メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

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    ラーズ・ウルリッヒ伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の続き、第4章完結編です。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。今回はメタリカの活躍を支えることとなるQプライムとの出会いについて。(読み方がわからない地名等はアルファベット表記のままにしています。)

    エレクトラ・レコードとの交渉に先立ち、ラーズとバンドは自分たちのキャリアの中で重要な仲間と関わっていた。夏の間、ラーズの友人であり『Kerrang!』の記者でもあるシャビエル・ラッセルは、ラーズにあのピーター・メンチがラーズとバンドに連絡を取りたがっているとロンドンで知らせていた。このピーター・メンチという男はQプライムのロンドン支社長だとわかった。メンチと彼の仲間であるニューヨーク本社の代表、クリフ・バーンスタインはある日、ロンドン有数のヘヴィメタル・レコードショップであるシェイズ・レコードに行くと、そこにあったメタリカのTシャツ、ブートレグ、シングルの膨大なセレクションに圧倒されてしまった。2人のマネージャーは『Kill 'Em All』からメタリカを観続けていたが、その巨大な可能性を感じたのはそこからだった。彼らはその可能性を実現しなければならない。一時もそれを疑うことはなかった。

    ラーズはピーター・メンチに連絡を取り、クリフ・バーンスタインと共にニュージャージー州で会う約束をした。ローズランドのコンサートまで、メタリカはニュージャージー州にいるジョニーZの友人の家に滞在していたのだ。だからラーズとバンドにとってニュージャージー州ホーボーケンへの小旅行はとても容易いことだった。ここはフランク・シナトラが最初にスターダムの夢を見た地区であり、今この小さな、グレーのあごひげをたくわえた、機を見るに敏なクリフ・バーンスタインとの会合後にメタリカが自らを方向付けることとなる地区でもあった。

    ラーズは、バーンスタインがNWOBHMのお気に入りバンド、デフ・レパードのマネージャーであったのに、大富豪の住む郊外ではなく「たわいのないスラム街」に住んでいることに驚いた。しかし、バーンスタインの家はQプライムとメタリカとの間の交渉をさらに進める決定要因ではなかった。決定的な要因は彼らとの間にケミストリーがあり、戦略的なビジョンにおいて双方とも合意したことだった。しかし、メタリカが正式なコラボレーションを始める前、つまり、新しいもっと実入りの良いレコード契約へとジャンプする前に、ジョニーZおよびクレイズド・マネージメントとメタリカとのレコード契約上の法的な決着をつけなければならなかった。

    ラーズ・ウルリッヒはこう説明する。「俺たちはメガフォースとジョニーZに契約で縛られていたから、ちょっと複雑になっていたんだ。俺たちは自由契約じゃなかった。他の契約を得る前に、契約外になっていたんで、84年秋の数ヶ月は俺たちはグレーゾーンにいたんだ。Qプライムがそんな状態を手助けしてくれたんだけど、ジョニーZとの契約が終わる前に俺たちのマネージャーとしては動けなかった。俺たちもポリグラムとか他の興味を持ち始めたレーベルと話をしていた。当時のアメリカあるあるだね。誰かが興味を持つとすぐに、他のところ全部も興味を持つんだ。彼らは他のヤツらが興味を持ったってだけで興味を持つんだよ!」

    最終的にジョニーZはさまざまな契約によって「買収」され、エレクトラとの契約にサインをした。すでに売れ行き好調の『Ride The Lightning』は新しい会社によって再リリースできるようになった。メタリカもマンハッタン7番街にあるQプライムの公式クライアントとなった。

    Qプライムは、すでに経験豊富なマネージャーであったクリフ・バーンスタインとピーター・メンチがパートナーとして、これより2年前に設立された。2人はロック革命期の60年代を10代として過ごし、今や専門的なマネージメントを行っている、ただの音楽ファンであった。しかし、バーンスタインとメンチは高学歴な人物でもある。バーンスタインはペンシルベニア大学で経済学と人口統計学の学位で卒業していた。そして1973年、ニューヨークのレコード会社、マーキュリーで自らのキャリアをスタートさせた。その後、1980年にコンテンポラリー・コミュニケーションズに入社し、ピーター・メンチと出会ったのだ。ピーター・メンチはシカゴ大学で都市研究とマーケティングの学位を持っていた。コンテンポラリー・コミュニケーションズに入る前、メンチはエアロスミスのツアー中の会計士として、1979年のAC/DCのあの『Highway To Hell』ツアーではマネージャーとして働いていた。2人とも同社を1982年に退社し、自らのマネージメント会社、Qプライムを始めたのである。

    スタートから、QプライムはAC/DCとデフ・レパードというハードロックのビッグネームを抱えて安定し、それから1984年、高い見識と忍耐で構築されたであろうメタリカと契約した。(契約に際して)とりわけラーズの耳に響いたことのひとつは『Ride The Lightning』の販売促進のためにメタリカにツアーをたくさんやってもらおうという彼らの考えだった。Qプライムのボスたちは、MTVでビデオを流しまくるという80年代のポップ/ロックネームたちがやってきたように成功要因を増やす道へアクセスするためだけに、急ごしらえのヒット曲を強いたり、ビデオ出演を課したりはしたくないと思っていたのだ。

    そう、メタリカのワールド・ツアーだ。それはQプライムが望んだことだったし、ラーズとメタリカが望んだことでもあった。既に強烈な売上げとなっていた『Ride The Lightning』、そしてメタリカについたエレクトラとQプライムにより、彼らは最大の楽しみであった、もっと良いホテルでのシングルルームという望みさえ叶った。彼らはまずヨーロッパに焦点を当てた。ヨーロッパには後に「スラッシュメタル」と分類される新しいヘヴィメタルに対する観衆がいたのだ。12月11日、ラーズは故郷で初めてのコンサートを行った。1年前に『Kill 'Em All』がリリースされた後、ケン・アンソニーはもう一度エリック・トムセンに話そうとしたが、このデンマークの大手ヘヴィメタル・プロモーターはメタリカにはまだ二の足を踏んでいた。

    「俺はレコードを送ってまでして、エリックと連絡を取って言ったんだ。「今、アンタが聴いているのすげぇだろ、ビッグになりそうだろ!」そしたら彼はただこう答えたよ。「黙れ。なんだこの生半可パンクは!?」ってね。」

    それでもなお、トムセンは経過を見ていた。1年後、彼はメタリカが初めてデンマークで行うショーのブッキングを担当した。

    「あれからメタリカを信じるようになった。」エリック・トムセンはそう語る。「だから私は最近ブライアン・アダムスが218人の観客でコンサートを行った500人収容のSaltlageretじゃなく、約1300人収容のSagaをメタリカのデンマーク初のコンサート会場として押さえたんだ。」

    コペンハーゲンのホヴェドガールドの近く、ヴェスター通りに面したSaga旧映画館はトムセンによって建てられ、別名ETプロモーションのコンサートで、少しオールドスクールなヘヴィメタルたち、アクセプト、サクソン、そしてスコーピオンズといった多くのバンドが使っていた。トムセンは正しかった。まさに正解だ。当時のメタリカの周りのメディアの盛り上がり不足もあって、メタリカのコンサートのチケットがほぼ売り切れたことは本当に驚くべきことだった。全てがアンダーグラウンドの世界で起きたことだった。文字どおり、ヘヴィメタルファンたちがケン・アンソニーのレコード店のアンダーグラウンド(地下フロア)でそのニュースを知ったのだ。

    注目すべき例外はあった。最も優秀な類のジャズとロック愛好家向けのまともで信頼性の高い月刊誌『MM』が1984年12月号でラーズ・ウルリッヒのインタビューを掲載していたのだ。「ライトニングはエネルギーを乗せてやってくる」と題されたインタビューはかろうじて1ページを埋めていた。最初に目を引いたのは−そのタイトルと共に−写真だった。(訳注:コペンハーゲンにある)ノアポート駅に降り立ち、革ジャケットとタイガーズ・オブ・パンタンのTシャツを着て、スポーツマンらしい人懐っこい笑顔を浮かべた若きデンマークの少年がそこにいた。それは2つのメタリカのアルバムで見たものとは全く違っていた。それぞれ、薄い口ひげをした粗野な若者(『Kill 'Em All』)、ドラムの後ろにいるワイルドな男(『Ride The Lightning』)だったのだから。

    インタビューで、ラーズはバンドの成り立ち、テニスのこと、「スラッシュメタル」という狭いサブジャンルの決まりごと、そしてバンドの新しいメジャーレーベルとの契約について詳しく語っている。Sagaで行われる予定のコンサートについても言及した。それにはちゃんとしたわけがあった。ヘレルプの大のメタルファンが初めて自分の故郷でパフォーマンスをするなんてことはこれまでなかったのだ。

    Sagaでのコンサートはユニークで強烈な事件だった。「Fight Fire With Fire」のアコースティックのイントロがショーの進行中に流れるとそこからすぐに長いお楽しみが始まった。その夜の大きな衝撃となったのはクリフが『Kill 'Em All』収録の「Anesthesia (Pulling Teeth)」として知られるベース・ソロを弾いた時だ。筆者も他の多くの人も他のヘヴィメタルバンドのギター・ソロ同様、ギター・ソロだと思い、まさかリード・ベース・ソロだとは思わなかった。しかしメタリカは他のバンドとは違った。クリフ・バートンは確かに他のベーシストとは違った。ベース・ソロ、これ以上何を言おうというのか。

