メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:フレミング・ラスムッセン

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    2017年12月5日(火)発売予定のBURRN!2018年1月号はメタリカの29ページの巻頭特集。
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    ラーズ・ウルリッヒとカーク・ハメットへの個別インタビュー、ロンドン公演リポート、そして特集回顧録「METALLICA EARLY DAZE」、プロデューサーのフレミング・ラスムッセンのインタビュー等を掲載とのこと。

    その他詳細は以下の画像をご覧ください(クリックで画像拡大)。
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    BURRN!2018年1月号


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    Podcast「Alphabetallica」にて、メタリカと共に『Ride The Lightning』『Master Of Puppets』『...And Justice For All』と3枚のアルバムのプロデュースを行ったフレミング・ラスムッセンのインタビュー。UltimateGuitar.comの文字起こし部分を管理人拙訳にてご紹介。

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    −レコーディング過程について

    我々は最初にリズムギターでドラムを録っていた。ガイドとなるリズムギターだけでね。全部を演奏することもあったけど、ドラムを録っとくだけでそれからドラムの上にリズムギターをのせていくんだ。普通はドラム、ベース、ギター、ヴォーカルとやっていたからね。当時はそうやっていた。

    でも私は最初にリズムギターをレコーディングした。明らかにリフをベースとした音楽だったし、ベースさえもほとんど同じリフを弾いていたからね。私はジェイムズの卓越しているリフを弾く感じが欲しかったし、クリフにはそれに従って演奏して欲しかった。

    ベーシストによって解釈されるのではなく、(ジェイムズによって)リフが書かれた時の感じを得たかったからだ。だからそう、まずリズムギターをやったんだ。クリフにとってそれが本当に良かった。彼はライヴという状況に慣れていたからね。彼が演奏するトラックがほぼ完成すると、彼はたくさんいいプレイをするんだよ。彼はヒッピーみたいでルーズな男だったから、ヘッドホンが好きじゃなかった。だから大きな部屋にスピーカーを繋げて曲を大きく響かせて、アンプを一人だけの部屋に設置していた。彼は飛び跳ねながらベースを弾くんだ。あれは本当にクールだったね。


    −「Welcome Home (Sanitarium)」について

    「Sanitarium」のイントロは大好きだよ。ヘッドホンで注意深く聴けば、最初のギターはモノラルでやってる(とわかる)。実際にそうやってレコーディングしたんだ。ドラムが入ってきた時に私がスイッチをちょっとイジってステレオにしたってわけ。これは実際に私がロイ・トーマス・ベイカー(訳注:クイーンのデビュー作から5作目の『華麗なるレース』までを手がけた名プロデューサー)から学んだことなんだ。彼はそういうことをクイーンのアルバムでよくやっていた。それが本当にいい音だったので、これこそあれをやるところだと思ったんだ。モノラルで幻想的なサウンドからステレオでとてつもないサウンドになってくというわけだね(笑)

    −「For Whom the Bell Tolls」について

    「The Bells」は我々がクリック・トラックをやった最初の曲だった。タイトにしたくってね。あれはたしか私が「彼らはおそらくスピードアップするから、あれが必要だ」と言ってやり出したんだ。彼らはライヴという状況に慣れきっていたから、(アルバムをレコーディングするために)スタジオ入りした時にクリック・トラックが何なのかわかってなかった。


    UltimateGuitar(2017-08-19)

    インタビュー全編はこちらから。


    51分と長尺ながら、デンマーク人であるフレミングとラーズ・ウルリッヒがレコーディング中にデンマーク語で会話をしていたら、ジェイムズ・ヘットフィールドが何言ってるかわからん!と怒り出した話や『...And Justice For All』のレコーディングをガンズ・アンド・ローゼスの『Appetite for Destruction』を手がけたマイク・クリンクと始めたがうまくいかなかったこと等々興味深い話をいくつも披露しています。

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    フレミング・ラスムッセン、メタリカの過去のアルバム制作について語る

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    前回の続き。ラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット、そしてプロデューサーのフレミング・ラスムッセンがクリフ・バートンとの思い出や、30年経った今『Master Of Puppets』がどういう位置づけにあるのか語ってくれました。管理人拙訳にてどうぞ。

    メタリカは 友人であるデンマークのオカルト・メタル・グループ、マーシフル・フェイトとパーティーを開くことによって、(アルバム制作の)セッションのあいだ、くつろいでいた。「俺たちはバーに出かけては飲んでいたよ。」ハメットは語る。「ライアーズ・ダイスのビッグゲームに夢中になったのを覚えているよ。終いには俺たちとマーシフル・フェイトで酔っ払いレスリング・マッチになったんだ。まったくバカ騒ぎだったね。俺たちはバーのなかでレスリングを始めて、どういうわけか通りまで出ていた。俺たちはずっと笑って、ただ飲んだくれて互いに傷つけることはなかった。それが俺たちが抱いていたモヤモヤやフラストレーションや先々の不安なんかを吹き飛ばす方法だったんだ。」ハメットはそう続けた。

    どんなにメタリカに不安感があっても、彼らはレコードでそれを表すことはなかった。『Master Of Puppets』の楽曲のなかで最も大胆なものの一つが8分半のインスト曲「Orion」だ。生々しい感傷的なベース音で幕を開け、軍隊のようなリズムギターのラインでフェイドアウトする前に、グルーヴを効かせたジャムに移行し、陰鬱と希望のあいだを行ったり来たりするソロもある。「クリフが本当に良いこのメロディー・パートを思いついたんだ。メロディーがとても強力だから、そこにボーカルは必要なかったんだよ。」ラスムッセンはそう語る。

    「俺にとって「Orion」はクリフ・バートンの白鳥の歌(訳注:普段鳴かない白鳥が死を前に美しい歓喜の歌を歌うという伝説がある)なんだ。あれは本当に素晴らしい楽曲だ。彼は全ミドル・セクションを書いていた。彼はどんな方向に向かっていくのか俺たちに視点を与えてくれた。もし彼が俺たちと共に(この世に)留まっていたら、彼はさらに先に行っていると思う。俺たちのサウンドは彼がまだここにいたら、違っていただろうね。」ハメットはそう語る。「彼は他のメンバーとは違った感覚とアプローチを持っていた。大歓迎だったよ。」彼はそう続けた。

    セッションを終えると、ラスムッセンはバンドのシビック・オーディトリウムのショーのために、ベイエリアに戻ることになったウルリッヒのドラムのフライトケースにテープを詰める手助けをした。そのショーで彼らは「Master Of Puppets」「Disposable Heroes」をアメリカで初披露した。次にバンドがショーを行った時には、『Master Of Puppets』がリリースされて数週間が経ち、その後のツアーがバンドを永遠に変えたのである。

    1986年3月から8月まで、メタリカはオジー・オズボーンの前座として「Damage Inc.」ツアーにそのほとんどを費やした。オズボーンは2009年に「彼らは常にとても良いバンドだった。俺たちは1つのツアーを一緒にやった。思い出すよ…俺は新世代にトーチを手渡せることができて光栄に思うよ。」と回想している。

    ヘットフィールドがスケートボードで腕を怪我するまでは、ツアーは順調に進んでいた。ローディーでメタル・チャーチのメンバー、ジョン・マーシャルがリズムギターを弾いて、メタリカはツアーを続行した。オジーのツアーが終わると、彼らは1か月のオフを取ってから、2週間に渡ってヨーロッパまでツアーの足を伸ばした。9月26日のストックホルムでのギグがフロントマンの腕が治り、この数ヵ月で初めて彼がリズムギターを弾いたライヴだった。そしてクリフ・バートン最後のコンサートにもなってしまった。

    ウルリッヒは言う。「『Master Of Puppets』から30年ってことは、今年はクリフの死から30年なんだな。クレイジーだね。30年だって?ファックだ。」

    ストックホルムのショーの後、メタリカのメンバーとクルーたちはツアーバスで次のコンサートのためにコペンハーゲンに向かっていた。朝6:30頃、車は道路の外へとスリップした。ハメットは寝台から投げ出されて黒目を損傷し、ウルリッヒはつま先を怪我した。バートンは車の窓から投げ出され、車両が彼の上に転倒し下敷きとなった。彼は24歳だった。

    運転手は過失致死罪で起訴されたが、有罪判決にはならなかった。事故は道路に張っていた薄氷のせいとされた。『Metallica Unbound』によると、ヘットフィールドとハメットは運転手に向かって叫んだという。クレーンでベーシストからバスを持ち上げるのを彼らが待っているあいだ、ヘットフィールドはスリップさせたものを探しに道を駆け出して行った。ヘットフィールドはその夜、2つのホテルの窓をぶち壊した。ハメットは事故でとても動揺していたため、電気をつけたまま眠りについた。Guitar Worldはベーシストの葬儀が10日後にベイエリアで行われ、葬儀のあいだ「Orion」が流されていたことを報じた。

