メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:イアン・ペイス

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    ロックの殿堂入り式典が行われ、ラーズ・ウルリッヒがディープ・パープルのプレゼンターとして登場。ディープ・パープルへの思いの丈をぶつけるスピーチを行いました。Metallica.comにて全編文字起こしされていたのでどうにかこうにか管理人拙訳にてご紹介。

    こんばんわ、ラーズだ。ここにいられることを本当にメチャクチャ光栄に思う。

    今夜は2つの音楽的旅路のクライマックスだ。ひとつは俺の。もうひとつは俺の人生と・・・ロックンロールを変えたバンドのね。

    俺が9歳の頃、父は1973年2月の暗く寒い夜のデンマーク、コペンハーゲンでディープ・パープルの公演を観に連れて行ってくれた。それまでの人生より全てが重大なことだった。音も光景も楽曲もミュージシャンも彼らが楽器でやっていること全て、それまで観たことのないものだったし、可能なものだとさえわからなかった。ディープ・パープルは美しき矛盾だった。絶好調な5人のミュージシャンに混じって、生々しい激しさで次から次へと名曲を演奏していくようなものだ。そしてあたかも自分たち以外誰もいないガレージにいるかのようでありながら、同時に1000ヤード先のアリーナの奥深くまで凝視しているんだ。

    ちょっと紹介させてもらうよ・・・

    シンガーのイアン・ギラン。センターステージに立ち、みんなの目を惹きつける、クールで最高のフロントマン気質の体現者、肺から絞り出すような叫び。彼の声は街中のガラスを割っただろうと思うほど高い。

    彼の後ろにいるのがドラムのリトル・イアン・ペイス。髪、汗、唾、精密さ、それらを混ぜ合わせたロックンロールのカクテル。どうにかしてメガネのくもりを拭おうと、この貨物列車を前に推し進める・・・8インチのプラットフォームヒールでもってね!

    ステージ右側にいるのが威厳漂うジョン・ロード・・・。俺はオルガンであんなに身体を使っている人を観たことがなかった。でもちょっと待ってくれ。俺はまだ9歳だったんだ!彼はC-3ハモンドオルガンで、それまで誰もやってこなかったことをやってのけた。マーシャル・アンプとレスリー・スピーカーの壁を通じて、他に類を見ない未知の領域へと音をヘヴィにして熱狂させてくれた。これだけは言わせてくれ。ジョン・ロードは本当にハモンドオルガンをアンプを使ってディストーションをかけた初めての人だったんだ。残念ながら俺たちは2012年に彼を喪った。

    ベーシストのロジャー・グローヴァー。カウボーイ・ハット、ペイズリー柄のシャツ、別次元の人柄、地に足のついた人。グルーヴィーであえて言うならセクシーだ。彼のエゴのないステージでの存在感は、バンドメイドたちのエネルギーの応酬を助けていたし、彼らの最も重要なレコードのソングライターと共同プロデューサーとしての確固たるバイタリティーを覆い隠してもいた。

    それからそう・・・リッチー・クソやべぇ・ブラックモアがいた。彼がギターでやっていたことは実現不可能に思えた。ギターを普通に弾いたり、横向きにしたり、上下逆さまにしたり、あらゆるやり方で弾いていた。彼の指、手、腕は不変のバレーの動きだったり、予測不可能な動きだったりしていた。サウンド、金切り音、ピックスクラッチ・・・ギターをスピーカーにこすりつけたり、ケツやブーツで弾いてみせたり、宙に投げたりして、いつも突出して一風変わったショーマンシップと支配力と超然とした態度が織り交ざった人だ。ブラックモアはほとんど自分自身のために自己顕示して、エレキギター・ナルシシズムの端で浮かんでいるかのようだった。同時に彼はクールなんてものを超えていた。彼からよそ見なんてできなかったよ。

    彼らは演奏できた。即興音楽をね。彼らは絶えず、お互いに好奇心をそそる熾烈な競争を通じて、音楽を何か新しい場所、何か未知の場所へと連れて行った。そして同じ場所へは絶対に二度と同じ場所には行かないんだ。

    (公演を観てから)12時間後に早送りすると、地元の家族経営のレコード店にディープ・パープルの何もかもをリクエストして、すぐにアルバム『Fireball』を手渡されたんだ。こうして俺の人生は本格的に変わったんだ。永遠にね。

