メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:ブライアン・スレイゲル

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    メタリカ草創期最大の功労者のひとり、ブライアン・スレイゲルが自らのレーベルMetal Bladeを興し、音楽に身を捧げた半生を綴った『For the Sake of Heaviness: The History of Metal Blade Records』を2017年8月29日に上梓。

    ForTheSakeOfHeaviness

    この著書の中でクリフ・バートン、ジェイソン・ニューステッドをメタリカ加入に繋げた逸話について語られていました。billboardの抜粋記事を管理人拙訳にてご紹介します。

    1982年の後半、私(ブライアン・スレイゲル)は『Metal Massacre II』をリリースしようと楽曲を集めていた。受け取った投稿のひとつにサンフランシスコのトラウマ(Trauma)というバンドからの3曲入りデモがあった。かなり専門的に録音されていて、彼らのマネジメントは(訳注:ハリウッドの伝説的クラブ)トルバドール(Troubadour)でショーをするためにやってきたのだと私に告げていた。そして私に彼らを見に来たらどうだと提案されたのだ。

    ショーに出かけた結果、バンドはまぁよかったが驚くべきものはなかった。ただベーシストはこの世のものとは思えないものだった。彼がいるステージ側では何かが完全に狂っているのを見る事ができた。青いデニムのベストとベルボトムを着ていて、本当に飛び抜けている。私は彼の名前がクリフ・バートンだということを掴んだ。

    クリフには大層感銘を受けてね。トラウマの「Such a Shame」を『Metal Massacre II』に収録することを承諾した。それがリリースされる少し前に、私はラーズ・ウルリッヒと出会って、彼から「新しいベーシストが必要なんだ」と聞かされたんだ。

    Trauma Such a Shame


    より多くの練習して、ミュージシャンとしての各々の能力を磨き始めてみて、メタリカのメンバーはベーシストのロン・マクガヴニーだけが進展していない唯一のメンバーだと気が付いてしまった。ロンは素晴らしい男だったし、すごくクールではあったが、ラーズは自分たちが書いていた新しい楽曲からすると、ロンは技術的観点からそこまでに達していなかったと私に話していた。そしてラーズは私に他に誰かピッタリの人物を知っているか尋ねたんだ。

    私はこう答えた。「そういえば、サンフランシスコのトラウマってバンドのベーシストは目を見張るものがあったね。彼らはまた別のショーでやって来るから、行ってチェックしてみるべきだよ。」とね。

    トラウマの次のLAのショーでラーズとジェイムズに会った。ライヴが始まって5分くらいで、ラーズは私に向かって笑みを浮かべて「あいつが俺たちの新しいベーシストになる」と言っていたよ。

    ・・・新しいバンドを見つけるための主な情報源のひとつは、Metal Bladeに所属する他のバンドたちからだった。例えば、ビッチ(Bitch)がフェニックスでショーをするために出ていて、戻ってきたら彼らがこう言うんだ。「俺たちの前座がフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam and Jetsam)ってバンドだったんだけど、あいつらすごいぞ。チェックするべきだよ。」

    彼らは当時『Metal Shock』というデモテープを持っていたんだが、私はそれを聴いて恋に落ちたね。それから彼らのライヴを観るためにフェニックスに行ったんだ。彼らはビッチが言っていたようにすごかった。フェニックス滞在中にそのエリアのもうひとつのバンド、セイクレッド・ライク(Sacred Reich)を見出し、Metal Bladeの名簿にサインすることになった。

    当時、レーベルには熟練のバンドがたくさんいたけど、フロットサムのメンバーは既存のバンドよりも経験豊かなようだった。私はすぐにレコードを作るという考えについて彼らと話した。我々には提供する資金があったおかげで、アルバム『Doomsday for the Deceiver』をレコーディングして1986年7月にリリースできた。

    doomsday
    Doomsday for the Deceiver


    フロットサムのアルバムに費やした1万2000ドルはそれまでにレコードに投資した最大の予算だった。我々は彼らが素晴らしい未来の可能性を秘めていると信じていたから、本当に良いと思っていたんだ。実際、それは非常にうまくいった。

    メタリカのクリフ・バートンがその年の後半に悲劇的な死を遂げた時、私はラーズ・ウルリッヒから電話をもらった。「あぁ、ベーシストが必要なんだ」と悲しそうに言っていた。それはクリフが死んでちょうど2週間後のことだった。「誰か知ってる?」私はすでにアーマード・セイント(Armored Saint)のジョーイ・ヴェラが(メタリカ加入に)興味がないと言うのを聞くまでは彼を(メタリカのベーシストに)と考えていた。ラーズがその質問をした時、私はすぐにフロットサム・アンド・ジェットサムでプレイしていたジェイソン・ニューステッドを考え付いた。「キミのために完璧な男を私は知っている」そう彼に言ったんだ。

    同じ頃、エレクトラのA&Rでメタリカとサインをしたマイケル・アラゴがフロットサムのレコードを聴いて、本当に気に入っていた。マイケルと私は双方ともメタリカのメンバーにその楽曲を送っていたんだ。「うん、彼は面白そうだ。俺たちに繋げてくれないか?」と彼らが言ったんで「もちろん、最初に彼に話をさせてくれ。彼が(メタリカ加入に)興味を持っているか確認したい。」と答えたよ。

    私はジェイソンがメタリカの大ファンだということを知っていた。私が電話した時、彼は心底びっくりしていた。でも彼が難しい立場にあるということも言えた。フロットサム・アンド・ジェットサムは彼のバンドだった。彼が曲を書き、全てのことをこなしていた。私にとっても少々ほろ苦いものだった。素晴らしいバンド(フロットサム・アンド・ジェットサム)が素晴らしいレコードを出したばかりなのにってね。でもメタリカのメンバーたちは私の良い友人だったし、彼らにとって明らかにジェイソンは完璧にハマる人物だった。私はジェイソンにとっても、メタリカにとっても、ベストなことを望んでいたが、それを実現するためには何かを失うということもわかっていた。

    「一晩考えさせてくれ」ジェイソンはそう私に言った。翌日、彼は私に電話をして、メタリカ加入の道に進むことを私に告げた。彼はメタリカのために私が引っ張ってきた2番目のベーシストだった。しかし私は物事がどのように進む可能性があるか彼に正確に伝えた。なんと言おうが彼はまだ若く、23歳の子供だったからね。ジェイソンは本当に賢かったが、このメンバーの移行というのは彼にとって簡単なものではないということを私はわかっていた。彼は自分で全てをコントロールしていたバンドからメタリカに行ったんだ。そこでは何についてもコントロールできない。私はこう言ったのをハッキリと覚えているよ。「このバンドにはジェイムズとラーズがいるということを知っておく必要がある。キミは何も言えないだろう。キミはただのベーシストになる。キミはそれでOKとしなければならない。何も貢献できないかもしれない。バンドの方向性に関して何の介入もできないだろう。キミはステージに立ってただベースを弾くことになる。」

    彼は最初はそれでよかったが、15年後に彼がバンドを去る主な理由のひとつはわかっている。身体的にボロボロになっていた事実を除けば、自分自身の楽曲を書き、自分自身のことをすることができなかったということだ。彼は自分の運命をコントロールしたいと思っていた。でも彼が持ちえた功績とキャリアがどれだけ素晴らしいものだったか!

    ジェイソンと彼らを繋ぎ合わせたことは、私とメタリカとの正式な関係の終焉を告げることとなった。我々はいつも親しい友人のままだし、彼らはいつも彼らのキャリア面においてMetal Bladeが果たした役割について信じられないほど感謝してくれている。私がジェイムズに会うたびに、彼は「俺たちにスタートの機会を与えてくれてありがとう。もしあなたがいなければ・・・」と言ってくれるんだから。

    billboard(2017-08-21)

    今回の上梓された著書についてラーズとジェイムズは次のようなコメントを寄せています。

    ラーズ・ウルリッヒ
    Metal Bladeはハードロック界 いつもシーンの最前線に立ち、時代と共に歩み、連勝街道ひた走り、動きの中に身を置き、全ての競合相手より生き永らえた。もちろん、Metal Bladeの中心はブライアン・スレイゲルだ・・・ブライアンの情熱、信頼性、メタルに関する全てのものへの献身は尋常じゃない。
    ジェイムズ・ヘットフィールド
    ブライアンって人はいつも・・・この種の音楽にあまりにも多くのことを果たしてきたから、俺は彼に最高の敬意を持っているよ。レコード業界の浮き沈みや音楽の人気の浮き沈みを通じて、ブライアンは戦い続けて、自らが正しいと感じることを続けているんだ。

    ForTheSakeOfHeaviness
    For The Sake Of Heaviness : The History of Metal Blade Records


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    ヘヴィメタル・レーベルのメタル・ブレイド・レコーズの創業者であり、初期メタリカの活動を支えたブライアン・スレイゲルがPodcast番組「The Jasta Show」に出演。

    グラミー賞パフォーマンスでのメタリカとレディー・ガガの共演で起きたマイクトラブルの原因について語っていました。Ultimate-Guitar.comの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

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    もし(これから)メタリカのショーに行くのなら、そしてこれから話すことを見てなくて何が起きるのか知りたくないなら、しばらく早送りしてほしい。


    メタリカのショーで素晴らしいパートがあるんだ。ジェイムズが曲の合間にマイクを軽く叩いて言うんだ。「おい、これは電源がついているか?俺の声は聞こえてるか?OK?聞こえているか?今夜はマイクが使えるところでこの曲だ」そう言って「Moth Into Flame」をやるのさ。可笑しくてしかたないよ。私がやるよりも彼がやる方がずっと良いけど、本当に楽しいよ。

    ちなみにあのメタリカに関するみっともない出来事は、そこにいた馬鹿なダンサーたちのせいなんだ。馬鹿な一人がマイクの線を蹴ってしまった。そして彼らはそれを復旧できる方法を知らない地元のクルーを働かせていた。それがあんなことが起きた理由さ。

    (中略)彼らはあのショーの後、(同じ日に)ハリウッド・パラディアムでプレイしていた。私がそこに行くと、サウンドマンはそこにいたんだ・・・

    「あれは何が起きたんだ?」と聞いてみると「あぁ、根本的にはダンサーの一人がプラグを蹴っちまって、地元のスタッフは曲を半分終えるまでそれを理解することができなかったんだ」ということだった。


    Ultimate-Guitar.com
    (2017-06-26)
    「The Jasta Show」全編はこちらから。


    「Moth Into Flame」前のマイク・ジョークはこちらから。


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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章6回目。ジェイソン・ニューステッドの経歴とメタリカとしてのデビューライヴについて。有志英訳を管理人拙訳にてご紹介。

    metallica1986

    ジェイソンは当初、慎ましやかな新しい家としてリハーサルルームで「Jeppe on the Mountain」(訳注:17〜18世紀のデンマークの劇作家ルズヴィ・ホルベアによって書かれた喜劇)のように寝起きすることに満足していた。1年前、フェニックスの州立劇場でメタリカがコンサートを行った際、彼は最前列近くに立って友人とモッシュピットで暴れていた。それが今やバンドと共に日本に旅立とうとしているなんて!

