年の暮れにとんでもない訃報が飛び込んできました。メタリカにも多大な影響を与えたモーターヘッドのフロントマン、レミー・キルミスターが2015年12月28日に癌のため、ロサンゼルスの自宅で亡くなりました。享年70歳。
以前から体調は心配されていましたが、ついこないだ誕生パーティーを開いたばかりだっただけに衝撃もひとしおです。追悼一色となったSNSが彼の影響力の大きさ、人望の厚さを感じさせます。
まずはモーターヘッドの公式声明を管理人拙訳にて。
レミーは病気のことを12月26日に知らされ、自宅でお気に入りのレインボーのゲームをプレイしているときに息を引き取ったとのこと。たくさんのミュージシャン、関係者が追悼の意を表していますが、ここではメタリカのコメントを管理人拙訳にてご紹介します。
まずはメタリカの公式Facebookから。
続いてはロバート・トゥルージロのコメント。
最後にカーク・ハメットのコメント。
合掌。
【追記】
先ほどメタリカの公式ツイッターからジェイムズ・ヘットフィールドのコメントが発表されましたので管理人拙訳にて。
【追記2】
ラーズ・ウルリッヒの追悼コメントがRollingStoneに掲載されていたので管理人拙訳で紹介します。すごい長い文章になっていますが、ラーズとレミーの関係がよくわかるエピソードをたくさん共有してくれています。
【追記3】
最後の最後にメタリカとレミー・キルミスターの関連動画をcowboybluesさんがまとめて再生リストにしてもらっていますのでそちらをご紹介しておきます。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLGppSrVhtU5U5GSGLhG0ksOf0YAFdFboQ
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レミー・キルミスター70歳の誕生パーティーにロバート・トゥルージロ、スラッシュらが参加
元モーターヘッドのフィルシー“アニマル”テイラー死去、オジー、メタリカらが追悼メッセージ
以前から体調は心配されていましたが、ついこないだ誕生パーティーを開いたばかりだっただけに衝撃もひとしおです。追悼一色となったSNSが彼の影響力の大きさ、人望の厚さを感じさせます。
まずはモーターヘッドの公式声明を管理人拙訳にて。
これを伝えるのは簡単なことじゃない...我々の最強にして偉大な友人レミーが侵襲性の強い癌との短い闘病の末、本日亡くなった。
我々のショックと悲しみを表現なんてとてもできない。言葉がみつからない。後日改めてコメントする。しかし今はどうか...モーターヘッドを、ホークウィンドを、レミーの音楽を爆音でプレイしてほしい。そして一杯二杯とやってくれ。
彼の話を分かち合ってほしい。
自身で鮮やかに彩ったこの愛すべき素晴らしい男の人生を祝福してほしい。
彼はまさしくそのように生きることを望んだのだ。
イアン・“レミー”・キルミスター
1945-2015
負け犬として生まれ、勝つ為に生きる
自由に哀悼の言葉、冥福の祈り、思い出を我々の公式トリビュートページに投稿してほしい。
https://www.facebook.com/lemmykilmisterforlife
Facebook(2015-12-28)
レミーは病気のことを12月26日に知らされ、自宅でお気に入りのレインボーのゲームをプレイしているときに息を引き取ったとのこと。たくさんのミュージシャン、関係者が追悼の意を表していますが、ここではメタリカのコメントを管理人拙訳にてご紹介します。
まずはメタリカの公式Facebookから。
レミー、あなたはこのバンドが存在する主因の一つだ。我々はあなたのインスピレーションの全てに永遠に感謝する。安らかに。
やむことない愛と敬意を。
メタリカ
Facebook(2015-12-28)
続いてはロバート・トゥルージロのコメント。
最後の真のアウトローの1人が立ち去った。#RIPLemmy
Facebook(2015-12-28)
最後にカーク・ハメットのコメント。
レミーは最高の紳士だった。
1979年、俺が16歳だった頃に初めて「Overkill」を聴いた。それまで聴いてきたなかで一番ファストなものだと俺は思った。友達全員にモーターヘッドこそ地上最速のバンドだと力説したよ。
彼らの写真を初めて観た時に俺は彼らには信じるに足るものがあるとわかったんだ。俺は彼らが見たままに生きているのを想像して、彼らの生きるままを見た。
そしてその瞬間ハッキリと気付かされたのを覚えている。アウトサイダーでいても大丈夫なんだ、俺の10代の生活に反する何かに従わなければならないことに抵抗を感じても大丈夫なんだと気が付いた。この写真のなかのモーターヘッドのメンバーたちは間違いなく何事にも従ってないように見えたし、その結果として彼らが楽しんでいるように見えたし聴こえたからね。
そうして俺はその写真やデカい音やあのアティテュードから多くを学んだ。
レミーとファスト・エディー、そして先ごろ亡くなったフィルシー・アニマルには、1979年のあの夜からインスピレーションと刺激とひらめきを与えてくれたことに感謝しなければならない。
そのインスピレーションはいつも自分と共にあることだろう。モーターヘッドの音楽が生き続けんことを!