    ほぼ例外なく、ここ40年間の全てのハードロックバンドは、俺も含めて、ブラック・サバス、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルの系譜を直接たどっている。自分に関して言えば、この3つのバンドはいつもその楽曲制作、レコード、そしてその成果を等しく考えられるべきだと思っている。俺が大人になって、北米以外の世界ではその名声と影響力において3バンドは同等のものだった・・・。だから俺の気持ちとしては、俺の仲間のミュージシャンと何百万ものパープルファンのために俺が話すべきことはわかっている。彼らがこんなにも後になってロックの殿堂入りすることにちょっと困惑していることを告白しよう。強力なサバスと輝かしいツェッペリンの数十年後になるなんて(訳注:ブラック・サバスの殿堂入りは2006年、レッド・ツェッペリンの殿堂入りは1995年)。これはもちろんこれらの素晴らしいバンドやロックの殿堂を見下しているわけじゃない・・・俺はただディープ・パープルは世界中の他のどの場所でも崇められているんだってことをハッキリさせなきゃいけない
    だ。

    もちろん、今夜殿堂入りする他の3人を含む、この物語のなかで役割を果たしている殿堂入りして当然の皆さんに(祝福の)叫び声をあげたい。(訳注:今回殿堂入りするメンバーは、現メンバーのイアン・ギラン(Vo)とロジャー・グローヴァー(B)、第一期のジョン・ロード(Key)、リッチー・ブラックモア(G)、イアン・ペイス(Ds)、ロッド・エヴァンス(Vo)、元メンバーのデイヴィッド・カヴァデール(Vo)とグレン・ヒューズ(B))

    彼らのうち2人がライヴデビューするのを、ディープ・パープルが1973年12月のコペンハーゲンに戻ってきた時に観ている。シンガーのデイヴィッド・カヴァデール。彼の独特なブルージーな高音域の声と突飛なマイクスタンドにはぶっ飛んだよ。そしてベーシスト、グレン・ヒューズ。白のサテンスーツ、超絶クールなロッカーヘアーでもって、R&Bの影響を受けたヴォーカルだ。そして最後に実際に最初のオリジナルシンガーであるロッド・エヴァンス。60年代後半のパープル草創期のヴォーカルであの最初のヒットシングル「Hush」を歌っている。

    だから今夜殿堂入りした8人から、このバンドで演奏してきた14人のメンバーまで、しばしば緊張関係から素晴らしい音楽が生み出されたことは間違いない・・・そしてどれだけ素晴らしい楽曲なのかってこともね!!!

    アルバムは、いくつか名前を挙げるにとどめる。『The Book of Taliesvn』『Deep Purple in Rock』『Fireball』『Machine Head』『Burn』『Stormbringer』。

    そして驚異的な楽曲についてもいくつか名前を挙げるにとどめる。「Wring That Neck」「Black Night」「Speed King」「Child in Time」「Strange Kind Of Woman」「Highway Star」「The Woman From Tokyo」「Mistreated」。

    知っての通り、「なんじゃこりゃあ」ってなったのはスタジオバージョンとライヴバージョンの違いだね。「Space Truckin’」を例に挙げてみよう。アルバム『Machine Head』では4分超程度だ。それが伝説的なライヴアルバム『Made In Japan』だと、ほぼ20分もある!!!ディープ・パープルのパフォーマンス全てにおけるソロ、ジャム、衝撃的な力が、42もの公式ライヴアルバムがWikipediaで一覧表示される理由だ。彼らは毎夜すばらしく毎夜違って、毎夜触発される。今だにだよ。

    でも待ってくれ!・・・もう一曲あるよな?みんな知ってるフランク・ザッパと燃えたスイスの湖のカジノ、そして空まで炎が上がったとか何とかって曲がさ。あれはおそらく最も古典的なギターリフを特徴とする曲で、ギターを練習するみんなが初めてやる曲だね。あのリフは実際、店員の健全性を守るために音楽店で弾くことを禁止されていたんだぜ。あれは地球上で最もひどいギタリスト、不肖ラーズ・ウルリッヒでさえ実際に弾けるリフなんだ。

    曲名はもうお分かりの「Smoke on the Water」。これは折り紙付きの最大のヒットシングルだ。あまりにヒットしすぎて、ディープ・パープルが「一発屋」と間違われるかもしれない。でも、みんな知っての通り、今日でさえ、終わりなき伝説へと通ずる巨大でヘヴィな扉だと考えられている。最新のヴァージョンだって、世界中をツアーし、人々を圧倒して、いまだにいろんな人生を変え続けている、これまでと同じように重要で不可欠なままなんだ。

