メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:クリフ・バートン

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    前回の続き。「Metal Hammer」2016年6月号のインタビューを管理人拙訳にてご紹介。

    metallica_earlydays

    ■No Remorse

    ラーズ
    「No Remorse」はかなり飾りつけされた曲なんだ。俺たちが最初にこの曲や「Phantom Lord」「Four Horsemen」「Seek & Destroy」を書いた時からね。でもあの曲は他の曲の制作と劇的な違いはないよ。明確なヴィジョンがあった。いったん何かがうまくいけば、うまくいった。「やべぇ、俺たちスゴイな。もう何も変える必要はない」とはいかなかったけどね。でも何かがうまくいけば、うまくいったんだ。

    全てが本能的で直情的で瞬間的なものだった。今、腰を据えてレコードを制作していて、一日とかひと月とか自分のレーダーでもって全てのものを見ていくと、別物の選択肢が重なり合ったものなんだ。過重な負担がかかって、どうしたらいいかと腰を据えて考えているとこうさ。「クソッ、カリフォルニアのエルセリートでジェイムズとデイヴ・ムステインといた時は全てが簡単に事が運んだのに。俺たちは30分のレコードを作るのに、午後の半日でやべぇ曲を書いてたじゃないか」とかいった戯言だよ。本当はそう容易くはなかった。でもそうやって曲を練っているよ。


    ■Seek & Destroy

    ラーズ
    あのメインのリフはヘットフィールドの定番のリフだね。デモ・ヴァージョンだと、「Seek & Destroy」は2つのコード、2つのヴァージョンで中間部もちょっとだった。メタリカの受けた影響について語る時に欠くことのできないバンドのひとつがマーシフル・フェイトだ。彼らには全く違う雰囲気とダイナミズム、光と影を持った長い曲があった。彼らには俺たちの曲を長くした責任があるよ。マーシフル・フェイトを聴きだして半年もする頃には、俺たちは追加の節、追加のコーラスを加えて、アレンジをもっと長くし始めた。もっと良くしようとしていたんだよ。そう思う。

    −35年後もまだその曲を演奏しているという意識はありましたか?

    ラーズ
    (笑)意識していなかった、一切ない。全くないね。俺が俺がと打ち鳴らすことなく、いつも等しく楽曲を扱っていた。「Seek & Destroy」以前の曲に俺たちはそう感じていた。あの曲以後、良い曲として扱った。俺たちがやらなかったひとつは、たくさんの曲から選ぶということだった。『Kill 'Em All』は1983年に俺たちにあったベスト10曲なんじゃない。1983年時点であった10曲なんだ。他のバンドのインタビューを読んだらこうさ。「あぁ、俺たちは20曲を書いて、レコードのために10曲を選んだ」それは俺たちのやり方じゃなかった。レコードに収録するのに十分良い曲が書けなかったらどうするんだ?『Ride The Lightning』のために残しておいた7曲なんてものはなかった。全てのシングル曲は俺たちが書いて聴けているものなんだ。

    ■Metal Militia

    ラーズ
    間違いなく「Metal Militia」みたいな曲はその後数年に渡って思い浮かべてきたものとは違った歌詞の雰囲気を持っていたね(笑)。「レザーとメタルが俺たちのユニフォーム(Leather and metal are our uniforms)」だぜ?35年後には冗談みたいなことになってるぞって教えてやりたいね。でも1980年代初頭のカリフォルニア南部でそんな皮肉は多くはなかったよ。すごいマジになりすぎた例のひとつだね。18歳でなんとかしようともがき、理解しようと努めていたんだ。HR/HMで別世界の詩的なものを書くヤツはそう多くはなかった。歌詞の主題はほとんど音楽の次の話だ。歌詞は楽曲が続くようにそこにあったってだけだったよ。

    −かなり早い段階でバンドはそういった歌詞から離れて行ったと言ってもいいでしょうか?

    ラーズ
    それが正確だと言っていいだろうね。自分たちがやっていることを理解し始めて、意図的にヘヴィメタルの決まり文句からは離れて行ったよ。剣とか魔術のイメージ、革と鋲とかそういったもの全てからね。次の一連の曲を書く時までに、恐怖とか操作とか逃れることのできない状況に陥れられたというアイデアとかいったことを取り上げ始めたんだ。

    カーク
    俺たちは曲を録り終えて、グレイハウンドのバスに乗って急いでサンフランシスコに戻ったんだ。素晴らしい気分だったね。ついにアルバムを作って、ビニール盤になって、実際にそれをつかんで、アルバムジャケットを見て、どれだけ興奮しているか帰途に着く間ずっとクリフと話したのを覚えているよ。ふと彼はこう言っていたよ。「2ndアルバムはどうなるんだろうな?3rdアルバムはどうなるんだろうな?」ってね。

    −『Ride The Lightning』が『Kill 'Em All』の1年と2日後に出されました。最近ではあのペースは恋しいですか?

    カーク
    もしやるとなったら、どうなるかわからないな。あのペースは今じゃ相当早いよ。他にもやることはたくさんあるからね。一日24時間しかないんだ。メタリカに6時間を充てて、14時間を他のことに充てる。18歳の頃より52歳になった今では他にもやらなきゃならないことがたくさんあるんだよ。

    Metal Hammer 2016年6月号より

    まだまだカークには語られていないクリフとのエピソードがありそうです。昨年、「Metal Militia」がセットリストに組まれることが増えたのは、もしかしたらリマスター盤の制作段階で改めて演ってみたいとラーズが思ったのかもしれませんね。

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    前回の続き。ラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット、そしてプロデューサーのフレミング・ラスムッセンがクリフ・バートンとの思い出や、30年経った今『Master Of Puppets』がどういう位置づけにあるのか語ってくれました。管理人拙訳にてどうぞ。

    メタリカは 友人であるデンマークのオカルト・メタル・グループ、マーシフル・フェイトとパーティーを開くことによって、(アルバム制作の)セッションのあいだ、くつろいでいた。「俺たちはバーに出かけては飲んでいたよ。」ハメットは語る。「ライアーズ・ダイスのビッグゲームに夢中になったのを覚えているよ。終いには俺たちとマーシフル・フェイトで酔っ払いレスリング・マッチになったんだ。まったくバカ騒ぎだったね。俺たちはバーのなかでレスリングを始めて、どういうわけか通りまで出ていた。俺たちはずっと笑って、ただ飲んだくれて互いに傷つけることはなかった。それが俺たちが抱いていたモヤモヤやフラストレーションや先々の不安なんかを吹き飛ばす方法だったんだ。」ハメットはそう続けた。

