ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の(相当長い)第1章の続き。有志英訳を管理人拙訳にて。キッスとリッチー・ブラックモアに関する思い出話。HR/HM界の公然の秘密が明かされます。

70年代も終盤になると、ラーズが興味を抱いたアグレッシヴなパンク・ウェーヴがやってきた。しかし、まずは70年代に多く現れた長髪の恐るべきバンドたちに話を戻さなければならない。

1974年、アメリカでデビューを遂げたバンド、キッス。世間に認められていた批評家たちは彼らを嫌っていた。(後にハードロックのジャンルの進化を示すものとして逆に認められた。)しかしバンドは増え続ける熱心なファンを惹きつけていた。キッスのイメージといえば、コミック雑誌に出てくるようなヒーローやホラー・キャラクターが混ざった変装をして−少なくとも当時は−とんでもなくヘヴィで、リフ・ベースの曲とセックス、おふざけ、密通についてのキャッチーなフックを持ち、それはほとんど10代男子のファンタジー・ロックの最終形と言えるものだった。Lundevang通りのジャズ文化に浸った巨大な家に住むあの少年の部屋のなかにもそれはあった。

それから1975年に出たキッスのライヴアルバム『Alive!』は当時制作されたヘヴィ・ロック・シーンの全て可燃物に火をつけるほど危険なものだった。その後、キッスがデンマークで初めてコンサートをすると発表したとき、とりわけラーズに火をつけた。残念なことに、ラーズは北ユトランドのフェレッツレヴへのサマーキャンプに登録されていた。実に残念なことにラーズのためにキッスが地元のフェレッツレヴのホールでライヴを行うことはなかった。最も由緒ある劇場地区、コペンハーゲンのフレゼレクスベアにあるフォークナー・シアターで行われたのであった。

しかしラーズはただの6年生の少年ではなかった。オープン・マインドな両親が支えている彼は何よりもまず先に一人のファンであった。彼は独りでスクール・キャンプを電車に乗って離れ、キッスのコンサートを観て、その後のサインをもらう追っかけのためにコペンハーゲンまで行くことを許されたのだ。

いとこのステインはラーズと共にそのコンサートに行き、その夜に最高潮だったことをハッキリと覚えている。

「フォークナー・シアターは俺たち初めてだった。ライヴ後に俺たちはバンドの車をひとめ見ようと外で張っていたんだ。実際に車は見たけど、窓のなかまでは見ることができなかったよ。だからその代わりにシェラトン・ホテルまで急いだんだ。彼らはそこに滞在しているっていう噂を聞いていたからね。そうして待っていた。車が到着すると、彼らはメイクを取っていた。ポール・スタンレーとジーン・シモンズがメイクなしだぜ!!可笑しかったし、メイクを取った彼らを見るのはかなりスリルがあったね。」最も多くの神話を創り、実行に移した神話が創られていったロック史におけるスタント、一貫してメイクをしたロック・スターであるキッスのイメージについてステインは語った。

それはたしかにステインと、しつこいほどのキッス・ファンであるラーズにとって最高の出来事だった。それからラーズは、すぐに電車で北ユトランドのスクール・キャンプに戻っていったのだ。

この真っ正直なファンの物語は、頑強で献身的なロックファンとしてのラーズの驚くべき進化の始まりに過ぎなかった。

ロックファンであった当時のラーズにとって、ガッカリする出来事もあった。ガッカリしたことのひとつが起きた日のことを彼はハッキリと覚えていた。「親父はステインがアメリカを経験すべきだと考えていたので、77年の秋休みの頃に俺たちを呼び寄せたんだ。俺は本当に楽しみにしていた。でもリッチー・ブラックモアズ・レインボーがコペンハーゲンでコンサートを行うことになっていた。俺はアメリカに行けない。だってデンマークに留まって、リッチー・ブラックモアを観なきゃならなかったからね!」

こうして、その年の秋は2人ともアメリカには行かなかった。しかし話はここで終わらない。

ラーズ「レインボーのコンサート3日前に、ブラックモアがキャンセルしやがったんだ!誰かが風邪を引いただか、病気になっただか、そんなようなことだった。だからその代わりに友だちみんなを誘って一緒にリングビーまで映画を観に行ったのを思い出すよ。」

