メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:Metallica

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    ロバート・トゥルージロがベーシストの祭典「Bass Player LIVE!」に参加するとのこと。以下、BassPlayer.comのお知らせを管理人拙訳にて。

    rob_lemmy

    11月7日と8日にロサンゼルスで行われる「Bass Player LIVE!」の出演者リストはさらに追加中!新たに加わったプレゼンターでクリニック参加者のロバート・トゥルージロの他、レミー・キルミスター、マイク・ワット、スティーブ・ベイリー、レックス・ブラウン、マイク・アイネズらが参加予定。

    メタリカのベーシストであり、ジャコ・パストリアスの映画プロデューサーであるロバート・トゥルージロは、11月7日夜のミュージシャンズ・インスティチュートで行われる「Bass Player LIVE!」のコンサートにてベースプレイヤー功労賞をモーターヘッドのレミー・キルミスターに授与する。

    (以下略)

    BPL Social Media

    BassPlayer.com(2015-10-13)

    現在の発表ではロブもレミーもコンサートに参加するかは微妙なところですが、さまざまなジャンルから馬鹿テクベーシストが集結するこのイベントでの交流が、ロブにとっての新たな刺激となることを期待します。

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    メタリカとも関わりの深いフォトグラファーで映画監督でもあるアントン・コービン。現在行われている東京国際映画祭で来日している監督が『メタリカ・スルー・ザ・ネヴァー』で主演を務めたデイン・デハーンにジェームズ・ディーンをオファーした時のエピソードを語りました。以下、シネマトゥディから引用。

    anton

    伝説のロックフォトグラファーで映画監督のアントン・コービンが24日、新宿バルト9で行われた第28回東京国際映画祭特別招待作品『ディーン、君がいた瞬間(とき)』舞台あいさつに来場、ジェームズ・ディーン役を固辞したデイン・デハーンを説得したのはメタリカのドラマー(ラーズ・ウルリッヒ)であったことを明かした。

    ハリウッドの伝説的スター、ジェームズ・ディーンの没後60年記念作品として製作された本作。そのメガホンを取ったコービン監督は、U2、デペッシュ・モードらのメインカメラマンを務めるほか、トム・ウェイツ、デヴィッド・ボウイ、ビョークなど錚々たる人物のポートレート写真を担当する人物だ。

    「ジェームズ・ディーンは有名なアイコンだから、俳優にとってジェームズを演じるのは本当に難しいことだ」と認めるコービン監督であったが、そんな難役にチャレンジしたのは『クロニクル』『アメイジング・スパイダーマン2』などで注目を集めたデインだ。「デインは、ジェームズ・ディーンが大好きだったから、僕にはできないと言って、最初は監督である僕にすら会ってくれなかった」と笑いながら述懐するコービン監督。

    「でもメタリカのドラマーが共通の友人だったんで、彼が説得してくれた。最終的には会ってくれることになった」と明かす。そんなデインの演技について「彼はどんな役をやっても、実在する人物だと信じさせてくれる俳優。もちろんジェームズ・ディーンの外見だけなら似せることはできると思うが、内面とはギャップがある。デインはそれを埋める才能がある俳優だね」と称賛するコービン監督だった。

    (以下略)

    シネマトゥディ(2016-10-24)

    映画の予告編はこちら。


    アントン・コービンと言えば、アルバム『Load』期あたりからメタリカの写真やMVを撮った監督です。以下、アントン・コービン撮影のメタリカのMVと写真をいくつか。

    「Hero of the Day」


    「Mama Said」


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    Metallica-San-Francisco-1996

    metallica_1997

    anton_dvd
    DIRECTORS LABEL アントン・コービン BEST SELECTION


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    前回の続き、ホラー映画関連のコレクターとしての顔を持つカーク・ハメットをインタビューした記事の後半を管理人拙訳にて。

    hammett_monsters_kids

    家では、ハメットは友だちや従兄弟とモンスターで遊んでいた。彼のお気に入りのおもちゃはオーロラ社のモンスターモデルだった。暗闇で光る「Frightening Lightning」シリーズが出ると、彼は買い求めた。本の中でハメットは、初めて買ったのはフランケンシュタインの怪物だと語っている。彼は出来るだけ映画に近づけようと塗装を施した。次から次へとモデルを買い込み、彼が早めに寝ようとすると、光るクリーチャー・コレクションを凝視できるほどだった。しかし、彼は自分のモンスターモデルが大好きだったのと同じくらい、それらをぶち壊すことも大好きだったのである。

    「こういうことをするのは俺だけじゃないってことはわかっていたんだ。」ハメットは振り返る。「お風呂に入ろうとして、消毒用アルコールをみつけては、モンスターモデルにそいつをふりかけて、火を点けるんだ。モンスターの手にはテープで爆竹を括りつけて、火がついたら、爆発さ。火の点いた爆竹と一緒に屋根に投げ込んだり、手作りのパチンコで宙に舞わせたりしたこともあった。考えうるものは何でも、あのモンスターモデルにしでかしていたんだ。大はしゃぎさ。結果として、俺はモンスターモデルを全部ひとつずつ買っていたし、少なくとも7、8回以上は買っていた。組み立てて塗装するのも大好きだからね。キャラクターは大好きだったし、それをぶっ壊すのも大好きだった。一番のお気に入りはオペラ座の怪人だね。片腕を挙げて、手にマスクを持っているポーズなんだ。彼からマスクを取り上げて、そこに爆竹を持たせるのさ。俺たちはなるたけ破壊的になろうとしていたのさ。」

    ハメットが12歳の時、家族はサンフランシスコから20マイル離れたベイエリア、カリフォルニア州リッチモンドの隣にある小さな郊外の町、エル・ソルブランテに引っ越した。「全く突然のことで、俺は都市に住むっていう資質を持ち合わせていなかった。一番近いコミック本の店は少なくともバスで1時間半かかるバークレーにあった。だから俺のコミック本集めには大打撃だったよ。俺は模型のロケットを作ったり、音楽を聴いたりし始めた。」

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    メタリカとしてライヴに臨むハメットはユニバーサルの1930年代モンスター映画の希少なポスターを元にした4つのESPギターを弾いている。「The Mummy」ギターが一番人気だ。(サンフランシスコ国際空港ミュージアム写真提供)

    10代前半で、ハメットはレッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、シン・リジィ、クリーム、ZZトップ、レイナード・スキナード、サンタナ、ブラック・サバスといったレコードを集めるのに執心の向き先を変えた。ある夏、彼は地元の映画館でジミ・ヘンドリックスのドキュメンタリーを見て、永遠に彼の人生を変えることとなった。15歳の誕生日の1ヶ月前に、初めてのギターを買い、1979年に16歳でベイエリアで急成長するスラッシュメタル・ムーブメントのなかで最も影響力のあるバンドのひとつ、エクソダスを結成した。

    メタリカがリードギタリストのデイヴ・ムステイン(その後メガデスを結成することとなった)を1983年に解雇すると、他のメンバーたちはデビューアルバム『Kill 'Em All』のレコーディングのためにバンドに加入してもらおうと20歳のハメットを誘った。本の中でハメットは、とりわけ彼と同じくらいホラー映画、ビクトリア朝のホラー作家H.P.ラヴクラフトが大好きだったメタリカのベーシスト、故クリフ・バートンと親密になったと語る。そしてバンド全員でアルバム制作中にドライブインシアターで『死霊のはらわた(原題:The Evil Dead)』を観に行った。

    「14歳から始まったんだ。俺は音楽に熱中した。ギターを弾いていない時はリハーサルに行っていた。リハーサルでもなく、ギターを弾いてもいない時はライヴをやっていた。その3つともやっていない時は旅をしていた。それはホラー映画への興味より人生の優先順位で上にあったんだ。でもまだ空き時間にはホラー映画を観に行っていたよ。あちこちでコミック本やモンスターマガジンをひっつかんでいた。16歳の時にホラー映画のファンジン「Fangoria」が出たら、読み始めていたし。音楽に深く入り込んでいった時でさえね。白が黒になるような変化じゃなかった。俺はまだこのジャンルに足を洗っていなかったんだ。でも以前ほどは多くの時間をそこに割けなくなっていたよ。」

