ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第2章2回目。有志英訳を管理人拙訳にて。ラーズとジェイムズが出会ってすぐにメタリカ結成とはならず。ラーズはヘヴィメタルの「本場」を自分の目で観るためにイギリスへと向かいます。

- 夢の国への片道切符 -

81年春、ラーズのNWOBHMへの狂信ぶりはいまだ健在だった。4月、ラーズは絶対的お気に入りバンドのひとつ、ダイアモンド・ヘッドの『Lightning Strikes』LPをメール便で受け取った。このアルバムは彼を完璧にぶちのめした。彼は半年以上もこのアルバムを待っていたのだ。ギターリフとバンドの新鮮味は彼を驚愕させた。『Lightning Strikes』は数年間のNWOBHM集中期における爆発的なクライマックスだった。いまやあの都会っ子はポケットに少しばかりの貯金を持った17歳の少年となっており、夏休みは目前に迫っていた。

「学校が6月に終わると、俺は落ち着かなくなっていた。これまで興味を持ったもの全てがイギリスにあったんだ。「Sounds」誌を購読していたから、郵便屋が来るたびに「Soundsの最新号は?・・・Soundsの最新号は??」って感じさ。メール便に入ってたら、玄関前で2時間「Sounds」誌を読み漁るんだ。自分の部屋まで歩くことさえしなかったよ。」

「ジェフ・バートンは「Sounds」誌におけるヘヴィメタルのゴッドだった。彼は毎週アンダーグラウンド・シーンから新しいバンドを紹介していた。そして毎週、彼のプレイリストと着ている服が載ってたんだ・・・。いやぁあれはバイブルだったよ!」

「当時、サクソン、アイアン・メイデン、デフ・レパード、ガールスクール、サムソン、そしてタイガース・オブ・パンタンといったメジャーなバンドたちがトップ記事になり始めていた。ある週はガールスクールが表紙を飾り、次の週はクラッシュといった感じでね。「Sounds」はヘヴィメタルだけじゃなくて、全ての独立した音楽シーンを網羅していたんだ。」

「だからもう俺はイギリスに行かなきゃなんないって思ってた。コトが起きている場所へ行かなきゃなんないって。81年の俺のお気に入りのバンドはダイアモンド・ヘッドだった。そして俺はバンドのマネージャーであり、ヴォーカルのショーン・ハリスのお母さんでもあるリンダ・ハリスと文通をし始めていた。彼女は俺にこう伝えてきてくれた。「もしイギリスに来るんだったら、いつでも歓迎するわ!」とね。」


「ダイアモンド・ヘッドは6月最後の週と7月最初の週のあいだ、ツアーでヘッドライナーを務めていた。だから7月最初の週に俺は荷物を詰めてロンドンに飛んだんだ。ダイアモンド・ヘッドはロンドン郊外のウールウィッチ・オデオンでライヴをしていた。俺はヒースローに着くと、直接空港からウールウィッチまでバッグを手に持ったまま行って、バックステージのドアをノックして、リンダ・ハリスがここにいるかときいたんだ(笑)。「こんにちわ・・・ご存知かと思いますが・・・アメリカから来たラーズです!」って言ったら、両手を広げて歓迎されたよ。」

「ロンドンのダイアモンド・ヘッドはこれ以上ないってくらいよかったね!会場はたぶん1500人収容だったんだけど、あのダイアモンド・ヘッドをたった300人しか見に来そうもないってことには間違いなくちょっと驚いたよ。でもそれから、そんなことはどうでもよくなったんだ・・・。ただ単に最高だった。そして(訳注:メタリカが後にカバーすることになる)「Helpless」も「The Prince」も演ってくれたんだから。」

「ツアーの最終日、彼らの故郷であるバーミンガム郊外のスタウアブリッジに招待されたんだ。俺はちょうど立ち寄ることができて、彼らと何日か過ごすことができた。1日か2日はロンドンの安ホテルに泊まって、それからバーミンガムまで電車に乗った。本当に緊張したよ。ショーン・ハリスが駅まで俺を迎えに来てくれるって話だったからね。でもこの頃の俺はアルコールが「勇気」をくれると気がついていた。だからバーミンガム行きの電車で俺はスミルノフボトルのウォッカをストレートであおったんだ。まだ昼下がりだってのに!」

