メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    カテゴリ: エピソード

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    メガデスのデイヴィッド・エレフソンがインタビューでメガデスとメタリカの初めての出会いや今後のBIG4公演の可能性について触れていました。UltimateGuitar.comの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    davidellefson

    俺たちはLAバンドとして知られるものからちょっと距離を置いていた。サンセット・ストリップとかヘアメタルのコミュニティに嫌悪感があったからね。

    −メガデスがグラム・シーンに参加しようと誘惑されることはなかったか?

    いいや。面白いことに俺がミネソタからLAに移る直前に、ミネアポリスのハードロック・シーンではそういうことをやっているバンドが少し出てきていた。モトリー・クルーほどのは全くいなかったけどね。モトリー・クルーは雑誌『Hustler』(訳注:アメリカの月刊ポルノ雑誌)でしか見たことがなくて「おぉこりゃあ本当にエッジの効いたバンドだな!」って思ったね。

    もちろんLAに移りたいと思ったのは、80年代はじめにヴァン・ヘイレンが売れ出したのを見た時だった。この頃までには、オジーがランディ・ローズとルディ・サーゾを指名していて、俺はラットを聴き始め、もちろんモトリーもチェックしていたんだ・・・。

    だから1983年にLAに着いた時には、アメリカの大きなフェスティバルは、すでに始まっていたんだよ。LAに住んで最初の1週間以内で2階の住人だったデイヴと出会った。彼は俺が関わりたいと思っていた類の音楽をルーツに持っていた。そして俺がそれに関わるようになったわけだ。彼はダイアモンド・ヘッドのピクチャー・ディスクを持っていて、モーターヘッドの歴史をよく知っていた。さまざまなバンドとショーを演奏していたよ。

    この頃には、モトリー・クルーやラットといったバンドは既に(レーベルと)契約をしていて、すでに滑走路から飛び立っていた。サンタモニカ通りのトレバドール(Troubadour)に行ったことを覚えているよ。W.A.S.Pがキャピタルと契約している時に最後のショーをやっていた。だから彼らはあのジャンルの最後のメジャーレーベル契約バンドのひとつで、サインして移籍することができたんだ。

    次はおそらくアーマード・セイントで、彼らはヘアメタルでもスラッシュメタルでもなく、パワーメタルバンドかもしれないね。ラジオのKMETではウォーリアー(Warrior)のようなバンドが放送されていて、クイーンズライクの「Queen of the Reich」を流していたのを覚えているよ。だからヘアメタルは威勢を誇っていたんだ。

    でもデイヴと組めたのは本当に天の恵みだったね。俺はすぐにわかったよ。デイヴは本物だとね。彼は本当の作曲家であり、ロックスターのカリスマ性も持っていて、契約に躍起なサンセット・ストリップの有名になりたいヤツなんかじゃない。実際、彼はあそこにいることにかなり反対していたんだ(笑)

    トレバドールは俺が初めてラーズとジェイムズに会った場所でもある。彼らはショーに来ていた。ジェイムズとラーズ、そしてデイヴと一緒にいた俺の奇妙な出会いだったね(笑)知っての通り、これが「メタリカが初めてメガデスと出会った」って場面なんだ。

    そんなわけでシーンにはたくさんの人がいて、その一部はみんな契約をつかんで、MTVのスターダムになっていったんだ。

    −今後、BIG4のショーを行うことを望んでいるか?

