メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:Artillery

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章2回目。『Master Of Puppets』を完成させ、舞台はいったん、ラーズの地元デンマークで行われた老舗フェス「ロスキレ・フェスティバル(Roskilde Festival)」へと移ります。管理人拙訳にて。

    - ロスキレ・フェスティバルの舞台裏 -

    1986年6月下旬、メタリカはオジーのツアーから3週間の休みを許された。この休止期間にメタリカは大西洋を飛んで、ヨーロッパの複数のフェスティバルで演奏する機会を得た。それにはオレンジの張り出した屋根が象徴的なロスキレ・フェスティバルが含まれていた。メタリカは日曜日の夜、最後から二番目のバンドとして登場した。実際にHR/HM以外のバンドが参加するコンサートはメタリカにとって初めてのことだった。86年のロスキレで、バンドはエリック・クラプトン、エルビス・コステロ、フィル・コリンズのようなスターたちとポスターの名前を分かち合ったのである。逆に言えば、メタリカはロスキレ・フェスティバルの歴史において初の海外のヘヴィメタルバンドとしてその名を刻んだのだ。(そして間違いなくヘヴィメタルのバンドを入れるかどうかというのが、このフェスティバルの恒例の議題となった。)

    1986年のロスキレ・フェスティバルの日曜日(訳注:1986年7月6日)は素晴らしかった。太陽が一日中顔を出し、すでにとても馴染んでいたメタリカの青年たちはフェスティバルの会場をうろついていた。ジェイムズとクリフは馴染みのツボルグの緑色のビンを手に持って、彼らの仲間であるアーティレリー(Artillery)や一部のファン、そしてファンジンの記者と楽しい時間を過ごしていた。ラーズはどこにいたのか?メタリカについて言いたいことが山ほどあったため、ラーズは(訳注:バンドの控え室である)トレーラーのなかでメディアとやり取りを始めていた。そこで「Scum」「Metallic Beast」といったデンマークのヘヴィメタル・ファンジンや(新聞社の幸せな新入社員ステファン・ヨンガスンに代表される)地元ロスキレの記者にインタビューを受けていたのだ。

    メタリカはデンマークではアンダーグラウンドな存在だった。しかし『Master Of Puppets』のアメリカでの衝撃的な成功によって、ヨーロッパの大手レコード会社から大きな後押しを受けていた。メタリカがロスキレに到着する前にも関わらず、バンドはオランダを基盤とするポリグラム(Polygram)との契約を交わした。それはポリグラムがデンマークを含むヨーロッパで、次のアルバムのミュージック・フォー・ネイションズの配給を飛び越えることを意味していた。

    したがって、ポリグラムのデンマーク支社、マーケティング部のデニス・プログは特別な関心を持ってロスキレのコンサートに来ていた。

    「ロスキレはめちゃくちゃクールだった。地獄のようにキンキンしたけど、ものすごくよかった。」デニス・プログはメタリカのショーをこう語る。そこは(フォーリナー、ヨーロッパ、ボン・ジョヴィといった成功したバンドのクローンである)メロディックなスカギャラック(Skagarack)というバンドがポリグラムのデンマーク支社の獲得前に最後にやってきた場所だった。

    「私はポリグラムがメタリカとサインしたことを記すとってもハッピーな日だった。でも販促の人たちのなかには怖がっている人もいた。彼女はヘヴィメタルシーンには小さな子供にケチャップをつけて朝食で食べたり、夕食にプロモーション・ガールを食べるようなミュージシャンでいっぱいだと思っていたんだよ!私たちのなかでもメタリカのようなバンドとサインを交わすことはいい考えなのかどうか本当に意見の分かれるところだった。悪いPR以外のことは何もできないからといって、ポリグラムのなかでそういうジャンルからは完全に身を引くべきだと考える政治的圧力もあったよ。販売の観点から、ただのニッチにすぎないという根深い確信を持っていたんだ。」

    「それからスカギャラックと契約したんだ。彼らは我々が後を追うべきバンドのごとく、素晴らしくより値打ちがあるように見えた。みんなメタリカよりスカギャラックに賭けたんだ。はるかにキャッチーだったからね。ラジオでは彼らの曲は流しても、メタリカは一切流さなかった。そしてメタリカの音楽ジャンルは、どれだけ肩入れしようともこれ以上売れないという閾値の下にあると考える人もいた。我々の組織のなかでも最後までメタリカとサインを交わすのはいい考えかどうかハッキリ分かれていたんだ。信じられないほど分裂していたよ!」