    どんなにメタリカに不安感があっても、彼らはレコードでそれを表すことはなかった。『Master Of Puppets』の楽曲のなかで最も大胆なものの一つが8分半のインスト曲「Orion」だ。生々しい感傷的なベース音で幕を開け、軍隊のようなリズムギターのラインでフェイドアウトする前に、グルーヴを効かせたジャムに移行し、陰鬱と希望のあいだを行ったり来たりするソロもある。「クリフが本当に良いこのメロディー・パートを思いついたんだ。メロディーがとても強力だから、そこにボーカルは必要なかったんだよ。」ラスムッセンはそう語る。

    「俺にとって「Orion」はクリフ・バートンの白鳥の歌(訳注:普段鳴かない白鳥が死を前に美しい歓喜の歌を歌うという伝説がある)なんだ。あれは本当に素晴らしい楽曲だ。彼は全ミドル・セクションを書いていた。彼はどんな方向に向かっていくのか俺たちに視点を与えてくれた。もし彼が俺たちと共に(この世に)留まっていたら、彼はさらに先に行っていると思う。俺たちのサウンドは彼がまだここにいたら、違っていただろうね。」ハメットはそう語る。「彼は他のメンバーとは違った感覚とアプローチを持っていた。大歓迎だったよ。」彼はそう続けた。

    セッションを終えると、ラスムッセンはバンドのシビック・オーディトリウムのショーのために、ベイエリアに戻ることになったウルリッヒのドラムのフライトケースにテープを詰める手助けをした。そのショーで彼らは「Master Of Puppets」「Disposable Heroes」をアメリカで初披露した。次にバンドがショーを行った時には、『Master Of Puppets』がリリースされて数週間が経ち、その後のツアーがバンドを永遠に変えたのである。

    1986年3月から8月まで、メタリカはオジー・オズボーンの前座として「Damage Inc.」ツアーにそのほとんどを費やした。オズボーンは2009年に「彼らは常にとても良いバンドだった。俺たちは1つのツアーを一緒にやった。思い出すよ…俺は新世代にトーチを手渡せることができて光栄に思うよ。」と回想している。

    ヘットフィールドがスケートボードで腕を怪我するまでは、ツアーは順調に進んでいた。ローディーでメタル・チャーチのメンバー、ジョン・マーシャルがリズムギターを弾いて、メタリカはツアーを続行した。オジーのツアーが終わると、彼らは1か月のオフを取ってから、2週間に渡ってヨーロッパまでツアーの足を伸ばした。9月26日のストックホルムでのギグがフロントマンの腕が治り、この数ヵ月で初めて彼がリズムギターを弾いたライヴだった。そしてクリフ・バートン最後のコンサートにもなってしまった。

    ウルリッヒは言う。「『Master Of Puppets』から30年ってことは、今年はクリフの死から30年なんだな。クレイジーだね。30年だって?ファックだ。」

    ストックホルムのショーの後、メタリカのメンバーとクルーたちはツアーバスで次のコンサートのためにコペンハーゲンに向かっていた。朝6:30頃、車は道路の外へとスリップした。ハメットは寝台から投げ出されて黒目を損傷し、ウルリッヒはつま先を怪我した。バートンは車の窓から投げ出され、車両が彼の上に転倒し下敷きとなった。彼は24歳だった。

    運転手は過失致死罪で起訴されたが、有罪判決にはならなかった。事故は道路に張っていた薄氷のせいとされた。『Metallica Unbound』によると、ヘットフィールドとハメットは運転手に向かって叫んだという。クレーンでベーシストからバスを持ち上げるのを彼らが待っているあいだ、ヘットフィールドはスリップさせたものを探しに道を駆け出して行った。ヘットフィールドはその夜、2つのホテルの窓をぶち壊した。ハメットは事故でとても動揺していたため、電気をつけたまま眠りについた。Guitar Worldはベーシストの葬儀が10日後にベイエリアで行われ、葬儀のあいだ「Orion」が流されていたことを報じた。

    「クリフは本当にユニークだった。彼は猛烈に自分自身というものを保持していたんだ。カメラマンは「クリフはそんなダブダブのベルボトムを履くべきじゃない」とか何とか言ったかもしれないが、彼は自分自身というものを守り続けたんだよ。」ウルリッヒはそう語る。



    「彼はこう言うだろうね。「まぁ、とにかくまたファッション界が(ベルボトムに)戻ってくるまで俺は履くよ。それに俺、これが好きだし。」ってね。彼は私が会ったなかで最高に素晴らしい人物のひとりだ。紳士な偉人さ。でも(他に)誰が80年代にベルボトムを着ていたんだい?」ラスムッセンはそう語る。

    ウルリッヒは言う。「彼はユニークであり、自律的だってことを表に出していた。それが明らかにメタリカの大きなメッセージのひとつになっていた。あんなヤツ、他にいないよ。」

    ドラマーは最近、バートンについてたくさんのことを考えるようになった。彼は『Kill 'Em All』と『Ride The Lightning』のデラックス・リイシューと共に(『Master Of Puppets』制作当時について書かれた)書籍『Back To The Front』に取り組み、昔の写真をじっくり見るようになった。「実際、別の日に俺たちが昔の写真を漁っている時、カミさんに言ったよ。「彼はピッタリした照明を当てればとてもイケメンだったんだ」ってね(笑)」ウルリッヒはそう言って笑う。「あの当時を振り返ると、俺たちはみんな野暮ったくて、何か剥奪されていた。「イケメン」がかつてメタリカにいたかは俺にはわからないけど、彼がとてもハンサムでイケメンな写真がいくつかあるんだ。彼は惹きつけるものを持っていたし、彼が望んだようにとても魅力的な性格をしていたよ。」

    バートンの死からまもなく、メタリカは活動続行を決めて新しいベーシストを探し始めた。彼らは数十もの見込みある四弦を使う人物をオーディションしたが、最終的には、それ以前はフロットサム・アンド・ジェットサムでプレイをしていた23歳のアリゾナ州フェニックスのミュージシャン、ジェイソン・ニューステッドに決めた。

    1986年11月の最初の週に『Master Of Puppets』はメタリカのレコードで初のゴールド・ディスクとなった。それ以降、アメリカだけで600万枚以上を売り上げることとなった。その同じ週、1986年11月8日にメタリカは「Damage Inc.」ツアーを再開した。それはニューステッドにとって初めての公式のショーとなった。「クリフは芸術的なアプローチを持っていた一方、ジェイソンはとてもテクニカルだった。彼は完璧に演奏していたよ。クリフはもっと音楽的だった。」ラスムッセンはそう語る。