    きっとあるよ。俺たちみんなが望んでいると思う。死にかけたものがヘドバン天国に行くようなものだ。俺たち4バンドはおそらく一団のなかでより大きく有名になった。ジーン・ホグランがダーク・エンジェルにいたある時に、(同じくダーク・エンジェルの)ジム(・ダーキン)がメガデスのオーディションに来たのを覚えている。ケリー・キングは最初の数回ショーで俺たちの穴埋めをしてくれた。俺たちは近所の友人だったんだ。

    それにみんなデイヴのことが大好きだからね。ヴィンス・ニールがデイヴに会いに来て、ハグとハイタッチをしていたのを覚えている。だからいろんなジャンルの人が、みんなLAで一緒に育ったんだ。俺は(よそから)移ってきたから、そういう体験をすることができなかった。

    それでも言えることは、デイヴがあのシーンのなかでとても好かれていて、尊敬されているってことだ。そして俺は「俺たちがやっていることは、LAのそれとはまったく異なっていて、とても独創的で、オリジナルのものだ。おそらく"一夜にしての成功"は起きないだろう。」ってことはすぐに気づいたね(笑)

    UltimateGuitar.com(2018-01-18)
    インタビューのフル動画はこちらから。


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    アンスラックスのギタリスト、スコット・イアンが、自叙伝『I’m the Man: The Story of That Guy from Anthrax』に続く2冊目の著書『Access All Areas』を出し、販促イベントがニューヨークで行われました。

    クリフ・バートンにまつわるお気に入りの思い出を聞かれたスコットは、麻薬売買の疑いでクリフとともにロンドンで逮捕されて、もう少しでメタリカがロンドンで借りていたアパートから大麻が押収されるところだった時の話を披露しています。以下、管理人拙訳にて多少かいつまんでご紹介。

    scott_cliff

    「クリフがウォークマンが欲しいって言うんで一緒にアパートを出たんだ。寒さの酷い84年のロンドンでのことだ。ウォークマンを買おうと地下鉄でトテナム・コート・ロード駅まで行った。2人の警官が来て俺たちは逮捕された。その警官は俺たちが髪が長いもんだから、ドラッグの運び屋に違いないと思ったんだ。俺たちはそうじゃないと言っていたにもかかわらず、ヤツらは『まぁキミたちに疑いを持っているんでね』ってもんさ。俺は『あんた方がもっといい方法がないとわかってるのはいいことだ』って具合でね。すっかりご機嫌ななめだ。俺はドアにちっちゃい窓のついたコンクリートの小部屋に連れて行かれて、下着姿にさせられ、凍るような寒さだった。6時間もそこで座らされてさ。

    クリフはアパートに大麻入りの大きなバッグを置いてきていた。「ヤバイ」って顔しててね。
    (クリフとともに警官がアパートに出向き、家宅捜索で麻薬を探し回っていて)クリフが数時間後に刑務所に戻されると、俺は着ていた服を返されて、署長が会いたいと言っていると伝えられた。署長室に出向くとクリフが(先に署長室にいて)半笑いの顔を俺に向けて、署長が俺たちに謝罪し始めた。『麻薬を売っているヤツらのいろんな問題を我々は抱えていて、さらに今日はサッカーの大きな試合があるので・・・とか何とかベラベラ言ってきたんで俺は『ちょっと待て、何にもなくて俺たちはOKってことだろ?』と言ってキレちまった。3分くらいそいつにどなりつけてやったよ。『弁護士呼ぶぞ!』ってね。クリフは俺の足を蹴って『黙ってろ、俺たちはもう釈放なんだ』って感じだった。

    とにかく俺たちは刑務所を去ったわけだけど、あの大麻入りの袋はどうなったんだ?ちょっと会場のみんなやFacebook Liveで見ている人たちに訊いてみたいんだけど、10人の警官が2つの寝室のある部屋で大量のドラッグを探すのに、まずどこを探そうとする?どこに隠したんだと思う?冷蔵庫?違う。そう!マットレスの下だ!まさにマットレスの下に大麻入りの大きなバッグを隠していたんだ。ヤツらはマットレスの下を見なかったんだよ。間違いなくロンドン史上最悪の警官だよね。(隠し場所としてはありきたりの)マットレスの下を見てなかったんだからさ。