    間違いなくジェイソンはただの熱心なファンではなかった。とても音楽に没頭していたし、キッチリ練習を重ねていたし、バンドを組む経験もしていた。実際に彼はフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam And Jetsam)で作曲と作詞の両面で立役者となっていたのである。それは間違いなくラーズ・ウルリッヒのベストスタイルであった。ラーズもまたプロモーター、出演交渉担当者、その他もろもろの役割を務めていたのだから。

    ジェイソンが音楽や新しいバンドのためにやってきたことは、彼自身の非常に本格的な音楽との関わりによってなされてきたことだった。ジェイソン・ニューステッド(ミシガン州バトルクリーク出身1963年3月4日生まれ)はミシガン州の馬の農場で育った。その場所は音楽を演奏する上で大きな役割を果たすこととなる。ニューステッド家は音楽をよく聴き、地元の劇場でよくミュージカルを観に行く家庭だった。

    ジェイソンは学校でサックスを吹き始め、その学校でロックとも出会った。彼が初めてベースとアンプを手にしたのは13歳で、初めてレッスンを受けたのは16歳の時である。ジェイソンの兄弟も音楽を演奏していたが、そのほとんどがミシガン地域では重要な遺産と伝統であるモータウン・ミュージックだった。

    ジェイソンが10代の頃、ミシガン州カラマズーに引越してから、ヘヴィメタルが彼の耳を捕らえ始めるようになった。当時のほとんどの若者と同様、キッスに強く惹かれていった。ジェイソンの初めての「バンド」は、ただキッスをプレイする4人の若者で構成されていた。数年後、彼は気がつくとテッド・ニュージェント、AC/DC、そして当然キッスといったパーティーロックを演奏していた。バンドの名前が家で叫ばれることはなかったが、我々はこう呼んでいる。ギャングスター(Gangster)だ。

    ギャングスターのリーダー、ティム・ヘルムリンを手本として、ジェイソンはロックの楽しさを経験したいと決めた。ヘルムリンとバンを借りて出発した。この旅の最終的なゴールはロサンゼルスだったが、ジェイソンは天使とグラムロックの街へとドライブを行うことを途中でやめ、結局フェニックスに落ち着いた。

    10月下旬のことだったが、ミシガン出身のフェニックスに落ち着いた少年は頬に熱い砂漠の風を感じていた。街で何人かの若い仲間に出会うことも出来た。ジェイソンは大したお金も持っていなかったが、サンドイッチのお店で仕事をみつける。そしてすぐにドラマーのケリー・デヴィッド・スミスと共にパラドックス(Paradox)というバンドに入る。しかしそれも真剣なものではなく、そのハチャメチャにスウィングしていたグループは、新しいバンド、フロットサム・アンド・ジェットサムに見いだされた。そしてジェイソンはケリーと共にスコッツデールに移り住んだ。(フェニックスでも最も裕福な層が住み、テニスやゴルフ場で知られる。さらにアリス・クーパー、ロブ・ハルフォード、そしてあのデイヴ・ムステインといったハードロックの住人がいることでも知られている。)

    ジェイソンは、フロットサム・アンド・ジェットサムとしての活動はブライアン・スレイゲルのメタル・ブレイド・レコーズからアルバム『Doomsday for the Deceiver』(1986)をリリースして終わった。フロットサム・アンド・ジェットサムで最後のギグをハロウィンに行い、その数週間後、カリフォルニア州レセダ・カントリークラブで300人を前にバンドの忠実な友人であるメタル・チャーチというサポートバンド付きでメタリカとしてデビューしたのである。

    その夜のカントリークラブでのメタリカは緊張で張り詰めていた。もちろん、特にジェイソン・ニューステッドにとっては。実際、ジェイソンには重要かつ命運を左右するテストが残されていた。技術的にもパフォーマンスに関しても、両面伴ったライヴを行えるのかと。(必要なことは)昔から激しいバンドの崇拝者であり、ファンでさえあった楽曲のタイトなビートを保つだけではなかった。クリフ・バートンはステージ上では真の怪物であったし、ほとんどの点でクリフが優れていることをジェイソンは知っていた。彼は1年半前にフェニックスの州立劇場でのショーに行き、クリフがショーを引っ張っているのを目にしてさえいたのだ。

    クラブに詰めかけた300人のうち、ブライアン・スレイゲルも間違いなく胸のつかえを抱えていた。彼は有望なバンドのひとつのリーダーをヘッドハントしたのだ。だからこそジェイソンはわざわざより良いとされるメタリカと共にしたいと思ったのである。

    「ジェイソンは私の生涯見てきた人物のなかでも最も神経質な方だった。」スレイゲルはそう語る。「彼はおびえていた。これは彼のオーディションだった。彼はバンドにいたが、私はこれが彼が充分に足るかを知るための通過しなければならない最後のテストなんだと思った。」(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    それはバンドもほぼ間違いなくわかっていた。ラーズはこの次のメタリカファンクラブ会員に向けたニュースレターのなかで、このショー全体の雰囲気について言い表していた。

    「このショーを通じた雰囲気は、俺たちみんなクソ緊張していたってこと。でもエネルギーに関しては、このギグはこれまでやってきたなかでも最も楽しいものがあったよ。」

    数日後、メタリカはアナハイムの小さなクラブ、イザベルズ(Jezabelle's)でも同じようにプレイした。このときはゲストにデンマークからフレミング・ラスムッセンが来ていた。

    「私が事故以来バンドを観たのは初めてだった。ショーはそれはそれはクールだったね。」フレミングは熱を帯びて17年後にそう振り返った。

    メタリカにはまだ熱意の余地があったが、バンドを続けていくことを余儀なくされた過程でのことである。カウンセリングもセラピーも無かったことに加えて、いつも音楽表現が付いて廻っていた。そして今度、メタリカは日本へのロードに向かう。「Damage Inc.」ツアーは再びトラックに戻り、スウェーデンの悲劇からわずか6週間。しかしこれはバンドに強制されたものではなかった。それは彼らが望んだことだったのだ。

    ピーター・メンチは9月27日早朝、サウンドエンジニアのビッグ・ミックの電話で起こされた。こう説明する。「間違いなく私はそのメッセージに愕然としたよ。コペンハーゲン行きの飛行機を取り、スウェーデンまで運転した。恐ろしいことだったが、このような状況下でどう振舞うべきか話したんだ。プレスリリースを発行し、それから新しいベーシストを探した。今振り返ると、1年間は議論しているかもしれないね。でもバスに乗っていた誰かがそうすべきと私に言ったとは思わない。サウンドエンジニアのミックでさえ、私に言ったことは我々がすぐにツアーに戻っていなかったことへの後悔だった。我々は葬儀に行って、なすべきことをした。そしてバンドをやめようとはしなかった。それが全てだ。」ピーター・メンチはそう語った。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    メタリカとしての初コンサートを迎えたジェイソンを写した写真など。

    http://eddiemalluk.photoshelter.com/gallery/METALLICA-1985-1986/G0000qc96ffJ8u0M/C0000toV.S5Y1s2k

    そして、ジェイソン加入から2回目のショーとなったアナハイムのイザベルズ(Jezabelle's)の公演もブート映像が存在しており、ほぼYouTubeで視聴可能です。音響システムのトラブルに見舞われていますが、とにかく凄まじいエネルギー量です。


    次回はメタリカ初来日の様子など。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章5回目。ジェイソン・ニューステッド加入にいたるお話。有志英訳を管理人拙訳にて。

    ラーズがつま先を負傷していたため、彼らは新しい曲のリハーサルができなかった。そこで葬儀後の数週間、ラーズはもっぱら公式お気に入りツール、電話を使うこととなった。昔なじみのヘッドバンガー友だちやクリフのメタリカ加入を手助けした男、ブライアン・スレイゲルに電話をかけていたのだ。メタリカが急速にキャリアの勢いを増しているあいだ、ブライアンは自身の情熱を傾けたプロジェクトであるメタル・ブレイド・レコーズ(Metal Blade Records)というレコードレーベルをゆっくりだが着実に進展させていた。スレイゲルは最新の有望なアメリカのメタルバンドと別の『Metal Massacre』のコンピレーション盤をこの1年前にリリースしている。そのバンドのなかにはアリゾナ州フェニックス出身のフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam And Jetsam)がいた。ブライアンはこのバンドのベーシスト、ジェイソン・ニューステッドがメタリカにふさわしい男かもしれないと考えていた。

    ジェイソン自身が売り込んでいるバンドからヘッドハントすることにスレイゲルは少し悩んだが、ジェイソンがメタリカの大ファンであることを知っていたし、時宜を得たといってメタリカに接触を図ろうとするような残忍な考えはジェイソンにはおそらくなかっただろう。そして、もちろんラーズはスレイゲルの昔なじみの仲間であった。ラーズは、特にこのような状況下で彼の助けを必要としていた。

    もちろんジェイソンはスレイゲルの言葉に大喜びだった。その後すぐにラーズは電話に出て、このジェイソンという男がオーディションのためにサンフランシスコに飛んでくる日に合意した。

    ジェイソンは人生を賭けたオーディションに集中して準備した。ガレージで何時間もメタリカの全曲を練習した。車でフェニックス・スカイハーバー国際空港へ行き、飛行機で天国のようにヘヴィな目的地、メタリカのリハーサルルームに向かうまで。

    短くも集中したその期間で、40人以上の有望なベーシストたちがメタリカのオーディションを受けた。そのうち2人だけまた戻ってくるよう言われた。その1人が充分に準備を重ね、意欲充分なジェイソン・ニューステッドだった。

