『Ride The Lightning』発売30周年を記念してRollingStoneのサイトででラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット、そしてサウンドエンジニアのフレミング・ラスムッセンへのインタビューが掲載されました。超絶長いですが、どうにかこうにか管理人拙訳してみましたので、お時間あるときにどうぞ。

Ridethelightning


「俺たちは本当に一文無しだった」2ndアルバム『Ride The Lightning』を制作していた時期のメタリカのありさまについて、ドラマーのラーズ・ウルリッヒはそう語る。「その日しのぎの生活をしなければならなかった。俺たちがレコーディングしているあいだ、友だちは文字どおり自分のアパートを与えてくれた。ジェイムズと俺は寝室で、カークとクリフはソファを分け合って寝ていたよ。」

1984年春、ベイエリア・スラッシュメタルの4人組はラーズの母国であるデンマークのコペンハーゲンのレコーディング・スタジオに閉じこもっていた。そのスタジオを選んだ理由は2つ。1つはレインボーがアルバム『Difficult to Cure(邦題:アイ・サレンダー)』をレコーディングしていたこと。もう1つはもっと切迫した理由で、安かったからだ。その当時ラーズとギター・ヴォーカリストのジェイムズ・ヘットフィールドはハタチで、ギタリストのカーク・ハメットは21歳、ベーシストのクリフ・バートンはグループ最年長の22歳だった。後にメガデスを結成するデイヴ・ムステインを解雇し、カークが加入して、速度制限を破壊するデビューアルバム『Kill 'Em All』のリリースによって、スラッシュメタルを明示してみせてから、1年と経っていなかった。今度はメタリカを明示してみせるアルバムに取り組んでいたのだ。

30年後、『Ride The Lightning』は、バンドのディスコグラフィーのなかでもメロディーの宝庫として紹介される突出しているアルバムとなった。ヘヴィ・バラード「Fade to Black」と強烈な「For Whom The Bell Tolls」は後のメタリカのヒット曲「Nothing Else Matters」「Sad But True」の青写真としての役割を果たした。そして不気味な9分のインスト曲「The Call of Ktulu」によって彼らがどの程度できるのかを実演してみせたのだ。シングルの「Creeping Death」は、アウトロに沿って何万ものメタルファンが一斉に「Die! Die! Die!」と繰り返し叫ぶことの出来るおかげでコンサートの定番曲となった。

レコードはその後、6回プラチナム(全米で100万枚以上売り上げたアルバム)として認定された。しかし、このアルバムを制作していたときのメタリカは、貧乏で、お金の使い方に気をつけていた若いヘッドバンガーだった。『Ride The Lightning』30周年を前にして、RollingStoneは、ラーズとカーク、そして彼らがレコーディングしたコペンハーゲンのSweet Silence Studioでプロダクション・アシスタントだったフレミング・ラスムッセンに、アルバムがどのように制作されたのか、今ではどんな位置づけとなっているのかについて話をきいた。


−『Ride The Lightning』というタイトルはどこから来たんですか?

カーク・ハメット
「俺はスティーヴン・キングの小説『The Stand(邦題:ザ・スタンド)』を読んでいたんだけど、そこに出てきた一節で、死刑囚監房にいた男が「稲妻に乗る(ride the lightning)」のを待っていると書いてあったんだ。「曲のタイトルにはもってこいだな」って思ったのを覚えているよ。それをジェイムズに話したら、結局のところ曲とアルバムのタイトルになったんだ。」



−コペンハーゲンでのレコーディングは、当時あなたの人生のなかでも楽しいことでしたか?

カーク・ハメット
「あそこで始めた当初はよかった。でも3、4週間も経つとホームシックになっちゃってね(笑)。3人のアメリカ人と1人のデンマーク人だったから。デンマーク人にとっては適応するのは容易いことだったけど、アメリカ人にとってはそう容易いことじゃなかった。俺たちは少しばかりカルチャー・ショックを経験したんだ。」


−どうやってホームシックに対処したんですか?