    10人の警官がクリフと一緒にアパートに来た時、カークがソファでギターの練習をしていた。(いきなりの出来事に)固まっていたそうだ。カークは、俺たち終わったな、クリフの大麻入りバッグが見つけられちまうって思ったみたい。信じられないよね。見つからないなんてさ。それで結局、クリフはウォークマンを手にすることが出来なかったんだ(笑)」


    Loudwire(2018-01-18)
    動画はこちらから。


    scottian_2nd
    Access All Areas: Stories from a Hard Rock Life


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    日頃からTwitterでファンからの質問にマメに答えているメガデスのデイヴ・ムステイン。「メガデスを始めた時に成功の尺度は何だった?どんな構想を描いていた?」との質問に対して次のように答えていました。

    davemustaine_twitter201801

    自分の成功の尺度はその日食っていけるかどうか、俺の構想はメタリカを破壊して、車上生活をやめることだった。バンドを去って敵意を乗り越えたことは良いことだ。和解出来て嬉しいよ・・・BIG4公演はどこへ行った?


    Twitterより

    メタリカ憎しの感情がメガデスの原動力であったことを改めて語るとともに、2010年から2011年に実現したBIG4公演をもう一度開催することへの期待もほのめかしているかのよう。2016年のインタビューでデイヴは「4バンドが同等の時間で行うことなど条件がそろえば素晴らしいこと」と語っていました。

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    先日発売予定とお伝えしたドキュメンタリー『The Rise of L.A. Thrash Metal』の予告動画のなかでラーズ・ウルリッヒが自身とパンクとメタルの関係性について語っていました。BLABBERMOUTH.NETの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    larsulrich_riseoflametal

    例えば、パンクとメタルの団結について話す時、何度も思い出さなくちゃならなくなるんだ・・・あるグループと別のグループが団結しているのは、彼らがこの他のグループと敵対しているからだ、なんてことをね。「敵の敵は味方」なんて言うだろう?だから俺はあの当時、ハリウッドで起きていたことに逆らった共通の絆がおそらくあったんだと思う。見掛け倒しで見せ掛けのグラムバンドとあらゆるタイプの浅はかさ。パンクとヘヴィメタルの仲間たちがそんなものに対抗して一種の絆を築くことができたんだ。

    俺たちについては、アティテュードや帰属している感覚っていう面では、パンクのヤツらともっと親密な関係だと感じていたけど、音楽的にはよりもっと伝統的なメタルが俺たちに根付いていた。だからカーク・ハメットとジェイムズ・ヘットフィールドと俺の間には、AC/DC、ディープ・パープル、アイアン・メイデン、ジューダス・プリースト、エアロスミス、レッド・ツェッペリンがいた。そういうところから始まったんだ。たしかにラモーンズ、モーターヘッドも好きだったけど・・・。でもそれはエネルギーやアティテュードについてだった。ダイアモンド・ヘッドとかそういうタイプのものは、心と魂が音楽的要素の面でより大きかった。だから、たくさんのパンクバンドについて、そのアティテュードが大好きだったけど、音楽性の点では親密さは感じなかったんだ。


    BLABBERMOUTH.NET(2018-01-18)
    動画はこちらから。


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    年も明けまして今年もよろしくお願いいたします。

    大晦日に誕生日を迎えたアンスラックスのスコット・イアンがインタビューでこのほど出版された2冊目の著書『Access All Areas: Stories from a Hard Rock Life』の紹介をしていました。そのなかに書かれたカーク・ハメットとのエピソードについて語っています。BLABBERMOUTH.NETの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    anthrax_scottian

    本の中には1つ(面白い)話があるよ。アンスラックスの他のヤツらとメタリカのメンバーの何人かで「カークの激怒」って呼んでる話でね。サンフランシスコでアンスラックスのショーをやったある深夜のことで、俺たちはストリップクラブやら何やらに出かけていって午前2時半になっていた。全員がかなり酔っぱらっていて、音楽をプレイできるところを探していたら、「この街にはカークが住んでる」って気づいたんだ。