    「クリフは本当にユニークだった。彼は猛烈に自分自身というものを保持していたんだ。カメラマンは「クリフはそんなダブダブのベルボトムを履くべきじゃない」とか何とか言ったかもしれないが、彼は自分自身というものを守り続けたんだよ。」ウルリッヒはそう語る。



    「彼はこう言うだろうね。「まぁ、とにかくまたファッション界が(ベルボトムに)戻ってくるまで俺は履くよ。それに俺、これが好きだし。」ってね。彼は私が会ったなかで最高に素晴らしい人物のひとりだ。紳士な偉人さ。でも(他に)誰が80年代にベルボトムを着ていたんだい?」ラスムッセンはそう語る。

    ウルリッヒは言う。「彼はユニークであり、自律的だってことを表に出していた。それが明らかにメタリカの大きなメッセージのひとつになっていた。あんなヤツ、他にいないよ。」

    ドラマーは最近、バートンについてたくさんのことを考えるようになった。彼は『Kill 'Em All』と『Ride The Lightning』のデラックス・リイシューと共に(『Master Of Puppets』制作当時について書かれた)書籍『Back To The Front』に取り組み、昔の写真をじっくり見るようになった。「実際、別の日に俺たちが昔の写真を漁っている時、カミさんに言ったよ。「彼はピッタリした照明を当てればとてもイケメンだったんだ」ってね(笑)」ウルリッヒはそう言って笑う。「あの当時を振り返ると、俺たちはみんな野暮ったくて、何か剥奪されていた。「イケメン」がかつてメタリカにいたかは俺にはわからないけど、彼がとてもハンサムでイケメンな写真がいくつかあるんだ。彼は惹きつけるものを持っていたし、彼が望んだようにとても魅力的な性格をしていたよ。」

    バートンの死からまもなく、メタリカは活動続行を決めて新しいベーシストを探し始めた。彼らは数十もの見込みある四弦を使う人物をオーディションしたが、最終的には、それ以前はフロットサム・アンド・ジェットサムでプレイをしていた23歳のアリゾナ州フェニックスのミュージシャン、ジェイソン・ニューステッドに決めた。

    1986年11月の最初の週に『Master Of Puppets』はメタリカのレコードで初のゴールド・ディスクとなった。それ以降、アメリカだけで600万枚以上を売り上げることとなった。その同じ週、1986年11月8日にメタリカは「Damage Inc.」ツアーを再開した。それはニューステッドにとって初めての公式のショーとなった。「クリフは芸術的なアプローチを持っていた一方、ジェイソンはとてもテクニカルだった。彼は完璧に演奏していたよ。クリフはもっと音楽的だった。」ラスムッセンはそう語る。

    2016-metallica

    ニューステッドは2001年までバンドに在籍した。彼の在籍中、バンドは1988年の『...And Justice For All』の「To Live Is To Die」に未使用だったバートンのリフを組み込んだ。2003年、元スイサイダル・テンデンシーズ、オジー・オズボーンのベーシスト、ロバート・トゥルージロが加入。しかし誰がバンドに入ろうとも、ウルリッヒはバートンと過ごした時間を大切にしている。

    ドラマーは言う。「彼についてはたくさんのことを考えるよ。あの編成のサウンドという点であの3枚のレコードで俺たちがやってきたことはとてもユニークなことだった。ジェイソン・ニューステッドに神のご加護を、ロバート・トゥルージロに神のご加護を。彼ら自身とクリフの死からメタリカにもたらしてくれたものに。でもクリフは本当に彼自身がキャラクターだった。それは1ミリも変えられない。ますますそのことは明らかになっているよ。」

    10年前、メタリカは『Master Of Puppets』を創り上げた時のやり方を評価し始めた。メタリカが彼らの最新アルバムである2008年の『Death Magnetic』の曲作りを始めた時、プロデューサーのリック・ルービンが『Master Of Puppets』を制作した頃に聴いていたレコードについて考えるよう求めたのだ。「それを再作成しようとせずとも何か触発されたり影響を受けたりすることができる。」ウルリッヒによると彼はそう言った。(このプロデューサーは先月「彼らと一緒に仕事をする上で主な目標は、彼らにメタリカを再び受け入れさせるということだった」とRollingStoneで語っている。)明らかに触発されたバンドは2006年のヨーロッパツアーで『Master Of Puppets』の完全再現をやることを決めた。それはバンドにとってのターニング・ポイントとなった。

    ウルリッヒはこう語る。「大いに楽しませてもらったよ。俺たちはノスタルジアなことにはちょっと慎重だったんだ。でもやってみたら本当にクールだった。自分たち自身をバックミラーで見ることを許し、過去にやったことについて気分良く感じるのは初めてのことだった。俺たちはいつも繰り返しになることを恐れていたし、ほとんど過去を否定していたと言ってもいい。でもあれは良いと感じたんだ。」

    ハメットが発見したのは、『Master Of Puppets』の伝説がユニークな方法で成長を続けているということだった。「最も驚かされたことは、俺がラジオであのアルバム収録曲の何かを聴いた時に起きた。それ以前、それ以後に生まれたその他全ての音楽の中心に、いまだにあのサウンドがある、どれだけ現代的でモダンなんだって驚いたね。あれには感謝しているよ。あんなことはいつも起きるわけじゃない。」彼はそう言う。

    1988年のLP『...And Justice For All』の共同プロデューサーとしてメタリカと組んだラスムッセンは、『Master Of Puppets』を強奪されて聴くこともままならなかった。文字通りに。「まさか自分で『Master Of Puppets』のCDを持つことになろうとは思わなかったよ。子供たちが私の『Master Of Puppets』を盗んでしまうんだ。ウンザリしたけど、彼らがあれを聴きたいと思うのは気分がいいね。」

    ウルリッヒは今秋に予定されている『Back To The Front』の発売をただただ熱望している。「あれは本当にヤバいよ。著者のマット・テイラーは映画『ジョーズ』についての本を出したんだ。こいつはそのステロイド入り強化版ってわけだ。」

    それどころか、彼はその本、そしてメタリカの他のアーカイヴ・プロジェクトに取り組む体験に感謝している。その時代の写真を再び見て、メタリカがどのようにして今の姿になったのか考える理由ができたからだ。「俺たちはただのガキだった。そして音楽シーンやムーブメントの一部になった。その時、俺たちはその可能性について気づいちゃいなかった。俺はいつもニューヨークやLAのミュージシャンってのは“うまいことやる”ためにバンドに入りたがって、“ロックスター”になって、ビバリーヒルズのでっかい豪邸を買って、女の子をゲットするもんだと思っていた(笑)」彼はそう言って笑う。「俺はそんな戯言を考えていたなんて覚えちゃいない。ただ音楽をやって、ビールを飲んでいたのさ。」

    RollingStone(2016-03-02)

    序盤でカークが語っていた「ライアーズ・ダイス」についてはこちらから。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95_%28%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%29

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    前回の続き。元ネタ記事があまりに長いので前編後編ではなく3部構成にしました(^^; 『Master Of Puppets』制作時のクリフ・バートンのエピソードなど、管理人拙訳にてどうぞ。

    『Master Of Puppets』の残りの曲をレコーディングするため、バンドは(1985年の)12月のあいだ熱心に取り組んだ。午後7時頃からレコーディングを始めて夜通し作業を行い、午前4時から6時の間に終わらせていた。「彼らが宿泊していたホテルは無料のビュッフェ形式の朝食がついていたんだけど、彼らはそれを食べるために大体はその時間にホテルに戻っていたよ。」そうラスムッセンは回想する。

    彼らは「Alcoholica」というニックネームを授かっていたが、このセッションには集中して生産的に臨んでいた。「ラーズと私はサウンドをいかにタイトにするかにほとんど執着していた。」プロデューサーはそう振り返る。「我々は正しくあろうとしていた。いつも楽曲の雰囲気について話していたよ。」

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    (製作開始)数週間のセッションを経て、(1985年)9月14日にドイツのメタル・ハマー・フェスティバルで一回限りのギグを行っている。そこで彼らは『Master Of Puppets』からスラッシュ反戦歌「Disposable Heroes」の試運転を行った。ウルリッヒは語る。「あの曲にはジェイムズが書いた俺のお気に入りの歌詞がある。彼は、無駄で見当違いの戦争に駆り出され、彼が生まれる前に命尽きた兵士たちを見据えていた。音楽的に、あれはメタリカの昔ながらの要素をたくさん含んでいる。高速パート、ミドルテンポの節、中間部分の内と外でそれ自身が複雑に組み上がっているたくさんの面白いプログレッシブなところ。最近じゃ、特別なショーで演るためのすげぇ曲だよ。」

