メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:キッス

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    英雑誌「Metal Hammer」のサイトでメタリカに絡んだ音楽業界を俯瞰する記事をみつけたので管理人拙訳にてご紹介。

    −世界有数のロック・アーティストはもはやアルバムを作らない。なぜか?それはお金の問題だ−

    Metallica_Records

    伝説のトロッグス(訳注:The Troggs Tapes、映画『メジャーリーグ』のテーマ「恋はワイルドシング」のオリジナルで知られるバンド)は、スタジオ入りした破綻の間際にいるバンドが次のヒット曲を詰め込もうと奮闘することについて、知るべきこと全てを教えてくれる。「ろくでなし野郎に妖精の粉(訳注:麻薬の隠語)をちょっとふりかけないと!」何もかもうまくいかないと、ドラマーのロニー・ボンドはそうわめいていた。「クソドラマーが!」リードシンガーのレグ・プレスリーは後にこう言っている。「まったくクソ野郎だ」

    1970年に遡り、エンジニアのクライヴ・フランクスが密かにレコーディングを行っている頃は、スマッシュヒットのシングル曲やアルバムは、トロッグスのような全てのバンドの生活の糧になりえた。ヒット曲はお金を刷って、バンドが大赤字か収支トントンでツアーに出て、レコードを売るのを助ける免許証のようなものだった。完璧なビジネスではなかったが、うまくいっていた。ミレニアムの変わり目までは。だが、あの収益モデルは逆転してしまった。レコードは今やライヴチケットを売るための赤字筆頭だ。極端な例で言えば、2014年にU2が最新アルバム『Songs Of Innocence』を8億人のiTunesユーザーに配布した。しかし、彼らの財政的視点は現在行っているアリーナツアーの宣伝に向いていたのである。年齢に不相応なレザージャケットを着た4人のジェリー・マグワイア(訳注:映画『ザ・エージェント』の主人公)のごとく、U2はあなたにお金を見せてほしかっただけなのだ。

    U2のボノはアルバムを作るのにどれだけ苦痛を伴ったか大々的に語っている。(ここで読者は「それを聴かされる苦痛よりマシ」というジョークを差し込むかもしれないが)スタジオで何ヶ月あるいは何年も打ち込んだり、自己疑念を抱いてレコーディングしたものを破棄したりして、自分たちのキャリアを決定付けたアルバムのほんの一部の売上げぐらいを売るためだけにリリースするのだ。2000年には、イギリスで16億4800万ものアルバムが売られていたが、2014年には8億6800万までになった。アルバムの平均価格は、インフレを加味しなければ、10.98ポンドから7.84ポンドまで落ち込んだ。アルバム市場は数と金額の両面において地に落ちた。

    なぜトロッグスやメタリカの(2004年のドキュメンタリー映画『Some Kind Of Monster』で痛いほど詳細を明かしたような)トラウマを自らに課すのか。金銭面の条件内でアルバムをレコーディングするというのは、半年ツアーに出て100万ドルのショーという最上の結果を得られるようになれば、難しくなるというものだ。

    U2ticket
    U2の最新アルバムは、命がけで作ったがタダだ。一方、ある日のバンドのライヴは75ユーロ(約一万円)。| GettyImages

    一定の年齢に達したアーティストが長いあいだこの現実に同調している。ゼロサムゲームが繰り広げられているなか、変わったことはそんなアーティストたちが事故る前に脱出装置を使って窮地を脱することが増えてきたということだ。いずれももうアルバムは作らないとハッキリ言ったわけではないが、その兆候は始まっている。

    メタリカは2008年からアルバムを制作していないし、キッスは今世紀にどうにか2枚だけアルバムを出したといった具合だ。一方、ローリング・ストーンズはこの10年新しいアルバムは出していない。ジョー・ペリーは新しくエアロスミスのアルバムを作るという考えに公的に疑問を呈しているし、ポール・スタンレーはキッスのレコードをまた出す「必要はない」と語っている。しかしこういったバンドのツアーはスムーズに行っている。アルバム売上げとSpotifyにおける彼らの最新曲の再生回数を見れば、膨らんだ年金制度はツアーであってHMVではないことは至極明らかだ。

    メタリカが最後に出した2つのアルバム『St.Anger』と『Death Magnetic』は世界で1000万枚以上の売上げを上げた。もし彼らがスタジオ使用料、マーケティング、製造・流通コストを取り戻そうとすれば、売上げ1枚につき数ドル以上がなくなるというのも疑わしい(もっと取られているかもしれない)。窓掃除をしていた方がよっぽどマシかもしれないが、それでもブラックアルバムがアメリカのみで1600万枚もした売上げには程遠いのである。そしてキッスの最後に出した2つのアルバム『Monster』と『Sonic Boom』について考えてみると(そしてこっそり言わせてもらえれば)これらのアルバムが世界で売った数は100万枚にさえ満たないのである。