    コンサートの数時間後、ヴェスターブロのエリアは、素晴らしいコンサートに押し寄せたヘヴィメタルのファンのアフター・パーティーで大いに盛り上がった。全員長髪でブルーのジャケットや服をまとった人々の中で、この暗くも夜には明るいコペンハーゲンで、何か新しい歴史的なことを体験できたという感覚が漂っていた。爽やかなラーズと、少しシャイで笑顔のカークは、そこではもはやロックスターではなかった。イステゲーゼを歩き、自分でホット・チョコレートとホットドッグを調達したのだ。

    1984年12月11日は、メタリカが勝利の寿司を、アルコホリカが勝利の日本酒を味わう前のことだった。来日前の2年弱は、バンドの生存に関する決定的で不変のポイントとなっていくのである。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    PeterMensch-CliffBurnstein
    ピーター・メンチ(左)とクリフ・バーンスタイン(右)

    『MM』誌に掲載された爽やかなラーズの写真、ネット上にないか探してみましたが残念ながら探し切れませんでした(苦笑)

    2011年に書かれたものですが、クリフ・バーンスタインが為替変動の影響がツアー日程にどう影響するかについて語っている非常に興味深い記事をみつけました。彼らの仕事のひとつとしてご参考までに。
    http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/355982

    私事でドタバタ続きのため、この伝記本翻訳はしばらくお休みします。再開までお待ちください。

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    『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の続きを。第4章4回目。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。予告どおり、レコード契約の話を中心に。

    アマー島に戻ってジョニーZが結局約5万ドル支払ったレコーディングを完了する前に、レコーディングの間で、メタリカはイギリスへ渡りロンドンの伝説的なライヴハウス、マーキー・クラブで数回のショーを行った。『Ride The Lightning』のレコードという器は天文学的な金額ではなかったが、ジョニーZの予算とメタリカの野心がもはや釣り合わなくなっていたことは明らかだった。

    メタリカが4月にスウィート・サイレンス・スタジオに戻って、最後の曲をレコーディングし終えた時、メタリカはスタジオの天井部屋(家具なしの物置き部屋)にしばらく住んでいた。そこにはフレミングが持っていたメルクリン社製の鉄道模型が置いてあった。例えるなら、ラーズと彼のバンドは『Ride The Lightning』によって自分たちの列車を線路に載せたと言える。

    これまでにメタリカはスウィート・サイレンス・スタジオでいくつかの訪問を受けた。例えば、ラーズの昔からの憧れであるモーターヘッドが所属するブロンズ・レコードの重役の訪問があった。重役ジェリー・ブロンからの『Ride The Lightning』をアメリカでリリースする前にリミックスするという提案は、バンドのテイストではなかった。しかしジェリー・ブロンがお金をふりまいて、マネージメントとレコード契約の両方を提示していたため、交渉の扉を開け続けておくことが重要だった。ビジネス意識の高いラーズは契約というスタートの洗礼を熱望していたが、自分たちの音楽に関する全創作のコントロールを持つという信念をすでに固めていた。だからリミックスは行わない。そうでなければ、契約を結んでいたのだ。

    アマー島のスタジオで作曲されたため、『Ride The Lightning』にこだわる本当に正当な理由があったのだ。『Kill 'Em All』から始まった狂乱した反逆は、重量、ニュアンス、バリエーション、コントラストを増していた。『Ride The Lightning』はアコースティックのイントロでそっと美しく始まり、突然『Kill 'Em All』のどの曲よりも速いと思わせるこの上ない速度のハードコアなヘヴィ・リフと打ち鳴らされたツー・バスへと変わる。「For Whom The Bell Tolls」のような曲はヘヴィという言葉に安心感を与えた。「Creeping Death」はど真ん中の巨大なメタルサウンドにオリエンタルな雰囲気をまとっていた。そしてH.P.ラブクラフトのテーマであるプログレッシブなインストゥルメンタル長編曲「The Call of Ktulu」である。そこには「リード・ベース」を弾いたクリフの名前がクレジットされていた。

    『Ride The Lightning』のプロダクションはデビューアルバムと比べても異なっていた。ヘヴィで内容もあった。それはたくさんの内容が。『Kill 'Em All』とはずいぶん異なり、歌詞の中には情熱とアイデアが突如として現れた。電気椅子による死刑について唄った表題曲、自由へのけたたましい賛歌「Escape」、新しくより内省的で思慮深い歌詞と音調で最も異国風なパワー・バラード「Fade To Black」。この曲を多くは−女性にまで広がったリスナーでさえ−孤独と絶望に打ちひしがれた人の遺書だと解釈された。実際はボストンのチャンネル・クラブの外で起きた前述の盗難により機材が失われたことを元にしている。「Fade To Black」もデモテープの頃や『Kill 'Em All』時代からのファンをバンドの虜にした。

    メタリカは、全体として動かしがたい過激さだけでなく非常に先駆的に仕上がったヘヴィメタルアルバムを、アメリカではジョニーZのメガフォース、ヨーロッパではミュージック・フォー・ネイションズでまずリリースした。アルバムは7月27日にリリースされ、夏が終わる前には世界で85000枚も売れた。ラジオやテレビの手助けなしではあったが、アンダーグラウンドシーンの絶え間ない口コミ、ヘヴィメタル誌に載った称賛レビューと多くの熱意溢れる物語によるこの事態は、ヨーロッパとアメリカでの着実なバンドのパフォーマンスによってさらに刺激された。8月3日にメタリカがニューヨークのローズランド・ボールルームで行ったツアーについて、ラーズは約束どおり、エレクトラ・レコードのマイケル・アラゴにこっそり知らせた。

    マイケル・アラゴはその夜、ローズランド・ボールルームに一人で現れなかった。この熱狂的な若者はエレクトラ・レコードの最高経営責任者ボブ・クラスノウ、プロモーションとマーケティング部門の副代表マイケル・ボーンの分のチケットを入手していた。アラゴにとってエレクトラ・レコードでのA&Rとして初めて大きな決定がなされる大事な夜であった。しかもこの22歳の男が初めて観るメタリカのコンサートでもあった。

    わずかに年上のマイケル・ボーンは、振り乱した髪と汗まみれの身体でゴチャゴチャになった真っ只中でどうすればいいのかわからなかったし、ステージから流れるとてもハードなヘヴィメタルで大暴れしているところをどう移動すればいいのかもよくわからなかった。だが、ボーンにとって楽しむためのコンサートではなかった。仕事をしに来たのだ。そこで彼はグッズ販売ブースに行くとメタリカのTシャツがすでに売り切れとなっているのに気がついた。これは興味深い。

    (ラーズが始まって以来の「メタリカの最悪なショーのひとつ」と言っていた)ショーが終わると、ラーズはアラゴをバックステージエリアへと案内した。おそらくバックステージパスなしで(!)、汗まみれでアドレナリンがまだ脈打っている状態のバンドに向かってアラゴを押しやった。アラゴのメッセージは短く単刀直入なものだった。「明日、キミたちはウチのオフィス以外どこにも行かないでくれ!」

    クリフ・バートンがすぐにこう尋ねた。「そこにビールはたくさんあるかい?」

    「もちろん、食べ物だってある。」アラゴは断言した。

    しかし、最も重要なのはレコード会社の熱心な人間とその同僚、そして献身的なバンドとの間にケミストリーが確立したことだ。

    アラゴのオフィスはマンハッタンに位置しており、そう大きくはなかった。メタリカはすでに「Alcoholica」の称号を得ており、バンドはアラゴのオフィス内で喜んでたくさんの冷えたビールを飲み、テイクアウトの中華料理をむさぼり食べた。ビールを飲み、中華料理を食べ、『Ride The Lightning』を再生し、未来について語った。アラゴの意見は明白だった。『Ride The Lightning』は小さな独立レーベルで出すにはあまりに重要すぎるアルバムなのだと。

    メタリカはマイケル・アラゴと彼のバンドや音楽に対するアティテュードを気に入った。彼らはドアーズ、MC5、イギー・ポップ・アンド・ストゥージズのようなロック史における革新的なビッグバンドを輩出している会社として有名なエレクトラ・レコードも気に入った。最も重要だったのは、アラゴがメタリカとサインを交わし、それから数週間後にラジオ向けの曲をバンドにお願いするなんてことをしようとしなかったことだ。アラゴはメタルファンであり、メタリカの器がおさまるべき、未開のヘヴィメタル市場があるとわかっていた。そのアティテュードは『Ride The Lightning』をその年の後半に再リリースした時に、エレクトラが考案して作ったラジオ広告にも反映された。「おそらくキミはメタルを聴いたと思ってるだろう。じゃあ、とっくに本物を聴くべき時が来ている。メタリカを聴く時だ!」

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    ひとつのバンドと契約を結ぶためにCEOと副社長を連れてくる熱意たるや。メンバーと歳も変わらないことは文章でもわかりますが、当時の写真を観ると改めて驚かされます。
    lars_alago
    ラーズ・ウルリッヒとマイケル・アラゴ

