メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:エレクトラ

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    メタリカをメジャーレーベルのエレクトラと契約させたA&Rマン(アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当)として知られるマイケル・アラゴのドキュメンタリー映画『Who The F**k Is That Guy? The Fabulous Journey Of Michael Alago』が2017年7月22日にハリウッドにて初上映されました。

    michaelalagomovieposter

    監督は『The New York Hardcore Chronicles Film』『xxx All Ages xxx: The Boston Hardcore Film』などハードコアシーンを描いた映画で知られるドリュー・ストーン。(写真左からドリュー・ストーン、マイケル・アラゴ)
    drewstonemichaelalago

    映画の内容はニューヨークのセックス・ピストルズことデッド・ボーイズのファンクラブ運営から伝説のナイトクラブ、リッツ(Ritz)の出演交渉担当の座を手に入れ、エレクトラ、ゲフィンなどのメジャーレーベルのA&Rマンとして渡り歩いたマイケル・アラゴの半生を追ったドキュメンタリー。

    映画予告映像としてメタリカの他、マイケル・アラゴと契約に関わったアーティストたちのインタビューなどが公開されています。




    日本公開は未定ですが、字幕なし映像はiTunesで購入可能とのこと。
    https://itunes.apple.com/us/movie/who-the-f-k-is-that-guy/id1255478231

    マイケル・アラゴがどうメタリカと関わっていったのかは以前ご紹介したラーズの伝記本(関連記事)をご覧ください。

    【追記】
    『マイケル・アラゴのロックな冒険』というタイトルでNetflixにて配信が開始されたとのこと。
    alago
    https://www.netflix.com/jp/title/80173269


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    『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の続きを。第4章4回目。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。予告どおり、レコード契約の話を中心に。

    アマー島に戻ってジョニーZが結局約5万ドル支払ったレコーディングを完了する前に、レコーディングの間で、メタリカはイギリスへ渡りロンドンの伝説的なライヴハウス、マーキー・クラブで数回のショーを行った。『Ride The Lightning』のレコードという器は天文学的な金額ではなかったが、ジョニーZの予算とメタリカの野心がもはや釣り合わなくなっていたことは明らかだった。

    メタリカが4月にスウィート・サイレンス・スタジオに戻って、最後の曲をレコーディングし終えた時、メタリカはスタジオの天井部屋(家具なしの物置き部屋)にしばらく住んでいた。そこにはフレミングが持っていたメルクリン社製の鉄道模型が置いてあった。例えるなら、ラーズと彼のバンドは『Ride The Lightning』によって自分たちの列車を線路に載せたと言える。

    これまでにメタリカはスウィート・サイレンス・スタジオでいくつかの訪問を受けた。例えば、ラーズの昔からの憧れであるモーターヘッドが所属するブロンズ・レコードの重役の訪問があった。重役ジェリー・ブロンからの『Ride The Lightning』をアメリカでリリースする前にリミックスするという提案は、バンドのテイストではなかった。しかしジェリー・ブロンがお金をふりまいて、マネージメントとレコード契約の両方を提示していたため、交渉の扉を開け続けておくことが重要だった。ビジネス意識の高いラーズは契約というスタートの洗礼を熱望していたが、自分たちの音楽に関する全創作のコントロールを持つという信念をすでに固めていた。だからリミックスは行わない。そうでなければ、契約を結んでいたのだ。

    アマー島のスタジオで作曲されたため、『Ride The Lightning』にこだわる本当に正当な理由があったのだ。『Kill 'Em All』から始まった狂乱した反逆は、重量、ニュアンス、バリエーション、コントラストを増していた。『Ride The Lightning』はアコースティックのイントロでそっと美しく始まり、突然『Kill 'Em All』のどの曲よりも速いと思わせるこの上ない速度のハードコアなヘヴィ・リフと打ち鳴らされたツー・バスへと変わる。「For Whom The Bell Tolls」のような曲はヘヴィという言葉に安心感を与えた。「Creeping Death」はど真ん中の巨大なメタルサウンドにオリエンタルな雰囲気をまとっていた。そしてH.P.ラブクラフトのテーマであるプログレッシブなインストゥルメンタル長編曲「The Call of Ktulu」である。そこには「リード・ベース」を弾いたクリフの名前がクレジットされていた。

