ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章2回目。『Master Of Puppets』を完成させ、舞台はいったん、ラーズの地元デンマークで行われた老舗フェス「ロスキレ・フェスティバル(Roskilde Festival)」へと移ります。管理人拙訳にて。
このロスキレ・フェスの公演の模様はありがたいことにYouTubeで全曲視聴が可能です。最後の最後で映像が途切れていますが、当時の熱気が伝わる素晴らしい映像です。
ロゴマーク無しはこちらから。
https://www.youtube.com/watch?v=RFQaQ9qQqZw
セットリストはこちら。
http://www.metallica.com/tour/jul-6-1986-roskilde.asp
「オレンジの張り出した屋根」という記載がありますが、このロスキレ・フェスティバルは現在でも張り出したオレンジ色の屋根がフェスのシンボルとなっており、張り出し屋根(Canopy)の「Canopy Scene」、もしくは「Orange Scene」と言ったらロスキレ・フェスのことを指しています。
当時のポスターでもこの屋根のデザインが挿入されています。
次の項ではあの忌まわしい事故について・・・。
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- ロスキレ・フェスティバルの舞台裏 -
1986年6月下旬、メタリカはオジーのツアーから3週間の休みを許された。この休止期間にメタリカは大西洋を飛んで、ヨーロッパの複数のフェスティバルで演奏する機会を得た。それにはオレンジの張り出した屋根が象徴的なロスキレ・フェスティバルが含まれていた。メタリカは日曜日の夜、最後から二番目のバンドとして登場した。実際にHR/HM以外のバンドが参加するコンサートはメタリカにとって初めてのことだった。86年のロスキレで、バンドはエリック・クラプトン、エルビス・コステロ、フィル・コリンズのようなスターたちとポスターの名前を分かち合ったのである。逆に言えば、メタリカはロスキレ・フェスティバルの歴史において初の海外のヘヴィメタルバンドとしてその名を刻んだのだ。(そして間違いなくヘヴィメタルのバンドを入れるかどうかというのが、このフェスティバルの恒例の議題となった。)
1986年のロスキレ・フェスティバルの日曜日(訳注:1986年7月6日)は素晴らしかった。太陽が一日中顔を出し、すでにとても馴染んでいたメタリカの青年たちはフェスティバルの会場をうろついていた。ジェイムズとクリフは馴染みのツボルグの緑色のビンを手に持って、彼らの仲間であるアーティレリー(Artillery)や一部のファン、そしてファンジンの記者と楽しい時間を過ごしていた。ラーズはどこにいたのか?メタリカについて言いたいことが山ほどあったため、ラーズは(訳注:バンドの控え室である)トレーラーのなかでメディアとやり取りを始めていた。そこで「Scum」「Metallic Beast」といったデンマークのヘヴィメタル・ファンジンや(新聞社の幸せな新入社員ステファン・ヨンガスンに代表される)地元ロスキレの記者にインタビューを受けていたのだ。
メタリカはデンマークではアンダーグラウンドな存在だった。しかし『Master Of Puppets』のアメリカでの衝撃的な成功によって、ヨーロッパの大手レコード会社から大きな後押しを受けていた。メタリカがロスキレに到着する前にも関わらず、バンドはオランダを基盤とするポリグラム(Polygram)との契約を交わした。それはポリグラムがデンマークを含むヨーロッパで、次のアルバムのミュージック・フォー・ネイションズの配給を飛び越えることを意味していた。
したがって、ポリグラムのデンマーク支社、マーケティング部のデニス・プログは特別な関心を持ってロスキレのコンサートに来ていた。
「ロスキレはめちゃくちゃクールだった。地獄のようにキンキンしたけど、ものすごくよかった。」デニス・プログはメタリカのショーをこう語る。そこは(フォーリナー、ヨーロッパ、ボン・ジョヴィといった成功したバンドのクローンである)メロディックなスカギャラック(Skagarack)というバンドがポリグラムのデンマーク支社の獲得前に最後にやってきた場所だった。