    『Ride The Lightning』のレコーディングからメタリカが成長を遂げた顕著な点のひとつは、ヘットフィールドの歌唱法にある。彼は準バラードの最初のパートである「Fade To Black」をフロントマンとして1984年のLPで歌っていたが、22歳になって、『Master Of Puppets』で最も落差があり、『カッコーの巣の上で』に触発された楽曲「Welcome Home (Sanitarium)」を新たに自信を持って取り組んでいた。ラスムッセンは語る。「彼は『Ride The Lightning』ではもっと叫んでいる類のボーカリストだった。すごい良くなっていたよ。彼はボーカルをやることにちょっと恐る恐るなところがまだあったけど、『Ride The Lightning』ではできなかったであろういくつかのことを我々はやったんだ。」

    メタリカが過去から改善をするために行った別のやり方は、曲の複雑さにあった。「Disposable Heroes」やアルバムのオープニング曲「Battery」のように(“脅迫と暴行”を含んだ)アコースティックまで広がるエンニオ・モリコーネ風の弦の弾き方、身体を動かしてしまうスラッシュ・リフとブルージーなソロといった複雑なアレンジを誇っていた。「Damage Inc.」は、ギターのフレットを破壊するようなもうひとつのスピード曲だが、ヘットフィールドによる咆哮「Fuck it all and fucking no regrets」がかかる前に、ヨハン・セバスチャン・バッハの聖歌「来たれ 甘き死よ、来たれ 聖なる安息よ(Komm, suser Tod, komm, selge Ruh!)」のように膨らんでいくコードから始まっている。また彼らはドゥームでブラック・サバスのような「The Thing That Shold Not Be」でH.P.ラヴクラフトのホラーメタルを試し、プログレッシブで予測不可能な「Leper Messiah」で強欲なテレビ宣教師をこき下ろした。

    それからヘットフィールドが薬物中毒について書きつけた「Master Of Puppets」だ。1986年にヘットフィールドはなぜこの曲を書いたのかを語っている。「サンフランシスコのパーティーに出かけたんだ。そこにはヤクを打ち込んでる病んだ中毒者がたくさんいた。俺まで気分が悪くなったよ。これは一般的には何かのドラッグについて歌ったわけじゃないけど、ドラッグによって支配されて他の逃げ道がない人たちについての曲なんだ。」つっかえつっかえ進行するオープニングのギターライン、ムーディーな中間部のソロ、芸術的なブレイクダウンにより、8分半の叙事詩はメタリカのサウンドをあっという間に神格化したのである。



    「俺が気に入っている曲は「Master Of Puppets」だね。」K.J.ドートン著『Metallica Unbound』で再び取り上げられた1986年のインタビューでバートンはそう語っている。「これまでのメタリカの楽曲のなかであれがベストだと思う。」

    「あの曲は時間がかかった。」ラスムッセンはそう振り返る。「たくさんの異なるパートとメロディーがあるけど、あれは一級品の曲だ。」サウンドを引き締めるために、プロデューサーはバンドに通常よりも楽器を低くチューニングするように頼んだ。そうすることでテープを早回ししても通常のチューニングに聴こえるようミキシングができた。「我々は数回デカい音で奏でて、これだと思う1回を決めていた。彼らは生で演奏しなければならなかったからね。」

    その当時、タイトなサウンドを得ることがメタリカにとって重要だったため、彼らはレコーディングに適した楽器をみつけるために懸命に動いていた。ヘットフィールドとハメットは『Ride The Lightning』のレコーディング前に機材が盗まれた後、デンマークのスタジオで自分たちが使うアンプを既にみつけていた。しかし、ウルリッヒは違ったドラムサウンド、具体的にはラディックのブラック・ビューティー・スネアのサウンドをまだ求めていた。その当時、それを持っており、彼が知っていた唯一のミュージシャンがデフ・レパードのリック・アレンだった。彼はまだ、左手を失った交通事故から回復の途上にあった。「だから(ラーズが)マネージャーに電話して言ったんだ。「ねぇ、リックのドラムって今は使われてないでしょ。あれを送ってもらうことってできないかな?」とね。」ラスムッセンはそう振り返る。「次の日にはこっちにあった。彼らはそれを夜通し使っていたよ。それからあるオフの日に彼がデンマークの音楽店に行ったら、あのドラムが棚に鎮座しているのを見つけたんだ。10年はそこにあったのか、1976年の価格でね。今や彼はあれを20は持っているよ。」アレンはその年の夏に行われるイギリスのモンスターズ・オブ・ロックでカムバックを果たすこととなる。

    3か月半ものセッションとなり、アメリカ生まれのメタリカのメンバーたちはホームシックになり始めていた。ハメットとバートンは特に、ウルリッヒがドラム・トラックを録り終えるまで待っている間、退屈していた。「24時間徹夜の時もあったし、コペンハーゲンまで飲みに出かけたり、時間を潰せることは何でもやったよ。」ハメットはそう語る。「1点覚えているのは、地図でビーチを発見した時のことだね。俺たちはそこに出かけて行ったんだけど、とても寒くてさ。そこは波も何にもあったもんじゃない。クリフと俺はコペンハーゲンのあの変なビーチでただ服を着込んでこう言ってた。「神様、この場所は俺たちをどうにかしちまいそうです!」ってね。」

    彼らが時間をやり過ごすためにやっていたもう一つのことはポーカーだった。「クリフは本当に熱心なポーカープレイヤーだったんだ。」ラスムッセンは言う。「彼はワイルドカード使いの変人でね。デュース(ワイルドカードの2の札)と片目のジャックとスペードとクラブのキング。彼は本当にロイヤル・フラッシュを狙っていたみたいだけど、やったことはなかったと思う。彼がもし8枚のワイルドカードを持ってるとわかったら、チャンスありだね(笑)」彼らは大体において少額を賭けたポーカーをしており、プロデューサーが付け加えるには、10セント相当のデンマーク・クローネを賭けていた。

    RollingStone(2016-03-02)

    後にカーク・ハメットとクリフ・バートンがツアーバスの席をトランプで決めて生死を分けることになったことを知っているだけにポーカーの話は何とも切なく聞こえます。続きはまた後日。

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    更新ご無沙汰しています。

    先日3月3日にリリース30周年を迎えたメタリカの3rdアルバム『Master Of Puppets』。RollingStoneのインタビュー企画で、ラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット、そしてアルバムの共同プロデュースを行ったフレミング・ラスムッセンが『Master Of Puppets』を振り返っていました。元ネタ記事があまりに長いので前編後編に分けて紹介します。(後編はまだ翻訳中…)

    「『Master Of Puppets』を今聴くと、俺はただじっとして「何だこれは!あれはどうなってんだ?」ってなるね。」ラーズ・ウルリッヒは笑いながらRollingStoneにそう語る。「とてもガッツのある音楽だよ」

    このドラマーとメタリカのバンドメイトたちが気の遠くなるような傑作をリリースしてから30年が経過したが、依然として大胆不敵でありながらパワフルなサウンドだ。『Master of Puppets』は、1986年3月3日に発表され、メタリカだけに留まらずメタルというジャンルにとっても最高水準であり続けている。(収録された)8曲は内側からの深い、あらゆる形態の操作を作り上げているが、ヘドバン仕様のリフとリズムのミックスのおかげで、激しさと引き換えにヘヴィなサウンドを手離してはいない。

    このLPはメタリカとしてわずか5年のキャリアで世に出された。その5年のあいだに彼らはスラッシュメタルを開拓したデビュー作、1983年の『Kill 'Em All』、そして複雑でエレガントなメロディーを加えた翌年の『Ride The Lightning』をすでに出していた。しかしタイトルトラックの「Master Of Puppets」の曲の展開、「Disposable Heroes」の散弾銃で打ったような熾烈なリズム、そして「The Thing That Should Not Be」のヘヴィな引き、その他の曲でも息を吹き返したように集中したサウンドを包含している。当時平均年齢23歳のメタリカが逃げようにも逃げられなかった伝説のレコードだ。

    暗鬱な「Welcome Home (Sanitarium)」、ブルータルな「Battery」は、その後何年もライヴの定番曲となった。一方、(薬物中毒についての致命傷をにおわせた)タイトルトラックは最もライヴで演奏された曲となっている。「数年前にヨーロッパでツアーをしてファンにセットリストを選んでもらったら、そのうちの20から30公演で「Master Of Puppets」が連日最もリクエストされたNo,1の曲だったんだ。クレイジーだね。」ドラマーはそう語る。

    このアルバムは、その半数の曲を共作し、レコードが出た6か月後にツアーバスの事故で亡くなったベーシストのクリフ・バートンと切っても切り離せない。近年、バンドはクリフに敬意を表して『Master Of Puppets』に収録されている8分のインスト曲「Orion」を演奏し始めている。

