前回の続き。ラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット、そしてプロデューサーのフレミング・ラスムッセンがクリフ・バートンとの思い出や、30年経った今『Master Of Puppets』がどういう位置づけにあるのか語ってくれました。管理人拙訳にてどうぞ。
序盤でカークが語っていた「ライアーズ・ダイス」についてはこちらから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95_%28%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%29
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メタリカは 友人であるデンマークのオカルト・メタル・グループ、マーシフル・フェイトとパーティーを開くことによって、(アルバム制作の)セッションのあいだ、くつろいでいた。「俺たちはバーに出かけては飲んでいたよ。」ハメットは語る。「ライアーズ・ダイスのビッグゲームに夢中になったのを覚えているよ。終いには俺たちとマーシフル・フェイトで酔っ払いレスリング・マッチになったんだ。まったくバカ騒ぎだったね。俺たちはバーのなかでレスリングを始めて、どういうわけか通りまで出ていた。俺たちはずっと笑って、ただ飲んだくれて互いに傷つけることはなかった。それが俺たちが抱いていたモヤモヤやフラストレーションや先々の不安なんかを吹き飛ばす方法だったんだ。」ハメットはそう続けた。
どんなにメタリカに不安感があっても、彼らはレコードでそれを表すことはなかった。『Master Of Puppets』の楽曲のなかで最も大胆なものの一つが8分半のインスト曲「Orion」だ。生々しい感傷的なベース音で幕を開け、軍隊のようなリズムギターのラインでフェイドアウトする前に、グルーヴを効かせたジャムに移行し、陰鬱と希望のあいだを行ったり来たりするソロもある。「クリフが本当に良いこのメロディー・パートを思いついたんだ。メロディーがとても強力だから、そこにボーカルは必要なかったんだよ。」ラスムッセンはそう語る。
「俺にとって「Orion」はクリフ・バートンの白鳥の歌(訳注:普段鳴かない白鳥が死を前に美しい歓喜の歌を歌うという伝説がある)なんだ。あれは本当に素晴らしい楽曲だ。彼は全ミドル・セクションを書いていた。彼はどんな方向に向かっていくのか俺たちに視点を与えてくれた。もし彼が俺たちと共に(この世に)留まっていたら、彼はさらに先に行っていると思う。俺たちのサウンドは彼がまだここにいたら、違っていただろうね。」ハメットはそう語る。「彼は他のメンバーとは違った感覚とアプローチを持っていた。大歓迎だったよ。」彼はそう続けた。
セッションを終えると、ラスムッセンはバンドのシビック・オーディトリウムのショーのために、ベイエリアに戻ることになったウルリッヒのドラムのフライトケースにテープを詰める手助けをした。そのショーで彼らは「Master Of Puppets」「Disposable Heroes」をアメリカで初披露した。次にバンドがショーを行った時には、『Master Of Puppets』がリリースされて数週間が経ち、その後のツアーがバンドを永遠に変えたのである。
1986年3月から8月まで、メタリカはオジー・オズボーンの前座として「Damage Inc.」ツアーにそのほとんどを費やした。オズボーンは2009年に「彼らは常にとても良いバンドだった。俺たちは1つのツアーを一緒にやった。思い出すよ…俺は新世代にトーチを手渡せることができて光栄に思うよ。」と回想している。
ヘットフィールドがスケートボードで腕を怪我するまでは、ツアーは順調に進んでいた。ローディーでメタル・チャーチのメンバー、ジョン・マーシャルがリズムギターを弾いて、メタリカはツアーを続行した。オジーのツアーが終わると、彼らは1か月のオフを取ってから、2週間に渡ってヨーロッパまでツアーの足を伸ばした。9月26日のストックホルムでのギグがフロントマンの腕が治り、この数ヵ月で初めて彼がリズムギターを弾いたライヴだった。そしてクリフ・バートン最後のコンサートにもなってしまった。