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    これらは1943年のベラ・ルゴシ主演の『吸血鬼蘇る(原題:The Return of the Vampire)』で、太陽の光を浴びて吸血鬼の頭が溶ける前と後を現した小道具だ。(サンフランシスコ国際空港ミュージアム写真提供)

    メタリカの『Ride The Lightning』が1984年の7月にメガフォースから発売されると、バンドメンバーはわずかではありながらもアルバムの売上げから2ヶ月の一度の給与小切手を受け取るようになった。

    「たくさんのお金じゃなかったけど、またコレクションを始めるには充分だった。再びコミック本を買い求め、おもちゃを集め始めた。おもちゃショーやコミックショー、骨董見本市に行き始めるようになったよ。地元の質屋やフリーマーケットも尋ねるようになったしね。1986年頃(メタリカが『Master of Puppets』のツアー中)には、ツアーで廻っているあいだにコミック本の店、骨董屋、おもちゃ屋を探していた。あとは知っての通り、俺はすっかりまたホラーコレクターモードになったってわけ。子供の時みたいに。止められないね。1984年頃から、音楽と家族とサーフィン以外の、俺そのものなんだ。俺はホラー映画愛好家なのさ。」

    メタリカのアルバムタイトルの多く(『Kill 'Em All』『Master of Puppets』など)は偉大なホラー映画そのもののような響きだ。

    高く評価された1989年のアルバム『...And Justice For All』の収録曲「One」のミュージックビデオは、1971年の反戦映画『ジョニーは戦場へ行った(原題:Johnny Got His Gun)』を編集したものだ。そのなかで、第一次世界大戦に従軍したアメリカ兵が砲弾を受けて腕と足を切断され、目と耳と口と鼻を破壊された。痛ましく、切り分けられた歌詞は映像に結びついている。「Darkness imprisoning me / All that I see / Absolute horror / I cannot live / I cannot die / Trapped in myself / Body my holding cell」2年後、メタリカはシングル「Enter Sandman」をリリースした。子供の悪夢に関する曲だ。ハメットによって書かれた耳に残るギターリフを元に、TOP20のヒット曲となり、無限の称賛を受けた。間違いなく、ハメットのホラーと音楽への愛は深く結びついている。

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    ハメットはバジル・ゴーゴーによるオリジナル画を持っている。例えばこの「Famous Monsters of Filmland」の表紙を飾った太陽の怪物のように。(訳注:映画『太陽の怪物(原題:The Hideous Sun Demon)』)(『Too Much Horror Business』とサンフランシスコ国際空港ミュージアム写真提供)

    「俺の人生全体の視点はホラー映画が色濃く反映している。自然と自分に流れるあの感覚と、湧き出る自分を音楽へと結び付けてきたんだ。四六時中暗いものを聴いていた。俺はじっと座って楽しい曲を弾くなんてタイプじゃない。独りでいるときも子供といる時でさえもね。俺は子供たちに言うんだ。「ほら、前に聴いたことのないこのクールなブラックサバスのリフをやってみよう。」とか「ねぇこれお化け屋敷みたいな響きじゃない?」とか「ほら、これはゴジラが東京で闊歩しているみたいな音だよ」ってね。だから当然、俺はマイナーキーな感じで生きてきた。ホラー映画はマイナーキーなんだ。」

    実際に、1960年代後半に初めて登場したヘヴィメタルのジャンルの多くのバンドが、不穏なサウンドとホラー映画のイメージを楽しんできた。オジー・オズボーン率いる先駆的メタルバンド、ブラック・サバスはその名前をボリス・カーロフ出演の1963年伊仏共同制作のホラー映画から取っている。また有名なモンスター・チューン「Iron Man」を生み出した。アイアン・メイデン、ジューダス・プリースト、スレイヤー、アンスラックス、メガデス、モービッド・エンジェルのようなバンドたちは皆、ホラー映画とオカルトからインスパイアを得た曲を演奏している。それはペンタグラムや溶けた骸骨、墓守、血まみれのナイフ、業火、角の生えた悪魔で彩られたアルバムジャケットに目を移しても明らかだ。『Too Much Horror Business』の中でハメットはこう語っている。「ヘヴィメタルをプレイしたり聴いたりしている人たちはホラー映画を理解できるよ。光と影の具合の全てが同じだからね。」

    こういったミュージシャンたちがTVで「Creature Feature」でB級ホラー映画を観て、おもちゃ屋でモンスターマニアを買って育ったという事実と関係しているかもしれない。しかし、1960年代のヒッピーカルチャーの燦然と輝く精神である「ラヴ&ピース&ミュージック」に対する反発の可能性も否めない。

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    映画『恐怖城(原題:White Zombie)』で使われたオリジナルのベストとジャケットを身につけたベラ・ルゴシ像と(訳注:オカルトの著作を数多く残した)アレイスター・クロウリーをおおまかになぞった悪魔崇拝の立案者についての映画『黒猫(原題:Black Cat)』の衣装を身につけたボリス・カーロフのマネキンのあいだに立つハメット。(『Too Much Horror Business』より)

    「言っておかなきゃならないのは、子供の頃にサンフランシスコに住み、サイケデリックなもの、どこでも靴を履かない長髪のヒッピーたちを見てきたってことだ。みんな裸足なんだ。狂ってるよ。理解できなかった。たとえ両親がそれを受け入れたとしても、俺自身の感性とは反していた。たぶん脊髄反射で、俺は別の方向、よりダークなものへと進んだんだろうな。俺はビートルズファンじゃないんだ。なぜかって?いつだってハッピーすぎるサウンドだからさ。彼らが気分が落ちて攻撃的になったとしても、俺がそれを聴くとまだハッピーな色彩を帯びているんだ。それは・・・ウゲッ!って感じ。」

    現在、フランケンシュタインの頭の形をしたスピーカーや子供の時には買う余裕のなかったたくさんのおもちゃのように、1960年代から70年代作られたいくつかの途轍もないほど素晴らしいモンスターのおもちゃを持っている、ハメットはそんな熱狂的ホラーファンなのだ。また彼はホラー映画のオリジナル衣装を着たベラ・ルゴシ、ボリス・カーロフの等身大フィギュアやモンスター映画で使われた頭や手を含むオリジナルの小道具を持っている。なかでも『吸血鬼蘇る(原題:The Return of the Vampire)』で吸血鬼アルマンド・テスラが太陽の光を浴びて溶けてしまう過程を描いた2つの頭部は最も魅力的なものだ。ハメットの家の壁には、バジル・ゴーゴーの描いた「Famous Monsters」の表紙イラストやジェームス・バマの描いたオーロラ社のモンスターモデルのパッケージイラストのオリジナル・アートが掛かっている。

    しかし、彼が扱うなかで最も熾烈な分野は映画ポスターの世界だ。1920年代から30年代の(劇場で使用される非売品の)オリジナルポスター映画の半シート、ワンシート(訳注:27×41インチ)、2シート、3シート、6シートサイズ、折込広告、小型ポスター、ロビーカードはとても貴重で、偽造者が高品質のインクジェットプリンターを使ってフランスの石版印刷の見た目を複製する方法を編み出したほどだ。本の中でハメットは、いかにしてオークションハウスから電話がかかってきたかという話をした。オークションハウスが言うには、彼が買った映画『フランケンシュタインの復活(原題:Son of Frankenstein)』の小型ポスターを偽物とにらんだFBIから連絡を受けたというのである。彼は犯罪科学調査のためにオークションハウスにポスターを返送しなければならなかった。

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    1922年にドイツの吸血鬼映画『吸血鬼ノスフェラトゥ(原題:Nosferatu)』が登場すると、ブラム・ストーカーの未亡人は著作権侵害で訴えた。裁判所は映画フィルムと宣伝材料を破棄するよう命じたが、この希少なポスターはすでにスペインへと出荷された後だった。(『Too Much Horror Business』より)

    1930年代のオリジナルポスターを探すとなると、多くの場合、モンスター映画華やかなりし頃のユニバーサル映画に携わった人たちに連絡することを意味する。ハメットは売買で「有名税」を課せられないようコレクター友だちの助けを借りる。つまり売り手は取引相手が有名人と知るやしばしば価格を吊り上げることがあるのだ。そんな世界にも関わらず、ハメットは自分がいるべき場所をようやくみつけたと感じていると語った。

