メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

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    前回記事の続き。インタビュー完結編です。ジェイソン・ニューステッドが『...And Justice For All』のツアーでのステージセットの舞台裏、「One」のビデオ撮影について語ってくれました。管理人拙訳にてどうぞ。

    2018-11-12-jason-feature

    ステファン・チラジ(So What!のエディター)
    そこでまた質問。ジャスティスのツアーのどこかで揺れるトラスの梁によってキミは文字通りあやうく首を切り落とされそうになっていたのを覚えているんだ。ダン(・ニコレイコ、ボックスセットのキュレーター)はシアトルのショーとビデオ撮影について尋ねた。私は、混乱した記憶の中で、この2つが同時に起こったんだ。正確かどうかはわからない。だからこういった質問をするんだ。

    ※参考(1:15:46〜)

    ジェイソン・ニューステッド
    そう。彼らが「...And Justice for All」でドリス像を少し破壊した時、壊れたか転倒したかどうだかで、少しずつ壊されて・・・曲の終わりで、火花が散って残りの部分が倒れていったんだよね?それからカーク側のステージ上にあったトラスが、ラーズのドラムセットの真上で揺れるんだよね?1つのショーだった。−そんなに多くのショーじゃなく、6公演か何かだった−ほとんどクソみたいなコトが俺を襲った。ジョン・ブロデリック(照明デザイナー)とスタッフたちがやらかしたんだ。彼らがドレッシング・ルームに戻ってきた。「オマエら大丈夫か?あんなことしないでくれよ。クソッ、オマエ、クソッ。心臓が飛び出るかと思ったぞ。」キミはわかるだろう、ああいう感情を。兄弟のようなんだ。

    それ以降、俺は意図的にあえてそうしていたよ。それをなじって、梁が降りてくることを知りながら、位置を変えて、寸前でひょいと頭を引っ込める。だから人はあれを演出としてみるだろう。しばらくしてクルーはちょっと古株になったけど、誰かはそれを一度見ただけっていうコメントをするだろう。たまにジョンは「当時のあれは(降りてきたトラス梁がジェイソンに)ムチャクチャ近すぎだろう」って言うだろう。でも彼が見ていたところとは違っていたんだ。俺は自分でやっていたことはわかっていたよ。そうさ、あれはわざとやっていたんだ。

    ステファン
    シアトル公演かもしれないと思ってたけど、そうでもないんだね。

    ジェイソン
    彼らがかつてパイロの配置図に照明を置いていた時のことは覚えてる?アリーナ周辺のハッキリ目立つ場所はたくさんあるよね?たとえ立て続けに30の同じ公演があったとしても、彼らは炎が出る装置がどこに置かれるか示すだろう。しばらくしたら、彼らは俺の首を切り落としてるイメージを回路図に加え始めたんだ!俺の頭が転がってやがんの、それから彼らはその建造物を置いていたね。

    ステファン
    シアトルのショーとビデオ撮影についてはどう?

    ジェイソン
    えぇっと、あれは俺たちが数台以上のカメラにマジになり始めた初めてのことだった。知っての通り、巨大ビジョンとかそういった類のものは今や当たり前になった。当時はそうではなかった。もしヴァン・ヘイレンみたいな当時もっと大きなバンドに参加していたんなら、少しはスクリーンに映ることもあったかもしれないけど、そういうバンド以外はカメラなんて関係なかった。俺たちの世界にカメラが入り始めた頃だったんだ。言ってみれば、俺たちはあれ以前に公式でそういうことをしたことがなかった。だから勝手が違ったよ。

    あれは俺たち全員が目立つためにやるんだ。本当にハードにこなして、練習して、そして誇示した。それだけ誇示しようってなったら、さらにそれが顕微鏡並みの(微細なものも映す)カメラでやるってなったら、俺たちはいつでも大丈夫なように(いつもと)違った風に構えてしまう。オーディオにもビデオにもその他全てにも記録されることがわかっている場合、いつも以上に失敗したくないって思うだろう。余計なものはカットしたいし、いつも以上の良いものなら消したくない。たしかに自分のパフォーマンスに違う要素が追加されることはあるね。


    ステファン
    89年の(カリフォルニア州の)ショアラインでのショーは伝説だよ。(同郷の)フェイス・ノー・モアが一緒に出演していたし、間違いなくナンバー1だよ。これは特にアフター・ショーのパーティーが朝の5:00まで会場で行われていたってことで私が覚えているショーのひとつなんだ!ショアラインでのあの特別なギグについては覚えてる?

    ジェイソン
    あれは凱旋公演だったね。俺たちがメタリカとしてホームに戻るたびに凱旋公演だった。毎回さまざまな方法で注意を払うよ。ニューステッド家のこともしかり、もしデンマークに行ったら、それはラーズ(が主役)のショーだ。こういう凱旋公演になる特定の場所はいつもある。そういうのはチェックするね。そういう場所では何かが起きるっていう期待があるし。だからベイエリアの凱旋公演は一番大きな印をつけることになる。だって(一か所ではなく)集合的な印になるからね。ショアラインは本当に真剣だったよ。俺たちはそれ以前にこれほど大きくホームグラウンドに錦を飾るなんてなかったからね。ベイエリアの誰もが、世界のヘヴィメタル大使としてだけでなく、ベイエリア出身のヘヴィメタル大使だってところに本当に個人的な誇りとしてくれたんだ。だから誰もが兄弟愛と家族的な誇りを持っていた。あの会場は特別だった、凄まじかったし、最初からライヴに来ていた人たちは(誇らしげに)胸を張っていた。最高だったよ。

    ステファン
    「One」のビデオ撮影は、私が思うに、間違いなくバンドのキャリアのなかでも影響の大きかった瞬間だったし、これについてのキミの思い出に興味があるなぁ。あれはショートムービーのようだった。ダイナミックな作品だったけど、あれについては何か覚えてる?

    ジェイソン
    間違いなくその世界に足を踏み入れることは俺たち全員にとって新しいことだった。複雑な感情があったね。「俺たちは本物のコアな集まりなんだぞ、そんなことやらない。俺たちはみんなのためにライヴをするんだ。そんな類のことに心配なんてするつもりはない。そういうことで競うようなエネルギーを費やすことはないよ。もしそうなら稼ごうぜ」ってね。これについても同じやり方だった。俺たちはMTVで起きている安っぽいクソの次に登場したいのか?でも何とかして、そこで扱われた方法や誠実さや信頼性のおかげで、それは俺たちのことをやっているだけだった。つまり俺たちがいつもやってきたやり方だったんだ。白黒にしてもね。

    カットは何も加工してない。(ビデオのなかでは)ふだん通りで、ステージ上で着ているものをまだ着ていた。そういうこと全てが俺たちがのし上がるのにとても重要だったんだ。多くの人たちにとっての俺たちの魅力ってことでとても重要だったのは、Tシャツにジーンズっていう雰囲気を保ちながらも、「One」のビデオでほんの数秒のあいだにヘッドバンギングしてスラッシュするっていうことがあったことだよ。あれでスパークした。俺たちみんなアンガス(・ヤング)がやってるのを見たことはあったけど、俺が「スナップ」と呼んだ代物じゃなかった。首をスナップさせ、髪をスナップさせ、ベース弦をピックでスナップさせる。ラーズと連動してスナップする。それで「スナップ」をあの昔の(長い)髪で、白黒で初めてさらされたわけだ。それがキミがヘッドバンギングについて話していたこととか・・・全ての始まりみたいなもんだった。そのせいで首に多くの問題が生まれてしまったけどね!


    ステファン
    素晴らしいおしゃべりだったよ。(最後に)もうひとつ質問があるんだ。キミが覚えていることで我々が触れていなくて、注目して欲しいことってあるかな?

    ジェイソン
    うーん・・・何度か触れてきたことだと思うけど、今振り返って、分析する時間を持てた。ジェイムズ、カーク、そしてラーズが自分たちのなかに抱えていた実際の苦悩とか挑戦。鍛錬して、成功者として今日の彼らになったこと。素晴らしいことだ。彼らはその場所をみつけ、その場所にたどり着き、その場所にとどまった。そんなことをやったヤツなんていないよ。

    俺がバンドに入った時に彼らが経験したこと、彼らが必要としていた以上に何年も何年も何年もかかって(乗り越え)、彼らはバンドの名前、バンドのパワー、バンドの誇り、バンドをサポートしてくれた何千人もの人たちのために鍛錬し続けてきた。それに30年以上に渡って給料を与え続けているんだ。わかる?信じられないことだよ。彼はそういったことをやり通したんだ。戦い続けてね。俺たちは悪魔がやってくるのを見たこともあった。時にはふざけたことが近づいてきたこともあった。でもそんなことで彼らは破滅しなかった。それどころかそんなことが彼らをより強くしたんだ。−それを理解した結果− 彼らは史上最も世界的にイカしたメタルバンドなんだ。


    Metallica.com(2018-11-12)

    年内の更新はこれで最後となります。
    ボクはこれからアウトレイジ・ビヨンドを観ます。

    よい年をお迎えください!


