ラーズ・ウルリッヒがMetallica.comにて、7月16日に71歳で亡くなった元ディープ・パープルのジョン・ロードに対する追悼コメントを出しました。いつもどおり誤訳御免の管理人拙訳にて。

1973年、俺が感受性の強い9歳のときに父にコペンハーゲンまで観に連れて行ってもらって以来、ディープ・パープルは俺の人生のなかで常に絶え間なく影響を受けた最たる存在だった。他に存在するどんなバンドよりも俺にとって重要なバンドだったし、俺というものを形作る巨大なパーツだったんだ。無論、キーボード奏者のジョン・ロードの早すぎる死という今日のニュースに俺はひどく落ち込み、悲しみ、ショックを受けている。

自分たちのヒーローや自分たちを突き動かした人のことを説明しようとするとき、「ユニーク」とか「比類なき」とか「草分け的」みたいな形容詞を使うのは軽率かもしれない。でも、他にぴったりな言葉が今はないよ。ハード・ロックの歴史のなかでジョン・ロードのようなミュージシャンは本当にいないんだから。誰もいない。以上。

彼のように演奏をした人なんて誰もいなかった。彼のように音を聴かせた人なんて誰もいなかった。彼のように曲を書いた人なんて誰もいなかった。彼のように見えた人なんて誰もいなかった。彼よりも歯切れ良く、紳士的で、温かみのある、超クールなキーボード奏者かそれに近いものを弾いた人なんて誰もいなかった。彼がやってきたことは全て彼独自のものだった。無論、ユニークなサウンドを含めてね。彼がハモンドオルガンでやったことはどんなことでも、(例えば)聴いたことのないような場所まで押してレスリー・スピーカーで音を歪ませたり、キーボードを振り回してながら叩いたり。彼がオルガンを響かせていたとき、ジョンと野獣のあいだを行き来していた、そんなことは過去にあったどんなものとも似つかなかったし、その当時も、それからもない。ただそれだけだ。

ディープ・パープルはもちろん、存在そのものが独自のものだった。いつも予測不能で、ときおり衝動的で、同じことの繰り返しなんて全くない、たいてい別世界のものだったんだ。幸運なことに73年から75年までのあいだにコペンハーゲンで3回も観ることができた。85年と87年に再結成したときには数え切れないほど観に行ったよ。俺たちが87年の夏、彼らとドイツで何回かギグをやったときは言うまでもなく、いつも俺に大きな影響を及ぼした経験だった。ステージ上のジョンのリフ、音色使い、テクスチャー、一段上を行ったソロ、イントロ、アウトロ、ブルースの引用、クラシックの一片など彼の頭から毎夜湧き出るものは何でも、さらには毎夜毎夜、毎曲毎曲、リッチー・ブラックモアについていっているのを観たら、彼が名人であることの証拠に他ならないんだ・・・。この地球上を歩いた最も熟達の域に達した、オ
ジナルでユニークなハード・ロック・キーボード奏者だった。

1992年、ブラックアルバムのツアーでミュンヘンでライヴをしたとき、ジョン・ロードとリード・シンガーのイアン・ギランがショーにやってきて、ずっとスネイク・ピットに立っていたんだよ。天国にでもいるかのようだったね。俺の人生のなかで最も重要だったバンドのメンバーの真ん前で演奏するという夢が叶ったんだ。次の日にはレコーディングに戻るということで彼らは出発しなければならなかったんで、ショーの後でサインをもらったんだけど、もう俺は歓喜を通り越しちゃってね。だって俺のヒーローがあのスネイク・ピットにいるんだぜ!!!!「見ろよ母ちゃん、最高だろ!!」って感じさ。

・・・73年の2月、コペンハーゲンのKB Hallen公演のときの感受性の強い9歳に戻った気分だった。

安らかにジョン、そしていろいろありがとう。

ラーズ


Jon_Lord1

Metallica.com(2012-07-16)

リッチー・ブラックモアの大ファンであるラーズらしいコメント。
管理人、個人的にも憧れのキーボード奏者でした。
ご冥福をお祈りいたします。

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