カーク・ハメット
「俺たちは音楽に取り組むか、カールスバーグのビールを飲む以外のことは本当に何もしなかった。友だちのアパートでは全てのビール瓶を確実に集めていた。空のビール瓶6本4セットを持って行くと、6本1セットのビールと交換してくれたからね。いったんそれがわかったら、俺たちがやったことはほんの少しのことだった。ホームシックが俺たちにもたらしたのは、正しい量の、こういう言い方したくないけど「絶望」だ。でも俺が思うに、少しばかりの切望がレコーディング過程に向かって進んでいったとも言えるね。」



−あなたは(友人のアパートでは)良き客人でしたか?

カーク・ハメット
「俺たちは泊まった友だちの家を完全に破壊してた。バスタブは詰まらせたし。その友だちはあらゆるバンドのビデオテープのコレクションをたくさん持っていた。ライヴのビデオもね。朝起きたら、一部は俺たちのものとなり、観るためのミュージック・ビデオを選んでいた。スタジオに行き、スタジオから戻り、何かミュージック・ビデオをつけて観る。そしてビールを飲む。それが俺たちがやっていたことさ。」


−フレミング、メタリカの第一印象はどうでしたか?

フレミング・ラスムッセン
「彼らのことについてはそれまで一切きいたことがなかった。しかし、人間として彼らを本当に気に入ったよ。私が働いていたSweet Silence Studioはデンマークでは名高いスタジオだった。私の師匠はジャズに入れ込んでいて、ある日彼が私を脇に連れ出して言ったんだ。「あいつらとはどうなっているんだ?彼らはろくに弾けないぞ」。それで私はこう言ったよ。「どうでもいいでしょう?彼らのエネルギーを聴いてください」とね。」

ラーズ・ウルリッヒ
「フレミングは俺たちがやっていることに対して完全に理解を示してくれた。彼はたくさんの音質環境でレコーディングしてくれた。俺たちはヘヴィなサウンドと大きいドラムが欲しかったんだ。」

カーク・ハメット
「俺たちはニューヨーク州ロチェスターのローカルなスタジオで『Kill 'Em All』をレコーディングした。あの場所を使っていたかもしれないビッグ・アーティストはデモ録りか何かで使っていたフォリナーのシンガーだったと思ったよ。確かじゃないけど。でも、Sweet Silence Studioにいたときは本当に興奮したよ。だってレインボーが『Difficult to Cure』で使ったところでしょ。あのアルバムのサウンドが俺たちみんな好きだったからね。俺たちのアルバムも似たサウンドになることを目指したんだ。あのスタジオと、(レインボーと)同じエンジニアであるフレミングと一緒にね。」



−レコーディングを始めたとき、どのくらい曲は完成していたのですか?

カーク・ハメット
「『Ride the Lightning』レコーディングの3、4ヶ月前に俺たちは小さな劇場のショーで「Creeping Death」「Ride the Lightning」「Fight Fire With Fire」「The Call of Ktulu」を演ったんだ。これらの曲は90%はできていた。アレンジやギターソロに関してもすでに書かれていたよ。」


ラーズ・ウルリッヒ
「83年から84年にかけての12月から1月はニューヨークでぶらぶらしていた。「Fade to Black」は友だちのメタル・ジョー(・キメンティ)の家の地下室でほとんど書いた。」


−「Fade to Black」「For Whom the Bell Tolls」「Escape」のような曲は『Kill 'Em All』の曲に比べてよりメロディックでスローになっています。何か音楽的に違うことを試そうとしたのでしょうか?

ラーズ・ウルリッヒ
「4人一緒に曲を書いたのが初めてのことだったんだ。俺たちの視野を広げるチャンスでもあった。音楽的に何かから決別する意識的な努力があったとは俺は思わない。それは「Fight Fire」や「Trapped Under Ice」を聴けば明らかだ。まだこういうスラッシュタイプの曲もあった。でも、あまりにも(こうあるべきと)制限したり、1次元に留まったりしないように気をつけないと、とは認識していたかな。

俺たち4人はみんなそれだけたくさんの違いがあった。『Kill 'Em All』の曲はジェイムズと俺とムステインによって主に書かれた曲だった。だからカークとクリフは『Kill 'Em All』の曲のどこにも本当の意味で貢献はしていない。『Ride the Lightning』はクリフとカークの2人がそれに加わるチャンスを初めて得たアルバムなんだ。2人は通った学校も違うし、特にクリフはずっとメロディックなアプローチをするところから来たしね。」



−コペンハーゲンについてすぐにレコーディングに向かったのですか?