    彼はすでに去っていた。彼は自宅で対処するいくつかの個人的な問題を抱えていたから、俺たちは彼には告げずに彼の家に忍び込むっていう大人の決断をしたのさ。「マークがいるじゃないか」と決めたんだ。デス・エンジェルのマーク(・オセグエダ)だ。マークはカークが家の鍵をどこに置いているか知っていたから、俺たちは家に侵入して地下にあるスタジオでジャムろうとしたんだ。良いアイデアだと思ったんだけどね。午前3時、カークの地下室で酔っぱらったブラック・サバスがジャムってるのは、彼にとって不満だったんだな。あの時点で俺は彼と10年来の仲だったけど、あれほど怒っているのは見たことがなかったよ。

    カークは人生で出会ったなかで一番穏やかなヤツなんだけど、あの夜は全く違った。さながら怒った後、失望した親父のようだった。彼は俺の最高の親友のひとりだったから、彼は「オマエがこんなことするなんて信じられないよ」って具合だった。話には続きがあって、ハッピーエンドなんだ。この話の後半で壊れることになる超高価なガラスのドアがあって、悲惨さが加わってしまうんだけど、俺はもう少し詳しいところをまとめようとしていた。何かの拍子に「あの家にどうやって入ったのかとか誰か覚えてる?」ってなってたくさんメールのやりとりをしてね。だから「誰がこれをやって、誰があれをやった?」っていう詳細をまとめることができたんで、その5、6人にこの本の最後で謝辞を述べたんだ。


    BLABBERMOUTH.NET(2017-12-30)
    インタビュー全編の動画はこちらから。


    スコット・イアンの著書は英語版のみ発売中。
    scottian_2nd
    Access All Areas: Stories from a Hard Rock Life


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    2011年9月14日にヤンキースタジアムで行われたメタリカ、スレイヤー、メガデス、アンスラックスの“BIG4”によるニューヨーク公演。当時、メガデスのデイヴ・ムステインは首と頸椎を痛めており手術が必要だったため、出演キャンセルとなるはずでしたが、メタリカのマネージャー、ピーター・メンチの一言で参加することになったとのこと。

    dave-mustaine-and-peter-mensch
    デイヴ・ムスタイン(左)とピーター・メンチ(右)

    以下、BARKSの記事から転載。
    ムステインは当時、“長年のヘッドバンギング”が原因で激しい痛みに襲われていた。それを押し切り出演することにした理由をポッドキャスト『The Jasta Show』のインタビューでこう明かした。

    「ヤンキー・スタジアムで“BIG 4”公演をやったとき、俺は首に頚椎カラーを装着し、ゴルフ・カートに乗ってステージへ向かったんだ。ステージには“ヘッドバングはするな”って書いたものを張り巡らした。あの夜、ヘッドバンギングしてたら俺は死んでたかもしれない。なんたって、俺はその2日前、緊急手術室にいて、首のオペを受けるとこだったんだから。で、そのとき、マネージャーのMark Adelmanに電話してこう言ったんだ。“俺はすでにメタリカ、アンスラックス、スレイヤーとプレイしてる。NYでもプレイしてきた。野球のスタジアムでもだ。だから、この公演は俺にとって何も目新しいところはない。それに、緊急手術受けなきゃならないから、キャンセルしないとな”ってね。それで、Adelmanがメタリカのマネージメントにそれを伝えると、あの野郎なんて名前だっけな、ディックとかピーターとかいう奴だ…、ピーターだ! そいつが、俺のこと女々しいって言ったらしいんだ」

    「だから、俺は“よし、わかったぜ。切り上げる。俺はNYへ行く”って言って、首に山ほど注射してもらい、頚椎カラーを着けて、飛び立った。で、プレイして戻ってきたんだ。このことはそいつ以外誰も知らないと思ったね。ホントに女々しいのは誰かってんだ」


