ホラー映画関連のコレクターとしての顔を持つカーク・ハメットをインタビューした記事を管理人拙訳にてご紹介。インタビューとあわせてホラー映画の歴史もおさらいしている長文記事ですのでマニアックな点を覚悟してどうぞ。

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メタリカのリードギタリストと息子、エンジェル・レイとヴィンツェンツォが彼のモンスターコレクションで遊んでいるところ

メタリカのリードギタリスト、カーク・"リッパー"・ハメットが5歳の時、腕を捻挫し静養していた。両親は彼をテレビの前に居座らせていた。バックス・バニーの漫画に出てくるマラソンといったものは完璧な気晴らしになると考えることだろう。しかし、幼いハメットが腕の痛みを忘れられたのは、大きくなった肉食の宇宙植物が人間を恐怖に陥れるという映画『人類SOS!(原題:The Day of the Triffids)』を観に行った時だけだった。そして彼は恐怖というスリルを発見したのだ。

6歳になって『フランケンシュタイン』を父親と観た時に彼のモンスター映画に対する愛は固まった。「俺は「フランケンシュタイン」に釘付けになった。」ハメットは電話越しにこう語った。「俺にとってこの世のものでないものがいっぱいだったんだ。ジェイムズ・ホエール監督のモノクロでシュールで印象派みたいな映画の様相だったり、ジャック・ピアスの素晴らしいメイクだったり、ボリス・カーロフの信じられないほど素晴らしい演技だったり、言うまでもなくストーリーそのものだったりがね。俺はただただ心奪われた。そこから、「モンスターマガジン」とかホラーコミックとかオーロラ社のモンスターフィギュアを買い始めた。子供だったから使えるお金は多くはなかったけど、あちこちでお金を稼ごうとしてやりくりしていったんだ。」

現在52歳のハメットは10代で音楽と恋に落ちたわけだが、それはホラー映画への強迫観念を衰えさせたわけでは決してなかった。メタリカが1980年半ばにいくらかのお金が入り始めた頃、彼はモンスターマガジン、マスク、コミック本、子供の頃のおもちゃをもっと真剣に買い集め始めた。やがて、存在が確認されている最も希少なホラー映画のポスターや映画で使われた小道具などを買い集めて、ハメットはホラーメモラビリアの分野においてトップコレクターの一人となったのである。最近では、志を同じくする愛好家と繋がることを期待して、世界に自分のコレクションを共有し始めている。

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1962年の映画『人類SOS!』に出てくる人食い植物が子供の頃にどれだけ彼を怖がらせたのかハメットは今笑って話す。

2012年に彼は『Too Much Horror Business』というコレクションを載せた本を出版し、翌年デトロイトで行われたメタリカ主催の2回目の「Orion Music + More」フェスティバルでホラーメモラビリアのいくつかを展示した「Kirk's Crypt」を創り上げた。「Kirk's Crypt」は、2014年に地元サンフランシスコで全3日間のホラーコンベンション「Kirk Von Hammett's FearFestEvil」を始めるきっかけとなった。毎年行われるこのイベントは双方向なディスプレイを特色としていて、ハメットのモンスターコレクションの他、カーカス、デス・エンジェル、ハメットがメタリカ以前にいたバンド、エクソダスといったメタルバンドのパフォーマンス、ゲストには現代のホラー俳優、監督、特殊メイクアーティストばかりか、古典的ホラー映画のスターであるボリス・カーロフやベラ・ルゴシの子供たちもそこに含まれていた。現在、サンフランシスコをヴァージン航空かアメリカン航空で経由する旅行者はハメットのホラーコレクションの一部をサンフランシスコ国際空港内にあるミュージアムで行われている「Classic Monsters: The Kirk Hammett Collection」の展示を第2ターミナルで目にすることができる。

ハメットはサイケデリックな60年代のサンフランシスコ、激動の文化的背景にあった危険な隣人の住むミッション地区で育った。『Too Much Horror Business』の導入部では、ホラー映画が自分を和ませる不気味で夢のような情景という別の世界へと連れて行ってくれたのだと説明している。