    俺のベッド脇のテーブルに置いている写真がある。相棒フランクにずっと前にもらったんだ。それはディープ・パープルの写真だ。フォトショップでイアン・ペイスの上に俺の顔写真が貼りついているんだけどね・・・ごめんよイアン!だからディープ・パープルは俺にとっても、今夜ここにいるファンにとっても、そして世界中の何百万人ものファンにとっても、いまだに重要な意味を持っているんだ。ディープ・パープルを次のように思っているみんなのね。

    壮大で
    予測不可能で
    エネルギッシュで
    クールで
    激しくて
    輝かしくて
    衝動的で
    即興的で
    魅惑的で
    口をあんぐり開けてしまうほど驚異的で
    別次元で
    容赦なくて
    先駆的で
    結局のところ、時代を超越している

    リッチー・ブラックモア、デイヴィッド・カヴァデール、ロッド・エヴァンス、イアン・ギラン、ロジャー・グローヴァー、グレン・ヒューズ、ジョン・ロード、イアン・ペイス。

    彼らはずっと前にここにいたはずだ。彼らはいるべき場所にこうして今ここにいる。

    俺は常々これを言いたかったんだ。「ご列席の皆さま、拍手でお迎えください・・・。ロックの殿堂入りをする・・・ディープ・パープル!」


    Metallica.com(2016-04-08)

    スピーチ動画はこちらから。


    メタリカのinstagramではさらに写真がアップされています。
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    やはりリッチー・ブラックモアは不参加の模様・・・

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    左上:(左から)イアン・ギラン、イアン・ペイス、ロジャー・グローヴァー、ラーズ
    右上:ドン・エイリーとラーズ
    左下:イアン・ペイスとラーズ
    右下:ロジャー・グローヴァーとラーズ


    イアン・ギラン、ロジャー・グローヴァー、イアン・ペイス、現メンバーのスティーヴ・モーズとドン・エイリーによるディープ・パープルのライヴも行われた模様。曲目は「Highway Star」「Hush」「Smoke On The Water」。

    Highway Star


    Hush


    Smoke On The Water


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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。有志英訳を管理人拙訳にて。日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。今回はラーズが「楽器」を始めた頃のお話。

    - ロック・ミュージシャン誕生 -

    7歳の誕生日に(ラーズのいとこ)ステインは赤いエレキ・ギターとワウペダルをもらった。ラーズはそれを「クールだ」と思った。ステインはラーズにひっきりなしにギターを持っていいか尋ねられたと振り返る。ラーズはこの頃からすでに説得の達人であったため、ステインのギターを自分のものとしたのは当然の成り行きだった。つまり、ラーズはジョン・モーエンセン(訳注:デンマークのピアニスト、ソングライター)のデビューアルバムと交換したのだ。

    実際に真剣に音楽の方向に進む最初のステップは、学校で授業を取ることだった。そこでラーズは音楽の授業でギターのレッスンを受け始めた。今からそれを振り返るとラーズは吹き出した。ギター・レッスンはすでにロック愛好家だった少年にとっては滑稽な挑戦だったのだ。

    ラーズは笑い声を沈めると、笑みをたたえたまま、Maglegaard小学校で音楽教師レイフ・ダールガード(Leif Dahlgaard)の教え子として過ごした頃のことを興奮して話した。「俺はギターを習いに行った。出来はまあまあ。ギターを演奏している時、ギターを左足のどこに置いたらいいのか分からなかった。スパニッシュ・ギターみたいに3冊の本の上で片足立ちでいるみたいだった。そうやってみたけど(ラーズはエアギターでその様子をまねながら)それがギターの全てじゃない。全然ロックじゃなかったからやめたよ。それだけが原因じゃないけど、それが実際にドラムを始めた理由だね。」

    ドラムセットは持っていなかったが、1974年から1975年のあいだラーズは「バンドで演奏する」のが好きだった。

    「そう、バンドを始めたんだ。テーブル・フットボールの台をキーボードに見立てて、段ボール箱と箸をドラムセットみたいに塗って、リードシンガー用に特別なほうきの柄を用意して、2つのテニスラケットはもちろんギターとベースさ。そうやってバンドを始めたんだ!いろんな「楽器」を試しては考えていた。一度リードシンガーも試したんだ。Dunlopのテニスラケットを持ってね。でも結局、段ボール箱に落ちついたよ。」

