ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。ついに第3章に突入しました。有志英訳を管理人拙訳にて。ラーズがいよいよメタリカ結成へと具体的に動き出します。

- メタリカ結成(前編) -

イギリスでラーズはヘヴィメタルの音楽そのものや雰囲気を体験し、その背景にいる人々と会ってきた。モチベーションはかつてないほど強くなり、集中力は変わらず鋭くなっていた。ついにラーズはテニスやその他トップレベルのスポーツの経歴をあきらめ、純粋な気持ちでバンドを始めたのだ。(バンドを始めることは)この若者にとっては文化的な面、あるいはミッションでもあった。つまりそれはヘヴィメタルの本質を普及させることだ。アメリカ、特に当時のロサンゼルスにはそれが決定的に欠けていたのである。

ラーズが「ホーム」であるカリフォルニアに帰った時、ついにバンドを始めるという火がついた。ただ、処理すべき些細な点もあった。学校だ。

「3ヶ月もヨーロッパとイギリスにいて、ダイアモンド・ヘッドとモーターヘッドとお近づきになって、本当に夢中になっていた。帰ったらバンドを組もうと思った。」ラーズはそう認めた。「でも学校の問題があった。俺たちが住んでいたカウンティーには4つか5つの学校があったんだけど、そのなかには学校になじめない生徒や他の学校に行けなかった生徒のためにいわゆる補修学校があった。バックベイ高校っていう学校だったんだけど、自分のスケジュールで受講できたのがクールだったね。学んで、取り組んで、合格しなきゃならないことがあった。でもそれが多かれ少なかれ、自分のスケジュールで進めることができたんだ。それは俺にぴったりだったよ。他のことを夢中になって続けていたあいだ、バックベイ高校で卒業証書を取るために通うことができたんだ。だから俺はこう思っていた。「いったい俺は今何をやってるんだろう!?」ってね。」

その答えは問い自身が答えているようなものだった。

ラーズの良き友人ブライアン・スレイゲルも、より具体的かつ創造的な面ではあるが、ロサンゼルスでヘヴィメタルに囲まれた夏を過ごしていた。スレイゲルは毎日普通のレコード店で働くだけでなく、自分のお気に入りの音楽のためにインディーズから広範囲にわたるサポートが得られるよう働きかけていた。空いた時間にはファンジン「The New Heavy Metal Review」の編集者として地元のクラブショーを宣伝推進していた。加えて、趣味の全ての要素を一本化するプロジェクトに取り組んでいた。そのプロジェクトとは新しく若いアメリカのメタルバンドのコンピレーション盤である。充分なだけの今日的なバンドと曲を集めたら、自身のレーベル「Metal Blade Records」からコンピレーション盤『Metal Massacre』をリリースできるようスレイゲルはいくつかの販売業者と契約をしたのだ。

ラーズ・ウルリッヒ「俺はその頃「バンドで演奏した」とかそういうことを触れ廻っていた。彼はLAの新しいクールなバンドたちでコンピレーション盤をと考えていた。もちろんそんなバンドは少なかったけどね。もし俺がバンドを組んだら、そのコンピレーション盤に収録してくれると約束してくれた。だからもはや俺は機能する何かのバンドを組まなければならなかった。今じゃセルフプロデュースのアンダーグラウンドなものはたくさんあるけど、当時はアルバムに収録されることがメジャーなことだったんだ。」

ブライアン・スレイゲルの『Metal Massacre』プロジェクトの話を聞いた時、ラーズはすぐに反応した。ラーズには他の人もそのレコードに収録されることが不可欠なことだと感じるかもしれないという考えがあった。そしてこの方法なら、とてもシャイであまり乗り気ではなかったジェイムズ・ヘットフィールドをバンド結成に誘うことができるかもしれない。いずれにしてもラーズはスレイゲルにバンドを組んで、『Metal Massacre』アルバムのためにオリジナル曲を作ると約束した。それはコンピレーション盤に参加する全てのバンドの条件だった。スレイゲルも同様に「ラーズのバンド」のためにレコードに収録する空きを確保することを約束した。

それからラーズはジェイムズ・ヘットフィールドに電話をする。

「そうさ、俺はジェイムズ・ヘットフィールドには何かあると思っていた。」
ラーズはそう語る。「だから俺は彼に電話して言ったんだ。「友だちがレコードに収録する空きを確保してくれたんだ。だからキミさえよければ、俺たちでバンドを組んで、曲を書いて、それで俺たちのバンドの名前をアルバムに載せようよ。それからバンドを続けようぜ!」ジェイムズはヒュー・タナーとやっていた全てのことがぶち壊しになっていて、新しく何かやる準備は万端だった。ジェイムズは6月に高校を卒業していて、ベーシストのロン・マクガヴニーと同時にノーウォークに引っ越していた。そこで彼らはリハーサルをしていた。俺たちは81年の10月には毎日集まって一緒にやり始めた。あの落ちまくったシンバルは忘れ去られた。あるいは少なくとも大したことじゃなかったんだな。」ラーズはそう付け加えた。

(訳注:デンマーク訛りの)おかしなアクセントとすぐ落ちるシンバルを持ち合わせた小柄な男からの話という疑念はあった。しかしラーズ同様、若く熱烈なメタルファンであり子どもの頃からヘヴィメタルを聴いて育ったジェイムズにとってそのような好機に恵まれることはとても難しかった。