    2016-metallica

    ニューステッドは2001年までバンドに在籍した。彼の在籍中、バンドは1988年の『...And Justice For All』の「To Live Is To Die」に未使用だったバートンのリフを組み込んだ。2003年、元スイサイダル・テンデンシーズ、オジー・オズボーンのベーシスト、ロバート・トゥルージロが加入。しかし誰がバンドに入ろうとも、ウルリッヒはバートンと過ごした時間を大切にしている。

    ドラマーは言う。「彼についてはたくさんのことを考えるよ。あの編成のサウンドという点であの3枚のレコードで俺たちがやってきたことはとてもユニークなことだった。ジェイソン・ニューステッドに神のご加護を、ロバート・トゥルージロに神のご加護を。彼ら自身とクリフの死からメタリカにもたらしてくれたものに。でもクリフは本当に彼自身がキャラクターだった。それは1ミリも変えられない。ますますそのことは明らかになっているよ。」

    10年前、メタリカは『Master Of Puppets』を創り上げた時のやり方を評価し始めた。メタリカが彼らの最新アルバムである2008年の『Death Magnetic』の曲作りを始めた時、プロデューサーのリック・ルービンが『Master Of Puppets』を制作した頃に聴いていたレコードについて考えるよう求めたのだ。「それを再作成しようとせずとも何か触発されたり影響を受けたりすることができる。」ウルリッヒによると彼はそう言った。(このプロデューサーは先月「彼らと一緒に仕事をする上で主な目標は、彼らにメタリカを再び受け入れさせるということだった」とRollingStoneで語っている。)明らかに触発されたバンドは2006年のヨーロッパツアーで『Master Of Puppets』の完全再現をやることを決めた。それはバンドにとってのターニング・ポイントとなった。

    ウルリッヒはこう語る。「大いに楽しませてもらったよ。俺たちはノスタルジアなことにはちょっと慎重だったんだ。でもやってみたら本当にクールだった。自分たち自身をバックミラーで見ることを許し、過去にやったことについて気分良く感じるのは初めてのことだった。俺たちはいつも繰り返しになることを恐れていたし、ほとんど過去を否定していたと言ってもいい。でもあれは良いと感じたんだ。」

    ハメットが発見したのは、『Master Of Puppets』の伝説がユニークな方法で成長を続けているということだった。「最も驚かされたことは、俺がラジオであのアルバム収録曲の何かを聴いた時に起きた。それ以前、それ以後に生まれたその他全ての音楽の中心に、いまだにあのサウンドがある、どれだけ現代的でモダンなんだって驚いたね。あれには感謝しているよ。あんなことはいつも起きるわけじゃない。」彼はそう言う。

    1988年のLP『...And Justice For All』の共同プロデューサーとしてメタリカと組んだラスムッセンは、『Master Of Puppets』を強奪されて聴くこともままならなかった。文字通りに。「まさか自分で『Master Of Puppets』のCDを持つことになろうとは思わなかったよ。子供たちが私の『Master Of Puppets』を盗んでしまうんだ。ウンザリしたけど、彼らがあれを聴きたいと思うのは気分がいいね。」

    ウルリッヒは今秋に予定されている『Back To The Front』の発売をただただ熱望している。「あれは本当にヤバいよ。著者のマット・テイラーは映画『ジョーズ』についての本を出したんだ。こいつはそのステロイド入り強化版ってわけだ。」

    それどころか、彼はその本、そしてメタリカの他のアーカイヴ・プロジェクトに取り組む体験に感謝している。その時代の写真を再び見て、メタリカがどのようにして今の姿になったのか考える理由ができたからだ。「俺たちはただのガキだった。そして音楽シーンやムーブメントの一部になった。その時、俺たちはその可能性について気づいちゃいなかった。俺はいつもニューヨークやLAのミュージシャンってのは“うまいことやる”ためにバンドに入りたがって、“ロックスター”になって、ビバリーヒルズのでっかい豪邸を買って、女の子をゲットするもんだと思っていた(笑)」彼はそう言って笑う。「俺はそんな戯言を考えていたなんて覚えちゃいない。ただ音楽をやって、ビールを飲んでいたのさ。」

    RollingStone(2016-03-02)

    序盤でカークが語っていた「ライアーズ・ダイス」についてはこちらから。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95_%28%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%29

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    前回の続き。元ネタ記事があまりに長いので前編後編ではなく3部構成にしました(^^; 『Master Of Puppets』制作時のクリフ・バートンのエピソードなど、管理人拙訳にてどうぞ。

    『Master Of Puppets』の残りの曲をレコーディングするため、バンドは(1985年の)12月のあいだ熱心に取り組んだ。午後7時頃からレコーディングを始めて夜通し作業を行い、午前4時から6時の間に終わらせていた。「彼らが宿泊していたホテルは無料のビュッフェ形式の朝食がついていたんだけど、彼らはそれを食べるために大体はその時間にホテルに戻っていたよ。」そうラスムッセンは回想する。

    彼らは「Alcoholica」というニックネームを授かっていたが、このセッションには集中して生産的に臨んでいた。「ラーズと私はサウンドをいかにタイトにするかにほとんど執着していた。」プロデューサーはそう振り返る。「我々は正しくあろうとしていた。いつも楽曲の雰囲気について話していたよ。」

    jmz_kirk

    (製作開始)数週間のセッションを経て、(1985年)9月14日にドイツのメタル・ハマー・フェスティバルで一回限りのギグを行っている。そこで彼らは『Master Of Puppets』からスラッシュ反戦歌「Disposable Heroes」の試運転を行った。ウルリッヒは語る。「あの曲にはジェイムズが書いた俺のお気に入りの歌詞がある。彼は、無駄で見当違いの戦争に駆り出され、彼が生まれる前に命尽きた兵士たちを見据えていた。音楽的に、あれはメタリカの昔ながらの要素をたくさん含んでいる。高速パート、ミドルテンポの節、中間部分の内と外でそれ自身が複雑に組み上がっているたくさんの面白いプログレッシブなところ。最近じゃ、特別なショーで演るためのすげぇ曲だよ。」

    『Ride The Lightning』のレコーディングからメタリカが成長を遂げた顕著な点のひとつは、ヘットフィールドの歌唱法にある。彼は準バラードの最初のパートである「Fade To Black」をフロントマンとして1984年のLPで歌っていたが、22歳になって、『Master Of Puppets』で最も落差があり、『カッコーの巣の上で』に触発された楽曲「Welcome Home (Sanitarium)」を新たに自信を持って取り組んでいた。ラスムッセンは語る。「彼は『Ride The Lightning』ではもっと叫んでいる類のボーカリストだった。すごい良くなっていたよ。彼はボーカルをやることにちょっと恐る恐るなところがまだあったけど、『Ride The Lightning』ではできなかったであろういくつかのことを我々はやったんだ。」

