ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章3回目。メタリカの歴史に触れるならば、避けて通れないあの事故について。有志英訳をさらに管理人拙訳にて。
不運とよぶにはあまりにむごい事故でした。次項ではクリフの事故からいかにしてラーズ、そしてメタリカが再び歩み出したのかが描かれます。続きはしばらくお待ちください。
クリフの訃報を伝えるRollingStoneの記事
バス事故を伝える各写真。
管理人らが2014年にクリフ最期の地に建てられたクリフ・バートンの記念碑を訪れた探訪記はこちらから。
http://metallica.bakufu.org/pic/sweden2014.html
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ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(2)
ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(3)
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ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(6)
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ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石
ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石(2)
ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ
ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(2)
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ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃
ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(2)
ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(3)
ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(4)
ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(5)
ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇
ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(2)
歴史的にヘヴィな日曜日となったDyrskuepladsen(ロスキレ・フェスティバルの会場地)まで話を戻そう。ロスキレ・フェスティバルのコンサートはいろいろな意味で境界線を超えた。フェスティバルの歴史、そして背景を考慮しても。しかし、それでもここデンマークの大衆にメタリカの実質的なブレイクはなかった。メタリカはまだロスキレ・フェスティバルのメインステージのような巨大なシーンのなかでは、あまりに騒々しくあまりに異様だったのだ。だがメタリカのパフォーマンスは、ヘヴィメタルへのプログレッシヴなアプローチを大きく発展させた、間違いなく絶対不可欠な表明だった。このコンサートとメタリカの存在感自体が、新たなスピードメタル文化の勝利となったのだ。
そしてこの勝利は続いていった。ショーというショーがこの年の残りを埋めていき、もちろん若いデーン(訳注:ロスキレ・フェスの観衆のひとりと思われる)はバンドの次のデンマーク訪問についてすでに知っていた。彼はロスキレ・フェスのことから話すことにした。「9月27日に(デンマークの)サガで会おう。」半分は熱狂的、半分は大口を開けて呆然としていた、信頼のおけるDyrskuepladsenの観衆に向かってラーズは叫んだ。そこにはライヴ前のサウンドチェックの時間からメタリカを観ることのできた、昔からのファンもいた。
実際、メタリカはデンマーク再訪問への道のりはすでに順調であったし、このサガのコンサートもすぐに完売することとなった。メタリカはアメリカでのオジーとの「Damage Inc.」ツアーを終わらせて、それからイギリスでツアーを行わなければならなかった。しかし、オジーのツアーが8月3日のヴァージニア公演で終わろうとする1週間前に、インディアナ州エバンズビルのメスカー円形劇場(The Mesker Amphitheatre)で、ジェイムズはバックステージでは欠かせないスケートボードでふざけて遊んでいたところ、ボードから滑り落ちた。彼は腕を負傷し、残りの3人のメンバーは15,000人の期待に満ちたメタルファンの前でステージに歩み出て、その夜のショーは行えないことを発表しなければならなかった。
「あれは俺がステージ前に飲まなきゃやってられなかった初めての出来事だった。」ラーズはそう語った。彼が話し出すとすぐに、3人のメンバーたちは強烈なブーイングと罵声の悲しき受け手となっていた。
逆に言えば、観衆の反応は良い兆候でもあった。メタリカが、ヘッドライナーの大御所オジーを観るために支払った価格の重要なパートであり、呼び物であったことが明らかにそこに表れていたのだ。しかし最も重要なのは、バンドとQプライムが今やとても緊急の問題を抱えていたということだ。メタリカはアメリカにおけるメタルの大観衆のあいだで大きな飛躍を遂げようとしていた。オジーとのツアーはもう残り数週間しかなかった。その直後には半月のヨーロッパツアーが彼らを待っていた。その後には初来日公演があった。
リズムギタリスト無しのメタリカのステージ?不可能だ!