自分をのけ者として認識し、チャールズ・アトラスの広告で顔に砂を蹴り上げられるような痩せっぽちになるかもしれない(※訳注1)と恐れていた。本のなかで、音楽ジャーナリストであり共著者でもあるステファン・チラジに彼は語っている。彼はとりわけ、父親と繋がりを持ちたい誤解されたはみ出し者であるフランケンシュタインの怪物に共感を感じていた。ハメットは自身の父親との関係について「強くはなかった」からだ。彼は従兄弟の持っていた狼男のマスクを被った時、力がみなぎり、人生をコントロールし、いじめっ子に対して仕返しをする能力を感じたのである。

「信じられないかもしれないけど、俺は完全に内向的な人間なんだ。」ハメットはこう語る。「みんなはステージ上の俺を見たり、5万人を前に顔色ひとつ変えずに出て行くのを見たりしている。でも俺はそれに慣れているというだけだ。俺の家族の歴史からして、いつもアウトサイダーみたいに感じていた。とても静かで敏感な超恥ずかしがり屋の子供だった。いろんな状況に適応すべく苦労していた。自分をモンスターのように感じていたよ。俺がスクリーンで観たモンスターが経験していたことの多くが、俺自身の生活の中でもあったんだ。」

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1931年の『フランケンシュタイン』のフランス版のパネル。ハメットはこの怪物の「孤独と悲しみの状態」を強いられていたと書いている。

ヘヴィメタルのアルバムジャケットをランダムに参照してみると、ハメットだけがモンスター好きなのではないことは明らかだ。のけ者と逸脱した行為の魅力は、映画の歴史を通じても連綿と続いている。サイレント映画時代には、1920年のドイツ表現主義映画『カリガリ博士(原題:The Cabinet of Dr. Caligari)』、同じく1920年のアメリカ映画『狂へる悪魔(原題:Dr. Jekyll and Mr. Hyde)』、ドラキュラにインスパイアされた1922年のドイツ表現主義映画『吸血鬼ノスフェラトゥ(原題:Nosferatu)』といった映画にみられる、荒涼としたビジュアルと誇張された顔の表情、ビクビクさせる弦楽器、大きな音を奏でるオルガンが邪悪を意味していた。

ユニバーサルスタジオは 社会不適合者がモンスターとみなされる映画の魅惑的な可能性に気付き、1923年にロン・チェイニー主演で映画『ノートルダムのせむし男(原題:The Hunchback of Notre Dame)』を発表した。その後数十年に渡るホラーフランチャイズの初めてのモンスター映画である。2年後、ユニバーサルはチェイニーを雇い、別の冷酷で醜いのけ者を『オペラ座の怪人(原題:The Phantom of the Opera)』で具現化した。

しかし、トーキー映画が1930年代に大流行してからユニバーサルはBIG3を公開した。1931年のベラ・ルゴシの『魔人ドラキュラ(原題:Dracula)』、1931年のボリス・カーロフの『フランケンシュタイン(原題:Frankenstein)』と1932年のカーロフ主演の『ミイラ再生(原題:The Mummy)』である。当時、喋る映像を見るという体験(実際に映画を観に行くという体験そのもの)は観客にとって目新しく、こういった映画と初歩的な特殊効果を純粋に怖がっていた。しかし、1933年には、監督たちが自分たちの作品をちょっと意識したユーモアを差し込んでいくようになる。『透明人間(原題:The Invisible Man)』や『フランケンシュタイン』の続編となった1935年の『フランケンシュタインの花嫁(原題:Bride of Frankenstein)』のように。1940年代、50年代にはユニバーサルは2つの愛すべき獣たちを公開した。ロン・チェイニー・ジュニア主演の『狼男(原題:The Wolf Man)』と『大アマゾンの半魚人(原題:Creature From the Black Lagoon)』である。