    この2次オーディションの後、メタリカの3人のメンバーはジェイソンをサンフランシスコ、ダウンタウンにある伝説的なビストロバー、トミーズ・ジョイント(Tommy's Joynt)に連れて行った。しばらくして、ラーズ、カーク、ジェイムズはみなトイレにたち、用を足してジェイソンについて評議した。ラーズの心はすでに決まっていた。ジェイソンは「クール」だ。だが他のメンバーはどうなのか?ジェイムズとカークは完全に同意した。ジェイソンこそがその任にふさわしいと。

    彼らがテーブルに戻ると、ラーズはジェイソンをみつめて尋ねた。「仕事が欲しいか?」わずかに緊張し不安だったジェイソンは無意識のうちに、ラーズ、カーク、ジェイムズ、そしてこの小さなバーで近くのテーブルにいた全ての客の耳をつんざくデカイ雄叫びを上げてその言葉に反応した。ジェイソン・ニューステッドはメタリカに加入した。メタリカはベーシストをみつけ、アルコホリカは新しいビール愛好家の兄弟をみつけたのだ。サンフランシスコで最も品揃え豊富な場所のひとつと認められるこの店ほど彼ら4人がいた場所としてふさわしいものはないだろう。

    トミーズ・ジョイントで長い夜を過ごしたが、新ヴァージョンのメタリカは、その翌日からライヴ・セットのリハーサルを行っていた。かの日本公演の日程はラーズ、ジェイムズ、カークにとって精神的な救いとなっていた。彼らは緊急の課題の真っ只中だったが、バンドはバートンの家族について忘れていなかった。日本へ出発する前夜に、ジェイソン・ニューステッドと来たるツアーのセットリストを弾いていたリハーサルルームをバートン夫人(訳注:クリフ・バートンの母)が訪ねてきた。トーベン・ウルリッヒもそこにいた。バンドが曲を演奏しているあいだ、トーベンは彼女をハグしていた。親として彼ら2人は、子供たちが大きく広がった世界を旅するなかで、子供たちのパフォーマンスと無事を心配することが自然と染み付いていた。トーベンが語ったように、彼とラーズの母ローンの心配は、ラーズがテニスアカデミーをあきらめて、このようにテニスのキャリアをドラムに変えたことではない。彼らの心配事は「長いリハーサルからの帰途にラーズが運転する車が溝に落ちること」のようなものだった。

    今、そのような心配事がバートン夫人にとって実際に起きた悪夢になってしまった。彼女が受けた最大の犠牲は人生二度目で(クリフが13歳の時、3歳違いの兄スコット・デヴィッドが亡くなっている)数週間前に24歳の息子を埋葬したが、彼女はこうして立ち、リハーサルルームで割れんばかりに鳴っている亡き息子とその友人の曲を聴いていた。リハーサルが終わると、バートン夫人はメンバーに歩み寄り、ジェイソンとハグをした。それによってメタリカの仕事は彼女の静かで思いやりのある祝福を受けたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    管理人は昨年、FearFestEvilで渡米した際に文中で登場するトミーズ・ジョイントを訪れることができました。夜にはいっそう目立つ外観。
    TommysJoynt

    たしかにビールの種類が豊富で、Alcoholicaにとってはこれ以上ないお店です。
    TommysJoynt_Beer

    ジェイソンがフロットサム・アンド・ジェットサムで参加した『Metal Massacre VII』はこちらから。
    metalmassacre7
    Metal Massacre VII


    01. Impulse / Heretic
    02. Sentinel Beast / Sentinel Beast
    03. I Live, You Die / Flotsam and Jetsam
    04. Rented Heat / Krank
    05. Backstabber / Mad Man
    06. Widow's Walk / Detente
    07. High 'n' Mighty / Commander
    08. In the Blood of Virgins / Juggernaut
    09. Reich of Torture / Cryptic Slaughter
    10. The Omen / Have Mercy
    11. The Awakening / Titanic
    12. Troubled Ways / Lost Horizon

    Flotsam And Jetsamは9:37から。


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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章2回目。有志英訳を管理人拙訳にて。メタリカ草創期に欠かせないデイヴ・ムステインが登場。訳していてニヤニヤしてしまったエピソードをどうぞ。

    - メタリカ結成(後編) -

    「俺たちはあの曲「Hit The Lights」を書いたんだ。」ラーズは語る。「あれは2つの組み合わせだった。曲はジェイムズがレザー・チャームにいた頃に書いた。曲の後半のアウトロは、俺がかつて初心者たちと会っていた時に1、2週間で出来た。そうして「Hit The Lights」を持ち寄ってロン・マクガヴニーの家でレコーディングしたんだ。」

    この頃のラーズとジェイムズのふるまいの特徴は、自発的に組んだこのバンドのなかでベーシストを少し脇に置いておくという具合だった。

    「ロンは公式にはバンドにいなかったかもしれない。でも彼がいた時、彼はベースを弾き、よくつるんでいた。」ラーズはそうコメントし、「Hit The Lights」の最初のバージョンでベースを弾いたのはジェイムズだったと認めた。だが、ジェイムズは曲のためのソロを弾くことができなかった。当時、彼はギターを弾くことにそれほど集中していなかった。歌うことにエネルギーをより傾けていたのだ。そこでバンドはヘヴィメタルの本質を構成するソロを弾ける誰かを確保しなければならなかった。このプロジェクトのほとんどと同様、それは同時並行で行われた。ラーズとジェイムズはブライアン・スレイゲルのスタジオに行く途中でギタリストのロイド・グラントに会い、ソロをレコーディングしてくれるよう頼んだのだ。

    「そう、彼はやって来た。」ラーズは認めた。「彼は自分のソロを弾いた。充分の出来だったよ。そうして俺はブライアン・スレイゲルにテープを渡したんだ。」

    ブライアン・スレイゲルはそれを聴いて衝撃を受けた。「あぁ、本当に素晴らしかったね。彼らが一緒にやったものだとは信じられなかった。」それこそがスピードを増したエネルギーの放出、かつ『Metal Massacre』の最も速いパートに対するブライアンの最初の自然な反応だった。(クリス・クロッカー著『The Frayed Ends Of Metal』(1993刊行)より)

    しかしながら、「Hit The Lights」のプロダクションにはちょっとした問題があった。ブライアンは少ない予算から曲のサウンドを調整できる技術者のために50ドルを費やさなければならなかった。だがラーズとその友人たちとブライアンはこの曲について本当にいいものだと実際に感じていたようだった。

    「本当に「ガレージ」だったよ。」ラーズは振り返る。「他のバンドと比べると、サウンドはクズみたいなものだった。でも本当にある種のエネルギーと誠実さがテクニックの欠如を補っていたよ。「プロダクション」ってのは当時は本当に大げさな言葉だったんでね(笑)。」

    彼はついに最後の手段であった小さなグループを任された。バンドの名前はコンピレーション盤のために必要不可欠なものだった。そこでラーズはすぐにとてもいい提案をした。と、伝説は語る。実際、真実に近かったのは、ラーズとよくつるんでいたサンフランスシコのメタルファンでヘヴィメタルのファンジンをまとめようと奮闘していたロン・クインターナという人物の提案だった。ロンはラーズにファンジンの名前候補のリストを見せた。そのなかに明確なビジョンのある名前があった。ファンジン向きではないが、ラーズのバンドにぴったりな名前「Metallica」だ。(もし彼がそうなるよう動いていたとしたら、素晴らしい日だ。)ロンに「Metal Mania」という名前を提案するくらいの人の良さはラーズにもあった。

    その名前はアメリカ西海岸のメタル・アンダーグラウンド・プロジェクトの名前となった。メタリカファンはおそらくその選択について祝うことができるだろう。Metallicaという名前がヘヴィだったというだけでなく、ロン・クインターナのリストにはBleeder、Blitzer、Grinder、あるいは暫くのあいだラーズのお気に入りだったThunderfuckというゾッとするような名前まで載っていたのだから。

    だが、バンドの名前、Metallicaは目新しいものだった。それゆえ、『Metal Massacre』のレコードには「Mettallica」と印刷されてしまった。さらに最新メンバーの名前もスペルを間違われた。ロイド・グラント(Lloyd Grant)は「Llyod Grant」に、ロン・マクガヴニー(Ron McGovney)は「Ron McGouney」に。しかしこれらについて彼らは何もすることはできなかった。

    ブライアン・スレイゲルは説明する。(『Metallica 激震正史)』(1992)より)「その時は既にアルバム用に用意してあった2000ドルも使い切っていたんで、もうそれでおしまいだったよ。もちろん、当時はそんなに大事なことだと思わなかったからね・・・。」

    しかし、バンドにはまともなヘヴィメタルのバンドとして最も重要な要素が欠けていた。ライヴ・パフォーマンスである。ラインナップの点でも、メタリカにはその場所がしっくりきていなかった。ラーズとジェイムズはすでに自身をバンドの中心軸に据えており、ロン・マクガヴニーは傍観者としての位置に置かれ、ロイド・グラントはバンドの雇われ人にすぎなかった。初のギグを試みようと、メタリカは初めてのデモテープをレコーディングした。そのテープは「Hit The Lights」と2つのカバー曲から成っていた。ラーズお気に入りのNWOBHMシーンの「Killing Time」(スウィート・サヴェージ(Sweet Savage)の曲)と「Let It Loose」(サヴェージ(Savage)の曲)である。

    「俺たちがソロのギタリストを加入させる前に、ロイド・グラントは1stデモのテープでソロを弾いた。だから彼はメタリカに一時的にいたことになる。でも本当はリズムをキープしていくこともできなかった。」とラーズは語る。

    ジェイムズは本当はギタリストよりもシンガーとしての役割を貫きたかった。ラーズとともに代わりをみつけるまでリズム・ギターを弾くだけだと思っていた。そこで2人は再び「Recycler」に募集広告を載せた。

    ラーズは1982年の1月か2月まで時計の針を戻した。「ある日、俺の家の電話が鳴った。「Recycler」の広告を見たというデイヴ・ムステインというヤツからだった。俺たちはまだギタリストを探していたんだ。そしてデイヴ・ムステインは・・・単刀直入にこう言った。「俺は機材を全部持っているし、本当にいいぜ。運転手もいるし、カメラマンもいる。それに・・・」とアイツは全てをなんだかんだと口走っていたよ。それから俺はジェイムズに電話して言ったんだ。「彼はいい意味でどうかしてるみたいだから、会ってみなきゃダメだ!わかるだろう?」とね。デイヴはノーウォークから手持ちの機材全てを持ってやってきた。」

