更新ご無沙汰です。以前、表紙になったと紹介した『Clash』誌によるメタリカへのインタビュー。ジェイムズ・ヘットフィールドがこれまで受けてきたバンドへの批判やバンドのアティテュードについて語っています。インタビュー前文とジェイムズ・ヘットフィールドのインタビューを管理人拙訳にてご紹介。
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英雑誌『Clash』にてメタリカ特集
ラーズ・ウルリッヒ、メタリカの成功の要因について語る
2004年のドキュメンタリー映画『Some Kind Of Monster(邦題:メタリカ 真実の瞬間)』を観た人は、メタリカがいまだに健在であることに驚くが、2017年においても彼らはこれまで以上に決然とした強さがある。
この映画は残酷なほど露骨で細かくバンドの崩壊を記録している。バンドの創設メンバーのジェイムズ・ヘットフィールドとラーズ・ウルリッヒの間の権力闘争によってバンドの存在は脅かされ、バンドは口論、カウンセリング、和解をカメラの前で行うことを余儀なくされた。ヘットフィールドの人生を変えるリハビリ期間が挟み込まれ、それはグループはもちろん、視聴者が1つの作品でやり遂げるには奇跡と思えるような衝撃的な視聴体験だ。
13年後の8月中旬『Clash』はコペンハーゲン中心部のホテルでこの活気のある前向きなユニットに出会った。この四半世紀で辛辣なビジョンにおいて最もまとまりのある最強の彼らのアルバムのひとつと考えられている2016年発表の『Hardwired...To Self-Destruct』。このアルバムをサポートするWorldWiredツアーで、ヨーロッパ日程の最初の日を彼らはこの街で迎えていた。
その成功はメタリカが今までに販売していた1億枚のアルバムに加えて、このツアーではすでに9000万ドルの売上げを突破している。誰にとっても驚異的な数字だ。衝撃のヘヴィメタル・カルテットが進化して繁栄を築くのみならず、控えめに言っても、しばしば予測不可能なキャリア選択がこれまでに分裂を起こしていた。
制限的なメタル・ジャンルの境界線を押し広げるために、メタリカはいつも予期せぬ結果をもたらすことになった進歩の道をあえて追求してきた。ほぼすべてのアルバムで以下のような物議を巻き起こしている。1986年の『Master Of Puppets』はあまりに古典的であるとみなされ、1988年の『...And Justice For All』はあまりにカンカン鳴りすぎ、1991年の(ブラックアルバムとして知られる)『Metallica』はあまりに大衆的だとみなされた。1996年と97年のアルバム『Load』『Reload』はスラッシュのルーツからあまりに遠くに外れていったとバカにされ、2008年の『Death Magnetic』でさえメタリカはあまりに騒がしいと非難されたのだ。どんな動きをしようとも、メタリカは勝てなかった。しかし幸運なことに彼らはそんなことはちっとも気にしなかった。
ラーズは『Clash』にこう説明する。「俺たちが騎兵隊を率いる、でも同時にその世界の一部が俺たちにこうして欲しい望んでいるようなやり方で騎兵隊を率いちゃいないっていう二項対立がいつもある。俺たちにはいつだって何かしらの対立がある。少々の対立とそうじゃない部分。時にはそこに摩擦もあるってことだよ。」
彼はバンドのたゆまぬ創造的好奇心についてこう語る。「そういうところに出て生きていかなくちゃならない。そうしなければ窒息してしまうよ。1度きりの人生、この地球での自分たちの時間は、自身の選択肢に意図的な限界を持つにはあまりに短すぎる。」
ロックにおいて最も一貫して優勢な招かれざる客である彼らの揺るがない性質をさらに分析することを熱望し、『Clash』の編集長、サイモン・ハーパーは4人の頑強な巨人たち - ジェイムズ・ヘットフィールド(シンガー/ギタリスト、決然としながらもひょうきん)、ラーズ・ウルリッヒ(ドラマー、情熱的で遠慮ない物言い)、ロバート・トゥルージロ(ベーシスト、現実主義、外交家)、カーク・ハメット(ギタリスト、思いやりのある理想主義者)- の個人的な聴き手を楽しみながら、彼らのHardwiredシステムの複雑なWebのなかを進み始めることにする。
ジェイムズ・ヘットフィールド
−『Clash』は表紙にメタルバンドを取り上げたことが一度もありませんでした。しかしメタリカはロックンロールの文化的な接点としてメタルのジャンルを超えているように感じます。メタリカがメタルシーンを離れて、普遍的に受け入れられるという地位に昇格させたのは何だと思いますか?
