前回の続き。クリフ・バートン死後にラーズ・ウルリッヒが果たした役割やメタリカとしての最初の作曲など。管理拙訳にてどうぞ。

2018-11-12-jason-feature

ステファン・チラジ(So What!のエディター)
加入して最初の頃のポジティヴな動きについて焦点を当ててみようか。興味をそそられることはたくさんあったんだけど、私がまさしくと思うのは、ラーズのエネルギーがあの当時、メタリカを続けていくことにどれだけ不可欠なものだったかってことなんだ。彼無しでは続けられなかったし、今ここにこうしていないかもしれない。そしてキミがとても手助けとなるたくさんのエネルギーを携えてやってきた。キミとラーズのペアが前に進ませ、当時のジェイムズとカークを再び元気づけたと思うんだ。

ジェイソン・ニューステッド
たしかに。えぇっと、最後の質問から話の腰を折るようだけど、どこか排他的なクラブにキミが調べられなくちゃならないときっていうのは、クラブはキミをカットするか確認するために吟味されているわけ。もし6人しかメンバーがいないクラブがあったら、俺なら足を踏み入れるし、そうしなくちゃ。まだ嗅ぎ分けられている最中だってことを誰もが知っている。だからラーズがこれだと自分のなかで感じた時点で、バンドに俺を入れようとしていたのは彼一人のようだった。

彼は俺がバンドに入るように推し進めた一人だったし、クリフの事故とかがあってどんなに難しかろうとも俺を支えたいと思っていたし、あの状況では彼の満ち満ちたやる気によって支柱的存在だった。一番のバンドになりたいっていう願望だ。彼らがやってのけたこと、達成してきたことは全て、彼ができると本当にマジで信じていたことだったんだ。それに加えて、彼の先を見る目や実践して得た知見、受けてきた教育、地理的知識、彼が父親との旅行から得たもの、俺たちが持っていなかったあらゆるものを彼は持っていた。その類のリーダーシップは当時必要不可欠だったね。だから俺が入ったのは、燃料とか輸血のような類のものだったかもしれないけど、世界を股にかけたバンドに欠かせないものは何かわかっちゃいなかった。やれるってチャンスのところでやっただけだった。そういうことを理解することはできなかっただろうね。俺は生の燃料で彼がその燃料を燃やすエンジンを持っていた。そうして俺たちは推し進めた。そういうことじゃないかな。


ステファン
それは素晴らしい視点だね。

ジェイソン
推進力だよ。

ステファン
いや素晴らしい視点だ。話を先に進めよう。あのエネルギーが最高潮だった最初の頃に重要となったショーについて思い出すんだよね。1987年8月にロンドンの100Clubでやった公演では、キミが気を失ったんだよ。あそこでは(熱気で)100度はあったことを覚えてる。キミの創造的思考が「アルバムを作れるだけの曲はあるんじゃないか?」というところまでは行ったのかな?87年頃、何か創造的な思考を持ってたり、曲を書き始めていたりしたのか覚えてる?

ジェイソン
俺はアルバムサイクル、ツアーサイクル、そういったもの全てについて、まだ少しも理解できていないんだと思う。成り行きにまかせていた。彼らが「リハーサルのためにいろ、何か用意しよう、アイデアを出して」と言うだろうとね。俺はいつもこれまでやってきたどのバンドでも曲を書いていたし、リフを作っていたから、テープは持っていたし、実際にベースパートをテープに残したり、リフをアレンジしたりしていたよ。

ステファン、キミが言ってたことでハッキリさせておきたいのは、最初の頃に100Clubでメタリカがライヴをした時、どのバンドメンバーも気絶なんてしてないと思う。確実に俺はそんなことになってない。少なくともあの会場にいた1%は俺のタイプだったけどね。そんな神話がどこから来たのかわからないけど(そんなことはなかったと)ハッキリさせたい。だってそんなバカげたことでも、みんなが俺たちのことを真実じゃないもので思い出させるってことになるからね。俺はこういうバカなことについて誰かに喋ったりしないから、俺が話すときにはハッキリさせたいと思うんだ。


ステファン
いいね。公正だよ。私は確かに誤って記憶していたんだね。

ジェイソン
俺たちが「Am I Evil?」だかダイアモンド・ヘッドの曲だかを演奏する直前にブライアン・テトラーがやってきて、彼がギターを抱えてくるあいだみんなが一息入れて、俺たちは全員座った。もしその当時の写真を見たら、俺とジェイムズが隣同士で座っているはずだよ。それがあのギグに関するメタリカの真実の物語ってわけだ。俺たちはそこでがんばっていた。それは誰もが知っていることだ。

ステファン
なるほど。レコードの話をしよう。キミが自分の家で書いた最初の頃のリフについて考えてみて、ワン・オン・ワン(スタジオ)での最初のセッションになっていったことについて話してみない?

ジェイソン
それじゃあ・・・加入初期の頃を振り返ると、あの当時は数ヵ月ツアーに行って、その合間に数週間の休暇があった。87年から88年頃の話だ。俺たちはまだシングルルームを持っていただけで、ラーズはカールソンの家があったけど、俺たちは皆半径5マイル(約8キロ)以内にいたんだ。俺はジェイムズの猫の餌を取りに行って世話をしたり、彼が俺の猫の世話をしたりしていた。それが俺たちの姿だった。俺は当時、付き合いの長い料理上手な彼女がいて、メンバーを夕食に招待したりしていた。ソファでちょっとジャムったり、いくつかのアイデアをあちこちで録音していたりした。だから俺の頭の中ではその時点でメタリカとの曲作りに入っていたんだ。ジェイムズと俺は膝を突き合わせて、面白いものを叩いてみたり、そこから何でもジャムってみたりしていた。当時はとても速いペースで物事を進めていたんだ。フロットサムから抜けてすぐに「d-d-d」っていうかなり簡単なモノを書いた。

ある日の午後、俺たちはジャムっていて、俺は4トラックのレコーダーを持っていた。俺が「Blackened」のリフを弾くと、ジェイムズが「それは何だ?」ときた。俺は何回か弾いてみせて、何度も繰り返した。彼はそのリフを拾って拾って対抗するパートを弾いてみせた。それが”モノ”になったわけさ。彼はあれを使わなきゃって言ったんだ。だからそれが俺の最初の励みであり激励になった。「そのリフを使って、もう少し曲を書かないか?」それが俺がバンドの作曲者として受け入れられるスイッチが入った時だったんだよ。自分のリフのいくつかを曲に入れる機会があるかもしれないっていうね。フロットサムの頃にマイク・ギルバートと俺が最初にやったことの後、俺たちは今までにどれだけの曲を考え出してきたか。俺が言ってることわかるよね?だからそれが始まりだったんだ。


ステファン
それが入口だったんだね。

ジェイソン
あぁ。

ステファン
それは悪い入口ではないね。(続く)

Metallica.com(2018-11-12)



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