ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第2章1回目。有志英訳を管理人拙訳にて。(日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。)
コペンハーゲンからロサンゼルスへと引っ越したラーズ・ウルリッヒがついにテニスと決別し、バンド結成へ動き始めます。

- Lundevang通りからロサンゼルスへ -

ウルリッヒ家はカルフォルニア州ロサンゼルス南部ニューポート・ビーチでいわゆる「コンドミニアム」の(訳注:あくまでデンマークのときの家と比べて)小さな家に引っ越した。1階にキッチンとダイニングとリビングルームと2つの寝室、そして2階にはゲスト用の寝室。ラーズの部屋には初めてTechnicsのステレオにJBLのスピーカーが据え付けられた。部屋の残りの壁はレコードでビッシリの棚で覆われた。

(いまだに彼の家にある)茶色い机はLundevang通りの家から持って来れたが、残念なことにドラム・セットを置くスペースはなかった。もちろんドラムを演奏するためにわざわざ大西洋を横断することはしなかった。しかしテニスをし、高校・大学の試験をパスする傍ら、ファンとして娯楽レベルで音楽への関心を保ち続けていた。

引越しの身支度で外せない重要なこととして、音楽シーンに触れ続けていくために、ブリストルのケン・アンソニー、イギリスの通販会社、そしてイギリスの週刊音楽誌「Sounds」の予約購読課へ自分の新しい住所を伝えることが必要だった。

ヨーロッパから最新のレコードを得るためにお金が必要になったラーズは、すぐに新聞配達員の仕事を始めた。毎朝4時から5時まで「Los Angeles Times」を配達したのだ。学校に行く前までに配達を終えなければならなかったが、幸運なことに運転免許証をすでに取得していた。両親は喜んで自分たちのライトブラウンの白いルーフ付きペーサー(アメリカン・モーターズの販売車種)をラーズに貸した。

ラーズは9月の初めからコロナ・デル・マー高校に通い始めた。子供の頃のように自転車で学校に行き、それからテニスの練習をしたのだ。しかし場所や気候面を超えた明らかな違いがそこにはあった。

「学校の近く、2マイル(約3キロ)くらいのところに住んでた。毎日学校まで自転車さ。おかしなもんだよ。ご近所さんはかなり裕福だった。俺はこれまでと違う上流階級に慣れていなかった。何が違うって、もちろんアメリカにいるってことがね。俺たち家族はヘラルプにいた頃は自分たちが裕福だとは本当に思わなかった。階級の違いなんて知らなかったんだ。ニューポート・ビーチではピンクのラコステTシャツを着た16歳のヤツらがあたりにウジャウジャ突然あらわれるようになったのさ。」

「その輪の中に入っていくのは俺にとって変テコで驚くべきことだった。俺は毎日、サクソンやアイアン・メイデンやモーターヘッドのTシャツを着て学校へ行って、フットボールをしていた筋肉ムキムキのヤツらと一緒にいた。俺はそう(筋肉をつけたり)はしなかったけど、(パール・ジャムの)エディ・ヴェダーや(ニルヴァーナの)カート・コバーンのインタビューで耳にしそうな、いじめられたり、「俺はのけ者だ」みたいなことはなかった。そんなに悪くはなかったよ。テニスをして、ヘヴィメタルを聴く。ケンにデンマークとイギリスから送ってもらったレコードを持って、学校に行って、そんな自分の小さな世界のなかで生きていたよ。間違いなく俺はちょっと・・・まぁ「ユニーク」だった。でも学校からの帰り道でぶん殴られるようなこともなかった。そんなことは一切なしだ。学校へ行って、スペイン語と少しばかりジャーナリズムについて勉強して、メタルを聴いて、アイアン・メイデンTシャツを着て歩き回り、テニスを続けようとしていたんだ。」


「そこで実際に何が起きたかというと、自分には充分な才能や積極性がなかったし、あのテニスチームにいる資質さえなかったと気付いたということだ。それが1980年から81年のあいだで、そんなことに気が付き始めたもんだから、たぶん俺が想像していたような方へ転がり始めたんだよ(笑)」

大きな望みを持っていたテニス界からラーズを突然引き離したのは直観ではなかった。長く意識的なプロセスと環境の組み合わせの結果だった。

「コンサートに行き始めたからさ。AC/DC、ヴァン・ヘイレン、テッド・ニュージェント、シン・リジィ、パット・トレイヴァーズとかその他いろいろとね。2種類のコンサートがあった。つまり、ロング・ビーチ・アリーナやLAフォーラム、サンタ・モニカ・シヴィックでやるような大きなアリーナ・ライヴと、スターウッド、ウイスキー(・ア・ゴー・ゴー)、トレバドールといったハリウッドのクラブでやるようなライヴがね。1980年も終盤になると、そんなクラブ・シーンを楽しんでいた。最高だったのはイエスタデイ・アンド・トゥデイってバンドを観た時だね。彼らがY&Tと名乗る前に4、500人ぐらい入る小さなスターウッドでライヴをやっていた。ウチの親は俺に車を貸してくれた。俺はあのクラブで立ち見したのをハッキリと覚えているよ。」