「私はポリグラムがメタリカとサインしたことを記すとってもハッピーな日だった。でも販促の人たちのなかには怖がっている人もいた。彼女はヘヴィメタルシーンには小さな子供にケチャップをつけて朝食で食べたり、夕食にプロモーション・ガールを食べるようなミュージシャンでいっぱいだと思っていたんだよ!私たちのなかでもメタリカのようなバンドとサインを交わすことはいい考えなのかどうか本当に意見の分かれるところだった。悪いPR以外のことは何もできないからといって、ポリグラムのなかでそういうジャンルからは完全に身を引くべきだと考える政治的圧力もあったよ。販売の観点から、ただのニッチにすぎないという根深い確信を持っていたんだ。」
「それからスカギャラックと契約したんだ。彼らは我々が後を追うべきバンドのごとく、素晴らしくより値打ちがあるように見えた。みんなメタリカよりスカギャラックに賭けたんだ。はるかにキャッチーだったからね。ラジオでは彼らの曲は流しても、メタリカは一切流さなかった。そしてメタリカの音楽ジャンルは、どれだけ肩入れしようともこれ以上売れないという閾値の下にあると考える人もいた。我々の組織のなかでも最後までメタリカとサインを交わすのはいい考えかどうかハッキリ分かれていたんだ。信じられないほど分裂していたよ!」
それにもかかわらず契約は疑う余地がなかった。ポリグラムにとってもメタリカにとってもそしてバンドのマネジメントにとっても。ポリグラムはすでにQプライムと非常に良い関係だった。交渉を行ったピーター・メンチはメンチとQプライムの最強の有名バンドのひとつであったデフ・レパードでのポリグラムのマーケティング販促の仕事に強い感銘を受けていた。何をおいても、ポリグラムのメタリカ獲得は、さまざまな従業員の好みとその結果生じた疑問ではなく、純粋でシンプルなビジネス、そして先見の明だった。
ピーター・メンチ「ひとつ理解しなければならないことがある。個人的にヘヴィメタルを好きだったレコード会社なんてひとつもなかったんだ。彼らはプロとして好きだった。なぜかって?売れるからだよ。これはビジネスだ。我々はポリグラムと契約を勝ち取った。我々はすでにシーンで大きな仕事をしてきたからね。メタリカはヨーロッパでサインをしなければならなかった時、ワーナーかポリグラムという2つの選択肢があった。ワーナーは私が取引してきたなかで最悪の国際企業だと言えるね。私が彼らのオファーを受け入れるチャンスはなかった。それくらいマヌケだったんだ。ポリグラムはかつてシン・リジィのようなロックバンドを担当していた。デフ・レパードでたくさんレコードを売ってもいた。私はワーナーブラザーズのオファーよりも少ない額の基本契約をポリグラムと交わしたんだ。」
今にして思えば、この契約はポリグラムにとって素晴らしい契約であることを証明した。『Master Of Puppets』時代のメタリカはロック界で広く人気があったわけではなかったとはいえ、新しいレコード・レーベルのなかでも全く知られていなかった。ポリグラムのコペンハーゲン支社にはすでにプレッシャーがあった。ボン・ジョヴィの1stアルバム『Slippery When Wet』も86年にリリースされたが、概算でスウェーデンで6万枚、ノルウェーで4万枚売れたが、デンマークでは2800枚しか売れていなかった。今、ポリグラムはメタリカのような難解なケースを取り扱わなければならなかったのだ!ポリグラム・デンマークに少し懐疑的な人がいても不思議ではなかったのである。
デンマークは間違いなくロックの市場ではなかった。しかしたくさんの人がはるかに賢くなろうとしていた。すでにメタリカのことを確信していた人たちでさえも。
英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/
このロスキレ・フェスの公演の模様はありがたいことにYouTubeで全曲視聴が可能です。最後の最後で映像が途切れていますが、当時の熱気が伝わる素晴らしい映像です。
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セットリストはこちら。
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