    次回はマネジメント会社、Qプライムの登場です。続きはまた後日。

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    ジェイムズ・ヘットフィールドが何かの責任を負うことへの恐怖、承認欲求の怖さとその克服について、ミュージシャンの人生経験をシェアするというYouTubeアカウントRoadRecoveryのインタビューで明かしています。BLABBERMOUTH.NETさんがインタビュー動画のジェイムズのコメントを文字起こししてくれたので、管理人拙訳にてご紹介。

    jameshetfield_fear

    −責任を負うことへの怖さについて

    自分の人生全てにおいて責任を負うことが怖かった・・・自分自身で責任を負いたくなかったんだ。学校に通ってた子供の頃を思い出すよ・・・。才能ある子どものためのサマースクールがあって・・・そう、俺もおかしいなと思った。才能があったんだ・・・そうさ!(笑)それでキミにも才能があってサマースクールに行くとする。ちょっと待って!キミも才能あるな。キミはサマースクールに行く必要はない。でも才能ある子供のためにサマースクールに行く。OK。それは映画についての授業だった。小学校でね。映画に参加したんだ。こんな感じでね。「これから映画を作ってもらいます。OK、グループに入って、アイデアとやりたいことを出し合って。」それで俺は「あぁわかった。」と言って、グループに入ってそれから「これはどうする?」と全てのアイデアを出した。それからグループで「OK、じゃあこのグループを率いて、責任のある、グループのリーダーを選ぼう。」ってなって俺は尻込みしたよ。怖かったね。グループのみんなは「じゃあ、キミがリーダーだ。キミはアイデアを全部出してくれたんだから。」って言うから、俺は「No No No」ってなったよ。それですっかり・・・すっぽかしたよ。責任が怖かったからすっぽかしたんだ。失敗の恐怖かもしれない。やっていることを知らないってことが怖かったんだ。

    俺にとってそういったようなことは、折りに触れて回復している。何かの責任を負うとか、自分から立ち上がってそんな風に光を浴びさせてもらうっていう怖さとはね。

    俺には別の恐怖がある。50歳になったということだ。俺は全てを知っていると思われる。落ち着いているロールモデルであり、あらゆることを誰にでも教えると思われてしまうということだ。自分でロールモデルだと思ったら、どうするよ!?それはロールモデルじゃないんだ。もしロールモデルになろうと頑張ったら、それも違う。ありのままで、自分のベストになっているか?そこから、誰かにとってのロールモデルになるのかもしれないね。




    BLABBERMOUTH.NETより(2014-12-09)

    −承認欲求について

    自分にとって恐ろしいものだった。俺がかつて持っていて、子供の頃に学んだ生き残るテクニックとして機能していた。(でも)もうそんなことはない。新しいツールを手に入れたし、新しい希望、新しい愛、新しい自尊心がある。そして自分のことを認めてもらっている。

    自分の人生におけるもうひとつのおもしろいところだね。街で一番シャイな子供に育って、手渡されたんだよ、つまり、音楽の才能も人に認めてもらうということも・・・。俺は全人生において人から認めてもらうということを追い求めてきた。どこにいても探していた。人に喜んでもらいたい、自分のことを好きになって欲しい、とね。でも自分を好きになってもらおうと人を楽しませていると、自分が自分じゃなくなっていくんだ。それは今まで自分がやったドラッグのなかで一番すごいヤツのようだった。本当に自分を台無しにしてしまう。

    俺はじっと座って自分の話、もがき苦しみ、立ち直りの教訓を述べることができる。それを歌詞の中に入れてきた。ステージの上に立つ時は俺たちがやってること−メタリカ−だったり、俺が書いてきた歌詞だったりを好きだとシェアしてくれるみんながそこにいる。でも、承認欲求に苦しんできた時期があった。ステージに立ってこう考えるんだ。「俺はクソ野郎だ。いい気分だ、俺はキング・クソ野郎だからな。」そうしてツアーを終えて家に帰る。俺にはそういうものはなくなる。ただの自分で、ただの父親で、ただの夫だ。そこには山のようにたくさんの皿が待っている。それで「俺が誰だか知ってる?」と聞くと「えぇ私の夫よ。さっさと済ませて、お皿洗って。」とか「私のお父さんよ。学校まで車で送って。」みたいな答えが返ってくる。時おり家族から認めてもらうことが一番難しくなることもある。俺は何かをしなくちゃいけないわけじゃない。でも、ただありのまま・・・ただの自分のままでそこにいなければいけない。それが無条件の愛なんだ。




    BLABBERMOUTH.NETより(2015-02-05)


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    引き続き『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第4章3回目。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。今回は『Ride The Lightning』のレコーディングについての話が中心です。

    metallica-on-tour-1984

    思いつきの一時的な郊外でのアパート住まいではあったが、メタリカが2ndアルバム『Ride The Lightning』をレコーディングした時にたまたま住むこととなったブレンビュベスター地区という場所に、我々は実際に明らかな歴史的特色を見ることができる。60年代初め、ミドルクラスの郊外は活況となり、多くの家庭が郊外に移り住んだ。そのようなどこにでもある活気づいた郊外でコンクリートのビルと一戸建ての住居だけでなく、ロック史における魅惑的な展開があったのである。

    1965年、ラーズ・ウルリッヒが初めて本当に好きなバンドとなったディープ・パープルが、コペンハーゲンひいてはヨーロッパの現代ポップ・ミュージックにおける有数の拠点であるKirkebjerg通りから数キロ離れたブレンビュー・ポップ・クラブでコンサート・デビューを果たした。その当時、バンドはラウンドアバウトと呼ばれていたが、ラーズの初めてのスーパーヒーローとなったイアン・ペイス、リッチー・ブラックモアがメンバーにいたのだ。同じ場所でレッド・ツェッペリンもデビューしている。(1968年にニュー・ヤードバーズの後身として登場し、アルバム毎に段階的な進化を遂げてきたバンドとして、後にメタリカとよく比較されることになる。)メタリカの一時的な住まいの角を曲がったところにブレンビュー・ホールがあった。若きファンとしてのラーズが昔からのお気に入りであるディープ・パープルとレインボーを観てきた場所であり、アイアン・メイデンがデンマークにブレイクスルーをもたらした場所でもあった。

    だが、メタリカの創造的な進展が起きたのはアマー島だった。一部はStrandlods通りのスタジオで、また一部はメタリカのインスピレーションとなったマーシフル・フェイトや新しい若きメタルバンド、アーティレリーと共有していたスタジオ施設の向かいにあったリハーサル室で。メタリカはこの部屋を使って、アルバムのレコーディング前に曲を書き、仕上げていった(実際にそのリハーサル室で作られたバラード曲「Fade To Black」のアレンジを含む)。

    しかしながら、メタリカがリハーサル室に行っていた時、マーシフル・フェイトはツアーで離れていた。その代わり、アーティレリーがメタリカを迎えることとなったのである。彼らはその当時、ヨーロッパで最も革新的なメタルバンドのひとつであり、革新・パワー・アグレッションにおいてメタリカと多くの点で合致していた。

    メタリカがリハーサル室の前を初めて通りがかった時、トストルプ(ブレンビュベスターの西部)の今どきの少年たちはリハーサルに忙しかった。アーティレリーのリードギタリスト、マイケル・ステュッツァー・ハンセンはこう振り返る。

    「彼らは静かに座って、俺たちのジャムを最後まで聴いていた。「さぁ、続けて続けて!」彼らはそう言っていた。信じられないくらい堅実でとてもポジティヴだった。彼らは音楽に対して本当に何か感じるものがあったんだ。俺たちのものでさえね。」


    マイケルはラーズの熱意、そしてデンマークのメタルシーンに関する知識について覚えている。「彼はデンマークのヘヴィメタルバンド全てをチェックしていて、Maltese Falcon(※1)とEvil(※2)ってバンドについて詳しく語っていたよ。どんなバンドも知っているんだ。82年以来リリースしてこなかった俺たちの『We Are The Dead』のデモテープのことまでラーズは知っていたからね!ラーズは俺たちのことをサクソンをファストにしたサウンドだと思っていた。」マイケルはそう付け加えた。

    ラーズとメタリカは70年代あるいはNWOBHMのヨーロッパのメタルサウンドをとりわけ好んでいた。そして今、バンドはヨーロッパで新しきヨーロッパのヘヴィメタルバンドと共にいる。さらには、メタリカが必要であれば、リハーサル室も機材もアンプも使える準備もできている。そして、メタリカが『Ride The Lightning』をレコーディングしている間、(アルバムのために)作曲を必要としているという理由だけではなく、作曲をしばしば行っていた。

    (後にキャンセルとなった)ボストンにあるチャンネルクラブでの1月のショーの前に、バンドは盗難にあった。盗まれたものの中にはラーズのドラムキットやジェイムズが『Kill 'Em All』で使っていた特別なギターが含まれていた。その晩、マサチューセッツ州では強烈な猛吹雪に見舞われており、そんな危険を冒してまで機材は盗まれた。ジェイムズが特に気に入っていたアンプを失ったことは、バンドのレコーディングにとって残された問題となっていた。それは時間、お金、そして終わりのない労力というコストとなっていたのだ。

    「アーティレリーとアージ(アージ・ジェンセン音楽店)からさまざまなアンプを借りなければならなかったし、それらを試すのには時間がかかったよ。7つぐらい違うマーシャルアンプがそこにはあった。」フレミング・ラスムッセンはそう振り返る。彼はラーズの(新しい)ドラムをスタジオの中の広くて何もない奥の部屋に置いていた。

    「ガツンとくるサウンドを得るためにね。」フレミングはそう説明する。「ラーズはちょっと訝しんでいたけど、私はレインボーのレコードもそういう風にしていたから。」

    ガツンとくるサウンドは『Ride The Lightning』の至るところで響いていた。メタリカがクリスマス前に書き上げた最初の4曲のデモは大部分のファンの心をすぐにとらえた。そう、「Fight Fire With Fire」は『Kill 'Em All』の収録曲に速度と重さの両輪を合わせた圧倒的なスピードと重量感だ。タイトルトラックの「Ride The Lightning」もそうだ。そしてインストゥルメンタルの長編曲「When Hell Freezes Over」(後に「The Call Of Ktulu」と改題。)はミドルテンポでしっかり構築されていた。最後は、最初の4曲の中でも後にバンドの定番曲となる「Creeping Death」だ。しかし最も保守的なファンたちは恐れるべきものをそこに見た。メタリカはバラードもレコーディングしていた。「Fade To Black」である。