「あれは本当に最高な時間だった。バンドはヘヴィメタルを楽しんでいた。本当にロックンロールの雰囲気があったよ。そして、最大500人のためにライヴをやるようなレベルのバンドになる方が、テニスで走り回ったり、もがき苦しんだり、練習や真剣な鍛錬のために走ったり、腕立て伏せしたり、ビール禁止、ハッパ禁止なんてことやるよりもずっといいじゃないかと思ったのを覚えているよ。あの夜に感じた自由をよく覚えている。俺たちみんな楽しんでいたし、限界も何もなかった。ロックンロールの自由という素晴らしいゲーム、それはあのレベルに行くまで何か始められるか試してみるには充分な魅力だった。それからテニスとかくだらないこと全てを指で弾き飛ばしたんだ。」

いつもどおり、ラーズは考えたら即行動に移した。すぐに新しい夢を追いかけ始めたのだ。

「コペンハーゲンでは俺の地下室の部屋でドラムを叩いていた。そして80年12月、俺はこう思い始めた。「よし、アメリカでドラムセットを手に入れるにはどうしたらいいだろうか、うーん・・・」そうして俺は親父にあの有名なセリフを言ったのさ。「今からバンドを組んで、ドラムセットを手に入れて10日でドラムの演奏を勉強しようと思う!」ニューポート・ビーチから10分から15分くらいのところのサンタアナにあるウエストコースト・ドラムっていうドラムの店があった。ウチの親はそこで小さな茶色のドラムセットを借りることを許してくれた。住んでいたコンドミニアムは2階があったけど、そう大きくなかった。だから両親の部屋と俺の部屋のあいだにあったゲスト用の寝室にあのドラムセットを置かなきゃならなかった。窓をマットレスで覆って、それからドラムを演奏したんだ。ま、と言うよりはドラムを演奏しようとしていたという方が正しいかな。」


新しくデザインされたドラムルームにはトーベン所有のAIWAのテープレコーダーがあった。ラーズはそれを使ってドラムの演奏を学ぼうとした。当然のことながら10日以上かかることとなった。しかし彼は1980年最後の数週間、毎日ドラムを叩いて過ごしたのだ。

「当時の俺のお気に入りはダイアモンド・ヘッド、タイガース・オブ・パンタン、そしてトレスパス(Tresspass)と呼ばれたバンドやその他そういった類のバンドだった。ドラムの演奏を学ぶ代わりにヘッドホンでバンドの曲を聴きながら、それに合わせて叩いていた。そんなことがクリスマスまで続いていたんだ。クリスマスも日柄一日ドラムを叩いて過ごしていたよ。」


ドラムを叩くことで、ラーズの中で新しく決定的な何かに火がついた。

家族と住んだニューポート・ビーチは、ブリティッシュ・ヘヴィ・メタルの若いファンが街角のいたるところに必ずしもいるわけではなかった。しかしロサンゼルスは大都市で、当然、彼のような情熱の持ち主はまったく一人というわけではなかった。前述したクリスマスにラーズがドラムを叩いていたことで、ドイツ人ギタリスト、マイケル・シェンカー(70年代のバンドでラーズのお気に入りのひとつ、UFOに在籍)のカントリークラブでのコンサートへとつながっていく。そこで2人の地元のヘヴィメタルファンが長髪で間違いなくヨーロッパのサクソンTシャツを着ていた小柄なラーズに目をつけた。この時だけは、話の主導権を握ったのはオープンマインドなラーズではなかった。しかし、ウッドランドヒルズからやって来たわずか4歳年上のブライアン・スレイゲルとその友人、ジョン・コーナレンスもそこではヘヴィメタルファンは自分たちだけだった。つまり熱狂的なラーズ・ウルリッヒと同じ境遇だったのだ。

コンサートの後、2人はラーズの元へ行き、見かけない変わったTシャツについて尋ねた。ラーズはデンマークからLAに引っ越したばかりであることを彼らに話した。1週間ほど後には、3人でラーズの家でヘヴィメタルのレコードを聴いていた。彼らはすぐに仲良くなり、必ずしも近所にはなかった真っ当なレコード店へ遠出する用意をした。ブライアン・スレイゲルもラーズと同様、積極的で創造的だった。彼はここから1年しないうちにラーズが夢のバンドを始める手助けをすることとなる。

年が明けてすぐ、希望に満ち溢れたラーズはロサンゼルスの新聞「The Recycler」に広告を出した。

「みんながそこで中古車、家具、カーペット、台所用品を売っていたよ・・・。それにたくさんの広告があったんだ。『彼女募集中』『ゲイの彼氏募集中』とかね。「ミュージシャン」の欄にはマーシャル・アンプやドラムも売っていたし、個人的な欄つまり『バンドメンバー募集中』とか『加入バンド募集中』とかもあった。そこで俺はこんな広告を出した。『ヘヴィメタルのドラマーがヘヴィメタルバンド結成のために他のミュージシャンを探しています。影響を受けたバンド:タイガース・オブ・パンタン、ダイアモンド・ヘッド、エンジェル・ウィッチ、ホワイト・スピリット』」