    アルバム自体がメタルの殿堂におけるメタリカの居場所を確保するに十分なものだった。たとえその後、同じ年に(クリフの死による)バンドの再編成がなく、その後いくつかのリリース、そしてメガセールスを記録したブラックアルバムにより世界最大のバンドのひとつにならなかったとしても。この伝説は今秋、著者マット・テイラーによる新著『Back to the Front』で、アルバム『Master Of Puppets』、その後に続く「Damage Inc.」ツアーについて、これまで公開されていなかった写真やバンドとクルーに対するインタビューによって深く掘り下げられている。今週、アルバムのリリース記念日を迎える。ウルリッヒ、ギタリストのカーク・ハメット、そして共同プロデュースを務めたフレミング・ラスムッセンが『Master Of Puppets』から30年後、彼らにとってどんな意味を持つのかRollingStoneに語った。

    「あれは狂気の時間だった」ウルリッヒは1985年の夏をそう回想する。その年の春、バンドは『Ride The Lightning』の数ヵ月間のツアーを経て、サンフランシスコのベイエリアに戻ってきた。ウルリッヒの1986年のインタビューによると、ハメットはキャンプや釣りに行っていた一方、ヘットフィールドとウルリッヒはディープ・パープルを追いかけてアメリカ中を旅していた。彼らが落ち着き、曲を書く準備が出来たと感じると、エルサリートで同居していたシンガーとドラマーは、ガレージでバートンとハメットのアイデアが収録されたカセットを使って新しい素材を練習し始めた。彼ら全員が集まったり、ジャムったり、ラジカセ上の他のメンバーとレコーディングを行ったりしていた。

    「俺たちは本当に若かった。本当に新顔だったのさ。」
    ドラマーはそう語る。「当時の俺たちの写真を見ると、純真さがある。俺たちはみんな音楽ファンだった。みんな壁にアイアン・メイデン、マイケル・シェンカー、UFO、リッチー・ブラックモアのポスターを貼っていたしね。音楽が全てだった。俺たちはディープ・パープル、AC/DC、モーターヘッドとかその他もろもろを聴いていた。下心なしで四六時中、音楽に生き、呼吸していたんだ。」

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    85年の夏、依然として新鮮さを感じていたウルリッヒには、特に際立ったひとつの思い出がある。「俺たちは座ってライヴエイドを観ていた。俺たちはこのコンサートを録って、ブラック・サバスが朝9時にプレイしたり、起きていたことは何でも観たよ。ステイタス・クォーとかレッド・ツェッペリンもいたな。あれは狂気の時間だったね。」

    このLPのためにメタリカが書いた最初の曲は「Battery」で、その次は「Disposable Heroes」だった。伝えられるところによるとライヴエイドの後、夏にラフバージョンのデモがレコーディングされた。そのデモにはインストとヴォーカルのバージョンの「Battery」「Disposable Heroes」、そして「Welcome Home (Sanitarium)」「Orion」、さらに「Only Thing」として知られるインストバージョンの「Master Of Puppets」が収録されている。この時までにスタジオで完成していなかった曲は、「The Thing That Should Not Be」と「Orion」だけだった。元々彼らはラッシュのシンガー、ゲディー・リーにLPをプロデュースしてもらうことを望んでいたが、彼は時間的制約により都合がつかなかった。そこで彼らは以前『Ride The Lightning』のプロデュースを行ったラスムッセンと再び組むことに決めた。

    Metallica - Master of Puppets (1985 Demo)


    「メタリカはいつも本当に凝った良いデモを作っていたよ。」ラスムッセンはそう回想する。「全てがいつもアレンジされていて、すぐにでもロックできた。」

    「20代の時に発する活気とか自発性とか衝動性があった。」ウルリッヒは言う。「俺たちはあの夏のあいだ、およそ8週間で『Master Of Puppets』の曲を書いた。今じゃスタジオまで運転するだけで8週間はかかっちゃうね。だから「何だって?俺たちは85年の夏に、8週間で最初の曲から最後の曲まで生み出したってのか?」ってなるよ。『Death Magnetic』は曲を書き始めてからレコーディングを始めるまでにおよそ18か月かかってる。今やってるレコードは、(すでに)およそ9か月かかっている。どうやって『Master Of Puppets』みたいなレコードを8週間でレコーディングしたってんだ?」

    ライヴエイドの1か月後、メタリカは 彼らのこれまでで最大のギグ、キャッスル・ドニントンでのモンスターズ・オブ・ロック・フェスティバルのためにイギリスへ飛んだ。「ピッチリした衣装を着込んだり、アイメイクをほどこしたり、どの曲にも“ロックンロール、ベイビー”なんて歌詞を入れたりするヤツらを見たいって言われても、俺たちはそんなんじゃないぜ!」とヘットフィールドは観衆に言い放ったのである。「俺たちはお前らの頭に一撃食らわすために来たんだ。」ZZトップをヘッドライナーにしたこの日のフェスティバルには8万人がやってきたと報告されている。

    メタリカはすぐにカリフォルニアに戻った。気ままにビールを燃料にベイエリアのパンクとメタルの前哨基地であるルーシーズ・イン(Ruthie's Inn)、そして8月31日にサンフランシスコで名高い「Day on the Green」フェスティバルで四騎士(Four Horsemen)たちのライヴを組むために。それからデンマーク人のプロデューサーと再会するためにコペンハーゲンのスウィート・サイレンス・スタジオに向かった。次にサンフランシスコでライヴを行ったのは1985年の大晦日で、真新しいアンセム「Master Of Puppets」を初披露したのである。

    「我々は多かれ少なかれ『Ride The Lightning』をやり直したいと思っていた。もっとずっと良くなるとね。」
    ラスムッセンは言う。「私はいつもメタリカはスタジオに行くたびにレベルを上げていると思っていた。彼らはいつも技術的な能力に挑戦していたし、それこそがもっと良くなることのできる唯一の方法だったからね。」

    メタリカが『Master Of Puppets』のために最初にレコーディングした曲はビニール盤にも他のメディアにも収録されることはなかった。アルバムのためのセッションは1985年9月3日に始まった。ラスムッセンのレコーディング記録によると、バンドは「我々は(ミスフィッツの)「Green Hell」と(ダイアモンド・ヘッドの)「The Prince」をやった」彼は記録を見ながらそう語る。「我々は「Money」と呼ばれる何かもやろうとしていた。私は「Money」って曲が何かわからないけど「Green Hell」の代わりにやったんだ。」

    「少なくとも俺自身は、その2つのカバー曲のレコーディングによって他の曲でどうドラムを演奏すべきか、つまりスタジオのなかでだってもっとアグレッシブに演奏するってことを掴んだんだ。俺は俺たち全員が攻撃的に演奏していたと思う。今、スタジオでとても手ごたえがあるよ。」1986年にウルリッヒはそう語っている。

    1985年のメタリカの「Money」は、サンフランシスコのパンクバンド、ファング(Fang)の「The Money Will Roll Right In」のことだろう。このバンドはルーシーズ・インのショーで演奏しており、1992年のレディング・フェスティバルでニルヴァーナがカバーしたことでも知られている。メタリカは後にその他2曲をベーシスト、ジェイソン・ニューステッドと共にレコーディングしている。「Green Hell」はもうひとつのミスフィッツの曲「Last Caress」と組み合わせて1987年の『$5.98 EP: Garage Days Re-Revisited』の収録曲に、「The Prince」は1988年のシングル「One」のB面曲となった。

    RollingStone(2016-03-02)

    結局、どこにも収録されなかったFangの「The Money Will Roll Right In」のカバー。オリジナルはこちら。


    彼らの2ndアルバムタイトル『Where The Wild Things Are』は、後にメタリカの『Reload』収録曲と同名のため、このバンドから引用したのかもしれません。

    後編は少々お待ちください。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』有志英訳を管理人拙訳にて。有志英訳が今回分で終わっており、尻切れトンボではありますが、ついに最終回となります。ジェイソンのベースについての話題が多い『...And Justice For All』の制作過程ですが、また別の角度からの秘話を。

    metallica_1987

    1987年の終わりには、メタリカのファン層は巨大なものとなっていた。それはグローバルで、忠実で、献身的で、本当にただ「メタリカ」と呼ぶしかない自分たちが築いたメタルのニッチ分野に分類されるものだった。それは、どんなロックバンドや音楽のマーケッターにとっても夢のシナリオだ。

    しかし、純粋に芸術的にも、メタリカはいくつかの挑戦に直面していた。ヘヴィメタルのほとんどのファンは、新旧ファンともに、『Master Of Puppets』は最高傑作だと考えていた。大雑把なスラッシュメタルのテンポとエネルギーに行き詰まり、速さ目的のためのただのスピードから、アルバムのオープニングとエンディングの曲(「Battery」「Damage Inc.」)でやったごとく、メタリカは大きな一歩を踏み出した。何よりも、タイトルトラックと「Welcome Home (Sanitarium)」で完璧に示されたように、即時で極度なエネルギーと感情的で深みのあるバイヴを1曲のなかに入れ込む素晴らしいバランスを保つバンドの能力が『Master Of Puppets』の揺ぎない力となっていた。

    メタリカが実際にリフに基づいたメタルソングをどこまで技術的にこなせるのか、もしメタリカが望んだとしたら?それが分かった時には、とんでもないものとなった。

    メタリカは『Master Of Puppets』の曲を書くのに数ヶ月を要していた。新曲作りはさらに早いペースだった。そう驚くべき早さだ。9つの新曲をたった8週間で書いたのである。一方で、メタリカには今やスケジュールの問題があった。「壊れていないものを直すな」は音楽業界でもおなじみの標語だ。それはすなわち、メタリカの意図は、年が明けてすぐにフレミング・ラスムッセンとレコーディングを行うということを意味していた。しかし、スウィート・サイレンス・スタジオとラスムッセンは、すでに歌手アン・リネット(Anne Linnet)の予約が入っており、早くとも2月の途中からでないと一緒に仕事ができないということだった。

    したがって、ラーズとメタリカは明白なジレンマに直面しなければならなかった。とりわけサウサリートのスタジオでのスロースタートを経た後で、ほぼ2ヶ月間ラスムッセンの準備ができるのを待つべきなのか?それともレコーディングは始めておいてラスムッセンが現在のプロジェクトを終えたら加わってもらうべきか?