Facebook(2015-12-29)
合掌。
【追記】
先ほどメタリカの公式ツイッターからジェイムズ・ヘットフィールドのコメントが発表されましたので管理人拙訳にて。
レミーはロックンロールそのものであり、永遠だ
twitter(2015-12-30)
【追記2】
ラーズ・ウルリッヒの追悼コメントがRollingStoneに掲載されていたので管理人拙訳で紹介します。すごい長い文章になっていますが、ラーズとレミーの関係がよくわかるエピソードをたくさん共有してくれています。
ほとんどのバンドはメタリカ同様、声高にモーターヘッドとレミー・キルミスターをインスピレーションの源として挙げている。彼の50歳の誕生日パーティーでキルミスターに仮装して「The Lemmys」として演奏したり、モーターヘッドの楽曲メドレーをレコーディングしたり、ダミ声のベーシストをステージに招いて彼の楽曲を何曲か演奏したりしたように、彼らはいつもレミーの旗印を高く掲げていた。ラーズ・ウルリッヒ ― モーターヘッドのファンクラブのアメリカ支部長であったと長く言われてきた(自身は「それは非公式な肩書として呼んでくれ」と笑って言うが) ― が10代の頃、彼らの楽曲を聴いてそのグループの楽曲の力に打ちのめされた。ここで彼はメタリカだけでなく個人的にも影響を受けたレミー・キルミスターついて振り返る。
俺がレミーの訃報を聞いたのは、家族とのクリスマス・パーティーの終わりを自宅で迎えている時だった。昨日、モーターヘッドのマネージャーをよく知っている友人と話していた。その友人が言うには状況は芳しくなく、敬意を示すためにLAまで彼に会いに行った方がいいかもしれないとのことだった。癌はとても侵攻性が強い末期の状態で、残された時間はそう長くないだろうと。それが午後1時のことで、それから訃報が耳に入ったのが午後6時だったと思う。ひどい話だ。
レミーはたぶん自分がバンドを組みたくなった絶対的な主要因のひとつだった。単純なことだ。1979年にモーターヘッドの音楽を紹介された。「Overkill」が出た時だ。レコード店にいたらダブルベースのイントロの「Overkill」が始まったんだ。それまでの人生で聴いたことのないものだった。その次のノリでこの曲は俺を行ったことのない場所へと連れて行ってしまった。それは本当にエキサイティングで本当に爽快だったよ。新鮮だったし、他と違うと感じた。
その後数年の大半は彼らにかなり夢中になった。彼らを初めて観たのは1981年の春のことで、彼らはソロ・アーティストとしてブレイクしていたオジーのサポートをしていた。モーターヘッドはオープニングだった。だからこの公演は間違いなく信じられないほど高かったけど、俺にとってはモーターヘッドをようやく体験するチャンスだったんだ...。俺と友人のリッチー・バーチ ― 彼の名前は『Kill 'Em All』の裏ジャケットの「Bang That Head That Doesn't Bang」を言ったことで永遠に残ることになった ― 俺たちはカリフォルニア、サンディエゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、そしてLAのカントリークラブで行った彼ら自身のショーまで追いかけまわしていたよ。
彼らを近くで見るチャンスをしばしば得ることができたのは驚くべきことだった。でもさらに俺たちは実際に彼らの近くまで行くことができた。彼らと会ってたむろする機会を得ることができたのさ。それはひとえにレミーだったからだし、彼が優しかったからだ。彼はオープンだったし、取っ付きやすい人だった。だからロックスターのアンチテーゼだったんだ。彼はマスクか何かの後ろに隠れるようなクソでも近寄りがたい人でもなかった。あんな人は他に存在しない。彼はあの存在感と60年代70年代の全ての偉大なロックスターのオーラを持っていたけど、同時に信じられないほど現実的で、おおらかで、取っつきやすい人だったんだ。だから俺と友人のリッチは一緒にぶらついたり、ステージ裏のバスでビールを飲んだり、たむろしたり、でまかせやら野蛮なツアー話を聞いたり、当時のロックンロール・ツアーに付きものの馬鹿げた行為の一部になったりしていた。それは俺にとって深いところまで影響を残していったんだ。当時までのロックスターはどこか別の場所から来たように思っていた。彼らは実際以上に偉大に見えたんだ。彼らは同じレベルじゃない。こっちは価値なんてない。ロバート・プラントやポール・スタンレーやエルトン・ジョン、ロッド・スチュワートと自分が関わり合うなんてことは想像もできはしなかった。