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    前回の続き。ジェイソン・ニューステッドが髪型の変化、『...And Justice For All』時代のツアーの思い出について語ってくれました。管理人拙訳にてどうぞ。

    2018-11-12-jason-feature

    ジェイソン・ニューステッド
    あぁ、(ジャスティスアルバムで)バスドラムの低音域を劇的に失くしていたから、ブラックアルバムが出たとき、ベースはメチャクチャでかいものになった。「Enter Sandman」の始まりの部分は毎週フットボールスタジアムでみんなに刻まれている。俺たちはジェイムズのリズムギターの下に入るベースの周波数を知っている本当のプロデューサーを手に入れたんだ(ブラックアルバムのプロデューサー、ボブ・ロックのこと)。これについて科学的な見地を得たいなら、全てはそこに行き着く。みんなミックスやバンドに入った新しい男について話をしたいんだよ。「こういうミキシングだとほにゃらら」ってことでどうにかしてたんだね。それが当時のみんなの頭ン中にあったことで、みんなに強いられたんだ。そういう風にして曲はラーズのとこの地下室で創られた。

    「Blackened」以外の曲に実際のところ低音は存在しない。それが実際に起きたことだ。それは今は完璧なんだ。そのために他のレコードではベースが大きくなった。それがまさしくバンドが登りつめるために本来起こるはずのことだったんだ。


    ステファン・チラジ(So What!のエディター)
    素晴らしい見解だよ。キミが当惑していると言ったとしても、著しくうなだれているところを見たことがあるとは言えない。ライヴでは最後の一滴まで力を注いでいた。「OK、自分でできたかもしれないとわかっているってことよりも、ライヴでもっと多くのことを注いで、自分の存在感をさらに高めて、この集団にもっと多くのことをもたらそう」と思ったのかな?

    ジェイソン
    たしかにそうだね。それがいつもの俺のやり方だ。この会話を始めた役目に戻ろう。俺がバンドで果たした役割、俺はステージマンだ。もし他のメンバーが疲れていたり、休憩を取りたいとなったら、ジェイソンをステージに置けとね。ヘッドバンギングして、髪を振り乱し、メチャクチャに汗をかくだろう。さぁ撮ってみろ、写真を撮ろうとしている100%の時間を使って。それは自分のためになったものだ。みんなに対して、そして現実世界における自分自身に証明しなければならなかった。本当に重要なのはそれだけだ。リベンジを期してやっていたのか、力量を埋め合わせるためだったのか自分じゃわからない。それが関係があるとは思ってないな。

    ステファン
    素晴らしいよ。これまで我々が議論してきたことと比べると、どちらかといえば陳腐に思える質問があるんだけど、アンダーグラウンドのカルチャー革命のために聞かなきゃならない。ジェイソン、剃刀セットを頭の両脇に持っていって巨大なたてがみの一方を剃ることにしたのはいつが初めてだったんだい?ジェイムズが(髪型を)コピーして、私も、そして大勢の人がコピーしていたことに気づいたでしょ。ヘヴィなものに夢中なみんながあの髪型をコピーして、どこからともなくそうなったと思うんだよ。だからキミに聞かなきゃならないと・・・

    ジェイソン
    ・・・そりゃあ俺のトンデモ伝説だね!ハッハッハッ!

    ステファン
    キミに聞かなきゃならないんだ。1つは、何がキミをそうさせたのか?2つめは初めて(その髪型に)した時のことを覚えている?「すげぇ、こいつはクールだ」って思った?

    ジェイソン
    昔を振り返ってみようか!もしGoogleで調べてみると・・・Googleのニューステッドは今こうだ、この髪型。この髪型として出てくる。「メタリカのベーシスト」として思い浮かぶんじゃない。このファッキンな髪型を思い浮かべる!だからそれでいいよ!80年代後半、サンフランシスコのスラッシュメタルシーンでヴァイオレンスっていう、後に(脱退したロブ・フリンによって)マシーン・ヘッドにもなったバンドにまでさかのぼる。

    ステファン
    そうそう、私はよくヴァイオレンスについて書いていたよ。

    ジェイソン
    彼らはベイエリアのバンドのなかでも俺のお気に入りだったんだ。本当に尊敬していた。彼らは無茶苦茶タフだった。俺たちが巨大な場所でライヴをやっていた時、彼らはまだクラブで公演をしていたけど、彼らを観に行ったり、応援したりしたよ。彼らのことが大好きなんだ。それでベーシストのディーン・デルが片側だけ髪を剃った。キ〇ガイみたいに(髪を)回転させていたんだ。俺はメチャクチャやべぇって思ったね。だから家に帰ってその翌日の夜に剃ったんだ。ステージに出たら、それが流行った。それが終わりの始まりだった。

    ステファン
    OK、ここでいくつか質問をしよう。モンスターズ・オブ・ロックのツアーのプレ・ショーとなるロサンゼルスのトルバドールでの公演について。

    ジェイソン
    あのクラブのことは覚えている。「Frayed Ends of Sanity」って名前で出演したんだ。クラブで汗やら何やらな状態の人たちのためにアルバムから新曲をやるってことで、俺は興奮していた。1曲以上ジャスティスの曲を、会場にいるたった数百人の人たちと近くで歌うようになったのは初めてだった。無茶苦茶ラウドだったね。

    ステファン
    それからロンドンのハマースミス(Hammersmith)での3夜公演。

    ジェイソン
    これは歴史を振り返らなくっちゃ。モーターヘッドの存在によって、あそこに行くのはとっても大きなことだったんだ。俺のベースソロの時間が来たら(モーターヘッドの曲を)絶対に絶対にやりたいと思ってたね。モーターヘッドのアルバム(『No Sleep ‘Til Hammersmith』)は、俺がベースをピックで弾いたりうならせたりするのを習得するのにとても大きな役割を果たしていたんだから。かなり重たいベースを持っていたから、あの公演のあいだにヘッドバンギングをして、脊椎骨を痛めてしまった。あれは俺が首を痛めた最初だった。

    俺は本当に痛んでいた。アイアン・メイデンのブルース・ディッキンソンは「そんなことを自分に課す必要はないよ、なんでそんなことを自分にやろうとするんだ、兄弟?」って言ったよ。俺は「それが俺のしていることだ!」って感じだった。俺は「おい、オマエの頭をバンギングしてやる」ってタイプじゃない。起きるべくして起きたこと。俺は曲になり、モンスターになり、そうして起きたことだ。ジョガーやランナーが走るために足を動かさなければならないようにね。それと同じようなことだった。

    ステファン
    これは言っておかなきゃらないんだけど、誰もキミのような角度で頭をぶん回すことなんてできなかったよ。キミの首には、背骨の先と胸と肩まわりにかけて球関節をもっているんじゃないかって具合だった。

    ※参考


    ジェイソン
    そりゃいいね。ダンサーの膝と同じように、職業上伴う大きな危険みたいもんだった。俺たちが今(チョップハウスバンドで)演奏している音楽は、これまでやってきたほど激しくはないから、はるかに(身体上)良いってことは言っておこう。この頃はベースよりギターを弾いているから、もちろんあの頃ほど危険ではないよ。

    ステファン
    さて、次は3つの単語、ロング・ビーチ・アリーナ。

    ジェイソン
    あれも危険だったね。あそこでは中二階でサークルピットがあったのを覚えている。そこは中央の柵が(移動可能な)歩行エリアだった。一番上の柵じゃなくて、アリーナ席から次のコンクリートの区切りまでの真ん中の柵をね。それで歩行エリアがそういう席の正面、アリーナの周りはずっとサークルピットだったんだ。

    ステファン
    うわぁ。

    ジェイソン
    席についた人たち全員の正面でそこいらじゅうでそんなことになっている。それがそこからの眺めなんだ。何人かの人たちはケガをしていた。人を助けるために一度か二度、ライヴを止めなくちゃならなかったはずだよ。

    ステファン
    それはクレイジーだね。次はデラウェア州ニューアークの小さい会場、ストーン・バルーン。

    ジェイソン
    それがあったね!ストーン・バルーンは、俺たちにとっての冒険で、ジャスティスツアーでもほとんどラーズが主導したものだった。俺たちはどれだけ長くかかろうとも北米50州全てを廻ろうとしていた。それはまだ達成してなかったけど、実際にやったバンドもわずかだった。だから俺たちはこの、どんなにデラウェア州の平日水曜の夜であろうと、どうにか物流的に処理できる唯一の場所に行ったんだ。そこは俺たちのライヴが可能な州で唯一の場所だった。機材を動かすのに十分なアンペアがあったんだ。

    あれは無料のイベントだっかもしれない。30時間かそれくらい前に告知したんだ。そこで公演をするってね。5:00か6:00になる頃には、クラブの周りの道路を封鎖しなくちゃならなかった。何千人もの人が通りの外にあふれていたから。物を壊したりとかそういうことはないけど、ちょっと手に負えない状況で、収容人数800人ってせいでなぜ入れないんだとなっていたよ!マーシャルアンプはおかしくなった!覚えているのは、本当に汗だくで、パンクロックな雰囲気があって、俺たち全員のめりこんで、全員の目を見ることができたんだ!あれはそれまで起こってきた出来事のなかでも、俺がそのまんま思い出すことができる本当に唯一の時間のうちの1つだったね。

    MTVみたいなことで「メタリカと一緒にあのクラブでライブをしよう」ってことは何回かやったけど、それは全て宣伝されていたものだったし、かなり統制が取れていたよ。でもこれ(デラウェア州の出来事)は荒々しかったし、昔のまんまというか、血と汗でボロボロって感じだった。


    ステファン
    100 Clubと比べたらどうだい?

