ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の管理人拙訳を久しぶりに再開。前回までで『Ride The Lightning』のリリース、Qプライムとのマネジメント契約、メジャー大手のエレクトラとのレコード契約を果たしたメタリカ。『Master Of Puppets』の制作から始まる第5章の1回目です。
メタリカとオジー・オズボーン(1986年)
ちょっとずつ訳しためていたものを一気に放出してしまったので、続きはまたしばらく先になりそうです。しばらくお待ちください(汗)
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- メタル・マスターの悲劇 -
1984年から1985年頃、メタリカは「唯一の」ハードで騒々しい「スラッシュメタルバンド」として見られていた。それ自体、メタルの外にいた人々には真剣には受け取られていなかった。しかしラーズはその状況を心配していなかった。多くの出来事が過去3年に渡ってバンドに起きていたのだ。自発的に行った「Hit The Lights」のレコーディングから、ガタガタな一連のデモテープ、最初のギグで感じた絶望を経て、メジャー・レーベル、そしてマネージメント契約まで至ったのである。
純粋なビジネスと戦略的立ち位置から、バンドはラーズやその他のメンバーが望んだ状態に整備された。メタリカはすでにインディペンデント系ヘヴィメタルバンドとして信じられない数のアルバムを売っていた。そして真っ当な会社にいる真っ当な人々はバンドの将来性をそこに見ていたのである。ラーズとバンド、そして彼らの弁護士は、国際企業であるエレクトラ・レコードとバンドの今後の作品との関係において意識的に芸術的自由を確保していた。
ラーズ・ウルリッヒは前述したMM誌のインタビューをこう締めくくっている。「だから俺たちはもうレコード会社やマネージメントのせいにできない。彼らがうすのろなんじゃない。うまくいかなかったら、それはもう俺たち自身のせいなんだ。」(MM誌1984年11月10日号)
バンドの3rdアルバム時代の到来はラーズの必須要件を課すものでもあった。その時代は全くの対照をなす出来事を含むこととなる。つまり「バンドの芸術的頂点と実際の躍進」 vs 「バンド最大の個人的悲劇」である。
『Ride The Lightning』時代はまだ終わってなかった。1985年前半、メタリカは有名なヘヴィメタルバンド、W.A.S.P.の前座を含む『Ride The Lightning』ツアーを続けていた。これだけがバンドとアルバムのプロモーションを行う唯一の方法だった。ビデオとラジオ向けシングルはまだバンドのプロモーション戦略を担ってはいなかったのだ。メタリカはきっちりアメリカのツアーに集中し、バンドの拠点であるメタリマンションから車でわずか20分のオークランドの巨大な野球場で8月31日に行われたプロモーター、ビル・グラハム主宰の伝説的コンサート「Day On The Green」でクライマックスを迎えた。
数日後、8月から9月になり、ラーズとジェイムズは(訳注:デンマークのコペンハーゲン空港のある)カストルプに上陸し、フレミング・ラスムッセンの待つスウィート・サイレンス・スタジオの近所にやってきた。重要な3rdアルバムは事実上、メタリカのカレンダーのうち、1986年の残りを全て費やした。
この時、アマー島のスウィート・サイレンス・スタジオは、バンドの最初の選択肢ではなかった。夏に行われたメタリカのツアーの合間にラーズとジェイムズとフレミングは、一週間でロサンゼルスのさまざまなスタジオをチェックした。
「存在している全てのスタジオに行ったよ。」ラーズはそう語る。「次のアルバムをレコーディングできる場所をみつけるために毎日8つのスタジオを廻ったんだ。最高のスタジオはワン・オン・ワン(One On One)だという結論に至るまでね。俺たちは85年秋にレコーディングすると話したんだけど、彼らはオーバーブッキングしてやがったんだ。マヌケ野郎どもだよ。だから俺はフレミングに、デンマークに戻ってレコーディングして、50%近く経費削減した方がよくないか?って言ったんだ。」
スウィート・サイレンス・スタジオは、ワン・オン・ワンに欠けていたおなじみの利点が全てあった。
「俺たちはフレミング、スウィート・サイレンスの(スタジオのオーナーである)フレディ・ハンソンともとてもいい関係だった。」ラーズは語る。「スタジオルームではさらに良いセットアップになったと感じていた。できるだけ早くレコード会社を出て、できるだけ多くの時間をスタジオに費やす。それはとても重要だったんだ。だからワン・オン・ワンで7、8週間いる代わりに、フレミングとスウィート・サイレンス・スタジオに戻って4週間とれたことは最善だったんだよ。」
