベース」を弾いたクリフの名前がクレジットされていた。

    『Ride The Lightning』のプロダクションはデビューアルバムと比べても異なっていた。ヘヴィで内容もあった。それはたくさんの内容が。『Kill 'Em All』とはずいぶん異なり、歌詞の中には情熱とアイデアが突如として現れた。電気椅子による死刑について唄った表題曲、自由へのけたたましい賛歌「Escape」、新しくより内省的で思慮深い歌詞と音調で最も異国風なパワー・バラード「Fade To Black」。この曲を多くは−女性にまで広がったリスナーでさえ−孤独と絶望に打ちひしがれた人の遺書だと解釈された。実際はボストンのチャンネル・クラブの外で起きた前述の盗難により機材が失われたことを元にしている。「Fade To Black」もデモテープの頃や『Kill 'Em All』時代からのファンをバンドの虜にした。

    メタリカは、全体として動かしがたい過激さだけでなく非常に先駆的に仕上がったヘヴィメタルアルバムを、アメリカではジョニーZのメガフォース、ヨーロッパではミュージック・フォー・ネイションズでまずリリースした。アルバムは7月27日にリリースされ、夏が終わる前には世界で85000枚も売れた。ラジオやテレビの手助けなしではあったが、アンダーグラウンドシーンの絶え間ない口コミ、ヘヴィメタル誌に載った称賛レビューと多くの熱意溢れる物語によるこの事態は、ヨーロッパとアメリカでの着実なバンドのパフォーマンスによってさらに刺激された。8月3日にメタリカがニューヨークのローズランド・ボールルームで行ったツアーについて、ラーズは約束どおり、エレクトラ・レコードのマイケル・アラゴにこっそり知らせた。

    マイケル・アラゴはその夜、ローズランド・ボールルームに一人で現れなかった。この熱狂的な若者はエレクトラ・レコードの最高経営責任者ボブ・クラスノウ、プロモーションとマーケティング部門の副代表マイケル・ボーンの分のチケットを入手していた。アラゴにとってエレクトラ・レコードでのA&Rとして初めて大きな決定がなされる大事な夜であった。しかもこの22歳の男が初めて観るメタリカのコンサートでもあった。

    わずかに年上のマイケル・ボーンは、振り乱した髪と汗まみれの身体でゴチャゴチャになった真っ只中でどうすればいいのかわからなかったし、ステージから流れるとてもハードなヘヴィメタルで大暴れしているところをどう移動すればいいのかもよくわからなかった。だが、ボーンにとって楽しむためのコンサートではなかった。仕事をしに来たのだ。そこで彼はグッズ販売ブースに行くとメタリカのTシャツがすでに売り切れとなっているのに気がついた。これは興味深い。

    (ラーズが始まって以来の「メタリカの最悪なショーのひとつ」と言っていた)ショーが終わると、ラーズはアラゴをバックステージエリアへと案内した。おそらくバックステージパスなしで(!)、汗まみれでアドレナリンがまだ脈打っている状態のバンドに向かってアラゴを押しやった。アラゴのメッセージは短く単刀直入なものだった。「明日、キミたちはウチのオフィス以外どこにも行かないでくれ!」

    クリフ・バートンがすぐにこう尋ねた。「そこにビールはたくさんあるかい?」

    「もちろん、食べ物だってある。」アラゴは断言した。

    しかし、最も重要なのはレコード会社の熱心な人間とその同僚、そして献身的なバンドとの間にケミストリーが確立したことだ。

    アラゴのオフィスはマンハッタンに位置しており、そう大きくはなかった。メタリカはすでに「Alcoholica」の称号を得ており、バンドはアラゴのオフィス内で喜んでたくさんの冷えたビールを飲み、テイクアウトの中華料理をむさぼり食べた。ビールを飲み、中華料理を食べ、『Ride The Lightning』を再生し、未来について語った。アラゴの意見は明白だった。『Ride The Lightning』は小さな独立レーベルで出すにはあまりに重要すぎるアルバムなのだと。

    メタリカはマイケル・アラゴと彼のバンドや音楽に対するアティテュードを気に入った。彼らはドアーズ、MC5、イギー・ポップ・アンド・ストゥージズのようなロック史における革新的なビッグバンドを輩出している会社として有名なエレクトラ・レコードも気に入った。最も重要だったのは、アラゴがメタリカとサインを交わし、それから数週間後にラジオ向けの曲をバンドにお願いするなんてことをしようとしなかったことだ。アラゴはメタルファンであり、メタリカの器がおさまるべき、未開のヘヴィメタル市場があるとわかっていた。そのアティテュードは『Ride The Lightning』をその年の後半に再リリースした時に、エレクトラが考案して作ったラジオ広告にも反映された。「おそらくキミはメタルを聴いたと思ってるだろう。じゃあ、とっくに本物を聴くべき時が来ている。メタリカを聴く時だ!」

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    ひとつのバンドと契約を結ぶためにCEOと副社長を連れてくる熱意たるや。メンバーと歳も変わらないことは文章でもわかりますが、当時の写真を観ると改めて驚かされます。
    lars_alago
    ラーズ・ウルリッヒとマイケル・アラゴ

    次回はマネジメント会社、Qプライムの登場です。続きはまた後日。

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    2015年2月3日(火)発売のMetalHammerでメタリカ特集とのこと。

    metalhammer_de_2015_01

    メタリカ以外では下記アーティストの記事あり。

    Nightwish
    BABYMETAL
    Papa Roach
    Korn
    Venom
    Falling In Reverse
    Periphery

    購入したい方は発売日以降にこちらをチェック!