    ジェイソン
    いや。100 Clubのショーに匹敵するものはないけど、同じ分野で近いものと言えるだろうね。(続く)

    Metallica.com(2018-11-12)



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    前回の続き。ジェイソン・ニューステッドが『...And Justice For All』の制作秘話や「消えたベース」について語ってくれています。管理人拙訳にてどうぞ。

    2018-11-12-jason-feature

    ステファン・チラジ(So What!のエディター)
    じゃあ、ワン・オン・ワンのスタジオに話題を移そう。マイク・クリンクと行った最初の仕事とかもろもろ、どんな思い出があるか聞いてみようと思うんだけど。

    ジェイソン・ニューステッド
    ハッキリしているのは、ジャスティスアルバムでの俺の関与はとても限られていたってことだ。ベースのレコーディングとリハーサルのためにスタジオに行った日があったし、もちろんロサンゼルスのワン・オン・ワンにいる写真とかそういう活動のために行ったってのもあるけど、俺が覚えているのは自分はまだ小さなアパートに住んでいたってことなんだ。

    古いトラックにフェンダーとかを積んでいた。おんぼろトラックでね。フロットサムのアルバムのレコーディングで使っていた、同じアンプ/ヘッド、同じ楽器を積んで自分でロサンゼルスまで運転していた。早朝には着いて、バンドが借りただか何だかと思われるアパートがあったんだ。どういうわけだか俺は鍵を持っていた。

    着いたはいいけど、そこはメチャクチャだった。ジェイムズは立ち去ったんだと思う。そこには誰もいなかった。誰も掃除も何もしてない!だから俺がそこに行ったら、椅子か何かで眠り込んだ。そしたら朝の7:00に誰かがドアをノックして叫んでいるんだ。「オマエは誰だ?ここで何してるんだ?オマエに交代したって言うのか!?」その人が何について話しているのかわからなかったよ!それでとにかくベースを持って、次の日にはスタジオ入りしたんだ。

    マイク・クリンクについてはほんのわずかだけ覚えている。彼はガンズ・アンド・ローゼズのアルバムとかを手がけた人だった。俺たちは「フレミング(・ラスムッセン)を呼ばないのか?コイツは何をするんだ?」「彼は『Appetite for Destruction』を作ったんだ。だから彼を呼んだらなんちゃらかんちゃら」とか、政治的なことやら何やらとかで、なかなか事態が進まなかった。俺は「俺たちはこれをレコーディングするだけでいいのか?俺は自分のものを練習してきた。ここまで運転してきた。没にすることもできれば、曲を提案することもできる。没にしちゃ、曲を提案する。没にしちゃ、曲を提案する。」って感じだった。「何日も曲に費やす」とかそういうことじゃなかった。これは「クソなものをクソ弾きする」ってことだ。それがフロットサムとかで俺が知っていたことの全てだった。限られた環境で、スタジオを買う余裕もない。6時間でアルバムを完成させる必要があった。集中して、自分のパートをプレイするんだ。


    ステファン
    それはとても興味深いね。

    ジェイソン
    それまで知っていたことはそれだけだったんだ。『Garage Days Re-Revisited』でも同じだよ。彼らは曲を演奏し、俺はベースを弾く。1曲目からポンッポンッポンッポンッと5曲だ。夕飯をとるために家に帰る。それでおしまい。なにも(ジャスティスアルバムの曲が)ちらつくものはなかった。だから俺は自分でわかっている同じアンプ、同じベース、同じものでプレイした。レコーディングして終わり。それを6日でやった。それで(ロサンゼルスから)北の方に帰るんだ。ロサンゼルスには1週間ほど行ったことになる。やれることは何でもした。それからツアーが始まった。アルバムに一体何が起きたのか、数か月後には出た。それがジャスティスアルバムで俺が関与したことだ。

    ステファン
    興味深いよ、それは私にその時間枠について2つの特別な思い出を思い起こさせるね。私は第一にツアー、つまり物事がとんでもないことになるモンスターズ・オブ・ロックについて始めよう。私はメチャクチャ圧倒されたのを覚えているんだ。ハッキリと覚えているのは、タンパにいた時にサミー・ヘイガーがキミたちの方へやってきてこう言った。「やぁ、キミらはやってくれたな!」って。楽し気にね!彼は(ヴァン・ヘイレンを)辞めさせられたにもかかわらず、非常に寛大だったようにね。あの時、これは本当の話だ、これはとんでもない出来事だって思ったことを覚えているよ。

    なので、まず最初にあのツアーについてと、ラーズとジェイムズがアルバムをミックスするためにずっとその場を離れていたのをどう感じていたのか少し話してもらえるかな。キミはあの過程に関与したくてウズウズしていたのか、それとも「(ミックスに参加するのは)俺の性分じゃない、俺の領域じゃない、俺はここでこのバンドをロックンロール史上最高のライヴバンドとして確立する手助けをするんだ」と理解していたのかな。

    ジェイソン
    俺が(ミックスに立ち会うためにその場に)行くかどうか選べなかったよ。選択肢にすらなかった。ツアーの真っ只中で、その合間をぬって行っていた。ツアーはたった2つのセットだったからね。木曜。金曜、土曜だけ、それでもうまくいった。その合間の日で、どっちかが先に進めて、俺たちはホテルに滞在していたんだ。彼らがウッドストックまで登りつめて、あれをミキシングしている時にね。

    ラーズはまだお祭り気分とはいかなかった。ジェイムズもだ。カークと俺は、何でもやった。二度、目を閉じて起きたら別のショーがあるように思えた。バンド全員がリムジンで旅行をして、何らかの理由であの2人にアルバムをミックスさせようとしていたことに対して実際問題、選択肢はなかったよ。俺たちもミキシングをやるなんて議題にさえ上らなかった。どちらにしても考慮にさえ入っていなかった。

    質問のもう一方に答えようか。そう、今回は俺たちが何をしていたのかをみんなに伝えることだけだった!俺たちの目の前には大群衆。一日のなかで俺たちのエネルギーがピークを迎えた時にプレイした。会場に行ってマザーファッカーなものを見せることになる。とにかくみんなが俺たちのためにその場にいたんだ。そこにいた群衆の3分の1か、2分の1かは俺たちを観るためにそこにいたんだ。彼らはそこで何が起きているのか、今後何が起きるのかを聞いていたからね。

    言っておきたいのは、30年だか何年だかのミュージシャンとしての自分のキャリアにおいて最もエキサイティングな月間のトップ3に入るってこと。俺にとっては特別な時間だった。それとガンズ・アンド・ローゼズとのこと(1992年のツアー)、それらは俺たちにとって最大の学習体験だったし、最も誇り高い勝利の瞬間でもあった。モンスターズ・オブ・ロックのこと、俺たちは2番目に名前があった。(出演するバンド)みんなはたとえどんなもんであろうと俺たちの後を追うのは怖かっただろうね。まさにそんな感じだったんだ。俺たちはそういうのをなぎ倒していった。まったく邪悪なもんだよ。全てがまだ速かった。300人規模の巨大な3、4、5のサークルピットがサッカー場のいたるところにできているんだ。邪悪だねぇ、ホント邪悪。手が付けられない。それに防弾チョッキね。あれは俺が経験してきたなかでも最も目を見張る、そして最も心を開かせるものだったよ。まさに心を打つものだったから。俺はようやく少し休んだ。バンドメンバーとしてのリズムをつかんでいた。あの当時、俺たちは約30か国で勝利を収めていた。夜のトリを務める自分たちのヒーローたちと、一緒にアメリカでやるチャンスが待っていた。スコーピオンズだって?マジで言ってんのか??(スコーピオンズの)『Tokyo Tapes(邦題:蠍団爆発!! スコーピオンズ・ライヴ)』とかがなかったら、俺はたぶんロックを好きにすらなってないよ。

    ステファン
    クールだね。それから私はその時代の第2の思い出がある。キミはこれを覚えているかもしれないけど、ルー(・マーティン、旧友であり、元フェイス・ノー・モアのギタリスト、ジム・マーティンの兄弟)と私がデトロイトのシルバードーム(私にとってこの場所で観たライヴは私のライヴ経験のなかでもメタリカを除いて最も素晴らしい経験のひとつになっている)に行った時のこと。それは私が今まであのレコード(ジャスティスアルバム)を初めて聴いた時でもあった。たしかキミの宿泊しているホテルの部屋にいたんだ。キミは大型のラジカセを部屋に置いていた。テープを入れて再生すると、(私は)技術的に洗練された耳ではないかもしれないけど、スピーカーから出てきた音にただ反応しただけだった。私たちは「おぉこれはかなり良いね、これはすごいよ。ヘヴィじゃないか」という感じだった。それからキミが立ち止まって「何か聞こえたか?」って言ってたのを覚えているんだ。私は「何を言っているんだ?もちろん聞こえたよ!」って言うと、キミはこう言ったんだよ。「ここにはベースなんかない。ベースが聞こえたか??」って。私たちは笑い始めた。なんだか奇妙で心地悪い笑いだった。私はどうすればいいか本当にわからなかったよ。キミは積極的に怒っていたわけじゃなかった。でも控えめに言ってもキミはちょっと驚いていたよ。