    それにもかかわらず契約は疑う余地がなかった。ポリグラムにとってもメタリカにとってもそしてバンドのマネジメントにとっても。ポリグラムはすでにQプライムと非常に良い関係だった。交渉を行ったピーター・メンチはメンチとQプライムの最強の有名バンドのひとつであったデフ・レパードでのポリグラムのマーケティング販促の仕事に強い感銘を受けていた。何をおいても、ポリグラムのメタリカ獲得は、さまざまな従業員の好みとその結果生じた疑問ではなく、純粋でシンプルなビジネス、そして先見の明だった。

    ピーター・メンチ「ひとつ理解しなければならないことがある。個人的にヘヴィメタルを好きだったレコード会社なんてひとつもなかったんだ。彼らはプロとして好きだった。なぜかって?売れるからだよ。これはビジネスだ。我々はポリグラムと契約を勝ち取った。我々はすでにシーンで大きな仕事をしてきたからね。メタリカはヨーロッパでサインをしなければならなかった時、ワーナーかポリグラムという2つの選択肢があった。ワーナーは私が取引してきたなかで最悪の国際企業だと言えるね。私が彼らのオファーを受け入れるチャンスはなかった。それくらいマヌケだったんだ。ポリグラムはかつてシン・リジィのようなロックバンドを担当していた。デフ・レパードでたくさんレコードを売ってもいた。私はワーナーブラザーズのオファーよりも少ない額の基本契約をポリグラムと交わしたんだ。」

    今にして思えば、この契約はポリグラムにとって素晴らしい契約であることを証明した。『Master Of Puppets』時代のメタリカはロック界で広く人気があったわけではなかったとはいえ、新しいレコード・レーベルのなかでも全く知られていなかった。ポリグラムのコペンハーゲン支社にはすでにプレッシャーがあった。ボン・ジョヴィの1stアルバム『Slippery When Wet』も86年にリリースされたが、概算でスウェーデンで6万枚、ノルウェーで4万枚売れたが、デンマークでは2800枚しか売れていなかった。今、ポリグラムはメタリカのような難解なケースを取り扱わなければならなかったのだ!ポリグラム・デンマークに少し懐疑的な人がいても不思議ではなかったのである。

    デンマークは間違いなくロックの市場ではなかった。しかしたくさんの人がはるかに賢くなろうとしていた。すでにメタリカのことを確信していた人たちでさえも。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    このロスキレ・フェスの公演の模様はありがたいことにYouTubeで全曲視聴が可能です。最後の最後で映像が途切れていますが、当時の熱気が伝わる素晴らしい映像です。


    ロゴマーク無しはこちらから。
    https://www.youtube.com/watch?v=RFQaQ9qQqZw

    セットリストはこちら。
    http://www.metallica.com/tour/jul-6-1986-roskilde.asp

    「オレンジの張り出した屋根」という記載がありますが、このロスキレ・フェスティバルは現在でも張り出したオレンジ色の屋根がフェスのシンボルとなっており、張り出し屋根(Canopy)の「Canopy Scene」、もしくは「Orange Scene」と言ったらロスキレ・フェスのことを指しています。
    Orange_Stage

    当時のポスターでもこの屋根のデザインが挿入されています。
    1986_roskilde_poster

    次の項ではあの忌まわしい事故について・・・。

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    引き続き『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第4章3回目。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。今回は『Ride The Lightning』のレコーディングについての話が中心です。

    metallica-on-tour-1984

    思いつきの一時的な郊外でのアパート住まいではあったが、メタリカが2ndアルバム『Ride The Lightning』をレコーディングした時にたまたま住むこととなったブレンビュベスター地区という場所に、我々は実際に明らかな歴史的特色を見ることができる。60年代初め、ミドルクラスの郊外は活況となり、多くの家庭が郊外に移り住んだ。そのようなどこにでもある活気づいた郊外でコンクリートのビルと一戸建ての住居だけでなく、ロック史における魅惑的な展開があったのである。

