メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:KillEmAll

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    公式サイトでも発表がありましたが、最も日本語で詳しく書かれていたNMEさんの記事を転載させてもらいます。

    メタリカ、名作『メタル・マスター』について語った書籍の表紙が公開に

    メタリカが、2016年秋に発売を予定している、1986年発売のアルバム『メタル・マスター』についての書籍『バック・トゥ・ザ・フロント』の表紙デザインを公開している。

    デザインはオリジナルのアルバムをやや意識したもので、マリオネットの糸にぶらりと吊られた男が、麦の生い茂る草原に立ち、激しく燃える炎を遠くから眺めている様子が描かれている。

    著者はマット・テイラーで、『メタル・マスター』の制作秘話と、このアルバム発売に続いて行われた大規模なダメージ・インク・ツアーに関する話が収録されている。執筆にあたったマット・テイラーは、バンドから100%の協力を得たほか、1980年代中旬にバンドと深く関わりのあった人物たちのインタヴューにも成功している。

    back_to_the_front

    本の中で取り上げられる予定とされるのは、『メタル・マスター』のプロデューサーであるフレミング・ラスムッセンとミキサーのマイケル・ワグナー、マネージャーのクリフ・バーンスタインとピーター・メンチ、そしてツアーのロード・クルーとサポートアクトも務めたアンスラックスとアーマード・セイントのメンバーたちだ。また、ダイアモンド・ヘッドのブライアン・タトラーや、フェイス・ノー・モアのギタリストであるジム・マーティンとドラマーのマイク・ボーディンもこの本の制作に協力している。

    さらに、ダメージ・インク・ツアーでヨーロッパを訪れていた1986年9月に、バスの事故で亡くなったバンドの元ベーシストであるクリフ・バートンの父親、レイ・バートンの独占インタヴューも掲載されるという。

    また、『バック・トゥ・ザ・フロント』には、2014年に本の構想を発表した際、バンドがファンに協力を呼びかけて集まった写真や回想録が含まれるなど、多くのファンのサポートを得たものとなっている。メタリカのメンバーたちも、この本のために自分のコレクションを掘り返し、「個人的な記録から集めた何百枚もの未公開画像」を提供しているという。

    本の発売日は、まだ発表されていない。『メタル・マスター』は来年の3月に発売から30周年を迎える。

    NME(2015-12-11)

    メタリカのいわゆるバイオグラフィーとして出された書籍は数多ありますが、本人たちが直接関わって制作されるものは今回が初めてです。

    この本のために昔の写真や映像を募集していた当初は、2015年秋には目にすることできるようなことが書いてありましたが、、とりあえず表紙は目にすることができました。
    https://metallica.com/blog/news/346179/wanted-your-memories-and-snapshots-from-the-master

    その後に発表があった『Kill 'Em All』『Ride The Lightning』のデラックスリマスター版についても進捗が遅れているようですが、作業は進んでいるのでしょうか??
    https://metallica.com/blog/news/345717/wanted-your-audio-recordings-videos-and-snapshots-

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    続きが気になっていた方、お待たせしました。ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第4章2回目です。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)メタリカにとってのキーパーソン、フレミング・ラスムッセンも登場します。有志英訳を管理人拙訳にて。

    - 次のステップ -

    知っての通り、良いビジネスマンは他のみんなより先にアイデアを考え出す。ニューヨーク市にあった大きな多国籍レコード・レーベル、エレクトラ・レコードのマイケル・アラゴの場合もそうだ。この若きマネージャーは1年前に雇われ、『Kill 'Em All』は発売以来、彼のターンテーブルでかかりっぱなしだった。アラゴは真新しくてスカッとするヘッドバンギングと共にみぞおちに一撃食らわされた、この異形でとても激しいメタルに病み付きになっていた。メタリカには投資する価値がある、メタリカが「唯一の」インディペンデントなバンドであると確かに気付いていた。しかしながら、彼は思い切ってアプローチして、強力な国際レーベルのエレクトラにメタリカがサインをする準備ができているとは感じなかった。この壮大なメタルガイたちは「ありふれた一般人」に向けて演奏してはいなかったし、ましてやたいてい次のデュラン・デュランやヒューマン・リーグを探しているようなメジャー・レーベル向けでもなかった。エレクトロ・ポップのヒットは多くの若者向けであったが、高速で急進的なヘヴィメタル・ヴァージョンはそうではなかったのだ。

    しかし、マイケル・アラゴはすぐに行動に移した。1984年の初頭にラーズに連絡を取ったのだ。『Kill 'Em All』でバンドにいくらかのお金が入ってきたおかげで、(メンバーの住む)メタリマンションには電話とテレビの両方が備え付けられていた。

    「私はメタリカが大好きであるということ、そして絶対にメタリカとサインを交わさなければならないということを彼に告げた。」アラゴは回想する。(クリス・クロッカー著『The Frayed Ends Of Metal』(1993刊行)より)

    この時、ラーズは自信をより深め、バンドを集めて東海岸へ出発した。ラーズはアラゴに、バンドが次にニューヨークに行く時に連絡を取るよう約束した。すでにラーズにはある見通しがあったのだ。(実際、メタリカ出演の全ライヴで、ラーズはいつだってそのような見通しを持っていた。)メタリカはニューヨークのクラブ、ローズランドで、良き仲間であり地元ニューヨークのバンド、アンスラックスとレイヴン(メタリカが現れる前まで、アラゴが契約を考えていたもうひとつのバンドである)と共に夏のあいだに一度、出演する予定だった。