    ジェイソン
    当時、俺はかなり混乱していた。その5日前に俺たちが出したレコード、『Garage Days Re-Revisited』のベースはメチャクチャでかい。だから俺は「OK、これが俺たちがやろうとしていることなんだな、よし、俺はキミらに任せたよ」って感じだった。メタルバンドだし、重さが必要なはずだ。俺はそんなことを思っていた。プレミックスやキミが知っているようなテストや時間をかけての決定について俺は何もやっていなかった。そのどれも起きなかった。何かを聞いたり「それはそうすべきだ」とか言ったり、何か意見を言ったりする機会はなかった。「これが完成品です」それだけだった。

    だからあるメタリカファンと同じように、俺は「メタルバンドのようには聴こえないな」と思う。ガレージバンドのようなんだ。それはガレージ・ミュージックになった。ザ・ホワイト・ストライプスとかそういうデトロイトのガレージ・ミュージック。今になって思えば、ジャスティスアルバムは、ギターとドラムのガレージサウンドの扇動者であり開拓者でもあった。

    キミも知っての通り、最初の2年間は、腹も立っていたし、それがみんなに届いた時には、そう、聞いてあまり誇りに思えなかったとかいろいろな思いはあった。でも今、俺たちは(リリースから)30年を迎えて、みんながいまだにあれについて話している・・・それは完璧だと思うんだ。クソ完璧じゃないかってね。もしそういうことをやっていなかったら、みんなそこまで高らかに話してはいないだろう。これが結果だろ?素晴らしいじゃないか。「キミらはグラミー賞を逃した」(1989年に『...And Justice For All』はジェスロ・タルの『Crest Of A Knave』に敗れ、ベスト・ハードロック/メタル・パフォーマンス部門のグラミー賞を逃した)といまだにみんなが話をしているようなもんだよ。もし俺たちが勝ち取っていたら、誰もそれについて気にしたり、それについて何か言ったりしないだろう。でもみんなは今日も明日もそれについて話している。来週だってジャスティスアルバムの「あのこと」について話している。もしそういうミックスじゃなかったら、別のアルバムになっていた。あのガレージサウンドのおかげで伝説になったんだよ。

    ステファン
    それは、素晴らしい見解だね。私はあれがガレージサウンドだっていう事実について考えたことさえなかったよ。つまり、このレコードに対して付随する言葉として聞いたことがなかった。でもその通りだね。(続く)

    Metallica.com(2018-11-12)

    metal_brain

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    前回の続き。ジェイソン・ニューステッドが、メタリカのメンバーとの関係性について語っています。管理人拙訳にてどうぞ。

    2018-11-12-jason-feature

    ステファン・チラジ(So What!のエディター)
    可能であれば、みんなをその場に連れて行って欲しい。つまり、覚えていることを教えて欲しいな。最初に曲を書き始めたときのこと、ジェイムズのようにやっていることが明らかに巨大で特殊なセンスを持つ誰かとジャムったときのことをさ。

    それはどうだった?文字通り、できれば読者をその場のソファに座らせる感じで。「すげぇ、俺はコイツと一緒に曲を書いている」とか。どんな感じなの?どういう感覚が伴うんだろう?


    ジェイソン・ニューステッド
    最初の行は「言うだけなら金はかからない」ものであるべきだと思う。リフや楽曲のなすままに話をさせる。彼はそれを聞くつもりなんてない、ただのおしゃべりだよ。たわごとを弾いてみるんだ。もし(リフの出来が)よかったら、そういう反応だし、よくなかったら、そういう反応なんだろう。その意味で、彼(ジェイムズ)は口数が少ない男なんだ。ただビジネスに取り掛かる。それがスタートだ。そういう感じかな。みんなにとってのクールなイメージがある。

    それで俺たちは俺のアパートのひとつ余った部屋に集まっていた。俺は自分の小さなスタジオに小さな4トラックとちっぽけなテーブルを用意して、1986年の「Damage, Inc」ツアーのポスターを貼った。俺や彼が角に座るには十分な部屋だった。

    俺はツアー用じゃないベースで、あれこれ考えたものを何でも弾いていた。俺があのリフを弾きまくって、彼がそれに沿って弾いた。そしたら俺は「録音」ボタンを押し、それがリフを書き始めようとしていたあのアルバムのオープニングトラックになったんだ。

    俺はフロットサムで曲を書くことを超えた考え方を持っていなかった。ベースパートを書く。何かの曲のイントロ、序奏、コーラス、ソロ、ベースラインなどなど。俺は作曲するということを十分に知っていたけど、当時の彼らの力量は、俺がフロットサムのメンバーたちと一緒にやったことの一歩先を行くとんでもないものだった。

    彼らはすでに「Fade To Black」と「Orion」をやっていたから、いくつかのアイデアを収めたデモテープを彼らに渡すより、むしろわざわざ手こずるようなものを、彼らの目の前で演奏する力量に達する方法を理解しようとしていた。彼らと面と向かって演奏することはいつだってかなり威圧的なものだったんだ。でもいったん彼らからOKが出たら、それをもっと速くもっと激しく弾いていたかった。それはまるで最高の相棒の承認みたいなもんをもらいたいっていう子どものようだったね。

    彼らがすでに制作してきたアルバムでとても多くの尊敬を集めていた。彼は日本で俺のものを実際に初めてテストしたヤツだった。何ヶ月もの後、バカげたいじめ、飲酒、お楽しみ、彼と俺はいつもつながっていた。ラーズと俺はそういったこと(エネルギー)で、ジェイムズと俺はこういったこと(リフや作曲)で仲間になったんだ。

    俺たちはとてもよく似ている。トラックと銃がつきものの田舎の子どものように、間違いなくそういうヴァイヴが結ばれていた。生々しいメタルなもの、ヘヴィなものを弾きたいっていうこともね。俺たちはそういうことで結束していた。だから彼のOKサインを得ることは俺にとって本当に重要なことだったんだ。OKサインをもらえばもらうほど、俺のリフは増えていく。彼の良い曲をサポートしようとしていた。それは本当に俺がいつも言ってきたことだ。俺が出来うる最高にクールな材料を書いて、彼がすでにまとめている曲をサポートしようってね。

    ステファン
    このバンドのなかでキミが明らかに緊密な関係を持っていたのはカークだったよね。二人は誇りをもって音楽へのこだわりを持っていたし、音楽を愛し、「ハッパ」仲間でもあったようだね。一方で他の二人とは「仕事に行く」感じなのかな?

    ジェイソン
    たしかにさまざまな場面で分かれる同志の固まりがあったかな。俺がいた時の4人のメンバーのなかで、おそらく誰にとっても一番明白なのは「レノン=マッカートニー」だね。知っての通り、ソングライターであり、バンドのリーダーだ。彼らはそれをやったんだ。カークと俺は「じゃない方」だね。俺たちはステージ上で自分たちのことをやりとりして、相互に作用して、弱いつながりなんてなくて、4人合わさった力というのは俺たち個々人を上回るものなんだ。それによって俺たちは成功したんだよ。でも俺たちのあいだには違うものもあった。

    俺がジェイムズについて説明していたように、俺たちはホットロッドで結びつきを持っていた。ラーズと俺は混じりっ気なしのエネルギーとかお互いへの理解とか推進力への感謝とかでつながっていた。彼は俺が今までにないものを持っていたし、俺は彼が持っていないものを持っていた。そういう尊敬とか憧れとか驚嘆すべきものはあっても、いつもお互いに深く掘り下げていて、いざとなれば互いに協力的だったからね。互いにかばい合っていた。俺たち全員そうなんだ。でもラーズと俺は、それぞれ違う時にお互いを本当にかばい合っていたと思うよ。そしてカークと俺は、そう、俺たちはホテルの部屋で夜2時までセッションし合うような仲だった。カークは心の広いヤツだよ。彼はそういうステキなヤツなんだ。彼はとっても気まぐれで傷つきやすい。だから俺のことに気を配っていたし、俺は彼のことに気を配っていたんだ。


    ステファン
    1つだか2つだか深夜のホテルのセッションから、ジャスティスアルバムに入ったリフはあった?キミたち二人のあいだでのジャムセッションで誕生したものは、あのレコードに入ったのかな・・・それとも実際にはそういうことにはならなかった?