    「アイツはとても感じがよくて魅力的だった。当時、俺たちのほとんどはまだ女の子ともお付き合いしたことのない18歳のシャイなガキだった(笑)。これは本当のことだけど、俺は童貞をアイツの元カノに捧げたんだからね!俺たちはそんな負け組だったんだ。そして鋲付きブレスレットを身につけた真のヘヴィメタルなヤツになり始めたんだ。でも特にヘットフィールドはとんでもなくシャイだった。デイヴは胸毛があって、見た目もよかった。ハンティントンビーチで大麻の売人をやっていた。いつも周りには取り巻きがいた。すでにパニック(Panic)というバンドもやっていた。そのバンドは何回かギグをやっていて、ファンも少しばかりいたんだ。だからデイヴをバンドに入れたら、突然レベルが上がったのさ。ウチの母親もあの子は美しいなんて思っていた。俺の母親と話す時、アイツはとても気楽で本当に魅惑的に話すんだ。「お元気ですか?ウルリッヒさん。」とね。」

    「当時、ヘットフィールドはまだ人の目を見ることができなかった。本当にシャイで、顔中にキズが残るようなニキビもあった。それにロン・マクガヴニーはスターという素材じゃなかった(笑)。そこへ胸毛と度胸を持ったムステインが現れたわけだ。」


    「彼は凄かったね。自分のアンプとペアのギターとかそういうものを持っていた。ダイアモンド・ヘッドを知らなかったけど、よく人の話は聞くし、いとも簡単に新しいことを身につけていった。俺が「Am I Evil」を聴かせると、アイツはそれを10分で手に入れていた。前後左右裏表を完璧に学んでいたのさ。ギターを弾く生まれ持っての才能を本当に持っていたし、物事を理解しようとする意志があった。アメリカではまだ誰も知らないダウンピッキングを理解したからね。」

    「個人的には最初の数ヶ月のあいだは少し奇妙な感じだった。俺はニューポートビーチに住んでいて、アイツはウチから10分のハンティントンビーチに住んでいた。だから俺が毎日アイツを迎えに行ったんだ。アパートに迎えに行くと俺はいつも中庭で待っていた。アイツはアパートのなかでソファに座って、10人くらいに囲まれていた。ミニ・スカーフェイス(訳注:麻薬の売人がのし上がるギャング映画『Scarface』(1983)のこと)みたいだったよ。ただ座って、大麻の入ったいろんな袋を売りさばいていた。最初にジェイムズと俺にとって、それはちょっとおかしいなと思ったことは、明らかにデイヴが俺たちのバンドに加わったはずなのに、俺が迎えに行ったら、中庭にいた俺に向かって「あれが俺の新しいドラマー、ラーズだ!」と言ったことだ。本当に理解できなかった。「俺のバンド、メタリカだ!」とも言っていたよ。驚きだね!」

    「アイツはクールなものを持ち合わせていた。本当に個性的な魅力を持っていた。カリスマだ。周りにはいろんな女の子がいたし、俺の母親はアイツに首ったけさ。だから俺たちはアイツをNWOBHMへと溺れさせるんだ。でもそれはアメリカでより保守的な傾向を持った人たちとの初めての遭遇にもなった。俺とジェイムズはヴェノム(Venom)に熱中していて、彼らのアルバムが81年の8月に出たんだ。そのレコードをデイヴに渡しに持っていったら、アイツはいらないだとさ・・・。悪魔主義じゃないか!だと。最初は怖がっていたみたいだよ。でもヴェノムを除けば、俺が聴かせた音楽はアイツにとっては皆とてもクールだったようだ。」

    このカリスマ的な赤毛の人物(カリフォルニア州ラ・メサ出身、1961年9月13日生まれ)はヘヴィメタルにものすごい熱意を持ち、強固なギター・プレイにより、メタリカはダイアモンド・ヘッドの曲のソロだけではなく、セットリスト構成の範囲を広げ、初めてのコンサートを待ちわびるまでになった。

    1982年のロサンゼルスでは、ソロを演奏するエネルギッシュなムステインのいるラインナップを持ってしても、ヘヴィメタルの力で自己主張するのはかなり難しいことだった。当時のロサンゼルスの問題は、ハードロック・シーンがますますメロディックでグラムロック寄りのソフトなヘヴィメタルによって支配されていたということだった。

    街でギグをやるのも難しかった。一つには、ほとんどのクラブでバンドはオリジナル曲を演ることを要求されていたし、さらにもう一つはメタリカの音楽が、メタルのクラブにとっては速すぎてパンクだったし、パンクのクラブにとってはメタルすぎたからだ。(これらの互いに異なる要素は、それからまもなくして、共生して大きな成功を収めていく。)しかし、メタリカは最初の問題を解決した。「Hit The Lights」は別として、ダイアモンド・ヘッド、ブリッツクリーグ、スウィート・サヴェージといった内輪以外にはまだ知られていなかったNWOBHMバンドのカバー曲が彼らのセットリストに含まれていることを誰にも言わないことによって。クラブでギグをやるためのもう一つの問題も、大きなネットワークと最初の好機に飛び乗ったおかげで解決した。最初のライヴは1982年3月14日アナハイムのレディオシティで行われた。デビューのショーはデイヴがオープニング曲「Hit The Lights」の演奏中に弦が切れ、経験不足のバンドは皆、彼が弦を直すまでバックステージに引っ込むという意図しない滑稽な幕開けとなった。

    記録魔のラーズは「メタリカのギグ」と呼んでいた緑色の学校仕様の小さなノートにメタリカとして初めてのショーの印象をこう書き残している。「これまでで初めてのライヴ。とても緊張した。ワンマンライヴ。デイヴが最初の曲で弦を切った。演奏はまぁまぁ!!!かなり良いとまではいかなかった。」

    ラーズの記録によると「おおよそ75人」の見物客が9曲のセットリストを観たとある。(この75人の熱狂者たちはみんな、誇りを持ってそこにいたと後に認めたことだろう。)さらにラーズはデビューしたギグでバンドは15ドルの報酬(訳注:当時のレート換算で3000円ちょっと。)を得たと書いていた。

    しばらくして、ラーズのヒーローでイギリスのNWOBHMのスターであるサクソンが、ヘッドライナーを飾るハリウッド西端のサンセット・ブルバードにある伝説的なロッククラブ「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」で行われる2つのショーでサポートバンドを必要としていた。アナハイムで最初のパフォーマンスで失敗したことに怖気づかず、メタリカはそこへ現れた。彼らは同じ日に2つのサポートアクトをこなしたのだ。

    ラーズの記録帳は初めてのショーと数え直されていた。「サクソンのサポート。サウンドチェック無し。サウンドはひどかった。デイヴはチューニングずれっぱなし。自分の演奏はよく出来ていた。でもバンドは全体としてクソだった。OKレベル以下。」もう1つのライヴでは「サクソンのサポート。今回はいいサウンド。デイヴと俺の演奏はよかった。ロンとジェイムズはまぁまぁ。かなり良いとまではいかなかった。楽しかったけど、サクソンには全然会えなかった。」

    一ヶ月ほど後にメタリカはLA中心街とサンディエゴのあいだ、コスタメサにあるコンサート・ファクトリーで50人を前にライヴをした。この時メタリカは初めて5人組として登場した。ブラッド・パーカーという名前の友人がリズム・ギターとして参加したが大きな成功は得られなかった。次のギグはラーズの学校であるバックベイ高校のホールで生徒たちの昼休み中に行われた。メタリカはもう一度5人組を試した。しかしラーズの記録帳にはこの記憶すべきライブについて言及されていない。1982年5月25日のページにはひどい動揺が記録されていた。「完全に忘れ去りたい日だ!!演奏もクソ、ライヴもクソ、サウンドもクソ。本当に最悪だ。」

    アナハイム、ハリウッド、そしてコスタメサで行われたショーで、メタリカはパフォーマンスによる爆発的なスタートを切ることはなかった。しかし、それらのギグによって彼らの野心が突き崩されることもなかった。そしてまもなく、いつも野心的で積極的なラーズ・ウルリッヒはブライアン・スレイゲルの元にやってきた。メタリカは絶対にアルバムを作らなければならないとラーズは考えていた。ブライアンは反対だった。彼は自身のレコード・レーベルを運営していくに充分な仕事があったし、現金収入はあったが額は低かった。(収入の1つには『Metal Massacre』が1982年6月14日に4500枚リリースされるからであった。)だからアルバム制作に必要な8000ドルは融資できなかったのだ。その代わり、ラーズとメタリカは自分たちの野望を少し抑えなければならなかった。アルバム制作とレコード会社との契約へのもっと自然の道を進むこと、つまりデモテープによって。

    むしろ、それが適切だったのだ。デイヴ・ムステインの加入後、まだメタリカはこの時の楽曲をまとめたいわゆる「Power Metal」と呼ばれるデモテープしかレコーディングしていなかった。(デモテープ・ネットワークにちなんで名付けられ、ラーズの名刺にも「Metallica - Power Metal」と書かれていた。)

    ただし、最新の機材でより良くプロデュースされたデモ、あるいは少なくともかなり良いデモにもお金がかかる。しかし、運命が良い助けをたぐり寄せる。メタリカは他の場所でスタジオに時間を費やすことができた。独立系レコード会社「High Velocity Records」にいたケニー・ケーンという熱狂的なパンクファンがメタリカのライヴ録音を聴いていたのだ。ケニー・ケーンにとってそれは十分に良いものだと確信していた。速くて荒削りでガチャガチャした「パンク・ノイズ」のEPをプロデュースしたいと思っていたのだ。しかし、彼はスタジオでレコーディングし終えたものを聴いてガッカリしてしまう。彼にとってこれらの楽曲は「ヘヴィメタル過ぎ」たのだ。なぜ彼がライヴで聴いた曲をレコーディングしなかったのだろう?