    『Ride The Lightning』のプロダクションはデビューアルバムと比べても異なっていた。ヘヴィで内容もあった。それはたくさんの内容が。『Kill 'Em All』とはずいぶん異なり、歌詞の中には情熱とアイデアが突如として現れた。電気椅子による死刑について唄った表題曲、自由へのけたたましい賛歌「Escape」、新しくより内省的で思慮深い歌詞と音調で最も異国風なパワー・バラード「Fade To Black」。この曲を多くは−女性にまで広がったリスナーでさえ−孤独と絶望に打ちひしがれた人の遺書だと解釈された。実際はボストンのチャンネル・クラブの外で起きた前述の盗難により機材が失われたことを元にしている。「Fade To Black」もデモテープの頃や『Kill 'Em All』時代からのファンをバンドの虜にした。

    メタリカは、全体として動かしがたい過激さだけでなく非常に先駆的に仕上がったヘヴィメタルアルバムを、アメリカではジョニーZのメガフォース、ヨーロッパではミュージック・フォー・ネイションズでまずリリースした。アルバムは7月27日にリリースされ、夏が終わる前には世界で85000枚も売れた。ラジオやテレビの手助けなしではあったが、アンダーグラウンドシーンの絶え間ない口コミ、ヘヴィメタル誌に載った称賛レビューと多くの熱意溢れる物語によるこの事態は、ヨーロッパとアメリカでの着実なバンドのパフォーマンスによってさらに刺激された。8月3日にメタリカがニューヨークのローズランド・ボールルームで行ったツアーについて、ラーズは約束どおり、エレクトラ・レコードのマイケル・アラゴにこっそり知らせた。

    マイケル・アラゴはその夜、ローズランド・ボールルームに一人で現れなかった。この熱狂的な若者はエレクトラ・レコードの最高経営責任者ボブ・クラスノウ、プロモーションとマーケティング部門の副代表マイケル・ボーンの分のチケットを入手していた。アラゴにとってエレクトラ・レコードでのA&Rとして初めて大きな決定がなされる大事な夜であった。しかもこの22歳の男が初めて観るメタリカのコンサートでもあった。

    わずかに年上のマイケル・ボーンは、振り乱した髪と汗まみれの身体でゴチャゴチャになった真っ只中でどうすればいいのかわからなかったし、ステージから流れるとてもハードなヘヴィメタルで大暴れしているところをどう移動すればいいのかもよくわからなかった。だが、ボーンにとって楽しむためのコンサートではなかった。仕事をしに来たのだ。そこで彼はグッズ販売ブースに行くとメタリカのTシャツがすでに売り切れとなっているのに気がついた。これは興味深い。

    (ラーズが始まって以来の「メタリカの最悪なショーのひとつ」と言っていた)ショーが終わると、ラーズはアラゴをバックステージエリアへと案内した。おそらくバックステージパスなしで(!)、汗まみれでアドレナリンがまだ脈打っている状態のバンドに向かってアラゴを押しやった。アラゴのメッセージは短く単刀直入なものだった。「明日、キミたちはウチのオフィス以外どこにも行かないでくれ!」

    クリフ・バートンがすぐにこう尋ねた。「そこにビールはたくさんあるかい?」

    「もちろん、食べ物だってある。」アラゴは断言した。

    しかし、最も重要なのはレコード会社の熱心な人間とその同僚、そして献身的なバンドとの間にケミストリーが確立したことだ。

    アラゴのオフィスはマンハッタンに位置しており、そう大きくはなかった。メタリカはすでに「Alcoholica」の称号を得ており、バンドはアラゴのオフィス内で喜んでたくさんの冷えたビールを飲み、テイクアウトの中華料理をむさぼり食べた。ビールを飲み、中華料理を食べ、『Ride The Lightning』を再生し、未来について語った。アラゴの意見は明白だった。『Ride The Lightning』は小さな独立レーベルで出すにはあまりに重要すぎるアルバムなのだと。