    1965年、ラーズ・ウルリッヒが初めて本当に好きなバンドとなったディープ・パープルが、コペンハーゲンひいてはヨーロッパの現代ポップ・ミュージックにおける有数の拠点であるKirkebjerg通りから数キロ離れたブレンビュー・ポップ・クラブでコンサート・デビューを果たした。その当時、バンドはラウンドアバウトと呼ばれていたが、ラーズの初めてのスーパーヒーローとなったイアン・ペイス、リッチー・ブラックモアがメンバーにいたのだ。同じ場所でレッド・ツェッペリンもデビューしている。(1968年にニュー・ヤードバーズの後身として登場し、アルバム毎に段階的な進化を遂げてきたバンドとして、後にメタリカとよく比較されることになる。)メタリカの一時的な住まいの角を曲がったところにブレンビュー・ホールがあった。若きファンとしてのラーズが昔からのお気に入りであるディープ・パープルとレインボーを観てきた場所であり、アイアン・メイデンがデンマークにブレイクスルーをもたらした場所でもあった。

    だが、メタリカの創造的な進展が起きたのはアマー島だった。一部はStrandlods通りのスタジオで、また一部はメタリカのインスピレーションとなったマーシフル・フェイトや新しい若きメタルバンド、アーティレリーと共有していたスタジオ施設の向かいにあったリハーサル室で。メタリカはこの部屋を使って、アルバムのレコーディング前に曲を書き、仕上げていった(実際にそのリハーサル室で作られたバラード曲「Fade To Black」のアレンジを含む)。

    しかしながら、メタリカがリハーサル室に行っていた時、マーシフル・フェイトはツアーで離れていた。その代わり、アーティレリーがメタリカを迎えることとなったのである。彼らはその当時、ヨーロッパで最も革新的なメタルバンドのひとつであり、革新・パワー・アグレッションにおいてメタリカと多くの点で合致していた。

    メタリカがリハーサル室の前を初めて通りがかった時、トストルプ(ブレンビュベスターの西部)の今どきの少年たちはリハーサルに忙しかった。アーティレリーのリードギタリスト、マイケル・ステュッツァー・ハンセンはこう振り返る。

    「彼らは静かに座って、俺たちのジャムを最後まで聴いていた。「さぁ、続けて続けて!」彼らはそう言っていた。信じられないくらい堅実でとてもポジティヴだった。彼らは音楽に対して本当に何か感じるものがあったんだ。俺たちのものでさえね。」


    マイケルはラーズの熱意、そしてデンマークのメタルシーンに関する知識について覚えている。「彼はデンマークのヘヴィメタルバンド全てをチェックしていて、Maltese Falcon(※1)とEvil(※2)ってバンドについて詳しく語っていたよ。どんなバンドも知っているんだ。82年以来リリースしてこなかった俺たちの『We Are The Dead』のデモテープのことまでラーズは知っていたからね!ラーズは俺たちのことをサクソンをファストにしたサウンドだと思っていた。」マイケルはそう付け加えた。

    ラーズとメタリカは70年代あるいはNWOBHMのヨーロッパのメタルサウンドをとりわけ好んでいた。そして今、バンドはヨーロッパで新しきヨーロッパのヘヴィメタルバンドと共にいる。さらには、メタリカが必要であれば、リハーサル室も機材もアンプも使える準備もできている。そして、メタリカが『Ride The Lightning』をレコーディングしている間、(アルバムのために)作曲を必要としているという理由だけではなく、作曲をしばしば行っていた。

    (後にキャンセルとなった)ボストンにあるチャンネルクラブでの1月のショーの前に、バンドは盗難にあった。盗まれたものの中にはラーズのドラムキットやジェイムズが『Kill 'Em All』で使っていた特別なギターが含まれていた。その晩、マサチューセッツ州では強烈な猛吹雪に見舞われており、そんな危険を冒してまで機材は盗まれた。ジェイムズが特に気に入っていたアンプを失ったことは、バンドのレコーディングにとって残された問題となっていた。それは時間、お金、そして終わりのない労力というコストとなっていたのだ。

    「アーティレリーとアージ(アージ・ジェンセン音楽店)からさまざまなアンプを借りなければならなかったし、それらを試すのには時間がかかったよ。7つぐらい違うマーシャルアンプがそこにはあった。」フレミング・ラスムッセンはそう振り返る。彼はラーズの(新しい)ドラムをスタジオの中の広くて何もない奥の部屋に置いていた。

