メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

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    ハフィントンポストでのインタビューにて、ロバート・トゥルージロが新人アーティストへのアドバイスを求められて回答していました。管理人拙訳にて抜粋してご紹介。

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    −ロバート、新人アーティストのために何かアドバイスはありますか?

    俺にとって、俺が若い人たちに伝える最も大事なことは、楽しむってことだね。昔の音楽業界では、バンドたちが数百万ドルのレコード契約を獲得していた。それは大きなことだった。「俺たちはレコード契約を獲得したぞ!レコード契約だ!」それはもはや音楽を作り楽しむということではないんだ。息子は11歳で素晴らしいベーシストで本当にすごい作曲家だ。彼の書くベースラインやリフときたら「おぉ、俺もそんなのを書けたらいいのに」って感じさ。自力でそういうものを考え出すんだ。でもジャコ・パストリアスだけでなく、マイルス・デイヴィス、ブラック・サバス、レッド・ツェッペリンといったアーティストにも影響を受けているね。俺たちはクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジやトゥールみたいなバンドも聴いている。彼はファンクが大好きなんだ。ジェイムズ・ブラウンが大好きで、彼は11歳でまだ若いけど、こういう様々な音楽を吸収し、受け入れることは、彼がバンドや書いている曲で創造的になる手助けになっていると言えるね。

    楽しんですべてを吸収することからスタートすると、こういった過去の音楽への旅に出るんだ。そういったものの多くはもはや存在していないからね。みんなそういったものをもう書いていないんだ。ジャズでも同じことさ。今や俺たちは多くの音楽的アイコンを喪っている。彼らはみんなそういう年齢なんだ。考えたくもないけど、時代の経過によって俺たちはあらゆる世代にとって極めて重要で創造的な人を亡くしている。ルー・リードのようにね。俺たちはルー・リードを喪い、BBキングを喪った。そういうことが今起き始めている。こういう創造的でエネルギッシュな多くの人たちにとって健康が課題になってきている。だから俺はいつも、子供たちが音楽を受け入れ、それを自分たちがやるものに取り入れて、創造的であることを祝福しているかを見ているよ。

    だからこそもう一度言うけど、楽しむことは最も大事なことなんだ。お金儲けのために音楽を作らないでほしい。そうすべきでないことだから。楽しんで、創造的でいて、過去を受け入れることだね。それがいいと思う。俺は多くのものを見てきたから。音楽の世界で、何か特定の名前を挙げたくはないけど、多くのバンドが全く異なるレベルの光景を見るようになると、こういう転換期を迎えるのを見てきた。「何でこんなに楽しんでいるんだ?」ってね。だからモーターヘッドのレミーみたいな人が大好きなんだ。彼はジョニ・ミッチェルと同じようにオリジナルな人だと思う。彼らが作る音楽はいまだにすごい純粋だし、真っ正直だ。そういうところに敬意を表するよ。
    今の時代じゃ楽器を手にしていなくても、実際に物理的に演奏したり、弦を指で弾いたりしなくとも、多くの異なる方向に影響を与えられる。この頃じゃ、ボタンを押して、グルーヴやドラムビートを得られるし、それほど演奏をする必要はない。恐ろしいね。若い人たちはモーターヘッドのレミーみたいなアーティストを信奉するだけじゃなく、いろんなスタイルに対してオープンになるべきだね。ジャコも映画の中でそんなこと言っているよ。すべてを愛しなさいとね。彼はカントリーバンドでもプレイしていたし、ファンク、R&B、ロックンロールだ大好きだった。そういったことが俺にとってすべてを物語っているんだ。それこそが俺が今考えていることだからね。

    俺はメタリカでプレイしているし、メタリカを楽しんでいる。俺が言えるのは、俺は地球で最も幸運な男だってことだ。俺たちは楽しい時間を過ごせているし幸せだから。10代の時みたいに自分のギターを手にすると、お楽しみの時間さ。俺たちは本当にやっていることを楽しんでいる。それが一番なんだ。でもそれと同時に、メタリカで何かやっているとき以外は、他の友人たちとファンク・ベースでジャムをしに行くかもしれないね。俺は音楽をプレイするのがただ大好きなんだ。本物の音楽をね。機械じゃなく。最近、ブルックス・ワッカーマンとア−マンド・サバル・レッコとジャムったよ。俺たちはグルーヴを披露しあった。あれはすごかったよ。一緒にプレイできた体験を祝福して、一緒に創造の波に乗るのを楽しむことだ。何物にも代えがたいことからね。


    The Huffington Post(2016-01-05)
    そんなロバートは3月12日・13日の2日間、ロンドンで行われる「London Bass Guitar Show」にMASS MENTALのメンバーとともに出演予定とのこと。
    http://www.londonbassguitarshow.com/news-2/metallicas-robert-trujillo-to-perform-on-both-days-at-lbgs-2016/

    ちなみにインタビュー中にも出てきたロバートの息子、タイ(Tye)君。彼がベースをつとめるバンド、ザ・ヘルメッツ(The Helmets)はチリで行われたロラパルーザのステージも踏むなど積極的な活動をしています。

    helmets_03

    下で紹介している動画ではカバー曲を演っていますが、オリジナルの曲も披露する日も近そうです。

    Mountain Song (Jane's Addiction Cover)


    Seven Nation Army (The White Stripes Cover)


    Enter Sandman (Metallica Cover)


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    前回の続き、ホラー映画関連のコレクターとしての顔を持つカーク・ハメットをインタビューした記事の後半を管理人拙訳にて。

    hammett_monsters_kids

    家では、ハメットは友だちや従兄弟とモンスターで遊んでいた。彼のお気に入りのおもちゃはオーロラ社のモンスターモデルだった。暗闇で光る「Frightening Lightning」シリーズが出ると、彼は買い求めた。本の中でハメットは、初めて買ったのはフランケンシュタインの怪物だと語っている。彼は出来るだけ映画に近づけようと塗装を施した。次から次へとモデルを買い込み、彼が早めに寝ようとすると、光るクリーチャー・コレクションを凝視できるほどだった。しかし、彼は自分のモンスターモデルが大好きだったのと同じくらい、それらをぶち壊すことも大好きだったのである。

    「こういうことをするのは俺だけじゃないってことはわかっていたんだ。」ハメットは振り返る。「お風呂に入ろうとして、消毒用アルコールをみつけては、モンスターモデルにそいつをふりかけて、火を点けるんだ。モンスターの手にはテープで爆竹を括りつけて、火がついたら、爆発さ。火の点いた爆竹と一緒に屋根に投げ込んだり、手作りのパチンコで宙に舞わせたりしたこともあった。考えうるものは何でも、あのモンスターモデルにしでかしていたんだ。大はしゃぎさ。結果として、俺はモンスターモデルを全部ひとつずつ買っていたし、少なくとも7、8回以上は買っていた。組み立てて塗装するのも大好きだからね。キャラクターは大好きだったし、それをぶっ壊すのも大好きだった。一番のお気に入りはオペラ座の怪人だね。片腕を挙げて、手にマスクを持っているポーズなんだ。彼からマスクを取り上げて、そこに爆竹を持たせるのさ。俺たちはなるたけ破壊的になろうとしていたのさ。」

    ハメットが12歳の時、家族はサンフランシスコから20マイル離れたベイエリア、カリフォルニア州リッチモンドの隣にある小さな郊外の町、エル・ソルブランテに引っ越した。「全く突然のことで、俺は都市に住むっていう資質を持ち合わせていなかった。一番近いコミック本の店は少なくともバスで1時間半かかるバークレーにあった。だから俺のコミック本集めには大打撃だったよ。俺は模型のロケットを作ったり、音楽を聴いたりし始めた。」

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    メタリカとしてライヴに臨むハメットはユニバーサルの1930年代モンスター映画の希少なポスターを元にした4つのESPギターを弾いている。「The Mummy」ギターが一番人気だ。(サンフランシスコ国際空港ミュージアム写真提供)

    10代前半で、ハメットはレッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、シン・リジィ、クリーム、ZZトップ、レイナード・スキナード、サンタナ、ブラック・サバスといったレコードを集めるのに執心の向き先を変えた。ある夏、彼は地元の映画館でジミ・ヘンドリックスのドキュメンタリーを見て、永遠に彼の人生を変えることとなった。15歳の誕生日の1ヶ月前に、初めてのギターを買い、1979年に16歳でベイエリアで急成長するスラッシュメタル・ムーブメントのなかで最も影響力のあるバンドのひとつ、エクソダスを結成した。

    メタリカがリードギタリストのデイヴ・ムステイン(その後メガデスを結成することとなった)を1983年に解雇すると、他のメンバーたちはデビューアルバム『Kill 'Em All』のレコーディングのためにバンドに加入してもらおうと20歳のハメットを誘った。本の中でハメットは、とりわけ彼と同じくらいホラー映画、ビクトリア朝のホラー作家H.P.ラヴクラフトが大好きだったメタリカのベーシスト、故クリフ・バートンと親密になったと語る。そしてバンド全員でアルバム制作中にドライブインシアターで『死霊のはらわた(原題:The Evil Dead)』を観に行った。