    MyFavouriteMagazines
    タワーレコード
    HMV

    cowboybluesさん、情報ありがとうございます。

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    別冊METAL HAMMER、スラッシュメタル特集号「THRASH」が届きました。
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    メタリカ、ファンクラブ誌「So What!」特別号をMetal Hammer誌とコラボして一般発売。
    英「METAL HAMMER」誌の25周年記念号でクリフ・バートン特集
    Metal Hammer誌のブラックアルバム発売20周年記念トリビュートアルバムを試聴。
    METAL HAMMER誌2011年5月号はメタリカが表紙。
    METAL HAMMER誌付録の2011年カレンダーにメタリカのあのジャケットが登場。

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    2015年1月25日までカリフォルニア州アナハイムで行われていた世界最大の楽器ショーであるNAMMショー。ここでMorleyからクリフ・バートンのトリビュートモデルのワウ/ファズペダル「Power Fuzz Wah」が発表されました。

    まずは日本でMorley製品を取り扱っている株式会社フックアップがいち早くFacebookページで紹介した詳細を。

    morley_cliff

    Morleyからメタリカの初期メンバーCliff Burtonトリビュートモデルを発表。

    メタリカのサウンドに多大な影響を与えたベーシストCliff Burtonをリスペクトしたモデルです。

    激しくテクニカルなベースソロを弾くCliffですが、MorleyのワウペダルPower Wah BoostやPower Fuzz Wahを愛用していました。

    彼のファズとワウを組み合わせたサウンドで再現するために発表された「Power Fuzz Wah」は1台でファズとワウを使うことができる1台2役のペダルです。

    Cliffの使用していた70年代のPower Fuzz Wahをトリビュートしながらも現代のサウンドに対応すべくファズタイプは「MODERN」と「VINTAGE」の2タイプを選ぶことが可能です。

    ファズのON/OFF、ワウのON/OFFはそれぞれ独立しているのが特徴です。

    Facebook(2015-01-22)

    Morleyの公式紹介動画はこちらから。


    NAMMショーでの紹介動画はこちらから。




    NAMMショーのMorleyのブースではクリフ・バートンのお父さん、レイ・バートンも来場したとのこと。
    https://www.facebook.com/morleyebtech/photos/a.761891317210022.1073741829.692152824183872/803670546365432

    cowboybluesさん、情報ありがとうございます。

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    元アンスラックス、ニュークリア・アソルト、S.O.D.、そして現在はブルータル・トゥルースで再び活動中のダン・リルカが最近のインタビューでメタリカについて語っていたのでご紹介します。

    dan-lilker

    (前略)

    −80年代を振り返って、クリフ・バートンが亡くなった時、あなたはクリフに似たベースの音をさせていたので、ひょっとしたらあなたがバンドに加わるのはいい選択肢かもといつも思ってました。メタリカがクリフ・バートンの後任のベーシストを試していた、あの当時にそんなことが頭をよぎることはありましたか?

    ダン・リルカ
    「あぁそうだね。俺はその頃CBGB(訳注:ニューヨーク市マンハッタン区にあるライブハウス)でハードコアの昼興行をたくさんやってた頃だったから、他の人たちもそんなことを思っていたようだった。俺のところにやってきてはウインクして言うのさ。「それでダンはメタリカに加入するのか?」ってね。でも全くお呼びはかからなかったよ。」

    「(メタリカに加入したとして)俺が持ちこたえられたかどうかなんて誰もわからない。でも、2人の男が全てのお金を儲け、他のみんなは給料を貰い、彼らは何をやりたいのかをキッチリ指示するそんなバンドさ。そしてクリフが死んでジェイソンが加入した後に出た最初のメタリカのアルバムが『…And Justice For All』さ。そこにはベースが全くなかった。」

    「俺はわからない。(メタリカに加入していたとして)俺が創造的にハッピーだったかどうかはわからないね。つまり俺がいたほとんどのバンドでは、俺がメインのソングライターだったし、音楽の方向性を指揮していた。でも、『…And Justice For All』で何が起こったのかわかる機会を得ることは決してなかった。」

    −驚きました。80年代初頭にメタリカが(ニューヨークの)クイーンズ区にやってきてアンスラックスと出会って以来、メタリカのメンバーとは親しかったのではありませんか?