ウルリッヒは言う。「『Master Of Puppets』から30年ってことは、今年はクリフの死から30年なんだな。クレイジーだね。30年だって?ファックだ。」
ストックホルムのショーの後、メタリカのメンバーとクルーたちはツアーバスで次のコンサートのためにコペンハーゲンに向かっていた。朝6:30頃、車は道路の外へとスリップした。ハメットは寝台から投げ出されて黒目を損傷し、ウルリッヒはつま先を怪我した。バートンは車の窓から投げ出され、車両が彼の上に転倒し下敷きとなった。彼は24歳だった。
運転手は過失致死罪で起訴されたが、有罪判決にはならなかった。事故は道路に張っていた薄氷のせいとされた。『Metallica Unbound』によると、ヘットフィールドとハメットは運転手に向かって叫んだという。クレーンでベーシストからバスを持ち上げるのを彼らが待っているあいだ、ヘットフィールドはスリップさせたものを探しに道を駆け出して行った。ヘットフィールドはその夜、2つのホテルの窓をぶち壊した。ハメットは事故でとても動揺していたため、電気をつけたまま眠りについた。Guitar Worldはベーシストの葬儀が10日後にベイエリアで行われ、葬儀のあいだ「Orion」が流されていたことを報じた。
「クリフは本当にユニークだった。彼は猛烈に自分自身というものを保持していたんだ。カメラマンは「クリフはそんなダブダブのベルボトムを履くべきじゃない」とか何とか言ったかもしれないが、彼は自分自身というものを守り続けたんだよ。」ウルリッヒはそう語る。
「彼はこう言うだろうね。「まぁ、とにかくまたファッション界が(ベルボトムに)戻ってくるまで俺は履くよ。それに俺、これが好きだし。」ってね。彼は私が会ったなかで最高に素晴らしい人物のひとりだ。紳士な偉人さ。でも(他に)誰が80年代にベルボトムを着ていたんだい?」ラスムッセンはそう語る。
ウルリッヒは言う。「彼はユニークであり、自律的だってことを表に出していた。それが明らかにメタリカの大きなメッセージのひとつになっていた。あんなヤツ、他にいないよ。」
ドラマーは最近、バートンについてたくさんのことを考えるようになった。彼は『Kill 'Em All』と『Ride The Lightning』のデラックス・リイシューと共に(『Master Of Puppets』制作当時について書かれた)書籍『Back To The Front』に取り組み、昔の写真をじっくり見るようになった。「実際、別の日に俺たちが昔の写真を漁っている時、カミさんに言ったよ。「彼はピッタリした照明を当てればとてもイケメンだったんだ」ってね(笑)」ウルリッヒはそう言って笑う。「あの当時を振り返ると、俺たちはみんな野暮ったくて、何か剥奪されていた。「イケメン」がかつてメタリカにいたかは俺にはわからないけど、彼がとてもハンサムでイケメンな写真がいくつかあるんだ。彼は惹きつけるものを持っていたし、彼が望んだようにとても魅力的な性格をしていたよ。」
バートンの死からまもなく、メタリカは活動続行を決めて新しいベーシストを探し始めた。彼らは数十もの見込みある四弦を使う人物をオーディションしたが、最終的には、それ以前はフロットサム・アンド・ジェットサムでプレイをしていた23歳のアリゾナ州フェニックスのミュージシャン、ジェイソン・ニューステッドに決めた。
1986年11月の最初の週に『Master Of Puppets』はメタリカのレコードで初のゴールド・ディスクとなった。それ以降、アメリカだけで600万枚以上を売り上げることとなった。その同じ週、1986年11月8日にメタリカは「Damage Inc.」ツアーを再開した。それはニューステッドにとって初めての公式のショーとなった。「クリフは芸術的なアプローチを持っていた一方、ジェイソンはとてもテクニカルだった。彼は完璧に演奏していたよ。クリフはもっと音楽的だった。」ラスムッセンはそう語る。
ニューステッドは2001年までバンドに在籍した。彼の在籍中、バンドは1988年の『...And Justice For All』の「To Live Is To Die」に未使用だったバートンのリフを組み込んだ。2003年、元スイサイダル・テンデンシーズ、オジー・オズボーンのベーシスト、ロバート・トゥルージロが加入。しかし誰がバンドに入ろうとも、ウルリッヒはバートンと過ごした時間を大切にしている。