    「映画ポスターコレクターのネットワークは全く機能してないし狂ってるよ。俺がこれまでに会った中で最高に狂ったコレクターやディーラーは、映画ポスターのコレクターとディーラーだね。こういうディーラーたちはゴールドラッシュの熱にでもやられているみたいなんだ。5本の指に入る価値のポスターを見つけると突然、金の卵でも見つけたみたいに振舞うのさ。まぁたしかに金の卵を見つけたんだろう、でも異様だよ。俺はそんなヤツらがあるポスターを入手した途端に人が変わってしまったのを見てきた。もっとポスターを買うために現金が必要だからと二重三重の抵当に入ってるコレクターもいるんだ。映画のポスターのこととなると冷酷無慈悲な人たちがいることを知っている。そういう人たちはポスターを手に入れるためには母親だって売り渡すんだ。」

    彼はこう続ける。「俺はこう思うんだ。「うわぁ俺と同じくらいトチ狂ってる人たちの集まりをついに見つけたぞ」ってね。俺は完全に映画ポスターコレクターマニアにぴったりなんだ。他のみんなと同じくらい同じ素晴らしいポスターが欲しい。結果として、こういう人たちに(自分が欲しいポスターのことを)話すことができないから、俺の友だちみたいに仲介者をやってくれる、ちょっと駆け引きのうまい人たちが必要なんだ。彼はこういった映画ポスターに付き物のすべての気質、機能不全、情熱といったものと折り合うことができるからね。」

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    1932年の『ミイラ再生』のワンシート・オリジナルポスター2つのうちのひとつは(ドルで)6桁で売られた。ハメットはいずれも持っている。(『Too Much Horror Business』より)

    『Too Much Horror Business』ではニュージーランドにいる男からメッセージを受けたこの友人の話が詳しく描かれている。その男は、1930年代の各2種類の『フランケンシュタインの花嫁(原題:The Bride of Frankenstein)』『女ドラキュラ(原題:Dracula’s Daughter)』『大鴉(原題:The Raven)』『透明光線(原題:The Invisible Ray)』の半シートポスター8枚を持っていた。映画のプリントやポスターを配給するユニバーサルポスター取引所の従業員がかつて使っていた家を改築しているあいだにポスターを見つけたのである。屋根裏部屋で断熱材として使われていたのだ。本ではダウコーニング社の繊維が導入される前には古紙が一般的な断熱材だったのだと説明する。別の希少な『成吉思汗の仮面(原題:A Mask of Fu Manchu)』の折込広告が昔の映画館のカーペットの下から発見された。その人物はこの映画館からソーダ汚れ等を除去して元の状態に戻すために600ドルを費やした。

    ハメットのコレクションのなかでとりわけ貴重なポスターは、ブラム・ストーカーの1987年の小説『ドラキュラ(原題:Dracula)』を不認可のままドイツで脚色した1922年の『吸血鬼ノスフェラトゥ(原題:Nosferatu)』のものだ。ストーカーの未亡人は映画会社と監督を訴えた。裁判所は彼女に有利な判決を下し、映画会社に『吸血鬼ノスフェラトゥ』の全ての宣伝材料を破棄するよう命じた。しかしハメット所有の『吸血鬼ノスフェラトゥ』のワンシートポスターは判決前にスペインに出荷されたのだ。ほんの一握りのものだけが現存していることで知られている。

    本の中で、ハメットのアシスタントは何ヶ月もかけて、大金と引換えに正確なレプリカを制作するため、1932年の映画『ミイラ再生』で使われたワンシートポスターの複製版の所有者に働きかけたことを振り返っている。後の複製とは異なり、オリジナルのワンシートポスターにはボリス・カーロフの顔の隣に「It comes to life!」と走り書きされている。メタリカのステージで、ハメットは『フランケンシュタイン』『ドラキュラ』『フランケンシュタインの花嫁』のオリジナルポスターを元にしたカスタムメイドのESPギターを使っているが、この希少な『ミイラ再生』のポスターからインスパイアされたギターはファンから最も人気がある。

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    (串刺しの心臓の入ったマティーニを手にしている)ジェームス・バマのドラキュラが運転する絵はオーロラ社のドラキュラのドラッグスター・ホットロッドモデルのパッケージイラストとして描かれた(『Too Much Horror Business』より)

    「映画ポスターの世界に長くいればいるほど、ますます(掘り出し物が)現れ続ける。『フランケンシュタイン』の6シートサイズのポスターが見られるなんて思ってもみなかったし、驚いたことに1つは現存するんだよ。今はインターネットがあるから、誰かが45年間壁に貼ってあった映画のポスターをみんなが実際に見てこう言ったりするんだ。「おぉ、それ何か知ってる?『モルグ街の殺人(原題:Murders in the Rue Morgue)』のワンシートポスターだよ。数千ドルの価値はあるかもしれない。」それでどうなるかって言うと、所有者はネットを見て数千ドル以上の価値があるってことに気がつくのさ。結局のところ、そういうことが通常は俺たちコレクターや映画ポスター収集の世界にとって助けになっているんだよ。」

    メタリカのツアーに出ていない時、ハメットはサンフランシスコで妻のラニと2人の幼い息子、エンジェル・レイとヴンツェンツォと暮らしている。もちろんハメットは『人類SOS!(原題:The Day of the Triffids)』をテレビで観た運命の日から見出したモンスターマニアの楽しみを子供たちに教えている。

    ハメットはまたこう語る。「俺は完全にこういった類のこと全てにおいて息子たちを洗脳しているよ。言っておかなきゃならないのは、身勝手な理由のためにそれをやっているってことだ。俺が死んだ後、誰かがコレクションを管理しなきゃならないからね。彼らには(コレクションを)どう扱っているか知っておいて欲しい。全てが意味のあることだから。それさえ知っておいてくれれば、俺が死んだ後で彼らが一緒にコレクションを維持していくのか、散逸してしまうか、どう決めようと構わない。」

    しかしその時が来る前に、ハメットはさらに本を出し、FearFestEvilを催し、展示会を開き、そしてモンスター博物館を作る計画を持っている。「最終的にはこういったもののために恒久的な場所を見つけて、世界中の人たちが見に来られるようにしていきたいね。」メタリカ最優先だが「俺はこれまでホラーの世界と関わってきた。そして今日までその世界を愛してきたんだ。」

    Collectors Weekly(2015-10-06)

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    ホラー映画関連のコレクターとしての顔を持つカーク・ハメットをインタビューした記事を管理人拙訳にてご紹介。インタビューとあわせてホラー映画の歴史もおさらいしている長文記事ですのでマニアックな点を覚悟してどうぞ。

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    メタリカのリードギタリストと息子、エンジェル・レイとヴィンツェンツォが彼のモンスターコレクションで遊んでいるところ

    メタリカのリードギタリスト、カーク・"リッパー"・ハメットが5歳の時、腕を捻挫し静養していた。両親は彼をテレビの前に居座らせていた。バックス・バニーの漫画に出てくるマラソンといったものは完璧な気晴らしになると考えることだろう。しかし、幼いハメットが腕の痛みを忘れられたのは、大きくなった肉食の宇宙植物が人間を恐怖に陥れるという映画『人類SOS!(原題:The Day of the Triffids)』を観に行った時だけだった。そして彼は恐怖というスリルを発見したのだ。

    6歳になって『フランケンシュタイン』を父親と観た時に彼のモンスター映画に対する愛は固まった。「俺は「フランケンシュタイン」に釘付けになった。」ハメットは電話越しにこう語った。「俺にとってこの世のものでないものがいっぱいだったんだ。ジェイムズ・ホエール監督のモノクロでシュールで印象派みたいな映画の様相だったり、ジャック・ピアスの素晴らしいメイクだったり、ボリス・カーロフの信じられないほど素晴らしい演技だったり、言うまでもなくストーリーそのものだったりがね。俺はただただ心奪われた。そこから、「モンスターマガジン」とかホラーコミックとかオーロラ社のモンスターフィギュアを買い始めた。子供だったから使えるお金は多くはなかったけど、あちこちでお金を稼ごうとしてやりくりしていったんだ。」