    段ボール箱と絵筆がその場しのぎの最初のドラムセットになった。ラーズはそれをあたかもヘヴィなロックビートを奏でるチャンピオン、ディープ・パープルのイアン・ペイスばりに振り回していた。ラーズの叔母、ボーディルが「あの子が食事をしているとき、いつもあらゆるものを叩いていたのよ。ナイフとフォークでグラスとかお皿とかをね。」と語っているあいだ、父トーベンは鍋とナイフやフォークを使ったドラム癖を直させたことも思い出していた。

    しかし、12歳の少年と仲間たちがバンドの真似事をしていた頃に、本当のドラムセットを手にするまでは長い道のりだった。

    「一番最初に演った曲はスウィートの「Ballroom Blitz」だった。ステータス・クオーやスレイド(Slade)、そしてディープ・パープルの曲もあった。Lundevangの俺の部屋か、ローウラライ(Raageleje)の小さな2階の部屋に集まってた。金曜日の午後はステインとピーター・タルベックって子と他の子たちと外でステータス・クオーのライヴレコードの全曲を演ったのを覚えているよ。俺たちがやっていたのは、部屋まで「楽器」を持っていくってことだった。どんな季節でも、できるだけ暑くなるように暖房をいじってた。だから5分か10分もしたら汗が噴き出してくる。それがステージにいるみたいに思えたんだ。たぶんそれが最初の足掛かりになったと言えるんじゃないかな?」

    ラーズは少し考えてから続けた。「どうやってドラムを始めたのか本当はわからないんだ。親父の友だちの一人だったクラウス・ボイエ(Claus Boje)って人が俺に衝撃を与えたんだ。彼はアイスホッケー選手でありドラマーだった。ある時期、ホッケー選手とドラマーはまったく同じだと思ったんだ。ホッケー用のスケート靴を持っていたし、ゲントフテのスケートリンクに行っていたよ。75年から76年あたりかな。そしてもう一人、親父とよく集まっていた人がいた。彼の名はアレックス・リール(Alex Riel)。彼はNHOP(デンマークのベーシスト、Niels-Henning Orsted Pedersen)のドラマーで、コペンハーゲンに来ていた外国人ジャズマンのひとりだった。彼はデンマークのドラマーとして1位にランクされた人だった。彼にも本当に衝撃を受けたね。」

    「俺がお祖母ちゃんにひざまずいて本物のドラムキットを買ってくれるようお願いしたっていう身内じゃ有名な話があるよ。ジョン・ハートヴィ(John Hartvig)っていう店があって、たしか街でいくつかドラムを買ったところだと思う。イアン・ペイスが何年も持っていた銀色に光るドラムみたいだった。でもそれはイアン・ペイスとステータス・クオーのジョン・コーラン、あとちょっとボーナム(ツェッペリンのジョン・ボーナム)も入った感じの同じセットアップだったんだ。バスドラム、タムタムがあってタムドラムが2層になってる。あれは当時のワルがみんな持っていたものだった。」

    「そうやってイカしたドラムキットを手に入れて、地下室の自分の部屋に置いたんだ。そこに座るだけで楽しかったし、自分もドラムが演奏できると想像していた。あれは76年夏のことだった。ただ、あれは遊び場の一部だった。そこまで真剣なものじゃなかった。わかるかい?でもブラック・サバスのアルバム『Sabotage』の「Hole In The Sky」を演奏していたのを覚えているよ。」

    ラーズ・ウルリッヒの初めての聴衆のひとりであるステインは当時のドラム演奏を振り返る。

    「あの部屋は家族が地下室に住むようになってから、(家族が生活している部屋から)遠く離れてはいなかった。でも少なくとも両親がドアを閉めればラーズがやかましくできるくらいは離れた部屋だった。ディープ・パープルの『Made In Japan(邦題:ライヴ・イン・ジャパン)』に挑戦していた。『Burn(邦題:紫の炎)』を「Burn」からB面の「Mistreated」まで演ってたこともあったっけ。彼は数年間、ドラムを演奏することはすごいことだと思っていた。それから先に進んだんだ。」ステインはそう付け加えた。

    「音楽はテニスほど重要ではなかった。」とラーズは言う。「その頃を振り返ると音楽のために生きてはいなかった。自分ではテニス選手になることを想像していた。親父のように、音楽は趣味に過ぎなかった。」

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

    lars-ulrich-denmark
    ドラムを打ち鳴らすラーズ少年

    小さい頃から交渉に長けていたり、聴く側だけではなくすでに演る側としての楽しみを追求していたり、と現在のラーズの片鱗が垣間見れるエピソードでした。

    はじめてバンドの真似事をした曲、スウィートの「Ballroom Blitz」はこちら。


    次回はラーズが将来の仕事と考えていたテニスとの関わりについて。

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