ラーズはちょっと話を止めると、笑ってまた話し始めた。

「そうそう(笑)。ショーンが駅まで迎えに来てくれたんだけど(笑)彼はガールフレンドのヴィッキーと一緒だったんだ。俺たちは車に乗り込んだわけだけど、わかっておかなきゃならないのは、あのショーン・ハリスと同じ車に座っているってことだ。レッド・ツェッペリンかディープ・パープルのファンがロバート・プラントかリッチー・ブラックモアに駅まで迎えに来てもらっているかのようだった。俺にとってはそれと同じレベルだってことだよ。ハッキリ覚えているのは車に乗って5分後くらいにショーンが俺に言ったこと。「ここウォッカ臭いな、オマエ飲んだのか?」とね。俺は「いやいやいや・・・もちろん飲んでませんよ!」と答えた。「本当にウォッカの臭いがするぞ、おかしいな」とショーンはまだ言っていた。もちろん俺は「ウォッカの勇気」をもらってたんだけどね(笑)。」

「バーミンガム郊外の労働者階級の地区にある彼の家に着いた。実際、俺はここで2、3週間居座ることになるんだけどね!俺はリビングで生活して長椅子の上で寝ていた。そしてダイアモンド・ヘッドに関する全てのものに夢中になることを許された。リハーサル風景、作曲過程やギグも観たし、彼らが演奏しているところも見た。もはやこれ以上ないくらい最高だったよ。」

この訪問はブリティッシュ・メタルの先駆者であるダイアモンド・ヘッドにとっても貴重な体験だった。

「俺たちは彼を追い出せなかったんだ。」ショーン・ハリスは語る。(マーク・パターフォードとザビエル・ラッセル共著「Metallica : A Visual Documentary(邦題:Metallica 激震正史)」(1992)から引用)「でも俺たちにとってもちょっと特別な感じだったんだ。彼はバンドに夢中になってくれた最初の外国人だったから。だから俺たちは彼の熱意を気に病まなかった。だって、ファンがカリフォルニアからわざわざ自分たちを見に来たんなら、自分たちは何か正しいことをしていると思えたからね。」

ショーン・ハリスはラーズが泊まった初めての夜にお気に入りのダイアモンド・ヘッドの曲でどう狂っていたかハッキリと覚えている。

「でも彼はいい子だったよ。ひくほど熱心なファンだった。彼は一晩中起きて「It's Electric」を聴いているんだ。俺は明け方まで起きていたんだけど、眠ってしまった。数時間後に目が覚めたら、彼はまだそのレコードをかけていたよ!」

ラーズはヘヴィメタル天国にいた。自分の国、言うまでもなくニューポート・ビーチへ早く帰りたいという証言などまったくなかった。もっと留まりたかったが、外向的で熱狂的であるにも関わらず、ダイアモンド・ヘッドと永遠に一緒にいるということは叶わなかった。お金の問題があったのだ。ラーズはイギリスへの旅行に必要なだけのお金しか持っていなかったし、おかしな話だが、イギリスという夢の国への片道切符しか予約していなかった。しかし、計画を達成するにはそれで充分だった。彼は前年去った街に戻っていた。

「8月にコペンハーゲンに戻って、そこで4週間楽しく過ごしたよ。」ラーズは振り返る。「叔母のボーディルと叔父のヨルゲンと一緒にゲントフテで暮らした。そこでアメリカに飛んで帰るためのお金を稼いだんだ。(訳注:ラーズが所属していたテニスクラブ)HIKで働いて、そこで毎日舗床を掃除していた。」