    現在52歳のハメットは10代で音楽と恋に落ちたわけだが、それはホラー映画への強迫観念を衰えさせたわけでは決してなかった。メタリカが1980年半ばにいくらかのお金が入り始めた頃、彼はモンスターマガジン、マスク、コミック本、子供の頃のおもちゃをもっと真剣に買い集め始めた。やがて、存在が確認されている最も希少なホラー映画のポスターや映画で使われた小道具などを買い集めて、ハメットはホラーメモラビリアの分野においてトップコレクターの一人となったのである。最近では、志を同じくする愛好家と繋がることを期待して、世界に自分のコレクションを共有し始めている。

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    1962年の映画『人類SOS!』に出てくる人食い植物が子供の頃にどれだけ彼を怖がらせたのかハメットは今笑って話す。

    2012年に彼は『Too Much Horror Business』というコレクションを載せた本を出版し、翌年デトロイトで行われたメタリカ主催の2回目の「Orion Music + More」フェスティバルでホラーメモラビリアのいくつかを展示した「Kirk's Crypt」を創り上げた。「Kirk's Crypt」は、2014年に地元サンフランシスコで全3日間のホラーコンベンション「Kirk Von Hammett's FearFestEvil」を始めるきっかけとなった。毎年行われるこのイベントは双方向なディスプレイを特色としていて、ハメットのモンスターコレクションの他、カーカス、デス・エンジェル、ハメットがメタリカ以前にいたバンド、エクソダスといったメタルバンドのパフォーマンス、ゲストには現代のホラー俳優、監督、特殊メイクアーティストばかりか、古典的ホラー映画のスターであるボリス・カーロフやベラ・ルゴシの子供たちもそこに含まれていた。現在、サンフランシスコをヴァージン航空かアメリカン航空で経由する旅行者はハメットのホラーコレクションの一部をサンフランシスコ国際空港内にあるミュージアムで行われている「Classic Monsters: The Kirk Hammett Collection」の展示を第2ターミナルで目にすることができる。

    ハメットはサイケデリックな60年代のサンフランシスコ、激動の文化的背景にあった危険な隣人の住むミッション地区で育った。『Too Much Horror Business』の導入部では、ホラー映画が自分を和ませる不気味で夢のような情景という別の世界へと連れて行ってくれたのだと説明している。

    自分をのけ者として認識し、チャールズ・アトラスの広告で顔に砂を蹴り上げられるような痩せっぽちになるかもしれない(※訳注1)と恐れていた。本のなかで、音楽ジャーナリストであり共著者でもあるステファン・チラジに彼は語っている。彼はとりわけ、父親と繋がりを持ちたい誤解されたはみ出し者であるフランケンシュタインの怪物に共感を感じていた。ハメットは自身の父親との関係について「強くはなかった」からだ。彼は従兄弟の持っていた狼男のマスクを被った時、力がみなぎり、人生をコントロールし、いじめっ子に対して仕返しをする能力を感じたのである。

    「信じられないかもしれないけど、俺は完全に内向的な人間なんだ。」ハメットはこう語る。「みんなはステージ上の俺を見たり、5万人を前に顔色ひとつ変えずに出て行くのを見たりしている。でも俺はそれに慣れているというだけだ。俺の家族の歴史からして、いつもアウトサイダーみたいに感じていた。とても静かで敏感な超恥ずかしがり屋の子供だった。いろんな状況に適応すべく苦労していた。自分をモンスターのように感じていたよ。俺がスクリーンで観たモンスターが経験していたことの多くが、俺自身の生活の中でもあったんだ。」

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    1931年の『フランケンシュタイン』のフランス版のパネル。ハメットはこの怪物の「孤独と悲しみの状態」を強いられていたと書いている。

    ヘヴィメタルのアルバムジャケットをランダムに参照してみると、ハメットだけがモンスター好きなのではないことは明らかだ。のけ者と逸脱した行為の魅力は、映画の歴史を通じても連綿と続いている。サイレント映画時代には、1920年のドイツ表現主義映画『カリガリ博士(原題:The Cabinet of Dr. Caligari)』、同じく1920年のアメリカ映画『狂へる悪魔(原題:Dr. Jekyll and Mr. Hyde)』、ドラキュラにインスパイアされた1922年のドイツ表現主義映画『吸血鬼ノスフェラトゥ(原題:Nosferatu)』といった映画にみられる、荒涼としたビジュアルと誇張された顔の表情、ビクビクさせる弦楽器、大きな音を奏でるオルガンが邪悪を意味していた。

    ユニバーサルスタジオは 社会不適合者がモンスターとみなされる映画の魅惑的な可能性に気付き、1923年にロン・チェイニー主演で映画『ノートルダムのせむし男(原題:The Hunchback of Notre Dame)』を発表した。その後数十年に渡るホラーフランチャイズの初めてのモンスター映画である。2年後、ユニバーサルはチェイニーを雇い、別の冷酷で醜いのけ者を『オペラ座の怪人(原題:The Phantom of the Opera)』で具現化した。

    しかし、トーキー映画が1930年代に大流行してからユニバーサルはBIG3を公開した。1931年のベラ・ルゴシの『魔人ドラキュラ(原題:Dracula)』、1931年のボリス・カーロフの『フランケンシュタイン(原題:Frankenstein)』と1932年のカーロフ主演の『ミイラ再生(原題:The Mummy)』である。当時、喋る映像を見るという体験(実際に映画を観に行くという体験そのもの)は観客にとって目新しく、こういった映画と初歩的な特殊効果を純粋に怖がっていた。しかし、1933年には、監督たちが自分たちの作品をちょっと意識したユーモアを差し込んでいくようになる。『透明人間(原題:The Invisible Man)』や『フランケンシュタイン』の続編となった1935年の『フランケンシュタインの花嫁(原題:Bride of Frankenstein)』のように。1940年代、50年代にはユニバーサルは2つの愛すべき獣たちを公開した。ロン・チェイニー・ジュニア主演の『狼男(原題:The Wolf Man)』と『大アマゾンの半魚人(原題:Creature From the Black Lagoon)』である。

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    ハメット所有の1931年の『魔人ドラキュラ』関連のおもちゃコレクション。財布、キャンディーボックス、ペイント・バイ・ナンバー・キット(訳注:下絵に書かれた数字の色と同じ絵の具を塗っていくだけで上手な絵が完成するキット)、パズル、ランチボックス、オーロラ社の「Frightening Lightning」モデル、ボードゲーム、そしてオーロラ社のドラキュラのドラッグレースドライバー版。(サンフランシスコ国際空港ミュージアム写真提供)

    第二次世界大戦の直後と冷戦初期には、巨大化した放射能による突然変異体や邪悪な異星人、宇宙ロボットといったものが、核技術と宇宙開発についてのアメリカの妄想を表していた。テレビが普及し、映画館では1959年の『ティングラー/背すじに潜む恐怖(原題:The Tingler)』のようなB級ホラー映画で10代の若者が映画を見に来るように思いつく限りのプロモーション・ギミック(※訳注2)を採用した。一方、1954年の『Seduction of the Innocent』(訳注:コミック本の悪影響を説いた精神科医の著書)はパニックを引き起こし、議会の公聴会が開かれるまでに至った。『Tales From the Crypt』のようなゾッとするコミック本が若者を破滅させ、非行に走らせると信じられていたのである。出版業界の新しいコミック自主規制コードに直面して、ECコミックは1955年にホラータイトルの出版を断念した。

    1957年(ホラーフランチャイズを畳んでわずか数年後)、ユニバーサルスタジオはモンスター伝説を強化する方法を編み出した。不気味な映画をテレビ局へ「Shock Theater」というパッケージで配給したのだ。テレビ局は映画を紹介するために、LAのKABC-TVで吸血鬼にインスパイアされた古くさい衣装を着た司会者を雇うことになった。1960年代には、こういった番組が通常金曜日か土曜日の夜8時以降に放送され、「Creature Features」として知られるようになる。1958年に創刊された「Famous Monsters of Filmland」のような雑誌は、この現象の人気を増幅させた。