うーん、いい質問だね。俺たちはいつもあらゆる類のルールとか、何らかの形で俺たちを枠にはめようとする試みを憎んできた。境界とか限界ってのが好きじゃないんだ。それで俺が真っ先に思うのは・・・ヘヴィメタルは「世界なんてクソくらえ」とか「俺たちは俺たちだ、自分のやり方でやってやる」のようにちょっとパンクだという印象を持っている。やり方が合わないなら、それでいいんだ。知っての通り、髪は切ったり、レザージャケットを着なかったりとかね。バラードをやろう、それがすぐに俺たちを(他から)分かつことのひとつだった。サンフランシスコのファンと争いになったこともほとんど覚えている。89年、ジャスティスがちょうど出た時のことだ。俺たちは「One」という曲のビデオをやった。するとある男が「ファック・ユー、おまえらセルアウトしたバカヤローだ。MTVのビデオなんかやりやがって」とか何とか(笑)。
俺は自分たちを守る必要があると感じたね!「なぜ自分たちのアートをおまえに正当化する必要があるんだ?」って。俺たちはガッカリしたよ。自分たちがアーティストになろう、世界に自身のことを説明したり、世界と繋がろうとやりたいことをやろうってことに対してファンが腹を立てることに失望した。
−そして彼らはあなたを制限すると?
とても制限するね。「セルアウト」ってどういう意味だ?ショーをやるとすぐに完売するかもしれないってか?どこまで極端になっていくのか俺にはわからないよ。だから俺たちはすぐに言った。「おまえは何を知っているんだ?俺たちは反逆者たちの反逆者だ。だから誰に対してもあまり心配しないようにしよう。人として、一緒に創造していくグループのメンバーとして、俺たちを助けようと俺たちが正直なところ思うことをやるなら、俺たちはそうしていくだろう。」
明らかに、バンドを続けていくには存続可能な成功を収めなくちゃならない。でも、とにかくより大きい観衆に届くようにしようとしない限り、必ずしもそうなる必要はない。だからそのファンが自分のアルバムを買い続けることができるようにするには、アルバムをレコーディングできるような成功を通じて進歩していかなくちゃならない!
まぁ俺の哲学では進化とは起こるべくして起こるものだ。変化し、成長し、人生を経験していくことになるはずなんだ。そういうことを考えず、閉じ込められたなかでとても安全だと感じる人も一定数いるんだよ・・・未知なものがない方がより安全だとね。
何度も何度も同じアルバムを作る、そういうバンドはたくさんあるけど、俺たちはそれでは不満だ。でもそれにだって同じように欠陥はある。決して満足しないってことだ(笑)。でもそれは俺たちを邪魔することはない。最高のアルバムは何だ?次のアルバムだ。最高のライヴは何だ?次のライヴだ。それは常に少なくとも俺の頭の中にある。
−とにかくアウトサイダーのように感じるなら、自分の意思決定を恐れることなく、「それがどうした、何が起きようが気にしない」と考えて、「違いすぎるかな?みんなは好きになってくれるかな?」といった不安はないのですか?
そう。俺は疑いが嫌いなんだ。「疑念が戦士を殺した」って言葉がある。時おりやることに加わってくる実用的なことがあるし、時々はやらないこともある(笑)「俺たちはこれをやりたい。どのくらい金が無くなっても気にしない。これは誰もやっていないことだし、俺たちはそれをやり遂げることができる段階にあって、バンドがするしないの境界線を試し押し広げることができる。」というものだ。俺たちのそういうところが大好きだし、かなり馬鹿げていて危険な冒険をしてきた。映画『Through The Never』を作ったり、Orionフェスティバルを開いてさまざまな多岐にわたるタイプのバンドを招待したり、ルー・リードとアルバムを作ったり、南極でギグをやったりとかね。そういうアイデアを嫌う人はたくさんいたんだ。
−南極にいた人たちはさておき?
(笑)そう。ペンギンはそれほど気にしてなかったかな。でもまぁ馬鹿げた高くつく冒険をやったけど後悔はないね。俺たちはそれを試した。他に誰が試そうとしたんだ?
Clash(2017-11-22)
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