    ダン・リルカ
    「あぁ。でもそれはクリフの死の約3年前のことだ。もちろん彼らはいまでも友だちやら何やらであることは間違いない。俺はずいぶん彼らとは会っていなかったんだ。その時までにSODはもう終わっていて、ほとんどニュークリア・アソルトについてのことをしていたからね。」

    −試すべき考えうるベーシストとしてあなたの名前が挙がっているものだと思っていました。

    ダン・リルカ
    「きっと他の人たちの中に自分の名前も挙がっていたかもしれないね。きっと最終候補者リストか何かに入っていたかも。でも言うまでもなく何も起きなかったってことさ。」

    1986年9月27日に起きたツアー中のバス事故によるクリフ・バートンの悲劇的な死からまもなく、メタリカは新しいベーシストとバンドを続けるという決断を下した。生き残ったメンバーは空いたポジションをさまざまな候補者で試した。リルカが説明するように、彼はその候補者のひとりではなかった。しかしオンラインのレポートによると、クリフに続く何人かの名高いベーシストを試し、結局ジェイソン・ニューステッドが選ばれた。プライマスのレス・クレイプール、テスタメントのグレッグ・クリスチャン、ニューステッドがメタリカに加わり、去ることになったバンド(フロットサム・アンド・ジェットサム)の後任者となるトロイ・グレゴリーを含む候補者の中から。

    −クリフとは友だちだったんですか?

    ダン・リルカ
    「あぁ。クリフは本当にクールなヤツだった。彼は他のヤツらよりもハッパをよく吸っていた。俺たちはそれを通じて同志になった。彼は本当に地に足の着いたヤツだった。小さな町出身だったから、本当にクールだったし、パーティー好きでほろ酔いしてたヤツだった。(バス事故について)起きたことを聞いた時はかなり押しつぶされそうなほどショックだったよ。」

    (後略)

    Songfacts(2014-11-06)

    外からメタリカがどう見られていたかの一端を垣間見るインタビューでした。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』を、ラーズ誕生から『Kill 'Em All』のリリースまで何回かに分けてこれまで紹介してきました。先ごろ出版されたスコット・イアン(アンスラックス)の自叙伝『I’m the Man: The Story of That Guy from Anthrax』でちょうど時代的に重複する部分が抜粋公開されている記事を発見。管理人拙訳にてご紹介します。

    scott-ian-credit-clay-patrick-mcbride
    Scott Ian (Photo Credit: Clay Patrick McBride)

    1980年の大晦日、俺たちは友だちのリッチー・ハーマンの家でデカいパーティーをやっていた。彼は家の1階で生活していて、親父さんがいつも留守にしてたから、彼の家で50人か60人くらいで俺の誕生日を祝っていたんだ。俺は興奮しててさ。飲んでもいたけど、もう時効だろ。俺は17歳で超高級なウォッカ、ポポフで作った大量のスクリュードライバーを飲んでた。もし使い古しのロシアの漂白剤みたいな味がしてたら、グレイグース(訳注:フランス産の最上級ウォッカ)やティトズ(訳注:テキサス産ウォッカ)と同じくトップクラスだ。俺はそれを間違いなく12杯は飲んだね。そして女の子とヤっちゃってる記憶がうっすらある。吐き気がしたんでキスをやめたんだ。食道までゲロが来ているのを感じて離れたんだけど、彼女にぶちまけちまった。それからリッチーのバスルームで吐きまくった。

    俺は階段を這いつくばって、母さんのアパートまで飛んで帰って寝て、次の日起きたらまだ吐いていた。2、3日は具合が悪かったよ。その後、長い間、酒のにおいだけで吐き気を催してた。振り返ってみると、それが良かったんだ。アンスラックスを結成していく間にそれほど多く飲まないで、活動に集中し続けることができたからね。バーに行っても、ビールを1杯2杯程度。Alcoholica(大酒飲みだったメタリカ)チームの一員じゃなかったし。メタリカを見ていると、彼らは本当に劇的に変わったよね。彼らの音楽は、ずぶずぶに酔っ払っていた時でさえも充分な強さを維持していた。デイヴ・ムステインがバンドにいた時でも、彼らは本当に「Four Horsemen」だったよ。全員が強力で全く違う個性を持っていた。ジェイムズ・ヘットフィールドは実際、壁の花(訳注:パーティーで誰にも相手にされずに独りぼっちで壁際にいる人)だった。彼は(アンスラックスのドラマー)チャーリーみたいに寡黙で、ユーモアのセンスもあったけど、ロックスター的な人格をまだ表には出していなかった。彼は人付き合いが不器用に見えたね。でもギターを抱えて、マイクに叫んでいた時は慣れたものだったよ。それが彼のあるべき場所だったんだ。ステージ上で何も喋らなくても。そういうことは全部デイヴがやっていた。

    ムステインはバンドの本当のフロントマンだった。彼がステージで全てを喋っていたし、ロックスターとしての性格を持っていた。彼はコントロールの効かない意地の悪い酔っぱらいでもあったけどね。でも鋭いユーモアのセンスがあった。ラーズも可笑しかったね。彼はいくらでも喋ることができた。彼は(バンドを)始めた時、本当に何も弾けやしなかった。ジェイムズの曲をジャムることで学んでいったのさ。そうやって良くなっていった。ラーズが他のどんなバンドにいるかなんて想像しがたいけど、メタリカのドラマーとしては彼がピッタリだったんだ。彼はバンドが始まったその日からバンドの代弁者でもあった。