    ラーズは新しいメタリカがどこに行こうとしているのかハッキリ分かっていた。

    「俺はあの音楽的変化は、それ自身とても妥当だったと思ってる。計画されたものじゃない。」ラーズはその当時、新曲についてそう考えていた。(K.J.ドートン著『Metallica Unbound: The Unofficial Biography』(1993年刊行)より)

    「『Kill 'Em All』全曲ほとんどは1982年の春に作られた。俺たちが音楽的にやってることは下手くそだった。それからたくさん学んできたんだ。そして俺たちは作詞作曲、ハーモニー、その他もろもろについて、以前の2人のメンバーよりもよく知っている2人がバンドに加入した。」

    ラーズ・ウルリッヒと彼のバンド、メタリカはすぐに自分たちの音楽について、とても気にするようになった。したがってフレミングがプロデューサーだけでなくサウンド・エンジニアとして、監修する以上にバンドを手助けできたことは重要だった。

    フレミング・ラスムッセン「彼らは音楽的にどこに行きたいのか、クレイジーでハッキリとした感覚を持っていた。彼らがやったことは実に新しいものだったんだ。それまでそのジャンルでは誰もやったことはなかった。少なくとも同じだけヘヴィにはね。彼らは「音楽プロデューサー」がやってきて、コントロールされすぎるということを恐れていたんだと思う。」

    フレミングはそうではなかった。彼はすぐにグループの5番目のメンバーとなり、監修者としてよく働き、スタジオにいるメタリカの4人のエネルギーによって、よりいっそうワイルドになった。

    「スタジオの他の人が彼らの楽曲を聴くと、彼らはこれまで聴いてきた中で最悪で最も酷いノイズだと思っていた。我々はただ駆けずり回り、手をとめることはできなかった。単純にめちゃくちゃクールだと思っていたからね!(笑)「こいつはクソだな、おい!」とみんなは言ったが、「こいつは最高だ」と私は言っていたよ。」

    『Ride The Lightning』のレコーディングは、フレミングがハッキリとメタリカと出会った日から数週間を共にした日々を覚えている通り、5歳年下のラーズとの長い交遊の始まりでもあった。

    「彼は全速力で走るただの子供だった。我々が一緒にすごいことをやっていると気づくのにそれほど時間はかからなかった。効果的なリズムと言葉をみつけて、本当にただ前進したんだ。」フレミングはそう語る。彼はラーズの自己認識や壮大な野望、ラーズが実際にできることと、まだできないこと、その間をどうバランスをとっていくのかもわかったのだ。

    「彼は学ぶことに間違いなく興奮していたよ。でも他のドラマーの音を聴いて、彼らが演奏したものについてよく考えていたのも明白だった。彼はフィルインとかそういうことに関しては最高によかった。でもフィルインとそれ以外の間でテンポを保つことは・・・彼は全くうまくいってなかったね。」フレミングはそう言って忌憚なく笑う。

    「彼は「For Whom The Bell Tolls」をクリックに合わせて叩いたんだ。最初は彼にとって本当に難しかったんだよ。彼はそんなことを以前に全くやったことなかったからね。まぁあの曲は本当に難しいってこともあるけど。」フレミングはそう補足した。彼は、どうあってもラーズを使いこなすというもうひとつの素晴らしい能力も備えていたのである。フレミング・ラスムッセン自身、昔はドラマーだったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    文中に出てきたデンマークのバンドについてはこちらを参照。

    ※1:Maltese Falcon
    http://www.metal-archives.com/bands/Maltese_Falcon/1597

    ※2:Evil
    http://www.metal-archives.com/bands/Evil/5242

    さすがにデンマーク語で書かれた伝記本だけあってデンマークに関するメタリカスポットは異常に詳しく描かれています。次回はレコード契約がらみの話です。続きはいましばらくお待ちください。

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    続きが気になっていた方、お待たせしました。ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第4章2回目です。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)メタリカにとってのキーパーソン、フレミング・ラスムッセンも登場します。有志英訳を管理人拙訳にて。

    - 次のステップ -

    知っての通り、良いビジネスマンは他のみんなより先にアイデアを考え出す。ニューヨーク市にあった大きな多国籍レコード・レーベル、エレクトラ・レコードのマイケル・アラゴの場合もそうだ。この若きマネージャーは1年前に雇われ、『Kill 'Em All』は発売以来、彼のターンテーブルでかかりっぱなしだった。アラゴは真新しくてスカッとするヘッドバンギングと共にみぞおちに一撃食らわされた、この異形でとても激しいメタルに病み付きになっていた。メタリカには投資する価値がある、メタリカが「唯一の」インディペンデントなバンドであると確かに気付いていた。しかしながら、彼は思い切ってアプローチして、強力な国際レーベルのエレクトラにメタリカがサインをする準備ができているとは感じなかった。この壮大なメタルガイたちは「ありふれた一般人」に向けて演奏してはいなかったし、ましてやたいてい次のデュラン・デュランやヒューマン・リーグを探しているようなメジャー・レーベル向けでもなかった。エレクトロ・ポップのヒットは多くの若者向けであったが、高速で急進的なヘヴィメタル・ヴァージョンはそうではなかったのだ。

    しかし、マイケル・アラゴはすぐに行動に移した。1984年の初頭にラーズに連絡を取ったのだ。『Kill 'Em All』でバンドにいくらかのお金が入ってきたおかげで、(メンバーの住む)メタリマンションには電話とテレビの両方が備え付けられていた。

    「私はメタリカが大好きであるということ、そして絶対にメタリカとサインを交わさなければならないということを彼に告げた。」アラゴは回想する。(クリス・クロッカー著『The Frayed Ends Of Metal』(1993刊行)より)

    この時、ラーズは自信をより深め、バンドを集めて東海岸へ出発した。ラーズはアラゴに、バンドが次にニューヨークに行く時に連絡を取るよう約束した。すでにラーズにはある見通しがあったのだ。(実際、メタリカ出演の全ライヴで、ラーズはいつだってそのような見通しを持っていた。)メタリカはニューヨークのクラブ、ローズランドで、良き仲間であり地元ニューヨークのバンド、アンスラックスとレイヴン(メタリカが現れる前まで、アラゴが契約を考えていたもうひとつのバンドである)と共に夏のあいだに一度、出演する予定だった。

    マイケル・アラゴは、メタリカがマンハッタンでライヴを行っている時に要点をもちろん伝えるつもりだった。しかし、メタリカには別の予定が先にやって来てしまった。ヨーロッパだ。ラーズは『Kill 'Em All』時代から確固たる前進をメタリカにもたらすであろう計画を携えていた。最初に『Kill 'Em All』でヨーロッパにメタリカが創り出した喧騒を受ける形でバンドのツアーを行う。それから次のアルバムに取り掛かる。そしてまた同じようにツアーをするのだ。

    1984年2月3日、メタリカは初のヨーロッパツアーをチューリッヒから開始した。ツアーは「Seven Dates Of Hell(地獄の7日間)」と呼ばれ、メタリカは、ダークで荒々しいブリティッシュ・ブラックメタルのパイオニアであり、草創期メタリカのインスピレーションの源でもあったヴェノムとライヴを行った。最後から2番目の「地獄の日」には、オランダのズヴォレで初めてフェスティバルに出演した。このフェスティバルはオランダのヘヴィメタル誌「Aardschok」(オランダ語で地震の意)によって企画されたものだった。同雑誌記者のメタル・マイクは『No Life Til Leather』のデモが出回り始めた時には、すでにメタリカを称賛していた。Aardschokショーは特別なものとなった。それは6000人の荒ぶるヘヴィメタルファンたちが、新しいヘヴィメタルのヒーローたちと同類のバンドを褒め称え、拍手を送ったことも、もちろんあるだろう。

    ベルギーで終えた「Seven Dates Of Hell」ツアーから数日経ち、メタリカはコペンハーゲンへと飛んだ。そこで、テキパキとコトを進めるラーズはアルバム・レコーディングを行うため、適切なプロデューサーとエンジニアのいる手頃なスタジオを予約した。おそらくコペンハーゲンで安く、あるいは無料で生活することだってできたはずだ。低予算はまだメタリカにとってのキーワードだった。モチベーションも熱意も夢もビジョンもあったが、金はなかった。

    しかしコペンハーゲンでのレコーディングに対するモチベーションは、コストをかけないようにするには程遠かった。レインボーのアルバム『Difficult To Cure(邦題:アイ・サレンダー)』(1981)でベテランギタリストのリッチー・ブラックモアが前面に出るプロダクションを、ラーズは「めちゃくちゃ良い」と思っていた。そのアルバムはディープ・パープルのベーシスト、ロジャー・グローヴァーによってアマー島にあるスウィート・サイレンス・スタジオでプロデュースされている。そこではフレミング・ラスムッセンという名の男がエンジニアとして働いていた。フレミングのエンジニア、プロデューサーとしての経歴は70年代にもっと大人しいアルバムのプロダクションですでに始まっていた。Savage Rose、Pia Raug、Rasmus Lyberth、Bifrostといったアーティストとともに。それから後、The SodsとLost Kidsのデンマーク初のパンクアルバム、そして前述したブラッツの1980年のデビューアルバムも手がけていた。

    フレミングのスタジオはStrandlods通り85番地(85 Strandlodsvej)にある、コペンハーゲン中心街よりもスウェーデン南部のスコーネ地方の方がよく見える場所にあった。とある日、スタジオの電話が鳴った。知っている依頼人だろうか?ラスムッセンは電話を取った。受話器の向こうから聴こえたのは、はるばるカルフォルニアからの熱心なデンマーク人の声だった。