    解決策は後者だった。

    メタリカはガレージのカバーで成功を収めていた一方、自分たちのやり方でアンダーグラウンドからチャートに這い上がってきた新しいガレージバンドがいた。ガンズ・アンド・ローゼズである。ラーズはすぐにこのバンドのセンセーショナルで熱狂的で無鉄砲なデビューアルバムを好きになった。ガンズ・アンド・ローゼズはメタリカとは全く異なり、ロックンロールに基づいた音楽を演奏していたが、アルバムのドライでダイナミックなサウンドはほとんどのロック愛好家に一杯食わせるものがあった。このアルバムのプロデューサー、マイク・クリンクは1987年という年にロック界で最もホットな名前のひとつとなっていた。

    目まぐるしく変わる状況のなかで、ゲディ・リー(ラーズとジェイソンの大好きなラッシュ(Rush)のベーシスト/シンガー)を雇うこともメタリカは考えていたが、彼も1988年の最初の月は他のことにスケジュールを押さえられていた。そこでマイク・クリンクに選択肢が落ち着いた。彼は幸いなことに当時充分時間があった。しかも彼の履歴書にはこうあった。ラーズとカークの70年代バンドのお気に入り、UFOのスタジオ・エンジニアであったと。

    年が明けてすぐに、メタリカはバンドの実の誕生地であるロサンゼルスに位置する小さいながらも設備の整ったスタジオ、ワン・オン・ワン(One On One)でクリンクに会った。しかしメタリカとクリンクは一緒にノることはなかった。ラーズとデモテープ時代からの友人であり、バンドの最初のファンクラブ会長K.J.ドニントンは自著本『Metallica Unbound: The Unofficial Biography』のなかで「クリンクはピンとこなかった(原文:Clink didn't click)」としっかり述べられている。

    ワン・オン・ワンの外でメタリカが始めていたアルバム・レコーディングがほとんど実りのないものだったと最初に気がついたのは・・・フレミング・ラスムッセンである。

    「1月下旬にLAからラーズが電話をかけてきて、こう言っていたんだ。「ダメだ。全然うまく行ってない!」彼らはアルバムをレコーディングするだけならできると思っていたようだが・・・パーだ!「曲は全曲ある。アルバムにしないといけないんだ!」彼らはそう言っていた。ラーズが電話してきた時、彼らはまだコイツができてない、全部クソみたいなサウンドだと思っていた。それで私はこうさ。「すぐにそっちに行こうか?」実際に可能だったからね、14日後には。もし全ての週末を犠牲にして、私がすでにやったことを他の誰かにやらせればの話だけど。そしたらラーズはこう言ったよ。「最高だ、契約書をそっちに送るよ!」」

    フレミングがワン・オン・ワン・スタジオに到着したのは2月中旬だった。航空機のエンジントラブルのせいで夜遅くの到着だった。

    「そこで私は全ての曲をもぎとって、私が望むように一緒にして戻したんだ。」

    フレミングが語るところによると、彼はバンドメンバーと同じように、メタリカが初めてコンサートを行った(そして、そこから彼らは新しいツアーを始めることになる)いくつかのクラブの近く、サンセット大通りすぐのところのアパートに移った。

    レコーディングは午前10時か11時に始まり、「俺たちはもう構わないよ」というところまで行われたとラスムッセンは語る。そして、ワン・オン・ワン・スタジオにいた3ヶ月のうち3日しか休みがなかったという。その3日はバンドがマスコミ用の撮影をしていた日だった。

    『...And Justice For All』と題されたこのアルバムのレコーディングでメタリカが抱えていた問題は、盗まれたアンプが奏でていた素晴らしいギターサウンドを探すというジェイムズのおなじみの問題だった。

    「クリックトラックは時間がかかったよ。」フレミングは慎重にそれが「ドラマー」であることをほのめかして、そうコメントした。「でもラーズは初めて会った時よりも百万倍良くなっていたよ。当時、私はこう思ったんだ。「あちゃー、彼は一体どこでドラムを学んだんだ?」ってね。でも私はこうも思った。彼は自分の限界を知っていると。彼は四六時中、限界を押し広げようと努めていた。あれはとても合理的だと思ったよ。4ヶ月もスタジオにいたわけだからね・・・それは4ヶ月の集中トレーニングみたいなものだ。そりゃあ良くもなるだろう。」

    ドラムトラックに多くの時間がかかり、すぐに終わると思われた、すでに形になっていた9曲のレコーディングは、この年の最初の5ヶ月を費やすことになった。アルバムのミキシングを除いて。

    フレミング・ラスムッセンはこう説明する。「メタリカのアルバムにこれだけ時間がかかった理由のひとつは、彼らの熱望した水準が音楽的に彼らが提供できるものよりも純粋にもっと高いところにあったからだ。小分けのパートにしていかなければならないんで時間がかかるんだよ。」

    「小分けのパート」に取り組むなかで、ラスムッセンがアルバムに入るドラムの多重録音のひとつをこなすことさえあった。

    「そうなんだ。ラーズが打てなかったジャスティスアルバムのドラムのひとつを実際に私が叩いてレコーディングしたんだ。あれは彼を相当怒らせたね。ひとつだけビートに欠けるドラムがあってね。残りは超クールだったんだが。そこで我々は余分なトラックを作って、そこに入れたんだ!ラーズは何回も挑戦していたけど、うまくできなかった。だから私は言ったんだ。「あぁもう、ボタンを押すだけだろ、そっちに行って私がやる!」そうして(レコーディングルームの)中に入って一気にやってしまったんだ。彼は怒っていたよ。プライドの問題だった。持ち合わせていなければならないものだけどね。」

    ラーズとジェイムズはニューアルバムを誇りに思っていた。夏のツアーのオフ日は全てアルバムのリリースのために押さえられた。ラーズとジェイムズの2人はミキシングの進捗をチェックするためにニューヨークのベアズヴィル(Bearsville)まで出向いていた。

    一般的に、新しいメタリカのアルバムを聴いてすぐの印象は、曲から曲、テンポの変化からテンポの変化と新しい素晴らしいリフが行き交う確たる魅力がある。1曲目とタイトルトラックのような曲は、実にこのアルバムがどんなものであるかを要約してくれている。ドラマチックで、シャープで、ハードで、素晴らしいリフ、目まぐるしく変わるテンポ、素晴らしいツインギター。そしてヘヴィで、ソリッドで、メタルでありながら、壮大で、プログレッシヴで、きらびやかだ。

    『...And Justice For All』は耳だけでなくその他の感覚への挑戦であることがわかった。メタリカは叙情的に辛辣な社会批判をしている。アルバムで最もアップテンポな曲のひとつである「The Shortest Straw」の主題が(50年代のマッカーシーによる赤狩りを引き合いに出した)さまざまな人への嫌疑追求である一方、前述のタイトルトラックでは司法の汚職と腐敗が主軸となった。同様に「Eye of the Beholder」は、この数年前に(映画『エイリアン』でのSFデザインの仕事で知られる)H・R・ギーガーによるペニスの肖像を描いたポスターを含むアルバム『Frankenchrist』を通じて未成年者に有害な画像をみせたと告発されたサンフランシスコのパンクバンド、デッド・ケネディーズのシンガーで風刺家で社会評論家でもあるジェロ・ビアフラの裁判を取り上げて前述した2つのテーマを共生させている。

    それからアルバムのなかで最もエモーショナルな曲「One」は、おそらくアルバムのなかで最も洗練された歌詞と音楽であろう。繊細でキャッチーでパワフルで「Fade to Black」「Welcome Home (Sanitarium)」の系譜を行くバンド自身が築いてきたパワーバラードの形を見事に発展させている。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    「The Shortest Straw」の題材となったマッカーシズムについてはこちらを参照。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%8B%A9%E3%82%8A