ジェイムズ・ヘットフィールド(1963年8月3日生まれ)が8歳の頃、彼は兄デヴィッドの部屋に忍び込んではブラック・サバスの1stアルバムを聴いていた。そのレコードによって好奇心旺盛な幼いジェイムズはメタルのブラックホールへと引きずり込まれた。

ジェイムズ・ヘットフィールドは『Black Sabbath』について筆者にこう語った。「全世界で最高のアルバムだよ(笑)。俺が大好きで、妹をとにかく怖がらせたジャケット。そしてあの音楽・・・。兄貴は俺より10歳年上だったんだけど、自分の部屋に自分のレコード・プレーヤーを持っていた。だからいつもこっそり忍び込んでは、あのアルバムを出して再生していた。それがトラブルを招いた。多くの家はまだそんなものは持っていなかった。ある友だちが家に来てあのアルバムを聴いていたら、そのうちの一人がこう言ったんだ。「えっ、キミのママはブラック・サバスみたいなものを本当にキミに持っていいって言ったのかい?」とね(笑)。でもトニー・アイオミは本当にヘヴィなリフをあのアルバムのなかで書いていた。俺にとって彼は究極のギタリストなんだ。」(1997年4月4日のインタビューにて)

1978年、ジェイムズの兄はジェイムズにとって初めてのコンサートへと連れて行った。エアロスミスとAC/DCのコンサートで、15歳のジェイムズはこの体験を本気で楽しんだ。ファンの絶叫さえも。彼は世界中の何にも増してこれをやりたいと思ったのだ。

ジェイムズは幼い頃、母親とピアノの演奏を学んだ。後に兄がリハーサルをしていた家のガレージに忍び込んでは別の楽器を試していた。学校教育で彼は初めてのギターを得た。そのギブソンSGは彼のギター・ヒーローであるトニー・アイオミが使っているものに見えるよう黒く塗られた。小さい頃、ジェイムズはオブセッション(Obsession)というバンドで、LAのダウニー東中学校の友人と一緒に演奏し始めた。ジェイムズはその後、ファントム・ロード(Phantom Lord)、レザー・チャーム(Leather Charm)といったバンドで演奏した。最初の頃はカバー曲を演っていた。(どちらのバンドもヒュー・タナーがギター、ロン・マクガヴニーがベース担当だった。)しかし徐々にジェイムズは他のバンドをブラック・サバスとシン・リジィの定番曲を演って打ちのめすよりも自分自身の曲を書きたいと思い始めていた。ただしバンドの仲間たちはオリジナル曲を作曲したいという願望を共有していなかった。そんな時にラーズが登場してきたのだ。彼はオリジナル曲を書くことを了承し、2人は音楽雑誌とインスピレーションの源を分け合った。ラーズはレコード会社との契約の一切を引き受けた。おそらくテクニックや才能よりも熱意と意志の強さが勝っていたであろう、この「ラーズ油田採掘会社」は、ジェイムズにとってそれほど問題ではなかったのだ。

2人のティーンエイジャーは社会的にも個人レベルでも明らかに違っていた。ラーズはヘレルプの芸術的で自由で奔放な家で育った。一方、ジェイムズはLA育ちであり、ネブラスカ出身でカントリーミュージック愛好家のトラック運転手と、たとえ彼が日曜日は寝ていたいと思っていても愛ゆえに息子を教会にしょっちゅう連れて行くような、芸術的には才能があったがとても信心深い母親のあいだに生まれた息子だった。

ラーズはいまだに両親が健在(訳注:母親のローン・ウルリッヒさんは1998年に亡くなっている。)で、彼らは優れた洞察力を持ち、とても活動的だ。ジェイムズはトラウマとなる幼少期を過ごした。父親は家を出て行き、続けて妹と衝突を繰り返し、ラーズと会うすぐ前には病気の母親が若くして亡くなっていた。ジェイムズはまだ死んだ母親とその悲劇によって、その後何年にも渡って彼を特徴付ける罪悪感で満たされた、ただの子どもだった。(それはメタリカの曲のなかにも影響している。この話にはまた後ほど触れる。)前述したようにジェイムズは10代のあいだ兄のデヴィッドと暮らし、高校を卒業してから家を出た。そしてこれも前に述べたようにロン・マクガヴニーとともに。

そんなわけで2人の若者のあいだの行動的、そして社会文化的な違いは充分すぎるほどハッキリと存在していた。しかしラーズとジェイムズは最初の具体的な音楽の仕事、つまり『Metal Massacre』アルバムのために曲を書くという楽しみを分かち合ったおかげでうまくやっていくことができたのだ。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

Young_Lars_and_James
マーシャル・アンプとフライングVを前に若き日のラーズとジェイムズ。

生まれた環境の違いを考えると、コンピレーション盤という「餌」を手にしたラーズが一番に連絡したのが、ジェイムズというのは不思議な感じがします。でも、音楽的嗜好や音楽に対する熱意に何か通ずるものを感じたのでしょう。そして、その連絡したタイミングが少しでもズレていたら、今のメタリカはなかったかもしれませんね・・・。

次回は「大佐」が登場予定。

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