    「ラーズは私がアルバムを制作することに興味があるかどうか、スタジオを使うのにいくらかかるのかを尋ねるために電話をしてきた。」とフレミングは回想する。「彼らはプロダクションの手助けもできるエンジニアを探していた。私がレインボーと一緒に仕事をしたのを聞いていて、良いものだと思っていた。」「私は当時、彼らが何者なのか全く知らなかった。『Kill 'Em All』でここらの多くの人たちも知っていたとは思えなかった。少なくとも『Ride The Lightning』の前までは。メタリカはまだ本当にハードコアなメタルファンのものだったんだ。私はその一員ではなかったし、それまでもその一員になったこともなかった。」

    しかしフレミングはラーズのようにディープ・パープルの昔からのファンであり、プロのプロデューサーであり、エンジニアであった。そして仕事ができると考えた。故に彼はこの一部デンマーク人のヘヴィメタルバンドをプロデュースするというオファーを受けたのだ。

    「彼らは前払いしてきた。我々は知りもしないバンドを一ヶ月前にブッキングしたんだ。そして彼らは海を越えてやってきた。」フレミングはそう付け加えた。彼にはバンドのデモテープと『Kill 'Em All』が送られた。

    「こりゃヒドいなと思ったのを覚えているよ。」フレミングは笑みを浮かべ、新しいタバコに火をつけてそう言った。「なぜなら・・・あんなにファストだなんてわかるかい?当時あれだけファストに演奏していた人はそう多くなかった。」

    一方、コペンハーゲンの別の地域ではケン・アンソニーがメタリカとそのスピードについて正反対のことを思っていた。ラーズとメタリカはケンのスピードを必要としていたのだ。

    ケン・アンソニー「ラーズが俺に電話をかけてきてこう言ったんだ。「コペンハーゲンのホテルを予約できないか?お金を持ってないから、一番安くて安くて安いところでお願い!」俺はあちこちに電話して空きをチェックしたんだけど、結局折り返しの電話で俺はこう言ったんだ。「あのさぁ、おまえら俺のアパートに引っ越せよ!俺はおまえらがいるあいだ、街で彼女と3、4週間住むからさ。そうすればおまえらも節約できるだろ。」そしたらもちろんあいつらはとっても喜んでいたよ。空港であいつらを拾って、俺のアパートに連れてきた。そしてこうさ。「ジャーン、ここがそのアパートだ!」あいつらは一文無しだったから、あいつらのための充分な食べ物があるか確認しなくちゃならなかった。」

    ケンは、後に有名なブレンビュベスターの居住者となる4人のことを話すとニッコリ笑った。

    「他の居住者たちはこう思ったろうね。「何だってこんなところに4人の男が住むんだ!?」バンドは日中はスタジオで演奏して、夜にアパートに帰ってきた。俺は何千ものヘヴィメタルのレコードと大量のホラー映画を持ってたから、あいつらは夜毎、ヘヴィメタルを聴き、ホラー映画を観ていたよ。俺の両親も同じ建物に住んでいたんだけど、アパートの一階に夜になると騒がしい若者がいると文句を言っていたよ。だから俺は様子を観に行かなくちゃならなかった。アパートはさながら戦場のようだったよ!さすがに俺も少しイラついたけど、あいつらときたらただこう応えるだけさ。「やぁ・・・すげぇなこれ・・・ロックしようぜ、ケン!」俺もそんなロックバンド生活が楽しいと思っていた。俺たちは時々出かけて、とても楽しい時間を過ごした。でもあいつらはレコード制作に忙しかったんだ。」

    ケンはニヤリと笑って自分のアパートを取り戻した日のことを話した。「俺がアパートに戻った時、母が掃除に来るほど散らかし放題だったよ。一番可笑しかったのは、母がバスタブを掃除した時だね。メタリカの各メンバーのズラが出来るほど排水口に髪が落ちていたんだ。クレイジーだったね。あと覚えているのは、コーヒーテーブルの上に数本抜き取られた1パックのビールとメモ書きが置いてあって、そこにはこうあった。「ありがとう、大変お世話になりました!」とね。」

    このアパートはブレンビュベスターのKirkebjerg通り113番地(113 Kirkebjerg Alle)にある。(ジェイムズはバンドのリードギタリストになぞらえて、「カーク」ebjerg通りと呼んでいた。)この場所はラーズにとって、音楽の師のもとにたくさん訪れたいい思い出しかない。

    「クソ最高なケンが自分のアパートに俺たちを泊めてくれたんだ。あそこで暮らしたのは本当に楽しかった。あれより3年前にはケンのファンとしてあそこに行っていたんだからね。そして今や彼のファンとしてではなかったが、自分の世界を確立して戻ってきたのさ。」ラーズはブレンビュベスターへのバンドの短い滞在についてこう語った。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    metallicadaddy_stor
    フレミング・ラスムッセン(2007年頃)

    ちなみに現在のスウィート・サイレンス・スタジオはメタリカがレコーディングしていた当時の場所にありません。文中のStrandlods通り85番地(85 Strandlodsvej)は以前スタジオがあった場所。現在、スタジオとしては使われていませんが、建物自体は残っているようです。
    sweetsilencestudio
    GoogleMapより

    以前のスタジオのホームページも残っています。
    http://www.sweet-silence.dk/

    現在のスウィート・サイレンス・スタジオのページはこちら。
    http://fwrproduction.com/FWR_Produktion/FWR.html

    Venomとの共演を果たしたAardschokのフェスについては、実際に行った方のこちらのページが詳しいです。チケットやポスター、Tシャツの画像が拝めます。(英語表記のみ)
    http://www.livemusicandstuff.com/1984-02-11-aardschokdag.html

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    更新ご無沙汰してます。
    今回は、昨年からご紹介してきたラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の続きを。ようやく第4章に入りました。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。

    Metallica

    1983年の晩夏から秋にかけて、メタリカはジョニーZの手がけるメタルバンドのひとつ、レイヴンと初めてのツアー「Kill 'Em All for One」を行った。予算は低く、1日1人当たり約5ドルの安ホテルに4人同じ部屋に入れられた。稀にたった100人しか現れなかったオクラホマで14,000席のアリーナが用意されたように余分にブッキングされた場所もあったが。ツアーは彼らのホームであるベイエリアの3つのコンサートで終えた。ツアーバスに『No Life 'Til Frisco』(「Hit The Lights」の歌詞やモーターヘッドの1981年の伝説的アルバムのタイトル『No Sleep 'Til Hammersmith』のもじり)とペイントされたツアーバスがバンドを奮起させた。

    「Kill Em All for One」ツアーの生活はメタリカの4人が夢見た生活であった。ツアーの真っ只中にいるということが、どんなに刺激的であるかがわかったのだ。ファンの家の棚にある『Kill Em All』によって、これまでよりも新しくソリッドなヘヴィ・メタルのムーブメントが高まっていた。ファンの小集団はメタリカをショーからショーへとアメリカ中を追いかけた。それからパーティー、酒、マリファナ、そしてバンドが大好きで淫らな若いレディーたちとお酒や一夜を共にしたりした。4人のバンドメンバーはホテルのベッドや酒、あるいは女性を分かち合うことを気にすることはなかった。

    最初のビールはショーの前の昼過ぎには開けられていた。メタリカは酔っ払っていたが、決してそんな姿を互いにステージには持ち込まなかった。1983年当時の他のバンドでは、これほどショーの前や真っ最中のビール何杯かで大きな違いが生まれるようなことのない、ヘヴィメタルで最もタイトでテクニカルなオーケストラにはなりえなかった。さらにセットリストは『Kill Em All』収録の悪魔のような曲のバリエーション、そしてセルジオ・レオーネ監督のウェスタンの名作『続・夕陽のガンマン』のために書かれたエンニオ・モリコーネの曲「The Ecstasy of Gold」という不変のイントロがテープで流されることによっていろんな対処が可能となった。

    メタリカは若く、騒々しく、エネルギーに満ちていた。恍惚の幸せな今を楽しむ怒涛のツアーで新しく激しい生活を送った。そんななかでもすでに、最初のアルバムとツアーでラーズはメタリカのビジネスマンとみなされていた。ビジネスマンには宣伝と広報、つまりマスコミ報道とファンとの永続的な関係が必要だった。バンドが始まった最初の日から、ラーズは最も熱狂的なファンとしての経験、メタルや自身のバンドであるメタリカへの初期衝動をプロジェクトに持ち込んできた。

    ラーズはメタリカの天性のスポークスマンだった。ファンからファンへ言葉を広げる時には話しぶりが特に重要だ。ラーズのモーターのような口は自由自在に走り回り、どのファンジンの記者も読者に届けるには充分すぎるほどの話を聞くことができた。アンダーグラウンド・シーンにおいてラーズの話したいという単純な欲望は、常に新しいサブカルチャーから始まる新しいバンドへの無関心という沈黙の壁をぶち壊す強烈な一撃となった。彼はアンダーグラウンドからどうにか全注目を浴びることができたのだ。俺たちにはラーズ・ウルリッヒとメタリカがいると。

    ラーズは魅力的かつ真っ直ぐに自身と自分のバンドについて熱心に話した。彼にも素晴らしい経歴があった。ラーズはステージ上にいる他の全てのバンドと同じくヘヴィメタルの大ファンであったが、メタリカは全メタル・シーンに火をつけ、音楽やバンドの美学に関するこれまでの基準や限界を変えようとしていたのだ。

