ラーズ・ウルリッヒがジーンズブランド「Citizens of Humanity」のインタビューで新譜について語ってくれました。このインタビューは同ブランドがメタリカに触発されたとする新シリーズCOH x MyTheresaでラーズの妻であるジェシカ・ミラーがモデルを務めていることから行われたもの。以下、管理人拙訳にて。
インタビューと写真撮影の様子はこちらの動画から。
ちなみにジェイムズ・ヘットフィールドは先日のスタンレー・カップの際のインタビューで新譜についてこう語っています。
今年中に次のアルバムが出るかいう質問にYesと答えてくれたラーズ。そして秋までには出したいというジェイムズ。管理人はようやく「ニューアルバムは今年出るでいいんだよね?」と思えるようになりました・・・。
【追記】
Vogueのインタビューでラーズが語ったところによると、インタビューとジェシカ・ミラーがモデルを務めることになった経緯が逆でした。
今回のインタビューの相手、イタリア高級紳士服ブランド「Brioni(ブリオーニ)」のクリエイティブ・ディレクターを務めるジャスティン・オシェイとラーズは意気投合。ジャスティンがブリオーニに移る前に手掛けていた「MyTheresa(マイテレサ)」のデニムコレクションはメタリカを含む80年代のハードロックバンドに触発されたものだと知ったラーズが「発売するときにウチのカミさんの写真を撮ったら面白いんじゃない?」と言ったのがきっかけになったとのこと。
Vogueより(2016-06-15)
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ラーズ・ウルリッヒ「アルバムはこの夏には仕上がる」
−どうも、ウルリッヒさん。来ていただいてとてもワクワクしています。
ありがとう。
−まず初めにお聞きしたいことが・・・メタリカの10枚目のアルバムは今年中に出ますか?
そうだね。
−どんなものになっているのか、どういうサウンドになりそうか、何か推測できるようなことを教えてもらえますか?
まだ全体を見通せるものを俺が持っているかわからないけど、いよいよだということは言えるね。うまくいけば秋には出るし、間違いなくメタリカのサウンドだ。最後のレコード(Death Magnetic)より少しけたたましさはないかもしれない。あれはリック・ルービンが初めて俺たちの過去から触発されるよう促したものだった。俺たちがある種バックミラーで見たのはあれが初めてのことだったんだ。今回はちょっと違うものになる。リックと一緒にはやらずに、前のレコードでエンジニアをしていたグレッグ・フィデルマンがプロデュースをしている。だから同じ生産要素ではあるけれど、音は少し広げていっているよ。おそらく前のレコードよりももう少し多様なレコードになるんじゃないかな。エキサイティングだけど、まだ全体像というのはほとんど持っていないよ。
−『Death Magnetic』が出たのが2008年で、当時と現在ではバンドの歴史のなかで最も長い間隔になっています。この活動休止によって今回のアルバムを制作していく上で違った視点を与えられたということはありませんか?間が空いたことで助けになったことはありますか?
この6年か8年くらい「活動休止」なんて俺の見解じゃ適用できない言葉を使うなんて面白いね。メタリカはこれまでになく忙しかったよ。俺たちは今、人生において、バンドの健康を保つために不可欠な(これまでと)違ったバランスを持っている。家族と子供たちが優先だ。ツアーに出る時は、2週間ツアーに出て、2週間ごとに家に戻る。自分たちにとっての新しいモデルを見つけた。でも、おそらくオフの年でさえ、バンドの推進力を持ち続けて、自分たちを繋げ、バンドに投資するために年に24か36の公演をやっているんだ。
家族と家庭内の責任は今の俺たちにとって重要なものになっていると思う。だから新しいモデルを持ったんだ。俺たちは絶えず何かしらをしているけど、針の先がレッドゾーンに行くまではやらない。2005年あたりからメタリカは本当に活動休止なんてことはしていないし、俺たちにとって新しいモデルが機能している。自分たちがイカれるまで110%で働くということはしない。でも、絶えず三分の二で働いている。知っての通り、レコード制作で曲を書いてレコーディングするわけだけど、俺たちは徐々にそれをやってきたんだ。いつも何かしらをやっている。それが俺たちが好きなやり方でね。そうやって俺たちは(バンドに)従事し続けているんだ。
−バンドは今や35年間共にしています。あなたは始めてから今まで、バンドやメンバーの原動力は大きく変わりましたか?