    「ガツンとくるサウンドを得るためにね。」フレミングはそう説明する。「ラーズはちょっと訝しんでいたけど、私はレインボーのレコードもそういう風にしていたから。」

    ガツンとくるサウンドは『Ride The Lightning』の至るところで響いていた。メタリカがクリスマス前に書き上げた最初の4曲のデモは大部分のファンの心をすぐにとらえた。そう、「Fight Fire With Fire」は『Kill 'Em All』の収録曲に速度と重さの両輪を合わせた圧倒的なスピードと重量感だ。タイトルトラックの「Ride The Lightning」もそうだ。そしてインストゥルメンタルの長編曲「When Hell Freezes Over」(後に「The Call Of Ktulu」と改題。)はミドルテンポでしっかり構築されていた。最後は、最初の4曲の中でも後にバンドの定番曲となる「Creeping Death」だ。しかし最も保守的なファンたちは恐れるべきものをそこに見た。メタリカはバラードもレコーディングしていた。「Fade To Black」である。

    ラーズは新しいメタリカがどこに行こうとしているのかハッキリ分かっていた。

    「俺はあの音楽的変化は、それ自身とても妥当だったと思ってる。計画されたものじゃない。」ラーズはその当時、新曲についてそう考えていた。(K.J.ドートン著『Metallica Unbound: The Unofficial Biography』(1993年刊行)より)

    「『Kill 'Em All』全曲ほとんどは1982年の春に作られた。俺たちが音楽的にやってることは下手くそだった。それからたくさん学んできたんだ。そして俺たちは作詞作曲、ハーモニー、その他もろもろについて、以前の2人のメンバーよりもよく知っている2人がバンドに加入した。」

    ラーズ・ウルリッヒと彼のバンド、メタリカはすぐに自分たちの音楽について、とても気にするようになった。したがってフレミングがプロデューサーだけでなくサウンド・エンジニアとして、監修する以上にバンドを手助けできたことは重要だった。

    フレミング・ラスムッセン「彼らは音楽的にどこに行きたいのか、クレイジーでハッキリとした感覚を持っていた。彼らがやったことは実に新しいものだったんだ。それまでそのジャンルでは誰もやったことはなかった。少なくとも同じだけヘヴィにはね。彼らは「音楽プロデューサー」がやってきて、コントロールされすぎるということを恐れていたんだと思う。」

    フレミングはそうではなかった。彼はすぐにグループの5番目のメンバーとなり、監修者としてよく働き、スタジオにいるメタリカの4人のエネルギーによって、よりいっそうワイルドになった。

    「スタジオの他の人が彼らの楽曲を聴くと、彼らはこれまで聴いてきた中で最悪で最も酷いノイズだと思っていた。我々はただ駆けずり回り、手をとめることはできなかった。単純にめちゃくちゃクールだと思っていたからね!(笑)「こいつはクソだな、おい!」とみんなは言ったが、「こいつは最高だ」と私は言っていたよ。」

    『Ride The Lightning』のレコーディングは、フレミングがハッキリとメタリカと出会った日から数週間を共にした日々を覚えている通り、5歳年下のラーズとの長い交遊の始まりでもあった。

    「彼は全速力で走るただの子供だった。我々が一緒にすごいことをやっていると気づくのにそれほど時間はかからなかった。効果的なリズムと言葉をみつけて、本当にただ前進したんだ。」フレミングはそう語る。彼はラーズの自己認識や壮大な野望、ラーズが実際にできることと、まだできないこと、その間をどうバランスをとっていくのかもわかったのだ。

    「彼は学ぶことに間違いなく興奮していたよ。でも他のドラマーの音を聴いて、彼らが演奏したものについてよく考えていたのも明白だった。彼はフィルインとかそういうことに関しては最高によかった。でもフィルインとそれ以外の間でテンポを保つことは・・・彼は全くうまくいってなかったね。」フレミングはそう言って忌憚なく笑う。

    「彼は「For Whom The Bell Tolls」をクリックに合わせて叩いたんだ。最初は彼にとって本当に難しかったんだよ。彼はそんなことを以前に全くやったことなかったからね。まぁあの曲は本当に難しいってこともあるけど。」フレミングはそう補足した。彼は、どうあってもラーズを使いこなすというもうひとつの素晴らしい能力も備えていたのである。フレミング・ラスムッセン自身、昔はドラマーだったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    文中に出てきたデンマークのバンドについてはこちらを参照。

    ※1:Maltese Falcon
    http://www.metal-archives.com/bands/Maltese_Falcon/1597

    ※2:Evil
    http://www.metal-archives.com/bands/Evil/5242

    さすがにデンマーク語で書かれた伝記本だけあってデンマークに関するメタリカスポットは異常に詳しく描かれています。次回はレコード契約がらみの話です。続きはいましばらくお待ちください。

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