    「14歳から始まったんだ。俺は音楽に熱中した。ギターを弾いていない時はリハーサルに行っていた。リハーサルでもなく、ギターを弾いてもいない時はライヴをやっていた。その3つともやっていない時は旅をしていた。それはホラー映画への興味より人生の優先順位で上にあったんだ。でもまだ空き時間にはホラー映画を観に行っていたよ。あちこちでコミック本やモンスターマガジンをひっつかんでいた。16歳の時にホラー映画のファンジン「Fangoria」が出たら、読み始めていたし。音楽に深く入り込んでいった時でさえね。白が黒になるような変化じゃなかった。俺はまだこのジャンルに足を洗っていなかったんだ。でも以前ほどは多くの時間をそこに割けなくなっていたよ。」

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    これらは1943年のベラ・ルゴシ主演の『吸血鬼蘇る(原題:The Return of the Vampire)』で、太陽の光を浴びて吸血鬼の頭が溶ける前と後を現した小道具だ。(サンフランシスコ国際空港ミュージアム写真提供)

    メタリカの『Ride The Lightning』が1984年の7月にメガフォースから発売されると、バンドメンバーはわずかではありながらもアルバムの売上げから2ヶ月の一度の給与小切手を受け取るようになった。

    「たくさんのお金じゃなかったけど、またコレクションを始めるには充分だった。再びコミック本を買い求め、おもちゃを集め始めた。おもちゃショーやコミックショー、骨董見本市に行き始めるようになったよ。地元の質屋やフリーマーケットも尋ねるようになったしね。1986年頃(メタリカが『Master of Puppets』のツアー中)には、ツアーで廻っているあいだにコミック本の店、骨董屋、おもちゃ屋を探していた。あとは知っての通り、俺はすっかりまたホラーコレクターモードになったってわけ。子供の時みたいに。止められないね。1984年頃から、音楽と家族とサーフィン以外の、俺そのものなんだ。俺はホラー映画愛好家なのさ。」

    メタリカのアルバムタイトルの多く(『Kill 'Em All』『Master of Puppets』など)は偉大なホラー映画そのもののような響きだ。

    高く評価された1989年のアルバム『...And Justice For All』の収録曲「One」のミュージックビデオは、1971年の反戦映画『ジョニーは戦場へ行った(原題:Johnny Got His Gun)』を編集したものだ。そのなかで、第一次世界大戦に従軍したアメリカ兵が砲弾を受けて腕と足を切断され、目と耳と口と鼻を破壊された。痛ましく、切り分けられた歌詞は映像に結びついている。「Darkness imprisoning me / All that I see / Absolute horror / I cannot live / I cannot die / Trapped in myself / Body my holding cell」2年後、メタリカはシングル「Enter Sandman」をリリースした。子供の悪夢に関する曲だ。ハメットによって書かれた耳に残るギターリフを元に、TOP20のヒット曲となり、無限の称賛を受けた。間違いなく、ハメットのホラーと音楽への愛は深く結びついている。

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    ハメットはバジル・ゴーゴーによるオリジナル画を持っている。例えばこの「Famous Monsters of Filmland」の表紙を飾った太陽の怪物のように。(訳注:映画『太陽の怪物(原題:The Hideous Sun Demon)』)(『Too Much Horror Business』とサンフランシスコ国際空港ミュージアム写真提供)

    「俺の人生全体の視点はホラー映画が色濃く反映している。自然と自分に流れるあの感覚と、湧き出る自分を音楽へと結び付けてきたんだ。四六時中暗いものを聴いていた。俺はじっと座って楽しい曲を弾くなんてタイプじゃない。独りでいるときも子供といる時でさえもね。俺は子供たちに言うんだ。「ほら、前に聴いたことのないこのクールなブラックサバスのリフをやってみよう。」とか「ねぇこれお化け屋敷みたいな響きじゃない?」とか「ほら、これはゴジラが東京で闊歩しているみたいな音だよ」ってね。だから当然、俺はマイナーキーな感じで生きてきた。ホラー映画はマイナーキーなんだ。」

    実際に、1960年代後半に初めて登場したヘヴィメタルのジャンルの多くのバンドが、不穏なサウンドとホラー映画のイメージを楽しんできた。オジー・オズボーン率いる先駆的メタルバンド、ブラック・サバスはその名前をボリス・カーロフ出演の1963年伊仏共同制作のホラー映画から取っている。また有名なモンスター・チューン「Iron Man」を生み出した。アイアン・メイデン、ジューダス・プリースト、スレイヤー、アンスラックス、メガデス、モービッド・エンジェルのようなバンドたちは皆、ホラー映画とオカルトからインスパイアを得た曲を演奏している。それはペンタグラムや溶けた骸骨、墓守、血まみれのナイフ、業火、角の生えた悪魔で彩られたアルバムジャケットに目を移しても明らかだ。『Too Much Horror Business』の中でハメットはこう語っている。「ヘヴィメタルをプレイしたり聴いたりしている人たちはホラー映画を理解できるよ。光と影の具合の全てが同じだからね。」

    こういったミュージシャンたちがTVで「Creature Feature」でB級ホラー映画を観て、おもちゃ屋でモンスターマニアを買って育ったという事実と関係しているかもしれない。しかし、1960年代のヒッピーカルチャーの燦然と輝く精神である「ラヴ&ピース&ミュージック」に対する反発の可能性も否めない。

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    映画『恐怖城(原題:White Zombie)』で使われたオリジナルのベストとジャケットを身につけたベラ・ルゴシ像と(訳注:オカルトの著作を数多く残した)アレイスター・クロウリーをおおまかになぞった悪魔崇拝の立案者についての映画『黒猫(原題:Black Cat)』の衣装を身につけたボリス・カーロフのマネキンのあいだに立つハメット。(『Too Much Horror Business』より)

    「言っておかなきゃならないのは、子供の頃にサンフランシスコに住み、サイケデリックなもの、どこでも靴を履かない長髪のヒッピーたちを見てきたってことだ。みんな裸足なんだ。狂ってるよ。理解できなかった。たとえ両親がそれを受け入れたとしても、俺自身の感性とは反していた。たぶん脊髄反射で、俺は別の方向、よりダークなものへと進んだんだろうな。俺はビートルズファンじゃないんだ。なぜかって?いつだってハッピーすぎるサウンドだからさ。彼らが気分が落ちて攻撃的になったとしても、俺がそれを聴くとまだハッピーな色彩を帯びているんだ。それは・・・ウゲッ!って感じ。」

    現在、フランケンシュタインの頭の形をしたスピーカーや子供の時には買う余裕のなかったたくさんのおもちゃのように、1960年代から70年代作られたいくつかの途轍もないほど素晴らしいモンスターのおもちゃを持っている、ハメットはそんな熱狂的ホラーファンなのだ。また彼はホラー映画のオリジナル衣装を着たベラ・ルゴシ、ボリス・カーロフの等身大フィギュアやモンスター映画で使われた頭や手を含むオリジナルの小道具を持っている。なかでも『吸血鬼蘇る(原題:The Return of the Vampire)』で吸血鬼アルマンド・テスラが太陽の光を浴びて溶けてしまう過程を描いた2つの頭部は最も魅力的なものだ。ハメットの家の壁には、バジル・ゴーゴーの描いた「Famous Monsters」の表紙イラストやジェームス・バマの描いたオーロラ社のモンスターモデルのパッケージイラストのオリジナル・アートが掛かっている。

    しかし、彼が扱うなかで最も熾烈な分野は映画ポスターの世界だ。1920年代から30年代の(劇場で使用される非売品の)オリジナルポスター映画の半シート、ワンシート(訳注:27×41インチ)、2シート、3シート、6シートサイズ、折込広告、小型ポスター、ロビーカードはとても貴重で、偽造者が高品質のインクジェットプリンターを使ってフランスの石版印刷の見た目を複製する方法を編み出したほどだ。本の中でハメットは、いかにしてオークションハウスから電話がかかってきたかという話をした。オークションハウスが言うには、彼が買った映画『フランケンシュタインの復活(原題:Son of Frankenstein)』の小型ポスターを偽物とにらんだFBIから連絡を受けたというのである。彼は犯罪科学調査のためにオークションハウスにポスターを返送しなければならなかった。

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    1922年にドイツの吸血鬼映画『吸血鬼ノスフェラトゥ(原題:Nosferatu)』が登場すると、ブラム・ストーカーの未亡人は著作権侵害で訴えた。裁判所は映画フィルムと宣伝材料を破棄するよう命じたが、この希少なポスターはすでにスペインへと出荷された後だった。(『Too Much Horror Business』より)

    1930年代のオリジナルポスターを探すとなると、多くの場合、モンスター映画華やかなりし頃のユニバーサル映画に携わった人たちに連絡することを意味する。ハメットは売買で「有名税」を課せられないようコレクター友だちの助けを借りる。つまり売り手は取引相手が有名人と知るやしばしば価格を吊り上げることがあるのだ。そんな世界にも関わらず、ハメットは自分がいるべき場所をようやくみつけたと感じていると語った。

    「映画ポスターコレクターのネットワークは全く機能してないし狂ってるよ。俺がこれまでに会った中で最高に狂ったコレクターやディーラーは、映画ポスターのコレクターとディーラーだね。こういうディーラーたちはゴールドラッシュの熱にでもやられているみたいなんだ。5本の指に入る価値のポスターを見つけると突然、金の卵でも見つけたみたいに振舞うのさ。まぁたしかに金の卵を見つけたんだろう、でも異様だよ。俺はそんなヤツらがあるポスターを入手した途端に人が変わってしまったのを見てきた。もっとポスターを買うために現金が必要だからと二重三重の抵当に入ってるコレクターもいるんだ。映画のポスターのこととなると冷酷無慈悲な人たちがいることを知っている。そういう人たちはポスターを手に入れるためには母親だって売り渡すんだ。」