    マイケル・アラゴは、メタリカがマンハッタンでライヴを行っている時に要点をもちろん伝えるつもりだった。しかし、メタリカには別の予定が先にやって来てしまった。ヨーロッパだ。ラーズは『Kill 'Em All』時代から確固たる前進をメタリカにもたらすであろう計画を携えていた。最初に『Kill 'Em All』でヨーロッパにメタリカが創り出した喧騒を受ける形でバンドのツアーを行う。それから次のアルバムに取り掛かる。そしてまた同じようにツアーをするのだ。

    1984年2月3日、メタリカは初のヨーロッパツアーをチューリッヒから開始した。ツアーは「Seven Dates Of Hell(地獄の7日間)」と呼ばれ、メタリカは、ダークで荒々しいブリティッシュ・ブラックメタルのパイオニアであり、草創期メタリカのインスピレーションの源でもあったヴェノムとライヴを行った。最後から2番目の「地獄の日」には、オランダのズヴォレで初めてフェスティバルに出演した。このフェスティバルはオランダのヘヴィメタル誌「Aardschok」(オランダ語で地震の意)によって企画されたものだった。同雑誌記者のメタル・マイクは『No Life Til Leather』のデモが出回り始めた時には、すでにメタリカを称賛していた。Aardschokショーは特別なものとなった。それは6000人の荒ぶるヘヴィメタルファンたちが、新しいヘヴィメタルのヒーローたちと同類のバンドを褒め称え、拍手を送ったことも、もちろんあるだろう。

    ベルギーで終えた「Seven Dates Of Hell」ツアーから数日経ち、メタリカはコペンハーゲンへと飛んだ。そこで、テキパキとコトを進めるラーズはアルバム・レコーディングを行うため、適切なプロデューサーとエンジニアのいる手頃なスタジオを予約した。おそらくコペンハーゲンで安く、あるいは無料で生活することだってできたはずだ。低予算はまだメタリカにとってのキーワードだった。モチベーションも熱意も夢もビジョンもあったが、金はなかった。

    しかしコペンハーゲンでのレコーディングに対するモチベーションは、コストをかけないようにするには程遠かった。レインボーのアルバム『Difficult To Cure(邦題:アイ・サレンダー)』(1981)でベテランギタリストのリッチー・ブラックモアが前面に出るプロダクションを、ラーズは「めちゃくちゃ良い」と思っていた。そのアルバムはディープ・パープルのベーシスト、ロジャー・グローヴァーによってアマー島にあるスウィート・サイレンス・スタジオでプロデュースされている。そこではフレミング・ラスムッセンという名の男がエンジニアとして働いていた。フレミングのエンジニア、プロデューサーとしての経歴は70年代にもっと大人しいアルバムのプロダクションですでに始まっていた。Savage Rose、Pia Raug、Rasmus Lyberth、Bifrostといったアーティストとともに。それから後、The SodsとLost Kidsのデンマーク初のパンクアルバム、そして前述したブラッツの1980年のデビューアルバムも手がけていた。

    フレミングのスタジオはStrandlods通り85番地(85 Strandlodsvej)にある、コペンハーゲン中心街よりもスウェーデン南部のスコーネ地方の方がよく見える場所にあった。とある日、スタジオの電話が鳴った。知っている依頼人だろうか?ラスムッセンは電話を取った。受話器の向こうから聴こえたのは、はるばるカルフォルニアからの熱心なデンマーク人の声だった。

    「ラーズは私がアルバムを制作することに興味があるかどうか、スタジオを使うのにいくらかかるのかを尋ねるために電話をしてきた。」とフレミングは回想する。「彼らはプロダクションの手助けもできるエンジニアを探していた。私がレインボーと一緒に仕事をしたのを聞いていて、良いものだと思っていた。」「私は当時、彼らが何者なのか全く知らなかった。『Kill 'Em All』でここらの多くの人たちも知っていたとは思えなかった。少なくとも『Ride The Lightning』の前までは。メタリカはまだ本当にハードコアなメタルファンのものだったんだ。私はその一員ではなかったし、それまでもその一員になったこともなかった。」

    しかしフレミングはラーズのようにディープ・パープルの昔からのファンであり、プロのプロデューサーであり、エンジニアであった。そして仕事ができると考えた。故に彼はこの一部デンマーク人のヘヴィメタルバンドをプロデュースするというオファーを受けたのだ。

    「彼らは前払いしてきた。我々は知りもしないバンドを一ヶ月前にブッキングしたんだ。そして彼らは海を越えてやってきた。」フレミングはそう付け加えた。彼にはバンドのデモテープと『Kill 'Em All』が送られた。

    「こりゃヒドいなと思ったのを覚えているよ。」フレミングは笑みを浮かべ、新しいタバコに火をつけてそう言った。「なぜなら・・・あんなにファストだなんてわかるかい?当時あれだけファストに演奏していた人はそう多くなかった。」

    一方、コペンハーゲンの別の地域ではケン・アンソニーがメタリカとそのスピードについて正反対のことを思っていた。ラーズとメタリカはケンのスピードを必要としていたのだ。