カーク・ハメット
「ヨーロッパに出発する直前にボストンで機材をみんな盗まれたんだ。持っていたのは自分たちのギターだけだった。」

フレミング・ラスムッセン
「ジェイムズは『Kill 'Em All』のレコーディングのときに改良された特別なマーシャルのアンプを持っていた。(そのアンプも盗まれたため)当時デンマークにいたメタルバンドから全てのマーシャルのアンプを持って来た。全部で9つだったかな、それらをテストするのに初日を費やした。そして『Kill 'Em All』のジェイムズのギターサウンドを実際に再現したんだ。音を強化しただけだけどね。彼は本当に喜んでいたよ。」

カーク・ハメット
「特別楽しいとかハッピーな時間じゃなかった。でも素晴らしいスタジオの良い条件でいられたことは嬉しかったね。スタジオ外の全ては困難極めたよ。」


−クリフはどのようにして「For Whom the Bell Tolls」のイントロの(音階が)下がるベースリフを思いついたのでしょう?

カーク・ハメット
「俺とぶらついていたとき、彼はあのリフをホテルの部屋でよく弾いていたよ。弦を緩めることのできるデチューンしたアコースティックのクラシカルなギターを持ち歩いていた。とにかくあのリフを弾いていたとき、俺は思ったんだ。「何て風変わりで無調なリフなんだ。少しもヘヴィじゃないな」とね。彼がジェイムズにあのリフを弾いてみせると、ジェイムズはそれにアクセントを加えたんだ。そしたら突然変わった。クレイジーなリフにね。今でもまだ「あれはどうやって書いたんだろう?」って思うよ。最近じゃ、あれを聴くたびに「OK、クリフがここに登場だ」って感じだね。」



−曲の始まりの鐘の音はどこから来ているんでしょう?

フレミング・ラスムッセン
「スタジオに鉄床があったんだ。ラーズがそれを叩かなければならなかった。あの音でも音響効果のレコードからでもよかったんだ。でも本当に“ヘヴィ”な鋳鉄製の鉄床と金属ハンマーがあった。コンクリートの部屋にそれらを置いた。ラーズはただ(叩いて)ワーンと音をさせるだけだった。」


−レコーディングは2月に行われました。寒くなかったですか?

フレミング・ラスムッセン
「私たちは夜にレコーディングしていたから、ときおり凍えたよ。大きなガスヒーターがドラムの部屋を暖めていたから、ラーズは風邪を引かなかった。ちなみにあのスタジオは今では誰かのアパートになっている。誰かのリビングルームはラーズが実際に座ったところや『Ride the Lightning』をレコーディングしたところもある。驚きだよね(笑)。私なら引っ越すべきだと思うよ。」



−カーク、あなたがメタリカ以前に所属していたバンド、エクソダスの「Die by His Hand」と「Impaler」のリフが「Creeping Death」と「Trapped Under Ice」にそれぞれたどりつきます。あなたが曲作りの場に持って来たのですか?

カーク・ハメット
「いいや。俺が思うに、ラーズとジェイムズがデイヴ(・ムステイン)を追い払おうと考えていたとき、俺たちのサウンドエンジニアでエクソダスのマネージャーでもあるマーク・ウィテカーがエクソダスのデモテープを彼らに送った。そこで「Die by His Hand」が彼らの耳を捕えたかもしれないね。だから「Creeing Death」を書いていて、「いいね、「Die by His Hand」をあれに入れよう」ってなったのかも。明らかに違うのは俺が「エクソダスの曲のリフがここにある。このメタリカの曲にこれを入れる必要がある」ってしたわけじゃないってこと。ちなみにあの「Die by His Hand」のリフを書いたとき、俺は16歳ぐらいだったよ。」



−バンド全員がスタジオで「Die! Die! Die!」と叫んだのですか?

フレミング・ラスムッセン
「クリフはしなかったはずだ。あぁ、クリフかカークだったかな。でも彼らのうちどちらかは口だけ動かして立っていたよ。あるところでチェックするために他の3人が歌わないことにしたんだ。そしたらクリフかカークが何も言ってなかったんだ(笑)」



−クリフはスタジオではどんな感じでしたか?