最終的に、レコーディングする場所を決めたのはバンドそのものだった。はるかに安い料金のスタジオが、ニューアルバムのレコーディングにことのほかピッタリであることを証明した。そしてメタリカのメンバーはもはやスウィート・サイレンスの屋根裏部屋で一緒に寄り集まって寝泊りする必要はなくなった。
「俺たちはアマー島のホテル・スカンジナビアに移ったんだ。そこはリッチー・ブラックモアやその他のアーティストがデンマークにいるときに住んでいたとこだったからね。」ラーズは70年代にノートとペンを持ってホテルの外で待っていたことを引き合いに出してそう話した。「俺たちにとって、デンマークでのレコーディングは経済的にも本当によかったんだ。(レートの良かった)ドルのおかげでもあるんだけどね。それで俺たちは角2つの互いに面したスイートを予約した。ジェイムズと俺でひとつのスイート、カークとクリフでもうひとつをね。あれはよかったよ。それが4ヶ月も続いたんだ。走り回ってたら、靴擦れまで出来たよ。ハッハッハ!(笑)」
そんなことがありながらも、やっていたことのほとんどは完全にアルバム制作に集中していた状態だった。ラーズ・ウルリッヒとジェイムズ・ヘットフィールドは完璧なメタルアルバムを作ることに本当に集中していた。そして確かに完璧なアルバムでありながら、さまざまな感情表現、これらの表現が互いに息づく、耳目を引く特別なものであった。細部に宿る力は、いわばアルバムの駆動力をなしており、単純化した「スラッシュメタル」というラベルからメタリカは喜んで最後の一歩を踏み出したのだった。ラーズは、長きに渡って続く素晴らしいロックバンドは常に出自のサブジャンル以上のものになるということをよく知っていた。
「スラッシュという言葉は、いずれにしろ俺たちには合っていなかったんだと思う。」とラーズは『Master Of Puppets』と題する次の新しいアルバムについて論じた。「たしかに俺たちはその手のスタイルの枠内だった。スピードもエネルギーも不快な感じも俺たちの曲にはあるからね。だけど、俺たちはいつもその限界の向こう側を見ていたし、メタルに対してヨーロッパ的なアティテュードを持ったアメリカのバンドという方が俺たちにはふさわしい定義だな。『Ride The Lightning』で、俺たちはペースがゆっくりになっても、充分パワフルでいられるのだということを学んだ。そして今、俺たちは音楽に繊細な部分があっても、充分ハードに攻撃できるということを理解したんだよ。」(マーク・パターフォード/ザビエル・ラッセル共著「Metallica : A Visual Documentary(邦題:Metallica 激震正史)」(1992)より)
『Master Of Puppets』はその前作同様に成功したテンプレートとなっていった。『Ride The Lightning』のように『Master Of Puppets』は美しいアコースティック・ギターのイントロから始まり、モンスター級のスピードが後に続く「Battery」は、サンフランシスコのバッテリー・ストリートにあるオールド・ウォルドルフで行われたクラブ・コンサートについて歌っている。A面のタイトルトラックでもある「Master Of Puppets」は「Ride The Lightning」よりもはるかに良い編曲で、どれだけバンドの(特にラーズ・ウルリッヒの)アレンジセンスが早くに成長していたかを示すいい例だ。ヘットフィールドが全ての歌詞を書き、とりわけ薬物中毒者の依存症と無力感について歌った「Master Of Puppets」は強烈だった。この曲と幻想的なミドルセクションはメタリカが今やメタル、不快な音、ハーモニー、美しさ、哀愁、巧妙さのあいだの平衡を保つマスターであることを明らかにしている。
A面(我々はまだLP時代にいるのだ)でも激しいバラード「Welcome Home (Sanitarium)」で静まっていき、B面では『Ride The Lightning』の「The Call Of Ktulu」のように明らかにクリフ・バートンが手がけたH.P.ラヴクラフトを参照した長編のインスト曲(「Orion」)が含まれていた。
表面的には、このアルバムは『Ride The Lightning』とある種の類似性を持っていたが、それにもかかわらず強力な価値を持っていた。バンドが革新的な『Ride The Lightning』によりすでに富を得て、エレクトラとの契約により制作期間の延長が可能となった。『Master Of Puppets』は、この2つの要因によって創造力に富む雰囲気のなか創られたのだ。85年秋の創造的な特典として、メタリカが自分たちの音楽、そしてヘヴィメタルそれ自体も新たな高みへと突き動かしていく巨大な力を持っていた。『Master Of Puppets』という驚くべきメタルの作品がもたらしたこれらすべての要因が、速さと技巧のバランスのとれたメタリカ自身のスタイルを完成させた。