    ここにきて、ストリーミングがこういったアーティストにとっての新たな未来になると推測するかもしれない。現実は全く逆だ。前述したキッスの2つのアルバムはSpotifyで1000万回の再生を記録している。Spotifyの平均支払額は1回の再生につき0.007ドルであることに基づけば、総計7万ドル支払われる印税をメンバーで山分けすることになる(レーベル、出版社の仲介料やマネージメントに払う20%の報酬額や税を除く)。

    メタリカはストリーミングサービスのなかではいくらか善戦している(彼らは2012年に楽曲使用を許諾したSpotifyの株式を取得したと噂されている)。彼らが最後に出した2つのアルバムは4500万回以上再生されている。控除前の金額は31万5000ドルだ。ジェイムズ・ヘットフィールドが新しいタンクトップとギターの弦を買い、ラーズ・ウルリッヒが新しいヘッドバンドとシンバルを買えば、それほど多くは残らない。

    Lars_Spotify
    ラーズ・ウルリッヒ、Sotifyの記者会見にて(2012年)| GettyImages

    『Death Magnetic』のツアーが2億1700万ドルを売り上げたことと比べれば、どっちを重要視すればいいかは明らかだ。ローリング・ストーンズは2005年以来 コンピレーションアルバム『GRRR! 』の売上げを伸ばす手段として「Doom & Gloom」「One More Shot」という2つの新曲を出した。ミレニアム以降、5回のツアーに出て、全338回の公演を行い、13億ドルほどの興行収益を上げた。1公演につき380万ドル上げたことになる。アルバム無しでも彼らにはお金がついてくるのだ。

    「これが新曲です」というフレーズを単に受け入れなければならないところまで到達すると、ファンの競争が始まるピストルの合図だ。ファンたちはスタジアムやアリーナで自分たちの知っている曲に大雑把に似ているものを大好きなバンドのライヴで聴くことに喜んで大金を支払う。それを観ている時はビールのための6ポンドを支払うことにはちらつきもしないが、ほぼ間違いなくiTunesでニューアルバムを買うために6ポンドを決済しようとは思わないだろう。

    贅沢に数ヶ月も世界を廻り、ライヴを観るのに心から興奮している数十万人もの人々の前でステージに出られるようになったのに、なぜほんの一握りの人々が望み、さらに少ない数の人々が好むアルバム制作という苦しみを乗り越えようというのか?アーティストのエゴとは40年間、そのような「現実に対処すべく」望んできたものなのだ。しかし、彼らのほとんどは一夜に10万人を前に公演を行うことが、総計10万枚のアルバムを売り上げることを凌ぐことをわかっている。彼らのレコード売上げは下がり続けている一方、ライヴチケットの売上げは数も価格も上がっているのだ。バンドはしらばっくれているが、レコード売上げを見てチケット売り場の売上げと比べたら、アルバムに多くを費やすよりもはるかに賢い。

    Metal Hammer(2015-10-05)

    近年ではアルバムの発売前に先行シングルがYouTubeやSoundCloudで無料公開されるのが当たり前になってきました。プロディジーのように「もうアルバムは作らない」と宣言しているバンドすらいます。

    ザ・プロディジー「もうアルバムは作らない」

    一方、体力的な問題でツアーから離れていくバンドもあるなか、好きなバンドたちが今後どういうスタンスで音楽業界でやっていくのだろうかと考えさせられる記事でした。

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    メタリカの来年夏のフェスティバル参戦が早くも発表されました。Metallica.comの発表を管理人拙訳にて。

    俺たちはハロウィンを祝福し終わったから、夏のフェスティバルを話さなきゃならない時がきたってことでいいんだよな?(!)今年、俺たちは不慣れなところで行うヨーロッパのサマー・バケーションの発表から始めるよ。ドイツとオーストリアの3つの真新しいフェスティバルに出演することに興奮している。今やヨーロッパでこの夏の伝統の一部となっているこれら3日間の祭典で、俺たちはミューズとキッスと一緒にヘッドライナーを務める。

    ■5月29日〜31日
    ドイツ・ニュルンベルグ
    Der Ring - Grune Holle Rock
    http://www.der-ring.de/

    ■5月29日〜31日
    ドイツ・ミュンヘン
    Rockavaria Festival
    http://www.rockavaria.de/

    ■6月4日〜6日
    オーストリア・ウィーン
    Rock in Vienna
    http://www.rockinvienna.at/

    チケットは明日発売で、ウィーン公演は11月6日9時、ドイツの2つの公演は10時から。ウィーン公演のチケットはTicketmaster.at、ドイツ公演のチケットはTicketmaster.deで手に入れてくれ。これらは一般入場のフェスティバルのため、MetClubの先行発売はない。