不十分な慰みと巨大な失望感のなか、ラーズにはひどい後ろめたさが残った。「その後その年にステインは一緒に5週間アメリカに行った。でも俺は罪悪感を感じていたよ。」

しかし、リッチー・ブラックモアのキャンセルの理由は言われていたものとは全く違うものだった。12年後、ラーズはずっと賢くなり、自身でファンを惹きつけるようになった時、ディープ・パープルのデンマークとスカンジナビアのコンサートを担当していたプロモーター、エリック・トムセンと会った。

「俺はエリック・トムセンに77年にあったことを全て話したんだ。アメリカへの旅行をあきらめたこと、リッチー・ブラックモアが病気か何かだったことをね。そしたら彼は俺にすぐに本当のことを話してくれた。ブラックモアは病気でも何でもなかった。彼はとうとう植毛の予約をしたんだ!それでブラックモアはスカンジナビアの全ツアーをキャンセルして、どこかから髪を取ってきて、生え際だかどこかにつけたんだ!あれは俺のなかでリッチー・ブラックモアのバブル崩壊が起きたよ。」
とラーズは言う。

そう、ブラックモアはギターのカリスマであり、77年の秋に失敗を犯した。しかし一方で、彼はロックシーンに新しく、より若く、よりワイルドな名前を持ちこんだ。パンクはその年、1977年に爆発した。センセーショナルなイギリスのバンド、セックス・ピストルズは実質、全てと言っていいくらいの人やものに対して反抗と侮蔑を先導した。セックス・ピストルズは77年7月にコペンハーゲンと今はなきダディーズ・ダンスホール(Daddy's Dance Hall)の地下フロアを訪れコンサートを行った。同じ頃、13歳のラーズ・ウルリッヒはオッド・フェロー・マンション(Odd Fellow Mansion)で長髪のアメリカ・パンクロックのパイオニア、ラモーンズのコンサートに行った。パンクは全く新しい若者たちのグループを新しく定義された環境へと惹きつけた新しい音楽シーンだった。ラーズはただのロックファンであり、サブカルチャーやアイデンティティーについて深く考えることはなかった。ただコンサートに出かけ、音楽を聴き、シーンを体験したのだ。

ラーズ「もちろん、ダディーズでセックス・ピストルズを観る人たちには、俺がチボリでシン・リジィを観ることとは違う他の考えや意見を持っているってことがわかってきた。でも、だから何だってんだ!俺はセックス・ピストルズよりもラモーンズが好きだったんだ。「Commando」や「Now I Wanna Sniff Some Glue」の曲のなかにはヘヴィメタルなリフがある。でも全ての音楽には密接な関係がある。俺はロスキレ・フェスにも行って、78年にはボブ・マーリーを観た。「アイドル」(後にラーズのヘヴィメタルの師匠となるケン・アンソニーのこと)がいる、よく行っていた一番身近なレコード屋に入ったときに言ったよ。「ボブ・マーリーのレコードだって言うから、『Babylon By Bus』や『Exodus』を手に入れることさえできなかった・・・。」そしたらケンは「あんなものどうしろってんだ?」って言うから、俺は「参ったな、俺はレゲエだって確かに好きなんだぜ!」って答えたけどね。そういう全ての異なるもの、分離し始めた独立したシーンには・・・俺はたどり着けなかった。父トーベンとその音楽、オープンな心、そういった全てのものなしに今の俺みたいには育たなかった。」

ラーズは70年代を通じて、ロックとヘヴィメタルに対する情熱を深めた。彼は憧れの人たち全てのサインを持っていたし、目の前で演奏するのを観てきた。さらにはメイクなしのキッスも観た。しかし、ラーズ・ウルリッヒは演奏者としてはどうだったのか?ドラマーとしてはどうだったのだろうか?我々は再び1970年代終盤、ラーズが初めて楽器を手にした時まで時計の針を戻さなければならない。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

1983年の『Lick It Up(邦題:地獄の回想)』で素顔をさらすまで公には「マスク」のままだったキッス。
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キッス『地獄の回想』


それよりも前にキッスの素顔を見られたのはファンとしては貴重な体験だったことでしょう。そしてリッチー・・・それが理由で公演キャンセルってマジかよ・・・。

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