オジーはこう叫んだ。「レッツゴー、ファッキン、クレイジーーーーーーーー!エバンズビル!!」その声の限りの絶叫はメスカー円形劇場のステージ、メタリカ、そして病院から戻り包帯で巻かれたジェイムズ・ヘットフィールド、そして横に座っていたバンドのギターテクで以前のツアー仲間だったメタル・チャーチのジョン・マーシャルにも聴こえた。ジョンはステージ経験もあり、メタリカの曲も知っており、すでにツアー全日程にブッキングされていた。そう、ジョンは第5のメンバー、そしてリズム・ギタリストとして参加する準備はできていたのだ。
バンドの次の公演となったナッシュビル、テネシーを乗り切るため、ジョンは集中して車の中で『Master Of Puppets』を聴いていた。ジェイムズの泊まっていたハイアット・リージェンシー・ホテルの部屋でも、メタリカとのコンサート・デビュー前に最後の手がかりを掴もうとしていた。
「でも俺はジェイムズのようには弾けなかったよ。違って聴こえるんだ。ローディーとして、俺は一日に4、5時間も練習できなかった。ギターをチューニングして、5分演奏するんだ。」ジョン・マーシャルは後にこう説明している。(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)
メタリカ活動初期のメンバー変遷のなかでジェイムズが(ギターを弾かずに)歌うのみだった5人編成はあったが、ナッシュビルのショーでは完全に別問題の話だった。バンドの観客はもはや2桁ではない。5桁なのだ。ジョンはもちろん緊張していたが、この束の間のラインナップ変更はこんな自体を予期できなかったであろうラーズにとって最も困難だったかもしれない。メタリカがブレイクを果たすツアー最後の前夜と紛らわしいほど似ていた。彼は5人編成を続けていくことをとても心配していた。数回のコンサートを経てようやく実際にこれでいけるとわかったのだ。
ヘレルプの時計がラーズの頭のなかでチクタクいっていたが、オジーのツアーは計画通りに恐れていた失敗をすることなく終えることができた。ラーズが練っていたメタリカの計画の中、運命の待ち伏せは回避されてきた。また、医者はジェイムズの腕が9月10日に(ウェールズの)カーディフから始まるメタリカのヨーロッパツアーには間に合うよう治癒すると考えていた。全てが順調に調整されたツアースケジュールに従うことができた。
オジーとの最後のコンサート後、ラーズとバンドは5週間の素晴らしい休暇を楽しみにしていたはずだった。ジェイムズの事故はさておき、メタリカにとっては素晴らしい春であり、クールな夏だった。今や国際的な少年は、待ち受けるツアーに責任を持ち、残りの夏を最高の思い出の地、イギリスで楽しもうとしていた。
ツアー開始前にラーズとジェイムズとマーク・ウィテカーはメタリマンションを発ち、8月初旬にラーズはマネージャーのピーター・メンチの家を仮の宿として一ヶ月過ごした。
「あぁ彼は私と一緒に住んでいたんだ。」ピーター・メンチはそう振り返る。「彼はイギリスにやって来て、一緒にうろついていた。つまり彼が起きたら一緒に出かけていたんだ。彼は朝4時に完璧に酔っ払って家にやってきた。私は毎日気にかけながら仕事をしていたよ。私はバンドのマネージャーだからね。」メンチはニューヨーク仕立ての皮肉を交えてそう付け加えた。
ラーズは残りの夏のあいだ、ロンドンのナイトライフを楽しんでいた。しかし、キッチリと描いていた彼の計画の道筋は狂ってしまった。ヨーロッパツアーの日程が近づくと、12日間のツアーのうち最初の10日はジェイムズがギターを弾くことができないことが明らかとなった。幸いなことに適切な緊急策として、ジョン・マーシャルがメタリカのステージセットの大きな十字架の近くを控えめに陣取って、ウェールズとイングランドに渡る「Damage Inc.」ツアーは継続された。
ジョンにとって、ローディーに加えてギタリストという役割が倍増したことで実入りの良い仕事となったが、彼は同時に糖尿病と戦っていた。それは定期的なインスリン注射が必要であることを意味していた。彼はボロボロに燃え尽きており、「Damage Inc.」ツアーの最後のコンサートが日本で行われたらすぐに11月で全ての仕事をやめようと決めていた。
ツアーがヨーロッパ大陸まで至ると、ジョンとメタリカにとって良いニュースができた。ジェイムズ・ヘットフィールドは3ヶ月ぶりにギターの演奏を再開し、9月26日の金曜夜に行われたストックホルムのソルナ・ホールのステージにバンドが立った時にはモチベーションは最高だった。
「あぁ、ジェイムズがリズムギターを再開した最初のショーだったんだ。あれは本当にクールだったね。」ラーズはそう話す。
メタリカの列車は再びレールの上に戻った。ロスキレ南部の、あの記念すべき日曜夜に約束したように、9月27日の土曜夜にサガでプッキングされていたのだ。ラーズと元に戻ったラインナップは(サガ公演翌日の)日曜夜にコペンハーゲンに行くことを考えて幸せ一杯だった。日曜日はハンブルグに向かう前に一日オフだったのである。