「そうしたら電話が鳴り始めた。でも毎回バカの一つ覚えみたいに「イェー!ヘヴィメタル!エンジェル・ウィッチだかダイアモンド・ヘッドだかは聴いたこともねぇけど、カンサス、スティクス、ジャーニーはマジで好きだぜ!」っていう感じだった。ヴァン・ヘイレンを聴いていたヤツやジューダス・プリーストは聴いたことあるかもってヤツもいたっけ。当時のLAにアンダーグラウンド・シーンなんてなかったんだよ。アメリカのFMラジオで流れているアメリカン・ハードロックしかなかったんだ。」

ラーズは彼らを(NWOBHMへ)転向させることができるかもと希望を持って、さまざまな若いミュージシャンのうちの何人かと会いはじめていた。

「大概は連絡してきたヤツがやって来ると、俺がタイガース・オブ・パンタンとダイアモンド・ヘッドを聴かせる。俺の考えとしては、こういうバンドに影響を受けたバンドを作りたかったんだ。でも実際はカバーバンドを作ることに、より一層興味を持っていた。NWOBHMカバーバンドをね!LAにいるバンドはカバーかオリジナルだったけど、カバーバンドはみんなヴァン・ヘイレン、ジャーニー、キッスの曲ばかりだった。だから俺は言ったんだ。「俺たちでカバーバンドを作ろう。でもみんなが知ってるような曲はやりたくない!」ってね。それは誰も本当に理解できないような新しい(カバーともオリジナルとも)どっちとも言えないスレスレの領域みたいなものだった。」


ラーズはニンマリとして話を続ける。「初めて何かを始められたのはジェフ・ワーナーってヤツと。奔放でほれぼれするヤツだった。彼はヘヴィメタルなタイプだったから、俺は彼に曲を聴かせたんだ。ワーナーは本当に初心者だったんで、トレスパスの曲を何曲か台無しにしてしまって、実際には数ヶ月で他に何かないかと思っていた。それからある日、俺たちはジャマイカから来た黒人のロイド・グラントってヤツと会った。彼はヒッピーみたいな出で立ちで、フライングVとマーシャルのアンプを持っていた。サイケデリックなリードギターを弾けたってだけで、俺たちは彼のことを「ブラック・シェンカー」って呼んでいたよ。本当によかった。彼はそんなにギターを弾けるわけじゃなかったけど、本当にすごいソロを弾けたから、ジェフにはリズムギターをやってもらうことにした。それが最初のプロジェクトだった。」

「そうして俺は81年春にはそのプロジェクトをやっていた。それから、1人だったか2人だったかがもう興味がなくなったとかそういうことで止めてしまったんだ。俺はコロナ・デル・マーに通いながら、変わらず広告を出して、いろんなイカれたヤツらと会っていた。でも81年5月、ヒュー・タナーってヤツから電話があった。彼と会ったことはクールだったね。彼はリード・ギタリストだったんだけど、彼と一緒にもう一人いたんだ。ペーサーにドラムセットを積む空きスペースがあったんで、俺が彼らに車で会いに行った。場所はフラートンだったか、ブレアだったか、まぁどこであろうと、俺たちはそこで伝説的な初めてのジャムをしたんだ。俺とヒュー・タナーと、電話では話していなかった第三の男、ジェイムズ・ヘットフィールドとね。」

「俺は当時たった半年しかドラムを演奏したことがなかった。だから何も特別なものはなかったけど、少なくとも曲のペースは保っていた。初めてのジャムではヒュー・タナーがギターで、ジェイムズは歌っただけだった。とても良かったんだけど、俺が叩くたびにシンバルが落ちたんだ!あれは本当にマズかった。特別な何かはなかった。俺たちはちょっと話してから言ったんだ。「連絡を取り合おう」とね。でも部屋の隅に立っていたヘットフィールドのことはとても興味深いと思っていたよ。」

ラーズとヘットフィールドは初めてのジャムから数ヶ月経っても、ほとんど話すことはなかった。しかしついに彼らは少なくともお互いの電話番号を交換し、どんな音楽が好きかをやり取りしたのだ。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

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80年代初頭のジェイムズとラーズ

Y&Tがラーズ・ウルリッヒにミュージシャン志向となるきっかけを与えたとは知らなんだ。そして、ついにと言うかようやくと言いますかジェイムズ・ヘットフィールドが登場してきました。叩くたびにシンバルが落下するというラーズにとっては気まずいジャムから始まった出会いですが、人生何があるかわからないものです。

このまま両者が接近すると思いきや、次回は思わぬ方向へ物語が進みます。


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