    もし俺がメタリカにコイツはいないだろうって思うヤツを一人選ぶとしたら、それはクリフだろうね。アンスラックスとメタリカは、タイトなジーンズ、ハイカットのナイキシューズかコンバースのスニーカー、メタルTシャツに革のジャケット、あるいは革ジャンの上にデニムっていう格好だった。それがクリフときたら、ベルボトムにカウボーイ・ブーツ、R.E.M.のTシャツにレイナード・スキナードとミスフィッツのピンの付いたデニムジャケットなのさ。彼は間違いなく変わり者だった。でもそれが彼の流儀で、俺たちの中で一番メタルだったんだ。自分の旗を掲げ、最も才能のあるミュージシャンだったからね。もしかしたら今まで俺が会った中でも一番かもしれない。(アンスラックスのオリジナルメンバーのベーシストである)ダン・リルカよりもね。彼はベースの名手だったし、音楽とその理論をわかっていた。彼と比べたら、俺たちなんて原始人みたいなもんだ。彼はとても超然としていたけど、だからといって打ち解けないヤツじゃなかった。クールでサバサバしていた。50年代のキャラクター、ドラマ「Happy Days」に出てくるフォンジーによく似ていた。フォンジーがモリー・ハチェット(訳注:70年代から活躍するサザンロックバンド)をやった感じだね。クリフは立ってタバコを吸って、クリント・イーストウッドみたいにニヤリとして言うのさ。「最近どうだ?」ってね。

    俺たちは同じ映画、同じ本、同じテレビ番組にハマったし、同じバンド全部が好きだった。だから俺たちはすぐに友だちになった。小さい頃から俺はスキナードのファンだったけど、R.E.M.は聴いたことがなかった。俺はクリフに彼らがどんなかを訊いたんだ。彼はジョージア出身のイカしたバンドだって言ってた。それで片面に『Murmur(邦題:マーマー)』、もう片面に『Reckoning(邦題:夢の肖像)』が入ったテープを俺にくれたんだ。俺はそれを家に持ち帰って、チェックしてみた。そう、彼は正しかったよ。あの初期のR.E.M.のものはクールだったね。クリフはものすごいイカしたヤツだった。それをみんなが知ってた。彼にはそういうオーラがあった。メタリカは全員そういうものを持っていたけどね。最初は彼らの間に衝突はなかったようにみえた。全員飲み仲間だったし、バカなこともやった。でもデイヴはちょっとだけ上を行くバカだったかな。彼は本当によく飲むんだ。ひどいクソ野郎になることもあった。深夜に彼が他のバンドのリハーサル室入口に山ほどゴミを捨てやがるから、次の日バンドが現れるとゴミの山でドアが見えないなんてこともあった。彼らはメタリカしかそこで寝ていたバンドはいないってことを知ってた。だからそういう目にあったミュージシャンはみんなメタリカのドアをノックして彼らをぶん殴ってやりたいと思ってたよ。

    1983年4月9日、俺はメタリカと一緒にいた。彼らがラムーア(L'Amour)でヴァンデンバーグとザ・ロッズとライヴをする時だった。ヴァンデンバーグが真っ昼間にサウンドチェックのためにステージに立っていた。ムステインはすでに泥酔していてね。彼は会場のど真ん中に立って、ヴァンデンバーグが曲を終えた途端、おまえら最悪だ、ステージを降りろみたいなことをわめき始めたんだ。(アンスラックスとメタリカのマネージャーだった)ジョニーZが彼を引きずり出したんだよ。でも俺はそんなクソみたいなことはどれも彼をバンドから追い出すには充分だとは思わなかった。アイツは間違いなくスラッシュメタルの生みの親だよ。『Kill ’Em All』の中の多くのリフは彼が書いているし、『Ride the Lightning』の何曲かだってそうさ。デイヴ・ムステインがいなかったら、スラッシュメタルはこの世に存在しなかったかもしれない。少なくとも最初のうちは彼が原動力だったんだ。芸術的な面においてね。

    その翌日か2日後、起きて(訳注:メタリカが寝泊りしていた)ミュージック・ビルディングまで車で行ったら、クリフが外でタバコを吸っていた。
    (訳注:そしてクリフのいつもの挨拶)「最近どうだ?」
    「何もないよ。そっちは?」俺はそう答えた。他の日と同じように。
    「別に。俺たち、デイヴをクビにした。彼はサンフランシスコへ帰るグレイハウンドのバスに乗っているよ。」
    俺は笑ったね。だってクリフはいつも皮肉で痛いところ突くようなところがあったから。「そりゃ可笑しい。ほら、俺はアンプを何とかしないといけないんだ。その口調はあまり感心しないね。2階に上がらせてもらうよ。」俺がそう言うと「全然冗談なんかじゃないぜ。2階の部屋に行ってジェイムズとラーズに話してごらん。」彼はそう言ったんだ。

    2階に上がって見回しても、デイヴはどこにもいなかった。「何かあったのか?」
    「クリフが話してなかったか?」ジェイムズはそう言った。
    「あぁ、彼は嘘ついてるんだろ?違うか?」
    「いや、俺たちは今朝デイヴをクビにした。」