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ハメット所有の1931年の『魔人ドラキュラ』関連のおもちゃコレクション。財布、キャンディーボックス、ペイント・バイ・ナンバー・キット(訳注:下絵に書かれた数字の色と同じ絵の具を塗っていくだけで上手な絵が完成するキット)、パズル、ランチボックス、オーロラ社の「Frightening Lightning」モデル、ボードゲーム、そしてオーロラ社のドラキュラのドラッグレースドライバー版。(サンフランシスコ国際空港ミュージアム写真提供)

第二次世界大戦の直後と冷戦初期には、巨大化した放射能による突然変異体や邪悪な異星人、宇宙ロボットといったものが、核技術と宇宙開発についてのアメリカの妄想を表していた。テレビが普及し、映画館では1959年の『ティングラー/背すじに潜む恐怖(原題:The Tingler)』のようなB級ホラー映画で10代の若者が映画を見に来るように思いつく限りのプロモーション・ギミック(※訳注2)を採用した。一方、1954年の『Seduction of the Innocent』(訳注:コミック本の悪影響を説いた精神科医の著書)はパニックを引き起こし、議会の公聴会が開かれるまでに至った。『Tales From the Crypt』のようなゾッとするコミック本が若者を破滅させ、非行に走らせると信じられていたのである。出版業界の新しいコミック自主規制コードに直面して、ECコミックは1955年にホラータイトルの出版を断念した。

1957年(ホラーフランチャイズを畳んでわずか数年後)、ユニバーサルスタジオはモンスター伝説を強化する方法を編み出した。不気味な映画をテレビ局へ「Shock Theater」というパッケージで配給したのだ。テレビ局は映画を紹介するために、LAのKABC-TVで吸血鬼にインスパイアされた古くさい衣装を着た司会者を雇うことになった。1960年代には、こういった番組が通常金曜日か土曜日の夜8時以降に放送され、「Creature Features」として知られるようになる。1958年に創刊された「Famous Monsters of Filmland」のような雑誌は、この現象の人気を増幅させた。

その頃には、1930年代から1950年代の古典的なユニバーサルのモンスター映画は、もはや大人にとって怖がったり、動揺したりするようなものではなかった。しかし子供にとっては不気味で古くさいけど面白いハロウィンのご褒美のようなものだった。1961年、オーロラ・プラスティクス社は自分で塗装する初のモンスターモデルキットを発売した。映画『フランケンシュタイン』に基づいたこのモデルは、あまりに子供たちに人気があったため、需要を満たすべく24時間操業で製造しなくてはならなかった。1962年には、ミュージシャンで俳優のボビー・ピケットがハツラツと歌う変わった曲「Monster Mash」がビルボードチャート1位になった。すぐに店のおもちゃコーナーには、石けん、首振り人形、ボードゲーム、パズル、的あてセット、リモコン、ペッツ・ディスペンサ(訳注3)、工作キットの広い範囲で想像しうる全てのモノがモンスターで埋め尽くされた。

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「The Horror of the Seven Seas」は希少なプラモデル製造会社だ。ハメットはこう記している。「血が飛び散る帆と肉体のない幽霊のような頭が、このおもちゃでバスタブのなかではしゃいじゃうとても良い時間になるように見えるんだ!」(『Too Much Horror Business』より)

モンスターマニアが1960年後半に広がった頃、6歳のハメットも(その方面に)取りつかれていた。『Too Much Horror Business』で詳しく述べられているが、ミッション地区のカトリックの学校へと通いながら、彼はみんながモンスターやマッドサイエンティストに出くわすことを想像していた。毎日、ハメットの両親は牛乳とドーナツを買うために25セントを彼に与えていた。彼はその25セントをポケットに入れると、放課後に「Creepy」「Eerie」といったモンスターマガジン(こういった雑誌は本当のところ、コミック自主規制コードを回避する手段として「雑誌」として再パッケージ化されたホラーコミック本であった)、そして映画に焦点を当てた「Famous Monsters of Filmland」「The Monster Times」といった出版物を買うのである。いわゆる「モンスターキッド」として、彼は授業中に学業をする代わりにこれらのコミック本を読んでいたのだ。