『Master Of Puppets』のレコーディングのため、ジェイムズとラーズがコペンハーゲンに前ノリしたのは、主にひとつの事柄のせいだった。盗まれたアンプがみつからず、ジェイムズがまだ適切なギターサウンドをみつけるために奮闘していたのだ。それまでに確保しておかなければならないプロセスもあった。ラーズが自身のドラムを揃えてもらうようマネージャーのピーター・メンチと彼のもうひとつのクライアントであるデフ・レパードの助けを必要としていた。その年のはじめにデフ・レパードのドラマー、リック・アレンはオートバイ事故によって片腕を失った。メンチはリック・アレンのLUDWIGの特注ブラック・ビューティー(手作りの黒く塗装されたドラム)をロンドンからコペンハーゲンに持ってきたのだ。
しかしラーズはコペンハーゲンの店で生産終了になろうとしていたまさに同じモデルのスネアドラムを見つけた。たとえ古い「1978」の値札がついていたとしても。(訳注:デフ・レパードのレコードデビューは1980年のため、リック・アレンのニセモデルと思われる。)一方、リックは足で操作できるユニークなオペレーティングシステムによって失った片腕の代わりを務める自身のドラムキットを設計していた。
ギターサウンド、スネアドラム、その他万事整って、『Master Of Puppets』のレコーディングが始まった。
「私たちは本当に一生懸命やったよ。日に12時間から14時間、それを3ヶ月毎日さ。」プロデューサーのフレミング・ラスムッセンは振り返る。彼はスタジオで争いがあったことも思い出していた。「でも兄弟・姉妹喧嘩よりひどいことはなかったよ。私たちは家族のような関係だったからね。」フレミングはそう付け加えた。彼はすでにメタリカと最初に共作した頃から「親父(Dad)」とあだ名で呼ばれていた。
さらにメタリカファミリーにおいては明確に定義された役割があった。フレミングは回想する。「クリフがベースにまつわることに対して中心に置かれながらも、ラーズとジェイムズの手中にあった。ラーズとジェイムズはスタジオでは独裁的権力は持っていなかった。でも彼らの言葉はある種の重みを持っていたね(笑)」フレミングは外交的な言い回しで笑いながらそう言った。
さらにメタリカのマネージャーとして、ラーズが初期に果たした役割は『Master Of Puppets』のレコーディングのあいだ、ますます顕著になっていた。
「ラーズは純粋にプロのドラマーとして非常に進歩していた。」ラスムッセンはそう語る。「でも彼はまた、物事のビジネス面において、とりわけビッグバンドの一員として、明らかに著しく素晴らしい掌握力を持っていたよ。『Ride The Lightning』から『Master Of Puppets』までにたくさんの進歩があったわけだけど、ラーズはほとんどの時間を電話に費やしていた。ジェイムズが理想のギターサウンドを探し求めていた頃、多かれ少なかれ彼自身がバンドを管理していたんだ。ラーズはツアーやTシャツやその他もろもろのために可能な限りの場所に連絡を取っていた。」
アマー島にいるラーズとマンハッタンにいるクリフ・バーンスタイン、あるいはロンドンにいるピーター・メンチとのあいだで交わされたたくさんの会話は、来るべきツアーに向けての戦略に焦点を当てていた。前述の通り『Master Of Puppets』のレコーディングの前日、バンドは有名な「Day On The Green」で6万人のハードロックファンを前に自らの力量をテストすることが出来たし、ベイエリアに戻って、メタリカはスコーピオンズやラット、Y&Tのようなバンドの前座を務めてもいた。この経験は、メタリカに小さなクラブや会場の親密さよりも、幾分大きな場所で全力を傾けることができるという感覚を与えた。ラーズとQプライムの計画は自身がヘヴィメタルのアイコンであるオジー・オズボーンのサポートアクトとなることだった。彼は86年の春と夏を通じて、15000人から20000人収容のホッケーやバスケットボールの最も大きなアリーナで全米ツアーをしていた。そしてメタリカは最後までそのツアーに帯同することとなった。
ソロアーティストとして、オジーは『Blizzard Of Ozz』『Bark At The Moon』アルバムを出して熱狂的ファンを増やしていた。よって(そんなオジーのファンを迎える)タフなギグがメタリカを待っていたのだ。しかしタイミングは絶好だった。この戦略は正しいことを証明した。ラジオ向けシングルやビデオは、86年当時のメタリカの選択肢ではまだなかった。オジーとブラック・サバスが70年代初頭にヘヴィという定義そのものを打破するためにこういったプロモーション手段を必要としなかったのと同じように。そしてある程度、『Master Of Puppets』は、オジーとサバスの時代の『Black Sabbath』から『Paranoid』『Sabotage』までの一連の陶酔感以来、最もクラシックな傑作アルバムとなった。