    俺はまだ、そんなこと出来っこない、こいつら俺を騙してるんだと思ってた。「マジで言ってるのか?」
    「大マジだ。」今度はラーズがそう答えた。
    「何てこった。おまえらこれからギグだってあるし、来月にはアルバムを作るんだろ。ジョニーZは知ってるのか?」
    「あぁ、何日か前に彼には言った。」ラーズは続けて「俺たちはジョニーが(この件について)何も言わないと約束させた。デイヴに知られたくなかった。アイツが何をするかわからなかったから。」

    彼らは軍隊の爆撃みたいな正確さで全行動を計画していた。ラムーアでのザ・ロッズとのショーがデイヴのトドメの一発になってしまった。彼らはLAまでバスの片道切符を買って、デイヴが本当に酔っ払う夜を待っていたんだ。彼らはもう長くないことを知っていた。グレイハウンドの停留所はミュージック・ビルディングのすぐ隣にあった。彼らはデイヴを起こし、まだほとんど寝ぼけているような状態でクビにしたんだ。彼は服を着て出て行ったから、服を着せる手伝いをする必要はなかった。彼らはデイヴのものを集めて、その大部分はすでにバッグに詰め込んであったけど、文字通り彼が何が起きているのか理解する前にバスに乗せたんだ。それから彼らはデイヴの機材を送る計画を立てた。

    俺はポカンと口を開けたまま何も口にできずに突っ立っていた。クリフが後ろからやってきて「そう、だから言ったろ。」と言ったんだ。

    「じゃあ、これからのショーやレコード制作はどうするんだ?」
    「サンフランシスコのバンド、エクソダスからひとりこっちに来るんだ。」ラーズが答えた。「彼は飛んできて、バンドに入る。彼はもうほとんどの曲をわかってるし、リードギターを学んでいる。」

    そうして彼はやってきた。カーク・ハメットはとんでもなく頼りになるヤツだった。あの時のメタリカとアンスラックスみんなのアティテュードはこうさ。「ファック、公園のベンチで新聞の上に寝かせてくれ。気にするものか。俺たちはレコードを作るんだ。」

    俺は19歳だった。他のみんなもだいたい同じ年齢だった。何としても曲を作る、それ以外何も気にしちゃいなかった。でもそういうライフスタイルに適応することは、カークにとって他のヤツらよりも難しいことだった。彼は確かに4人の中で一番繊細だったんだ。そういう生活へのストレスが見えることがあった。サンフランシスコに戻れば、自分が始めたばかりのバンド(訳注:エクソダス)がいる。彼には留まる場所があった。彼は汚いリハーサル室で寝泊りなんてしてこなかった。でも決して文句を言ったり怒ったりはしなかったね。彼は俺がこれまで会った中で一番いいヤツだ。彼は何があっても変わらなかった。彼ほどのお金や名声を得ても。彼はサンフランシスコから到着して俺に会った日から変わらず、かわいい子供のままさ。

    (後略)

    radio.com(2014-09-30)

    ちなみにクリフに似ていると言われていた「フォンジー」はこんな顔。
    fonzie_henry_winkler_happy_days

    うーん、微妙な気がしますがどうでしょう(^^;

    スコット・イアンがメタリカのメンバー交代を後から知るこの場面はこれらの本でも記載があります。

    cliff_indexmaju_index

    しかし、この2つの本に出てくるダン・リルカの証言より、今回のスコットの証言の方がより生々しいですね。(微妙な証言の食い違いはさておき(^^;

    こちらの自叙伝が日本語化される日は来るんでしょうか?

    scottianbookcover


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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章完結編。有志英訳を管理人拙訳にて。前回予告どおり、デイヴ・ムステインの解雇、カーク・ハメットのメタリカ加入、そして『Kill 'Em All』のリリースまで。

    - レコード契約(後編) -

    言い伝えによれば、ジョニーZはすぐに店を飛び出し、電話ボックスをみつけて、この明らかに(どこのレコード会社の契約)サインのないバンドを探し始めた。さらに言い伝えによると、ジョニーZはそれからメタリカに興味を示していることを昔からの仲間でありファンジン編集者のロン・クインターナに伝えたという。ロンは、メタリマンションにいたラーズとバンドにその情報を提供した。そこにはギタリスト、マイケル・シェンカーのクールなポスターはあったが、ひとつの電話もなかったのだ。すばらしいことだが、メタリカの経歴の最も重要なこの部分のあまりにドラマ仕立てにされた説明でもある。少なくともラーズ・ウルリッヒはジョニーZが自分を造作もなく見つけたと振り返る。

    「俺たちはメタリマンションで電話を持っていた。でも電話代を払っていなかった期間だったかもしれないね(笑)通常、電話を持っていた時には、俺たちまでたどり着くのはそんなに不可能なことではなかった。」ラーズはそう語り、自分の考えるレコード契約への道のりについて続けて語る。

