ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章5回目。有志英訳を管理人拙訳にて。クリフ・バートンの紹介から、メタリカにさらなる変化をもたらす2人、カーク・ハメットとジョニーZが登場します。

- レコード契約(前編) -

ラーズはクリスマスの19歳の誕生日を祝った。1983年2月中旬、ただの子供だった彼がようやく永久的に実家を出た。そして気が付くと自分が今、すごい集団にいたのだ。彼らは静かな通りの小さな家、具体的に言うとバークレー大学から北のエルセリートにあるカールソン大通り3132番地の新しい家を「メタリマンション(The Metallimansion)」と名づけた。(この地域はデッド・ケネディーズが先頭切った目まぐるしいイーストベイのアンダーグラウンド・パンク・シーンの本拠地でもあった。)

彼らがリハーサルをしたこの家のガレージはカーペットと卵トレーで敷き詰められ、壁にはモーターヘッドやその他何百ものメタルバンドのポスターが飾られた。ツボルグのプレートがドアの反対側にあるリビングに置かれ、その部屋はバンドのパーティールームとなった。

メタリマンションでは絶え間なく、リハーサル、ジャム・セッション、パーティー、飲酒、そして曲作りが行われていた。クリフ・バートンが入ったメタリカはもはや各々が自分の創造的なアイデアを持つ4人で成るバンドとなった。クリフはその基礎的な音楽のバックグラウンド、音楽理論、ハーモニーに関する知識によってバンドに大いに貢献した。

ラーズがポテトチップスを食べながら(訳注:デンマークの)ブレンビュベスターでNWOBHMのレコードを聴いていた頃、またイギリスのパンク革命が世界中のヘッドライナーをかっさらっていた頃、16歳の学生、ベーシストのクリフ・バートン(1962年2月10日、カリフォルニア州カストロバレーにて、高速道路の建築士レイと教師であり教育者のジャンとの間に生まれる。)は音楽教師スティーヴ・ドハーティーによってクラシックからジャズまでありとあらゆる音楽スタイルを仕込まれた。寡黙だが親切で優しいクリフは高校で3つの音楽の授業に現れた時にはいつも耳を研ぎ澄ませ、予習をしっかりしてきた。そしてカストロバレー高校を1980年に卒業した。おそらく、この若き音楽フリークの最も特筆すべきことは地元の電動装置機器のレンタル店、カストロバレーレンタルズで働いていた頃の話だろう。カストロバレーレンタルでクリフは最も若い従業員で、長髪だったことから、同僚からもたくさん苦情を受けていた。彼らはクリフを怒らせることは一度もなかった。ただ笑って「いつかアイツはあの長髪でもって金儲けするだろうさ。」と答えていた。

クリフはミュージシャンを志し、前述したバンド、トラウマに高校卒業後すぐに加入した。高校ですでにクリフはEZストリートというバンドにいた。そのバンドには(後にフェイス・ノー・モアとなる)ギタリストのジム・マーティン、(後にフェイス・ノー・モア、オジー・オズボーン・バンド、さらに再結成ブラック・サバスに参加する)ドラマー、マイク・ボーディンがいた。EZストリートはレッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ローリング・ストーンズのカバーに加えて、自分たちが試作した曲を弾いていた。

彼らの出会いは1978年。ジム・マーティンは音楽的にも社会的にもクリフの最も重要な知り合いのひとりだった。ドラマー、デイヴ・ドナートと共にマックスウェル・ランチと呼ばれていたサンフランシスコのダウンタウンにある空家に集まってよくジャム・セッションをしていた。3人の少年にとってその場所はビールも飲めてマリファナをキメて長い時間ジャム・セッションをできる楽しい安息の地であった。

クリフの人生にはたくさんの音楽が存在していたが、ホラー・パンク・バンドのミスフィッツほど彼を深く感動させた音楽はなかった。クリフの腕には彼らのロゴのタトゥーが彫られていた。彼は車に乗ると自作のミスフィッツのテープを流してはいつも狂ったようにハンドルを叩いて叫んで運転中でもヘッドバンギングをしていた。もちろん彼はロック、パンク、メタルが大好きだったが、ウェザー・リポートのベーシスト、ジャコ・パストリアスも大好きだった。そして「バッハは神だ」と考えていた。(クラシックの作曲家のことであり、メタリカと同年代のスキッド・ロウのクレイジーなフロントマン(訳注:セバスチャン・バック、スペルが一緒)のことではない。)クリフは20年代から30年代にかけてホラー小説のシリーズを書いた小説家、H.P.ラブクラフトのファンでもあった。そのような文学から得たものは初期の何曲かにハッキリと見受けられる。

人としてミュージシャンとして、クリフはまさしくラーズとジェイムズが探し求めていた人物だった。この新しいメンバー編成でメタリカは1983年3月5日と19日の2回、ストーンで凱旋公演を行った。2回目の公演はメタリカが撮影された初めてのビデオによって不朽の名声をメタリカに与えることとなった。

しかし依然としてバンドには問題が浮上していた。デイヴ・ムステインである。彼は、公演中のギターソロ、ステージ上でのほとんどのMCを負っていた。飲酒の時においても彼はリーダーだった。もちろんバンドで飲むことはよくあることだったが、ムステインは度を越えていた。彼は他のみんなが機嫌がいい時は典型的な暴力男になった。そしてしばしばジェイムズと音楽的な意見の不一致というより個人的な理由によって争っていた。