    その頃には、1930年代から1950年代の古典的なユニバーサルのモンスター映画は、もはや大人にとって怖がったり、動揺したりするようなものではなかった。しかし子供にとっては不気味で古くさいけど面白いハロウィンのご褒美のようなものだった。1961年、オーロラ・プラスティクス社は自分で塗装する初のモンスターモデルキットを発売した。映画『フランケンシュタイン』に基づいたこのモデルは、あまりに子供たちに人気があったため、需要を満たすべく24時間操業で製造しなくてはならなかった。1962年には、ミュージシャンで俳優のボビー・ピケットがハツラツと歌う変わった曲「Monster Mash」がビルボードチャート1位になった。すぐに店のおもちゃコーナーには、石けん、首振り人形、ボードゲーム、パズル、的あてセット、リモコン、ペッツ・ディスペンサ(訳注3)、工作キットの広い範囲で想像しうる全てのモノがモンスターで埋め尽くされた。

    hammett_monsters_hauntedhulk
    「The Horror of the Seven Seas」は希少なプラモデル製造会社だ。ハメットはこう記している。「血が飛び散る帆と肉体のない幽霊のような頭が、このおもちゃでバスタブのなかではしゃいじゃうとても良い時間になるように見えるんだ!」(『Too Much Horror Business』より)

    モンスターマニアが1960年後半に広がった頃、6歳のハメットも(その方面に)取りつかれていた。『Too Much Horror Business』で詳しく述べられているが、ミッション地区のカトリックの学校へと通いながら、彼はみんながモンスターやマッドサイエンティストに出くわすことを想像していた。毎日、ハメットの両親は牛乳とドーナツを買うために25セントを彼に与えていた。彼はその25セントをポケットに入れると、放課後に「Creepy」「Eerie」といったモンスターマガジン(こういった雑誌は本当のところ、コミック自主規制コードを回避する手段として「雑誌」として再パッケージ化されたホラーコミック本であった)、そして映画に焦点を当てた「Famous Monsters of Filmland」「The Monster Times」といった出版物を買うのである。いわゆる「モンスターキッド」として、彼は授業中に学業をする代わりにこれらのコミック本を読んでいたのだ。

    ハメットも土曜日はきまって「Creature Feature」をテレビで観ていた。ハメットが本の中で説明するには、週末、両親が飲んで奇妙な行動を取る麻薬にイカれたヒッピーたちを家に泊めていた時、彼はミッション地区23番通りの大劇場の昼興行の3回公演に逃げ込んでいた。

    「当時、サンフランシスコのミッション地区は安全な場所じゃなかった。」ハメットはそう語る。「今はそうじゃなくなってる。今じゃ完全に高級住宅地化されているし、都会派の人たちとドットコム企業で占められている。当時を振り返ると、どこにでもギャングがうろついていたし、子供は昼食代を盗んだり、単にぶん殴ったりするために外を出歩いていた。でも映画館は俺にとって安全な場所だったんだ。少なくとも週に2回は映画を観に行っていたよ。金曜日に行ってみて、土曜か日曜の昼興行にも行く。ときおりはその両方。12歳か13歳の頃までかな、俺は60年代後半から70年代初期の伝統的な映画に没頭していたんだ。ホラー映画だけじゃない、『ゴッドファーザー』とかコメディーとか『燃えよドラゴン』みたいなカンフー映画も観ていたよ。」

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    映画に焦点を当てた雑誌「The Monster Times」は1972年に「Famous Monsters of Filmland」に対抗して刊行された。(『Too Much Monster Business』より)

    放課後、彼は23番通りのサンフランシスコ・コミックブック・カンパニーで長居していた。その店は1968年にオープンした、アメリカでコミックを専門に扱う最初の店だった。

    「サンフランシスコ・コミックブック・カンパニーは俺にとってもうひとつの安全な場所だった。」ハメットは言う。「ゲイリー・アーリントンっていうコミック本の歴史において伝説的な人物がそこの経営者だったんだ。彼はアンダーグラウンドなコミックを支えていた。そこでは麻薬用品販売店でしか売っていないようなパイプとか麻薬関連の品も売っていた。俺が9歳か10歳の頃、ロバート・クラム(訳注:漫画家、アンダーグラウンド・コミックス運動の創始者の一人)がゲイリーの店に来たのを見たんだ。彼は俺がそれまでに見たなかでおそらく一番分厚いレンズのメガネをかけていたよ。」

    アーリントンはハメットにとってある種の父親となった。コミックの買い方、売り方、交換の仕方の基礎を彼に教えたのだ。「コミックを読んだり、買ったり、そういった違った経験を吸収してお店で長いこと過ごしていたよ。」ハメットは続ける。「俺がゲイリーと彼の全従業員を狂わせたんだ。小さな子供として、コミックを見つけては集めて、営利目的で彼らに売りさばくっていう俺のやり方でもってペテンにかけようとしていた。俺のコレクションはそうやって出来たんだ。おびただしい数の違う漫画家が店に立ち寄っていたのを覚えているよ。俺はそういうものに没頭していたし、コミック本に関わる人たち、つまりコレクターと仲買人と漫画家の中にいるのが本当に快適だったんだ。」

    hammett_monsters_lagooncreature
    左側2つはオーロラ社の『大アマゾンの半魚人』塗装済みモデル。右側はもっとオリジナルの細部まで再現したモデル。(『Too Much Horror Business』より)

    (長いので後半に続く)

    Collectors Weekly(2015-10-06)

    ※訳注1:チャールズ・アトラスの広告
    筋トレの通信講座の広告。下記画像とリンク参照。
    CharlesAtlas

    世界で最も完全に発達した男になる方法
    http://namfit.com/article3/index.html


    ※訳注2:『ティングラー/背すじに潜む恐怖』
    詳しくはこちらをご参照。※ネタバレ注意
    http://homepage3.nifty.com/housei/thetingler.htm


    ※訳注3:ペッツ・ディスペンサ
    キャンディーを入れるケース。キャラクターの頭部がディスペンサとなっている。詳細はこちらから。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/PEZ

    【訂正】
    The Day of the Triffidsの邦題、『トリフィド時代』は原作小説の邦題でした。映画の邦題である『人類SOS!』に修正しました。

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    ジェイムズ・ヘットフィールドがEMGtvの最新インタビューのなかでギターサウンドや新譜制作について語りました。
    esp_james

    「実はまさに今、俺たちはレコーディングをしているんだ。1つめのギター、2つめのギター、3つめのギターがある。そしてこの3つのギタートラックのサウンドは全く違うんだ。3つとも全く違う音なんだよ。」

    BLABBERMOUTH.NETより(2015-10-12)

    もうちょっと新譜に関するヒントをちょうだい・・・。インタビュー動画はこちらから。これまでの歩みやNAMMショーの思い出、カスタムカーとギターの関連、ギターデザインの元ネタなどESPの「Truckster」「Iron Cross」「Snakebite」モデルを交えて語ってくれています。


    一方、ロバート・トゥルージロはメンフィス州のラジオ局「ROCK 103」の朝番組「Sunrise Bar & Grill」で近況を尋ねられて次のように答えています。
    「メタリカの世界で時間管理はとても重要だ。俺たちはみな家庭を持っている。もちろんそれはとても大切だ。自分たちの情熱のあるものは何でも・・・ジェイムズは、みんなも知ってるかどうかわからないけど、素晴らしいカスタムカー・ビルダーなんだ。デザインしたり、彼の友だちとか何人かでこういうプロジェクトをやったりしてるよ。彼らはアメリカ中のカスタムカー・ショーにエントリーして、賞を勝ち取った。本当に彼がやっていることは素晴らしいよ。彼はそういうレベルのちょっとしたアーティストだね。そしてカークにはFearFestEvilがある。彼はモンスターのメモラビリアやポスター、原画といった本当に素晴らしいコレクションを持っている。あれは彼にとっての情熱だし、いつだってそうなのさ。そしてついに彼はそのコレクションを持ってツアーに出た。同じテーマの本も出版しているしね。ラーズは、みんな知ってのとおり、長年に渡って断続的にアートコレクターでしょ。みんな(メタリカとは)別のやることがある。俺はと言えば、(ジャコ・パストリアスの)物語が語られることを望んでいる。実際に俺は・・・時おり誰かがジャコを映像で撮ったことがないかと探している。1996年以来、彼の息子とも知り合ったから、もう長いこと彼のことを知っているんだ。俺たちは長年に渡って友だちだし、何というか仲間なんだ。」

    BLABBERMOUTH.NETより(2015-10-08)

    インタビュー音声はこちらから。


    限られた時間のなかで一応、レコーディングは少しずつ行われている模様です。

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    カーク・ハメット「レコーディングでメンバー4人が集まるのは難しい」

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    英雑誌「Metal Hammer」のサイトでメタリカに絡んだ音楽業界を俯瞰する記事をみつけたので管理人拙訳にてご紹介。