フレミング・ラスムッセン
「彼はユニークな存在だった。80年代、みんなタイトなパンツを履いてパンクなことをしていた。でも彼はまだベルボトムを履いていた。他人がどう考えようが、彼はちっとも気にしなかったんだ。彼は人間性も本当に素晴らしい、良きミュージシャンであり、良きポーカー・プレーヤーだった。ベーシストとしては、彼は通常のベーシストよりはソリストに近かった。初めて彼のレコーディングをしたとき、私は彼が心地よく感じられるようにあらゆるものを試した。結局、彼のアンプを別の部屋に置いて、ステージの上みたいに彼はメインルームで弾くことになった。スピーカーから音が爆発していたよ。かなりワイルドだったね。(1986年のツアー中にバス事故で)彼が亡くなったのは、悲しい日だった。」



−レコーディングの中盤でツアーをするために休みましたね。レコーディングに戻ったときどんな感じでしたか?

ラーズ・ウルリッヒ
「俺たちが戻ったとき、スタジオで寝なければならなかった。どこかに泊まるような余裕はどこにもなかった。文字どおり4人全員同じ部屋の床で寝泊りしていたんだ。」

フレミング・ラスムッセン
「彼らはまだ若いキッズだった。スタジオに寝泊りすることについて何も問題なかったよ。数週間後に彼らが臭ってきたから、シャワーに行けとドヤさなければならなかったけどね。同じTシャツを1週間ぐらい着ていたときには「ほら、新しいTシャツ」「あぁわかった」って。でもおわかりの通り、彼らは子供のようだったが、私はそれを楽しんでいた。夜7時にレコーディングを始めて午前4時か5時まで続いた。だから彼らはただ崩れるように寝るんだ。日中ずっとね。」


ラーズ・ウルリッヒ
「マーシフル・フェイトのリハーサル部屋がSweet Silence Studioのすぐ隣にあったんだ。最後の数曲を実際に終えると、俺たちは彼らのリハーサル部屋で『Ride the Lightning』を演ったんだ。「Fade to Black」「For Whom the Bell Tolls」「Escape」とかね。俺たちは間違いなく彼らの大ファンだった。でもそこから友だちにもなったんだ。彼らは俺たちの仲間だった。」


カーク・ハメット
「彼らの音楽を聴くと彼らは悪魔のようにとんでもなく邪悪で人間を生贄に捧げる悪魔崇拝者のように思える。だからマーシフル・フェイトに会うことは強烈な体験だった。でも実際はみんなおっちょこちょいのデンマーク人だったんだ。キング・ダイアモンドは少しオーラがあった。でも彼ほど愛らしく、可笑しいヤツは見つけられないよ。」


ラーズ・ウルリッヒ
「俺たちはライヴ・ブートレグのテープを聴いていたところで、彼らが話していたんだ。「今、我々はローディを1人加入させるつもりです、そして彼と血を注ぎ出します。そして強大なる闇の主にそれを捧げます。」そんなようなことを言っていた。そしたら突然、ガチョウの羽毛が見えて、ローディから血を注ぎ出すのに使われていたんだ。あれは非現実のことのようだった。でも本当のことだ。それで尊敬しないのは難しいし、あれを称賛しないのは難しいことだね。」


カーク・ハメット
「ひところ、俺はマーシフル・フェイトが世の中で最もヘヴィなヘヴィメタルバンドだと思っていた。彼らに俺たちが『Ride the Lightning』の曲を演ったのを思い出すよ。ギタリストのマイケル・デナーが後で俺のところにやってきて言ったんだ。「「For Whom the Bell Tolls」を聴いた後はマーシフル・フェイトが一番ヘヴィなバンドだと思っていた。でも今やメタリカが一番ヘヴィなバンドだ」と。俺はちょっとショックを受けて彼を見たよ。」


−フレミング、「Fade to Black」のジェイムズのアコースティック・ギターのレコーディングははじめからすんなりいったんですか?