    彼はこう続ける。「俺はこう思うんだ。「うわぁ俺と同じくらいトチ狂ってる人たちの集まりをついに見つけたぞ」ってね。俺は完全に映画ポスターコレクターマニアにぴったりなんだ。他のみんなと同じくらい同じ素晴らしいポスターが欲しい。結果として、こういう人たちに(自分が欲しいポスターのことを)話すことができないから、俺の友だちみたいに仲介者をやってくれる、ちょっと駆け引きのうまい人たちが必要なんだ。彼はこういった映画ポスターに付き物のすべての気質、機能不全、情熱といったものと折り合うことができるからね。」

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    1932年の『ミイラ再生』のワンシート・オリジナルポスター2つのうちのひとつは(ドルで)6桁で売られた。ハメットはいずれも持っている。(『Too Much Horror Business』より)

    『Too Much Horror Business』ではニュージーランドにいる男からメッセージを受けたこの友人の話が詳しく描かれている。その男は、1930年代の各2種類の『フランケンシュタインの花嫁(原題:The Bride of Frankenstein)』『女ドラキュラ(原題:Dracula’s Daughter)』『大鴉(原題:The Raven)』『透明光線(原題:The Invisible Ray)』の半シートポスター8枚を持っていた。映画のプリントやポスターを配給するユニバーサルポスター取引所の従業員がかつて使っていた家を改築しているあいだにポスターを見つけたのである。屋根裏部屋で断熱材として使われていたのだ。本ではダウコーニング社の繊維が導入される前には古紙が一般的な断熱材だったのだと説明する。別の希少な『成吉思汗の仮面(原題:A Mask of Fu Manchu)』の折込広告が昔の映画館のカーペットの下から発見された。その人物はこの映画館からソーダ汚れ等を除去して元の状態に戻すために600ドルを費やした。

    ハメットのコレクションのなかでとりわけ貴重なポスターは、ブラム・ストーカーの1987年の小説『ドラキュラ(原題:Dracula)』を不認可のままドイツで脚色した1922年の『吸血鬼ノスフェラトゥ(原題:Nosferatu)』のものだ。ストーカーの未亡人は映画会社と監督を訴えた。裁判所は彼女に有利な判決を下し、映画会社に『吸血鬼ノスフェラトゥ』の全ての宣伝材料を破棄するよう命じた。しかしハメット所有の『吸血鬼ノスフェラトゥ』のワンシートポスターは判決前にスペインに出荷されたのだ。ほんの一握りのものだけが現存していることで知られている。

    本の中で、ハメットのアシスタントは何ヶ月もかけて、大金と引換えに正確なレプリカを制作するため、1932年の映画『ミイラ再生』で使われたワンシートポスターの複製版の所有者に働きかけたことを振り返っている。後の複製とは異なり、オリジナルのワンシートポスターにはボリス・カーロフの顔の隣に「It comes to life!」と走り書きされている。メタリカのステージで、ハメットは『フランケンシュタイン』『ドラキュラ』『フランケンシュタインの花嫁』のオリジナルポスターを元にしたカスタムメイドのESPギターを使っているが、この希少な『ミイラ再生』のポスターからインスパイアされたギターはファンから最も人気がある。

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    (串刺しの心臓の入ったマティーニを手にしている)ジェームス・バマのドラキュラが運転する絵はオーロラ社のドラキュラのドラッグスター・ホットロッドモデルのパッケージイラストとして描かれた(『Too Much Horror Business』より)

    「映画ポスターの世界に長くいればいるほど、ますます(掘り出し物が)現れ続ける。『フランケンシュタイン』の6シートサイズのポスターが見られるなんて思ってもみなかったし、驚いたことに1つは現存するんだよ。今はインターネットがあるから、誰かが45年間壁に貼ってあった映画のポスターをみんなが実際に見てこう言ったりするんだ。「おぉ、それ何か知ってる?『モルグ街の殺人(原題:Murders in the Rue Morgue)』のワンシートポスターだよ。数千ドルの価値はあるかもしれない。」それでどうなるかって言うと、所有者はネットを見て数千ドル以上の価値があるってことに気がつくのさ。結局のところ、そういうことが通常は俺たちコレクターや映画ポスター収集の世界にとって助けになっているんだよ。」

    メタリカのツアーに出ていない時、ハメットはサンフランシスコで妻のラニと2人の幼い息子、エンジェル・レイとヴンツェンツォと暮らしている。もちろんハメットは『人類SOS!(原題:The Day of the Triffids)』をテレビで観た運命の日から見出したモンスターマニアの楽しみを子供たちに教えている。

    ハメットはまたこう語る。「俺は完全にこういった類のこと全てにおいて息子たちを洗脳しているよ。言っておかなきゃならないのは、身勝手な理由のためにそれをやっているってことだ。俺が死んだ後、誰かがコレクションを管理しなきゃならないからね。彼らには(コレクションを)どう扱っているか知っておいて欲しい。全てが意味のあることだから。それさえ知っておいてくれれば、俺が死んだ後で彼らが一緒にコレクションを維持していくのか、散逸してしまうか、どう決めようと構わない。」

    しかしその時が来る前に、ハメットはさらに本を出し、FearFestEvilを催し、展示会を開き、そしてモンスター博物館を作る計画を持っている。「最終的にはこういったもののために恒久的な場所を見つけて、世界中の人たちが見に来られるようにしていきたいね。」メタリカ最優先だが「俺はこれまでホラーの世界と関わってきた。そして今日までその世界を愛してきたんだ。」

    Collectors Weekly(2015-10-06)

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    ホラー映画関連のコレクターとしての顔を持つカーク・ハメットをインタビューした記事を管理人拙訳にてご紹介。インタビューとあわせてホラー映画の歴史もおさらいしている長文記事ですのでマニアックな点を覚悟してどうぞ。

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    メタリカのリードギタリストと息子、エンジェル・レイとヴィンツェンツォが彼のモンスターコレクションで遊んでいるところ

    メタリカのリードギタリスト、カーク・"リッパー"・ハメットが5歳の時、腕を捻挫し静養していた。両親は彼をテレビの前に居座らせていた。バックス・バニーの漫画に出てくるマラソンといったものは完璧な気晴らしになると考えることだろう。しかし、幼いハメットが腕の痛みを忘れられたのは、大きくなった肉食の宇宙植物が人間を恐怖に陥れるという映画『人類SOS!(原題:The Day of the Triffids)』を観に行った時だけだった。そして彼は恐怖というスリルを発見したのだ。

    6歳になって『フランケンシュタイン』を父親と観た時に彼のモンスター映画に対する愛は固まった。「俺は「フランケンシュタイン」に釘付けになった。」ハメットは電話越しにこう語った。「俺にとってこの世のものでないものがいっぱいだったんだ。ジェイムズ・ホエール監督のモノクロでシュールで印象派みたいな映画の様相だったり、ジャック・ピアスの素晴らしいメイクだったり、ボリス・カーロフの信じられないほど素晴らしい演技だったり、言うまでもなくストーリーそのものだったりがね。俺はただただ心奪われた。そこから、「モンスターマガジン」とかホラーコミックとかオーロラ社のモンスターフィギュアを買い始めた。子供だったから使えるお金は多くはなかったけど、あちこちでお金を稼ごうとしてやりくりしていったんだ。」

    現在52歳のハメットは10代で音楽と恋に落ちたわけだが、それはホラー映画への強迫観念を衰えさせたわけでは決してなかった。メタリカが1980年半ばにいくらかのお金が入り始めた頃、彼はモンスターマガジン、マスク、コミック本、子供の頃のおもちゃをもっと真剣に買い集め始めた。やがて、存在が確認されている最も希少なホラー映画のポスターや映画で使われた小道具などを買い集めて、ハメットはホラーメモラビリアの分野においてトップコレクターの一人となったのである。最近では、志を同じくする愛好家と繋がることを期待して、世界に自分のコレクションを共有し始めている。

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    1962年の映画『人類SOS!』に出てくる人食い植物が子供の頃にどれだけ彼を怖がらせたのかハメットは今笑って話す。

    2012年に彼は『Too Much Horror Business』というコレクションを載せた本を出版し、翌年デトロイトで行われたメタリカ主催の2回目の「Orion Music + More」フェスティバルでホラーメモラビリアのいくつかを展示した「Kirk's Crypt」を創り上げた。「Kirk's Crypt」は、2014年に地元サンフランシスコで全3日間のホラーコンベンション「Kirk Von Hammett's FearFestEvil」を始めるきっかけとなった。毎年行われるこのイベントは双方向なディスプレイを特色としていて、ハメットのモンスターコレクションの他、カーカス、デス・エンジェル、ハメットがメタリカ以前にいたバンド、エクソダスといったメタルバンドのパフォーマンス、ゲストには現代のホラー俳優、監督、特殊メイクアーティストばかりか、古典的ホラー映画のスターであるボリス・カーロフやベラ・ルゴシの子供たちもそこに含まれていた。現在、サンフランシスコをヴァージン航空かアメリカン航空で経由する旅行者はハメットのホラーコレクションの一部をサンフランシスコ国際空港内にあるミュージアムで行われている「Classic Monsters: The Kirk Hammett Collection」の展示を第2ターミナルで目にすることができる。