    −世界有数のロック・アーティストはもはやアルバムを作らない。なぜか?それはお金の問題だ−

    Metallica_Records

    伝説のトロッグス(訳注:The Troggs Tapes、映画『メジャーリーグ』のテーマ「恋はワイルドシング」のオリジナルで知られるバンド)は、スタジオ入りした破綻の間際にいるバンドが次のヒット曲を詰め込もうと奮闘することについて、知るべきこと全てを教えてくれる。「ろくでなし野郎に妖精の粉(訳注:麻薬の隠語)をちょっとふりかけないと!」何もかもうまくいかないと、ドラマーのロニー・ボンドはそうわめいていた。「クソドラマーが!」リードシンガーのレグ・プレスリーは後にこう言っている。「まったくクソ野郎だ」

    1970年に遡り、エンジニアのクライヴ・フランクスが密かにレコーディングを行っている頃は、スマッシュヒットのシングル曲やアルバムは、トロッグスのような全てのバンドの生活の糧になりえた。ヒット曲はお金を刷って、バンドが大赤字か収支トントンでツアーに出て、レコードを売るのを助ける免許証のようなものだった。完璧なビジネスではなかったが、うまくいっていた。ミレニアムの変わり目までは。だが、あの収益モデルは逆転してしまった。レコードは今やライヴチケットを売るための赤字筆頭だ。極端な例で言えば、2014年にU2が最新アルバム『Songs Of Innocence』を8億人のiTunesユーザーに配布した。しかし、彼らの財政的視点は現在行っているアリーナツアーの宣伝に向いていたのである。年齢に不相応なレザージャケットを着た4人のジェリー・マグワイア(訳注:映画『ザ・エージェント』の主人公)のごとく、U2はあなたにお金を見せてほしかっただけなのだ。

    U2のボノはアルバムを作るのにどれだけ苦痛を伴ったか大々的に語っている。(ここで読者は「それを聴かされる苦痛よりマシ」というジョークを差し込むかもしれないが)スタジオで何ヶ月あるいは何年も打ち込んだり、自己疑念を抱いてレコーディングしたものを破棄したりして、自分たちのキャリアを決定付けたアルバムのほんの一部の売上げぐらいを売るためだけにリリースするのだ。2000年には、イギリスで16億4800万ものアルバムが売られていたが、2014年には8億6800万までになった。アルバムの平均価格は、インフレを加味しなければ、10.98ポンドから7.84ポンドまで落ち込んだ。アルバム市場は数と金額の両面において地に落ちた。

    なぜトロッグスやメタリカの(2004年のドキュメンタリー映画『Some Kind Of Monster』で痛いほど詳細を明かしたような)トラウマを自らに課すのか。金銭面の条件内でアルバムをレコーディングするというのは、半年ツアーに出て100万ドルのショーという最上の結果を得られるようになれば、難しくなるというものだ。

    U2ticket
    U2の最新アルバムは、命がけで作ったがタダだ。一方、ある日のバンドのライヴは75ユーロ(約一万円)。| GettyImages

    一定の年齢に達したアーティストが長いあいだこの現実に同調している。ゼロサムゲームが繰り広げられているなか、変わったことはそんなアーティストたちが事故る前に脱出装置を使って窮地を脱することが増えてきたということだ。いずれももうアルバムは作らないとハッキリ言ったわけではないが、その兆候は始まっている。

    メタリカは2008年からアルバムを制作していないし、キッスは今世紀にどうにか2枚だけアルバムを出したといった具合だ。一方、ローリング・ストーンズはこの10年新しいアルバムは出していない。ジョー・ペリーは新しくエアロスミスのアルバムを作るという考えに公的に疑問を呈しているし、ポール・スタンレーはキッスのレコードをまた出す「必要はない」と語っている。しかしこういったバンドのツアーはスムーズに行っている。アルバム売上げとSpotifyにおける彼らの最新曲の再生回数を見れば、膨らんだ年金制度はツアーであってHMVではないことは至極明らかだ。

    メタリカが最後に出した2つのアルバム『St.Anger』と『Death Magnetic』は世界で1000万枚以上の売上げを上げた。もし彼らがスタジオ使用料、マーケティング、製造・流通コストを取り戻そうとすれば、売上げ1枚につき数ドル以上がなくなるというのも疑わしい(もっと取られているかもしれない)。窓掃除をしていた方がよっぽどマシかもしれないが、それでもブラックアルバムがアメリカのみで1600万枚もした売上げには程遠いのである。そしてキッスの最後に出した2つのアルバム『Monster』と『Sonic Boom』について考えてみると(そしてこっそり言わせてもらえれば)これらのアルバムが世界で売った数は100万枚にさえ満たないのである。

    ここにきて、ストリーミングがこういったアーティストにとっての新たな未来になると推測するかもしれない。現実は全く逆だ。前述したキッスの2つのアルバムはSpotifyで1000万回の再生を記録している。Spotifyの平均支払額は1回の再生につき0.007ドルであることに基づけば、総計7万ドル支払われる印税をメンバーで山分けすることになる(レーベル、出版社の仲介料やマネージメントに払う20%の報酬額や税を除く)。

    メタリカはストリーミングサービスのなかではいくらか善戦している(彼らは2012年に楽曲使用を許諾したSpotifyの株式を取得したと噂されている)。彼らが最後に出した2つのアルバムは4500万回以上再生されている。控除前の金額は31万5000ドルだ。ジェイムズ・ヘットフィールドが新しいタンクトップとギターの弦を買い、ラーズ・ウルリッヒが新しいヘッドバンドとシンバルを買えば、それほど多くは残らない。

    Lars_Spotify
    ラーズ・ウルリッヒ、Sotifyの記者会見にて(2012年)| GettyImages

    『Death Magnetic』のツアーが2億1700万ドルを売り上げたことと比べれば、どっちを重要視すればいいかは明らかだ。ローリング・ストーンズは2005年以来 コンピレーションアルバム『GRRR! 』の売上げを伸ばす手段として「Doom & Gloom」「One More Shot」という2つの新曲を出した。ミレニアム以降、5回のツアーに出て、全338回の公演を行い、13億ドルほどの興行収益を上げた。1公演につき380万ドル上げたことになる。アルバム無しでも彼らにはお金がついてくるのだ。

    「これが新曲です」というフレーズを単に受け入れなければならないところまで到達すると、ファンの競争が始まるピストルの合図だ。ファンたちはスタジアムやアリーナで自分たちの知っている曲に大雑把に似ているものを大好きなバンドのライヴで聴くことに喜んで大金を支払う。それを観ている時はビールのための6ポンドを支払うことにはちらつきもしないが、ほぼ間違いなくiTunesでニューアルバムを買うために6ポンドを決済しようとは思わないだろう。

    贅沢に数ヶ月も世界を廻り、ライヴを観るのに心から興奮している数十万人もの人々の前でステージに出られるようになったのに、なぜほんの一握りの人々が望み、さらに少ない数の人々が好むアルバム制作という苦しみを乗り越えようというのか?アーティストのエゴとは40年間、そのような「現実に対処すべく」望んできたものなのだ。しかし、彼らのほとんどは一夜に10万人を前に公演を行うことが、総計10万枚のアルバムを売り上げることを凌ぐことをわかっている。彼らのレコード売上げは下がり続けている一方、ライヴチケットの売上げは数も価格も上がっているのだ。バンドはしらばっくれているが、レコード売上げを見てチケット売り場の売上げと比べたら、アルバムに多くを費やすよりもはるかに賢い。

    Metal Hammer(2015-10-05)

    近年ではアルバムの発売前に先行シングルがYouTubeやSoundCloudで無料公開されるのが当たり前になってきました。プロディジーのように「もうアルバムは作らない」と宣言しているバンドすらいます。

    ザ・プロディジー「もうアルバムは作らない」

    一方、体力的な問題でツアーから離れていくバンドもあるなか、好きなバンドたちが今後どういうスタンスで音楽業界でやっていくのだろうかと考えさせられる記事でした。

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    ラーズ・ウルリッヒ「Spotifyとは現時点ではうまくいっている」