ハメットも土曜日はきまって「Creature Feature」をテレビで観ていた。ハメットが本の中で説明するには、週末、両親が飲んで奇妙な行動を取る麻薬にイカれたヒッピーたちを家に泊めていた時、彼はミッション地区23番通りの大劇場の昼興行の3回公演に逃げ込んでいた。

「当時、サンフランシスコのミッション地区は安全な場所じゃなかった。」ハメットはそう語る。「今はそうじゃなくなってる。今じゃ完全に高級住宅地化されているし、都会派の人たちとドットコム企業で占められている。当時を振り返ると、どこにでもギャングがうろついていたし、子供は昼食代を盗んだり、単にぶん殴ったりするために外を出歩いていた。でも映画館は俺にとって安全な場所だったんだ。少なくとも週に2回は映画を観に行っていたよ。金曜日に行ってみて、土曜か日曜の昼興行にも行く。ときおりはその両方。12歳か13歳の頃までかな、俺は60年代後半から70年代初期の伝統的な映画に没頭していたんだ。ホラー映画だけじゃない、『ゴッドファーザー』とかコメディーとか『燃えよドラゴン』みたいなカンフー映画も観ていたよ。」

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映画に焦点を当てた雑誌「The Monster Times」は1972年に「Famous Monsters of Filmland」に対抗して刊行された。(『Too Much Monster Business』より)

放課後、彼は23番通りのサンフランシスコ・コミックブック・カンパニーで長居していた。その店は1968年にオープンした、アメリカでコミックを専門に扱う最初の店だった。

「サンフランシスコ・コミックブック・カンパニーは俺にとってもうひとつの安全な場所だった。」ハメットは言う。「ゲイリー・アーリントンっていうコミック本の歴史において伝説的な人物がそこの経営者だったんだ。彼はアンダーグラウンドなコミックを支えていた。そこでは麻薬用品販売店でしか売っていないようなパイプとか麻薬関連の品も売っていた。俺が9歳か10歳の頃、ロバート・クラム(訳注:漫画家、アンダーグラウンド・コミックス運動の創始者の一人)がゲイリーの店に来たのを見たんだ。彼は俺がそれまでに見たなかでおそらく一番分厚いレンズのメガネをかけていたよ。」

アーリントンはハメットにとってある種の父親となった。コミックの買い方、売り方、交換の仕方の基礎を彼に教えたのだ。「コミックを読んだり、買ったり、そういった違った経験を吸収してお店で長いこと過ごしていたよ。」ハメットは続ける。「俺がゲイリーと彼の全従業員を狂わせたんだ。小さな子供として、コミックを見つけては集めて、営利目的で彼らに売りさばくっていう俺のやり方でもってペテンにかけようとしていた。俺のコレクションはそうやって出来たんだ。おびただしい数の違う漫画家が店に立ち寄っていたのを覚えているよ。俺はそういうものに没頭していたし、コミック本に関わる人たち、つまりコレクターと仲買人と漫画家の中にいるのが本当に快適だったんだ。」

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左側2つはオーロラ社の『大アマゾンの半魚人』塗装済みモデル。右側はもっとオリジナルの細部まで再現したモデル。(『Too Much Horror Business』より)

(長いので後半に続く)

Collectors Weekly(2015-10-06)

※訳注1:チャールズ・アトラスの広告
筋トレの通信講座の広告。下記画像とリンク参照。
CharlesAtlas

世界で最も完全に発達した男になる方法
http://namfit.com/article3/index.html


※訳注2:『ティングラー/背すじに潜む恐怖』
詳しくはこちらをご参照。※ネタバレ注意
http://homepage3.nifty.com/housei/thetingler.htm


※訳注3:ペッツ・ディスペンサ
キャンディーを入れるケース。キャラクターの頭部がディスペンサとなっている。詳細はこちらから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/PEZ

【訂正】
The Day of the Triffidsの邦題、『トリフィド時代』は原作小説の邦題でした。映画の邦題である『人類SOS!』に修正しました。

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