しかし、デンマークの晩夏にストリートを楽しむこともできた。皮肉なことにラーズがフロリダのテニス・アカデミーにいたあいだに、アイアン・メイデンはキッスのサポートでコペンハーゲンのブロンディー・ホールでライヴを行っていた。しかし今度はラーズがコペンハーゲンに戻ってきているのだ。そしてアイアン・メイデンも。バンドは『Killers』ツアー最後のギグを行なった。アイアン・メイデンへの関心はブロンディー・ホールでの不可解な行動の後、激変した。キッスは脅かされキャンセルとなったのだ。バンドはもはやブレッド通りのオッド・フェロー・パレットでヘッドライナーを張っていた。

ラーズといとこのステインは当然参加した。ラーズにはコンサートが終わったらすぐに行動に出る奥の手があった。

「1980年のクリスマスにアイアン・メイデンのクリスマスカードを受け取ったのがブライアン・スレイゲルだったと思う。彼はPRとか宣伝が得意なんだ。そのカードをヨーロッパへ持っていくことを許してもらった。オッド・フェローで、俺は警備員の一人に言ったんだ。「ほら、ボクはクリスマスカードを持っている。だからクリスマスト・リスト(訳注:バックステージ・パスのリスト?)に名前が載っているよ。バックステージに入りたいんだけど。」ってね。彼はまんまと騙されていたよ!(笑)」

「俺たちは寒い更衣室に着くと、スティーヴ・ハリスとデイヴ・マーレイがそこにいた。とても取っ付きやすい人だったよ。ポール・ディアノはひどく酔っ払っていて、ローラースケートを履いていた。「イイものあるけどいるか?」ってきかれて、アフガンブラック(訳注:大麻)みたいなものを作らなきゃならなかった。それから座ってポール・ディアノと大麻タバコを吸ったんだ。」

ステイン・ウルリッヒ「彼らはみんな信じられないほどフレンドリーでみんな「おいで!」って感じだった。もちろんラーズは彼らについて俺なんかよりずっとよく知っていたけど、いろいろきいていたよ。後になって、ラーズは俺に彼らはシンガーに欠点があると言っていた。だから彼らが新しいメンバーを入れればいいのにと思ったのを思い出すよ。そしてそれを数週間後にやったんだ。それから彼らはビッグになった。(真の意味で)バンドになったんだよ。」

確かに。ラーズはバンドで機能したかしなかったかを見極めるセンスをすでに持っていた。ポール・ディアノの脱退、そして新しいシンガーで元サムソンのシンガーのブルース・ブルース(ブルース・ディッキンソン)加入のニュースは、再びバーミンガムのスタウアブリッジに滞在していたラーズに届いた。このときはダイアモンド・ヘッドのギタリスト、ブライアン・タトラーと一緒だった。止められないヘヴィメタル巡礼者ラーズは、いまだにヘヴィメタルが無きに等しいアメリカへの帰途、ヘヴィで崇高な啓示を受けるもう数日を要しなければならなかった。

ラーズはまず、ストーク=オン=トレントのポート・ヴェイルFCで行なわれた本物のヘヴィメタル・ミサに行った。そこではモーターヘッド、オジー、ライオット、サクソンのような名前が連ねたワン・デイ・フェスティバルのヘヴィ・メタル・ホロコーストが行われていた。

「もちろん俺はコンサート後に何とかしてバックステージに忍び込もうとした。俺はそういうことがかなり得意だったんだ。」ラーズは皮肉っぽく言ってから、1981年夏の幸せなイギリス訪問の後半について話し始めた。

「"ファスト"・エディ・クラークのギター・ローディーのグラムと仲良くなった。それから俺は「やぁ!」とか「ハロー!」とか言われていた。モーターヘッドと一緒にいることを許されるまでになった。1週間、ブライアン・タトラーと暮らして、3日間ロンドンに行った。そこでノー・ミスと呼ばれていたモーターヘッドがリハーサルをしていた場所をみつけた。そこへ行って、ドアをノックしてみたんだ(笑)そしたらモーターヘッドのリハーサルに立ち会えたよ!昨日のように覚えているよ。"ファスト"・エディとフィルシー・"アニマル"・テイラーとレミーと俺が同じ部屋で座っているんだ。そこは次のアルバムのための曲を作っている場所だった。彼らを見て、フロアに座ってさ、「Iron Fist」を作っているときのことをよく覚えてる。レミーが俺の真ん前で歌詞を思いついて、彼らが次のアルバムのタイトル曲になる「Iron Fist」を弾くのを見たんだ。」