    ムステインはこの公演前、『Rolling Stone』誌に「俺は神を信じている。彼が守ってくれるはずだ」と話していた。

    手術から5年以上が経過し、首の調子は悪くはないが、ムステインはいまでもヘッドバンギングには要注意。彼いわく、メタリカのジェイムス・ヘットフィールドやスレイヤーのトム・アラヤも過去に同じ手術を受けており、それぞれツアーに支障をきたしたはずだという。

    BARKS(2017-12-06)

    管理人はこの公演に行っていたのですが、メガデスは体感的にもかなり短い公演でした。当日のメガデスのセットリストはこちら。
    01. Trust
    02. Hangar 18
    03. She-Wolf
    04. Public Enemy No. 1
    05. Head Crusher
    06. A Tout Le Monde
    07. Sweating Bullets
    08. Symphony of Destruction
    09. Peace Sells
    10. Holy Wars... The Punishment Due
    デイヴはMCで、1週間前にケガを負ったこと、本当ならライヴを出来る状態じゃないけど、キミたちのために演るよと語っていました(と言っても当日はこのMCが聞き取れず、全てを知ったのは翌日の新聞を読んだ後のことでしたが)。メガデスが短くなった分、後にステージに上がったスレイヤーが14曲を披露しました。

    2010年6月のSonisphere Festivalで始まったBIG4公演は、デイヴ自身が出演を決めるまで「何度も行きつ戻りつした」と後のインタビューで語っており、イベントとして決まるまで紆余曲折を経ていたようです。そんな経緯もあり、BIG4最後の公演となったニューヨークで出演キャンセルを伝え聞いたピーター・メンチが「女々しい(原文ではPussyなのでもっと強い表現かも)」と思わず口走ったのかもしれません。

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    2017年10月25日にFacebookでサンフランシスコのMetallica HQから生中継されたBritishGQのインタビュー。エクソダスからメタリカに加入したことについて語っていたところが文字起こしされていたので管理人拙訳にてご紹介。

    kirk_exodus

    15歳か16歳でエクソダス(Exodus)を結成した。俺が20歳になるまでに、俺たちは人事異動を経験してきた。バンド内で俺と他のメンバーでいくつかの問題があったね。彼らは俺がやっていたのとは違うドラッグをやり始めたんだ(笑)。それが分裂を招き、メタリカに加入しないかと誘いが来て、俺はそれに飛び乗った。その時点でエクソダスでは物事がそこまでうまく運んでいなかったけど、彼らは俺が去った後に自身を立て直してうまくやり遂げたんだ。

    それに俺はメタリカのライヴを観た後に自分はおそらく彼らと一緒にやった方が良いと思っていた。実際そうだったんだ。(メタリカを)観て、とても冷静に考えていた。「彼らは本当にすごい。彼らは俺とだったらもっと良くなる。」実際そう考えていたんだ。

    それで文字通り、その2週間後にバンドに加入しないかと電話があった。それは運命みたいなものだった。友だちが「ニューヨークへ来いよ」と言っているのを聞いた時って、俺が期待していた電話や誘いとまるでほとんど変わらないものだったんだ。

    不思議な気分だったね。今振り返って見ると、自分自身の運命を果たしていて、運命を果たす意識みたいなものが本当に働いていたように感じるよ。


    UltimateGuitar(2017-11-18)

    インタビュー全編はこちらから。
    https://www.facebook.com/BritishGQ/videos/10155255212686051/

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    『Master of Puppets』のリマスター盤発売を受けてのRollingStone誌でラーズ・ウルリッヒとカーク・ハメットのインタビュー。前回の続きです。BOXセットに収録のライヴやクリフ・バートン、ジェイソン・ニューステッドに関するエピソードが語られています。管理人拙訳にてご紹介。

    metallica-master-of-puppets-1986-newsted

    −カーク、BOXセットにはあなたのソロの草案を示すたくさんのリフ・テープがありますね。当時のリードギターのフレーズはどうやっていたのですか?