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』有志英訳を管理人拙訳にて。有志英訳が今回分で終わっており、尻切れトンボではありますが、ついに最終回となります。ジェイソンのベースについての話題が多い『...And Justice For All』の制作過程ですが、また別の角度からの秘話を。

    metallica_1987

    1987年の終わりには、メタリカのファン層は巨大なものとなっていた。それはグローバルで、忠実で、献身的で、本当にただ「メタリカ」と呼ぶしかない自分たちが築いたメタルのニッチ分野に分類されるものだった。それは、どんなロックバンドや音楽のマーケッターにとっても夢のシナリオだ。

    しかし、純粋に芸術的にも、メタリカはいくつかの挑戦に直面していた。ヘヴィメタルのほとんどのファンは、新旧ファンともに、『Master Of Puppets』は最高傑作だと考えていた。大雑把なスラッシュメタルのテンポとエネルギーに行き詰まり、速さ目的のためのただのスピードから、アルバムのオープニングとエンディングの曲(「Battery」「Damage Inc.」)でやったごとく、メタリカは大きな一歩を踏み出した。何よりも、タイトルトラックと「Welcome Home (Sanitarium)」で完璧に示されたように、即時で極度なエネルギーと感情的で深みのあるバイヴを1曲のなかに入れ込む素晴らしいバランスを保つバンドの能力が『Master Of Puppets』の揺ぎない力となっていた。

    メタリカが実際にリフに基づいたメタルソングをどこまで技術的にこなせるのか、もしメタリカが望んだとしたら?それが分かった時には、とんでもないものとなった。

    メタリカは『Master Of Puppets』の曲を書くのに数ヶ月を要していた。新曲作りはさらに早いペースだった。そう驚くべき早さだ。9つの新曲をたった8週間で書いたのである。一方で、メタリカには今やスケジュールの問題があった。「壊れていないものを直すな」は音楽業界でもおなじみの標語だ。それはすなわち、メタリカの意図は、年が明けてすぐにフレミング・ラスムッセンとレコーディングを行うということを意味していた。しかし、スウィート・サイレンス・スタジオとラスムッセンは、すでに歌手アン・リネット(Anne Linnet)の予約が入っており、早くとも2月の途中からでないと一緒に仕事ができないということだった。

    したがって、ラーズとメタリカは明白なジレンマに直面しなければならなかった。とりわけサウサリートのスタジオでのスロースタートを経た後で、ほぼ2ヶ月間ラスムッセンの準備ができるのを待つべきなのか?それともレコーディングは始めておいてラスムッセンが現在のプロジェクトを終えたら加わってもらうべきか?

    解決策は後者だった。

    メタリカはガレージのカバーで成功を収めていた一方、自分たちのやり方でアンダーグラウンドからチャートに這い上がってきた新しいガレージバンドがいた。ガンズ・アンド・ローゼズである。ラーズはすぐにこのバンドのセンセーショナルで熱狂的で無鉄砲なデビューアルバムを好きになった。ガンズ・アンド・ローゼズはメタリカとは全く異なり、ロックンロールに基づいた音楽を演奏していたが、アルバムのドライでダイナミックなサウンドはほとんどのロック愛好家に一杯食わせるものがあった。このアルバムのプロデューサー、マイク・クリンクは1987年という年にロック界で最もホットな名前のひとつとなっていた。

    目まぐるしく変わる状況のなかで、ゲディ・リー(ラーズとジェイソンの大好きなラッシュ(Rush)のベーシスト/シンガー)を雇うこともメタリカは考えていたが、彼も1988年の最初の月は他のことにスケジュールを押さえられていた。そこでマイク・クリンクに選択肢が落ち着いた。彼は幸いなことに当時充分時間があった。しかも彼の履歴書にはこうあった。ラーズとカークの70年代バンドのお気に入り、UFOのスタジオ・エンジニアであったと。

    年が明けてすぐに、メタリカはバンドの実の誕生地であるロサンゼルスに位置する小さいながらも設備の整ったスタジオ、ワン・オン・ワン(One On One)でクリンクに会った。しかしメタリカとクリンクは一緒にノることはなかった。ラーズとデモテープ時代からの友人であり、バンドの最初のファンクラブ会長K.J.ドニントンは自著本『Metallica Unbound: The Unofficial Biography』のなかで「クリンクはピンとこなかった(原文:Clink didn't click)」としっかり述べられている。

    ワン・オン・ワンの外でメタリカが始めていたアルバム・レコーディングがほとんど実りのないものだったと最初に気がついたのは・・・フレミング・ラスムッセンである。

    「1月下旬にLAからラーズが電話をかけてきて、こう言っていたんだ。「ダメだ。全然うまく行ってない!」彼らはアルバムをレコーディングするだけならできると思っていたようだが・・・パーだ!「曲は全曲ある。アルバムにしないといけないんだ!」彼らはそう言っていた。ラーズが電話してきた時、彼らはまだコイツができてない、全部クソみたいなサウンドだと思っていた。それで私はこうさ。「すぐにそっちに行こうか?」実際に可能だったからね、14日後には。もし全ての週末を犠牲にして、私がすでにやったことを他の誰かにやらせればの話だけど。そしたらラーズはこう言ったよ。「最高だ、契約書をそっちに送るよ!」」

    フレミングがワン・オン・ワン・スタジオに到着したのは2月中旬だった。航空機のエンジントラブルのせいで夜遅くの到着だった。

    「そこで私は全ての曲をもぎとって、私が望むように一緒にして戻したんだ。」

    フレミングが語るところによると、彼はバンドメンバーと同じように、メタリカが初めてコンサートを行った(そして、そこから彼らは新しいツアーを始めることになる)いくつかのクラブの近く、サンセット大通りすぐのところのアパートに移った。

    レコーディングは午前10時か11時に始まり、「俺たちはもう構わないよ」というところまで行われたとラスムッセンは語る。そして、ワン・オン・ワン・スタジオにいた3ヶ月のうち3日しか休みがなかったという。その3日はバンドがマスコミ用の撮影をしていた日だった。

    『...And Justice For All』と題されたこのアルバムのレコーディングでメタリカが抱えていた問題は、盗まれたアンプが奏でていた素晴らしいギターサウンドを探すというジェイムズのおなじみの問題だった。

    「クリックトラックは時間がかかったよ。」フレミングは慎重にそれが「ドラマー」であることをほのめかして、そうコメントした。「でもラーズは初めて会った時よりも百万倍良くなっていたよ。当時、私はこう思ったんだ。「あちゃー、彼は一体どこでドラムを学んだんだ?」ってね。でも私はこうも思った。彼は自分の限界を知っていると。彼は四六時中、限界を押し広げようと努めていた。あれはとても合理的だと思ったよ。4ヶ月もスタジオにいたわけだからね・・・それは4ヶ月の集中トレーニングみたいなものだ。そりゃあ良くもなるだろう。」

    ドラムトラックに多くの時間がかかり、すぐに終わると思われた、すでに形になっていた9曲のレコーディングは、この年の最初の5ヶ月を費やすことになった。アルバムのミキシングを除いて。

    フレミング・ラスムッセンはこう説明する。「メタリカのアルバムにこれだけ時間がかかった理由のひとつは、彼らの熱望した水準が音楽的に彼らが提供できるものよりも純粋にもっと高いところにあったからだ。小分けのパートにしていかなければならないんで時間がかかるんだよ。」

    「小分けのパート」に取り組むなかで、ラスムッセンがアルバムに入るドラムの多重録音のひとつをこなすことさえあった。

    「そうなんだ。ラーズが打てなかったジャスティスアルバムのドラムのひとつを実際に私が叩いてレコーディングしたんだ。あれは彼を相当怒らせたね。ひとつだけビートに欠けるドラムがあってね。残りは超クールだったんだが。そこで我々は余分なトラックを作って、そこに入れたんだ!ラーズは何回も挑戦していたけど、うまくできなかった。だから私は言ったんだ。「あぁもう、ボタンを押すだけだろ、そっちに行って私がやる!」そうして(レコーディングルームの)中に入って一気にやってしまったんだ。彼は怒っていたよ。プライドの問題だった。持ち合わせていなければならないものだけどね。」

    ラーズとジェイムズはニューアルバムを誇りに思っていた。夏のツアーのオフ日は全てアルバムのリリースのために押さえられた。ラーズとジェイムズの2人はミキシングの進捗をチェックするためにニューヨークのベアズヴィル(Bearsville)まで出向いていた。