    ハメットはサイケデリックな60年代のサンフランシスコ、激動の文化的背景にあった危険な隣人の住むミッション地区で育った。『Too Much Horror Business』の導入部では、ホラー映画が自分を和ませる不気味で夢のような情景という別の世界へと連れて行ってくれたのだと説明している。

    自分をのけ者として認識し、チャールズ・アトラスの広告で顔に砂を蹴り上げられるような痩せっぽちになるかもしれない(※訳注1)と恐れていた。本のなかで、音楽ジャーナリストであり共著者でもあるステファン・チラジに彼は語っている。彼はとりわけ、父親と繋がりを持ちたい誤解されたはみ出し者であるフランケンシュタインの怪物に共感を感じていた。ハメットは自身の父親との関係について「強くはなかった」からだ。彼は従兄弟の持っていた狼男のマスクを被った時、力がみなぎり、人生をコントロールし、いじめっ子に対して仕返しをする能力を感じたのである。

    「信じられないかもしれないけど、俺は完全に内向的な人間なんだ。」ハメットはこう語る。「みんなはステージ上の俺を見たり、5万人を前に顔色ひとつ変えずに出て行くのを見たりしている。でも俺はそれに慣れているというだけだ。俺の家族の歴史からして、いつもアウトサイダーみたいに感じていた。とても静かで敏感な超恥ずかしがり屋の子供だった。いろんな状況に適応すべく苦労していた。自分をモンスターのように感じていたよ。俺がスクリーンで観たモンスターが経験していたことの多くが、俺自身の生活の中でもあったんだ。」

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    1931年の『フランケンシュタイン』のフランス版のパネル。ハメットはこの怪物の「孤独と悲しみの状態」を強いられていたと書いている。

    ヘヴィメタルのアルバムジャケットをランダムに参照してみると、ハメットだけがモンスター好きなのではないことは明らかだ。のけ者と逸脱した行為の魅力は、映画の歴史を通じても連綿と続いている。サイレント映画時代には、1920年のドイツ表現主義映画『カリガリ博士(原題:The Cabinet of Dr. Caligari)』、同じく1920年のアメリカ映画『狂へる悪魔(原題:Dr. Jekyll and Mr. Hyde)』、ドラキュラにインスパイアされた1922年のドイツ表現主義映画『吸血鬼ノスフェラトゥ(原題:Nosferatu)』といった映画にみられる、荒涼としたビジュアルと誇張された顔の表情、ビクビクさせる弦楽器、大きな音を奏でるオルガンが邪悪を意味していた。

    ユニバーサルスタジオは 社会不適合者がモンスターとみなされる映画の魅惑的な可能性に気付き、1923年にロン・チェイニー主演で映画『ノートルダムのせむし男(原題:The Hunchback of Notre Dame)』を発表した。その後数十年に渡るホラーフランチャイズの初めてのモンスター映画である。2年後、ユニバーサルはチェイニーを雇い、別の冷酷で醜いのけ者を『オペラ座の怪人(原題:The Phantom of the Opera)』で具現化した。

    しかし、トーキー映画が1930年代に大流行してからユニバーサルはBIG3を公開した。1931年のベラ・ルゴシの『魔人ドラキュラ(原題:Dracula)』、1931年のボリス・カーロフの『フランケンシュタイン(原題:Frankenstein)』と1932年のカーロフ主演の『ミイラ再生(原題:The Mummy)』である。当時、喋る映像を見るという体験(実際に映画を観に行くという体験そのもの)は観客にとって目新しく、こういった映画と初歩的な特殊効果を純粋に怖がっていた。しかし、1933年には、監督たちが自分たちの作品をちょっと意識したユーモアを差し込んでいくようになる。『透明人間(原題:The Invisible Man)』や『フランケンシュタイン』の続編となった1935年の『フランケンシュタインの花嫁(原題:Bride of Frankenstein)』のように。1940年代、50年代にはユニバーサルは2つの愛すべき獣たちを公開した。ロン・チェイニー・ジュニア主演の『狼男(原題:The Wolf Man)』と『大アマゾンの半魚人(原題:Creature From the Black Lagoon)』である。

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    ハメット所有の1931年の『魔人ドラキュラ』関連のおもちゃコレクション。財布、キャンディーボックス、ペイント・バイ・ナンバー・キット(訳注:下絵に書かれた数字の色と同じ絵の具を塗っていくだけで上手な絵が完成するキット)、パズル、ランチボックス、オーロラ社の「Frightening Lightning」モデル、ボードゲーム、そしてオーロラ社のドラキュラのドラッグレースドライバー版。(サンフランシスコ国際空港ミュージアム写真提供)

    第二次世界大戦の直後と冷戦初期には、巨大化した放射能による突然変異体や邪悪な異星人、宇宙ロボットといったものが、核技術と宇宙開発についてのアメリカの妄想を表していた。テレビが普及し、映画館では1959年の『ティングラー/背すじに潜む恐怖(原題:The Tingler)』のようなB級ホラー映画で10代の若者が映画を見に来るように思いつく限りのプロモーション・ギミック(※訳注2)を採用した。一方、1954年の『Seduction of the Innocent』(訳注:コミック本の悪影響を説いた精神科医の著書)はパニックを引き起こし、議会の公聴会が開かれるまでに至った。『Tales From the Crypt』のようなゾッとするコミック本が若者を破滅させ、非行に走らせると信じられていたのである。出版業界の新しいコミック自主規制コードに直面して、ECコミックは1955年にホラータイトルの出版を断念した。

    1957年(ホラーフランチャイズを畳んでわずか数年後)、ユニバーサルスタジオはモンスター伝説を強化する方法を編み出した。不気味な映画をテレビ局へ「Shock Theater」というパッケージで配給したのだ。テレビ局は映画を紹介するために、LAのKABC-TVで吸血鬼にインスパイアされた古くさい衣装を着た司会者を雇うことになった。1960年代には、こういった番組が通常金曜日か土曜日の夜8時以降に放送され、「Creature Features」として知られるようになる。1958年に創刊された「Famous Monsters of Filmland」のような雑誌は、この現象の人気を増幅させた。

    その頃には、1930年代から1950年代の古典的なユニバーサルのモンスター映画は、もはや大人にとって怖がったり、動揺したりするようなものではなかった。しかし子供にとっては不気味で古くさいけど面白いハロウィンのご褒美のようなものだった。1961年、オーロラ・プラスティクス社は自分で塗装する初のモンスターモデルキットを発売した。映画『フランケンシュタイン』に基づいたこのモデルは、あまりに子供たちに人気があったため、需要を満たすべく24時間操業で製造しなくてはならなかった。1962年には、ミュージシャンで俳優のボビー・ピケットがハツラツと歌う変わった曲「Monster Mash」がビルボードチャート1位になった。すぐに店のおもちゃコーナーには、石けん、首振り人形、ボードゲーム、パズル、的あてセット、リモコン、ペッツ・ディスペンサ(訳注3)、工作キットの広い範囲で想像しうる全てのモノがモンスターで埋め尽くされた。

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    「The Horror of the Seven Seas」は希少なプラモデル製造会社だ。ハメットはこう記している。「血が飛び散る帆と肉体のない幽霊のような頭が、このおもちゃでバスタブのなかではしゃいじゃうとても良い時間になるように見えるんだ!」(『Too Much Horror Business』より)

    モンスターマニアが1960年後半に広がった頃、6歳のハメットも(その方面に)取りつかれていた。『Too Much Horror Business』で詳しく述べられているが、ミッション地区のカトリックの学校へと通いながら、彼はみんながモンスターやマッドサイエンティストに出くわすことを想像していた。毎日、ハメットの両親は牛乳とドーナツを買うために25セントを彼に与えていた。彼はその25セントをポケットに入れると、放課後に「Creepy」「Eerie」といったモンスターマガジン(こういった雑誌は本当のところ、コミック自主規制コードを回避する手段として「雑誌」として再パッケージ化されたホラーコミック本であった)、そして映画に焦点を当てた「Famous Monsters of Filmland」「The Monster Times」といった出版物を買うのである。いわゆる「モンスターキッド」として、彼は授業中に学業をする代わりにこれらのコミック本を読んでいたのだ。

    ハメットも土曜日はきまって「Creature Feature」をテレビで観ていた。ハメットが本の中で説明するには、週末、両親が飲んで奇妙な行動を取る麻薬にイカれたヒッピーたちを家に泊めていた時、彼はミッション地区23番通りの大劇場の昼興行の3回公演に逃げ込んでいた。

    「当時、サンフランシスコのミッション地区は安全な場所じゃなかった。」ハメットはそう語る。「今はそうじゃなくなってる。今じゃ完全に高級住宅地化されているし、都会派の人たちとドットコム企業で占められている。当時を振り返ると、どこにでもギャングがうろついていたし、子供は昼食代を盗んだり、単にぶん殴ったりするために外を出歩いていた。でも映画館は俺にとって安全な場所だったんだ。少なくとも週に2回は映画を観に行っていたよ。金曜日に行ってみて、土曜か日曜の昼興行にも行く。ときおりはその両方。12歳か13歳の頃までかな、俺は60年代後半から70年代初期の伝統的な映画に没頭していたんだ。ホラー映画だけじゃない、『ゴッドファーザー』とかコメディーとか『燃えよドラゴン』みたいなカンフー映画も観ていたよ。」

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    映画に焦点を当てた雑誌「The Monster Times」は1972年に「Famous Monsters of Filmland」に対抗して刊行された。(『Too Much Monster Business』より)