    カーク・ハメット
    当時、最初から最後までソロ全部を作るのにとても夢中になっていた。スタジオ入りする前に少なくとも80から90%は作っておきたいと思っていた。スタジオで即興はやっていなかったんだ。若かったし、自分の演奏を展開させることや何もないところから500のアイデアを書き溜める能力は持ち合わせていなかった。今ならそれができる。俺は今(当時に比べて)はるかにミュージシャンになっているからね。『Hardwired〜』では何を演奏するか分からないところから、(どうするか)90分以内に把握していた。1986年にはできなかったことだよ。「Damage, Inc.」では、俺はただ座って頭を掻きむしって唖然としながら「俺は他に何をやろうとしてるんだ?」って思ってたし。

    −BOXセットにはクリフのテープは何もありませんでした。彼はバンドに曲をどう提示していたんでしょうか?

    カーク・ハメット
    彼はボリュームがどんどん上がっていく「Damage, Inc.」のイントロを弾いていた。それから彼はそのひらめきの元となったバッハの曲を俺に弾いてみせたんだ。それで言うんだ。「同じように聴こえるか?」って。俺は「全然。疑う余地もない。完全にキミのものみたいだ。」と答えたよ。そして彼はベースで「Orion」の中間部全体を書いた後、ギターのハモるパートをベースで弾いていた。レコードではジェイムズと俺がこのハモるパートを全部弾いているけど、最初はクリフがベースで全部弾きたがっていたんだ。「Damage, Inc.」に出てくるソロみたいなものだったから、うまくはいかなかっただろうね。だから「Orion」に組み込んで、アルバムでやっているギター/ベースのアレンジを思いついた。それが実際に彼の最後の作品となってしまったんだ。

    −これにはたくさんのクールなコンサート音源がありますね。これらのショーで一番覚えていることはなんでしょう?

    ラーズ・ウルリッヒ
    『Master of Puppets』を振り返って考えてみると、オジーのツアーを振り返ることになる。俺たちは他の誰よりも長くオジーとロードを過ごした。時折、オジーがいなかった時は自分たちだけのショーをやることもあった。アラゴン・ボールルームのギグもそんななかのひとつだったと思う。

    カーク・ハメット
    アラゴン・ボールルームのショーで「Disposable Heroes」をやって、観衆がハチャメチャに狂っていたのをハッキリと覚えているよ。「Disposable Heroes」は(オジー・ツアーでの)サポートのセットリストには入れていなかった。だからあの曲がライヴでどれだけ効果的なのかを知ることができたんだ。

    ラーズ・ウルリッヒ
    (BOXセットに収録されている)ハンプトン・コロシアムのショーはオジーと一緒だった。観衆は何が自分たちに起きているのかわからなかった。俺たちがやっているようなものを一度も観たことなかっただろうからね。俺たちはアメリカ中部のアリーナでことごとく「Battery」と「Master of Puppets」をやったけど、たくさんの人の表情がかなりクレイジーになっていたね。

    カーク・ハメット
    メドウランズのショーはとりわけ最高だったのを覚えているよ。あの前夜にジェイムズとクリフと俺でサムヘイン(Samhain)の人たちと一緒だったからね。彼らとツアーに出るのは本当にクールだった。イーリーとグレンがショーに出ていて、俺たちはその事実に興奮したし、本当に触発されたし、本当に良いショーをやりたいと思った。だって最高なミスフィッツ(Misfits)のグレンとサムヘインの人たちがそこにいるんだぜ。「俺たちも良いショーをやるぞ」ってね。それが俺の演奏にもインスピレーションを与えることになった。

    −ハンプトン・コロシアムのショーは、ジェイムズがスケートボードでケガをしてから、カークのギター・ローディーのジョン・マーシャルをリズムギターに迎えたものでしたが、どんなことを覚えていますか?