    ケン・アンソニー「ラーズが俺に電話をかけてきてこう言ったんだ。「コペンハーゲンのホテルを予約できないか?お金を持ってないから、一番安くて安くて安いところでお願い!」俺はあちこちに電話して空きをチェックしたんだけど、結局折り返しの電話で俺はこう言ったんだ。「あのさぁ、おまえら俺のアパートに引っ越せよ!俺はおまえらがいるあいだ、街で彼女と3、4週間住むからさ。そうすればおまえらも節約できるだろ。」そしたらもちろんあいつらはとっても喜んでいたよ。空港であいつらを拾って、俺のアパートに連れてきた。そしてこうさ。「ジャーン、ここがそのアパートだ!」あいつらは一文無しだったから、あいつらのための充分な食べ物があるか確認しなくちゃならなかった。」

    ケンは、後に有名なブレンビュベスターの居住者となる4人のことを話すとニッコリ笑った。

    「他の居住者たちはこう思ったろうね。「何だってこんなところに4人の男が住むんだ!?」バンドは日中はスタジオで演奏して、夜にアパートに帰ってきた。俺は何千ものヘヴィメタルのレコードと大量のホラー映画を持ってたから、あいつらは夜毎、ヘヴィメタルを聴き、ホラー映画を観ていたよ。俺の両親も同じ建物に住んでいたんだけど、アパートの一階に夜になると騒がしい若者がいると文句を言っていたよ。だから俺は様子を観に行かなくちゃならなかった。アパートはさながら戦場のようだったよ!さすがに俺も少しイラついたけど、あいつらときたらただこう応えるだけさ。「やぁ・・・すげぇなこれ・・・ロックしようぜ、ケン!」俺もそんなロックバンド生活が楽しいと思っていた。俺たちは時々出かけて、とても楽しい時間を過ごした。でもあいつらはレコード制作に忙しかったんだ。」

    ケンはニヤリと笑って自分のアパートを取り戻した日のことを話した。「俺がアパートに戻った時、母が掃除に来るほど散らかし放題だったよ。一番可笑しかったのは、母がバスタブを掃除した時だね。メタリカの各メンバーのズラが出来るほど排水口に髪が落ちていたんだ。クレイジーだったね。あと覚えているのは、コーヒーテーブルの上に数本抜き取られた1パックのビールとメモ書きが置いてあって、そこにはこうあった。「ありがとう、大変お世話になりました!」とね。」

    このアパートはブレンビュベスターのKirkebjerg通り113番地(113 Kirkebjerg Alle)にある。(ジェイムズはバンドのリードギタリストになぞらえて、「カーク」ebjerg通りと呼んでいた。)この場所はラーズにとって、音楽の師のもとにたくさん訪れたいい思い出しかない。

    「クソ最高なケンが自分のアパートに俺たちを泊めてくれたんだ。あそこで暮らしたのは本当に楽しかった。あれより3年前にはケンのファンとしてあそこに行っていたんだからね。そして今や彼のファンとしてではなかったが、自分の世界を確立して戻ってきたのさ。」ラーズはブレンビュベスターへのバンドの短い滞在についてこう語った。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    metallicadaddy_stor
    フレミング・ラスムッセン(2007年頃)

    ちなみに現在のスウィート・サイレンス・スタジオはメタリカがレコーディングしていた当時の場所にありません。文中のStrandlods通り85番地(85 Strandlodsvej)は以前スタジオがあった場所。現在、スタジオとしては使われていませんが、建物自体は残っているようです。
    sweetsilencestudio
    GoogleMapより

    以前のスタジオのホームページも残っています。
    http://www.sweet-silence.dk/

    現在のスウィート・サイレンス・スタジオのページはこちら。
    http://fwrproduction.com/FWR_Produktion/FWR.html

    Venomとの共演を果たしたAardschokのフェスについては、実際に行った方のこちらのページが詳しいです。チケットやポスター、Tシャツの画像が拝めます。(英語表記のみ)
    http://www.livemusicandstuff.com/1984-02-11-aardschokdag.html

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    更新ご無沙汰してます。
    今回は、昨年からご紹介してきたラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の続きを。ようやく第4章に入りました。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。

    Metallica

    1983年の晩夏から秋にかけて、メタリカはジョニーZの手がけるメタルバンドのひとつ、レイヴンと初めてのツアー「Kill 'Em All for One」を行った。予算は低く、1日1人当たり約5ドルの安ホテルに4人同じ部屋に入れられた。稀にたった100人しか現れなかったオクラホマで14,000席のアリーナが用意されたように余分にブッキングされた場所もあったが。ツアーは彼らのホームであるベイエリアの3つのコンサートで終えた。ツアーバスに『No Life 'Til Frisco』(「Hit The Lights」の歌詞やモーターヘッドの1981年の伝説的アルバムのタイトル『No Sleep 'Til Hammersmith』のもじり)とペイントされたツアーバスがバンドを奮起させた。

    「Kill Em All for One」ツアーの生活はメタリカの4人が夢見た生活であった。ツアーの真っ只中にいるということが、どんなに刺激的であるかがわかったのだ。ファンの家の棚にある『Kill Em All』によって、これまでよりも新しくソリッドなヘヴィ・メタルのムーブメントが高まっていた。ファンの小集団はメタリカをショーからショーへとアメリカ中を追いかけた。それからパーティー、酒、マリファナ、そしてバンドが大好きで淫らな若いレディーたちとお酒や一夜を共にしたりした。4人のバンドメンバーはホテルのベッドや酒、あるいは女性を分かち合うことを気にすることはなかった。