    「そりゃあ、あれはカバー曲だったからだよ。」バンドはそう答えた。

    スタジオ代はすでに払われていたので、「High Velocity Records」が提案したEPのプレスを断念しているあいだにメタリカは自分たちの新しいデモテープを自分たちの元へ持ってくることができた。

    そしてそのデモテープは、持って帰るには、そして世界中に送るには充分の出来だった。こうしてラーズ・ウルリッヒと彼のバンド、メタリカは1982年7月に本当の意味で始まったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

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    デイヴのメタリカ在籍時の一枚(左からジェイムズ、ラーズ、デイヴ)

    ミュージシャンとして(あるいはフロントマンとしても?)、すでに抜きん出た才能のあったデイヴには、メタリカに加入した当初からメンバーをリードしている自覚があったからこそ「俺のバンド、メタリカ」発言につながっていったのかなぁ。ラーズにとっては相当不愉快に感じたであろう不用意な発言でしたが(苦笑)

    こんな話を読みつつ、ロイド・グラントとデイヴ・ムステインの弾くソロを聴き比べてみるのも一興です。

    『Metal Massacre』収録の「Hit The Lights」


    デモ『No Life Til Leather』収録の「Hit The Lights」


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    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。ついに第3章に突入しました。有志英訳を管理人拙訳にて。ラーズがいよいよメタリカ結成へと具体的に動き出します。

    - メタリカ結成(前編) -

    イギリスでラーズはヘヴィメタルの音楽そのものや雰囲気を体験し、その背景にいる人々と会ってきた。モチベーションはかつてないほど強くなり、集中力は変わらず鋭くなっていた。ついにラーズはテニスやその他トップレベルのスポーツの経歴をあきらめ、純粋な気持ちでバンドを始めたのだ。(バンドを始めることは)この若者にとっては文化的な面、あるいはミッションでもあった。つまりそれはヘヴィメタルの本質を普及させることだ。アメリカ、特に当時のロサンゼルスにはそれが決定的に欠けていたのである。

    ラーズが「ホーム」であるカリフォルニアに帰った時、ついにバンドを始めるという火がついた。ただ、処理すべき些細な点もあった。学校だ。

    「3ヶ月もヨーロッパとイギリスにいて、ダイアモンド・ヘッドとモーターヘッドとお近づきになって、本当に夢中になっていた。帰ったらバンドを組もうと思った。」ラーズはそう認めた。「でも学校の問題があった。俺たちが住んでいたカウンティーには4つか5つの学校があったんだけど、そのなかには学校になじめない生徒や他の学校に行けなかった生徒のためにいわゆる補修学校があった。バックベイ高校っていう学校だったんだけど、自分のスケジュールで受講できたのがクールだったね。学んで、取り組んで、合格しなきゃならないことがあった。でもそれが多かれ少なかれ、自分のスケジュールで進めることができたんだ。それは俺にぴったりだったよ。他のことを夢中になって続けていたあいだ、バックベイ高校で卒業証書を取るために通うことができたんだ。だから俺はこう思っていた。「いったい俺は今何をやってるんだろう!?」ってね。」

    その答えは問い自身が答えているようなものだった。

    ラーズの良き友人ブライアン・スレイゲルも、より具体的かつ創造的な面ではあるが、ロサンゼルスでヘヴィメタルに囲まれた夏を過ごしていた。スレイゲルは毎日普通のレコード店で働くだけでなく、自分のお気に入りの音楽のためにインディーズから広範囲にわたるサポートが得られるよう働きかけていた。空いた時間にはファンジン「The New Heavy Metal Review」の編集者として地元のクラブショーを宣伝推進していた。加えて、趣味の全ての要素を一本化するプロジェクトに取り組んでいた。そのプロジェクトとは新しく若いアメリカのメタルバンドのコンピレーション盤である。充分なだけの今日的なバンドと曲を集めたら、自身のレーベル「Metal Blade Records」からコンピレーション盤『Metal Massacre』をリリースできるようスレイゲルはいくつかの販売業者と契約をしたのだ。

    ラーズ・ウルリッヒ「俺はその頃「バンドで演奏した」とかそういうことを触れ廻っていた。彼はLAの新しいクールなバンドたちでコンピレーション盤をと考えていた。もちろんそんなバンドは少なかったけどね。もし俺がバンドを組んだら、そのコンピレーション盤に収録してくれると約束してくれた。だからもはや俺は機能する何かのバンドを組まなければならなかった。今じゃセルフプロデュースのアンダーグラウンドなものはたくさんあるけど、当時はアルバムに収録されることがメジャーなことだったんだ。」

    ブライアン・スレイゲルの『Metal Massacre』プロジェクトの話を聞いた時、ラーズはすぐに反応した。ラーズには他の人もそのレコードに収録されることが不可欠なことだと感じるかもしれないという考えがあった。そしてこの方法なら、とてもシャイであまり乗り気ではなかったジェイムズ・ヘットフィールドをバンド結成に誘うことができるかもしれない。いずれにしてもラーズはスレイゲルにバンドを組んで、『Metal Massacre』アルバムのためにオリジナル曲を作ると約束した。それはコンピレーション盤に参加する全てのバンドの条件だった。スレイゲルも同様に「ラーズのバンド」のためにレコードに収録する空きを確保することを約束した。

    それからラーズはジェイムズ・ヘットフィールドに電話をする。

    「そうさ、俺はジェイムズ・ヘットフィールドには何かあると思っていた。」
    ラーズはそう語る。「だから俺は彼に電話して言ったんだ。「友だちがレコードに収録する空きを確保してくれたんだ。だからキミさえよければ、俺たちでバンドを組んで、曲を書いて、それで俺たちのバンドの名前をアルバムに載せようよ。それからバンドを続けようぜ!」ジェイムズはヒュー・タナーとやっていた全てのことがぶち壊しになっていて、新しく何かやる準備は万端だった。ジェイムズは6月に高校を卒業していて、ベーシストのロン・マクガヴニーと同時にノーウォークに引っ越していた。そこで彼らはリハーサルをしていた。俺たちは81年の10月には毎日集まって一緒にやり始めた。あの落ちまくったシンバルは忘れ去られた。あるいは少なくとも大したことじゃなかったんだな。」ラーズはそう付け加えた。

    (訳注:デンマーク訛りの)おかしなアクセントとすぐ落ちるシンバルを持ち合わせた小柄な男からの話という疑念はあった。しかしラーズ同様、若く熱烈なメタルファンであり子どもの頃からヘヴィメタルを聴いて育ったジェイムズにとってそのような好機に恵まれることはとても難しかった。

    ジェイムズ・ヘットフィールド(1963年8月3日生まれ)が8歳の頃、彼は兄デヴィッドの部屋に忍び込んではブラック・サバスの1stアルバムを聴いていた。そのレコードによって好奇心旺盛な幼いジェイムズはメタルのブラックホールへと引きずり込まれた。

    ジェイムズ・ヘットフィールドは『Black Sabbath』について筆者にこう語った。「全世界で最高のアルバムだよ(笑)。俺が大好きで、妹をとにかく怖がらせたジャケット。そしてあの音楽・・・。兄貴は俺より10歳年上だったんだけど、自分の部屋に自分のレコード・プレーヤーを持っていた。だからいつもこっそり忍び込んでは、あのアルバムを出して再生していた。それがトラブルを招いた。多くの家はまだそんなものは持っていなかった。ある友だちが家に来てあのアルバムを聴いていたら、そのうちの一人がこう言ったんだ。「えっ、キミのママはブラック・サバスみたいなものを本当にキミに持っていいって言ったのかい?」とね(笑)。でもトニー・アイオミは本当にヘヴィなリフをあのアルバムのなかで書いていた。俺にとって彼は究極のギタリストなんだ。」(1997年4月4日のインタビューにて)

    1978年、ジェイムズの兄はジェイムズにとって初めてのコンサートへと連れて行った。エアロスミスとAC/DCのコンサートで、15歳のジェイムズはこの体験を本気で楽しんだ。ファンの絶叫さえも。彼は世界中の何にも増してこれをやりたいと思ったのだ。

    ジェイムズは幼い頃、母親とピアノの演奏を学んだ。後に兄がリハーサルをしていた家のガレージに忍び込んでは別の楽器を試していた。学校教育で彼は初めてのギターを得た。そのギブソンSGは彼のギター・ヒーローであるトニー・アイオミが使っているものに見えるよう黒く塗られた。小さい頃、ジェイムズはオブセッション(Obsession)というバンドで、LAのダウニー東中学校の友人と一緒に演奏し始めた。ジェイムズはその後、ファントム・ロード(Phantom Lord)、レザー・チャーム(Leather Charm)といったバンドで演奏した。最初の頃はカバー曲を演っていた。(どちらのバンドもヒュー・タナーがギター、ロン・マクガヴニーがベース担当だった。)しかし徐々にジェイムズは他のバンドをブラック・サバスとシン・リジィの定番曲を演って打ちのめすよりも自分自身の曲を書きたいと思い始めていた。ただしバンドの仲間たちはオリジナル曲を作曲したいという願望を共有していなかった。そんな時にラーズが登場してきたのだ。彼はオリジナル曲を書くことを了承し、2人は音楽雑誌とインスピレーションの源を分け合った。ラーズはレコード会社との契約の一切を引き受けた。おそらくテクニックや才能よりも熱意と意志の強さが勝っていたであろう、この「ラーズ油田採掘会社」は、ジェイムズにとってそれほど問題ではなかったのだ。

    2人のティーンエイジャーは社会的にも個人レベルでも明らかに違っていた。ラーズはヘレルプの芸術的で自由で奔放な家で育った。一方、ジェイムズはLA育ちであり、ネブラスカ出身でカントリーミュージック愛好家のトラック運転手と、たとえ彼が日曜日は寝ていたいと思っていても愛ゆえに息子を教会にしょっちゅう連れて行くような、芸術的には才能があったがとても信心深い母親のあいだに生まれた息子だった。

    ラーズはいまだに両親が健在(訳注:母親のローン・ウルリッヒさんは1998年に亡くなっている。)で、彼らは優れた洞察力を持ち、とても活動的だ。ジェイムズはトラウマとなる幼少期を過ごした。父親は家を出て行き、続けて妹と衝突を繰り返し、ラーズと会うすぐ前には病気の母親が若くして亡くなっていた。ジェイムズはまだ死んだ母親とその悲劇によって、その後何年にも渡って彼を特徴付ける罪悪感で満たされた、ただの子どもだった。(それはメタリカの曲のなかにも影響している。この話にはまた後ほど触れる。)前述したようにジェイムズは10代のあいだ兄のデヴィッドと暮らし、高校を卒業してから家を出た。そしてこれも前に述べたようにロン・マクガヴニーとともに。

    そんなわけで2人の若者のあいだの行動的、そして社会文化的な違いは充分すぎるほどハッキリと存在していた。しかしラーズとジェイムズは最初の具体的な音楽の仕事、つまり『Metal Massacre』アルバムのために曲を書くという楽しみを分かち合ったおかげでうまくやっていくことができたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