フレミング・ラスムッセン
「たぶんたくさんいろんなことをやったんじゃないかな。あるテイクでは、ミステリアスなサウンドを得ようと実際にテープをひっくり返して、テープを巻き戻して聴きながら、彼の弾いているパートをレコーディングした。(『Master of Puppets』の)「Battery」のアコースティックのイントロでもやったね。彼らは(「Fade to Black」で)フェイドイン/アウトするときのエレクトリック・ギターもレコーディングしていた。」


−「Escape」はキャッチーな曲のひとつで、アルバムのなかでコマーシャルな曲です。しかしバンドとしてはOrionフェスで演奏するまで28年間ライヴで弾きませんでした。シングル曲になるはずだったのですか?

フレミング・ラスムッセン
「それについては彼らと話した記憶がある。彼らは小さな独立レーベルにいた。だから(「Escape」をシングルにすることで)メジャーのレーベルを喜ばせて、契約することもできた。幸運なことに彼らは“レコード・レーベルを喜ばせる何たら”を遠ざけていたんだ。」

カーク・ハメット
「Orionフェスで「Escape」を演奏したとき、俺たちはなぜあの曲が演奏されてこなかったのかみんな同意したんだ。ライヴで演奏するには本当に素晴らしい曲ではない。「The Call of Ktulu」や「Metal Militia」のようにAのキーが入っているけど、どういうわけかAのキーがしっくりこない。あの曲を演奏することは他の曲より目新しさがあった。でも俺たちはその他の曲をやるのが大好きなんだ。」


−メタリカがスタジオにいるあいだ、誘ってくるレーベルはありましたか?

フレミング・ラスムッセン
「メタリカはあのとき、Bronze Recordsと交渉をしていた。しかし、彼らはレーベルのオーナーの息子のプロデュースで再び全てのレコーディングをさせようとしていた。彼らは言っていたよ。「確かに良い。でも、もっと良いサウンドになる」とね。みんな顔を見合わせて、こうさ「何だって?」。それでレーベルは吹き飛んだ。Bronzeはそれから破産したんだ。」


−『Ride the Lightning』が1984年7月27日にMegaforce Recordsから発売されました。そしてその後メジャーレーベルであるElektraとサインし、その年の11月19日にリイシューされました。アルバムのよりメロディックな曲への反応について、何を感じましたか?

ラーズ・ウルリッヒ
「「Fade to Black」やあのレコードの多様性に異様な反応があった。それは俺たちを少しばかり驚かせたけど、まぁわかるよ。俺たちのことをセルアウトだのそういったタイプのように呼び始めた。アコースティック・ギターが曲中にあるという事実に少し当惑している人もいた。偉大なブラック・サバスもディープ・パープルもアイアン・メイデンもジューダス・プリーストもマーシフル・フェイトも彼らのレコードはそんなパートの宝庫だろ。まさか俺たちが先人の道の後を続いていったっていう事実じゃ誰も驚かせることができないなんてね。」


−30年経って、あのアルバムはあなたのなかでどのように支持し続けていますか?

ラーズ・ウルリッヒ
「もちろん、とても良いと思っているよ。若いエネルギーがレコード中からほとばしってるね(笑)。これらの曲の良いところはいまだに俺たちのライヴセットリストの定番になっている。「For Whom the Bell Tolls」に「Creeping Death」、「Fade to Black」もあって「Ride the Lightning」もある。悪くない打率だ。」

カーク・ハメット
「Orionで全曲やれたのは最高だった。あのアルバムは本当に良いよ。あのアルバムのサウンドは大好きなんだ。とってもアナログでね。俺たちのなかで最も暖かいサウンドのアルバムじゃないかって思ってる。『Master of Puppets』をレコーディングするまで、バッシングされた日々は、『Ride the Lightning』な日々よりもずっと少ない。バッシングはいつも俺にとってはより自然なサウンド・パフォーマンスへと通じていくんだ。」

RollingStone(2014-07-28)

初めて知ることも多く、非常に長いインタビューですが訳しているあいだ楽しかったです。おそらく別々にインタビューしたのを再構成した記事なのかなぁと思ったのは、「Die! Die! Die!」と歌っていないのは誰かをカークに追及していないところ。クリフとカーク、どっちだったのか非常に気になります(笑)。

インタビュー内容を踏まえて、アルバムを聴き直して見ると新たな発見があるかもしれませんね。

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