    放課後、彼は23番通りのサンフランシスコ・コミックブック・カンパニーで長居していた。その店は1968年にオープンした、アメリカでコミックを専門に扱う最初の店だった。

    「サンフランシスコ・コミックブック・カンパニーは俺にとってもうひとつの安全な場所だった。」ハメットは言う。「ゲイリー・アーリントンっていうコミック本の歴史において伝説的な人物がそこの経営者だったんだ。彼はアンダーグラウンドなコミックを支えていた。そこでは麻薬用品販売店でしか売っていないようなパイプとか麻薬関連の品も売っていた。俺が9歳か10歳の頃、ロバート・クラム(訳注:漫画家、アンダーグラウンド・コミックス運動の創始者の一人)がゲイリーの店に来たのを見たんだ。彼は俺がそれまでに見たなかでおそらく一番分厚いレンズのメガネをかけていたよ。」

    アーリントンはハメットにとってある種の父親となった。コミックの買い方、売り方、交換の仕方の基礎を彼に教えたのだ。「コミックを読んだり、買ったり、そういった違った経験を吸収してお店で長いこと過ごしていたよ。」ハメットは続ける。「俺がゲイリーと彼の全従業員を狂わせたんだ。小さな子供として、コミックを見つけては集めて、営利目的で彼らに売りさばくっていう俺のやり方でもってペテンにかけようとしていた。俺のコレクションはそうやって出来たんだ。おびただしい数の違う漫画家が店に立ち寄っていたのを覚えているよ。俺はそういうものに没頭していたし、コミック本に関わる人たち、つまりコレクターと仲買人と漫画家の中にいるのが本当に快適だったんだ。」

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    左側2つはオーロラ社の『大アマゾンの半魚人』塗装済みモデル。右側はもっとオリジナルの細部まで再現したモデル。(『Too Much Horror Business』より)

    (長いので後半に続く)

    Collectors Weekly(2015-10-06)

    ※訳注1:チャールズ・アトラスの広告
    筋トレの通信講座の広告。下記画像とリンク参照。
    CharlesAtlas

    世界で最も完全に発達した男になる方法
    http://namfit.com/article3/index.html


    ※訳注2:『ティングラー/背すじに潜む恐怖』
    詳しくはこちらをご参照。※ネタバレ注意
    http://homepage3.nifty.com/housei/thetingler.htm


    ※訳注3:ペッツ・ディスペンサ
    キャンディーを入れるケース。キャラクターの頭部がディスペンサとなっている。詳細はこちらから。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/PEZ

    【訂正】
    The Day of the Triffidsの邦題、『トリフィド時代』は原作小説の邦題でした。映画の邦題である『人類SOS!』に修正しました。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章8回目。『Master of Puppets』リリース後のラーズの母国デンマークの反応など。

    アメリカに戻り、メタリカ初の中規模クラスのアリーナ会場でヘッドライナーを務めるツアーが始まった。彼らの友人であるメタル・チャーチがサポートバンドとして参加し、4000〜6000人収容のマイナー・ホッケー・ホールを一杯にした。アイスホッケーの試合での楽屋部屋をバンドは最大限使ったが、インディアナであったようなジェイムズのスケートボード事故は二度と起きなかった。このツアーはとても寒い冬のアメリカで行われたことから「永遠の暗黒ツアー(the Eternal Blackness Tour)」と名付けられた。

    新年を迎えても冬は厳しい寒さを衰えさせることはなかった。メタリカが凍てつく冬のコペンハーゲンを訪れた時、日中の気温はマイナス20度から25度だった。幸いなことにメタリカのメンバーたち(の滞在する場所)はスウィート・サイレンス・スタジオの屋根裏部屋から快適なホテルの部屋と暖房の効いたリハーサル・ルームへと改善されていた。彼らはおよそ4ヶ月前に悲劇的に中断されたヨーロッパ・ツアー再開のためにそこに集まって練習を重ねていた。

    バンドは新しい編成で初めてデンマーク/ヨーロッパ向けの記者会見を行うことにした。メディアは特に手配されていなかった。出席したマスコミはバンドの宿泊するホテルの大きなエリアに集まり、バンドと何の関係のない人々がそこに座っていった。3月の『Master of Puppets』のリリースから、デンマークのメディアのメタリカに対する関心がわずかに増していたことが明らかとなった。

    『Master of Puppets』は、デンマークではバルビュー(Valby)郊外のSkelmosevej沿いに慎ましやかにある独立系レーベルのメドレー・レコード(Medley Records)からリリースされた。デンマークのポップ・デュオ、レイド・バック(Laid Back)が海外でヒットしてから、メドレー・レコードは海外のレコード会社のライセンスを取得することにしたのだ。小さな会社の共同プロモーション、そしてミック・クリステンセンは、1985年にデンマークにおけるミュージック・フォー・ネイションズの全ての商品をメドレー・レコードで行う出版権を確保していた。そのときミックはメタリカのことは知らなかった。しかし、すぐに(メタリカのことを)「当時支配的だった80年代のヘヴィ・ポップが好きな人たちに対する反発と攻撃的な声明」と考えるようになった。

    「メタリカはストリート・ネームだったんだ。」ミック・クリステンセンはそう語る。「彼らはヘヴィー・シーンで異常なまでに高い信頼性を持っていた。でも、一歩その環境から出ると誰も彼らのことは知らなかったんだ。彼らのファンはとても忠実だ。私たちがメタリカのピクチャー・ディスクとかそういったものを出すと、お客さんたちがいつもすぐにお店に現れた。『Master of Puppets』のための我々のマーケティングは、フライヤー、ポスター、そしてメタル・ファンジンへの広告といった街頭キャンペーンに基づいていた。加えてRock Uglenと(ラーズにさまざまなヘヴィメタルを教えた)ケン・アンソニーのいたHMVみたいな専門店がメタリカの宣伝をしてくれたんだ。彼らはさながらバンドの特命大使のようだったよ。」クリステンセンはそう思った。

    「当時の新聞やラジオでは難しかった。でもバンドの「ビデオなんて作りたくはない」っていうアティテュードが、彼らをこの時点であるべき姿よりももっと見えにくいものにしていたんだ。ラーズは『Master of Puppets』のプロモーションでSkelmosevejの私たちのオフィスに数回やってきた。彼がここに来て2日目のことを覚えているよ。彼はデンマークのマスコミにほとんど話せなかったんだ。1日のあいだにたった3つのインタビューしか受けなかったんだから!たとえすべき仕事があまりなくとも、彼はここに来てよかったよ。でも彼はそうは考えてはいなかったようだ。彼は家にいるのが最高だと考えていた。家族と会い、街にビールを飲みに出かける。ラーズはとても誠実で地に足の着いたヤツだよ。彼は音楽のためなら何でもするハッピーボーイさ。ロスキレ・フェスティバル後に(HR/HM以外の)他のメディアが来るようになった。ロスキレのショーが全てを変えたんだ。」クリステンセンはそう付け加えた。

    晩秋、再びメタリカのチケットには大きな需要があった。1987年1月8日の新年のショーは(デンマークの)サガではブッキングされなかったが、ほぼ2倍の収容を誇るファルコナー劇場(Falconer Theatre)で行われた。その翌日、メタリカはオルステブロ・ホール(Holstebro Hall)でもブッキングされた。そして両公演とも売り切れとなったのである。

    ファルコナーでは「Whiplash」の前に切り込むジェイソンのベースソロが山場のひとつとなった。オルステブロではラーズ自身が「当時俺たちが演った最もクールなショーのひとつ」と呼ぶライヴそのものが特徴的なものとなった。すなわち、サポートバンドのメタル・チャーチがステージに現れてから、メタリカのアンコール曲「Damage Inc.」「Fight Fire With Fire」まで、ユトランド半島出身のメタリカファンが作り出した激しい雰囲気を経験し、群集がすでに戻ったこの場所でメタリカを観たり聴いたりする経験そのものだ。

    ラーズとバンドにとっての勝利だけでなく、何年も孤独にメタリカの良さをレポートしてきたデンマークのアンダーグラウンドなヘヴィメタルの勝利でもあった。

    1987年2月13日、メタリカは「Damage Inc.」ツアーをスウェーデンのヨーテボリ公演で終えた。その公演では昔からのインスピレーションの源であり、仲間であるキング・ダイアモンドと、彼と同じ名前の新しいバンドと共にジャム・セッションを行った。

    ラーズとメタリカはこのようにして、よろめきながら創造的な頂点に達し、キャリアにおけるたくさんの山場を経験した一方、友人であり同志でありベーシストでありいろいろな意味でジェイムズ、ラーズ、カーク(そして実際ジェイソン)にとって音楽的なメンターであったクリフ・バートンを失う痛みによって青年たちの夢が完璧に奈落の底へ突き落とされるという相反する両極端な出来事を経験した時代を終えたのだ。

    そしてこれら全て、1年未満に起きたことだったのである。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    文中に出てきたデンマークのHR/HM専門店「Rock Uglen」。まだ現役でデンマークに存在しており、今でもデンマークでは聖地のような扱いのお店のようです。Facebookページはこちら。
    https://www.facebook.com/rockuglen

    そしてこちらがデンマーク公演の後で行われた当時のドイツ公演のポスター。
    metallica-grugahalle

    この画像は当時の公演のサポートをつとめていたメタル・チャーチのメモラビリアを集めた下記のページから拝借させていただきました。87年当時のメタリカのサインも見れる貴重なサイトです。
    http://www.metallipromo.com/mchurch.html