    マッカーシズムがハリウッドに与えた影響を題材にした『真実の瞬間(とき)』というタイトルの映画があるのは何かの偶然でしょうか?ちなみに「Eye of the Beholder」のインスピレーションになったという、裁判で争われた『Frankenchrist』のアートワーク。興味ある方は「frankenchrist poster」で検索してみてください(^^;


    英訳が完結していないので続きを知ることができないのが本当に残念ですが、翻訳を通じて異様に詳しいラーズの生い立ちなど新しく知ったことがたくさんあり、読んでいて楽しかったです。ラーズが掲げたメタリカという旗印のもとにメンバーやさまざまな人たちが出会い集っていった過程が胸熱でした。英訳してくれた有志の方に感謝です。

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    『...And Justice For All』レコーディング時のジェイソン・ニューステッドの扱いが思った以上に酷かった件
    ジェイソン・ニューステッド、「Blackened」作曲エピソードやジャスティスアルバムのリマスターについて語る。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章6回目。ジェイソン・ニューステッドの経歴とメタリカとしてのデビューライヴについて。有志英訳を管理人拙訳にてご紹介。

    metallica1986

    ジェイソンは当初、慎ましやかな新しい家としてリハーサルルームで「Jeppe on the Mountain」(訳注:17〜18世紀のデンマークの劇作家ルズヴィ・ホルベアによって書かれた喜劇)のように寝起きすることに満足していた。1年前、フェニックスの州立劇場でメタリカがコンサートを行った際、彼は最前列近くに立って友人とモッシュピットで暴れていた。それが今やバンドと共に日本に旅立とうとしているなんて!

    間違いなくジェイソンはただの熱心なファンではなかった。とても音楽に没頭していたし、キッチリ練習を重ねていたし、バンドを組む経験もしていた。実際に彼はフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam And Jetsam)で作曲と作詞の両面で立役者となっていたのである。それは間違いなくラーズ・ウルリッヒのベストスタイルであった。ラーズもまたプロモーター、出演交渉担当者、その他もろもろの役割を務めていたのだから。

    ジェイソンが音楽や新しいバンドのためにやってきたことは、彼自身の非常に本格的な音楽との関わりによってなされてきたことだった。ジェイソン・ニューステッド(ミシガン州バトルクリーク出身1963年3月4日生まれ)はミシガン州の馬の農場で育った。その場所は音楽を演奏する上で大きな役割を果たすこととなる。ニューステッド家は音楽をよく聴き、地元の劇場でよくミュージカルを観に行く家庭だった。

    ジェイソンは学校でサックスを吹き始め、その学校でロックとも出会った。彼が初めてベースとアンプを手にしたのは13歳で、初めてレッスンを受けたのは16歳の時である。ジェイソンの兄弟も音楽を演奏していたが、そのほとんどがミシガン地域では重要な遺産と伝統であるモータウン・ミュージックだった。

    ジェイソンが10代の頃、ミシガン州カラマズーに引越してから、ヘヴィメタルが彼の耳を捕らえ始めるようになった。当時のほとんどの若者と同様、キッスに強く惹かれていった。ジェイソンの初めての「バンド」は、ただキッスをプレイする4人の若者で構成されていた。数年後、彼は気がつくとテッド・ニュージェント、AC/DC、そして当然キッスといったパーティーロックを演奏していた。バンドの名前が家で叫ばれることはなかったが、我々はこう呼んでいる。ギャングスター(Gangster)だ。

    ギャングスターのリーダー、ティム・ヘルムリンを手本として、ジェイソンはロックの楽しさを経験したいと決めた。ヘルムリンとバンを借りて出発した。この旅の最終的なゴールはロサンゼルスだったが、ジェイソンは天使とグラムロックの街へとドライブを行うことを途中でやめ、結局フェニックスに落ち着いた。

    10月下旬のことだったが、ミシガン出身のフェニックスに落ち着いた少年は頬に熱い砂漠の風を感じていた。街で何人かの若い仲間に出会うことも出来た。ジェイソンは大したお金も持っていなかったが、サンドイッチのお店で仕事をみつける。そしてすぐにドラマーのケリー・デヴィッド・スミスと共にパラドックス(Paradox)というバンドに入る。しかしそれも真剣なものではなく、そのハチャメチャにスウィングしていたグループは、新しいバンド、フロットサム・アンド・ジェットサムに見いだされた。そしてジェイソンはケリーと共にスコッツデールに移り住んだ。(フェニックスでも最も裕福な層が住み、テニスやゴルフ場で知られる。さらにアリス・クーパー、ロブ・ハルフォード、そしてあのデイヴ・ムステインといったハードロックの住人がいることでも知られている。)

    ジェイソンは、フロットサム・アンド・ジェットサムとしての活動はブライアン・スレイゲルのメタル・ブレイド・レコーズからアルバム『Doomsday for the Deceiver』(1986)をリリースして終わった。フロットサム・アンド・ジェットサムで最後のギグをハロウィンに行い、その数週間後、カリフォルニア州レセダ・カントリークラブで300人を前にバンドの忠実な友人であるメタル・チャーチというサポートバンド付きでメタリカとしてデビューしたのである。

    その夜のカントリークラブでのメタリカは緊張で張り詰めていた。もちろん、特にジェイソン・ニューステッドにとっては。実際、ジェイソンには重要かつ命運を左右するテストが残されていた。技術的にもパフォーマンスに関しても、両面伴ったライヴを行えるのかと。(必要なことは)昔から激しいバンドの崇拝者であり、ファンでさえあった楽曲のタイトなビートを保つだけではなかった。クリフ・バートンはステージ上では真の怪物であったし、ほとんどの点でクリフが優れていることをジェイソンは知っていた。彼は1年半前にフェニックスの州立劇場でのショーに行き、クリフがショーを引っ張っているのを目にしてさえいたのだ。

    クラブに詰めかけた300人のうち、ブライアン・スレイゲルも間違いなく胸のつかえを抱えていた。彼は有望なバンドのひとつのリーダーをヘッドハントしたのだ。だからこそジェイソンはわざわざより良いとされるメタリカと共にしたいと思ったのである。

    「ジェイソンは私の生涯見てきた人物のなかでも最も神経質な方だった。」スレイゲルはそう語る。「彼はおびえていた。これは彼のオーディションだった。彼はバンドにいたが、私はこれが彼が充分に足るかを知るための通過しなければならない最後のテストなんだと思った。」(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    それはバンドもほぼ間違いなくわかっていた。ラーズはこの次のメタリカファンクラブ会員に向けたニュースレターのなかで、このショー全体の雰囲気について言い表していた。

    「このショーを通じた雰囲気は、俺たちみんなクソ緊張していたってこと。でもエネルギーに関しては、このギグはこれまでやってきたなかでも最も楽しいものがあったよ。」

    数日後、メタリカはアナハイムの小さなクラブ、イザベルズ(Jezabelle's)でも同じようにプレイした。このときはゲストにデンマークからフレミング・ラスムッセンが来ていた。

    「私が事故以来バンドを観たのは初めてだった。ショーはそれはそれはクールだったね。」フレミングは熱を帯びて17年後にそう振り返った。

    メタリカにはまだ熱意の余地があったが、バンドを続けていくことを余儀なくされた過程でのことである。カウンセリングもセラピーも無かったことに加えて、いつも音楽表現が付いて廻っていた。そして今度、メタリカは日本へのロードに向かう。「Damage Inc.」ツアーは再びトラックに戻り、スウェーデンの悲劇からわずか6週間。しかしこれはバンドに強制されたものではなかった。それは彼らが望んだことだったのだ。

    ピーター・メンチは9月27日早朝、サウンドエンジニアのビッグ・ミックの電話で起こされた。こう説明する。「間違いなく私はそのメッセージに愕然としたよ。コペンハーゲン行きの飛行機を取り、スウェーデンまで運転した。恐ろしいことだったが、このような状況下でどう振舞うべきか話したんだ。プレスリリースを発行し、それから新しいベーシストを探した。今振り返ると、1年間は議論しているかもしれないね。でもバスに乗っていた誰かがそうすべきと私に言ったとは思わない。サウンドエンジニアのミックでさえ、私に言ったことは我々がすぐにツアーに戻っていなかったことへの後悔だった。我々は葬儀に行って、なすべきことをした。そしてバンドをやめようとはしなかった。それが全てだ。」ピーター・メンチはそう語った。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    メタリカとしての初コンサートを迎えたジェイソンを写した写真など。

    http://eddiemalluk.photoshelter.com/gallery/METALLICA-1985-1986/G0000qc96ffJ8u0M/C0000toV.S5Y1s2k

    そして、ジェイソン加入から2回目のショーとなったアナハイムのイザベルズ(Jezabelle's)の公演もブート映像が存在しており、ほぼYouTubeで視聴可能です。音響システムのトラブルに見舞われていますが、とにかく凄まじいエネルギー量です。