ドラマーは言う。「彼についてはたくさんのことを考えるよ。あの編成のサウンドという点であの3枚のレコードで俺たちがやってきたことはとてもユニークなことだった。ジェイソン・ニューステッドに神のご加護を、ロバート・トゥルージロに神のご加護を。彼ら自身とクリフの死からメタリカにもたらしてくれたものに。でもクリフは本当に彼自身がキャラクターだった。それは1ミリも変えられない。ますますそのことは明らかになっているよ。」
10年前、メタリカは『Master Of Puppets』を創り上げた時のやり方を評価し始めた。メタリカが彼らの最新アルバムである2008年の『Death Magnetic』の曲作りを始めた時、プロデューサーのリック・ルービンが『Master Of Puppets』を制作した頃に聴いていたレコードについて考えるよう求めたのだ。「それを再作成しようとせずとも何か触発されたり影響を受けたりすることができる。」ウルリッヒによると彼はそう言った。(このプロデューサーは先月「彼らと一緒に仕事をする上で主な目標は、彼らにメタリカを再び受け入れさせるということだった」とRollingStoneで語っている。)明らかに触発されたバンドは2006年のヨーロッパツアーで『Master Of Puppets』の完全再現をやることを決めた。それはバンドにとってのターニング・ポイントとなった。
ウルリッヒはこう語る。「大いに楽しませてもらったよ。俺たちはノスタルジアなことにはちょっと慎重だったんだ。でもやってみたら本当にクールだった。自分たち自身をバックミラーで見ることを許し、過去にやったことについて気分良く感じるのは初めてのことだった。俺たちはいつも繰り返しになることを恐れていたし、ほとんど過去を否定していたと言ってもいい。でもあれは良いと感じたんだ。」
ハメットが発見したのは、『Master Of Puppets』の伝説がユニークな方法で成長を続けているということだった。「最も驚かされたことは、俺がラジオであのアルバム収録曲の何かを聴いた時に起きた。それ以前、それ以後に生まれたその他全ての音楽の中心に、いまだにあのサウンドがある、どれだけ現代的でモダンなんだって驚いたね。あれには感謝しているよ。あんなことはいつも起きるわけじゃない。」彼はそう言う。
1988年のLP『...And Justice For All』の共同プロデューサーとしてメタリカと組んだラスムッセンは、『Master Of Puppets』を強奪されて聴くこともままならなかった。文字通りに。「まさか自分で『Master Of Puppets』のCDを持つことになろうとは思わなかったよ。子供たちが私の『Master Of Puppets』を盗んでしまうんだ。ウンザリしたけど、彼らがあれを聴きたいと思うのは気分がいいね。」
ウルリッヒは今秋に予定されている『Back To The Front』の発売をただただ熱望している。「あれは本当にヤバいよ。著者のマット・テイラーは映画『ジョーズ』についての本を出したんだ。こいつはそのステロイド入り強化版ってわけだ。」
それどころか、彼はその本、そしてメタリカの他のアーカイヴ・プロジェクトに取り組む体験に感謝している。その時代の写真を再び見て、メタリカがどのようにして今の姿になったのか考える理由ができたからだ。「俺たちはただのガキだった。そして音楽シーンやムーブメントの一部になった。その時、俺たちはその可能性について気づいちゃいなかった。俺はいつもニューヨークやLAのミュージシャンってのは“うまいことやる”ためにバンドに入りたがって、“ロックスター”になって、ビバリーヒルズのでっかい豪邸を買って、女の子をゲットするもんだと思っていた(笑)」彼はそう言って笑う。「俺はそんな戯言を考えていたなんて覚えちゃいない。ただ音楽をやって、ビールを飲んでいたのさ。」
RollingStone(2016-03-02)
序盤でカークが語っていた「ライアーズ・ダイス」についてはこちらから。
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