驚いたことに順調なんだ。知っての通り、2001年とか2002年にはロードのあちこちでいくつかの衝突があった。それはあの映画(『Some Kind Of Monster』)でドキュメンタリー化されてもいるし、たくさん話してもきた。でも同業者の多くに比べたら、驚くほどうまくいっているよ。
俺たちがバンドを始めた時、文字通り俺が17歳、ジェイムズが18歳と若かった。青二才で活気に満ちていて準備万端だった。誰かとチェックインするためにゆっくりやろうってなったり、「みんなはどうしてるの?」なんて言ったりはしなかった。全てを一緒にやっていた。プレイするのも一緒、ライヴするのも一緒、旅行するのも一緒、寝るのも一緒だ。
それから俺たちの場合、少しの成功を得るのに十分幸運だった。突然マネージャーが座って言うのさ。「キミたちには家を買えるほどの金があるぞ」ってね。そしたら家を買うだろう。俺は数年間家具店に行ってはソファが欲しいと思っていたのを覚えているよ。それからこう自問するんだ。「ジェイムズはあのソファをどう思うだろうか?」手足を切断されたような感じがあった。座っていたら突然「畜生、俺はこんなクソみたいなことを実際にやっているのか?」となる。それはちょっとした奇妙な変遷だった。俺たちはあの数年間、互いが互いのことを考えていた。でも俺たちはそうやって十分うまいことやってきたんだ。みんな少しばかり道を外れた人生の期間を持たずに35年間はやってけなかった。だけど、誰も構想や自制心を失うことはなかったし、行方知れずになることもなかったしね。
俺たちは常に個々のニーズよりもグループを優先する集団であることを気にかけてきた。もっと重要なのは、みんなが並んでやってきたということだ。俺たちは全員同じ時期に子供を持つことになった。俺たち4人には10人の子供がいる。特にジェイムズと俺は、同じ夏のあいだに初めての子供ができた。だからその他のことも一緒に共有することができたんだ。俺には3人の子供がいるし、ジェイムズも3人の子供ができた。同時に起きたようなものなんだ。それによってたくさんのことを共有することになって、俺たちの関係性が広がったんだ。
−あなたはバンドのなかで最も声高なメンバーだと思いますか?おそらくあなたがバンドのメンバーのなかで最も(発言が)引用されていますが。
何にも増して最初はそうかもしれないね。特に最初は。俺はとりわけ波乱万丈な子供時代を過ごしたわけじゃない。崩壊した家庭出身でもない。俺のオヤジはテニス選手でミュージシャンで批評家だった。オフクロはいたって普通だった。それはつまり大きな反抗もなかったってことさ。ジャズ・ミュージシャンや西ヨーロッパ文化の自由奔放な人たちの周りで育ったから、俺はいつも心地よく過ごしていたし、他の人たちがいることもいたって快適だったんだ。
ジェイムズと俺が出会った時、彼は数年間とても荒れていた状態だった。彼の母親はちょうど亡くなっていて環境面でとても快適とは言い難いものだったんだ。だから俺たち2人が一緒にいる時は最高だった。でも俺たち2人が他のみんなでいっぱいの部屋にいる時、俺はより外交的になって、ほとんど俺が話してしまったんだ。それは特に計画したことじゃない。俺はただ話をしてしまうんだ。彼は何も言わなかったからね。だからみんなが俺たちに質問をすると、俺が「OK、じゃあ俺はコイツをいただくよ」ってなるんだ。
俺は実務的なんでね。つまり彼はめちゃくちゃ音楽やこういったタイプのものについての才能がある。でも俺はと言えば、座って、テープをコピーして、郵便局に行ってそのテープをみんなに送っていたんだ。印刷屋に行っては俺たちの略歴をコピーしたりね・・・そんなことを何でもやってた。そんなわけで俺はマネージャーに話したり、弁護士に話したりってことを後にやるようになった。言葉を拡散させたり、言葉に関することは何でもやるようになったのさ。でもそれがいつもグループのマニフェストになってたわけじゃない。俺は本当に元からこんなで、話すことのほとんどを俺がやってしまっただけなんだ。
−あなたはコペンハーゲンで育ちました。そこでどのように過ごしてきたんでしょうか?