    最初のビールはショーの前の昼過ぎには開けられていた。メタリカは酔っ払っていたが、決してそんな姿を互いにステージには持ち込まなかった。1983年当時の他のバンドでは、これほどショーの前や真っ最中のビール何杯かで大きな違いが生まれるようなことのない、ヘヴィメタルで最もタイトでテクニカルなオーケストラにはなりえなかった。さらにセットリストは『Kill Em All』収録の悪魔のような曲のバリエーション、そしてセルジオ・レオーネ監督のウェスタンの名作『続・夕陽のガンマン』のために書かれたエンニオ・モリコーネの曲「The Ecstasy of Gold」という不変のイントロがテープで流されることによっていろんな対処が可能となった。

    メタリカは若く、騒々しく、エネルギーに満ちていた。恍惚の幸せな今を楽しむ怒涛のツアーで新しく激しい生活を送った。そんななかでもすでに、最初のアルバムとツアーでラーズはメタリカのビジネスマンとみなされていた。ビジネスマンには宣伝と広報、つまりマスコミ報道とファンとの永続的な関係が必要だった。バンドが始まった最初の日から、ラーズは最も熱狂的なファンとしての経験、メタルや自身のバンドであるメタリカへの初期衝動をプロジェクトに持ち込んできた。

    ラーズはメタリカの天性のスポークスマンだった。ファンからファンへ言葉を広げる時には話しぶりが特に重要だ。ラーズのモーターのような口は自由自在に走り回り、どのファンジンの記者も読者に届けるには充分すぎるほどの話を聞くことができた。アンダーグラウンド・シーンにおいてラーズの話したいという単純な欲望は、常に新しいサブカルチャーから始まる新しいバンドへの無関心という沈黙の壁をぶち壊す強烈な一撃となった。彼はアンダーグラウンドからどうにか全注目を浴びることができたのだ。俺たちにはラーズ・ウルリッヒとメタリカがいると。

    ラーズは魅力的かつ真っ直ぐに自身と自分のバンドについて熱心に話した。彼にも素晴らしい経歴があった。ラーズはステージ上にいる他の全てのバンドと同じくヘヴィメタルの大ファンであったが、メタリカは全メタル・シーンに火をつけ、音楽やバンドの美学に関するこれまでの基準や限界を変えようとしていたのだ。

    80年代中頃の新しいヘヴィメタルバンドがうねる大海のなかで、もしメタリカが新手の瞬間的な大波以上の存在となれば、ビジネスはうまくいくとラーズはわかっていた。この時、メタリカのビジネスは契約とジョニーZのブレイクさせる能力の下で行われていた。((訳注:ジリ貧だったため)「枯れ井戸」がメタリカや彼が手がけたその他のバンドから呼ばれていたジョニーZのあだ名だった。)独立系の販路を含め、アルバムの売上げも充分よかった。そしてメタリカの「Metal Up Your Ass」Tシャツ(限りなく美しい、便器から(訳注:剣が握られた)突き上げられた拳のデザイン)はファンのあいだで既にカルト的なアイテムとなっていた。しかし、多くのお金がプロモーションのツアーとアルバムのレコーディングに使われてしまったため、『Kill 'Em All』はメタリカやジョニーZと彼のクレイズド・マネージメントにとってすぐに金の卵とはならなかった。もちろん、この段階のバンドにとっては上々だったが、世界征服の遂行は言うまでもなく、さらなる拡大すらとてもポジティヴにとはいかなかった。

    ラーズ・ウルリッヒは完全にそれに気付いていた。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    まだ第4章の前置き感が否めない内容ですが、続きではメジャー・レーベルとの契約や『Ride The Lightning』の制作についての話が出てきます。続きはいましばらくお待ちください・・・。

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    スコット・イアン、メタリカのデイヴ・ムステイン解雇、カーク・ハメット加入の逸話を語る。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章完結編。有志英訳を管理人拙訳にて。前回予告どおり、デイヴ・ムステインの解雇、カーク・ハメットのメタリカ加入、そして『Kill 'Em All』のリリースまで。

    - レコード契約(後編) -

    言い伝えによれば、ジョニーZはすぐに店を飛び出し、電話ボックスをみつけて、この明らかに(どこのレコード会社の契約)サインのないバンドを探し始めた。さらに言い伝えによると、ジョニーZはそれからメタリカに興味を示していることを昔からの仲間でありファンジン編集者のロン・クインターナに伝えたという。ロンは、メタリマンションにいたラーズとバンドにその情報を提供した。そこにはギタリスト、マイケル・シェンカーのクールなポスターはあったが、ひとつの電話もなかったのだ。すばらしいことだが、メタリカの経歴の最も重要なこの部分のあまりにドラマ仕立てにされた説明でもある。少なくともラーズ・ウルリッヒはジョニーZが自分を造作もなく見つけたと振り返る。

    「俺たちはメタリマンションで電話を持っていた。でも電話代を払っていなかった期間だったかもしれないね(笑)通常、電話を持っていた時には、俺たちまでたどり着くのはそんなに不可能なことではなかった。」ラーズはそう語り、自分の考えるレコード契約への道のりについて続けて語る。