3月のある夜、ラーズはジェイムズとマーク・ウィテカーと話し合いをしていた。マークが持ってきたエクソダスの最新デモテープをメタリマンションでよく使っていたカセットプレーヤーに入れて。エクソダスは何回かメタリカの前座を務めており、ラーズとジェイムズは彼らのことをよく知っていた。その会話の間、ラーズの鍛え抜かれたメタルな耳が突然、エクスダスの速くてアグレッシヴなメタルのリズムにタイミングよく織り挟まれたギターソロを捉えた。彼の関心はプレーヤーの中にあるデモテープへとすぐに移っていった。ラーズとジェイムズは同意したのだ。このギタリスト、カーク・ハメットは速くてアグレッシヴなヘヴィメタルにおいて何か特別なものを持っている、こいつがメタリカでプレイすると。

「このカーク・ハメットってヤツが何かを持っているってことは明らかだった。」ラーズはそう振り返る。「本当にクールでメロディックなギタープレイでシェンカーやUFOみたいだった。彼はとても頼りがいがあると思えた。否定的なものは何もなかった。」

しかし、カークがラーズとジェイムズと出会い、メタリカに加入するまでには、もう数ヶ月要することになる。

デイヴ・ムステインは何も知らなかった。しかしメタリカは間違いなく、もうひとつのメンバー交代への道を歩んでいた。

しかし、ラーズの慎重かつ意欲的な『No Life 'Til Leather』の流通後、バンドはアンダーグラウンドのメタル・シーンでどうだったのだろうか?

デンマーク本国のメタルレコード店で、ケン・アンソニーは若きヘヴィメタルの子分が今や「彼のバンド」メタリカにいることにニヤリと笑う。メタルショップの仕事に加え、ケン・アンソニー自身も活動的だった。ミュージシャンとしてではなかったが、若いデンマークのメタルバンド、プリティ・メイズや前述したブラッツやマーシフル・フェイトやその他のバンドのマネージャーとして。ケンは自分の担当するバンドのデモテープをレコード会社に配って、その多くを実際にレコード会社の契約までこぎつけていた。したがって彼はヘヴィメタル界の多くの知識としっかりとしたネットワークを築いていたのだ。しかし、ケンはどうやってもメタリカの将来性を持ってして自分が商業的に関与してお金をどうこうすることはできないことを知っていた。その代わり彼は当時デンマークで一番大物のヘヴィメタル・プロモーター、エリック・トムセンに連絡をした。

「俺は彼にデンマーク人のいるアメリカのバンドでこれからビッグになるバンドがあるから気を付けないといけないよって言ったんだ。でもエリックはそれを信じなかった。」ケンはそう振り返る。

その代わり、デモテープはニューヨーク市郊外に住む元証券仲買人の注意をひいた。彼の名前はジョニー・ザズーラ。ジョニー・ザズーラ(ジョニーZとしてよく知られている)と長年連れ添った妻マーシャはウォール街の競争に飽き飽きし、個人的に充実したもっとゆったりとした実りある人生に専念したいと思ったのだ。夫妻はニュージャージー州東ブランズウィック国道18号線のインドア・マーケットにあったレコード店で取引をした。そこで2人のベテランの音楽ファンは店の隅っこで自身の店を開くことを許可された。ジョニーZは自分でも音楽を演奏していたし、マーシャは素晴らしいレコードのコレクションを持っていた。2人とも60年代の大きなロック革命の間に青春を迎えていた。そしてドアーズ、グレイトフル・デッド、MC5のような草分け的なロックバンドやチック・コリア、ジョージ・ベンソンのようなジャズ・アーティストのファンだった。まもなくザズーラ夫妻の音楽的嗜好は変わっていき、もっとヘヴィな方向へと向かっていった。

夫妻は棚にあった180ドル相当のLPレコードから始めた。しかし7ヵ月後には仕事で80,000ドル相当のレコードになっていた。いまや「ロック天国」として知られるようになった。誰もが全国で買えるようなメインストリームのレコードに集中する代わりに、ザズーラ夫妻はヘヴィメタル、とりわけヨーロッパのものに集中することを選んだ。ロック天国はこのようにしてすぐに音楽を買いに行く場所もない、あるいはたむろしたり情報を得たり他のファンと会う場所もない何百もの若いメタルファンからヘヴィメタル天国として知られるようになった。元証券仲買人は東海岸のヘヴィメタル文化を引っ張る成果を確立したのだ。

反旗を翻す生々しいメタル音楽に対する夫妻の企業家精神と興味は徐々に膨らんでいき、彼らは新しい考えを思い浮かべた。まもなくジョニーZはニュージャージーからマンハッタン、ブルックリンまでのメタル・ショーの出演契約交渉担当者としても知られるようになった。ジョニーの熱意は、音楽の自己出版の可能性についてさえ話したようにメタルバンドのマネージャーさえも始めたかもしれない。

しかしながら、レコード店は依然としてあった。最新アルバムを買いに来るファンは、居心地の良い雰囲気の中たむろしたり、ヘヴィメタルを聴いてシーンの最新情報を共有することが大好きだった。ある午後、その客のうちの一人が店にテープを携えてやってきた。おそらくそのファンはカリフォルニアまでの旅の間にテープを買ったのだろう。その音楽は目を見張るほど素晴らしいから、ザズーラのロック天国でこのテープを流さないといけないと思ったのだ。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

cliff_kirk
クリフ・バートンとカーク・ハメット

次々とメタリカのステップに関わる人物が登場してきて、それぞれの点がつながって線になっていく展開。次回はデイヴ解雇、カーク加入、そして『Kill 'Em All』のリリースまで。

ブログランキングに参加しています。
応援クリックをヨロシクお願いします。

関連記事
ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(2)
ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(3)
ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(4)
ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(5)
ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(6)
ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(7)
ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(8)
ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石
ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石(2)
ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ
ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(2)
ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(3)
ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(4)