    これにてこの章は完結。次は最終章で、英訳元が完結しているかもまだわかっていないですが、この伝記シリーズも残りあと2回になります。このペースで何とか今年中には終わらせたいところですが、いましばらくお待ちください。

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    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(7)

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章7回目。予告どおり、メタリカの初来日の様子など。

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    メタリカは計画通り、日本でのツアーを続けた。この国の観衆は長年に渡り、数え切れないほどのHR/HMのバンドたちに大きな衝撃を与えていた。70年代には献身的な日本の観衆の神話が、ディープ・パープル(『Made in Japan』(邦題:ライヴ・イン・ジャパン)(1973))、ジューダス・プリースト(『Unleashed in the East』(邦題:イン・ジ・イースト)(1979))の2つのライヴアルバムによって創られた。日本文化では、「忠誠」と「伝統」がいつも密接につながっており、それはヘヴィメタルの観衆にまで広がっていた。前述のバンドから70、80年代のヘヴィメタルでは、特にキッスやエアロスミス、ホワイトスネイクは、日本でいつもリーダーでなくてはならなかったし、とりわけ新世代の日本のロックファンに影響を受けて絶え間なく変わるトレンドに適合していかなければならなかった。

    日本では、世界で最もユニークな音楽雑誌のひとつ「Burrn!」が月間発行部数ほぼ50万部のピークに達していた。「Burrn!」とともに壮大な数の日本の観衆もアメリカから来る新しい「スラッシュメタル」についての情報をたくさん受け取っていた。80年代半ばの通訳やメタリカのようなヘヴィメタルの伝統の革新者たちは、いっそう健全な経済と強い購買力を持った日本の市場で間違いなくチャンスを得たのだ。

    したがってメタリカの初来日ツアーのブッキングというのは、大西洋の両端という西洋世界で築いたバンドの特徴的なプロフィールからすれば、ただの異国情緒あふれる余談ではなかった。メタリカが日本で行った5公演は、いわば非西洋の領域の征服を開始する最も自然なやり方だったのだ。

    空港では、たくさんのファンにバンドは歓迎された。彼らはいつもどおり献身的で熱狂的でしかも礼儀正しい日本スタイルで、カメラ撮影やサインや、多くの場合バンドの肖像画が描かれていたプレゼント攻めにあった。それから日本でのツアーではとても特別なことがバンドを待っていた。(1つめは)彼らは街から街へツアーバスではなく、高速かつ正確な新幹線に乗って移動したこと。(2つめは)サポートバンドは無し、ステージの最初からヘッドライナーまでが自分たちで、6時か7時には開始だ!最後に3つめ。それはコンサートのあいだのことだった。義務的な拍手に加えて、日本は曲と曲のあいだ、とても静かだったのだ。それは尊敬と関心、そして控えめな英語力から、バンドがステージで何を言わんとしているのか注意深く聴くためであった。

    日本のツアーはバンドにとっても、今や大人になった都会人ラーズ・ウルリッヒにとっても、ちょっとしたカルチャーショックだった。彼はその後いくつかの驚きについて語っている。「こういったことだけじゃなく、ほとんどのファンが女性なんだ。12歳の女の子のファンがみんな、まるで俺をボン・ジョヴィか何かであるかのようにしてるんだ。俺は日本はラットやモトリー・クルーみたいに見た目によりかかったバンドにとっては素晴らしいと思ったよ。それから突然俺たちみたいな醜い23歳のど阿呆どもが来た。でも歓迎ぶりは俺たちが夢見たものをはるかに超えていたね。」(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    メタリカが女子たちのアイドルバンドになるちょっとした前兆なのかもしれない(日本の女性がちょうど味わったように)。

    コンサートが午後9時から9時半という早い時間に終わりを迎えると、東京・大阪・名古屋で素晴らしく長い夜が待っていた。メタリカはキリンビールと寿司と日本酒に夢中になった。ジェイソンは真夜中にベッドでシェービングクリーム攻撃で起こされるといった乱暴なジョークをいくつも体験しなければならなかった。残りのメンバーから「ジェイソン・ニューボーイ」と呼ばれたジェイソン・ニューステッドは、成田に到着した際にローディーと間違われる屈辱を受け、ファンからは何もプレゼントをもらえなかった唯一のメンバーとなってしまった。ファンがようやくジェイソンにサインをもらいにやってくるようになった時も、新しいジョークが発動している真っ最中だった。ジェイソンは通常サインに自らのニックネーム「bass face」を書き添えていたが、他のメンバーがすぐに「b」をバツで消してしまったため、日本のファンは「ass face(ケツの顔)」の男として知られるようになったのだ。

    子供じみたジョークではある。ここで書かれていることはそのいくつかにすぎない。しかしラーズ、ジェイムズ、カーク3人のやり口には深い意味があった。3人は自分たちの置かれたポジションにとても自信を持っていた。メタリカは今やヘヴィメタルシーンを手にしただけでなく、夜はそれぞれ魅力的なシングルルームに泊まって冷たいビールと熱燗を流し込む一方、多くの仕事と100%の献身を要求されていた。バンドにとって、ジェイソンがただ上手いだけのベーシストではないことを当たり前と思っていることは重要だった。残りのメンバーに合わせて強くしっかり主張する水準を築くことが絶対に不可欠だったのだ。その上、メタリカ、とりわけラーズは新入りと新しい課題に懐疑的だった。彼らは慎重に慎重にバンドを守った。そうしてジェイソンに成功してやるという決意をさせたのである。

    このジェイソンへのハードで教育的なアプローチの粋を超えて、鬱積してくすぶっていた気持ちをラーズ、ジェイムズ、カークは抱えていた。そう、ツアースケジュールには従ったものの、3人の若者はクリフの突然の死が引き起こした心の傷が癒えたわけではなかったのだ。ある夜、HR/HM界のメディアから「思考する男たちのメタルバンド」と呼ばれたいい部分がバンドからどこかへいってしまった。純粋な怒りでもって日本のホテルのバスルームを完全に破壊してしまった。酩酊と破壊行為は轟音鳴らすロックンロールバンドのツアーにおける神話のひとつとしておなじみだったが、最も勤勉な実行者であるラーズのいた自意識の強いメタリカはいつも細心の注意と気品でそんな神話を回避してきたこともロックンロールのお決まりのひとつとなっていた。

    そんなロックンロールお決まりの愚かな部分が例外的にあったことは礼儀正しい日本のメタルファンまで届いていたかどうかはわからないが、とにかくメタリカは1986年のBurrn!誌における「Band of the Year」「Live Act」「Song of the Year」にランクインした。メタリカのコンサートが始まる前に、ラーズが自身にとって最高のヒーローであるディープ・パープルが1972年8月に2日間に渡り『Made in Japan』をレコーディングした大阪フェスティバルホールで跪き、ステージにキスをしたことは(愚かな行為のマイナス点を)軽減する要素となったかもしれない。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    以下、初来日公演音源や以前にも紹介した初来日時のインタビュー映像など。

    Metallica - 1986/11/15 Tokyo, Japan
    https://youtu.be/sM-G8l-Z64Y?list=PLBcuDVuGbeazN1OFpUQxIIqOmm3JpsglC

    Metallica - 1986/11/18 Osaka, Japan
    https://youtu.be/aUdaqGhNJAY?list=PL5FB211BDFAA48C38

    メタリカ (1986) | MTV BackTrack
    http://www.mtvjapan.com/video/program/2395

    Metallica - Interview - Music Tomato - 1986



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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章6回目。ジェイソン・ニューステッドの経歴とメタリカとしてのデビューライヴについて。有志英訳を管理人拙訳にてご紹介。

    metallica1986

    ジェイソンは当初、慎ましやかな新しい家としてリハーサルルームで「Jeppe on the Mountain」(訳注:17〜18世紀のデンマークの劇作家ルズヴィ・ホルベアによって書かれた喜劇)のように寝起きすることに満足していた。1年前、フェニックスの州立劇場でメタリカがコンサートを行った際、彼は最前列近くに立って友人とモッシュピットで暴れていた。それが今やバンドと共に日本に旅立とうとしているなんて!