    ジェイソン
    俺たちは全部録音していたから可能だったと思うんだ。そのうちのいくつかを提案することは可能だった。(実際どうだったかは)特に覚えていないんだよね。アルバムの何かになったリフっていうのを今すぐ挙げることはできないんだけど、たぶんそういった(録音された)ものを聞き直せば、時間とともに後に何かになった種を拾えるかもしれないね。

    でも励まし合いについては、間違いなくあった。たとえドブロギターのスライドがファストなメタルには奇妙だろうが、考え付いたら俺たちはいつも励みにしていたんだ。
    (続く)

    Metallica.com(2018-11-12)

    metal_brain

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    前回の続き。クリフ・バートン死後にラーズ・ウルリッヒが果たした役割やメタリカとしての最初の作曲など。管理拙訳にてどうぞ。

    2018-11-12-jason-feature

    ステファン・チラジ(So What!のエディター)
    加入して最初の頃のポジティヴな動きについて焦点を当ててみようか。興味をそそられることはたくさんあったんだけど、私がまさしくと思うのは、ラーズのエネルギーがあの当時、メタリカを続けていくことにどれだけ不可欠なものだったかってことなんだ。彼無しでは続けられなかったし、今ここにこうしていないかもしれない。そしてキミがとても手助けとなるたくさんのエネルギーを携えてやってきた。キミとラーズのペアが前に進ませ、当時のジェイムズとカークを再び元気づけたと思うんだ。

    ジェイソン・ニューステッド
    たしかに。えぇっと、最後の質問から話の腰を折るようだけど、どこか排他的なクラブにキミが調べられなくちゃならないときっていうのは、クラブはキミをカットするか確認するために吟味されているわけ。もし6人しかメンバーがいないクラブがあったら、俺なら足を踏み入れるし、そうしなくちゃ。まだ嗅ぎ分けられている最中だってことを誰もが知っている。だからラーズがこれだと自分のなかで感じた時点で、バンドに俺を入れようとしていたのは彼一人のようだった。

    彼は俺がバンドに入るように推し進めた一人だったし、クリフの事故とかがあってどんなに難しかろうとも俺を支えたいと思っていたし、あの状況では彼の満ち満ちたやる気によって支柱的存在だった。一番のバンドになりたいっていう願望だ。彼らがやってのけたこと、達成してきたことは全て、彼ができると本当にマジで信じていたことだったんだ。それに加えて、彼の先を見る目や実践して得た知見、受けてきた教育、地理的知識、彼が父親との旅行から得たもの、俺たちが持っていなかったあらゆるものを彼は持っていた。その類のリーダーシップは当時必要不可欠だったね。だから俺が入ったのは、燃料とか輸血のような類のものだったかもしれないけど、世界を股にかけたバンドに欠かせないものは何かわかっちゃいなかった。やれるってチャンスのところでやっただけだった。そういうことを理解することはできなかっただろうね。俺は生の燃料で彼がその燃料を燃やすエンジンを持っていた。そうして俺たちは推し進めた。そういうことじゃないかな。


    ステファン
    それは素晴らしい視点だね。

    ジェイソン
    推進力だよ。

    ステファン
    いや素晴らしい視点だ。話を先に進めよう。あのエネルギーが最高潮だった最初の頃に重要となったショーについて思い出すんだよね。1987年8月にロンドンの100Clubでやった公演では、キミが気を失ったんだよ。あそこでは(熱気で)100度はあったことを覚えてる。キミの創造的思考が「アルバムを作れるだけの曲はあるんじゃないか?」というところまでは行ったのかな?87年頃、何か創造的な思考を持ってたり、曲を書き始めていたりしたのか覚えてる?

    ジェイソン
    俺はアルバムサイクル、ツアーサイクル、そういったもの全てについて、まだ少しも理解できていないんだと思う。成り行きにまかせていた。彼らが「リハーサルのためにいろ、何か用意しよう、アイデアを出して」と言うだろうとね。俺はいつもこれまでやってきたどのバンドでも曲を書いていたし、リフを作っていたから、テープは持っていたし、実際にベースパートをテープに残したり、リフをアレンジしたりしていたよ。

    ステファン、キミが言ってたことでハッキリさせておきたいのは、最初の頃に100Clubでメタリカがライヴをした時、どのバンドメンバーも気絶なんてしてないと思う。確実に俺はそんなことになってない。少なくともあの会場にいた1%は俺のタイプだったけどね。そんな神話がどこから来たのかわからないけど(そんなことはなかったと)ハッキリさせたい。だってそんなバカげたことでも、みんなが俺たちのことを真実じゃないもので思い出させるってことになるからね。俺はこういうバカなことについて誰かに喋ったりしないから、俺が話すときにはハッキリさせたいと思うんだ。


    ステファン
    いいね。公正だよ。私は確かに誤って記憶していたんだね。

    ジェイソン
    俺たちが「Am I Evil?」だかダイアモンド・ヘッドの曲だかを演奏する直前にブライアン・テトラーがやってきて、彼がギターを抱えてくるあいだみんなが一息入れて、俺たちは全員座った。もしその当時の写真を見たら、俺とジェイムズが隣同士で座っているはずだよ。それがあのギグに関するメタリカの真実の物語ってわけだ。俺たちはそこでがんばっていた。それは誰もが知っていることだ。

    ステファン
    なるほど。レコードの話をしよう。キミが自分の家で書いた最初の頃のリフについて考えてみて、ワン・オン・ワン(スタジオ)での最初のセッションになっていったことについて話してみない?

    ジェイソン
    それじゃあ・・・加入初期の頃を振り返ると、あの当時は数ヵ月ツアーに行って、その合間に数週間の休暇があった。87年から88年頃の話だ。俺たちはまだシングルルームを持っていただけで、ラーズはカールソンの家があったけど、俺たちは皆半径5マイル(約8キロ)以内にいたんだ。俺はジェイムズの猫の餌を取りに行って世話をしたり、彼が俺の猫の世話をしたりしていた。それが俺たちの姿だった。俺は当時、付き合いの長い料理上手な彼女がいて、メンバーを夕食に招待したりしていた。ソファでちょっとジャムったり、いくつかのアイデアをあちこちで録音していたりした。だから俺の頭の中ではその時点でメタリカとの曲作りに入っていたんだ。ジェイムズと俺は膝を突き合わせて、面白いものを叩いてみたり、そこから何でもジャムってみたりしていた。当時はとても速いペースで物事を進めていたんだ。フロットサムから抜けてすぐに「d-d-d」っていうかなり簡単なモノを書いた。

    ある日の午後、俺たちはジャムっていて、俺は4トラックのレコーダーを持っていた。俺が「Blackened」のリフを弾くと、ジェイムズが「それは何だ?」ときた。俺は何回か弾いてみせて、何度も繰り返した。彼はそのリフを拾って拾って対抗するパートを弾いてみせた。それが”モノ”になったわけさ。彼はあれを使わなきゃって言ったんだ。だからそれが俺の最初の励みであり激励になった。「そのリフを使って、もう少し曲を書かないか?」それが俺がバンドの作曲者として受け入れられるスイッチが入った時だったんだよ。自分のリフのいくつかを曲に入れる機会があるかもしれないっていうね。フロットサムの頃にマイク・ギルバートと俺が最初にやったことの後、俺たちは今までにどれだけの曲を考え出してきたか。俺が言ってることわかるよね?だからそれが始まりだったんだ。


    ステファン
    それが入口だったんだね。

    ジェイソン
    あぁ。

    ステファン
    それは悪い入口ではないね。(続く)

    Metallica.com(2018-11-12)



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    前回記事の続き。バンド内でのいじめ、メタリカ初来日時のエピソードについて語っています。管理人拙訳にてどうぞ。

    2018-11-12-jason-feature

    ステファン・チラジ(So What!のエディター)
    他の3人が取り組まなければならなかった問題の深刻さをキミはわかっていた?キミが参加したとき、彼らが向き合うにはあまりにも多くのトラウマがあるっていう認識はあった?彼らがそういう状態にあったから、ある程度の間違いはあるだろうとあらかじめ受け入れていたの?あるいは「何てこった、これは俺がメタリカに加入する時から期待されていたものってわけじゃないだろ?」とキミが思うような瞬間はなかったかい?