    次回はメタリカ初来日の様子など。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の管理人拙訳を久しぶりに再開。前回までで『Ride The Lightning』のリリース、Qプライムとのマネジメント契約、メジャー大手のエレクトラとのレコード契約を果たしたメタリカ。『Master Of Puppets』の制作から始まる第5章の1回目です。

    - メタル・マスターの悲劇 -

    1984年から1985年頃、メタリカは「唯一の」ハードで騒々しい「スラッシュメタルバンド」として見られていた。それ自体、メタルの外にいた人々には真剣には受け取られていなかった。しかしラーズはその状況を心配していなかった。多くの出来事が過去3年に渡ってバンドに起きていたのだ。自発的に行った「Hit The Lights」のレコーディングから、ガタガタな一連のデモテープ、最初のギグで感じた絶望を経て、メジャー・レーベル、そしてマネージメント契約まで至ったのである。

    純粋なビジネスと戦略的立ち位置から、バンドはラーズやその他のメンバーが望んだ状態に整備された。メタリカはすでにインディペンデント系ヘヴィメタルバンドとして信じられない数のアルバムを売っていた。そして真っ当な会社にいる真っ当な人々はバンドの将来性をそこに見ていたのである。ラーズとバンド、そして彼らの弁護士は、国際企業であるエレクトラ・レコードとバンドの今後の作品との関係において意識的に芸術的自由を確保していた。

    ラーズ・ウルリッヒは前述したMM誌のインタビューをこう締めくくっている。「だから俺たちはもうレコード会社やマネージメントのせいにできない。彼らがうすのろなんじゃない。うまくいかなかったら、それはもう俺たち自身のせいなんだ。」(MM誌1984年11月10日号)

    バンドの3rdアルバム時代の到来はラーズの必須要件を課すものでもあった。その時代は全くの対照をなす出来事を含むこととなる。つまり「バンドの芸術的頂点と実際の躍進」 vs 「バンド最大の個人的悲劇」である。

    『Ride The Lightning』時代はまだ終わってなかった。1985年前半、メタリカは有名なヘヴィメタルバンド、W.A.S.P.の前座を含む『Ride The Lightning』ツアーを続けていた。これだけがバンドとアルバムのプロモーションを行う唯一の方法だった。ビデオとラジオ向けシングルはまだバンドのプロモーション戦略を担ってはいなかったのだ。メタリカはきっちりアメリカのツアーに集中し、バンドの拠点であるメタリマンションから車でわずか20分のオークランドの巨大な野球場で8月31日に行われたプロモーター、ビル・グラハム主宰の伝説的コンサート「Day On The Green」でクライマックスを迎えた。

    数日後、8月から9月になり、ラーズとジェイムズは(訳注:デンマークのコペンハーゲン空港のある)カストルプに上陸し、フレミング・ラスムッセンの待つスウィート・サイレンス・スタジオの近所にやってきた。重要な3rdアルバムは事実上、メタリカのカレンダーのうち、1986年の残りを全て費やした。

    この時、アマー島のスウィート・サイレンス・スタジオは、バンドの最初の選択肢ではなかった。夏に行われたメタリカのツアーの合間にラーズとジェイムズとフレミングは、一週間でロサンゼルスのさまざまなスタジオをチェックした。

    「存在している全てのスタジオに行ったよ。」ラーズはそう語る。「次のアルバムをレコーディングできる場所をみつけるために毎日8つのスタジオを廻ったんだ。最高のスタジオはワン・オン・ワン(One On One)だという結論に至るまでね。俺たちは85年秋にレコーディングすると話したんだけど、彼らはオーバーブッキングしてやがったんだ。マヌケ野郎どもだよ。だから俺はフレミングに、デンマークに戻ってレコーディングして、50%近く経費削減した方がよくないか?って言ったんだ。」

    スウィート・サイレンス・スタジオは、ワン・オン・ワンに欠けていたおなじみの利点が全てあった。

    「俺たちはフレミング、スウィート・サイレンスの(スタジオのオーナーである)フレディ・ハンソンともとてもいい関係だった。」ラーズは語る。「スタジオルームではさらに良いセットアップになったと感じていた。できるだけ早くレコード会社を出て、できるだけ多くの時間をスタジオに費やす。それはとても重要だったんだ。だからワン・オン・ワンで7、8週間いる代わりに、フレミングとスウィート・サイレンス・スタジオに戻って4週間とれたことは最善だったんだよ。」

    最終的に、レコーディングする場所を決めたのはバンドそのものだった。はるかに安い料金のスタジオが、ニューアルバムのレコーディングにことのほかピッタリであることを証明した。そしてメタリカのメンバーはもはやスウィート・サイレンスの屋根裏部屋で一緒に寄り集まって寝泊りする必要はなくなった。

    「俺たちはアマー島のホテル・スカンジナビアに移ったんだ。そこはリッチー・ブラックモアやその他のアーティストがデンマークにいるときに住んでいたとこだったからね。」ラーズは70年代にノートとペンを持ってホテルの外で待っていたことを引き合いに出してそう話した。「俺たちにとって、デンマークでのレコーディングは経済的にも本当によかったんだ。(レートの良かった)ドルのおかげでもあるんだけどね。それで俺たちは角2つの互いに面したスイートを予約した。ジェイムズと俺でひとつのスイート、カークとクリフでもうひとつをね。あれはよかったよ。それが4ヶ月も続いたんだ。走り回ってたら、靴擦れまで出来たよ。ハッハッハ!(笑)」

    そんなことがありながらも、やっていたことのほとんどは完全にアルバム制作に集中していた状態だった。ラーズ・ウルリッヒとジェイムズ・ヘットフィールドは完璧なメタルアルバムを作ることに本当に集中していた。そして確かに完璧なアルバムでありながら、さまざまな感情表現、これらの表現が互いに息づく、耳目を引く特別なものであった。細部に宿る力は、いわばアルバムの駆動力をなしており、単純化した「スラッシュメタル」というラベルからメタリカは喜んで最後の一歩を踏み出したのだった。ラーズは、長きに渡って続く素晴らしいロックバンドは常に出自のサブジャンル以上のものになるということをよく知っていた。

    「スラッシュという言葉は、いずれにしろ俺たちには合っていなかったんだと思う。」とラーズは『Master Of Puppets』と題する次の新しいアルバムについて論じた。「たしかに俺たちはその手のスタイルの枠内だった。スピードもエネルギーも不快な感じも俺たちの曲にはあるからね。だけど、俺たちはいつもその限界の向こう側を見ていたし、メタルに対してヨーロッパ的なアティテュードを持ったアメリカのバンドという方が俺たちにはふさわしい定義だな。『Ride The Lightning』で、俺たちはペースがゆっくりになっても、充分パワフルでいられるのだということを学んだ。そして今、俺たちは音楽に繊細な部分があっても、充分ハードに攻撃できるということを理解したんだよ。」(マーク・パターフォード/ザビエル・ラッセル共著「Metallica : A Visual Documentary(邦題:Metallica 激震正史)」(1992)より)

    『Master Of Puppets』はその前作同様に成功したテンプレートとなっていった。『Ride The Lightning』のように『Master Of Puppets』は美しいアコースティック・ギターのイントロから始まり、モンスター級のスピードが後に続く「Battery」は、サンフランシスコのバッテリー・ストリートにあるオールド・ウォルドルフで行われたクラブ・コンサートについて歌っている。A面のタイトルトラックでもある「Master Of Puppets」は「Ride The Lightning」よりもはるかに良い編曲で、どれだけバンドの(特にラーズ・ウルリッヒの)アレンジセンスが早くに成長していたかを示すいい例だ。ヘットフィールドが全ての歌詞を書き、とりわけ薬物中毒者の依存症と無力感について歌った「Master Of Puppets」は強烈だった。この曲と幻想的なミドルセクションはメタリカが今やメタル、不快な音、ハーモニー、美しさ、哀愁、巧妙さのあいだの平衡を保つマスターであることを明らかにしている。

    A面(我々はまだLP時代にいるのだ)でも激しいバラード「Welcome Home (Sanitarium)」で静まっていき、B面では『Ride The Lightning』の「The Call Of Ktulu」のように明らかにクリフ・バートンが手がけたH.P.ラヴクラフトを参照した長編のインスト曲(「Orion」)が含まれていた。

    表面的には、このアルバムは『Ride The Lightning』とある種の類似性を持っていたが、それにもかかわらず強力な価値を持っていた。バンドが革新的な『Ride The Lightning』によりすでに富を得て、エレクトラとの契約により制作期間の延長が可能となった。『Master Of Puppets』は、この2つの要因によって創造力に富む雰囲気のなか創られたのだ。85年秋の創造的な特典として、メタリカが自分たちの音楽、そしてヘヴィメタルそれ自体も新たな高みへと突き動かしていく巨大な力を持っていた。『Master Of Puppets』という驚くべきメタルの作品がもたらしたこれらすべての要因が、速さと技巧のバランスのとれたメタリカ自身のスタイルを完成させた。