    メタリカが過去から改善をするために行った別のやり方は、曲の複雑さにあった。「Disposable Heroes」やアルバムのオープニング曲「Battery」のように(“脅迫と暴行”を含んだ)アコースティックまで広がるエンニオ・モリコーネ風の弦の弾き方、身体を動かしてしまうスラッシュ・リフとブルージーなソロといった複雑なアレンジを誇っていた。「Damage Inc.」は、ギターのフレットを破壊するようなもうひとつのスピード曲だが、ヘットフィールドによる咆哮「Fuck it all and fucking no regrets」がかかる前に、ヨハン・セバスチャン・バッハの聖歌「来たれ 甘き死よ、来たれ 聖なる安息よ(Komm, suser Tod, komm, selge Ruh!)」のように膨らんでいくコードから始まっている。また彼らはドゥームでブラック・サバスのような「The Thing That Shold Not Be」でH.P.ラヴクラフトのホラーメタルを試し、プログレッシブで予測不可能な「Leper Messiah」で強欲なテレビ宣教師をこき下ろした。

    それからヘットフィールドが薬物中毒について書きつけた「Master Of Puppets」だ。1986年にヘットフィールドはなぜこの曲を書いたのかを語っている。「サンフランシスコのパーティーに出かけたんだ。そこにはヤクを打ち込んでる病んだ中毒者がたくさんいた。俺まで気分が悪くなったよ。これは一般的には何かのドラッグについて歌ったわけじゃないけど、ドラッグによって支配されて他の逃げ道がない人たちについての曲なんだ。」つっかえつっかえ進行するオープニングのギターライン、ムーディーな中間部のソロ、芸術的なブレイクダウンにより、8分半の叙事詩はメタリカのサウンドをあっという間に神格化したのである。



    「俺が気に入っている曲は「Master Of Puppets」だね。」K.J.ドートン著『Metallica Unbound』で再び取り上げられた1986年のインタビューでバートンはそう語っている。「これまでのメタリカの楽曲のなかであれがベストだと思う。」

    「あの曲は時間がかかった。」ラスムッセンはそう振り返る。「たくさんの異なるパートとメロディーがあるけど、あれは一級品の曲だ。」サウンドを引き締めるために、プロデューサーはバンドに通常よりも楽器を低くチューニングするように頼んだ。そうすることでテープを早回ししても通常のチューニングに聴こえるようミキシングができた。「我々は数回デカい音で奏でて、これだと思う1回を決めていた。彼らは生で演奏しなければならなかったからね。」

    その当時、タイトなサウンドを得ることがメタリカにとって重要だったため、彼らはレコーディングに適した楽器をみつけるために懸命に動いていた。ヘットフィールドとハメットは『Ride The Lightning』のレコーディング前に機材が盗まれた後、デンマークのスタジオで自分たちが使うアンプを既にみつけていた。しかし、ウルリッヒは違ったドラムサウンド、具体的にはラディックのブラック・ビューティー・スネアのサウンドをまだ求めていた。その当時、それを持っており、彼が知っていた唯一のミュージシャンがデフ・レパードのリック・アレンだった。彼はまだ、左手を失った交通事故から回復の途上にあった。「だから(ラーズが)マネージャーに電話して言ったんだ。「ねぇ、リックのドラムって今は使われてないでしょ。あれを送ってもらうことってできないかな?」とね。」ラスムッセンはそう振り返る。「次の日にはこっちにあった。彼らはそれを夜通し使っていたよ。それからあるオフの日に彼がデンマークの音楽店に行ったら、あのドラムが棚に鎮座しているのを見つけたんだ。10年はそこにあったのか、1976年の価格でね。今や彼はあれを20は持っているよ。」アレンはその年の夏に行われるイギリスのモンスターズ・オブ・ロックでカムバックを果たすこととなる。

    3か月半ものセッションとなり、アメリカ生まれのメタリカのメンバーたちはホームシックになり始めていた。ハメットとバートンは特に、ウルリッヒがドラム・トラックを録り終えるまで待っている間、退屈していた。「24時間徹夜の時もあったし、コペンハーゲンまで飲みに出かけたり、時間を潰せることは何でもやったよ。」ハメットはそう語る。「1点覚えているのは、地図でビーチを発見した時のことだね。俺たちはそこに出かけて行ったんだけど、とても寒くてさ。そこは波も何にもあったもんじゃない。クリフと俺はコペンハーゲンのあの変なビーチでただ服を着込んでこう言ってた。「神様、この場所は俺たちをどうにかしちまいそうです!」ってね。」

    彼らが時間をやり過ごすためにやっていたもう一つのことはポーカーだった。「クリフは本当に熱心なポーカープレイヤーだったんだ。」ラスムッセンは言う。「彼はワイルドカード使いの変人でね。デュース(ワイルドカードの2の札)と片目のジャックとスペードとクラブのキング。彼は本当にロイヤル・フラッシュを狙っていたみたいだけど、やったことはなかったと思う。彼がもし8枚のワイルドカードを持ってるとわかったら、チャンスありだね(笑)」彼らは大体において少額を賭けたポーカーをしており、プロデューサーが付け加えるには、10セント相当のデンマーク・クローネを賭けていた。

    RollingStone(2016-03-02)

    後にカーク・ハメットとクリフ・バートンがツアーバスの席をトランプで決めて生死を分けることになったことを知っているだけにポーカーの話は何とも切なく聞こえます。続きはまた後日。

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    本日9月27日はクリフ・バートンの命日。そんなクリフの死にまつわる話を含む記事をみつけました。本当に「衝撃的」かどうかは人によるかと思いますが、管理人拙訳にてご紹介。(ちょっと長いのでお時間あるときに)

    19. ジェイムズ・ヘットフィールドの初めてのバンド

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    多くの人は信じないだろうが、ジェイムズ・ヘットフィールドが参加した最初のバンドはファントム・ロード(Phantom Lord)ではなく、オブセッション(Obsession)だ。このオブセッションでヘットフィールドはメタリカのオリジナルメンバーのベーシスト、ロン・マクガヴニーと初めてのジャム・セッションを行っている。そして、シンガーのマイク・ヴェセーラが音楽的キャリアを始めたバンドとしても知られている。オブセッションは長く名高いキャリアを持ち、1982年から1989年まで活動し、2004年に再結成した。バンドは現在も活動中で2012年には最新スタジオアルバム『Order of Chaos』をリリースしている。

    18. 緑の『Ride The Lightning』

    Ride-The-Lightning

    1984年のメタリカの2ndアルバム『Ride The Lightning』は、我々ほとんどが目にしたことあるのは標準的な青だが、Bernett Recordsによってジャケットが緑色にミスプリントされたフランス盤が400枚存在する。この緑盤はコレクター垂涎の的で見つけるのは難しい。『Ride The Lightning』はプラチナ・レコードの6倍つまり600万枚以上をアメリカだけで売り上げている。