レミーという人はそれを全て可能にした人だった。俺がそういうことを実際に体験したのはそれが初めてだった。俺とリッチは週の大半をモーターヘッドのツアーバスの後方につけて州間高速道路5号線を運転していた。彼らがトラック・ストップに寄ったら、俺たちも寄る。近づいて彼らに挨拶すべきか?近寄らないべきか?面白いことと変わったことばかりだったけど、この週の過程で俺たちはレミーを知って、超クールを頑張って演じる必要はないし、ファンのオタク気質を隠す必要もないんだってわかったんだ。彼はドアを開けて中に入れてくれた。それは当時のルールにはないことだったから、ありえないって思ったね。
数か月後、カリフォルニアにうんざりしてヨーロッパに戻った。そこでは全ての音楽、全てのメタル、夢中になっていた全てのものが起きていた。結局イギリスで(NWOBHMバンドである)ダイアモンド・ヘッドと一緒に少しばかり過ごした。1981年夏のイギリスで最大のショーは、ポート・ヴェイル・サッカースタジアムと呼ばれる場所で行われたへヴィ・メタル・ホロコーストだった。4万人収容のスタジアムでモーターヘッドがヘッドライナーだった。彼らはアルバム『No Sleep 'til Hammersmith』でイギリスのチャートでNo.1を獲得していた。彼らはその夏最大の出来事だったんだ。
だから俺とダイアモンド・ヘッドの一人とでポート・ヴェイルまで行って観に行こうとしたんだけど、チケットが売り切れでさ。かいつまんで言うと、そこで働いている誰かに俺たちはレミーと友だちなんだ、ツアースタッフの何人かを知っているって言ったんだ。10分以内に俺と友人はスタジアムギグのなか、バックステージにあるモーターヘッドの楽屋にいたんだ。言っておくけど、こんなことはありえないってことをわかってほしいんだ。彼らはその夏、イギリス最大のバンドだったんだから。イギリスのありとあらゆる音楽関係者がレミーがそこにいたことを知っていたし、しかもこんな鼻タレでニキビ面のデンマークからカリフォルニア経由でやってきた16歳のガキがモーターヘッドの楽屋に入る方法をみつけたんだ。本当にありえないよ。
またひと月かふた月、イギリスとヨーロッパに滞在して、デンマークに戻った。そこでカリフォルニアまで戻るためのお金を稼いだんだ。フライトはヒースロー空港出発だったから、ロンドンで2泊した。それで俺はモーターヘッドのマネージメントを知っていた友人と一緒にチェックインしたんだ。傍から見たら、俺は、ロンドンにいてヒースロー空港からサンフランシスコへ飛び立とうとしている何にも知らない16歳だ。一日目にその友人はこう言ったんだ。「モーターヘッドがリハーサルをしている。もし彼らについて行くなら、そこまで行って彼らのうちの誰かをみつけられれば会える」とね。無責任な情報さ。
だからリハーサルスタジオまで行った。それから30分もしないで、俺は彼らのリハーサル室で座っていたんだ。そこにはレミーと1か月前に亡くなったドラマーのフィル・テイラーと(ギタリストの)エディー・クラークがいた。そこは3人部屋で、独房みたいな大きさのところで一緒にいたんだ。ホテルの部屋だったんだけど、そこには彼らと俺だけ。彼らは次のアルバムのために曲を書いていた。俺はそこに座って彼らが曲を書くのを見ていた。「Iron Fist」と呼ばれることになる新曲について彼らが話しているのを覚えているよ。次のアルバムのタイトルトラックになる曲に取り組んでいたんだ。これがイギリスで最大のバンドだ、俺はファッキンなリハーサル室で彼らの次のレコードの曲が書かれているところに座っていたんだ。ちょっとこの出来事を見直してみよう。
俺が言おうとしている点は、開放性と包容力があって、こんなボロボロな16歳のガキを彼らが演っていることでハイにしてくれたばかりか、この開放性でみんなを取り巻きに入れてしまうんだ。俺をやる気にさせたね。その週にカリフォルニアに戻った頃、その半年前くらいにジェイムズ・ヘットフィールドに会っていたんだ。俺たちは24時間一緒に過ごしたよ。アイツのことはスーパークールな男だと言えるけど、その交流から出てきたものはそこまでなかった。でも俺が戻って一週間後、俺はアイツに電話をして言ったんだ。「俺たちで一緒にバンドを組もう。俺、モーターヘッドとたむろしてたんだ。あとダイアモンド・ヘッドのメンバーと会えるチャンスを得た。そこで俺は感じたんだ、これは別世界の呼び出しなんだ。」って。