    メタリカはマイケル・アラゴと彼のバンドや音楽に対するアティテュードを気に入った。彼らはドアーズ、MC5、イギー・ポップ・アンド・ストゥージズのようなロック史における革新的なビッグバンドを輩出している会社として有名なエレクトラ・レコードも気に入った。最も重要だったのは、アラゴがメタリカとサインを交わし、それから数週間後にラジオ向けの曲をバンドにお願いするなんてことをしようとしなかったことだ。アラゴはメタルファンであり、メタリカの器がおさまるべき、未開のヘヴィメタル市場があるとわかっていた。そのアティテュードは『Ride The Lightning』をその年の後半に再リリースした時に、エレクトラが考案して作ったラジオ広告にも反映された。「おそらくキミはメタルを聴いたと思ってるだろう。じゃあ、とっくに本物を聴くべき時が来ている。メタリカを聴く時だ!」

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    ひとつのバンドと契約を結ぶためにCEOと副社長を連れてくる熱意たるや。メンバーと歳も変わらないことは文章でもわかりますが、当時の写真を観ると改めて驚かされます。
    lars_alago
    ラーズ・ウルリッヒとマイケル・アラゴ

    次回はマネジメント会社、Qプライムの登場です。続きはまた後日。

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    続きが気になっていた方、お待たせしました。ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第4章2回目です。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)メタリカにとってのキーパーソン、フレミング・ラスムッセンも登場します。有志英訳を管理人拙訳にて。

    - 次のステップ -

    知っての通り、良いビジネスマンは他のみんなより先にアイデアを考え出す。ニューヨーク市にあった大きな多国籍レコード・レーベル、エレクトラ・レコードのマイケル・アラゴの場合もそうだ。この若きマネージャーは1年前に雇われ、『Kill 'Em All』は発売以来、彼のターンテーブルでかかりっぱなしだった。アラゴは真新しくてスカッとするヘッドバンギングと共にみぞおちに一撃食らわされた、この異形でとても激しいメタルに病み付きになっていた。メタリカには投資する価値がある、メタリカが「唯一の」インディペンデントなバンドであると確かに気付いていた。しかしながら、彼は思い切ってアプローチして、強力な国際レーベルのエレクトラにメタリカがサインをする準備ができているとは感じなかった。この壮大なメタルガイたちは「ありふれた一般人」に向けて演奏してはいなかったし、ましてやたいてい次のデュラン・デュランやヒューマン・リーグを探しているようなメジャー・レーベル向けでもなかった。エレクトロ・ポップのヒットは多くの若者向けであったが、高速で急進的なヘヴィメタル・ヴァージョンはそうではなかったのだ。

    しかし、マイケル・アラゴはすぐに行動に移した。1984年の初頭にラーズに連絡を取ったのだ。『Kill 'Em All』でバンドにいくらかのお金が入ってきたおかげで、(メンバーの住む)メタリマンションには電話とテレビの両方が備え付けられていた。

    「私はメタリカが大好きであるということ、そして絶対にメタリカとサインを交わさなければならないということを彼に告げた。」アラゴは回想する。(クリス・クロッカー著『The Frayed Ends Of Metal』(1993刊行)より)

    この時、ラーズは自信をより深め、バンドを集めて東海岸へ出発した。ラーズはアラゴに、バンドが次にニューヨークに行く時に連絡を取るよう約束した。すでにラーズにはある見通しがあったのだ。(実際、メタリカ出演の全ライヴで、ラーズはいつだってそのような見通しを持っていた。)メタリカはニューヨークのクラブ、ローズランドで、良き仲間であり地元ニューヨークのバンド、アンスラックスとレイヴン(メタリカが現れる前まで、アラゴが契約を考えていたもうひとつのバンドである)と共に夏のあいだに一度、出演する予定だった。

    マイケル・アラゴは、メタリカがマンハッタンでライヴを行っている時に要点をもちろん伝えるつもりだった。しかし、メタリカには別の予定が先にやって来てしまった。ヨーロッパだ。ラーズは『Kill 'Em All』時代から確固たる前進をメタリカにもたらすであろう計画を携えていた。最初に『Kill 'Em All』でヨーロッパにメタリカが創り出した喧騒を受ける形でバンドのツアーを行う。それから次のアルバムに取り掛かる。そしてまた同じようにツアーをするのだ。