    17. メタリカが所有し、運営しているMetClub

    MetClub

    献身的なメタリカファンなら、MetClubのことは聞いたことがあるだろう。バンドは1994年に熱狂的なファンのためにクラブを立ち上げ、100%メタリカによって運営されている。MetClubではその年のTシャツを提供し、「So What!」と題された年5回発行の会報誌を発行している。それだけでなくチケットやグッズも入手できるし、メンバーとして登録していて運がよければ、バックステージパスさえもらえるチャンスがある。

    16. 「Seek and Destroy」がシングルになっていない

    Seek-and-Destroy

    1983年のメタリカのアルバム『Kill 'Em All』が驚くべき楽曲内容のアルバムだと考えていたとしたら、かなりガッカリするかもしれないが、「Seek and Destroy」は『Kill 'Em All』のなかでほぼ間違いなく最も人気のある曲のひとつだ。例えば「Phantom Lord」「Metal Militia」「The Four Horsemen」は「Seek and Destroy」よりもテクニカル面においては優れているが、実際にシングルとしてリリースされなかった。実際、『Kill 'Em All』から出されたシングルは「Jump in the Fire」「Whiplash」の2つだけだ。

    15. タロットカードがクリフ・バートンを殺した?

    Cliff-Burton

    バス事故によるベーシスト、クリフ・バートンの悲劇的な死は『Master of Puppets』のツアーをしていたメタリカと彼らのファンみんなにとって大きな損失だった。元ペンタグラム(Pentagram)のジョー・ハッセルバンダーは彼がセイラム魔女裁判(※訳注1)を引用したタロットカードを持っていたから死んだと考えていることを別の機会に語っている。クリフ・バートンは1986年9月27日にわずか24歳で亡くなった。彼の伝説は生き続けており、2011年にはRollingStone誌でオールタイム・ベストベーシストの9位に選ばれている。

    14. ブラックアルバム伝説

    The-Black-Album

    メタリカがレコーディングした9枚のアルバムのうち、セルフタイトルのアルバムはブラックアルバムとしても知られている。このアルバムはいまだに最も売り上げたアルバムと考えられており、世界で3000万枚も売り上げたサウンドスキャン時代の最も売れたアルバムである。2003年にはRolling Stone誌のオールタイム・ベストアルバム500で255位にランクイン。2012年にはヨーロッパのブラックアルバムツアーでアルバム完全再現を行った。

    13. 記録破りに一役買った『Death Magnetic』

    Death-Magnetic

    メタリカの2008年の最新アルバムのリリースによって、ビルボード200でスタジオアルバムが5連続初登場1位というアメリカのバンドでは唯一の記録を持つこととなった。メタリカは元の音楽スタイルに戻ったと数多くの批評家が語ったように多くの肯定的なレビューを受けた。『Death Magnetic』はロバート・トゥルージロが加わっての初めてのアルバムでもある。この人と言えば・・・

    12. ロバート・トゥルージロのメタリカまでの音楽的背景

    Robert-Trujillo

    メタリカのベーシスト、ロバート・トゥルージロは、まだ実際にオジー・オズボーン・バンドに籍を置いていた1998年に、マス・メンタル(Mass Mental)を結成した。マス・メンタルはライヴアルバムを1枚、スタジオアルバムを1枚リリースしている。いずれも日本だけのリリースだ。さらに彼はスイサイダル・テンデンシーズ(Suicidal Tendencies)とインフェクシャス・グルーヴス(Infectious Grooves)のメンバーでもあった。現在は、2003年からメタリカのメンバーだが、12年在籍してアルバムは1枚しか演奏していない。

    11. スパスティック・チルドレン(Spastik Children)

    Spastik-Children

    スパスティック・チルドレン(Spastik Children)というバンドのことは聞いたことがあるだろうか?考えられないかもしれないが、スパスティック・チルドレンは、ジェイムズ・ヘットフィールド、クリフ・バートン、フレッド・コットン、ジェイムズ・マクダニエルによって結成された「おふざけバンド」だ。彼らは全く練習しないので、とんでもない曲を弾くことになった。彼らの音楽はメタリカよりも粗野なパンクスタイルで、カリフォルニア北部のクラブでのみ活動していた。ジェイムズがドラマーを務め、クリフがベースを弾いた。クリフの死後、カークがこのおふざけバンドでベースを弾いていた。かつてカークはこう語っている。「スパスティック・チルドレンは飲んだり、ステージ上でバカやったりできる良い言い訳だった。」

    10. メンバーそれぞれソロ活動をやっている

    james-hetfield

    世界最大のメタルバンドのひとつであることに加えて、彼らはいくつかのサイドプロジェクトにここ何年も手を出してきた。ラーズはマーシフル・フェイト(Mercyful Fate)の「Return of the Vampire」のリメイク版(※訳注2)でドラムをレコーディングしている。ジェイムズはダンジグ(Danzig)の「Am I Demon?」と「Twist of Cain」(※訳注3)のバックボーカルを務めている。カークもまたメタリカ以外の曲をレコーディングしており、レス・クレイプールやマイク・ボーディンとレコーディングしたのはそのうちのひとつだ。また彼はデス・エンジェル(Death Angel)のためにいくつかデモをプロデュースしている。

    09. オリンピックスタジアムでの事故

    olympic-stadium

    ジェイムズ・ヘットフィールドはモントリオールのオリンピックスタジアムで行ったライヴで1992年8月8日にステージ上のパイロ事故で火傷を負った。ジェイムズはパイロテクニクスの演出中に12フィート(4メートル弱)の炎の中に踏み入れてしまい、左上半身と頭の左側に第2級、第3級の火傷を負った。その時のベーシスト、ジェイソン・ニューステッドは当時ヘットフィールドの皮膚が「悪魔の毒々モンスター(原題:The Toxic Avenger)みたいに泡立っていた」(※訳注4)と語っている。事故によってメタリカはライヴを終了することを余儀なくされた。長時間の遅延後、(ダブルヘッドライナーのもうひとつのバンド)ガンズ・アンド・ローゼズはステージに立つ準備をしたが、2つの公演のあいだでモニターが正しく配置されなかったため、ミュージシャンは音が聴こえない状況になった。アクセル・ローズも喉を痛めていると訴えたため、ガンズもセットリストを短くカットし、モントリオールの街でファンによる暴動を引き起こすことになった。