    「ジョニーZが電話してきた時、彼は2つのことに本当に熱心になっていた。(1つは)俺たちに東海岸でコンサートをさせたがっていた。そして、俺たちに東海岸でレコードを作らせたがっていた。俺たちはちょっとした旅行の準備くらいメチャクチャできていた。さらに俺たちが興味を持ったのは、彼の働きかけでヴェノムが4月にニューヨークでライヴをすることになりそうだってことだった。俺たちはヴェノムの大ファンだったからね。その当時俺たちはテープのトレードがうまくいきだして、東海岸からのファンメールも届き始めていた。だから俺たちはそこで始まろうとしていることにもう夢中になったよ。それにジョニーZは面白そうな人だったしね。俺たちがつかんだチャンスだった。俺たちは契約も何もなかったから。」

    メタリカにはお金はなかったが、大きな野心があった。『No Life Til Leather』が好評だったことと、とりわけジョニーZが野心を植えつけてくれたおかげで。選択肢はもはや明白だった。4月1日、バンドはUホールで車を借りて、アメリカ大陸の向こう側、もっと具体的に言えば、エルセリートのメタリマンションから4,726キロ離れたクイーンズにあるミュージック・ビルディングに向かった。

    ラーズ・ウルリッヒ「ジョニーZはいくらかお金を送ってくれた。ほんの少しのお金だったけど、Uホールで車を借りて自分たちの持ち物を突っ込むには充分だった。バンの後ろはたぶん5から6フィート(訳注:1.5〜1.8メートル)くらいあったかな。そこに自分たちの機材、スーツケース、安いマットレスを入れたんだ。全然豪華じゃなかったよ。ジェイムズとデイヴが前に座って運転して、クリフとマーク・ウィテカーと俺が後ろのマットレスの上でマーシャル・アンプとか俺のドラムセットに囲まれて、横になったり寝たりしていた。俺たちが出入りできたのは、誰かが後部ドアを開けた時だけだ。運転中、12時間暗闇の中で過ごした。唯一の明かりはクリフのライターだけだったね。そんな感じでサンフランシスコからニューヨークまでちょっと刺激的でハッピーな数日があったんだ。」

    ジェイムズ、ラーズ、クリフ、マークがバンドのトラブルメーカーにうんざりする日もあった。デイヴ・ムステインは自分が運転しなければならない時でさえ、かなり酔っ払っていた。酔っていると、雪だまりにバンを突っ込んだり、マークにケンカをふっかける時さえあった。

    ラーズ「西海岸から東海岸への旅で俺たちはデイヴ・ムステインの邪悪な面を見た。彼はあまりに予測不能で、あまりに飲酒その他もろもろ羽目を外しすぎたんで、おそらくそこで俺たちが決めたんだと思う。ジョニーZに会ったその日に、たしか俺はジョニーに、バンドあるいはバンドのうちたった一人のメンバーが東海岸に戻る交通費を払ってもらわないといけないと伝えなければならなかった。俺たちはデイヴをクビにしなくちゃいけないかもと考えていたからね。」

    もうひとつの「実務上の問題」もあった。ザズーラ夫妻は既に彼らの2人の子どもと共にいくつかのバンドにスペースを占有されていた。メタリカはミュージック・ビルディングに引越し、地元ニューヨークのバンド、アンスラックスとリハーサル室を共有した。彼らとメタリカはすぐに友だちになった。アンスラックスはこの貧乏なメタルバンドをヒーター、冷蔵庫、ある時は少しの食べ物によって手助けした。ミュージック・ビルディングの地区に出回っていた麻薬はバンドにとって大きな関心を寄せるものにはならなかった。

    彼らのヘヴィメタルの野心は、明らかに低予算の宿泊施設に基づいていた。特にヘレルプとその他の世界に慣れていた若者にとっては。しかしミュージック・ビルディングの半ば哀れな生活はラーズと今や有望株の彼のバンドにとって最も差し迫った問題ではなかった。日曜の夜、ヴァンデンバーグとザ・ロッズのサポートで行われたバンドのショーの後、バンドにおけるムステインの将来はもはや論議することではなくなった。手に負えないデイヴを追い払わなければならなかったのだ。しかしそれを誰が彼に告げるのか?次の日の朝、バンドはジェイムズをその役に選んだ。ジェイムズは寝ているデイヴの肩をつつき、手厳しい言葉で起こした。「俺たちは決めたんだ・・・おまえはもうこのバンドの人間じゃない!」西に向かうグレイハウンズの始発バスが出発する2時間前だった。長い別れへの理由は何もなかった。彼らは全員先へ進んだのだ。