    ジェイソン・ニューステッド
    俺は本当にそういう考えや認識、あるいは気付くまでの余裕なんてなかったよ。あのバンドに入るチャンスを得て、ベースでベストを尽くし、できうる限りのことをしようといっぱいいっぱいだった。それが全てだ。実際に全てではないけど、ほぼそれに近い状態というか…クリフの名声に沿うようにした、それは言うまでもないことだ。それはお決まりの文句とかそういうんじゃないけど、俺は彼を失望させたくなかった。彼らも失望させたくなかった。自分を失望させたくなかった。それが俺にとって重要なことだった。そういうもの全てから来るパンチをかわしているだけだった。悲しみやさまざまな反応?俺はそういうことは知るよしもなかったし、額でそいつをまともに受けるまでそういうことを認識していなかった。トーベン(ラーズ・ウルリッヒの父親)とジャン(クリフ・バートンの母親)と何回か会って、彼らは俺に少し心構えをさせようとしていた。でも誰かがそういうことを気付かせるという重要な役割を果たすなんてありえないよ。ノリに乗った勢いに乗じて、その全てのエネルギーを注ぎ、バスや飛行機や電車といったことでそういう機会を奪い続けたうえに、いまだに半端じゃない成功をおさめ続けているんだから!23か24歳の若者にとっては、信じられないくらい重荷だよ。

    ステファン
    キミがそうハッキリ言うと、本当に狂気だったんだね。

    ジェイソン
    でしょ?俺はそんなこと考えられなかったよ。ほんの一部も考えられなかった。そういうところまで、まだ成長しちゃいなかった。その時点で俺はペットを喪った経験があるだけだった。祖父母も健在だったから、そういう(クリフという仲間を喪う)ことは理解できなかったんだ。彼らにとってどれだけ重要な存在だったかはわかっていたから、一歩身を引いて、できうる限りクリフに敬意を払うようにしていた。俺にとって最も重要なことは、その存在を踏み越えないことだった。自分のできうる限りのことを最大限やっていたけど、そんなもの越えられないよ。敬意を持ち続けなくちゃならなかったし、俺が理解したってことを彼らが認識していると確認しなくちゃならなかった。そして俺はベストを尽くす。それが全てだ。子どものような驚きと強い興味と混乱、そんな状態だったよ!

    ステファン
    あの年齢のときには面白いだろうけど、これはあの時代のとてもたくさんのことをよく覚えているんだよね。時にキミが向き合ってきた「新メンバーへのいじめ」が深く刻まれた痛みを隠すことがあると。

    ジェイソン
    たしかに。

    ステファン
    実際に起きたいじめのいくつかに簡単に触れていこう。触れるべきなのは私が最も重要だと思っているひとつで(そして、おそらく非常にささいなことだけど)歯ブラシのことだったと思う。3つと1つがあったことを覚えているんだ。

    ジェイソン
    それは覚えてないなぁ!

    ステファン
    おぉそうかい。おそらくキミは見逃していたのかもしれないけど、テーブルの上に3本の歯ブラシが見えて、キミのが右だか左だか忘れたけど、(先が)ズレていたんだ。「なんかくたびれていて、ちょっと変だな」と思っていた。

    ジェイソン
    へぇ、詳しく話そうか!

    ステファン
    初めの頃のいじめで「これは変だな、でも俺はこれを乗り切って強くなる」と思ったようなことは覚えている?

    ジェイソン
    物事を解決するにしても、実際に起きていた何かは、人によってセンセーショナルにされたりとか、ちょっとした神話ができていたりとかするわけでしょ?覚えているのは、ごく初めの頃、バンドに入って最初の6日間だったか8日間だったかで、2つの重要なことが俺に起きていた。間違いなくいじめだろうと思われること。そして「内部で何が起こったのか」っていうことの残りは、彼らが対処していたことと俺たち一緒に対処していたことだった。

    でも2つのことをよく覚えている・・・来日2日目のことだ。バンドに入って8日か9日、とにかく2週間以内だった。(アンスラックスの)スコット・イアンが俺たちの泊っているホテルにやってきたんだ。俺は飛行機での旅行でクタクタだった。このホテルっていうのが超素晴らしいところでね、みんな本当に丁寧な対応で贈り物やいっぱいお土産をくれたんだよ。メタリカが日本にいったのは初めてのことだった。「ビートルズ狂騒曲」みたいなことになって、脱出するための裏口があった。いずれも経験のないことだったね。俺も彼らと一緒にそういうことを経験した。初めてのことだったけど、ああいうのはどこにもないよ。初めて(メタリカで)ライヴしたのは(ウォームアップの)アナハイムでのショーだった。その3日後には日本をツアーしていたんだからね。俺たちはみんな、同じように目を丸くして「別の惑星」に来たんだ。なんてこった!俺たち、みんなよりも背がデカいぞ!!!女の子たちはみんなパニくってた。俺たちはそれまでそんなことなかった。俺たちの誰もがね。ツアーマネージャーだって、クルーのヤツだって、ジェイムズだって、俺たちはそれまでの人生で誰もそんなことを経験したことがなかった。

    それでスコットは2日目にやって来た。俺たちはロス(・ハルフィン)とのフォトセッションをしていたんだ。日本庭園のある家とかシャッターチャンスのためにどこにでも行った。日本でタクシーに乗ると、小さいんだよね。イギリスやアメリカのタクシーとは違って小さい。俺が最初に乗って、みんなでもう一人を押し込んで、他の3人とスコットがちっちゃいタクシーに乗るには、俺が彼らの後ろに乗らなきゃならなかった。まぁそうして目的地に行って写真を撮った。それから飲みに行って、やることをやったわけだ。それは些細なことだったんだけど、彼らはテストをしていたんだ。

    ショーをやって、あらゆることをやって、日本の主要都市を5つか6つ廻って、たぶん6公演はしたんじゃないかな?それからニューヨークに行ってマンハッタンに着いた。知っての通り、ジェイムズやみんなはヤクを打っていた。1986年の話だからね?だから彼らの血中レベルはずっと、得たいが知れないよ。星3つ!マジだぜ!?ジェイムズとサムヘインの人たち(彼らはボディービルディングでムキムキだ)はハイになって、何が起きようが、朝の4時とか6時とかまでニューヨークで飲みに行っているんだ。

    そうして彼らはホテルにやってきて俺の部屋に来ると、ドアを叩き出すんだよ。俺は眠っていた。俺たちは日本をツアーしたばかりで、ずっとショーをこなしてきたもんだから、俺はあの1か月ろくに寝てなかったんだ。しまいには英語を話せるどこかでちょっと横になっていたってこと。そうしてそこに至ったわけだ。そしたら朝の4時にドアがノックされる。「役立たず野郎!」なんて言葉に俺は返答しなかった。気分の良いものじゃなかったしね。彼らは階下に降りていって、鍵をデスクから手に入れようとしていた。そりゃ鍵なんてもらえない。そしたらヤツら、ドアを蹴飛ばして部屋に入ってきたんだよ!!!

    クルミ材の装飾品があるような古いホテルだったんだけど、ドアはバラバラに壊されて部屋に散乱していた。ヤツらは部屋に入るなり、俺が寝ているマットレスごと裏返して下敷きにした。それからあらゆるもの、あらゆる椅子で俺を下敷きに埋め始めたんだよ。俺のものは8階の窓から通りに投げ捨てやがってさ。「バンドへようこそ、マザーファカー!!!」って言ってドアから出ていったんだ。

    それがあって今の俺がある。それがバンドに14年くらいいたなかで、いじめとして覚えている2つの出来事だ。どれだけ誇張されてしまったかわからないけど、それが一番覚えていること2つかな。

    ステファン
    興味深いね。これまで話してくれたことは全て記録に残しておこう。特にいじめについては誇張されてきたね、最後のはかなりのものだったけど!(続く)

    Metallica.com(2018-11-12)


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    『...And Justice For All』のリマスター盤が発売されたタイミングで、Metallica.comのSo What!にてジェイソン・ニューステッドのインタビューが掲載されていました。メチャクチャ長いインタビューなので少しずつ訳してご紹介していこうと思います。日本語が微妙なのは毎度の事なのでご容赦ください...(誤訳は遠慮なくご指摘ください)。

    2018-11-12-jason-feature

    アリゾナからやってきて、1986年晩秋にメタリカの後任ベーシストとして選ばれたトミーズ・ジョイントでの夜を経て、ジェイソン・ニューステッドがバンドに持ち込んだエネルギーを説明することはたやすくない。

    彼の目は不滅の水晶のようにどんな光も捉えて10倍にして対面する顔に放っていた。彼はとても興奮して満ち満ちていたのだ。1カ月間、振りまくったビール瓶の蓋を空けられたようなものだった。我々には、彼が受け入れて後任に就いたポジションについて、本当に理解することは同じようにたやすくないことだ。なぜならジェイソン・ニューステッドはそれまで誰かの後釜に入ることはしてこなかったが、それをやってのけたからだ。

    バンドとファンの双方が哀悼の意を表した。次のことなんか、たとえ長期的な「次」なるものがあったとしても、誰も知りはしなかった。中西部にルーツを持つ、この明るくポジティヴでエネルギッシュな青年は、ラーズ、ジェイムズ、カークの道を切り開くのを助け、メタリカがメタル界のみならず音楽ビジネス全体を制圧するのを助けたのだ。

    ステファン・チラジ(So What! エディター)
    私はメタリカのキャリアにおける重要な瞬間に直でジェイソンの重要性と影響力を見た。また苦闘と居心地の悪さを感じた時代を目撃した。何よりメタリカがいつも必要としている時に(そうでない場合でさえ)いつだって最後の力まで振り絞り、血をにじませる男を目撃していたのだ。彼のアティテュードは始めから揺るぎなく、素晴らしく強い家族のようなユニットによって強化され、彼のあらゆる義務への欲求は常に大きいままだった。

    ジェイソンと『...And Justice For All』時代について話をするにあたり、課題は我々が話すことがどれくらいあるかではなく、今後の議論のためにどのくらい余地を残すかということだった。彼のアートキャリアは昨今素晴らしい位置にあり、ジェイソンは私が覚えている限り、幸せで満ち足りたように感じていた。

    以下では、(ジェイソン加入後の)メタリカ初期の『Garage Days』や『...And Justice For All』の時代の話が中心となっている。我々は90分近く話していたが、20分のように感じていた。


    ステファン
    メタリカにキミが加入して『Master Of Puppets』(以下、MOP)のツアーを終え、『Garage Days Re-Revisited』EPの頃についてから始めてみようと思う。振り返ってみてあの頃の熱中具合はどうだった?