    1984年2月3日、メタリカは初のヨーロッパツアーをチューリッヒから開始した。ツアーは「Seven Dates Of Hell(地獄の7日間)」と呼ばれ、メタリカは、ダークで荒々しいブリティッシュ・ブラックメタルのパイオニアであり、草創期メタリカのインスピレーションの源でもあったヴェノムとライヴを行った。最後から2番目の「地獄の日」には、オランダのズヴォレで初めてフェスティバルに出演した。このフェスティバルはオランダのヘヴィメタル誌「Aardschok」(オランダ語で地震の意)によって企画されたものだった。同雑誌記者のメタル・マイクは『No Life Til Leather』のデモが出回り始めた時には、すでにメタリカを称賛していた。Aardschokショーは特別なものとなった。それは6000人の荒ぶるヘヴィメタルファンたちが、新しいヘヴィメタルのヒーローたちと同類のバンドを褒め称え、拍手を送ったことも、もちろんあるだろう。

    ベルギーで終えた「Seven Dates Of Hell」ツアーから数日経ち、メタリカはコペンハーゲンへと飛んだ。そこで、テキパキとコトを進めるラーズはアルバム・レコーディングを行うため、適切なプロデューサーとエンジニアのいる手頃なスタジオを予約した。おそらくコペンハーゲンで安く、あるいは無料で生活することだってできたはずだ。低予算はまだメタリカにとってのキーワードだった。モチベーションも熱意も夢もビジョンもあったが、金はなかった。

    しかしコペンハーゲンでのレコーディングに対するモチベーションは、コストをかけないようにするには程遠かった。レインボーのアルバム『Difficult To Cure(邦題:アイ・サレンダー)』(1981)でベテランギタリストのリッチー・ブラックモアが前面に出るプロダクションを、ラーズは「めちゃくちゃ良い」と思っていた。そのアルバムはディープ・パープルのベーシスト、ロジャー・グローヴァーによってアマー島にあるスウィート・サイレンス・スタジオでプロデュースされている。そこではフレミング・ラスムッセンという名の男がエンジニアとして働いていた。フレミングのエンジニア、プロデューサーとしての経歴は70年代にもっと大人しいアルバムのプロダクションですでに始まっていた。Savage Rose、Pia Raug、Rasmus Lyberth、Bifrostといったアーティストとともに。それから後、The SodsとLost Kidsのデンマーク初のパンクアルバム、そして前述したブラッツの1980年のデビューアルバムも手がけていた。

    フレミングのスタジオはStrandlods通り85番地(85 Strandlodsvej)にある、コペンハーゲン中心街よりもスウェーデン南部のスコーネ地方の方がよく見える場所にあった。とある日、スタジオの電話が鳴った。知っている依頼人だろうか?ラスムッセンは電話を取った。受話器の向こうから聴こえたのは、はるばるカルフォルニアからの熱心なデンマーク人の声だった。

    「ラーズは私がアルバムを制作することに興味があるかどうか、スタジオを使うのにいくらかかるのかを尋ねるために電話をしてきた。」とフレミングは回想する。「彼らはプロダクションの手助けもできるエンジニアを探していた。私がレインボーと一緒に仕事をしたのを聞いていて、良いものだと思っていた。」「私は当時、彼らが何者なのか全く知らなかった。『Kill 'Em All』でここらの多くの人たちも知っていたとは思えなかった。少なくとも『Ride The Lightning』の前までは。メタリカはまだ本当にハードコアなメタルファンのものだったんだ。私はその一員ではなかったし、それまでもその一員になったこともなかった。」

    しかしフレミングはラーズのようにディープ・パープルの昔からのファンであり、プロのプロデューサーであり、エンジニアであった。そして仕事ができると考えた。故に彼はこの一部デンマーク人のヘヴィメタルバンドをプロデュースするというオファーを受けたのだ。

    「彼らは前払いしてきた。我々は知りもしないバンドを一ヶ月前にブッキングしたんだ。そして彼らは海を越えてやってきた。」フレミングはそう付け加えた。彼にはバンドのデモテープと『Kill 'Em All』が送られた。

    「こりゃヒドいなと思ったのを覚えているよ。」フレミングは笑みを浮かべ、新しいタバコに火をつけてそう言った。「なぜなら・・・あんなにファストだなんてわかるかい?当時あれだけファストに演奏していた人はそう多くなかった。」