    ラーズはこの悲しくも必要だったエピソードについて説明する。「時おり彼はちょっと羽目を外すことがあった。(そんな状態で)彼が予測もできなかったことに直面したらどうなっちまうんだろう?ってね。それで俺たちは彼を早朝に起こして、サンフランシスコ行きのグレイハウンドのバスにできるだけ早く乗せた方がいいと決めたんだ。彼が何が起きようとしているのか完全に理解する前にね。それで彼はバンドから放り出されて、4時間のフライトの代わりにあの忌まわしいバスで3日間不機嫌に過ごさなければならなかった。でも当時、俺たちには(航空)チケットを買うお金がなかったんだ。俺はデイヴと一番仲が良かったし、おそらく彼と一番緊密な友情関係があったと思う。だから俺にとって彼にそんなことを告げるのはあまりに難しいことだと思っていた。クリフはまだ新メンバーでバンドに来て5、6週間しか経っていなかった。だから俺たちが言わなくちゃいけないことを言う資格はなかった。そうしてジェイムズが担当者として選ばれた。でも俺たちはみんなジェイムズと一緒にいたんだ。ジェイムズ一人でやることじゃないからね。」

    しかしながら、ラーズ、ジェイムズ、クリフ、そしてマークにとって悲しい状況だった。とりわけ、その経験と紛れもないギターの才能によって確かな成果をバンドに持ち込んでくれたデイヴと1年以上過ごしたラーズとジェイムズにとっては。創造性とユーモアで満たされたギャングな日々はそう多くなかった。全員マンハッタンの観光に行き、変わっていったメンバー編成のなかでも飲み続けていた物、ウォッカを飲んで酔っ払った。

    しかしメタリカは運を持っていた。タイミングが良かったのだ。バンドが優先したギタリストの選択肢、カーク・ハメットはチャンスをつかむ準備ができていた。エクソダスにいた彼の人生も悪くなかったが、メタリカと共にアルバムをレコーディングするためニューヨークに飛ぶことを考えた彼は完璧なキャリアアップを果たした。カークはデイヴが去った同じ日の夜に到着した。ミュージック・ビルディングで行われたカークのオーディションはほとんど形式的なものだった。これより数週間前にラーズとジェイムズはカークが『No Life Til Leather』デモを手にできるよう適切に手配した。彼らはカークの特質や音楽の好み、そしてギター・プレイはメタリカの相性や展望によく合っていると確信していた。そして彼らは正しかった。

    「カークは彼のギターとマーシャルのアンプと共にやってきた。デイヴを追い出した日と同じ日に彼とジャム・セッションをしたんだ。俺たちがやった最初の曲は「Seek And Destroy」だった。ソロの途中でジェイムズと俺は互いを見て同時にうなずいたよ。そうやって(オーディションが)行われたのさ。俺たちがムステインを追い出した時、カークはバンドにいなかった。彼は間違いなく最初の選択肢だったんだ。俺たちはそれがうまくいくとかなり自信を持っていたよ。でも月曜日の夜のジャム以前は彼はバンドにいなかった。そこで俺たちは互いに親指を立てて(OKサインを出して)彼にバンドに加わるか尋ねたんだ。」そうラーズは付け加えた。

    カーク・ハメットのジャム・セッションのデビューは最高だった。1週間しないうちに彼はニュージャージー州のドーバーでメタリカとしてのステージ・デビューを果たす。

    カークもメンバー編成の中でサンフランシスコ出身だ(カリフォルニア州サンフランシスコ出身1962年11月18日生まれ)。彼は悪名高いヘイトアシュベリー地区でヒッピー生活を送っている年上の親族と共に育った。そしてその期間にジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、そしてグレイトフル・デッドのような音楽のビッグネームと出会った。15歳でカークはギターを弾き始め、そこで70年代のシン・リジィ、キッス、UFOのようなハードロックバンドに自らのアイデンティティーを見つけた。後にカークはセックス・ピストルズや暴力的なパンクに夢中になった。しかし同時に名手ジョー・サトリアーニを師にもっていた。そこでカークはメロディー、テクニック、スピード、そして攻撃性のあいだの完璧な共生関係を有効に探すことができた。1981年、カークは初めてのバンド、レジェンド(Legend)を結成する。これは後にエクソダスとなった。

    ジェイムズのように、カークは離婚した家庭の生まれだ。カークの父親は飲んだくれだった。そして、しばしばカークとカークの母親を殴っていた。16歳の誕生日、彼が父親からもらったのは尻に大量に見舞われた蹴りだけだった。カークの父はその後すぐに家からいなくなった。そして母親がカークと彼の妹を育てるためにしっかり奮闘しなければならなかった。彼が10歳の時、カークは隣人に性的虐待を受けた。したがってギターを弾くことはカークにとって間違いなく癒しとなった。トラウマとなった全ての体験は彼を攻撃的で激しいヘヴィメタルの上に立つ怒りへと向かわせた。

    メタリカは最初のアルバムのための大部分の曲を『No Life Til Leather』の曲に基にして書いていた。ついにミュージック・ビルディングで、来たるべき東海岸でのバンドのギグのためにバンドの曲をたくさんリハーサルする時が来たのだ。一方、ジョニーZはレコーディングに使えるスタジオをみつけた。ジョーイ・ディマイオというジョニーZが担当するニューヨークのバンド、マノウォーのベーシストがジョージ・イーストマンのコダック社でよく知られるカナダ国境近くのニューヨーク州ロチェスターにあるスタジオを薦めてきた。そのスタジオは「ミュージック・アメリカ」と呼ばれるマンハッタンのとても(使用料の)高いスタジオ以外の地元のスタジオよりもさらにずっと安かった。ミュージック・アメリカの2階にある大きなホールはラーズのドラムの音に完璧に合っていた。なぜなら「ラーズは不明瞭なドラムの音を出していた」からだとジョニーZは彼を見ていてそう打ち明けた。