1963年に生まれて、60年代70年代はコペンハーゲンで育った。デンマークは500万人の小さい国で、彼らのほとんどはお互いをよく知っている。たくさんの音楽が周りにあった。俺の家族にはミュージシャンと俳優がいた。子供時代は文化的にとても豊かだったね。とても安全だったし、守られていたし、快適な生い立ちさ。テニスをやっていて、音楽はテニスからの逃げ場所みたいなものだった。音楽は俺の楽しみであり、テニスは真剣に取り組むものだったんだ。テニス選手になろうとしていたからね。でも俺が本当に若い頃にコンサートに行き始めた。9歳でディープ・パープルを観に行って、その翌年にはスレイドやスウィートやステイタス・クォーやユーライヤ・ヒープ、そして再びディープ・パープルを観に行った。キッスもね。知っての通りこれらのバンドは70年代後半にデンマークにやってきていたんだ。それから1980年にテニスを次の段階に進めるために両親と南カリフォルニアのニューポート・ビーチに移り住んだのさ。
−あなたが白いショートパンツとポロシャツを着ているところを想像してしまいます。
俺は白地に赤いストライプの入った(イタリアのブランド)セルジオ・タッキーニを着ていたよ。デンマークでは俺の年齢枠のなかで他に負けないテニス選手だと思っていたけど、南カリフォルニアにやってきたらニューポート・ビーチで最高のテニス選手の1人にもなれなかった。高校ではテニスチーム(の出場枠)にさえ入れなかった。あれは本当に参ったね。でも16歳で完全に音楽方面に飛び込んでいったのは難しい変遷ではなかった。俺はそれを文字通り2か月以内でやったんだ。日がらドラムを叩いて、一緒にバンドを始める人を探していた。
−バンドはLAで始まりました。LAはバンドのサウンドに影響を及ぼしましたか?知っての通り、多くの人が街によってサウンドを区分けするのを好みます。特定の何かがLAにありましたか?
いいや。むしろ逆かもしれないと言えるね。俺はふさわしい時期に間違った場所にいたと感じていたよ。80年から82年のあいだ俺が本当に夢中になった全て、全ての俺の注意はイギリスに向いていた。モーターヘッド、アイアン・メイデン、ダイアモンド・ヘッド、サクソン、タイガース・オブ・パンタンといった当時のイギリスからでてきたバンドの音楽にね。こういったいわゆるNWOBHMの一員だったバンドは本当にバンドを組むことへと触発させた。ハードロックでありながら、パンクのアティテュードと美学を持っていた。1980年、81年、82年のLAにそんなものは皆無だった。ほとんどがヘアメタルと世界のモトリー・クルーさ。失礼を承知で言わせてもらうとね。彼らはねぐらを支配していたんだ。俺たちははみ出し者でのけ者さ。どこにも属していない。俺たちがそんなバンドと一緒にショーをやると、みんなが俺たちを見てこうさ。「何だあいつら誰なんだ?ここで何してやがるんだ?」俺たちは自前のTシャツとジーンズと革ジャンを着て現れると、イギリス寄りのサウンドのダーティーなハードロックをやるんだ。LAのテーマにはまったく適合していなかったよ。
(後略)
Citizens of Humanity(2016-06-16)
インタビューと写真撮影の様子はこちらの動画から。
ちなみにジェイムズ・ヘットフィールドは先日のスタンレー・カップの際のインタビューで新譜についてこう語っています。
俺たちは今ミキシングの最中なんだ。秋までに出して、みんなの耳に届けばいいね。すごくワクワクしているよ。長らく待たせちゃってるけど、知っての通り、これが俺たちのやっていることだ。俺たちはプレイするのが大好きなんだ。次のアルバムはまさしくそういうものになるよ。だから俺たちは興奮しているんだ。
今年中に次のアルバムが出るかいう質問にYesと答えてくれたラーズ。そして秋までには出したいというジェイムズ。管理人はようやく「ニューアルバムは今年出るでいいんだよね?」と思えるようになりました・・・。
【追記】
Vogueのインタビューでラーズが語ったところによると、インタビューとジェシカ・ミラーがモデルを務めることになった経緯が逆でした。
今回のインタビューの相手、イタリア高級紳士服ブランド「Brioni(ブリオーニ)」のクリエイティブ・ディレクターを務めるジャスティン・オシェイとラーズは意気投合。ジャスティンがブリオーニに移る前に手掛けていた「MyTheresa(マイテレサ)」のデニムコレクションはメタリカを含む80年代のハードロックバンドに触発されたものだと知ったラーズが「発売するときにウチのカミさんの写真を撮ったら面白いんじゃない?」と言ったのがきっかけになったとのこと。
Vogueより(2016-06-15)
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