    一方、コペンハーゲンの別の地域ではケン・アンソニーがメタリカとそのスピードについて正反対のことを思っていた。ラーズとメタリカはケンのスピードを必要としていたのだ。

    ケン・アンソニー「ラーズが俺に電話をかけてきてこう言ったんだ。「コペンハーゲンのホテルを予約できないか?お金を持ってないから、一番安くて安くて安いところでお願い!」俺はあちこちに電話して空きをチェックしたんだけど、結局折り返しの電話で俺はこう言ったんだ。「あのさぁ、おまえら俺のアパートに引っ越せよ!俺はおまえらがいるあいだ、街で彼女と3、4週間住むからさ。そうすればおまえらも節約できるだろ。」そしたらもちろんあいつらはとっても喜んでいたよ。空港であいつらを拾って、俺のアパートに連れてきた。そしてこうさ。「ジャーン、ここがそのアパートだ!」あいつらは一文無しだったから、あいつらのための充分な食べ物があるか確認しなくちゃならなかった。」

    ケンは、後に有名なブレンビュベスターの居住者となる4人のことを話すとニッコリ笑った。

    「他の居住者たちはこう思ったろうね。「何だってこんなところに4人の男が住むんだ!?」バンドは日中はスタジオで演奏して、夜にアパートに帰ってきた。俺は何千ものヘヴィメタルのレコードと大量のホラー映画を持ってたから、あいつらは夜毎、ヘヴィメタルを聴き、ホラー映画を観ていたよ。俺の両親も同じ建物に住んでいたんだけど、アパートの一階に夜になると騒がしい若者がいると文句を言っていたよ。だから俺は様子を観に行かなくちゃならなかった。アパートはさながら戦場のようだったよ!さすがに俺も少しイラついたけど、あいつらときたらただこう応えるだけさ。「やぁ・・・すげぇなこれ・・・ロックしようぜ、ケン!」俺もそんなロックバンド生活が楽しいと思っていた。俺たちは時々出かけて、とても楽しい時間を過ごした。でもあいつらはレコード制作に忙しかったんだ。」

    ケンはニヤリと笑って自分のアパートを取り戻した日のことを話した。「俺がアパートに戻った時、母が掃除に来るほど散らかし放題だったよ。一番可笑しかったのは、母がバスタブを掃除した時だね。メタリカの各メンバーのズラが出来るほど排水口に髪が落ちていたんだ。クレイジーだったね。あと覚えているのは、コーヒーテーブルの上に数本抜き取られた1パックのビールとメモ書きが置いてあって、そこにはこうあった。「ありがとう、大変お世話になりました!」とね。」

    このアパートはブレンビュベスターのKirkebjerg通り113番地(113 Kirkebjerg Alle)にある。(ジェイムズはバンドのリードギタリストになぞらえて、「カーク」ebjerg通りと呼んでいた。)この場所はラーズにとって、音楽の師のもとにたくさん訪れたいい思い出しかない。

    「クソ最高なケンが自分のアパートに俺たちを泊めてくれたんだ。あそこで暮らしたのは本当に楽しかった。あれより3年前にはケンのファンとしてあそこに行っていたんだからね。そして今や彼のファンとしてではなかったが、自分の世界を確立して戻ってきたのさ。」ラーズはブレンビュベスターへのバンドの短い滞在についてこう語った。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

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    フレミング・ラスムッセン(2007年頃)

    ちなみに現在のスウィート・サイレンス・スタジオはメタリカがレコーディングしていた当時の場所にありません。文中のStrandlods通り85番地(85 Strandlodsvej)は以前スタジオがあった場所。現在、スタジオとしては使われていませんが、建物自体は残っているようです。
    sweetsilencestudio
    GoogleMapより

    以前のスタジオのホームページも残っています。
    http://www.sweet-silence.dk/

    現在のスウィート・サイレンス・スタジオのページはこちら。
    http://fwrproduction.com/FWR_Produktion/FWR.html

    Venomとの共演を果たしたAardschokのフェスについては、実際に行った方のこちらのページが詳しいです。チケットやポスター、Tシャツの画像が拝めます。(英語表記のみ)
    http://www.livemusicandstuff.com/1984-02-11-aardschokdag.html

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