    80年代中頃の新しいヘヴィメタルバンドがうねる大海のなかで、もしメタリカが新手の瞬間的な大波以上の存在となれば、ビジネスはうまくいくとラーズはわかっていた。この時、メタリカのビジネスは契約とジョニーZのブレイクさせる能力の下で行われていた。((訳注:ジリ貧だったため)「枯れ井戸」がメタリカや彼が手がけたその他のバンドから呼ばれていたジョニーZのあだ名だった。)独立系の販路を含め、アルバムの売上げも充分よかった。そしてメタリカの「Metal Up Your Ass」Tシャツ(限りなく美しい、便器から(訳注:剣が握られた)突き上げられた拳のデザイン)はファンのあいだで既にカルト的なアイテムとなっていた。しかし、多くのお金がプロモーションのツアーとアルバムのレコーディングに使われてしまったため、『Kill 'Em All』はメタリカやジョニーZと彼のクレイズド・マネージメントにとってすぐに金の卵とはならなかった。もちろん、この段階のバンドにとっては上々だったが、世界征服の遂行は言うまでもなく、さらなる拡大すらとてもポジティヴにとはいかなかった。

    ラーズ・ウルリッヒは完全にそれに気付いていた。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    まだ第4章の前置き感が否めない内容ですが、続きではメジャー・レーベルとの契約や『Ride The Lightning』の制作についての話が出てきます。続きはいましばらくお待ちください・・・。

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    スコット・イアン、メタリカのデイヴ・ムステイン解雇、カーク・ハメット加入の逸話を語る。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章完結編。有志英訳を管理人拙訳にて。前回予告どおり、デイヴ・ムステインの解雇、カーク・ハメットのメタリカ加入、そして『Kill 'Em All』のリリースまで。

    - レコード契約(後編) -

    言い伝えによれば、ジョニーZはすぐに店を飛び出し、電話ボックスをみつけて、この明らかに(どこのレコード会社の契約)サインのないバンドを探し始めた。さらに言い伝えによると、ジョニーZはそれからメタリカに興味を示していることを昔からの仲間でありファンジン編集者のロン・クインターナに伝えたという。ロンは、メタリマンションにいたラーズとバンドにその情報を提供した。そこにはギタリスト、マイケル・シェンカーのクールなポスターはあったが、ひとつの電話もなかったのだ。すばらしいことだが、メタリカの経歴の最も重要なこの部分のあまりにドラマ仕立てにされた説明でもある。少なくともラーズ・ウルリッヒはジョニーZが自分を造作もなく見つけたと振り返る。

    「俺たちはメタリマンションで電話を持っていた。でも電話代を払っていなかった期間だったかもしれないね(笑)通常、電話を持っていた時には、俺たちまでたどり着くのはそんなに不可能なことではなかった。」ラーズはそう語り、自分の考えるレコード契約への道のりについて続けて語る。

    「ジョニーZが電話してきた時、彼は2つのことに本当に熱心になっていた。(1つは)俺たちに東海岸でコンサートをさせたがっていた。そして、俺たちに東海岸でレコードを作らせたがっていた。俺たちはちょっとした旅行の準備くらいメチャクチャできていた。さらに俺たちが興味を持ったのは、彼の働きかけでヴェノムが4月にニューヨークでライヴをすることになりそうだってことだった。俺たちはヴェノムの大ファンだったからね。その当時俺たちはテープのトレードがうまくいきだして、東海岸からのファンメールも届き始めていた。だから俺たちはそこで始まろうとしていることにもう夢中になったよ。それにジョニーZは面白そうな人だったしね。俺たちがつかんだチャンスだった。俺たちは契約も何もなかったから。」

    メタリカにはお金はなかったが、大きな野心があった。『No Life Til Leather』が好評だったことと、とりわけジョニーZが野心を植えつけてくれたおかげで。選択肢はもはや明白だった。4月1日、バンドはUホールで車を借りて、アメリカ大陸の向こう側、もっと具体的に言えば、エルセリートのメタリマンションから4,726キロ離れたクイーンズにあるミュージック・ビルディングに向かった。

    ラーズ・ウルリッヒ「ジョニーZはいくらかお金を送ってくれた。ほんの少しのお金だったけど、Uホールで車を借りて自分たちの持ち物を突っ込むには充分だった。バンの後ろはたぶん5から6フィート(訳注:1.5〜1.8メートル)くらいあったかな。そこに自分たちの機材、スーツケース、安いマットレスを入れたんだ。全然豪華じゃなかったよ。ジェイムズとデイヴが前に座って運転して、クリフとマーク・ウィテカーと俺が後ろのマットレスの上でマーシャル・アンプとか俺のドラムセットに囲まれて、横になったり寝たりしていた。俺たちが出入りできたのは、誰かが後部ドアを開けた時だけだ。運転中、12時間暗闇の中で過ごした。唯一の明かりはクリフのライターだけだったね。そんな感じでサンフランシスコからニューヨークまでちょっと刺激的でハッピーな数日があったんだ。」

    ジェイムズ、ラーズ、クリフ、マークがバンドのトラブルメーカーにうんざりする日もあった。デイヴ・ムステインは自分が運転しなければならない時でさえ、かなり酔っ払っていた。酔っていると、雪だまりにバンを突っ込んだり、マークにケンカをふっかける時さえあった。

    ラーズ「西海岸から東海岸への旅で俺たちはデイヴ・ムステインの邪悪な面を見た。彼はあまりに予測不能で、あまりに飲酒その他もろもろ羽目を外しすぎたんで、おそらくそこで俺たちが決めたんだと思う。ジョニーZに会ったその日に、たしか俺はジョニーに、バンドあるいはバンドのうちたった一人のメンバーが東海岸に戻る交通費を払ってもらわないといけないと伝えなければならなかった。俺たちはデイヴをクビにしなくちゃいけないかもと考えていたからね。」

    もうひとつの「実務上の問題」もあった。ザズーラ夫妻は既に彼らの2人の子どもと共にいくつかのバンドにスペースを占有されていた。メタリカはミュージック・ビルディングに引越し、地元ニューヨークのバンド、アンスラックスとリハーサル室を共有した。彼らとメタリカはすぐに友だちになった。アンスラックスはこの貧乏なメタルバンドをヒーター、冷蔵庫、ある時は少しの食べ物によって手助けした。ミュージック・ビルディングの地区に出回っていた麻薬はバンドにとって大きな関心を寄せるものにはならなかった。

    彼らのヘヴィメタルの野心は、明らかに低予算の宿泊施設に基づいていた。特にヘレルプとその他の世界に慣れていた若者にとっては。しかしミュージック・ビルディングの半ば哀れな生活はラーズと今や有望株の彼のバンドにとって最も差し迫った問題ではなかった。日曜の夜、ヴァンデンバーグとザ・ロッズのサポートで行われたバンドのショーの後、バンドにおけるムステインの将来はもはや論議することではなくなった。手に負えないデイヴを追い払わなければならなかったのだ。しかしそれを誰が彼に告げるのか?次の日の朝、バンドはジェイムズをその役に選んだ。ジェイムズは寝ているデイヴの肩をつつき、手厳しい言葉で起こした。「俺たちは決めたんだ・・・おまえはもうこのバンドの人間じゃない!」西に向かうグレイハウンズの始発バスが出発する2時間前だった。長い別れへの理由は何もなかった。彼らは全員先へ進んだのだ。

    ラーズはこの悲しくも必要だったエピソードについて説明する。「時おり彼はちょっと羽目を外すことがあった。(そんな状態で)彼が予測もできなかったことに直面したらどうなっちまうんだろう?ってね。それで俺たちは彼を早朝に起こして、サンフランシスコ行きのグレイハウンドのバスにできるだけ早く乗せた方がいいと決めたんだ。彼が何が起きようとしているのか完全に理解する前にね。それで彼はバンドから放り出されて、4時間のフライトの代わりにあの忌まわしいバスで3日間不機嫌に過ごさなければならなかった。でも当時、俺たちには(航空)チケットを買うお金がなかったんだ。俺はデイヴと一番仲が良かったし、おそらく彼と一番緊密な友情関係があったと思う。だから俺にとって彼にそんなことを告げるのはあまりに難しいことだと思っていた。クリフはまだ新メンバーでバンドに来て5、6週間しか経っていなかった。だから俺たちが言わなくちゃいけないことを言う資格はなかった。そうしてジェイムズが担当者として選ばれた。でも俺たちはみんなジェイムズと一緒にいたんだ。ジェイムズ一人でやることじゃないからね。」

    しかしながら、ラーズ、ジェイムズ、クリフ、そしてマークにとって悲しい状況だった。とりわけ、その経験と紛れもないギターの才能によって確かな成果をバンドに持ち込んでくれたデイヴと1年以上過ごしたラーズとジェイムズにとっては。創造性とユーモアで満たされたギャングな日々はそう多くなかった。全員マンハッタンの観光に行き、変わっていったメンバー編成のなかでも飲み続けていた物、ウォッカを飲んで酔っ払った。

    しかしメタリカは運を持っていた。タイミングが良かったのだ。バンドが優先したギタリストの選択肢、カーク・ハメットはチャンスをつかむ準備ができていた。エクソダスにいた彼の人生も悪くなかったが、メタリカと共にアルバムをレコーディングするためニューヨークに飛ぶことを考えた彼は完璧なキャリアアップを果たした。カークはデイヴが去った同じ日の夜に到着した。ミュージック・ビルディングで行われたカークのオーディションはほとんど形式的なものだった。これより数週間前にラーズとジェイムズはカークが『No Life Til Leather』デモを手にできるよう適切に手配した。彼らはカークの特質や音楽の好み、そしてギター・プレイはメタリカの相性や展望によく合っていると確信していた。そして彼らは正しかった。