    若く熱心なメタルファンがホールでドラムを叩いている間、ジョニーZはニュージャージー州の家に戻って予算に対処するよう頼まれた。ミュージック・アメリカとそのオーナーであり、プロデューサーのポール・カーシオ(に払う金額)はニューヨーク価格からすれば安かったが、全てがそれほど安いわけではなかった。メタリカは5月末まで6週間アルバムをレコーディングした。そしてホームのロック天国で得たレコード売上げから超過金をロチェスターのアルバム制作陣に渡した。ザズーラはこのバンドに本当に一か八か賭けたのだ。しかし、アルバムのセールに関して誤算していた。タレント・スカウトやあらゆる種類のレコード会社にいるA&Rの人々との数え切れないほどのミーティングは何の実りのなく終わった。ジョニーZが身銭を切ってメタリカのアルバムを出さなければならないことが明白となったのだ。

    自身のレコード・レーベルの設立は、ジョニーZの膨大な計画においてこれまでやってこなかったところだった。だが、もはや引き返せない。彼は「この1つのアルバムのために」Megaforceを始めたのだ。ジョニーZ、そしてラーズと彼のバンドにとって幸いなことに、Megaforce Recordsは2つの善意あるディストリビューターと接触した。アメリカのRelativityとニュー・ブリティッシュ・ヘヴィメタル会社、Music For Nationsだ。この会社はニューヨークのバンド、ヴァージン・スティールのリリースでその前の年に始まったレーベルだった。しかし前者は、せっかちな若者がロチェスターでエネルギーをぶちまけた後に思いついたアルバムのタイトルに問題を抱えていた。そのタイトルは『Metal Up Your Ass』だ。

    最初は仮タイトルだったが、バンドは最終的に選んだタイトルとして、もはや本気になっていた。彼らは断固として譲らなかったが、ラーズと彼のバンド、メタリカに音楽業界の本当の状況について少し学ぶ時が来た。メッセージは明らかだった。どうあってもタイトルを『Metal Up Your Ass』することも、提案された妥協案『M.U.Y.A』やその他頼んでもないのに送りつけられた提案に乗ることもできなかった。怒ったクリフは制約を課してくるディストリビューターに対する感情を露にした。「あいつら全員殺っちまえ・・・とにかく殺っちまえ」

    それがタイトルになった。『Kill 'Em All』だ。

    『Kill 'Em All』は7月に発売された。ジェイムズ・ヘットフィールドによってデザインされたバンド・ロゴと無検閲の一節「Metal Up Your Ass」とともに。アルバムは9曲から成り(『No Life 'Til Leather』からさらに発展した6曲を含む)、クリフのソリッドなベースソロも収録されていた。リフを基調としたヘヴィメタルの速い曲が次から次へと繰り出され、使える場所があればすぐにテンポの変化や燃えるようなソロが差し込まれ、メタリカがアメリカのシーンから無視されていると感じてきたヘヴィメタルへの愛の大々的な声明を抒情詩調の領域でもって表現していた。

    全世界的にラーズとメタリカと同じ意見を持った人々がいた。2週間以内で『Kill Em All』は20,000枚近く売れた。それは独立系レーベルのリリースでは全く聞いたことのない数字だった。

    「それまで書いてきた最初の9曲をこのアルバムに使った。次のアルバムでは次にできた9曲を使う。そしてその次も・・・ってね。それがメタリカの世界征服計画なんだ。」とは、ものすごい熱意とものすごく若く陽気な、ほとんど絶え間なくメタリカについて話していそうなラーズの言だ。

    ラーズは明らかに正しかった。そのウィットに富んだ「世界征服」という言葉は。そのうち、曲やレコーディング、メディアやレコード会社とのミーティング、リハーサル、スタジオ(数ヶ月、それから数年)、家からの電話やファックス(時おり)、バンクーバーや全世界へのロードにおける、世界征服への戦いはそう容易くはなくなった。

    しかし、ラーズは全ての準備ができていた。重要な利点である疲れを知らない献身と固い決心を彼は持っていた。最も重要なのは、彼は1983年夏、ついに完全なバンドを持ったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    dave-and-kirk
    メタリカ時代のデイヴ・ムステインとエクソダス時代のカーク・ハメット

    ラーズの認識と裏腹に、カークはこの時点でハッキリと正式メンバーと言われたわけではなかったようで、しばらく自分が正式メンバーなのか助っ人なのかわからなかったそうです(苦笑)

    女手ひとつでカークを育てたお母さんとは今年(2014年)2月のFearFestEvilにいらしていてお会いすることができたのですが、非常にパワフルで可愛らしい方で「この方があのカークを生み育てたのかぁ、なるほど。」と妙に納得したのを覚えています。

    そしてデイヴ・ムステインの解雇については、スコット・イアンが自叙伝で語っているところがあるので、後日紹介します。

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    メタリカ活動初期写真集「The Club Dayz 1982-1984」届きました。

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    少々遅くなりましたが、Metallica.comからのお知らせを管理人拙訳にて。