    引き続き注目していてくれ・・・俺たちは休みに入る前に、いくつかツアーの追加を携えて必ず戻ってくる!

    der-ring-grune-holle-rock

    rockavaria

    rock-in-vienna

    Metallica.com(2014-11-05)

    来年もまた夏のフェス荒らし敢行の模様。しかも今度は出演経験のないフェスのようで、今度はロックフェス制覇を目指してたりして・・・てっきりしばらく廻っていないアメリカ本国をツアーすると思ってたので最初の発表がヨーロッパというのはちょっと意外でした。

    各3日間行われる3つのフェスですが、どの日のヘッドライナーを務めるのかはまだタイムテーブルも出ていないので不明です。

    出演オファーのことを考えたら、今の時期に決まっているのはわからない話じゃないんですが、それにしても発表が早いですね。


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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の(相当長い)第1章の続き。有志英訳を管理人拙訳にて。キッスとリッチー・ブラックモアに関する思い出話。HR/HM界の公然の秘密が明かされます。

    70年代も終盤になると、ラーズが興味を抱いたアグレッシヴなパンク・ウェーヴがやってきた。しかし、まずは70年代に多く現れた長髪の恐るべきバンドたちに話を戻さなければならない。

    1974年、アメリカでデビューを遂げたバンド、キッス。世間に認められていた批評家たちは彼らを嫌っていた。(後にハードロックのジャンルの進化を示すものとして逆に認められた。)しかしバンドは増え続ける熱心なファンを惹きつけていた。キッスのイメージといえば、コミック雑誌に出てくるようなヒーローやホラー・キャラクターが混ざった変装をして−少なくとも当時は−とんでもなくヘヴィで、リフ・ベースの曲とセックス、おふざけ、密通についてのキャッチーなフックを持ち、それはほとんど10代男子のファンタジー・ロックの最終形と言えるものだった。Lundevang通りのジャズ文化に浸った巨大な家に住むあの少年の部屋のなかにもそれはあった。

    それから1975年に出たキッスのライヴアルバム『Alive!』は当時制作されたヘヴィ・ロック・シーンの全て可燃物に火をつけるほど危険なものだった。その後、キッスがデンマークで初めてコンサートをすると発表したとき、とりわけラーズに火をつけた。残念なことに、ラーズは北ユトランドのフェレッツレヴへのサマーキャンプに登録されていた。実に残念なことにラーズのためにキッスが地元のフェレッツレヴのホールでライヴを行うことはなかった。最も由緒ある劇場地区、コペンハーゲンのフレゼレクスベアにあるフォークナー・シアターで行われたのであった。

    しかしラーズはただの6年生の少年ではなかった。オープン・マインドな両親が支えている彼は何よりもまず先に一人のファンであった。彼は独りでスクール・キャンプを電車に乗って離れ、キッスのコンサートを観て、その後のサインをもらう追っかけのためにコペンハーゲンまで行くことを許されたのだ。

    いとこのステインはラーズと共にそのコンサートに行き、その夜に最高潮だったことをハッキリと覚えている。

    「フォークナー・シアターは俺たち初めてだった。ライヴ後に俺たちはバンドの車をひとめ見ようと外で張っていたんだ。実際に車は見たけど、窓のなかまでは見ることができなかったよ。だからその代わりにシェラトン・ホテルまで急いだんだ。彼らはそこに滞在しているっていう噂を聞いていたからね。そうして待っていた。車が到着すると、彼らはメイクを取っていた。ポール・スタンレーとジーン・シモンズがメイクなしだぜ!!可笑しかったし、メイクを取った彼らを見るのはかなりスリルがあったね。」最も多くの神話を創り、実行に移した神話が創られていったロック史におけるスタント、一貫してメイクをしたロック・スターであるキッスのイメージについてステインは語った。

    それはたしかにステインと、しつこいほどのキッス・ファンであるラーズにとって最高の出来事だった。それからラーズは、すぐに電車で北ユトランドのスクール・キャンプに戻っていったのだ。

    この真っ正直なファンの物語は、頑強で献身的なロックファンとしてのラーズの驚くべき進化の始まりに過ぎなかった。

    ロックファンであった当時のラーズにとって、ガッカリする出来事もあった。ガッカリしたことのひとつが起きた日のことを彼はハッキリと覚えていた。「親父はステインがアメリカを経験すべきだと考えていたので、77年の秋休みの頃に俺たちを呼び寄せたんだ。俺は本当に楽しみにしていた。でもリッチー・ブラックモアズ・レインボーがコペンハーゲンでコンサートを行うことになっていた。俺はアメリカに行けない。だってデンマークに留まって、リッチー・ブラックモアを観なきゃならなかったからね!」