実際、オジーとメタリカはお似合いのペアだった。オジーと彼のクルーはメタリカにまともな待遇を施し、ツアーの最後にはメタリカを観た昔からのサバスファンのなかでゴッドファーザー(訳注:オジーのこと)のセット中におむつをつけることでオジーに感謝の意を示すものもいた。
『Master Of Puppets』のレコーディングは1985年のクリスマス・イヴに完了し、その後3人のアメリカ人たち(訳注:ラーズ以外のメタリカのメンバー)はアメリカへ帰っていった(ジェイムズのみ、デンマークを学ぶ試みとして伝説的な「スノー・ビール」ツアーを行った後で)。一方、ラーズは母親の住むコペンハーゲンの家でクリスマスと自身の22歳の誕生日を祝った。ラーズとフレミングはその後、スタジオ入りし、ラーズがサンフランシスコへ去る前に最後のドラムのレコーディング処理をしていた。サンフランシスコでメタリカは、カリフォルニアの新たな熱狂的なメタルシーンから出てきた仲間たちと大規模な新年コンサートのブッキングがあったのだ。83年以来初めて、ラーズ、ジェイムズ、クリフは以前のギタリストで今や自身のバンド、メガデスのフロントマンであるデイヴ・ムステインとステージを共にすることになった。カークの前のバンド、エクソダスもそこにいた。オジーとの今後のツアーで重要な役目を果たすこととなるジョン・マーシャルがギタリストとして在籍するメタル・チャーチ同様に。
『Master Of Puppets』がアメリカでマイケル・ワグネルによってミキシングされていた頃、ジェイムズとクリフはホームであるサンフランシスコでお遊びバンド、スパスティック・チルドレンを組んで楽しんでいた。ラーズは1986年3月7日のアルバムのリリースまで熱心にメディア取材ツアーを行っていた。ラーズは話題がメタリカとなり、メイントピックが『Master Of Puppets』となるといつも夢中になっていた。バンドは著名なハードロックの出版物のなかで、表紙を飾る存在となっており、購入者からの反応は目に見える形で現れた。リリース最初の週に『Master Of Puppets』はアルバムヒットチャートTOP30まで登りつめたのだ。(メタリカが86年夏の終わりにオジーとのツアーを終えた時点で、アルバムはアメリカでゴールドディスク、つまり50万枚を売り上げた。)
そんなわけで、3月27日から始まったカンザスシティーのオジーとのツアーは確かにメタリカのための春といえた。1時間のセットを終え、シャワーを浴びたら、バックステージでアルコホリカ・パーティーの始まりだ。忘れてはいけないことは、彼らのアイドルのコンサートを毎夜タダでそしてベストの位置で見られるということだった。
1986年のツアーのあいだラーズはこう語っている。「俺たちはこのギグ以上のサポートを得るなんて望むべくもないことだよ。オジーは本当に度を越えた観衆を魅了していた。俺たちは最も度を越えた新進気鋭のハードロックバンドのひとつなわけで、理想の観衆のためにキッチリ演奏する機会を得たってわけだ。バンドは55分のセットを毎夜やって、本当にクールに迎え入れられた。メタリカもオジーのクルーからファーストクラス級の扱いを受けたんだ。」(マーク・パターフォード著『Metallica in Their Own Words』(2000年刊行)より)
しかしメタリカのビーカーに苦味が数滴落とされた。『Master Of Puppets』の最後の曲に触発され公式ツアーのタイトルは「Damage Inc.」だった。この超高速の曲はこの当時のメタリカで支配的なムードを完璧に捕らえていた。ステージ上でもバックステージでも彼らのキャリアの面でも。しかし情け容赦ない運命は、全くツアータイトルの文字通りのごとくとなっていくのである。
ニュージャージーのメドウランズ・アリーナ(現アイゾッド・センター)で、オジーの観衆が凶暴化し、機材が壊され12万5千ドルの被害に遭ったこともそのひとつであり、一方でロングビーチアリーナでファンがバルコニーから転落し、オジーのライヴ中に怪我が元で死亡したというもうひとつの悲劇的な側面もあった。そしてそれから2ヶ月と経たないうちに信じられない悲劇がメタリカを襲うこととなる。
英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/
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