    Young_Lars_and_James
    マーシャル・アンプとフライングVを前に若き日のラーズとジェイムズ。

    生まれた環境の違いを考えると、コンピレーション盤という「餌」を手にしたラーズが一番に連絡したのが、ジェイムズというのは不思議な感じがします。でも、音楽的嗜好や音楽に対する熱意に何か通ずるものを感じたのでしょう。そして、その連絡したタイミングが少しでもズレていたら、今のメタリカはなかったかもしれませんね・・・。

    次回は「大佐」が登場予定。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第2章2回目。有志英訳を管理人拙訳にて。ラーズとジェイムズが出会ってすぐにメタリカ結成とはならず。ラーズはヘヴィメタルの「本場」を自分の目で観るためにイギリスへと向かいます。

    - 夢の国への片道切符 -

    81年春、ラーズのNWOBHMへの狂信ぶりはいまだ健在だった。4月、ラーズは絶対的お気に入りバンドのひとつ、ダイアモンド・ヘッドの『Lightning Strikes』LPをメール便で受け取った。このアルバムは彼を完璧にぶちのめした。彼は半年以上もこのアルバムを待っていたのだ。ギターリフとバンドの新鮮味は彼を驚愕させた。『Lightning Strikes』は数年間のNWOBHM集中期における爆発的なクライマックスだった。いまやあの都会っ子はポケットに少しばかりの貯金を持った17歳の少年となっており、夏休みは目前に迫っていた。

    「学校が6月に終わると、俺は落ち着かなくなっていた。これまで興味を持ったもの全てがイギリスにあったんだ。「Sounds」誌を購読していたから、郵便屋が来るたびに「Soundsの最新号は?・・・Soundsの最新号は??」って感じさ。メール便に入ってたら、玄関前で2時間「Sounds」誌を読み漁るんだ。自分の部屋まで歩くことさえしなかったよ。」

    「ジェフ・バートンは「Sounds」誌におけるヘヴィメタルのゴッドだった。彼は毎週アンダーグラウンド・シーンから新しいバンドを紹介していた。そして毎週、彼のプレイリストと着ている服が載ってたんだ・・・。いやぁあれはバイブルだったよ!」

    「当時、サクソン、アイアン・メイデン、デフ・レパード、ガールスクール、サムソン、そしてタイガース・オブ・パンタンといったメジャーなバンドたちがトップ記事になり始めていた。ある週はガールスクールが表紙を飾り、次の週はクラッシュといった感じでね。「Sounds」はヘヴィメタルだけじゃなくて、全ての独立した音楽シーンを網羅していたんだ。」

    「だからもう俺はイギリスに行かなきゃなんないって思ってた。コトが起きている場所へ行かなきゃなんないって。81年の俺のお気に入りのバンドはダイアモンド・ヘッドだった。そして俺はバンドのマネージャーであり、ヴォーカルのショーン・ハリスのお母さんでもあるリンダ・ハリスと文通をし始めていた。彼女は俺にこう伝えてきてくれた。「もしイギリスに来るんだったら、いつでも歓迎するわ!」とね。」


    「ダイアモンド・ヘッドは6月最後の週と7月最初の週のあいだ、ツアーでヘッドライナーを務めていた。だから7月最初の週に俺は荷物を詰めてロンドンに飛んだんだ。ダイアモンド・ヘッドはロンドン郊外のウールウィッチ・オデオンでライヴをしていた。俺はヒースローに着くと、直接空港からウールウィッチまでバッグを手に持ったまま行って、バックステージのドアをノックして、リンダ・ハリスがここにいるかときいたんだ(笑)。「こんにちわ・・・ご存知かと思いますが・・・アメリカから来たラーズです!」って言ったら、両手を広げて歓迎されたよ。」

    「ロンドンのダイアモンド・ヘッドはこれ以上ないってくらいよかったね!会場はたぶん1500人収容だったんだけど、あのダイアモンド・ヘッドをたった300人しか見に来そうもないってことには間違いなくちょっと驚いたよ。でもそれから、そんなことはどうでもよくなったんだ・・・。ただ単に最高だった。そして(訳注:メタリカが後にカバーすることになる)「Helpless」も「The Prince」も演ってくれたんだから。」

    「ツアーの最終日、彼らの故郷であるバーミンガム郊外のスタウアブリッジに招待されたんだ。俺はちょうど立ち寄ることができて、彼らと何日か過ごすことができた。1日か2日はロンドンの安ホテルに泊まって、それからバーミンガムまで電車に乗った。本当に緊張したよ。ショーン・ハリスが駅まで俺を迎えに来てくれるって話だったからね。でもこの頃の俺はアルコールが「勇気」をくれると気がついていた。だからバーミンガム行きの電車で俺はスミルノフボトルのウォッカをストレートであおったんだ。まだ昼下がりだってのに!」

    ラーズはちょっと話を止めると、笑ってまた話し始めた。

    「そうそう(笑)。ショーンが駅まで迎えに来てくれたんだけど(笑)彼はガールフレンドのヴィッキーと一緒だったんだ。俺たちは車に乗り込んだわけだけど、わかっておかなきゃならないのは、あのショーン・ハリスと同じ車に座っているってことだ。レッド・ツェッペリンかディープ・パープルのファンがロバート・プラントかリッチー・ブラックモアに駅まで迎えに来てもらっているかのようだった。俺にとってはそれと同じレベルだってことだよ。ハッキリ覚えているのは車に乗って5分後くらいにショーンが俺に言ったこと。「ここウォッカ臭いな、オマエ飲んだのか?」とね。俺は「いやいやいや・・・もちろん飲んでませんよ!」と答えた。「本当にウォッカの臭いがするぞ、おかしいな」とショーンはまだ言っていた。もちろん俺は「ウォッカの勇気」をもらってたんだけどね(笑)。」

    「バーミンガム郊外の労働者階級の地区にある彼の家に着いた。実際、俺はここで2、3週間居座ることになるんだけどね!俺はリビングで生活して長椅子の上で寝ていた。そしてダイアモンド・ヘッドに関する全てのものに夢中になることを許された。リハーサル風景、作曲過程やギグも観たし、彼らが演奏しているところも見た。もはやこれ以上ないくらい最高だったよ。」

    この訪問はブリティッシュ・メタルの先駆者であるダイアモンド・ヘッドにとっても貴重な体験だった。

    「俺たちは彼を追い出せなかったんだ。」ショーン・ハリスは語る。(マーク・パターフォードとザビエル・ラッセル共著「Metallica : A Visual Documentary(邦題:Metallica 激震正史)」(1992)から引用)「でも俺たちにとってもちょっと特別な感じだったんだ。彼はバンドに夢中になってくれた最初の外国人だったから。だから俺たちは彼の熱意を気に病まなかった。だって、ファンがカリフォルニアからわざわざ自分たちを見に来たんなら、自分たちは何か正しいことをしていると思えたからね。」

    ショーン・ハリスはラーズが泊まった初めての夜にお気に入りのダイアモンド・ヘッドの曲でどう狂っていたかハッキリと覚えている。

    「でも彼はいい子だったよ。ひくほど熱心なファンだった。彼は一晩中起きて「It's Electric」を聴いているんだ。俺は明け方まで起きていたんだけど、眠ってしまった。数時間後に目が覚めたら、彼はまだそのレコードをかけていたよ!」

    ラーズはヘヴィメタル天国にいた。自分の国、言うまでもなくニューポート・ビーチへ早く帰りたいという証言などまったくなかった。もっと留まりたかったが、外向的で熱狂的であるにも関わらず、ダイアモンド・ヘッドと永遠に一緒にいるということは叶わなかった。お金の問題があったのだ。ラーズはイギリスへの旅行に必要なだけのお金しか持っていなかったし、おかしな話だが、イギリスという夢の国への片道切符しか予約していなかった。しかし、計画を達成するにはそれで充分だった。彼は前年去った街に戻っていた。

    「8月にコペンハーゲンに戻って、そこで4週間楽しく過ごしたよ。」ラーズは振り返る。「叔母のボーディルと叔父のヨルゲンと一緒にゲントフテで暮らした。そこでアメリカに飛んで帰るためのお金を稼いだんだ。(訳注:ラーズが所属していたテニスクラブ)HIKで働いて、そこで毎日舗床を掃除していた。」

    しかし、デンマークの晩夏にストリートを楽しむこともできた。皮肉なことにラーズがフロリダのテニス・アカデミーにいたあいだに、アイアン・メイデンはキッスのサポートでコペンハーゲンのブロンディー・ホールでライヴを行っていた。しかし今度はラーズがコペンハーゲンに戻ってきているのだ。そしてアイアン・メイデンも。バンドは『Killers』ツアー最後のギグを行なった。アイアン・メイデンへの関心はブロンディー・ホールでの不可解な行動の後、激変した。キッスは脅かされキャンセルとなったのだ。バンドはもはやブレッド通りのオッド・フェロー・パレットでヘッドライナーを張っていた。

    ラーズといとこのステインは当然参加した。ラーズにはコンサートが終わったらすぐに行動に出る奥の手があった。

    「1980年のクリスマスにアイアン・メイデンのクリスマスカードを受け取ったのがブライアン・スレイゲルだったと思う。彼はPRとか宣伝が得意なんだ。そのカードをヨーロッパへ持っていくことを許してもらった。オッド・フェローで、俺は警備員の一人に言ったんだ。「ほら、ボクはクリスマスカードを持っている。だからクリスマスト・リスト(訳注:バックステージ・パスのリスト?)に名前が載っているよ。バックステージに入りたいんだけど。」ってね。彼はまんまと騙されていたよ!(笑)」

    「俺たちは寒い更衣室に着くと、スティーヴ・ハリスとデイヴ・マーレイがそこにいた。とても取っ付きやすい人だったよ。ポール・ディアノはひどく酔っ払っていて、ローラースケートを履いていた。「イイものあるけどいるか?」ってきかれて、アフガンブラック(訳注:大麻)みたいなものを作らなきゃならなかった。それから座ってポール・ディアノと大麻タバコを吸ったんだ。」

    ステイン・ウルリッヒ「彼らはみんな信じられないほどフレンドリーでみんな「おいで!」って感じだった。もちろんラーズは彼らについて俺なんかよりずっとよく知っていたけど、いろいろきいていたよ。後になって、ラーズは俺に彼らはシンガーに欠点があると言っていた。だから彼らが新しいメンバーを入れればいいのにと思ったのを思い出すよ。そしてそれを数週間後にやったんだ。それから彼らはビッグになった。(真の意味で)バンドになったんだよ。」