    一般的に、新しいメタリカのアルバムを聴いてすぐの印象は、曲から曲、テンポの変化からテンポの変化と新しい素晴らしいリフが行き交う確たる魅力がある。1曲目とタイトルトラックのような曲は、実にこのアルバムがどんなものであるかを要約してくれている。ドラマチックで、シャープで、ハードで、素晴らしいリフ、目まぐるしく変わるテンポ、素晴らしいツインギター。そしてヘヴィで、ソリッドで、メタルでありながら、壮大で、プログレッシヴで、きらびやかだ。

    『...And Justice For All』は耳だけでなくその他の感覚への挑戦であることがわかった。メタリカは叙情的に辛辣な社会批判をしている。アルバムで最もアップテンポな曲のひとつである「The Shortest Straw」の主題が(50年代のマッカーシーによる赤狩りを引き合いに出した)さまざまな人への嫌疑追求である一方、前述のタイトルトラックでは司法の汚職と腐敗が主軸となった。同様に「Eye of the Beholder」は、この数年前に(映画『エイリアン』でのSFデザインの仕事で知られる)H・R・ギーガーによるペニスの肖像を描いたポスターを含むアルバム『Frankenchrist』を通じて未成年者に有害な画像をみせたと告発されたサンフランシスコのパンクバンド、デッド・ケネディーズのシンガーで風刺家で社会評論家でもあるジェロ・ビアフラの裁判を取り上げて前述した2つのテーマを共生させている。

    それからアルバムのなかで最もエモーショナルな曲「One」は、おそらくアルバムのなかで最も洗練された歌詞と音楽であろう。繊細でキャッチーでパワフルで「Fade to Black」「Welcome Home (Sanitarium)」の系譜を行くバンド自身が築いてきたパワーバラードの形を見事に発展させている。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    「The Shortest Straw」の題材となったマッカーシズムについてはこちらを参照。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%8B%A9%E3%82%8A

    マッカーシズムがハリウッドに与えた影響を題材にした『真実の瞬間(とき)』というタイトルの映画があるのは何かの偶然でしょうか?ちなみに「Eye of the Beholder」のインスピレーションになったという、裁判で争われた『Frankenchrist』のアートワーク。興味ある方は「frankenchrist poster」で検索してみてください(^^;


    英訳が完結していないので続きを知ることができないのが本当に残念ですが、翻訳を通じて異様に詳しいラーズの生い立ちなど新しく知ったことがたくさんあり、読んでいて楽しかったです。ラーズが掲げたメタリカという旗印のもとにメンバーやさまざまな人たちが出会い集っていった過程が胸熱でした。英訳してくれた有志の方に感謝です。

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    以前から確執があると言われていたモトリー・クルーとメタリカ。先日ブラジルで行われたロック・イン・リオでメタリカ終演直後にモトリー・クルーのドラマー、トミー・リーがツイッターでラーズ・ウルリッヒはリズムをキープできないと揶揄する画像をツイートをして、この確執に対する疑惑が再燃していました。(映画『Straight Outta Compton』のパロディとして載せたこのツイート)

    larsulrich_straight_outta_tempo
    twitter(2015-09-19)

    さらに両者の確執について書かれたBLABBERMOUTH.NETの記事を管理人拙訳にて。
    モトリー・クルーとメタリカとのあいだの確執は、ほぼ20年前の出来事に由来する(と言われている)。ラーズ・ウルリッヒが1997年1月のアメリカン・ミュージック・アワードでモトリー・クルーがテープによるパフォーマンスを行ったことを糾弾。ラーズの主張を知った後、モトリー・クルーのベーシスト、ニッキー・シックスはアメリカのネット掲示板でメタリカのドラマーへ次のような「公開書簡」を掲載した。

    「親愛なる愛しい太ってハゲたラーズへ(そのメイクアップ大好きだぜ)。そっちの知ったこっちゃない話題に対する、かつてないほどバカげた上から目線の話は、あいかわらずオマエをクソったれと思わせるね。オマエのライヴテープが再レコーディングされたものだってのを俺とトミーが知ってることをよく考えるんだな。それにオマエのドラムはプロツールで修正されたものじゃないか・・・(しかもそれをファンに「ライヴ」アルバムと呼ばせる度胸も持ってる)。自分のことを棚にあげるんじゃねぇ!!マスコミへのオマエの戯言を考えたら、俺たちは仕返しのパンチをお見舞いするのがフェアってもんだろ!!気取りやがって・・・『Load』みたいなクソアルバムを出してくれてありがとよ・・・おかげで俺たちの入り込む余地ができたってもんだぜ!!」

    BLABBERMOUTH.NETより(2015-09-29)

    そして先日、オレゴン州ポートランドの「105.9 The Brew」ラジオで(MCの)タナーに対して、2つのバンド間にある確執「疑惑」について、自分の立場について尋ねられてヴィンス・ニールはこう答えました。こちらも管理人拙訳にて。
    「おいおい、それについてはニッキーに聞かなきゃ。俺はそれを読むまで俺たちとメタリカのあいだに何かあるだなんて全然知らなかったんだから。全然わからないよ。」

    タナーは前述のトミーのツイートについてヴィンスに指摘すると、ヴィンス・ニールは声に怒気を込めながらこう付け加えた。

    「俺はそれを見て知ってるけど、こう言わせてもらうよ。そのことと俺とは何の関係もない。なぜなら俺たちとメタリカとのあいだに諍いがあるなんて俺は知らなかったんだから。」

    ヴィンスは彼のバンドが関わっていたとされる口パク疑惑を持ち出し、ラーズ・ウルリッヒの(確執のきっかけとなった)元の主張は妥当性はないと否定している。

    「ロックンロールに口パクなんてないよ。そんなことありえない。だからそんなことは話題に出すことさえバカげてる。つまりショーに出る誰もが口パクなんてないって言えるってこと。かなりダサい話さ。」

    タナーが再度、件のトミーのツイートの話を続けようとすると、ヴィンス・ニールはこうやり返した。

    「知らねぇよ。俺は関係ない。全く知らないんだ。それはニッキーとトミーのあいだのことだ。誰かが彼らに向かって何か言って、2人がそれに対して何か答えたってことだろ。俺には関係ない。俺たちと(メタリカとのあいだに)何かあったことさえ知らなかったんだ。」

    BLABBERMOUTH.NETより(2015-09-29)

    結局、このインタビューはヴィンス・ニールの不興を買ってしまい、電話インタビューは強制終了されたのでありました。電話インタビュー音声の全編はこちらから。


    ラーズ・ウルリッヒとモトリー・クルーとの諍いはメタリカとしてレコードデビューする前からあったと記憶しています。以前、某B!誌だったか、インタビューのなかでラーズはこう語っていました。
    「1982年夏のある夜のことを今でも覚えているよ。当時はモトリー・クルーが1番ホットなバンドで、俺達は無名もいいとこだった。俺はハリウッドにいたんだけど、ニッキー・シックスとトミー・リーが通りを歩いていくのが見えたんだ。俺は彼らの背中に向かって何か酷いことを怒鳴ったんだよな。そしたら、あの2人、俺を追いかけてきた。勿論、連中はデカいプラットフォーム・ブーツを履いてるから、俺に追いつけるわけがない。考えてもみろよ。あのニッキー・シックスがサンタモニカ大通りをプラットフォーム・ブーツを履いて、俺を追いかけて走ってくるんだぜ。あれはおかしかったな(笑)」

    「モトリー・クルー、ラット、スティーラー等、彼らは俺たちが忌み嫌うものすべてだった。奴らが牛耳ってたサンセットに俺たちが入り込むのは至難の業だった。凄く心細かったよ(笑)。1982年のLAでメタリカとして生きていくのは凄く寂しかったよ。」

    さらにモトリー・クルーの『Dr. Feelgood』を聴いたラーズ・ウルリッヒがブラックアルバムのプロデューサーとしてボブ・ロックを招聘した経緯があったりと因縁浅からぬ関係であることは間違いありませんが、ラーズとの諍いの張本人ではないヴィンスに聞いたのは間違いでしたね。電話を切られたMCは「こっちから頼んだインタビューじゃない。キミが頼んだインタビューじゃないか。放送に載せたいなら少しは努力してくれよ・・・。」とボヤいたそうですが(苦笑)。

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