    08. グラミー賞を勝ち取った『St.Anger』

    StAnger

    メタリカのファンのなかには2003年のアルバム『St.Anger』を嫌っている人もいる。アメリカのファンたちがCD炎上パーティーを行ったように。今では『St.Anger』収録曲をメタリカがライヴで演っているのを観るのは非常に稀だ。ファンが嫌っているにも関わらず、メタリカは先行シングル「St.Anger」でグラミー賞ベスト・メタル・パフォーマンス部門を受賞した。そしてアルバム自体もアメリカでダブル・プラチナ・レコードを獲得し、世界で600万枚を売り上げた。

    07. ジェイムズ・ヘットフィールドが受けたキリスト教的家庭教育

    james-hetfield1

    フロントマンのジェイムズ・ヘットフィールドは、過度に厳格なクリスチャン・サイエンス信者の家庭で育ったことにおそらく起因する、感情的で激しい歌詞を書くことで知られている。1991年のセルフタイトルのアルバムに収録されている「The God That Failed」という曲は、母親の死にまつわる曲としてヘットフィールドの宗教的な家庭を背景に題された。強い信仰により、母親は癌のための医学的治療を拒否し、治癒する希望を信仰に託すことを選んだのだ。

    06. テニスの申し子ラーズ

    Lars-Ulrich1

    ラーズ・ウルリッヒはデンマークでの子供時代はテニスの申し子だった。プロテニスでプレイすることは彼の血筋だ。父親も祖父もプロなのだ。16歳でロサンゼルスに引っ越す前にスウェーデンのメロウなシンガー、ネナ・チェリーと友人になり、その後すぐに音楽への情熱によって、その他全てのこと、とりわけテニスが見劣りするものになってしまった。ドラムを前にする彼の技術的な才能はしばしば批判されてきたが(特にその他多くのメタルプレイヤーに比べて)地球上で最も有名なドラマーになったことは疑いようがない。

    05. カーク・ハメット vs デイヴ・ムステイン

    Dave-Mustaine

    ほとんどの人が知っているように、オリジナルメンバーのリードギタリスト、デイヴ・ムステインは1983年にメタリカを解雇された後にメガデスを結成した。結局、カーク・ハメットがムステインの代わりにメタリカに加入した。この出来事の真っ最中、ムステインは彼が書いたリフの多くが、後にカーク・ハメットによって仕上げられ、カークを有名にしたという不正が行われたと考えていた。彼はかつてカーク・ハメットに対してこう語っている。「俺の仕事を盗んだが、少なくともヤツが俺の仕事を奪う前にヤツの彼女とヤったぜ。」品を落とさないでくれ、デイヴ。

    04. メタリカの個人アシスタント

    Metallica_struggle

    今日の有名人のあいだでは個人的なアシスタントを雇っていることは珍しくない。実際、アシスタントが一人もいない有名人を見つけることは稀かもしれない。ラーズ・ウルリッヒはどこにいても個人アシスタントが付いてくる。彼女の名前はバーバラだ。彼女は基本的にパソコンの電源を入れることから、腕時計を付けることまで何でもやる・・・ロックスター生活だ!メタリカは83人のフルタイムのスタッフを雇っているというのに。『St.Anger』のレコーディングのあいだは、バンドを完全崩壊から守る心理アドバイザーまでここに含まれていた。

    03. エイブリルフールのジョーク?

    Kirk-Hammett1

    カーク・ハメットはメタリカに加入する前に、エクソダス(Exodus)のギタリストだった。彼はメタリカのオーディションについての電話を初めて受けた時、あまりにショックで友だちが残酷なエイプリルフールの冗談を言っているのだと思った。しかし数日後、彼は確認の電話をもらい、冗談なんかではないと気付いた。後は歴史が語る通りだ。2003年にはRollingStone誌のオールタイムベストギタリストに10位のキース・リチャーズ、12位のカート・コバインのあいだに滑り込み11位にランクされた。

    02. 個人の政治的意見を表にしない

    Metallica3

    何年にも渡って、多くのミュージシャンが個人の政治的意見を音楽を通じて表現してきた。しかしジェイムズ・ヘットフィールドはそのような考えに賛同しない。彼は過去にこの問題について次のように語っている。

    「自分たちの意見を熱弁する有名人がたくさんいる。そして彼らは人気者だから(その意見が他の人が語る意見よりも)正当だとみんなが思ってしまう。俺たちにとって、人は人だ。みんな自分自身の意見を持つべきなんだ。俺たちは人生の不幸な部分が何たるかを人間的要素に入れられればいいんだが。」

    01. メタリカの始まり

    metallica-young

    どんなバンドの始まりでも学ぶべき面白さがある。特にそれが自分がずっと好きなバンドであればなおさら。メタリカの始まりは、ジェイムズ・ヘットフィールドがラーズ・ウルリッヒによって(地元紙の)リサイクラーに出された広告に答えた1981年に遡る。2人はジャム・セッションのために会ったが、1年後にラーズがメタルブレイドのコンピレーションアルバム『Metal Massacre』の収録曲をレコーディングできることになってすぐに誰かと一緒にバンドを組む必要が出てきた時まで本当に何も生まれなかった。「Metallica」の名前はラーズ・ウルリッヒの友だちロン・クインターナからの提案だった。彼は「MetalMania」の名前も提案していた。

    Gendalf News(2015-09-18)

    ちなみに、この記事は元々今年3月にロシア語で書かれていた元ネタを英語で紹介しているようです(そして、こうして日本語で改めて紹介している)。bugaga(2015-03-24)

    以下、訳注など。
    ※訳注1:セイラム魔女裁判
    17世紀に実際に起きた魔女狩り裁判。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%A0%E9%AD%94%E5%A5%B3%E8%A3%81%E5%88%A4

    ※訳注2:「Return of the Vampire」
    マーシフル・フェイトのアルバム『In the Shadows』に収録。
    intheshadows



    ※訳注3:実際にジェイムズが参加しているのは「Twist of Cain」と「Possession」

    「Twist of Cain」


    「Possession」


    ※訳注4:
    1984年公開の映画『悪魔の毒々モンスター』。予告編はこちら。


    ちなみに「カーク・ハメット vs デイヴ・ムステイン」について、最近デイヴ・ムステインがツイッターで、ファンとこんなやりとりをしていました。

    CPbWZJaWUAAKRf4

    ファン「メタリカのロック・イン・リオ 2013。「俺が本当に好きなギタリストはデイヴ・ムステイン」(Google翻訳)」
    大佐「見ろよ!・・・トラブルを起こすのが好きなのは俺だけじゃないみたいだぜ!!(笑)」

    twitter(2015-09-21)