    確かに。ラーズはバンドで機能したかしなかったかを見極めるセンスをすでに持っていた。ポール・ディアノの脱退、そして新しいシンガーで元サムソンのシンガーのブルース・ブルース(ブルース・ディッキンソン)加入のニュースは、再びバーミンガムのスタウアブリッジに滞在していたラーズに届いた。このときはダイアモンド・ヘッドのギタリスト、ブライアン・タトラーと一緒だった。止められないヘヴィメタル巡礼者ラーズは、いまだにヘヴィメタルが無きに等しいアメリカへの帰途、ヘヴィで崇高な啓示を受けるもう数日を要しなければならなかった。

    ラーズはまず、ストーク=オン=トレントのポート・ヴェイルFCで行なわれた本物のヘヴィメタル・ミサに行った。そこではモーターヘッド、オジー、ライオット、サクソンのような名前が連ねたワン・デイ・フェスティバルのヘヴィ・メタル・ホロコーストが行われていた。

    「もちろん俺はコンサート後に何とかしてバックステージに忍び込もうとした。俺はそういうことがかなり得意だったんだ。」ラーズは皮肉っぽく言ってから、1981年夏の幸せなイギリス訪問の後半について話し始めた。

    「"ファスト"・エディ・クラークのギター・ローディーのグラムと仲良くなった。それから俺は「やぁ!」とか「ハロー!」とか言われていた。モーターヘッドと一緒にいることを許されるまでになった。1週間、ブライアン・タトラーと暮らして、3日間ロンドンに行った。そこでノー・ミスと呼ばれていたモーターヘッドがリハーサルをしていた場所をみつけた。そこへ行って、ドアをノックしてみたんだ(笑)そしたらモーターヘッドのリハーサルに立ち会えたよ!昨日のように覚えているよ。"ファスト"・エディとフィルシー・"アニマル"・テイラーとレミーと俺が同じ部屋で座っているんだ。そこは次のアルバムのための曲を作っている場所だった。彼らを見て、フロアに座ってさ、「Iron Fist」を作っているときのことをよく覚えてる。レミーが俺の真ん前で歌詞を思いついて、彼らが次のアルバムのタイトル曲になる「Iron Fist」を弾くのを見たんだ。」

    「同じことを言うようだけど、それはレッド・ツェッペリンのファンが『Physical Graffiti』の曲を彼らによって作られているところを見ているようなものだよ。変な感じだったけど、俺はそういう取り巻きグループに正しく入る方法を持っていたってだけだよ。」


    本当に驚くべき能力だ。その能力はユニークで長年に渡って素晴らしいままであった。それはラーズ本人さえわかっていない。

    「俺はたぶん真っ当なことを言っていたんだ。あるいはいくらかの熱意、誠実さ、あるいはバカさ加減かな?」彼はそう思った。

    「でも釣り合うようになるには、そういうもの全てが充分だった。シーンで何が起きているかを理解できたんだ。俺はそこまで没入してなかったけど、すぐそこにいることを許されていた。たぶんうやうやしい態度とちょっと際立った感じだったからかもしれないね・・・。「デンマークの鼻タレ小僧が外に立っているぞ・・・かまうもんか!」ってね。俺は外に立っていた唯一のファンだった。もちろんそういうバンドがどこにいるのか知っている唯一のファンでもあったわけだけどね(笑)」

    ラーズは心から笑った。自分の「能力」を、自分自身を、若き日の熱意を。そしてあの頃の思い出を。自然と歯に衣着せない積極的な能力は、おそらく子供の頃、世界を廻ってたくさんの人々との出会い、そしてLundevang通りの家に訪れたミュージシャンやアーティストから来たのではないだろうか?

    「まぁ、たぶんそうだろうね!全部。あの頃、つまり親父がコペンハーゲンで一緒にいたすべてのミュージシャン、フランツ・ベッカリーとかそういう近くにいた全ての人々から来ているのは間違いない。俺はたぶん見えない境界線があるのも理解していた。そんな境界線はスミルノフをいただけば消えるけどね。無知だったこともあるかな。俺はノー・ミスに行けばモーターヘッドの人たちと喋ることができると信じていたんだ!」

    いずれにしても、ラーズ・ウルリッヒはそうなることを強く望んでいたのだ。彼は自分のプロジェクトをやり遂げた。さらにファンとしての夢をめいっぱい追い続けたのだ。都会のヘヴィメタルマニアにとって、1981年の夏は魔法にかかったかのようだった。そんな夏はこの年の終わりまで続いていったのである。

    「10月、俺はまだイギリスにいた。あの忌々しいコロナ・デル・マーは9月中旬に新学期が始まっていた。だから俺はすでに「最終期限」を逃してしまっていたんだ。戻ることに特に興味がなかったから、イギリスで立ち往生し続けていた。ふっ(笑)。でも10月中旬には戻った方がよかったんだ。」

    「でもサクソンとライオットのコンサートが(訳注:イギリス南東部の)ブライトンであったから、俺は行ってライオットの人たちと会うためにバックステージに忍び込んだ。サクソンはもういなくなっていたんでね。その翌朝、LA行きの飛行機に飛び乗ったんだ。」


    ラーズは戻った先ですぐにサクソンとも接近することとなった。直に接したわけではないかもしれないが、ラーズがヘヴィメタルの熱狂的なファンから、自分のアイドルたちをサポートするバンドの結成メンバーになるまでわずか半年であった。

    ロックにおける歴史的規模の変革が起きようとした。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

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    1993年、ミルトンキーンズ・フェスのバックステージにて。左からショーン・ハリス、ラーズ・ウルリッヒ、ブライアン・タトラー

    ラーズの恐るべき行動力はここに来てさらにエスカレートした感があります。イギリスと離れたところに住んでいたことさえも逆にアドバンテージにしているような・・・。

    途中出てきた『METALLICA激震正史』についてはこちらからどうぞ。
    http://metallica.ninja-web.net/books.html#gekishin

    第2章はこれで最後。次回の第3章ではついにラーズがメタリカ結成へ動きます。

    ※麻薬、ダメ、ゼッタイ

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    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第2章1回目。有志英訳を管理人拙訳にて。(日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。)
    コペンハーゲンからロサンゼルスへと引っ越したラーズ・ウルリッヒがついにテニスと決別し、バンド結成へ動き始めます。

    - Lundevang通りからロサンゼルスへ -

    ウルリッヒ家はカルフォルニア州ロサンゼルス南部ニューポート・ビーチでいわゆる「コンドミニアム」の(訳注:あくまでデンマークのときの家と比べて)小さな家に引っ越した。1階にキッチンとダイニングとリビングルームと2つの寝室、そして2階にはゲスト用の寝室。ラーズの部屋には初めてTechnicsのステレオにJBLのスピーカーが据え付けられた。部屋の残りの壁はレコードでビッシリの棚で覆われた。

    (いまだに彼の家にある)茶色い机はLundevang通りの家から持って来れたが、残念なことにドラム・セットを置くスペースはなかった。もちろんドラムを演奏するためにわざわざ大西洋を横断することはしなかった。しかしテニスをし、高校・大学の試験をパスする傍ら、ファンとして娯楽レベルで音楽への関心を保ち続けていた。

    引越しの身支度で外せない重要なこととして、音楽シーンに触れ続けていくために、ブリストルのケン・アンソニー、イギリスの通販会社、そしてイギリスの週刊音楽誌「Sounds」の予約購読課へ自分の新しい住所を伝えることが必要だった。

    ヨーロッパから最新のレコードを得るためにお金が必要になったラーズは、すぐに新聞配達員の仕事を始めた。毎朝4時から5時まで「Los Angeles Times」を配達したのだ。学校に行く前までに配達を終えなければならなかったが、幸運なことに運転免許証をすでに取得していた。両親は喜んで自分たちのライトブラウンの白いルーフ付きペーサー(アメリカン・モーターズの販売車種)をラーズに貸した。

    ラーズは9月の初めからコロナ・デル・マー高校に通い始めた。子供の頃のように自転車で学校に行き、それからテニスの練習をしたのだ。しかし場所や気候面を超えた明らかな違いがそこにはあった。

    「学校の近く、2マイル(約3キロ)くらいのところに住んでた。毎日学校まで自転車さ。おかしなもんだよ。ご近所さんはかなり裕福だった。俺はこれまでと違う上流階級に慣れていなかった。何が違うって、もちろんアメリカにいるってことがね。俺たち家族はヘラルプにいた頃は自分たちが裕福だとは本当に思わなかった。階級の違いなんて知らなかったんだ。ニューポート・ビーチではピンクのラコステTシャツを着た16歳のヤツらがあたりにウジャウジャ突然あらわれるようになったのさ。」

    「その輪の中に入っていくのは俺にとって変テコで驚くべきことだった。俺は毎日、サクソンやアイアン・メイデンやモーターヘッドのTシャツを着て学校へ行って、フットボールをしていた筋肉ムキムキのヤツらと一緒にいた。俺はそう(筋肉をつけたり)はしなかったけど、(パール・ジャムの)エディ・ヴェダーや(ニルヴァーナの)カート・コバーンのインタビューで耳にしそうな、いじめられたり、「俺はのけ者だ」みたいなことはなかった。そんなに悪くはなかったよ。テニスをして、ヘヴィメタルを聴く。ケンにデンマークとイギリスから送ってもらったレコードを持って、学校に行って、そんな自分の小さな世界のなかで生きていたよ。間違いなく俺はちょっと・・・まぁ「ユニーク」だった。でも学校からの帰り道でぶん殴られるようなこともなかった。そんなことは一切なしだ。学校へ行って、スペイン語と少しばかりジャーナリズムについて勉強して、メタルを聴いて、アイアン・メイデンTシャツを着て歩き回り、テニスを続けようとしていたんだ。」


    「そこで実際に何が起きたかというと、自分には充分な才能や積極性がなかったし、あのテニスチームにいる資質さえなかったと気付いたということだ。それが1980年から81年のあいだで、そんなことに気が付き始めたもんだから、たぶん俺が想像していたような方へ転がり始めたんだよ(笑)」