だから俺が今日までバンドにいる主要因はレミーであり、メタリカが存在するのは彼のおかげと言うのは安いおべんちゃらじゃないんだ。本当のことだ。彼らが俺を招き入れて彼らがやっていたことの一部にいさせてくれた。ジェイムズと俺がバンドを組んだのもしかり、あのアティテュード、自分たちのファンと関わり合う美学、オープンで気取らないでいること、人々を招き入れたり、体験を共有したりしてきたことに影響を受けたんだ。俺たちはみんな、自分たち以上の何かに属したいと思っていた、ただのファッキンなキッズだったんだ。
それがモーターヘッドが象徴していたことだった。ギャングの一員になったのさ。モーターヘッドのファンは、モーターヘッドバンガーと呼ばれていた。 ― モーターヘッドバンガーは彼らのファンクラブの名前だ ― そして、俺たちみんな同じものに属しているような共通のつながりがあった。自分たちよりももっと偉大な何かに属していると感じていたんだ。でもバンドとファンのあいだに距離感はないし、誰のあいだにも距離感はなかった。俺たちはみんな一緒なんだ。あれはクソ感激ものだね。あの団結が俺にバンドにいたい、あの集団の一部になりたい、あの体験を自分バージョンでやってみたいと思わせてくれた。俺たちのなかに深く染み込んだものは、レミー、そして彼から1981年のあの夏に自分の聖域に招き入れてもらってきた体験から直接来ている美学なんだ。俺は永遠に彼に恩義を感じるし、永遠に感謝するよ。
俺が彼と初めて会った後も、俺たちは友人のままだった。それから数年以上のあいだ、モーターヘッドがツアーに出るたび、建物内で最初にいるのも最後にいるのも俺だった。俺は彼らをホテルでみつけて、結局レミーのホテルの部屋にいるのさ。彼らとたむろしていた。『Orgasmatron』の中ジャケットで悪名高いあの写真のなかで俺は基本的に自分の上に嘔吐して座ってるんだ。(最初に会ってから)数年後、レミーに会った時には興奮したよ。俺たちは同じウォッカボトルを飲んだ。間違いなくその部屋にいた人たちが経験してきたようにとはいかなかったけど、すぐに俺が飲んでいたウォッカのほとんどをなくしていたよ。俺は彼のホテルの部屋で意識を失って彼にあの写真を撮られたんだ。『Orgasmatron』で俺は永久に刻印されちまった。間違いなく名誉の印だけどね(笑)。状況がどうあれそんなことどうでもよかった。モーターヘッドのレコードの中ジャケットに俺がいるぞってね。
その頃、メタリカはブレイクし始めていた。レミーはゴッドファーザー、親みたいなものだった。彼は完全に安心できる人だったんだ。評価されたり、分析されたり、質問されたりしたことは一切なかった。できる範囲のレベルでいつも歓迎してくれた。即座に聖域まで歓迎されたみたいだったよ。生きていると感じさせてくれたし、重要だと感じさせてくれた。自分より偉大な何かの一部になったかのように感じさせてくれるんだ。それだけ安心できたし、俺みたいなキッズにとって元気づけてくれる場所でもあった。俺たちに目的を与えてくれたからね。
レミーの50歳の誕生日は、俺たちが行って演奏したよ。基本的にハウスバンドなんだけど、モーターヘッドの曲を6つ、レミーの格好で演ったんだ。彼の曲を演奏するのは俺たちにとってはいつだって造作もないことなんだ。俺たちは誇らしく演奏するよ。
彼はたくさんの素晴らしい曲を書いた。まず頭に浮かんだ「Motorhead」は、まさにロックンロールの日々に戻った名刺代わりの曲だ。不滅の一節「I should be tired, but all I am is wired / Ain't felt this good for an hour.(疲れているはずなのに、気になっているのは、この1時間が良いと感じられないことだけ)」。これなんかは俺がこれまでの人生で聞いてきたなかで一番ロックンロールなことだよ。あれはおそらく至高中の至高だね。「Overkill」はダブルベースをプレイしたくなった理由そのものだ。あの曲はメタリカのサウンドを形成する上で大きな部分を占めている。「(We Are) the Road Crew」はたぶんツアー生活を描いた史上最高の歌詞を持つ曲だね。「Bomber」はこれまでで最もエネルギッシュなハードロックの曲のひとつだ。それから「Capricorn」で共感するのは俺の誕生日がレミーと2日違いだってことだね。そう、俺もやぎ座(Capricorn)なんだ。それからまだ珠玉の曲がある。B面の「Over The Top」。たしか「Bomber」のシングルのB面だったはずだ。あれは出して数年後からいまだにライブの定番曲になっていた。(こうして)お気に入り楽曲リストは永遠に続くよ。