    こうして、その年の秋は2人ともアメリカには行かなかった。しかし話はここで終わらない。

    ラーズ「レインボーのコンサート3日前に、ブラックモアがキャンセルしやがったんだ!誰かが風邪を引いただか、病気になっただか、そんなようなことだった。だからその代わりに友だちみんなを誘って一緒にリングビーまで映画を観に行ったのを思い出すよ。」

    不十分な慰みと巨大な失望感のなか、ラーズにはひどい後ろめたさが残った。「その後その年にステインは一緒に5週間アメリカに行った。でも俺は罪悪感を感じていたよ。」

    しかし、リッチー・ブラックモアのキャンセルの理由は言われていたものとは全く違うものだった。12年後、ラーズはずっと賢くなり、自身でファンを惹きつけるようになった時、ディープ・パープルのデンマークとスカンジナビアのコンサートを担当していたプロモーター、エリック・トムセンと会った。

    「俺はエリック・トムセンに77年にあったことを全て話したんだ。アメリカへの旅行をあきらめたこと、リッチー・ブラックモアが病気か何かだったことをね。そしたら彼は俺にすぐに本当のことを話してくれた。ブラックモアは病気でも何でもなかった。彼はとうとう植毛の予約をしたんだ!それでブラックモアはスカンジナビアの全ツアーをキャンセルして、どこかから髪を取ってきて、生え際だかどこかにつけたんだ!あれは俺のなかでリッチー・ブラックモアのバブル崩壊が起きたよ。」
    とラーズは言う。

    そう、ブラックモアはギターのカリスマであり、77年の秋に失敗を犯した。しかし一方で、彼はロックシーンに新しく、より若く、よりワイルドな名前を持ちこんだ。パンクはその年、1977年に爆発した。センセーショナルなイギリスのバンド、セックス・ピストルズは実質、全てと言っていいくらいの人やものに対して反抗と侮蔑を先導した。セックス・ピストルズは77年7月にコペンハーゲンと今はなきダディーズ・ダンスホール(Daddy's Dance Hall)の地下フロアを訪れコンサートを行った。同じ頃、13歳のラーズ・ウルリッヒはオッド・フェロー・マンション(Odd Fellow Mansion)で長髪のアメリカ・パンクロックのパイオニア、ラモーンズのコンサートに行った。パンクは全く新しい若者たちのグループを新しく定義された環境へと惹きつけた新しい音楽シーンだった。ラーズはただのロックファンであり、サブカルチャーやアイデンティティーについて深く考えることはなかった。ただコンサートに出かけ、音楽を聴き、シーンを体験したのだ。

    ラーズ「もちろん、ダディーズでセックス・ピストルズを観る人たちには、俺がチボリでシン・リジィを観ることとは違う他の考えや意見を持っているってことがわかってきた。でも、だから何だってんだ!俺はセックス・ピストルズよりもラモーンズが好きだったんだ。「Commando」や「Now I Wanna Sniff Some Glue」の曲のなかにはヘヴィメタルなリフがある。でも全ての音楽には密接な関係がある。俺はロスキレ・フェスにも行って、78年にはボブ・マーリーを観た。「アイドル」(後にラーズのヘヴィメタルの師匠となるケン・アンソニーのこと)がいる、よく行っていた一番身近なレコード屋に入ったときに言ったよ。「ボブ・マーリーのレコードだって言うから、『Babylon By Bus』や『Exodus』を手に入れることさえできなかった・・・。」そしたらケンは「あんなものどうしろってんだ?」って言うから、俺は「参ったな、俺はレゲエだって確かに好きなんだぜ!」って答えたけどね。そういう全ての異なるもの、分離し始めた独立したシーンには・・・俺はたどり着けなかった。父トーベンとその音楽、オープンな心、そういった全てのものなしに今の俺みたいには育たなかった。」

    ラーズは70年代を通じて、ロックとヘヴィメタルに対する情熱を深めた。彼は憧れの人たち全てのサインを持っていたし、目の前で演奏するのを観てきた。さらにはメイクなしのキッスも観た。しかし、ラーズ・ウルリッヒは演奏者としてはどうだったのか?ドラマーとしてはどうだったのだろうか?我々は再び1970年代終盤、ラーズが初めて楽器を手にした時まで時計の針を戻さなければならない。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

    1983年の『Lick It Up(邦題:地獄の回想)』で素顔をさらすまで公には「マスク」のままだったキッス。
    Lick_it_up_cover
    キッス『地獄の回想』


    それよりも前にキッスの素顔を見られたのはファンとしては貴重な体験だったことでしょう。そしてリッチー・・・それが理由で公演キャンセルってマジかよ・・・。

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