    カーク・ハメット
    ジョンがステージ側にいるのはあのツアーから始まったんだけど、クリフはいつも「ここから出ていけよ」って言っていた。それで面白いことにジョンはステージの後ろからショーを始めるわけなんだけど、3曲目か4曲目になるとアンプの前に立っているんだ。4回目のショーで「脇に立っていたのが、急にステージに出てくるとうまくのれないんだよ。最初の曲から出て来いよ。」って俺たちが言ったんだ。ジョン・マーシャルは俺が13歳の頃から知ってる。15歳の頃から一緒にギターを弾いていたんだ。だから彼にとって、突然オジーのツアーで俺と一緒にギターを弾くことになって頭がクラクラする出来事だったんじゃないかな。俺たちが経験してきたことはそれだけ変わったことだった。本当に頭がクラクラするようなクールなことだったよ。

    ラーズ・ウルリッヒ
    ハンプトン・コロシアムのショーは、オジー・ツアーの最終日だった。オジーのライヴの後半に楽しい時間を過ごしたよ。俺たち全員がおむつを着けてギターと間抜けなズラをかぶってステージに飛び入りしたんだ。マネージャーのクリフ(・バーンスタイン)があのアルバムがゴールドディスクを獲得したと俺たちに伝えた日でもあった。あれはクレイジーだったね。しかもヘットフィールドの誕生日でもあったんだ。

    −ストックホルムで行われたクリフの最後のショーのカセットは感慨深く聴いているのではないですか?

    ラーズ・ウルリッヒ
    もちろん。あれから31年が経った。一時停止しては、物思いにふけり、考え、感謝し、光栄に思う。たくさんのことをあまりの早さで突き抜けてきたから、ゆっくり考えるなんてしていなかった。時には、午前2時にあのなかのものを聴いては「わぁ」ってなっていたよ。最後の2曲を聴いたり、最後のショーで彼と写った写真を見たりした時に気持ちを落ち着かせようと曲を止めるんだ。

    −クリフとの最後のショーについてはどんなことを覚えていますか?

    ラーズ・ウルリッヒ
    イギリスで3000席の映画館「Odeons」でのライヴを終えて、スカンジナビアに行ったんだ。場所はアイスホッケー会場みたいで(イギリスの会場に比べて)小さく、寒く、暗かった。違った雰囲気があったね。ストックホルムでのショーをやったら信じられないほどうまくいった。ショーがすごく良かったんで、セットリストにない追加の曲を実際にやった珍しいケースだったんだ。今でもそう多くはやっていない。それだけ良い雰囲気があったんだよ。

    カーク・ハメット
    ジェイムズが(ケガをしてから)再びギターを弾いた最初のショーだったから重要だったんだ。ジェイムズがギターのストラップを肩にかけてアンコールを演奏することができた。たしか「Blitzkrieg」か何かだったと思うんだけど、ジェイムズがギターに戻って演奏して、かなり回復しているように見えて、ジョン・マーシャルを含む5人が本当にワクワクしていたよ。あのショーは良かったとハッキリと覚えているんだ。ステージを終えて引っ込んだ時も本当に良い気分だったし、ポジティブで前向きなものだった。「いいぞ、ジェイムズが戻ってきて、以前の俺たちみたいに戻るのはそう時間はかからないだろう。」って感じさ。ショーの後はそんな雰囲気だったし、そこから事故が起きて、文字通り希望あふれる状況から深い漆黒の穴に身を落とされたように感じたよ。

    ラーズ・ウルリッヒ
    あの日、俺たちはたくさんの取材を受けていた。「OK」っていうスウェーデンの流行に敏感な10代女子向け雑誌のために写真撮影もしていた。その後、バスに座ってどれだけクールだったか話していたんだ。クリフと俺は一緒にビールを飲んでいた。今となってはちょっとおぼろげだけど良い日だったよ。