    「ジョニーZが電話してきた時、彼は2つのことに本当に熱心になっていた。(1つは)俺たちに東海岸でコンサートをさせたがっていた。そして、俺たちに東海岸でレコードを作らせたがっていた。俺たちはちょっとした旅行の準備くらいメチャクチャできていた。さらに俺たちが興味を持ったのは、彼の働きかけでヴェノムが4月にニューヨークでライヴをすることになりそうだってことだった。俺たちはヴェノムの大ファンだったからね。その当時俺たちはテープのトレードがうまくいきだして、東海岸からのファンメールも届き始めていた。だから俺たちはそこで始まろうとしていることにもう夢中になったよ。それにジョニーZは面白そうな人だったしね。俺たちがつかんだチャンスだった。俺たちは契約も何もなかったから。」

    メタリカにはお金はなかったが、大きな野心があった。『No Life Til Leather』が好評だったことと、とりわけジョニーZが野心を植えつけてくれたおかげで。選択肢はもはや明白だった。4月1日、バンドはUホールで車を借りて、アメリカ大陸の向こう側、もっと具体的に言えば、エルセリートのメタリマンションから4,726キロ離れたクイーンズにあるミュージック・ビルディングに向かった。

    ラーズ・ウルリッヒ「ジョニーZはいくらかお金を送ってくれた。ほんの少しのお金だったけど、Uホールで車を借りて自分たちの持ち物を突っ込むには充分だった。バンの後ろはたぶん5から6フィート(訳注:1.5〜1.8メートル)くらいあったかな。そこに自分たちの機材、スーツケース、安いマットレスを入れたんだ。全然豪華じゃなかったよ。ジェイムズとデイヴが前に座って運転して、クリフとマーク・ウィテカーと俺が後ろのマットレスの上でマーシャル・アンプとか俺のドラムセットに囲まれて、横になったり寝たりしていた。俺たちが出入りできたのは、誰かが後部ドアを開けた時だけだ。運転中、12時間暗闇の中で過ごした。唯一の明かりはクリフのライターだけだったね。そんな感じでサンフランシスコからニューヨークまでちょっと刺激的でハッピーな数日があったんだ。」

    ジェイムズ、ラーズ、クリフ、マークがバンドのトラブルメーカーにうんざりする日もあった。デイヴ・ムステインは自分が運転しなければならない時でさえ、かなり酔っ払っていた。酔っていると、雪だまりにバンを突っ込んだり、マークにケンカをふっかける時さえあった。

    ラーズ「西海岸から東海岸への旅で俺たちはデイヴ・ムステインの邪悪な面を見た。彼はあまりに予測不能で、あまりに飲酒その他もろもろ羽目を外しすぎたんで、おそらくそこで俺たちが決めたんだと思う。ジョニーZに会ったその日に、たしか俺はジョニーに、バンドあるいはバンドのうちたった一人のメンバーが東海岸に戻る交通費を払ってもらわないといけないと伝えなければならなかった。俺たちはデイヴをクビにしなくちゃいけないかもと考えていたからね。」

    もうひとつの「実務上の問題」もあった。ザズーラ夫妻は既に彼らの2人の子どもと共にいくつかのバンドにスペースを占有されていた。メタリカはミュージック・ビルディングに引越し、地元ニューヨークのバンド、アンスラックスとリハーサル室を共有した。彼らとメタリカはすぐに友だちになった。アンスラックスはこの貧乏なメタルバンドをヒーター、冷蔵庫、ある時は少しの食べ物によって手助けした。ミュージック・ビルディングの地区に出回っていた麻薬はバンドにとって大きな関心を寄せるものにはならなかった。

    彼らのヘヴィメタルの野心は、明らかに低予算の宿泊施設に基づいていた。特にヘレルプとその他の世界に慣れていた若者にとっては。しかしミュージック・ビルディングの半ば哀れな生活はラーズと今や有望株の彼のバンドにとって最も差し迫った問題ではなかった。日曜の夜、ヴァンデンバーグとザ・ロッズのサポートで行われたバンドのショーの後、バンドにおけるムステインの将来はもはや論議することではなくなった。手に負えないデイヴを追い払わなければならなかったのだ。しかしそれを誰が彼に告げるのか?次の日の朝、バンドはジェイムズをその役に選んだ。ジェイムズは寝ているデイヴの肩をつつき、手厳しい言葉で起こした。「俺たちは決めたんだ・・・おまえはもうこのバンドの人間じゃない!」西に向かうグレイハウンズの始発バスが出発する2時間前だった。長い別れへの理由は何もなかった。彼らは全員先へ進んだのだ。

    ラーズはこの悲しくも必要だったエピソードについて説明する。「時おり彼はちょっと羽目を外すことがあった。(そんな状態で)彼が予測もできなかったことに直面したらどうなっちまうんだろう?ってね。それで俺たちは彼を早朝に起こして、サンフランシスコ行きのグレイハウンドのバスにできるだけ早く乗せた方がいいと決めたんだ。彼が何が起きようとしているのか完全に理解する前にね。それで彼はバンドから放り出されて、4時間のフライトの代わりにあの忌まわしいバスで3日間不機嫌に過ごさなければならなかった。でも当時、俺たちには(航空)チケットを買うお金がなかったんだ。俺はデイヴと一番仲が良かったし、おそらく彼と一番緊密な友情関係があったと思う。だから俺にとって彼にそんなことを告げるのはあまりに難しいことだと思っていた。クリフはまだ新メンバーでバンドに来て5、6週間しか経っていなかった。だから俺たちが言わなくちゃいけないことを言う資格はなかった。そうしてジェイムズが担当者として選ばれた。でも俺たちはみんなジェイムズと一緒にいたんだ。ジェイムズ一人でやることじゃないからね。」