    2ヶ月と少し前、俺たちは作家マット・テイラーによる決定的な『Master of Puppets』本に対するキミたちの助力を求めていた。そしてキミたちは大々的に期待に応えてくれた。ありがとう!!俺たちはまた キミたちが個人的な持ち物の中から『Kill 'Em All』と『Ride The Lightning』時代の関連グッズを見つけ出して欲しいと思っている。俺たちはこれら2つのアルバムのデラックス・リマスター・バージョンを来たる2015年に準備しているからね。

    俺たちは全てを求めている!まだポケットにすっぽり入るようなサイズになるずっと前にビデオカメラをどうにかコッソリと持ち込んだりしてなかったかい?それともスナップショット用の昔のインスタマチック・カメラ?マイク付のカセット・ウォークマン?俺たちは何でも、全てを探しているんだ・・・音声、ビデオ、写真、フライヤー、チケット半券、フロアで拾ったセットリスト、どんな記念物でもいいからその当時のキミたちが持っているかもしれないものを。submissions@metclub.com までキミの話を共有して、写真、ビデオ、音声記録、その他記念物の投稿についての情報を受け取って、これらのアルバムにキミの印を刻んで欲しい。

    覚えていて欲しいのは、俺たちは全部を求めているってこと(そうキミのもの全部だ)!小さすぎるとか取るに足らないとかそんなものはない・・・キミの仲間と一緒の記録物を共有して、懐かしい思い出を俺たちと一緒に楽しんで欲しい。それを提出することで、キミは俺たちが今度のリリースでキミの歴史の一片を載せるのに使うんだと言えるのさ。(そう、弁護士が俺たちにこの部分の文章を加えろとさ!)

    Kill-'Em-All-Back

    Metallica.com(2014-10-29)

    というわけでリマスター盤発売決定に伴い、そこに収録するための当時の記念物をファンから求めているのでお持ちの方はぜひぜひ。

    そして冒頭に書かれていたリリース30周年(2016年)を記念して発売予定の『Master of Puppets』本についても、こちらで紹介するのをすっかり失念していたのでフォローしておきます。

    こちらもMetallica.comからのお知らせを管理人拙訳にて。

    今年のはじめ、俺たちは作家でありメタリカの大ファンであるマット・テイラーから連絡を受けた。彼は、1974年のマーサズ・ヴィニヤードの島が舞台のスティーヴン・スピルバーグの草分け的映画『ジョーズ』について、極めて称賛し、賞を獲得し、非常に尊敬を集めた報告を書いた人物だ。そして、俺たちが(マットが制作した)『Jaws: Memories from Martha's Vineyard』を観て、その出来栄えと押さえた範囲、細部にまで払われた注意に感動させられた。彼こそがあのアルバムのリリース30周年を祝うのを手助けする男だとわかった。熱心なオブザーバーの中には、俺たちがメタリカについての他の本のほとんどに関係してこなかったことに気付いた人もいるかもしれない。でも、マットの最初の本がめちゃくちゃクールだったから、彼と一緒にやらないといけないんだ!

    マットは俺たち全員、マネージャー、レコード会社スタッフ、当時の知人、そしてクリフのお父さんであるレイ(彼は寛大なことにクリフとの時間の一部を俺たちに与えてくれた)に広範囲なインタビューをするのに忙しかった。しかし、マットはまだ信頼するレコーダーとスキャナーがさらなる物語と写真を探していると言っている。『ジョーズ』でやったように、『Master of Puppets』の本に関するマットの計画は、草の根レベルの当時の雰囲気を反映したアマチュアのファンが撮った写真や物語に重点を置くことだ。そこで、キミたちの出番だ。1986年どうしてた?カメラをショーの1つや2つに隠し持って行かなかったかい?レコード店やバーで俺たちに出会ったかい?当時のギグに行くまで、あるいはキミと仲間との写真について可笑しな話はないかい?俺たちは全てを求めている!!切り取られてる?ぼやけてる?露出過度になってる?俺たちはそれでも持っていくよ!写真、逸話、物語、取るに足らないものなんて一切ない。俺たちは“キミ”にこの本の一部になって欲しい!

    submissions@metclub.com までキミの話を共有して、写真、ビデオ、音声記録、その他記念物の投稿についての情報を受け取って欲しい。提出するものは全部、キミ自身のコレクションじゃなければならない・・・。俺たちが使えるのはキミが撮ったスナップショットだけだ。覚えておいて欲しいのは、覚えていて欲しいのは、俺たちは全部を求めているってこと!小さすぎる、取るに足らない、そんな物語や写真なんてものはない。

    万が一、怪しいと思っている人がいるといけないので、俺たちは提出してもらったものをまとめる予定だ。2015年秋にそれを目にすることができるよう準備している。そしてここをクリックしてマットの最初の本、『Jaws: Memories From Martha’s Vineyard』をチェックしてくれ。

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    Metallica.com(2014-07-31)

    来年以降の予定が発表されて、鬼笑いまくりモードです。『Master of Puppets』リリース後のツアーはメタリカの初来日でもあります。管理人は当時メタリカを知ってすらいなかったので何も協力できなくて残念ですが、日本からも何か送れる人がいるんじゃないかなぁ。

    それにしてもメキシコ公演のDVD『ライヴ・イン・メキシコ 〜栄光の一夜!』(何回書いてもこの邦題キツいな(苦笑))を観た時もちょっと思ったんですが、彼らはファンを巻き込んで一緒に楽しんじゃえみたいな企画を考えるのがうまいですね。

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