2週間前の70歳祝賀パーティーに俺も顔を出した。彼と10分近く座って話す機会を得られた。彼と俺の2人だけでね。ロックンロール・コミュニティへのあなたの義務は永遠に生き続けることだと彼に言ったよ。彼の誕生日パーティーはハードロック同窓会みたいなものだからね。みんながそこに集まる。レミーは、これまでで一番クールなヤツは誰かって話になったら俺たちみんなが賛同する数少ない一人だから。俺たちがみんな姿を見せる。みんな散り散りだから、彼こそが俺たちがみんな一緒に集まってハードロックを祝福し、モーターヘッドを祝福し、なじみの顔を見るための理由になっている。だから永遠に生きるのが義務だと彼に言ったんだ。もちろん彼が健康を害していたことを話すこともできただろうけど、俺たちには再確認したり、ハッキリ言葉にしたりする必要のない近しい絆があった。口にしなくなればなるほど、そこに繋がりがあるのをより深くわかるんだ。
LAでメタリカがライヴをやる時は、いつも彼がやってきて俺たちを観ていくんだ。そしてモーターヘッドがこっちに来たら、俺たちが彼らが演るのを観に行くんだ。俺たちはおそらくこの20年のあいだに50回から100回は遭遇していたんじゃないかな。彼はやってきて俺たちとステージ上で複数回演奏したしね。深い絆だった。それはあのクレイジーな1981年の夏にさかのぼるんだ。俺はいつも感謝しているし、一緒にいられた全ての素晴らしい時間、とりわけ出会って最初の頃の思い出を大事に心にしまっておくつもりだ。俺たちは攻撃されやすく、型にはめられやすい。それは自分たちがどうしてこうなったかっていう重大な部分が、バンドとしても、人としても、直接的に彼だけでなく、これまでに影響を受けた、同じボトルを飲み、同じ物語と同じ空間を共有した残り全ての人たちのせいなのさ。彼の魂は俺たちの中で生き続けるよ。
RollingStone(2015-12-29)
【追記3】
最後の最後にメタリカとレミー・キルミスターの関連動画をcowboybluesさんがまとめて再生リストにしてもらっていますのでそちらをご紹介しておきます。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLGppSrVhtU5U5GSGLhG0ksOf0YAFdFboQ
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レミー・キルミスター70歳の誕生パーティーにロバート・トゥルージロ、スラッシュらが参加
元モーターヘッドのフィルシー“アニマル”テイラー死去、オジー、メタリカらが追悼メッセージ
コメント
もう何も言えない
さっきまで長々と文章書いてる自分が嫌になって全部消しました
WHEREVER I MAY ROAM
RIP
自分も最初、この記事を書くことで何かが終わってしまう気がしてすぐに手を付けられませんでした。
今はこうして書いていくうちに落ち着いてきた気がします。
>ファントムロード君
メタリカに多大な影響を与えたダブルヘッドの片方がついに終わってしまうのかと思うと寂しいしつらいです。
>ジェイムズの弟子さん
ここまで多くの人に愛されたロックンローラーは他にいないかもしれないですね。
直近ではロニーくらいでしょうか。
ショックでかすぎ。。。。(´;ω;`)
悲しい。。。
フィルシーが亡くなった時も気丈なコメントをしていたので、体調悪化で公演中止というニュースがあってもまだまだと思っていたんですけどね...
確かにあの瞬間、レミーは居た!
さ、豊洲PITまで ももクロのカウントダウンライヴ行ってきます笑っ
では 良いお年を!
職場の先輩がそのライヴに行ってますのでよろしくどうぞ^^
良いお年をお迎えください!
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