    しかしながら、ラーズ、ジェイムズ、クリフ、そしてマークにとって悲しい状況だった。とりわけ、その経験と紛れもないギターの才能によって確かな成果をバンドに持ち込んでくれたデイヴと1年以上過ごしたラーズとジェイムズにとっては。創造性とユーモアで満たされたギャングな日々はそう多くなかった。全員マンハッタンの観光に行き、変わっていったメンバー編成のなかでも飲み続けていた物、ウォッカを飲んで酔っ払った。

    しかしメタリカは運を持っていた。タイミングが良かったのだ。バンドが優先したギタリストの選択肢、カーク・ハメットはチャンスをつかむ準備ができていた。エクソダスにいた彼の人生も悪くなかったが、メタリカと共にアルバムをレコーディングするためニューヨークに飛ぶことを考えた彼は完璧なキャリアアップを果たした。カークはデイヴが去った同じ日の夜に到着した。ミュージック・ビルディングで行われたカークのオーディションはほとんど形式的なものだった。これより数週間前にラーズとジェイムズはカークが『No Life Til Leather』デモを手にできるよう適切に手配した。彼らはカークの特質や音楽の好み、そしてギター・プレイはメタリカの相性や展望によく合っていると確信していた。そして彼らは正しかった。

    「カークは彼のギターとマーシャルのアンプと共にやってきた。デイヴを追い出した日と同じ日に彼とジャム・セッションをしたんだ。俺たちがやった最初の曲は「Seek And Destroy」だった。ソロの途中でジェイムズと俺は互いを見て同時にうなずいたよ。そうやって(オーディションが)行われたのさ。俺たちがムステインを追い出した時、カークはバンドにいなかった。彼は間違いなく最初の選択肢だったんだ。俺たちはそれがうまくいくとかなり自信を持っていたよ。でも月曜日の夜のジャム以前は彼はバンドにいなかった。そこで俺たちは互いに親指を立てて(OKサインを出して)彼にバンドに加わるか尋ねたんだ。」そうラーズは付け加えた。

    カーク・ハメットのジャム・セッションのデビューは最高だった。1週間しないうちに彼はニュージャージー州のドーバーでメタリカとしてのステージ・デビューを果たす。

    カークもメンバー編成の中でサンフランシスコ出身だ(カリフォルニア州サンフランシスコ出身1962年11月18日生まれ)。彼は悪名高いヘイトアシュベリー地区でヒッピー生活を送っている年上の親族と共に育った。そしてその期間にジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、そしてグレイトフル・デッドのような音楽のビッグネームと出会った。15歳でカークはギターを弾き始め、そこで70年代のシン・リジィ、キッス、UFOのようなハードロックバンドに自らのアイデンティティーを見つけた。後にカークはセックス・ピストルズや暴力的なパンクに夢中になった。しかし同時に名手ジョー・サトリアーニを師にもっていた。そこでカークはメロディー、テクニック、スピード、そして攻撃性のあいだの完璧な共生関係を有効に探すことができた。1981年、カークは初めてのバンド、レジェンド(Legend)を結成する。これは後にエクソダスとなった。

    ジェイムズのように、カークは離婚した家庭の生まれだ。カークの父親は飲んだくれだった。そして、しばしばカークとカークの母親を殴っていた。16歳の誕生日、彼が父親からもらったのは尻に大量に見舞われた蹴りだけだった。カークの父はその後すぐに家からいなくなった。そして母親がカークと彼の妹を育てるためにしっかり奮闘しなければならなかった。彼が10歳の時、カークは隣人に性的虐待を受けた。したがってギターを弾くことはカークにとって間違いなく癒しとなった。トラウマとなった全ての体験は彼を攻撃的で激しいヘヴィメタルの上に立つ怒りへと向かわせた。

    メタリカは最初のアルバムのための大部分の曲を『No Life Til Leather』の曲に基にして書いていた。ついにミュージック・ビルディングで、来たるべき東海岸でのバンドのギグのためにバンドの曲をたくさんリハーサルする時が来たのだ。一方、ジョニーZはレコーディングに使えるスタジオをみつけた。ジョーイ・ディマイオというジョニーZが担当するニューヨークのバンド、マノウォーのベーシストがジョージ・イーストマンのコダック社でよく知られるカナダ国境近くのニューヨーク州ロチェスターにあるスタジオを薦めてきた。そのスタジオは「ミュージック・アメリカ」と呼ばれるマンハッタンのとても(使用料の)高いスタジオ以外の地元のスタジオよりもさらにずっと安かった。ミュージック・アメリカの2階にある大きなホールはラーズのドラムの音に完璧に合っていた。なぜなら「ラーズは不明瞭なドラムの音を出していた」からだとジョニーZは彼を見ていてそう打ち明けた。