「同じことを言うようだけど、それはレッド・ツェッペリンのファンが『Physical Graffiti』の曲を彼らによって作られているところを見ているようなものだよ。変な感じだったけど、俺はそういう取り巻きグループに正しく入る方法を持っていたってだけだよ。」


本当に驚くべき能力だ。その能力はユニークで長年に渡って素晴らしいままであった。それはラーズ本人さえわかっていない。

「俺はたぶん真っ当なことを言っていたんだ。あるいはいくらかの熱意、誠実さ、あるいはバカさ加減かな?」彼はそう思った。

「でも釣り合うようになるには、そういうもの全てが充分だった。シーンで何が起きているかを理解できたんだ。俺はそこまで没入してなかったけど、すぐそこにいることを許されていた。たぶんうやうやしい態度とちょっと際立った感じだったからかもしれないね・・・。「デンマークの鼻タレ小僧が外に立っているぞ・・・かまうもんか!」ってね。俺は外に立っていた唯一のファンだった。もちろんそういうバンドがどこにいるのか知っている唯一のファンでもあったわけだけどね(笑)」

ラーズは心から笑った。自分の「能力」を、自分自身を、若き日の熱意を。そしてあの頃の思い出を。自然と歯に衣着せない積極的な能力は、おそらく子供の頃、世界を廻ってたくさんの人々との出会い、そしてLundevang通りの家に訪れたミュージシャンやアーティストから来たのではないだろうか?

「まぁ、たぶんそうだろうね!全部。あの頃、つまり親父がコペンハーゲンで一緒にいたすべてのミュージシャン、フランツ・ベッカリーとかそういう近くにいた全ての人々から来ているのは間違いない。俺はたぶん見えない境界線があるのも理解していた。そんな境界線はスミルノフをいただけば消えるけどね。無知だったこともあるかな。俺はノー・ミスに行けばモーターヘッドの人たちと喋ることができると信じていたんだ!」

いずれにしても、ラーズ・ウルリッヒはそうなることを強く望んでいたのだ。彼は自分のプロジェクトをやり遂げた。さらにファンとしての夢をめいっぱい追い続けたのだ。都会のヘヴィメタルマニアにとって、1981年の夏は魔法にかかったかのようだった。そんな夏はこの年の終わりまで続いていったのである。

「10月、俺はまだイギリスにいた。あの忌々しいコロナ・デル・マーは9月中旬に新学期が始まっていた。だから俺はすでに「最終期限」を逃してしまっていたんだ。戻ることに特に興味がなかったから、イギリスで立ち往生し続けていた。ふっ(笑)。でも10月中旬には戻った方がよかったんだ。」

「でもサクソンとライオットのコンサートが(訳注:イギリス南東部の)ブライトンであったから、俺は行ってライオットの人たちと会うためにバックステージに忍び込んだ。サクソンはもういなくなっていたんでね。その翌朝、LA行きの飛行機に飛び乗ったんだ。」


ラーズは戻った先ですぐにサクソンとも接近することとなった。直に接したわけではないかもしれないが、ラーズがヘヴィメタルの熱狂的なファンから、自分のアイドルたちをサポートするバンドの結成メンバーになるまでわずか半年であった。

ロックにおける歴史的規模の変革が起きようとした。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

Mkeynes
1993年、ミルトンキーンズ・フェスのバックステージにて。左からショーン・ハリス、ラーズ・ウルリッヒ、ブライアン・タトラー

ラーズの恐るべき行動力はここに来てさらにエスカレートした感があります。イギリスと離れたところに住んでいたことさえも逆にアドバンテージにしているような・・・。

途中出てきた『METALLICA激震正史』についてはこちらからどうぞ。
http://metallica.ninja-web.net/books.html#gekishin

第2章はこれで最後。次回の第3章ではついにラーズがメタリカ結成へ動きます。

※麻薬、ダメ、ゼッタイ

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