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    クリフ・バートンが愛用していた指輪を手がけていた「Crazy Pigs Designs」がクリフ・バートンが実際に身に付けていたウルフのリングの再現モデルを50個限定で販売するとのこと。以下、「Crazy Pigs Designs」のfacebookページの告知を管理人拙訳にて。(文中の「私」はおそらく「Crazy Pigs Designs」のジュエリー・デザイナーを務めるアーマンド・セラ氏)

    私が(メタリカのベーシスト)クリフ・バートンと最後に話したのは、1986年も終わりに向かおうとしている時だった。クリフとバンドがロンドンに滞在中、ある日の午後にクリフといつものように会った。彼は私が手がけたウルフのリングをほとんどの時間、身に付けていた。散々使い込んで傷が出来始めていた。

    クリフは私が付けていた新しいスカルリングを見つけると、私に試しに付けてみていいか尋ねた。クリフはウルフのリングを外し、私は自分の新しいスカルリングを手渡した。

    そして彼はこう言った。「交換だ。」私はただ笑った。するとクリフはまたこう主張したのだ。「真っ当な交換だろ?」私は彼の厚かましさを楽しんだが、私にとってクリフはもはやただの客ではなかった。私たちは友人となったのだ。だから私は最終的にOKと答えてリングを交換した。

    とても悲しいことに、そのわずか数日後に酷いニュースを聞くことになった。クリフが亡くなった。

    クリフのウルフのリングは今日まで、彼が自分の指から外したあの日から全く変わらない状態のまま、私の手元にある。私の最も大切なクリフの形見だ。

    それ以来、多くのメタリカのファンは、クリフが個人的に喜んで付けていたウルフのリングを見たがってきた。

    私はいつもみせてきた。多くの関心があるにも関わらず、ウルフのリングはクリフを慮って「非売品」としていた。しかし、次善の策として厳密に50個限定で販売することにした。

    限定版リングはクリフ・バートンのリングの完全な複製となっている。実際のクリフのリングから高品質な金型を作ることで出来上がった。それから全て銀で鋳造し、オリジナルと同じように傷を残している。私たちは慎重に(クリフが)ツアーをしてきた年月を複製するために「ツアー傷」仕上げを再現している。

    crazypigs02crazypigs01

    facebook(2015-09-02)

    クリフの人柄が出ているエピソードですね。発売日も価格も今のところ不明ですが、この指輪を欲しいクリフファンの方は続報要チェックです。(すぐに売り切れ必至でしょう・・・)
    https://www.facebook.com/CrazyPigDesings/
    http://crazypigdesigns.com/ja/

    【追記】
    オンラインストアから購入可能となりました!価格は475ユーロ。価格はポンド表記でした。失礼しました!送料15ポンド含めて総額490ポンドです(およそ9万円)。値段がそれなりにするのでまだ買える模様^^;
    limited-edition-cliff-burton-wolf-ring
    http://crazypigdesigns.com/ja/12-online-store-new

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    ツイッターで続々とファンの質問に答えているメガデスのデイヴ・ムステイン。
    Mustaine_Twitter

    そんなデイヴ・ムステインが30年以上前に自身を解雇したメタリカから復帰の誘いが来たらどうするか、自身のツイッターアカウントで回答しました。(以下、管理人拙訳)

    davemustainemethonoredtweet
    質問「ジェイムズにメタリカ復帰を誘われたらどうする?」
    大佐「光栄だけど、加入はしないよ」

    Twitter(2015-08-20)

    またクリフ・バートンに関する質問にも答えています。

    davemustainemisshimtweet
    質問「クリフ・バートンを恋しく思うことある?」
    大佐「みんなクリフ・バートンを恋しいと思うよ。兄弟よ安らかに。」

    Twitter(2015-08-21)

    以前にデイヴはジェイムズ、ラーズ、ジュニア(デイヴィッド・エレフソン)とスーパーグループを組みたいと発言して波紋を呼んでいましたが(関連記事参照)、今は両者の関係が落ち着いているのを感じます。

    【追記】
    続きがありました。
    http://nme-jp.com/news/3977/

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    デイヴ・ムステイン「(´・ω・`)ショボーン」

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    1986年、クリフ・バートンの死去後に行われた後任ベーシストのオーディションに参加したプライマスのレス・クレイプール。ポッドキャスト番組「One On One With Mitch Lafon」の電話インタビューのなかで、このオーディションについてレス・クレイプールが語っていました。TeamRockの文字起こしを元に管理人拙訳にてご紹介。

    lesclaypool

    プライマスのリーダー、レス・クレイプールは、「とてもラウドな」経験として、彼が1986年にメタリカのオーディションを受けたことを振り返った。

    すでにカーク・ハメットの友人だったベーシストの彼は、スラッシュの巨人がその年にツアー中のバス事故によるクリフ・バートンの死から活動を再開するためのトライアウトに招かれた。

    そしてドラマーのラーズ・ウルリッヒはテストに対して肯定的に見えたが、フロントマンのジェイムズ・ヘットフィールドがほどんど興味を持たなかったことを彼は認める。

    クレイプールは「One On One With Mitch Lafon」でこう語った。「とてもラウドだったことを覚えているよ。(・・・それだけ?)それが最初にふと浮かんだことだよ(笑)。こりゃあ、すげぇラウドだなって。実際、ラーズはおそらくオーディションを通じて一番熱狂していた。カークは知っていたし。でも彼ら全員、まだクリフ・バートンのことで取り乱していたよ。ジェイムズなんかは俺に対してこんな感じだった。「このクソ変人はいったい誰なんだ?」ってね。俺は全然彼らと合っていなかったんだ。俺はこの流木の塊みたいなベースを持って現れた。片方ずつ違う色のテニスシューズを履いて、金髪に染めたモヒカン頭で、スケーターパンツの出で立ちさ。だから俺は全然合ってなかったんだ、特に当時のメタリカにはね。」

    しかし、こうも付け加える。「楽しかったよ。クリフのベースをプレイするのは楽しかった。」

    元アンスラックス、アーマード・セイントのシンガー、ジョン・ブッシュは活動初期のメタリカに加入する誘いを断っていたことについて最近こう振り返っている。「俺はヘヴィメタルの様相を一変させていたかもしれない。そんなプレッシャー、俺には必要ないよ。」

    クレイプールは一線級に達しようとしていた時、同じような態度だった。彼はこう語る。「俺は多くの現実をこなすことを求められた。俺のイボやおできが全部観られるなんて世界は嫌だったんだ(笑)。ただメディアに気付かれないままでいるために言ってきたこともある。」

    (後略)

    TeamRock(2015-07-15)