    間違いなくジェイソンはただの熱心なファンではなかった。とても音楽に没頭していたし、キッチリ練習を重ねていたし、バンドを組む経験もしていた。実際に彼はフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam And Jetsam)で作曲と作詞の両面で立役者となっていたのである。それは間違いなくラーズ・ウルリッヒのベストスタイルであった。ラーズもまたプロモーター、出演交渉担当者、その他もろもろの役割を務めていたのだから。

    ジェイソンが音楽や新しいバンドのためにやってきたことは、彼自身の非常に本格的な音楽との関わりによってなされてきたことだった。ジェイソン・ニューステッド(ミシガン州バトルクリーク出身1963年3月4日生まれ)はミシガン州の馬の農場で育った。その場所は音楽を演奏する上で大きな役割を果たすこととなる。ニューステッド家は音楽をよく聴き、地元の劇場でよくミュージカルを観に行く家庭だった。

    ジェイソンは学校でサックスを吹き始め、その学校でロックとも出会った。彼が初めてベースとアンプを手にしたのは13歳で、初めてレッスンを受けたのは16歳の時である。ジェイソンの兄弟も音楽を演奏していたが、そのほとんどがミシガン地域では重要な遺産と伝統であるモータウン・ミュージックだった。

    ジェイソンが10代の頃、ミシガン州カラマズーに引越してから、ヘヴィメタルが彼の耳を捕らえ始めるようになった。当時のほとんどの若者と同様、キッスに強く惹かれていった。ジェイソンの初めての「バンド」は、ただキッスをプレイする4人の若者で構成されていた。数年後、彼は気がつくとテッド・ニュージェント、AC/DC、そして当然キッスといったパーティーロックを演奏していた。バンドの名前が家で叫ばれることはなかったが、我々はこう呼んでいる。ギャングスター(Gangster)だ。

    ギャングスターのリーダー、ティム・ヘルムリンを手本として、ジェイソンはロックの楽しさを経験したいと決めた。ヘルムリンとバンを借りて出発した。この旅の最終的なゴールはロサンゼルスだったが、ジェイソンは天使とグラムロックの街へとドライブを行うことを途中でやめ、結局フェニックスに落ち着いた。

    10月下旬のことだったが、ミシガン出身のフェニックスに落ち着いた少年は頬に熱い砂漠の風を感じていた。街で何人かの若い仲間に出会うことも出来た。ジェイソンは大したお金も持っていなかったが、サンドイッチのお店で仕事をみつける。そしてすぐにドラマーのケリー・デヴィッド・スミスと共にパラドックス(Paradox)というバンドに入る。しかしそれも真剣なものではなく、そのハチャメチャにスウィングしていたグループは、新しいバンド、フロットサム・アンド・ジェットサムに見いだされた。そしてジェイソンはケリーと共にスコッツデールに移り住んだ。(フェニックスでも最も裕福な層が住み、テニスやゴルフ場で知られる。さらにアリス・クーパー、ロブ・ハルフォード、そしてあのデイヴ・ムステインといったハードロックの住人がいることでも知られている。)

    ジェイソンは、フロットサム・アンド・ジェットサムとしての活動はブライアン・スレイゲルのメタル・ブレイド・レコーズからアルバム『Doomsday for the Deceiver』(1986)をリリースして終わった。フロットサム・アンド・ジェットサムで最後のギグをハロウィンに行い、その数週間後、カリフォルニア州レセダ・カントリークラブで300人を前にバンドの忠実な友人であるメタル・チャーチというサポートバンド付きでメタリカとしてデビューしたのである。

    その夜のカントリークラブでのメタリカは緊張で張り詰めていた。もちろん、特にジェイソン・ニューステッドにとっては。実際、ジェイソンには重要かつ命運を左右するテストが残されていた。技術的にもパフォーマンスに関しても、両面伴ったライヴを行えるのかと。(必要なことは)昔から激しいバンドの崇拝者であり、ファンでさえあった楽曲のタイトなビートを保つだけではなかった。クリフ・バートンはステージ上では真の怪物であったし、ほとんどの点でクリフが優れていることをジェイソンは知っていた。彼は1年半前にフェニックスの州立劇場でのショーに行き、クリフがショーを引っ張っているのを目にしてさえいたのだ。

    クラブに詰めかけた300人のうち、ブライアン・スレイゲルも間違いなく胸のつかえを抱えていた。彼は有望なバンドのひとつのリーダーをヘッドハントしたのだ。だからこそジェイソンはわざわざより良いとされるメタリカと共にしたいと思ったのである。

    「ジェイソンは私の生涯見てきた人物のなかでも最も神経質な方だった。」スレイゲルはそう語る。「彼はおびえていた。これは彼のオーディションだった。彼はバンドにいたが、私はこれが彼が充分に足るかを知るための通過しなければならない最後のテストなんだと思った。」(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    それはバンドもほぼ間違いなくわかっていた。ラーズはこの次のメタリカファンクラブ会員に向けたニュースレターのなかで、このショー全体の雰囲気について言い表していた。

    「このショーを通じた雰囲気は、俺たちみんなクソ緊張していたってこと。でもエネルギーに関しては、このギグはこれまでやってきたなかでも最も楽しいものがあったよ。」

    数日後、メタリカはアナハイムの小さなクラブ、イザベルズ(Jezabelle's)でも同じようにプレイした。このときはゲストにデンマークからフレミング・ラスムッセンが来ていた。

    「私が事故以来バンドを観たのは初めてだった。ショーはそれはそれはクールだったね。」フレミングは熱を帯びて17年後にそう振り返った。

    メタリカにはまだ熱意の余地があったが、バンドを続けていくことを余儀なくされた過程でのことである。カウンセリングもセラピーも無かったことに加えて、いつも音楽表現が付いて廻っていた。そして今度、メタリカは日本へのロードに向かう。「Damage Inc.」ツアーは再びトラックに戻り、スウェーデンの悲劇からわずか6週間。しかしこれはバンドに強制されたものではなかった。それは彼らが望んだことだったのだ。

    ピーター・メンチは9月27日早朝、サウンドエンジニアのビッグ・ミックの電話で起こされた。こう説明する。「間違いなく私はそのメッセージに愕然としたよ。コペンハーゲン行きの飛行機を取り、スウェーデンまで運転した。恐ろしいことだったが、このような状況下でどう振舞うべきか話したんだ。プレスリリースを発行し、それから新しいベーシストを探した。今振り返ると、1年間は議論しているかもしれないね。でもバスに乗っていた誰かがそうすべきと私に言ったとは思わない。サウンドエンジニアのミックでさえ、私に言ったことは我々がすぐにツアーに戻っていなかったことへの後悔だった。我々は葬儀に行って、なすべきことをした。そしてバンドをやめようとはしなかった。それが全てだ。」ピーター・メンチはそう語った。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    メタリカとしての初コンサートを迎えたジェイソンを写した写真など。

    http://eddiemalluk.photoshelter.com/gallery/METALLICA-1985-1986/G0000qc96ffJ8u0M/C0000toV.S5Y1s2k

    そして、ジェイソン加入から2回目のショーとなったアナハイムのイザベルズ(Jezabelle's)の公演もブート映像が存在しており、ほぼYouTubeで視聴可能です。音響システムのトラブルに見舞われていますが、とにかく凄まじいエネルギー量です。


    次回はメタリカ初来日の様子など。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章5回目。ジェイソン・ニューステッド加入にいたるお話。有志英訳を管理人拙訳にて。

    ラーズがつま先を負傷していたため、彼らは新しい曲のリハーサルができなかった。そこで葬儀後の数週間、ラーズはもっぱら公式お気に入りツール、電話を使うこととなった。昔なじみのヘッドバンガー友だちやクリフのメタリカ加入を手助けした男、ブライアン・スレイゲルに電話をかけていたのだ。メタリカが急速にキャリアの勢いを増しているあいだ、ブライアンは自身の情熱を傾けたプロジェクトであるメタル・ブレイド・レコーズ(Metal Blade Records)というレコードレーベルをゆっくりだが着実に進展させていた。スレイゲルは最新の有望なアメリカのメタルバンドと別の『Metal Massacre』のコンピレーション盤をこの1年前にリリースしている。そのバンドのなかにはアリゾナ州フェニックス出身のフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam And Jetsam)がいた。ブライアンはこのバンドのベーシスト、ジェイソン・ニューステッドがメタリカにふさわしい男かもしれないと考えていた。

    ジェイソン自身が売り込んでいるバンドからヘッドハントすることにスレイゲルは少し悩んだが、ジェイソンがメタリカの大ファンであることを知っていたし、時宜を得たといってメタリカに接触を図ろうとするような残忍な考えはジェイソンにはおそらくなかっただろう。そして、もちろんラーズはスレイゲルの昔なじみの仲間であった。ラーズは、特にこのような状況下で彼の助けを必要としていた。

    もちろんジェイソンはスレイゲルの言葉に大喜びだった。その後すぐにラーズは電話に出て、このジェイソンという男がオーディションのためにサンフランシスコに飛んでくる日に合意した。

    ジェイソンは人生を賭けたオーディションに集中して準備した。ガレージで何時間もメタリカの全曲を練習した。車でフェニックス・スカイハーバー国際空港へ行き、飛行機で天国のようにヘヴィな目的地、メタリカのリハーサルルームに向かうまで。

    短くも集中したその期間で、40人以上の有望なベーシストたちがメタリカのオーディションを受けた。そのうち2人だけまた戻ってくるよう言われた。その1人が充分に準備を重ね、意欲充分なジェイソン・ニューステッドだった。

    この2次オーディションの後、メタリカの3人のメンバーはジェイソンをサンフランシスコ、ダウンタウンにある伝説的なビストロバー、トミーズ・ジョイント(Tommy's Joynt)に連れて行った。しばらくして、ラーズ、カーク、ジェイムズはみなトイレにたち、用を足してジェイソンについて評議した。ラーズの心はすでに決まっていた。ジェイソンは「クール」だ。だが他のメンバーはどうなのか?ジェイムズとカークは完全に同意した。ジェイソンこそがその任にふさわしいと。

    彼らがテーブルに戻ると、ラーズはジェイソンをみつめて尋ねた。「仕事が欲しいか?」わずかに緊張し不安だったジェイソンは無意識のうちに、ラーズ、カーク、ジェイムズ、そしてこの小さなバーで近くのテーブルにいた全ての客の耳をつんざくデカイ雄叫びを上げてその言葉に反応した。ジェイソン・ニューステッドはメタリカに加入した。メタリカはベーシストをみつけ、アルコホリカは新しいビール愛好家の兄弟をみつけたのだ。サンフランシスコで最も品揃え豊富な場所のひとつと認められるこの店ほど彼ら4人がいた場所としてふさわしいものはないだろう。