    カーク・ハメット
    俺たちがバスに乗って会場を去ろうって時にファンが俺たちに向かって走り出したのを思い出すよ。クリフがこう言ったんだ。「彼らを見ろよ、まるでゾンビみたいだ!」彼はゾンビに夢中だったからね。俺たちみんな笑っちゃったよ。それから俺たちはカードゲームを始めた。そして長い長いドライブだ。そこから先は誰もが知っての通りだ。

    −BOXセットにはジェイソン・ニューステッドの最初のオーディションとギグも収録されています。ツラい時期だったかと思いますが。

    ラーズ・ウルリッヒ
    あぁ、俺たちは何が起きているのか、わけが分からなかった。自分たちができる最も賢いことは続けることだと決めたんだ。事故後の1、2週間でクリフを弔って、それから後は5分となかった。もしそこで俺たちが減速して、虚無感を抱えたり、深淵に落ち込んで抜け出せなくなったりするのが恐かったからね。だから俺は(Metal Brade Recordsの創始者)ブライアン・スレイゲルを含む何人かに電話をして「そこらでホットなベーシストは誰かいないか?」って話していた。クリフの葬式の1週間後にはオーディションをセッティングしていたよ。

    カーク・ハメット
    奇妙な感じだった。俺たちはみんな、復帰後最初のショーについてとてもナーバスになっていた。リハーサルではうまくいっていた。ジェイソンが割って入れるのかと思っていたんだ。リハーサルでは時間をかけられる。でもいったんツアーに出たり、家を離れてショーをやったりするとなったら、実力ある者、ない者かがハッキリしてしまう。マニュアルとか練習コースなんてものはない。ジェイソンはよくこなしていた。彼は本当に危機に対応してくれたんだ。

    ラーズ・ウルリッヒ
    ジェイソンは信じられないくらいポジティブなエネルギーを持っていて、火の玉みたいだった。入ってくると、とても献身的で準備万端だった。しかるべきアティチュードを持ち合わせていたし、化学反応、人格、楽器への取り組み方は本当にユニークなものだった。彼はクリフから180度転換なんてできなかったし、「クリフ・ジュニア」みたいな代わりにはしたくなかった。ジェイソンはやり遂げるヤツだと直感したのを覚えているよ。

    −『Master of Puppets』の曲を書き始めた時から、ジェイソン・ニューステッドと共にしたアルバム・ツアーの終わりまで、あなた方のわずか2年間の人生、されどいろんなことが起きた時期がBOXセットには収録されています。この時期についてどう思いますか?

    カーク・ハメット
    バンドの未来についての責任が俺たちに突き付けられた。1986年9月まではバンドの将来は超バラ色に見えた。でも10月からは再び弾けるのかどうかさえわからなかった。兄弟を喪って、精神的にも感情的にもいろんなものを抱えることを強いられた。そして俺たちは大きく成長した。次のツアーでは少し成熟したからね。集中していたし、うまくやっていたとも思う。
    そして、うまくいくっていう願望から『...And Justice For All』ができた。


    −クリフ・バートンはかつて「Master of Puppets」がメタリカで好きな曲で、バンド史上最高の曲だと言っていました。バンドで一番リクエストされた曲であり、あなた方が一番弾いた曲になっています。なぜこの曲の人気が続いているのだと思いますか?

    カーク・ハメット
    あの曲で多くの素晴らしい感情を反芻している。曲の中間部は本当に独特の雰囲気がある。超ヘヴィで良いエネルギーがある。そして、たくさんの感情を持っている。「Master of Puppets」を聴いたり弾いたりすると、俺は何かが清められたように感じるんだ。最高の音楽ってそういうもんだよ。何かを得たり、感情的な何かを取り除くのを助けてくれる。「Master of Puppets」は信じられないほど精神浄化してくれる曲なんだ。みんなが前に向ける必要のある何かを自分のことにように感じて心を打つ。あの曲はそれができる。だから後になっても、さらに良く感じるんじゃないかな。

    RollingStone(2017-11-09)

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