    ジェイソン・ニューステッド
    あれもこれも覚えているよ。そいつは壮大というか何というか・・・流れが速かったよね。まだ時流の突風のど真ん中にいた感じだった。ツアー、つまりオジー(・オズボーンと帯同したツアー)だったり、MOPのツアーだったりっていうのは、みんなにとって予期せぬことだったし、それはそれは奇妙なところに俺たちは足を踏み入れていたんだから。それが始まりだった。

    ある種の復帰だったかもしれないし、俺は必死にしがみついていたし、間違いは犯したくなかったし、できる限りベストであろうと思ったし、自分に訪れた機会に感謝をしていた。そうだろ?それが俺が覚えていることなんだ。何より俺がそこにいてできることは、音を外さないことだ。リズムを間違えずに、遅れないようにと、できる限りプロフェッショナルであろうとしていた。『...And Justice For All』(のBOXセット)に付いてきた、この本のなかの写真を見た時、そんなクレイジーな頃を思い出したよ。そういうわけで全体としてはとても楽しくて、ペースが速かったってことを覚えている。


    ステファン
    そうだね。とにかく若かりし頃にはうろたえることがあるよね。速いペースで活動するのが大好きなバンドに入る前から自分はひとかどの人物だったと言える?フロットサム・アンド・ジェットサム(ジェイソンの前の所属バンド)の時でも、こういうプロジェクトをやって、こういう曲をやるつもりだった?

    ジェイソン
    今振り返ってみると、常に自分でやっていた他のプロジェクトのリーダーになっていたというのが本当のところだと思うよ。俺と歩調を合わせるのは人にとっては難しいことだろう。それが自然なことだと思う。たぶんそれは俺の父親の気性やエネルギーから来ているんだろうね。父は主導権をとって、手綱を握って、自分の才能を使えと、ことある毎に俺に言っていたよ。

    ステファン
    キミの父親−それはキミの父親が素敵な人だったってだけじゃなく、いつもキミにとって大きな影響を及ぼしていたということを記録しておかなきゃいけないね。当時、彼をよく見かけたから覚えているよ。彼は私にとって、正直で、みんなのお手本になるような、ブルーカラーの良きアメリカ人のように思っていた。

    ジェイソン
    そう、今もまだそうさ。83歳になるけど、(ジェイソンのアコースティックバンド)チョップハウスバンドのショーにも来てくれるよ。彼は自分のやりたいようにやっているし、いまだにあの同じ猫を飼っているし、誇りを持っている。今じゃ俺たちが演奏する曲と一緒に歌えるようになったんだ。だいぶ違ったノリだけどね。そこにはクールなヴァイブがある。でも彼はまだシャンとしているよ。例えば・・・たくさんのボランティア活動とかそういうことをしている。

    ステファン
    へぇ、それは素晴らしいね。キミの兄弟たちもそうだよね。ニューステッド家は、いつも非常に支援してくれていた。私が最初の頃で覚えているのは、メンバーの両親をショーでお見掛けすることはあったけど、キミの大家族は同じようにお見掛けすることはなかった。つまり、キミの家族は最初の頃、観衆のなかにいてポジティヴなノリをしていたってことだ。「ニューステッド一族がノリノリだぞ」って知られていたんだ。あれはクールだったね。

    ジェイソン
    あぁ、メンバーはときどきこんな冗談を言っていたよ。「ジェイソンのゲストリストはどんだけいるんだ?」ってね。そんなこともあったけど、キミも知っての通り、ジェイムズは俺の母親に会ったときには、「ママ」とか「ママ・ニューステッド」とか呼んでいた。母がそうするように言ったんだ。そんなことはしょっちゅう言っていたね。みんながそんな風に母を見ていたから、そういう雰囲気があったんだ。

    ステファン
    ちょっと頭を戻してもらって・・・キミは間違いなくリーダーだったし、いつもエネルギッシュでとてもポジティヴなエネルギーをたくさん持っているという事実について話をしてきた。そしてノリのよい家族についても。そこで当時を振り返ってみて、メタリカの歴史のなかでメンバーがどのような位置から来たのかを見たとき、潜在的に大きな亀裂のあった時期で、コミュニケーションは最善ではなかったかもしれない。バンドとして一緒にいるためにキミの音楽的能力が不可欠だったということを越えて、キミがバンドにもたらしたものについてはどう思ってる?ニューステッド・ゲストリストがどれだけ膨大だったかって話も含めて、全てを話しているんだ。だってファミリーがまた別のファミリーを連れてくるかもしれないでしょ?

    ジェイソン
    わぉ、素敵なことだね。時間とともに、キミ自身も含めて、身近にいた人たちは各メンバーが果たす役割を認識することができた。どんなものだって、次のことよりは重要じゃなかった。ステージには、誰もが見て誰もが知っていた明白なものがあり、誰もが知ってるわけじゃなかったものが舞台裏にあった。

    自分の安定性だったり、家族だったり、感情的なものだったり、基礎となる全てのものは、俺たちあるいは彼らが通ってきたこれまでのことに対処する感情的なツールを持つ手助けとなっていたんだ。俺がバンドに加入して3、4ヶ月っていう間もない時期にメイク・ア・ウィッシュから依頼を受けた。俺はそういうことを引き受けるために力をいれてきたんだ。だから俺の役割のひとつはチアリーダーやヘッドバンガーになることに加えて、少なくとも集団のために感情的な負荷を引き受けるってことだったんだ。それが真実だと思う。


    ステファン
    まさしく。もし間違っていたら、訂正してね。うっすらと当時のことが思い浮かんでいるんだけど、カールソンにある2番目の家を、ラーズが『Garage Days Re-Revisited』用に持っていたのを覚えているんだ。実際のガレージを建てるプロジェクトのリーダーはほとんどキミが務めていたと記憶しているんだけど、どうだろう?

    ジェイソン
    そのとおりだよ。『Garage Days Re-Revisited』の裏ジャケには「Building master J. Newkid」とか何とかあったでしょ。間違いなく俺が全ての材料から何からを注文して、そいつらを打ち付けて、防音から何まで仕立てたし、ラーズからしたら早すぎる時間に何度も起こしに行った。あぁ確かにそうなんだ。それも全て契約の一部だったんだ。俺の爺さんは、俺が小さい頃に物を作ることを教えてくれていたんでね。俺は何をすべきかわかっていたことをやっただけなんだ。それが当時の俺たちにとって必要なことだったからね。

    ステファン
    あれは独房みたいだったけど、てきめんだったね。

    ジェイソン
    それは俺たちにとっても良かったんだよ。ずっと正直でいられた。物事はかなりいい方向に進んでいたし、彼らはちょうど本当にイカした売り出しを待つばかりだった。だから俺たちにとって「マラソン走者のトレーニング真っ只中」でいることは良いことだったんだ。(続く)

    Metallica.com(2018-11-12)

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    「Worldwired Tour」真っ最中のメタリカ。その合間にカーク・ハメットが電話インタビューを受けていました。管理人拙訳にてご紹介。

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    カーク・ハメットはギターヒーローである。実にシンプルだ。メタリカの伝説は35年間、感受性の強い若者を圧倒し、地平を広げてきた音楽とスタイルにある。彼の情熱と個性、華麗さや繊細さ、メロディー哲学と積極的な熱意は無数の若者に6弦楽器を手に取る動機を与えてきた。60年代後半から70年代にかけて、カリフォルニアで育ったカークにとって、彼の最初の動機付けとなった人は驚くべきものではない。

    「ジミ・ヘンドリックスのドキュメンタリー映画を最初に観た時、彼が視覚的にどんなだったか、どんな弾き方をしていたか、彼の演奏に関係しているものがどんなだったかを、実際に観て度肝を抜かれたんだ。」彼はメタリカの欧州ツアーでの短期間の休暇中に行った電話インタビューでそう回想する。「どれだけ芸術的だったんだと感銘を受けたよ。彼は完全な創造的エネルギーで、エレキギターで彼が望むものを何でも自由にしてみせることができるように見えた。自分の居場所をみつけようとしていた少年の俺にとって、とても魅力的だったんだ。“あれが俺のやりたいことだ!”って思ったよ。それから(レッド・ツェッペリンのコンサート映画である)『The Song Remains The Same』をその頃に見て、ツェッペリンの壮大なステージを見た。あの視覚的なインパクトといったら…あれで音楽はより大きなものになっていった。俺は自分の将来像を永久にヘンドリックスとツェッペリンに決めたんだ!」