    「カークは彼のギターとマーシャルのアンプと共にやってきた。デイヴを追い出した日と同じ日に彼とジャム・セッションをしたんだ。俺たちがやった最初の曲は「Seek And Destroy」だった。ソロの途中でジェイムズと俺は互いを見て同時にうなずいたよ。そうやって(オーディションが)行われたのさ。俺たちがムステインを追い出した時、カークはバンドにいなかった。彼は間違いなく最初の選択肢だったんだ。俺たちはそれがうまくいくとかなり自信を持っていたよ。でも月曜日の夜のジャム以前は彼はバンドにいなかった。そこで俺たちは互いに親指を立てて(OKサインを出して)彼にバンドに加わるか尋ねたんだ。」そうラーズは付け加えた。

    カーク・ハメットのジャム・セッションのデビューは最高だった。1週間しないうちに彼はニュージャージー州のドーバーでメタリカとしてのステージ・デビューを果たす。

    カークもメンバー編成の中でサンフランシスコ出身だ(カリフォルニア州サンフランシスコ出身1962年11月18日生まれ)。彼は悪名高いヘイトアシュベリー地区でヒッピー生活を送っている年上の親族と共に育った。そしてその期間にジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、そしてグレイトフル・デッドのような音楽のビッグネームと出会った。15歳でカークはギターを弾き始め、そこで70年代のシン・リジィ、キッス、UFOのようなハードロックバンドに自らのアイデンティティーを見つけた。後にカークはセックス・ピストルズや暴力的なパンクに夢中になった。しかし同時に名手ジョー・サトリアーニを師にもっていた。そこでカークはメロディー、テクニック、スピード、そして攻撃性のあいだの完璧な共生関係を有効に探すことができた。1981年、カークは初めてのバンド、レジェンド(Legend)を結成する。これは後にエクソダスとなった。

    ジェイムズのように、カークは離婚した家庭の生まれだ。カークの父親は飲んだくれだった。そして、しばしばカークとカークの母親を殴っていた。16歳の誕生日、彼が父親からもらったのは尻に大量に見舞われた蹴りだけだった。カークの父はその後すぐに家からいなくなった。そして母親がカークと彼の妹を育てるためにしっかり奮闘しなければならなかった。彼が10歳の時、カークは隣人に性的虐待を受けた。したがってギターを弾くことはカークにとって間違いなく癒しとなった。トラウマとなった全ての体験は彼を攻撃的で激しいヘヴィメタルの上に立つ怒りへと向かわせた。

    メタリカは最初のアルバムのための大部分の曲を『No Life Til Leather』の曲に基にして書いていた。ついにミュージック・ビルディングで、来たるべき東海岸でのバンドのギグのためにバンドの曲をたくさんリハーサルする時が来たのだ。一方、ジョニーZはレコーディングに使えるスタジオをみつけた。ジョーイ・ディマイオというジョニーZが担当するニューヨークのバンド、マノウォーのベーシストがジョージ・イーストマンのコダック社でよく知られるカナダ国境近くのニューヨーク州ロチェスターにあるスタジオを薦めてきた。そのスタジオは「ミュージック・アメリカ」と呼ばれるマンハッタンのとても(使用料の)高いスタジオ以外の地元のスタジオよりもさらにずっと安かった。ミュージック・アメリカの2階にある大きなホールはラーズのドラムの音に完璧に合っていた。なぜなら「ラーズは不明瞭なドラムの音を出していた」からだとジョニーZは彼を見ていてそう打ち明けた。

    若く熱心なメタルファンがホールでドラムを叩いている間、ジョニーZはニュージャージー州の家に戻って予算に対処するよう頼まれた。ミュージック・アメリカとそのオーナーであり、プロデューサーのポール・カーシオ(に払う金額)はニューヨーク価格からすれば安かったが、全てがそれほど安いわけではなかった。メタリカは5月末まで6週間アルバムをレコーディングした。そしてホームのロック天国で得たレコード売上げから超過金をロチェスターのアルバム制作陣に渡した。ザズーラはこのバンドに本当に一か八か賭けたのだ。しかし、アルバムのセールに関して誤算していた。タレント・スカウトやあらゆる種類のレコード会社にいるA&Rの人々との数え切れないほどのミーティングは何の実りのなく終わった。ジョニーZが身銭を切ってメタリカのアルバムを出さなければならないことが明白となったのだ。

    自身のレコード・レーベルの設立は、ジョニーZの膨大な計画においてこれまでやってこなかったところだった。だが、もはや引き返せない。彼は「この1つのアルバムのために」Megaforceを始めたのだ。ジョニーZ、そしてラーズと彼のバンドにとって幸いなことに、Megaforce Recordsは2つの善意あるディストリビューターと接触した。アメリカのRelativityとニュー・ブリティッシュ・ヘヴィメタル会社、Music For Nationsだ。この会社はニューヨークのバンド、ヴァージン・スティールのリリースでその前の年に始まったレーベルだった。しかし前者は、せっかちな若者がロチェスターでエネルギーをぶちまけた後に思いついたアルバムのタイトルに問題を抱えていた。そのタイトルは『Metal Up Your Ass』だ。

    最初は仮タイトルだったが、バンドは最終的に選んだタイトルとして、もはや本気になっていた。彼らは断固として譲らなかったが、ラーズと彼のバンド、メタリカに音楽業界の本当の状況について少し学ぶ時が来た。メッセージは明らかだった。どうあってもタイトルを『Metal Up Your Ass』することも、提案された妥協案『M.U.Y.A』やその他頼んでもないのに送りつけられた提案に乗ることもできなかった。怒ったクリフは制約を課してくるディストリビューターに対する感情を露にした。「あいつら全員殺っちまえ・・・とにかく殺っちまえ」

    それがタイトルになった。『Kill 'Em All』だ。

    『Kill 'Em All』は7月に発売された。ジェイムズ・ヘットフィールドによってデザインされたバンド・ロゴと無検閲の一節「Metal Up Your Ass」とともに。アルバムは9曲から成り(『No Life 'Til Leather』からさらに発展した6曲を含む)、クリフのソリッドなベースソロも収録されていた。リフを基調としたヘヴィメタルの速い曲が次から次へと繰り出され、使える場所があればすぐにテンポの変化や燃えるようなソロが差し込まれ、メタリカがアメリカのシーンから無視されていると感じてきたヘヴィメタルへの愛の大々的な声明を抒情詩調の領域でもって表現していた。

    全世界的にラーズとメタリカと同じ意見を持った人々がいた。2週間以内で『Kill Em All』は20,000枚近く売れた。それは独立系レーベルのリリースでは全く聞いたことのない数字だった。

    「それまで書いてきた最初の9曲をこのアルバムに使った。次のアルバムでは次にできた9曲を使う。そしてその次も・・・ってね。それがメタリカの世界征服計画なんだ。」とは、ものすごい熱意とものすごく若く陽気な、ほとんど絶え間なくメタリカについて話していそうなラーズの言だ。

    ラーズは明らかに正しかった。そのウィットに富んだ「世界征服」という言葉は。そのうち、曲やレコーディング、メディアやレコード会社とのミーティング、リハーサル、スタジオ(数ヶ月、それから数年)、家からの電話やファックス(時おり)、バンクーバーや全世界へのロードにおける、世界征服への戦いはそう容易くはなくなった。

    しかし、ラーズは全ての準備ができていた。重要な利点である疲れを知らない献身と固い決心を彼は持っていた。最も重要なのは、彼は1983年夏、ついに完全なバンドを持ったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    dave-and-kirk
    メタリカ時代のデイヴ・ムステインとエクソダス時代のカーク・ハメット

    ラーズの認識と裏腹に、カークはこの時点でハッキリと正式メンバーと言われたわけではなかったようで、しばらく自分が正式メンバーなのか助っ人なのかわからなかったそうです(苦笑)

    女手ひとつでカークを育てたお母さんとは今年(2014年)2月のFearFestEvilにいらしていてお会いすることができたのですが、非常にパワフルで可愛らしい方で「この方があのカークを生み育てたのかぁ、なるほど。」と妙に納得したのを覚えています。

    そしてデイヴ・ムステインの解雇については、スコット・イアンが自叙伝で語っているところがあるので、後日紹介します。

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    メタリカ活動初期写真集「The Club Dayz 1982-1984」届きました。

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章5回目。有志英訳を管理人拙訳にて。クリフ・バートンの紹介から、メタリカにさらなる変化をもたらす2人、カーク・ハメットとジョニーZが登場します。

    - レコード契約(前編) -

    ラーズはクリスマスの19歳の誕生日を祝った。1983年2月中旬、ただの子供だった彼がようやく永久的に実家を出た。そして気が付くと自分が今、すごい集団にいたのだ。彼らは静かな通りの小さな家、具体的に言うとバークレー大学から北のエルセリートにあるカールソン大通り3132番地の新しい家を「メタリマンション(The Metallimansion)」と名づけた。(この地域はデッド・ケネディーズが先頭切った目まぐるしいイーストベイのアンダーグラウンド・パンク・シーンの本拠地でもあった。)

    彼らがリハーサルをしたこの家のガレージはカーペットと卵トレーで敷き詰められ、壁にはモーターヘッドやその他何百ものメタルバンドのポスターが飾られた。ツボルグのプレートがドアの反対側にあるリビングに置かれ、その部屋はバンドのパーティールームとなった。

    メタリマンションでは絶え間なく、リハーサル、ジャム・セッション、パーティー、飲酒、そして曲作りが行われていた。クリフ・バートンが入ったメタリカはもはや各々が自分の創造的なアイデアを持つ4人で成るバンドとなった。クリフはその基礎的な音楽のバックグラウンド、音楽理論、ハーモニーに関する知識によってバンドに大いに貢献した。