    トミーズ・ジョイントで長い夜を過ごしたが、新ヴァージョンのメタリカは、その翌日からライヴ・セットのリハーサルを行っていた。かの日本公演の日程はラーズ、ジェイムズ、カークにとって精神的な救いとなっていた。彼らは緊急の課題の真っ只中だったが、バンドはバートンの家族について忘れていなかった。日本へ出発する前夜に、ジェイソン・ニューステッドと来たるツアーのセットリストを弾いていたリハーサルルームをバートン夫人(訳注:クリフ・バートンの母)が訪ねてきた。トーベン・ウルリッヒもそこにいた。バンドが曲を演奏しているあいだ、トーベンは彼女をハグしていた。親として彼ら2人は、子供たちが大きく広がった世界を旅するなかで、子供たちのパフォーマンスと無事を心配することが自然と染み付いていた。トーベンが語ったように、彼とラーズの母ローンの心配は、ラーズがテニスアカデミーをあきらめて、このようにテニスのキャリアをドラムに変えたことではない。彼らの心配事は「長いリハーサルからの帰途にラーズが運転する車が溝に落ちること」のようなものだった。

    今、そのような心配事がバートン夫人にとって実際に起きた悪夢になってしまった。彼女が受けた最大の犠牲は人生二度目で(クリフが13歳の時、3歳違いの兄スコット・デヴィッドが亡くなっている)数週間前に24歳の息子を埋葬したが、彼女はこうして立ち、リハーサルルームで割れんばかりに鳴っている亡き息子とその友人の曲を聴いていた。リハーサルが終わると、バートン夫人はメンバーに歩み寄り、ジェイソンとハグをした。それによってメタリカの仕事は彼女の静かで思いやりのある祝福を受けたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    管理人は昨年、FearFestEvilで渡米した際に文中で登場するトミーズ・ジョイントを訪れることができました。夜にはいっそう目立つ外観。
    TommysJoynt

    たしかにビールの種類が豊富で、Alcoholicaにとってはこれ以上ないお店です。
    TommysJoynt_Beer

    ジェイソンがフロットサム・アンド・ジェットサムで参加した『Metal Massacre VII』はこちらから。
    metalmassacre7
    Metal Massacre VII


    01. Impulse / Heretic
    02. Sentinel Beast / Sentinel Beast
    03. I Live, You Die / Flotsam and Jetsam
    04. Rented Heat / Krank
    05. Backstabber / Mad Man
    06. Widow's Walk / Detente
    07. High 'n' Mighty / Commander
    08. In the Blood of Virgins / Juggernaut
    09. Reich of Torture / Cryptic Slaughter
    10. The Omen / Have Mercy
    11. The Awakening / Titanic
    12. Troubled Ways / Lost Horizon

    Flotsam And Jetsamは9:37から。


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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章4回目。クリフが亡くなった後、バンドの継続を決断するメタリカ。有志英訳を管理人拙訳にて。

    ジェイムズとカークが酒に酔い、悲しみ、絶望、そして怒りを叫んでいた頃、ラーズは静かにショックと痛み、そして想像を絶する事態に対処しようとしていた。ゆっくりと容赦なく重苦しい時間が9月の日々を暗く覆っていくなか、ラーズは会ったばかりの女性、デビーについて考えていた。

    「クリフが死ぬ2週間前に、ロンドンのナイトクラブで彼女に出会った。彼女はいつも一緒にいたんだ。」ラーズはそう語る。「彼女は最悪であり最高だった。俺はそれまで深夜のお出かけに本当についてくるような女の子に出会ったことはなかったんだ。彼女は完全に夜型人間だったし、ルートビアやら何やらよく飲んでいた。だから彼女はえらく調子がよかった。事故の前、イギリスのツアーのあいだ、何回か俺のことを訪ねてきた。あのひどい事故が起きた後、彼女は叔父のヨルゲンと叔母のボーディルと数日間滞在していたコペンハーゲンまでやってきて、一緒にいてくれたんだ。それで俺がアメリカに戻る時、デビーに一緒に来てくれるか尋ねたんだ。なぜなら・・・彼女が必要だったからね。」

    暗闇の中の一筋の光だったのだろうか?ラーズは確かにデビーをサンフランシスコに連れて行った。近くのノース・ビーチの雰囲気漂う、サンフランシスコのストックトン・ストリートのアパートにこのカップルは移り住んだのだ。そしてジェイムズも同時期に近くに越してきた。

    ラーズ、ジェイムズ、カークが直面したような個人的な難局に、誰もが生まれつき対処できるようにはできていない。彼らは23歳の少年で、(バンドとして)始動したばかりのあいだは厳しく困難な状況ではあったが、このツアーに向けた最初のリハーサルの日から大抵は大いに楽しいものだった。バンドは芸術的に、創造的に、かつ商業的に彼らのやり方でここまでやってきた。バス事故は単純に存在そのものへの問いを投げかけられた。メタリカを続ける価値はあるのだろうか?と。

    Qプライムのパートナー、バーンスタインとメンチはそういった悲劇を伴う経験を実際に味わっていた。ピーター・メンチは1980年2月の破滅的な朝、AC/DCと働いていた。それはリード・シンガーのボン・スコットがロンドンで夜に深酒をした後、車のバックシートでアルコール中毒で死んだ時であった。また1984年の大晦日には(デフ・レパードの)ドラマー、リック・アレンが交通事故に遭い、前述の通り片腕を失うという事態も経験していた。AC/DCとデフ・レパードはすぐに再結成をし、大きな成功を収めた。そのうえ、(AC/DCの場合)続いて出したのが『Back in Black』という名盤である。Qプライムのパートナーたちの考えは、メタリカにも至急同じことをしてもらうことだった。

    クリフの葬儀の前日、ジェイムズとラーズとカークはサンフランシスコでバーンスタインとメンチに会った。このミーティングは、メタリカを続けていくべきかどうかよりも彼らがどう前に進んでいくのかについて話し合われた。この感情的で苛立たしい期間の真っ只中で、スケジュールとタイムテーブルのプログラミングにあてたラーズの焦点はバンドを助けることになる。こうしてラーズとメタリカは、忠誠心が極めて強いファンがいる、伝統的にヘヴィメタルが愛されている国、日本で初めてのツアーのブッキングを(とりやめずに)継続することにした。未来都市、東京の渋谷公会堂で初めてのコンサートまで半月もなかったが、ツアースケジュールを変えることなく、彼らは新ベーシスト問題に対する明確な期限を持つことにもなった。

    クリフ・バートンという傑物が埋葬される前日に彼の代わりについて考えるというのは皮肉に見えるかもしれない。しかし残されたメタリカの3人のメンバーにとって、「メタリカ」の話題は、単にバンドとして生き残ることだけでなく、彼ら自身の精神的健康を保つことでもあったのだ。バンドは彼らの人生そのものであり、クリフの存在も同様だ。そしてこの向こう見ずな男は同じ状況になったら一番にメンバーを励まし元気付けたことだろう。

    ラーズが直後にマスコミに説明したように。「俺はクリフのことをわかっている。バンドのメンバーの誰よりもクリフが、まず俺たちに蹴りをいれるだろうし、俺たちが手をつかねて何もしない状態でいることを彼は望まないだろう。それが彼が望んでいることだと思う。」

    ラーズは、騒々しいヘヴィメタル・トリビュートであるバンドの1stアルバムについて言及していたのかもしれない。アルバムA面の終わりには、歪んで生々しいにも関わらず、卓越したクリフ・バートンのベースソロ(Anesthesia (Pulling Teeth))が超高速曲「Whiplash」の前に収録されていた。「Whiplash」の最後の節は、初々しい83年の春、そして悲劇的な86年秋当時に、バンドがどうであったかについて説いていた。

    The show is through, the metal's gone, it's time to hit the road
    Another town, another gig, again we will explode
    Hotel rooms and motorways, life out here is raw
    But we'll never stop, we'll never quit, 'cause we're Metallica

    ショーが終わってメタルは去った 旅立つ時が来たようだ
    他の場所 他のギグで また爆発してやる
    ホテルとハイウェイの繰り返し 荒れ果てた暮らし
    でも止まらねぇ やめやしねぇ だって俺たちはメタリカだから


    クリフの葬儀は10月7日に執り行われた。まずフォーマルな葬儀が行われ、数日後に音楽の探求のために使っていた彼の愛した場所、マックスウェル・ランチで非公式な集まりが催された。クリフの遺灰が山盛りに置かれ、出席者がそれぞれ遺灰を一掴み取って、彼に言い残したことを言いながらマックスウェル・ランチに撒いた。

    クリフ・バートンの後継者を見つけるのは簡単なことではない。どんなに音楽的能力と人間力が素晴らしくとも、クリフ・バートンの後継者となるのは確かに簡単なことではなかっただろう。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    ラーズが救いを求めたデビーという存在。下世話ながらデビーとされる写真を2つ(真偽不明)。後にラーズは、このデビーと結婚することになります。

    debbie-ulrich-pictures
    Metal Injectionより

    lars-ulrich-debbie-ulrich
    cinemarxより

    次の項は後任ベーシスト、ジェイソン・ニューステッドの登場です。続きはしばらくお待ちください。

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