    大きな望みを持っていたテニス界からラーズを突然引き離したのは直観ではなかった。長く意識的なプロセスと環境の組み合わせの結果だった。

    「コンサートに行き始めたからさ。AC/DC、ヴァン・ヘイレン、テッド・ニュージェント、シン・リジィ、パット・トレイヴァーズとかその他いろいろとね。2種類のコンサートがあった。つまり、ロング・ビーチ・アリーナやLAフォーラム、サンタ・モニカ・シヴィックでやるような大きなアリーナ・ライヴと、スターウッド、ウイスキー(・ア・ゴー・ゴー)、トレバドールといったハリウッドのクラブでやるようなライヴがね。1980年も終盤になると、そんなクラブ・シーンを楽しんでいた。最高だったのはイエスタデイ・アンド・トゥデイってバンドを観た時だね。彼らがY&Tと名乗る前に4、500人ぐらい入る小さなスターウッドでライヴをやっていた。ウチの親は俺に車を貸してくれた。俺はあのクラブで立ち見したのをハッキリと覚えているよ。」


    「あれは本当に最高な時間だった。バンドはヘヴィメタルを楽しんでいた。本当にロックンロールの雰囲気があったよ。そして、最大500人のためにライヴをやるようなレベルのバンドになる方が、テニスで走り回ったり、もがき苦しんだり、練習や真剣な鍛錬のために走ったり、腕立て伏せしたり、ビール禁止、ハッパ禁止なんてことやるよりもずっといいじゃないかと思ったのを覚えているよ。あの夜に感じた自由をよく覚えている。俺たちみんな楽しんでいたし、限界も何もなかった。ロックンロールの自由という素晴らしいゲーム、それはあのレベルに行くまで何か始められるか試してみるには充分な魅力だった。それからテニスとかくだらないこと全てを指で弾き飛ばしたんだ。」

    いつもどおり、ラーズは考えたら即行動に移した。すぐに新しい夢を追いかけ始めたのだ。

    「コペンハーゲンでは俺の地下室の部屋でドラムを叩いていた。そして80年12月、俺はこう思い始めた。「よし、アメリカでドラムセットを手に入れるにはどうしたらいいだろうか、うーん・・・」そうして俺は親父にあの有名なセリフを言ったのさ。「今からバンドを組んで、ドラムセットを手に入れて10日でドラムの演奏を勉強しようと思う!」ニューポート・ビーチから10分から15分くらいのところのサンタアナにあるウエストコースト・ドラムっていうドラムの店があった。ウチの親はそこで小さな茶色のドラムセットを借りることを許してくれた。住んでいたコンドミニアムは2階があったけど、そう大きくなかった。だから両親の部屋と俺の部屋のあいだにあったゲスト用の寝室にあのドラムセットを置かなきゃならなかった。窓をマットレスで覆って、それからドラムを演奏したんだ。ま、と言うよりはドラムを演奏しようとしていたという方が正しいかな。」


    新しくデザインされたドラムルームにはトーベン所有のAIWAのテープレコーダーがあった。ラーズはそれを使ってドラムの演奏を学ぼうとした。当然のことながら10日以上かかることとなった。しかし彼は1980年最後の数週間、毎日ドラムを叩いて過ごしたのだ。

    「当時の俺のお気に入りはダイアモンド・ヘッド、タイガース・オブ・パンタン、そしてトレスパス(Tresspass)と呼ばれたバンドやその他そういった類のバンドだった。ドラムの演奏を学ぶ代わりにヘッドホンでバンドの曲を聴きながら、それに合わせて叩いていた。そんなことがクリスマスまで続いていたんだ。クリスマスも日柄一日ドラムを叩いて過ごしていたよ。」


    ドラムを叩くことで、ラーズの中で新しく決定的な何かに火がついた。

    家族と住んだニューポート・ビーチは、ブリティッシュ・ヘヴィ・メタルの若いファンが街角のいたるところに必ずしもいるわけではなかった。しかしロサンゼルスは大都市で、当然、彼のような情熱の持ち主はまったく一人というわけではなかった。前述したクリスマスにラーズがドラムを叩いていたことで、ドイツ人ギタリスト、マイケル・シェンカー(70年代のバンドでラーズのお気に入りのひとつ、UFOに在籍)のカントリークラブでのコンサートへとつながっていく。そこで2人の地元のヘヴィメタルファンが長髪で間違いなくヨーロッパのサクソンTシャツを着ていた小柄なラーズに目をつけた。この時だけは、話の主導権を握ったのはオープンマインドなラーズではなかった。しかし、ウッドランドヒルズからやって来たわずか4歳年上のブライアン・スレイゲルとその友人、ジョン・コーナレンスもそこではヘヴィメタルファンは自分たちだけだった。つまり熱狂的なラーズ・ウルリッヒと同じ境遇だったのだ。

    コンサートの後、2人はラーズの元へ行き、見かけない変わったTシャツについて尋ねた。ラーズはデンマークからLAに引っ越したばかりであることを彼らに話した。1週間ほど後には、3人でラーズの家でヘヴィメタルのレコードを聴いていた。彼らはすぐに仲良くなり、必ずしも近所にはなかった真っ当なレコード店へ遠出する用意をした。ブライアン・スレイゲルもラーズと同様、積極的で創造的だった。彼はここから1年しないうちにラーズが夢のバンドを始める手助けをすることとなる。

    年が明けてすぐ、希望に満ち溢れたラーズはロサンゼルスの新聞「The Recycler」に広告を出した。

    「みんながそこで中古車、家具、カーペット、台所用品を売っていたよ・・・。それにたくさんの広告があったんだ。『彼女募集中』『ゲイの彼氏募集中』とかね。「ミュージシャン」の欄にはマーシャル・アンプやドラムも売っていたし、個人的な欄つまり『バンドメンバー募集中』とか『加入バンド募集中』とかもあった。そこで俺はこんな広告を出した。『ヘヴィメタルのドラマーがヘヴィメタルバンド結成のために他のミュージシャンを探しています。影響を受けたバンド:タイガース・オブ・パンタン、ダイアモンド・ヘッド、エンジェル・ウィッチ、ホワイト・スピリット』」

    「そうしたら電話が鳴り始めた。でも毎回バカの一つ覚えみたいに「イェー!ヘヴィメタル!エンジェル・ウィッチだかダイアモンド・ヘッドだかは聴いたこともねぇけど、カンサス、スティクス、ジャーニーはマジで好きだぜ!」っていう感じだった。ヴァン・ヘイレンを聴いていたヤツやジューダス・プリーストは聴いたことあるかもってヤツもいたっけ。当時のLAにアンダーグラウンド・シーンなんてなかったんだよ。アメリカのFMラジオで流れているアメリカン・ハードロックしかなかったんだ。」

    ラーズは彼らを(NWOBHMへ)転向させることができるかもと希望を持って、さまざまな若いミュージシャンのうちの何人かと会いはじめていた。

    「大概は連絡してきたヤツがやって来ると、俺がタイガース・オブ・パンタンとダイアモンド・ヘッドを聴かせる。俺の考えとしては、こういうバンドに影響を受けたバンドを作りたかったんだ。でも実際はカバーバンドを作ることに、より一層興味を持っていた。NWOBHMカバーバンドをね!LAにいるバンドはカバーかオリジナルだったけど、カバーバンドはみんなヴァン・ヘイレン、ジャーニー、キッスの曲ばかりだった。だから俺は言ったんだ。「俺たちでカバーバンドを作ろう。でもみんなが知ってるような曲はやりたくない!」ってね。それは誰も本当に理解できないような新しい(カバーともオリジナルとも)どっちとも言えないスレスレの領域みたいなものだった。」


    ラーズはニンマリとして話を続ける。「初めて何かを始められたのはジェフ・ワーナーってヤツと。奔放でほれぼれするヤツだった。彼はヘヴィメタルなタイプだったから、俺は彼に曲を聴かせたんだ。ワーナーは本当に初心者だったんで、トレスパスの曲を何曲か台無しにしてしまって、実際には数ヶ月で他に何かないかと思っていた。それからある日、俺たちはジャマイカから来た黒人のロイド・グラントってヤツと会った。彼はヒッピーみたいな出で立ちで、フライングVとマーシャルのアンプを持っていた。サイケデリックなリードギターを弾けたってだけで、俺たちは彼のことを「ブラック・シェンカー」って呼んでいたよ。本当によかった。彼はそんなにギターを弾けるわけじゃなかったけど、本当にすごいソロを弾けたから、ジェフにはリズムギターをやってもらうことにした。それが最初のプロジェクトだった。」

    「そうして俺は81年春にはそのプロジェクトをやっていた。それから、1人だったか2人だったかがもう興味がなくなったとかそういうことで止めてしまったんだ。俺はコロナ・デル・マーに通いながら、変わらず広告を出して、いろんなイカれたヤツらと会っていた。でも81年5月、ヒュー・タナーってヤツから電話があった。彼と会ったことはクールだったね。彼はリード・ギタリストだったんだけど、彼と一緒にもう一人いたんだ。ペーサーにドラムセットを積む空きスペースがあったんで、俺が彼らに車で会いに行った。場所はフラートンだったか、ブレアだったか、まぁどこであろうと、俺たちはそこで伝説的な初めてのジャムをしたんだ。俺とヒュー・タナーと、電話では話していなかった第三の男、ジェイムズ・ヘットフィールドとね。」

    「俺は当時たった半年しかドラムを演奏したことがなかった。だから何も特別なものはなかったけど、少なくとも曲のペースは保っていた。初めてのジャムではヒュー・タナーがギターで、ジェイムズは歌っただけだった。とても良かったんだけど、俺が叩くたびにシンバルが落ちたんだ!あれは本当にマズかった。特別な何かはなかった。俺たちはちょっと話してから言ったんだ。「連絡を取り合おう」とね。でも部屋の隅に立っていたヘットフィールドのことはとても興味深いと思っていたよ。」

    ラーズとヘットフィールドは初めてのジャムから数ヶ月経っても、ほとんど話すことはなかった。しかしついに彼らは少なくともお互いの電話番号を交換し、どんな音楽が好きかをやり取りしたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

    lars_james_8
    80年代初頭のジェイムズとラーズ

    Y&Tがラーズ・ウルリッヒにミュージシャン志向となるきっかけを与えたとは知らなんだ。そして、ついにと言うかようやくと言いますかジェイムズ・ヘットフィールドが登場してきました。叩くたびにシンバルが落下するというラーズにとっては気まずいジャムから始まった出会いですが、人生何があるかわからないものです。

    このまま両者が接近すると思いきや、次回は思わぬ方向へ物語が進みます。


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