    こうして触発されたカークはギターを手に取り、1979年に彼は初めてのバンドを組んだ。エクソダスだ。初期の段階から、10代のギタリストは自身の素材を生み出していた。その過程でヘヴィメタルの歴史の一部となる曲を書いていたのである。

    「1つのリフ、それから付随する2つ以上のものが浮かんできて、メンバーに見せるんだ。俺たちはすぐにそれを演奏していた。なぜなら弾くこと以外の手は何もなかったからね!」愛嬌のある鼻息を鳴らしながら彼はそう強調した。「数曲を(練習して)自分たちのものにしたら、自分たちが落ち着く音楽的基盤があるように感じた。今も俺にとっては同じことで、誰のためでもない楽曲を持っていると、良い感じでね。何かを思いついて部屋に入って、何かを携えて部屋から出てくるときはいつだって、リフやメロディーやコード進行、または何か2つの組み合わせ、そういったものから来る大きな満足感でいっぱいなんだ。とても力がみなぎる。何もないところから何かを創り出したように感じる、その価値は本当に莫大だよ。本当に。いつもみんなに言うんだ。“自分自身のものを作れ!そうだ、聴いてみよう。世界にはもっと音楽が必要だ”ってね。」

    世界は聴いていた。エクソダスが自分たちの曲をライヴで演奏し始めた時、「Die By His Hand」「Impaler」を含むカークの作曲は、爆発的な何かが醸成されていて、メタルを永遠に変えるようなサウンドを形作るのを手助けしていたことは明らかだ。エクソダスの曲は、イギリスから来た新世代のメタルに触発されたものだったが、ベイエリアの若者たちは喜んで、より速く、よりアグレッシヴにしてみせた。

    「NWOBHMは自分たちのギタースタイルを形作った。ああいうテクニックはイギリスから来たものだ。」カークは80年代初頭に最も急進的なサウンドをどのように先導したのかを説明する。「だから俺たちはエリック・クラプトンやジェフ・ベック、ジミー・ペイジを聴いて育ったようなヤツらがやっているようには聴こえなかった。俺たちはB.B.キングは聴かなかった。完璧に別のルーツから来ていたんだ。だから俺たちは際立っていたんだよ。際立っていた間口はたったの2、3年。それが世代間の違いだった。俺よりほんの2歳上のミュージシャンには、そのスタイルやギター演奏を聴きたくもなかったのがいたんだ。」

    カークの仲間たちにはこの斬新なスタイルで苦労している者もいたが、両親はもっと困惑していた。「あぁ、俺の家族はそれを嫌っていたね。」とカークは笑い、恐ろしい父親の印象について話し始めた。「“その男が叫んでいる音楽をかけるな!”って。その叫んでいる男っていうのはポール・ディアノだった!あるいはモーターヘッドをかけていたら、家じゅうのみんなを追い出したりしたっけ。友人たちに嫌な気持ちにさせられることもあった。俺がそういうものを聴いていると“おいおい、こんなものが好きなのか?”ときた。そいつらのなかにはしばらくして俺と話をしなくなったヤツもいる。当時そんなにおかしかったのか?」

    家族や友人たちの賛同を得られずにも関わらず、カークは急成長しているシーンのなかでキープレイヤーとして名をあげていた。1983年にはデイヴ・ムステインの入れ替えでメタリカに加入するという急な話を受けた。当時メタリカはアンダーグラウンドのメタル界において最もホットなバンドであり、アンダーグラウンドのメタル界で最もホットなデビューとなる『Kill 'Em All』のレコーディング前夜だった。脅威的な状況で、かろうじて20代になったばかりの男の自信と成熟によって処理されたのである。

    「すでにたくさんの素晴らしい楽曲のあるバンドに入ったから、自分を強化しないといけないと感じていた。」と認めるカーク。「でもすでに自分が書いていたリフのなかにはとてもすごいリフがあると自負していたから、その過程に自分をどう組み込んでいくかという問題だけだったんだ。でもメタリカの一番良いところは、“高校の頃に始めたバンド”よりも、このメンバーたちと一緒にいる方がピッタリくると感じたってことだね。それは俺にとってほろ苦いことだったけれども、それが現実だった。この音楽の旅路を続けたかったら、信念を貫かなくちゃいけなかった。だからメタリカに入ったんだ。0.001秒から意気投合した。同じ場所から来て、同じものを聴いて、同じ美学、同じ耳を持っていた。だからそれは自然なことだったよ。」

    ジェイムズ・ヘットフィールドのクランチギターに並行して、カーク・ハメットのブルースなリックと歌いやすいリードは、メタリカのサウンドを強力なものにしている。それは彼(の加入)が当初の計画にはなかったと考えるにはいまだに不可思議に思える。それからもちろん、カークの最も象徴的な特徴、つまり彼の愛するワウペダルがある。

    「俺にとってワウは人間の声に似ている。」彼は自分の大好きなオモチャのことをよくわかっている。「いかにも“ワウのサウンドです”っていうんじゃなく、その瞬間にどんなふうに感じてもトーンを操作できるってことなんだ。実際、自分のより深い部分とより良い繋がりを創り出している。ヘンドリックスは実際にワウペダルを使っているのを聴いた最初の人ではなかった。それはシン・リジィのブライアン・ロバートソンなんだ!『Jailbreak』の「Warriors」って曲で気づいたのが最初だった。彼は2、3の音をワウで出していて、俺は友だちに言ったんだ。“あれは何なんだ!?”彼は“あれはワウペダルだよ”ってね。“すげぇ最高!”って俺の心に刻まれたよ。」

    メタリカがメタル界で最大のバンドとみなすサウンドにおいて、彼が要となるのを手助けとなったワウペダルは彼のトレードマークとなった。何年もかけて進化し、適応し続けてきたサウンド、そして2003年の『St.Anger』では、そのカークの特質、つまりギターソロがバッサリ落とされて、かつてないほど論争の的となった。彼はその当時、強く反対し、彼の嫌悪感は落ち着くどころではなかった。

    「当時はそれが適切だったんだろうけど、振り返ってみると、あれは今もってそれほど適切ではなかったようだね!」カークはゆっくりと語った。「俺はいつだってあれに反対するだろうけど、あのアルバムの後にメッセージが帰ってきたと思う。メタリカにはソロが必要だ!ってね。みんなはそれを聴くのを楽しみにしている。だから俺にとっては奇妙な弁明だった。」

    2003年の流行りがギターソロに反対だったが、2018年の流行りはまるっきりギター反対になっているように見える。我々の会話はギブソンが破産した翌日に行っていた。昔ながらの6弦が直面している問題について訊ねると、カークは怒るというより傷ついているようだった。

    「俺はそれが何なのかわからないけど、みんながギターに違う光を見ていると思える。そしてサンプラーやその他のクソのためにその座を明け渡しているようだ。それは時代の兆しなんだろう。すべての楽器がそうであるように、流行りから外れる時はある。80年代初頭、ギターは80年代半ばに再登場した時ほど人気はなかった。俺たちはギターで実際に音楽を創る行為に熱意がある限り、そこから何が起きるか見ていく。俺にとって悲しいニュースだけど、ギブソンが勝つことを願っているよ。彼らは過去にもそうだったんだから。」

    ギターの衰退の証拠は我々の周りにあるが、まだ各ギタリストの運指に喜び取りつかれている、激しい聴衆がいる。彼らはカークがソロアルバムに取り組む日を今か今かと待っている。それについてはどうなのだろうか?

    「俺はあまりに多くの材料を持っているけど、それは明らかにメタリカのものではない。その山はますます大きくなっている。近いうちに正しいと感じる時が来たらね。」カークは考えにふけった。「俺はまだメタリカに寄与できることがたくさんあると感じている。それがもっと仕上がったら、他のことをやろうと思うかもしれない。」温めている彼のテーマ、カークはソロアルバムのLPに我々が何を期待すべきかを検討してくれた。「それはまったくメタルアルバムのようにはならないだろうね。」彼はそう認める。「スタイルはとても奇妙で広範囲なものになるだろうけど、それと同時にまとまったものになると思う。俺はもし俺たち全員がソロをやって独立した自主的な何かをやっても驚きはしないだろうね。それは健康的だし、それどころかバンドに戻る時には、もっと熱意を持って戻ってくることになるだろうし。ちょっとキャンプ旅行に行く感じがするし、いつだって家に戻って暖かいベッドに帰るのはいいもんだよ!」

    物思いにふけって、我々の会話が途絶えてきたなか、カークは自身の楽器がスピリチュアルな凄さが彼にとって何を意味するのかについて考えていた。「自分はギターをラウドにアグレッシヴに弾くために生きている」と彼は強調する。「俺にとって治療的な効果がある。魂の大きな穴を埋めてくれる。手にした最初の日からそうだったし、いまだに上達している。まだ頂点を極めたとは思ってない。発見と経験を繰り返す長い音楽の道だ。音楽的に自分は今まで一番良い場所にいて、とても幸運だと感じているよ。すぐにピークに達する人もいるけど、それだと若かった時のことをやってもやり直しはきかない。自分は続けていきたいし、現状に満足なんかせずに、いつも将来に目を向けているよ。」

    Metal Hammer(2018-09-26)

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