    若く熱心なメタルファンがホールでドラムを叩いている間、ジョニーZはニュージャージー州の家に戻って予算に対処するよう頼まれた。ミュージック・アメリカとそのオーナーであり、プロデューサーのポール・カーシオ(に払う金額)はニューヨーク価格からすれば安かったが、全てがそれほど安いわけではなかった。メタリカは5月末まで6週間アルバムをレコーディングした。そしてホームのロック天国で得たレコード売上げから超過金をロチェスターのアルバム制作陣に渡した。ザズーラはこのバンドに本当に一か八か賭けたのだ。しかし、アルバムのセールに関して誤算していた。タレント・スカウトやあらゆる種類のレコード会社にいるA&Rの人々との数え切れないほどのミーティングは何の実りのなく終わった。ジョニーZが身銭を切ってメタリカのアルバムを出さなければならないことが明白となったのだ。

    自身のレコード・レーベルの設立は、ジョニーZの膨大な計画においてこれまでやってこなかったところだった。だが、もはや引き返せない。彼は「この1つのアルバムのために」Megaforceを始めたのだ。ジョニーZ、そしてラーズと彼のバンドにとって幸いなことに、Megaforce Recordsは2つの善意あるディストリビューターと接触した。アメリカのRelativityとニュー・ブリティッシュ・ヘヴィメタル会社、Music For Nationsだ。この会社はニューヨークのバンド、ヴァージン・スティールのリリースでその前の年に始まったレーベルだった。しかし前者は、せっかちな若者がロチェスターでエネルギーをぶちまけた後に思いついたアルバムのタイトルに問題を抱えていた。そのタイトルは『Metal Up Your Ass』だ。

    最初は仮タイトルだったが、バンドは最終的に選んだタイトルとして、もはや本気になっていた。彼らは断固として譲らなかったが、ラーズと彼のバンド、メタリカに音楽業界の本当の状況について少し学ぶ時が来た。メッセージは明らかだった。どうあってもタイトルを『Metal Up Your Ass』することも、提案された妥協案『M.U.Y.A』やその他頼んでもないのに送りつけられた提案に乗ることもできなかった。怒ったクリフは制約を課してくるディストリビューターに対する感情を露にした。「あいつら全員殺っちまえ・・・とにかく殺っちまえ」

    それがタイトルになった。『Kill 'Em All』だ。

    『Kill 'Em All』は7月に発売された。ジェイムズ・ヘットフィールドによってデザインされたバンド・ロゴと無検閲の一節「Metal Up Your Ass」とともに。アルバムは9曲から成り(『No Life 'Til Leather』からさらに発展した6曲を含む)、クリフのソリッドなベースソロも収録されていた。リフを基調としたヘヴィメタルの速い曲が次から次へと繰り出され、使える場所があればすぐにテンポの変化や燃えるようなソロが差し込まれ、メタリカがアメリカのシーンから無視されていると感じてきたヘヴィメタルへの愛の大々的な声明を抒情詩調の領域でもって表現していた。

    全世界的にラーズとメタリカと同じ意見を持った人々がいた。2週間以内で『Kill Em All』は20,000枚近く売れた。それは独立系レーベルのリリースでは全く聞いたことのない数字だった。

    「それまで書いてきた最初の9曲をこのアルバムに使った。次のアルバムでは次にできた9曲を使う。そしてその次も・・・ってね。それがメタリカの世界征服計画なんだ。」とは、ものすごい熱意とものすごく若く陽気な、ほとんど絶え間なくメタリカについて話していそうなラーズの言だ。

    ラーズは明らかに正しかった。そのウィットに富んだ「世界征服」という言葉は。そのうち、曲やレコーディング、メディアやレコード会社とのミーティング、リハーサル、スタジオ(数ヶ月、それから数年)、家からの電話やファックス(時おり)、バンクーバーや全世界へのロードにおける、世界征服への戦いはそう容易くはなくなった。

    しかし、ラーズは全ての準備ができていた。重要な利点である疲れを知らない献身と固い決心を彼は持っていた。最も重要なのは、彼は1983年夏、ついに完全なバンドを持ったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    dave-and-kirk
    メタリカ時代のデイヴ・ムステインとエクソダス時代のカーク・ハメット

    ラーズの認識と裏腹に、カークはこの時点でハッキリと正式メンバーと言われたわけではなかったようで、しばらく自分が正式メンバーなのか助っ人なのかわからなかったそうです(苦笑)

    女手ひとつでカークを育てたお母さんとは今年(2014年)2月のFearFestEvilにいらしていてお会いすることができたのですが、非常にパワフルで可愛らしい方で「この方があのカークを生み育てたのかぁ、なるほど。」と妙に納得したのを覚えています。

    そしてデイヴ・ムステインの解雇については、スコット・イアンが自叙伝で語っているところがあるので、後日紹介します。

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    メタリカ活動初期写真集「The Club Dayz 1982-1984」届きました。

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