ツアーバスはストックホルム北部のソルナから深夜に運転されていた。それはジェイムズがいつもの寝台で寝なかった例外を除けばいつも通りだった。彼はいつもクリフの隣の二段ベッドの上で寝ていたが、このルートではドラッグ(の煙?)を避けるために他の場所に移動していたのだ。
イギリス人の運転手が車の制御を失ったのは、ユングビューの小さな町に差し掛かった朝6時頃のことだった。ラーズがこのエピソードで覚えていることは次の通りだった。
「俺は寝ていたんだ。それからもう眠れなかったよ!バスは停まっていて、横転していた。寝ていた時に何が起きたのか本当のところはわからない。でも俺は古き良きハリウッド映画みたいにバスが爆発する前に逃げなきゃって思ったんだ!だから俺は現場から森に向かって駆け出していったんだ。あの忌々しいバスから遠く離れて無事止まって振り返るまで走って走って走りまくった。何の爆発もなかった!だからバスに戻っていったんだ。そして他の人たちと落ち合った。1人、2人、3人、4人、5人とね。1人はちょっと足を引きずっていたし、もう1人はあちこちに痣ができていた。でも大きなケガとかそういうのはなかった。奇妙に思った唯一のことは、もちろん、俺たちの中にクリフがいなかったことだ。それから救急車が来て、病院まで運ばれて診察された。俺はかかとつま先の3分の2が損傷していると言われたよ。俺が覚えているのは、ジェイムズと俺が診察室のベンチに座っていると、スウェーデン人の医師がやってきてこう言ったんだ。「キミたちの友だちのひとりは助からなかった!」俺は彼が「キミたちの友だちのひとり」と言ったことを奇妙に思っていた。クリフはただの「ひとりの友だち」以上の存在だったから。医者がクリフ・バートンが死んだと告げると、ジェイムズと俺は互いを見合わせた。俺たちは本当に理解できなかったんだ。スウェーデンで第二位の病院で座ってそんな言葉を聞くなんてことはとても不思議だったんだ。ゆっくりと夜が明け始めていた・・・俺たちはそこでクリフを見てはいなかった。」
「それから叔父のヨルゲンがコペンハーゲンからやってきて、俺を車に乗せていった。ピーター・メンチはロンドンからやってきた。彼が実際にクリフの身元確認をしたんだ。俺がユングビューを出た頃、ジェイムズとカークは飲みに出て行き、あの忌々しい道の近辺を歩き、わめき叫び、正気を失い、泣いていたのを覚えているよ。でも俺は家族のいる安定した環境であるコペンハーゲンへと向かう途中だった。」
クリフはバスの窓を突き抜け、倒れたバスの下敷きになり即死だった。8時になる頃には、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、そしてコペンハーゲンといった世界中の電話が鳴り始めた。同じ悲劇と気の遠くなるような「クリフ・バートン死去」というメッセージを添えて。
英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/
不運とよぶにはあまりにむごい事故でした。次項ではクリフの事故からいかにしてラーズ、そしてメタリカが再び歩み出したのかが描かれます。続きはしばらくお待ちください。
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ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(2)
コメント
時間が解決してくれるなんて嘘です
今もなお、活動して心に訴えるのはジェイムズの弟子さんのような面が大きいですね。
どこの都市か失念しましたがオライオンを弾き終わってジエイムズが「クリフは今も心にある」というようなことを言っていましたね。
管理人さんも辛い翻訳お疲れさまでした。
万人に有効な立ち直り策なんてきっとないんでしょうね。でもこういうときに側にいてくれる存在は絶対に必要だなと思います。ラーズも・・・それはまた次回に。
>ジェイムズの弟子さん
カークは本人がクリフとカードで寝場所を決めたことを語っていたのを観たことがあります。おそらくジェイムズは(クリフが吸っていたタバコの煙をよけて)自分でバスの後部座席の方に移ったのではないかと。このような状況下からまた前に進んだ彼らには本当に尊敬の念ですね。
>ヒロさん
悲劇の地は半日以上かけないと行けない僻地にあるので、訪問は困難をきわめました。本当につらい話ではありますが、今もこうして活動し続けてくれるからこそ語り継げるエピソードであると思います。かの地を訪れた翌日、オスロ公演でのOrionは今でも忘れられません。
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