    インタビュー後半では憧れのベーシストを語るなかで先日のイエスのベーシスト、クリス・スクワイアの訃報についても触れています。


    ついこないだラーズの伝記本の紹介で、ジェイソン・ニューステッドの加入にいたる話を書いたばかりなのでタイミング的にちょうどいい補足情報になりました。

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    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(5)

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章4回目。クリフが亡くなった後、バンドの継続を決断するメタリカ。有志英訳を管理人拙訳にて。

    ジェイムズとカークが酒に酔い、悲しみ、絶望、そして怒りを叫んでいた頃、ラーズは静かにショックと痛み、そして想像を絶する事態に対処しようとしていた。ゆっくりと容赦なく重苦しい時間が9月の日々を暗く覆っていくなか、ラーズは会ったばかりの女性、デビーについて考えていた。

    「クリフが死ぬ2週間前に、ロンドンのナイトクラブで彼女に出会った。彼女はいつも一緒にいたんだ。」ラーズはそう語る。「彼女は最悪であり最高だった。俺はそれまで深夜のお出かけに本当についてくるような女の子に出会ったことはなかったんだ。彼女は完全に夜型人間だったし、ルートビアやら何やらよく飲んでいた。だから彼女はえらく調子がよかった。事故の前、イギリスのツアーのあいだ、何回か俺のことを訪ねてきた。あのひどい事故が起きた後、彼女は叔父のヨルゲンと叔母のボーディルと数日間滞在していたコペンハーゲンまでやってきて、一緒にいてくれたんだ。それで俺がアメリカに戻る時、デビーに一緒に来てくれるか尋ねたんだ。なぜなら・・・彼女が必要だったからね。」

    暗闇の中の一筋の光だったのだろうか?ラーズは確かにデビーをサンフランシスコに連れて行った。近くのノース・ビーチの雰囲気漂う、サンフランシスコのストックトン・ストリートのアパートにこのカップルは移り住んだのだ。そしてジェイムズも同時期に近くに越してきた。

    ラーズ、ジェイムズ、カークが直面したような個人的な難局に、誰もが生まれつき対処できるようにはできていない。彼らは23歳の少年で、(バンドとして)始動したばかりのあいだは厳しく困難な状況ではあったが、このツアーに向けた最初のリハーサルの日から大抵は大いに楽しいものだった。バンドは芸術的に、創造的に、かつ商業的に彼らのやり方でここまでやってきた。バス事故は単純に存在そのものへの問いを投げかけられた。メタリカを続ける価値はあるのだろうか?と。

    Qプライムのパートナー、バーンスタインとメンチはそういった悲劇を伴う経験を実際に味わっていた。ピーター・メンチは1980年2月の破滅的な朝、AC/DCと働いていた。それはリード・シンガーのボン・スコットがロンドンで夜に深酒をした後、車のバックシートでアルコール中毒で死んだ時であった。また1984年の大晦日には(デフ・レパードの)ドラマー、リック・アレンが交通事故に遭い、前述の通り片腕を失うという事態も経験していた。AC/DCとデフ・レパードはすぐに再結成をし、大きな成功を収めた。そのうえ、(AC/DCの場合)続いて出したのが『Back in Black』という名盤である。Qプライムのパートナーたちの考えは、メタリカにも至急同じことをしてもらうことだった。

    クリフの葬儀の前日、ジェイムズとラーズとカークはサンフランシスコでバーンスタインとメンチに会った。このミーティングは、メタリカを続けていくべきかどうかよりも彼らがどう前に進んでいくのかについて話し合われた。この感情的で苛立たしい期間の真っ只中で、スケジュールとタイムテーブルのプログラミングにあてたラーズの焦点はバンドを助けることになる。こうしてラーズとメタリカは、忠誠心が極めて強いファンがいる、伝統的にヘヴィメタルが愛されている国、日本で初めてのツアーのブッキングを(とりやめずに)継続することにした。未来都市、東京の渋谷公会堂で初めてのコンサートまで半月もなかったが、ツアースケジュールを変えることなく、彼らは新ベーシスト問題に対する明確な期限を持つことにもなった。

    クリフ・バートンという傑物が埋葬される前日に彼の代わりについて考えるというのは皮肉に見えるかもしれない。しかし残されたメタリカの3人のメンバーにとって、「メタリカ」の話題は、単にバンドとして生き残ることだけでなく、彼ら自身の精神的健康を保つことでもあったのだ。バンドは彼らの人生そのものであり、クリフの存在も同様だ。そしてこの向こう見ずな男は同じ状況になったら一番にメンバーを励まし元気付けたことだろう。

    ラーズが直後にマスコミに説明したように。「俺はクリフのことをわかっている。バンドのメンバーの誰よりもクリフが、まず俺たちに蹴りをいれるだろうし、俺たちが手をつかねて何もしない状態でいることを彼は望まないだろう。それが彼が望んでいることだと思う。」

    ラーズは、騒々しいヘヴィメタル・トリビュートであるバンドの1stアルバムについて言及していたのかもしれない。アルバムA面の終わりには、歪んで生々しいにも関わらず、卓越したクリフ・バートンのベースソロ(Anesthesia (Pulling Teeth))が超高速曲「Whiplash」の前に収録されていた。「Whiplash」の最後の節は、初々しい83年の春、そして悲劇的な86年秋当時に、バンドがどうであったかについて説いていた。

    The show is through, the metal's gone, it's time to hit the road
    Another town, another gig, again we will explode
    Hotel rooms and motorways, life out here is raw
    But we'll never stop, we'll never quit, 'cause we're Metallica

    ショーが終わってメタルは去った 旅立つ時が来たようだ
    他の場所 他のギグで また爆発してやる
    ホテルとハイウェイの繰り返し 荒れ果てた暮らし
    でも止まらねぇ やめやしねぇ だって俺たちはメタリカだから


    クリフの葬儀は10月7日に執り行われた。まずフォーマルな葬儀が行われ、数日後に音楽の探求のために使っていた彼の愛した場所、マックスウェル・ランチで非公式な集まりが催された。クリフの遺灰が山盛りに置かれ、出席者がそれぞれ遺灰を一掴み取って、彼に言い残したことを言いながらマックスウェル・ランチに撒いた。

    クリフ・バートンの後継者を見つけるのは簡単なことではない。どんなに音楽的能力と人間力が素晴らしくとも、クリフ・バートンの後継者となるのは確かに簡単なことではなかっただろう。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    ラーズが救いを求めたデビーという存在。下世話ながらデビーとされる写真を2つ(真偽不明)。後にラーズは、このデビーと結婚することになります。

    debbie-ulrich-pictures
    Metal Injectionより

    lars-ulrich-debbie-ulrich
    cinemarxより

    次の項は後任ベーシスト、ジェイソン・ニューステッドの登場です。続きはしばらくお待ちください。

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    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
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