    ラーズがポテトチップスを食べながら(訳注:デンマークの)ブレンビュベスターでNWOBHMのレコードを聴いていた頃、またイギリスのパンク革命が世界中のヘッドライナーをかっさらっていた頃、16歳の学生、ベーシストのクリフ・バートン(1962年2月10日、カリフォルニア州カストロバレーにて、高速道路の建築士レイと教師であり教育者のジャンとの間に生まれる。)は音楽教師スティーヴ・ドハーティーによってクラシックからジャズまでありとあらゆる音楽スタイルを仕込まれた。寡黙だが親切で優しいクリフは高校で3つの音楽の授業に現れた時にはいつも耳を研ぎ澄ませ、予習をしっかりしてきた。そしてカストロバレー高校を1980年に卒業した。おそらく、この若き音楽フリークの最も特筆すべきことは地元の電動装置機器のレンタル店、カストロバレーレンタルズで働いていた頃の話だろう。カストロバレーレンタルでクリフは最も若い従業員で、長髪だったことから、同僚からもたくさん苦情を受けていた。彼らはクリフを怒らせることは一度もなかった。ただ笑って「いつかアイツはあの長髪でもって金儲けするだろうさ。」と答えていた。

    クリフはミュージシャンを志し、前述したバンド、トラウマに高校卒業後すぐに加入した。高校ですでにクリフはEZストリートというバンドにいた。そのバンドには(後にフェイス・ノー・モアとなる)ギタリストのジム・マーティン、(後にフェイス・ノー・モア、オジー・オズボーン・バンド、さらに再結成ブラック・サバスに参加する)ドラマー、マイク・ボーディンがいた。EZストリートはレッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ローリング・ストーンズのカバーに加えて、自分たちが試作した曲を弾いていた。

    彼らの出会いは1978年。ジム・マーティンは音楽的にも社会的にもクリフの最も重要な知り合いのひとりだった。ドラマー、デイヴ・ドナートと共にマックスウェル・ランチと呼ばれていたサンフランシスコのダウンタウンにある空家に集まってよくジャム・セッションをしていた。3人の少年にとってその場所はビールも飲めてマリファナをキメて長い時間ジャム・セッションをできる楽しい安息の地であった。

    クリフの人生にはたくさんの音楽が存在していたが、ホラー・パンク・バンドのミスフィッツほど彼を深く感動させた音楽はなかった。クリフの腕には彼らのロゴのタトゥーが彫られていた。彼は車に乗ると自作のミスフィッツのテープを流してはいつも狂ったようにハンドルを叩いて叫んで運転中でもヘッドバンギングをしていた。もちろん彼はロック、パンク、メタルが大好きだったが、ウェザー・リポートのベーシスト、ジャコ・パストリアスも大好きだった。そして「バッハは神だ」と考えていた。(クラシックの作曲家のことであり、メタリカと同年代のスキッド・ロウのクレイジーなフロントマン(訳注:セバスチャン・バック、スペルが一緒)のことではない。)クリフは20年代から30年代にかけてホラー小説のシリーズを書いた小説家、H.P.ラブクラフトのファンでもあった。そのような文学から得たものは初期の何曲かにハッキリと見受けられる。

    人としてミュージシャンとして、クリフはまさしくラーズとジェイムズが探し求めていた人物だった。この新しいメンバー編成でメタリカは1983年3月5日と19日の2回、ストーンで凱旋公演を行った。2回目の公演はメタリカが撮影された初めてのビデオによって不朽の名声をメタリカに与えることとなった。

    しかし依然としてバンドには問題が浮上していた。デイヴ・ムステインである。彼は、公演中のギターソロ、ステージ上でのほとんどのMCを負っていた。飲酒の時においても彼はリーダーだった。もちろんバンドで飲むことはよくあることだったが、ムステインは度を越えていた。彼は他のみんなが機嫌がいい時は典型的な暴力男になった。そしてしばしばジェイムズと音楽的な意見の不一致というより個人的な理由によって争っていた。

    3月のある夜、ラーズはジェイムズとマーク・ウィテカーと話し合いをしていた。マークが持ってきたエクソダスの最新デモテープをメタリマンションでよく使っていたカセットプレーヤーに入れて。エクソダスは何回かメタリカの前座を務めており、ラーズとジェイムズは彼らのことをよく知っていた。その会話の間、ラーズの鍛え抜かれたメタルな耳が突然、エクスダスの速くてアグレッシヴなメタルのリズムにタイミングよく織り挟まれたギターソロを捉えた。彼の関心はプレーヤーの中にあるデモテープへとすぐに移っていった。ラーズとジェイムズは同意したのだ。このギタリスト、カーク・ハメットは速くてアグレッシヴなヘヴィメタルにおいて何か特別なものを持っている、こいつがメタリカでプレイすると。

    「このカーク・ハメットってヤツが何かを持っているってことは明らかだった。」ラーズはそう振り返る。「本当にクールでメロディックなギタープレイでシェンカーやUFOみたいだった。彼はとても頼りがいがあると思えた。否定的なものは何もなかった。」

    しかし、カークがラーズとジェイムズと出会い、メタリカに加入するまでには、もう数ヶ月要することになる。

    デイヴ・ムステインは何も知らなかった。しかしメタリカは間違いなく、もうひとつのメンバー交代への道を歩んでいた。

    しかし、ラーズの慎重かつ意欲的な『No Life 'Til Leather』の流通後、バンドはアンダーグラウンドのメタル・シーンでどうだったのだろうか?

    デンマーク本国のメタルレコード店で、ケン・アンソニーは若きヘヴィメタルの子分が今や「彼のバンド」メタリカにいることにニヤリと笑う。メタルショップの仕事に加え、ケン・アンソニー自身も活動的だった。ミュージシャンとしてではなかったが、若いデンマークのメタルバンド、プリティ・メイズや前述したブラッツやマーシフル・フェイトやその他のバンドのマネージャーとして。ケンは自分の担当するバンドのデモテープをレコード会社に配って、その多くを実際にレコード会社の契約までこぎつけていた。したがって彼はヘヴィメタル界の多くの知識としっかりとしたネットワークを築いていたのだ。しかし、ケンはどうやってもメタリカの将来性を持ってして自分が商業的に関与してお金をどうこうすることはできないことを知っていた。その代わり彼は当時デンマークで一番大物のヘヴィメタル・プロモーター、エリック・トムセンに連絡をした。

    「俺は彼にデンマーク人のいるアメリカのバンドでこれからビッグになるバンドがあるから気を付けないといけないよって言ったんだ。でもエリックはそれを信じなかった。」ケンはそう振り返る。

    その代わり、デモテープはニューヨーク市郊外に住む元証券仲買人の注意をひいた。彼の名前はジョニー・ザズーラ。ジョニー・ザズーラ(ジョニーZとしてよく知られている)と長年連れ添った妻マーシャはウォール街の競争に飽き飽きし、個人的に充実したもっとゆったりとした実りある人生に専念したいと思ったのだ。夫妻はニュージャージー州東ブランズウィック国道18号線のインドア・マーケットにあったレコード店で取引をした。そこで2人のベテランの音楽ファンは店の隅っこで自身の店を開くことを許可された。ジョニーZは自分でも音楽を演奏していたし、マーシャは素晴らしいレコードのコレクションを持っていた。2人とも60年代の大きなロック革命の間に青春を迎えていた。そしてドアーズ、グレイトフル・デッド、MC5のような草分け的なロックバンドやチック・コリア、ジョージ・ベンソンのようなジャズ・アーティストのファンだった。まもなくザズーラ夫妻の音楽的嗜好は変わっていき、もっとヘヴィな方向へと向かっていった。

    夫妻は棚にあった180ドル相当のLPレコードから始めた。しかし7ヵ月後には仕事で80,000ドル相当のレコードになっていた。いまや「ロック天国」として知られるようになった。誰もが全国で買えるようなメインストリームのレコードに集中する代わりに、ザズーラ夫妻はヘヴィメタル、とりわけヨーロッパのものに集中することを選んだ。ロック天国はこのようにしてすぐに音楽を買いに行く場所もない、あるいはたむろしたり情報を得たり他のファンと会う場所もない何百もの若いメタルファンからヘヴィメタル天国として知られるようになった。元証券仲買人は東海岸のヘヴィメタル文化を引っ張る成果を確立したのだ。

    反旗を翻す生々しいメタル音楽に対する夫妻の企業家精神と興味は徐々に膨らんでいき、彼らは新しい考えを思い浮かべた。まもなくジョニーZはニュージャージーからマンハッタン、ブルックリンまでのメタル・ショーの出演契約交渉担当者としても知られるようになった。ジョニーの熱意は、音楽の自己出版の可能性についてさえ話したようにメタルバンドのマネージャーさえも始めたかもしれない。

    しかしながら、レコード店は依然としてあった。最新アルバムを買いに来るファンは、居心地の良い雰囲気の中たむろしたり、ヘヴィメタルを聴いてシーンの最新情報を共有することが大好きだった。ある午後、その客のうちの一人が店にテープを携えてやってきた。おそらくそのファンはカリフォルニアまでの旅の間にテープを買ったのだろう。その音楽は目を見張るほど素晴らしいから、ザズーラのロック天国でこのテープを流さないといけないと思ったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    cliff_kirk
    クリフ・バートンとカーク・ハメット

    次々とメタリカのステップに関わる人物が登場してきて、それぞれの点がつながって線になっていく展開。次回はデイヴ解雇、カーク加入、そして『Kill 'Em All』のリリースまで。

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