    『Master Of Puppets』のレコーディングのため、ジェイムズとラーズがコペンハーゲンに前ノリしたのは、主にひとつの事柄のせいだった。盗まれたアンプがみつからず、ジェイムズがまだ適切なギターサウンドをみつけるために奮闘していたのだ。それまでに確保しておかなければならないプロセスもあった。ラーズが自身のドラムを揃えてもらうようマネージャーのピーター・メンチと彼のもうひとつのクライアントであるデフ・レパードの助けを必要としていた。その年のはじめにデフ・レパードのドラマー、リック・アレンはオートバイ事故によって片腕を失った。メンチはリック・アレンのLUDWIGの特注ブラック・ビューティー(手作りの黒く塗装されたドラム)をロンドンからコペンハーゲンに持ってきたのだ。

    しかしラーズはコペンハーゲンの店で生産終了になろうとしていたまさに同じモデルのスネアドラムを見つけた。たとえ古い「1978」の値札がついていたとしても。(訳注:デフ・レパードのレコードデビューは1980年のため、リック・アレンのニセモデルと思われる。)一方、リックは足で操作できるユニークなオペレーティングシステムによって失った片腕の代わりを務める自身のドラムキットを設計していた。

    ギターサウンド、スネアドラム、その他万事整って、『Master Of Puppets』のレコーディングが始まった。

    「私たちは本当に一生懸命やったよ。日に12時間から14時間、それを3ヶ月毎日さ。」プロデューサーのフレミング・ラスムッセンは振り返る。彼はスタジオで争いがあったことも思い出していた。「でも兄弟・姉妹喧嘩よりひどいことはなかったよ。私たちは家族のような関係だったからね。」フレミングはそう付け加えた。彼はすでにメタリカと最初に共作した頃から「親父(Dad)」とあだ名で呼ばれていた。

    さらにメタリカファミリーにおいては明確に定義された役割があった。フレミングは回想する。「クリフがベースにまつわることに対して中心に置かれながらも、ラーズとジェイムズの手中にあった。ラーズとジェイムズはスタジオでは独裁的権力は持っていなかった。でも彼らの言葉はある種の重みを持っていたね(笑)」フレミングは外交的な言い回しで笑いながらそう言った。

    さらにメタリカのマネージャーとして、ラーズが初期に果たした役割は『Master Of Puppets』のレコーディングのあいだ、ますます顕著になっていた。

    「ラーズは純粋にプロのドラマーとして非常に進歩していた。」ラスムッセンはそう語る。「でも彼はまた、物事のビジネス面において、とりわけビッグバンドの一員として、明らかに著しく素晴らしい掌握力を持っていたよ。『Ride The Lightning』から『Master Of Puppets』までにたくさんの進歩があったわけだけど、ラーズはほとんどの時間を電話に費やしていた。ジェイムズが理想のギターサウンドを探し求めていた頃、多かれ少なかれ彼自身がバンドを管理していたんだ。ラーズはツアーやTシャツやその他もろもろのために可能な限りの場所に連絡を取っていた。」

    アマー島にいるラーズとマンハッタンにいるクリフ・バーンスタイン、あるいはロンドンにいるピーター・メンチとのあいだで交わされたたくさんの会話は、来るべきツアーに向けての戦略に焦点を当てていた。前述の通り『Master Of Puppets』のレコーディングの前日、バンドは有名な「Day On The Green」で6万人のハードロックファンを前に自らの力量をテストすることが出来たし、ベイエリアに戻って、メタリカはスコーピオンズやラット、Y&Tのようなバンドの前座を務めてもいた。この経験は、メタリカに小さなクラブや会場の親密さよりも、幾分大きな場所で全力を傾けることができるという感覚を与えた。ラーズとQプライムの計画は自身がヘヴィメタルのアイコンであるオジー・オズボーンのサポートアクトとなることだった。彼は86年の春と夏を通じて、15000人から20000人収容のホッケーやバスケットボールの最も大きなアリーナで全米ツアーをしていた。そしてメタリカは最後までそのツアーに帯同することとなった。

    ソロアーティストとして、オジーは『Blizzard Of Ozz』『Bark At The Moon』アルバムを出して熱狂的ファンを増やしていた。よって(そんなオジーのファンを迎える)タフなギグがメタリカを待っていたのだ。しかしタイミングは絶好だった。この戦略は正しいことを証明した。ラジオ向けシングルやビデオは、86年当時のメタリカの選択肢ではまだなかった。オジーとブラック・サバスが70年代初頭にヘヴィという定義そのものを打破するためにこういったプロモーション手段を必要としなかったのと同じように。そしてある程度、『Master Of Puppets』は、オジーとサバスの時代の『Black Sabbath』から『Paranoid』『Sabotage』までの一連の陶酔感以来、最もクラシックな傑作アルバムとなった。

    実際、オジーとメタリカはお似合いのペアだった。オジーと彼のクルーはメタリカにまともな待遇を施し、ツアーの最後にはメタリカを観た昔からのサバスファンのなかでゴッドファーザー(訳注:オジーのこと)のセット中におむつをつけることでオジーに感謝の意を示すものもいた。

    『Master Of Puppets』のレコーディングは1985年のクリスマス・イヴに完了し、その後3人のアメリカ人たち(訳注:ラーズ以外のメタリカのメンバー)はアメリカへ帰っていった(ジェイムズのみ、デンマークを学ぶ試みとして伝説的な「スノー・ビール」ツアーを行った後で)。一方、ラーズは母親の住むコペンハーゲンの家でクリスマスと自身の22歳の誕生日を祝った。ラーズとフレミングはその後、スタジオ入りし、ラーズがサンフランシスコへ去る前に最後のドラムのレコーディング処理をしていた。サンフランシスコでメタリカは、カリフォルニアの新たな熱狂的なメタルシーンから出てきた仲間たちと大規模な新年コンサートのブッキングがあったのだ。83年以来初めて、ラーズ、ジェイムズ、クリフは以前のギタリストで今や自身のバンド、メガデスのフロントマンであるデイヴ・ムステインとステージを共にすることになった。カークの前のバンド、エクソダスもそこにいた。オジーとの今後のツアーで重要な役目を果たすこととなるジョン・マーシャルがギタリストとして在籍するメタル・チャーチ同様に。

    『Master Of Puppets』がアメリカでマイケル・ワグネルによってミキシングされていた頃、ジェイムズとクリフはホームであるサンフランシスコでお遊びバンド、スパスティック・チルドレンを組んで楽しんでいた。ラーズは1986年3月7日のアルバムのリリースまで熱心にメディア取材ツアーを行っていた。ラーズは話題がメタリカとなり、メイントピックが『Master Of Puppets』となるといつも夢中になっていた。バンドは著名なハードロックの出版物のなかで、表紙を飾る存在となっており、購入者からの反応は目に見える形で現れた。リリース最初の週に『Master Of Puppets』はアルバムヒットチャートTOP30まで登りつめたのだ。(メタリカが86年夏の終わりにオジーとのツアーを終えた時点で、アルバムはアメリカでゴールドディスク、つまり50万枚を売り上げた。)

    そんなわけで、3月27日から始まったカンザスシティーのオジーとのツアーは確かにメタリカのための春といえた。1時間のセットを終え、シャワーを浴びたら、バックステージでアルコホリカ・パーティーの始まりだ。忘れてはいけないことは、彼らのアイドルのコンサートを毎夜タダでそしてベストの位置で見られるということだった。

    1986年のツアーのあいだラーズはこう語っている。「俺たちはこのギグ以上のサポートを得るなんて望むべくもないことだよ。オジーは本当に度を越えた観衆を魅了していた。俺たちは最も度を越えた新進気鋭のハードロックバンドのひとつなわけで、理想の観衆のためにキッチリ演奏する機会を得たってわけだ。バンドは55分のセットを毎夜やって、本当にクールに迎え入れられた。メタリカもオジーのクルーからファーストクラス級の扱いを受けたんだ。」(マーク・パターフォード著『Metallica in Their Own Words』(2000年刊行)より)

    しかしメタリカのビーカーに苦味が数滴落とされた。『Master Of Puppets』の最後の曲に触発され公式ツアーのタイトルは「Damage Inc.」だった。この超高速の曲はこの当時のメタリカで支配的なムードを完璧に捕らえていた。ステージ上でもバックステージでも彼らのキャリアの面でも。しかし情け容赦ない運命は、全くツアータイトルの文字通りのごとくとなっていくのである。

    ニュージャージーのメドウランズ・アリーナ(現アイゾッド・センター)で、オジーの観衆が凶暴化し、機材が壊され12万5千ドルの被害に遭ったこともそのひとつであり、一方でロングビーチアリーナでファンがバルコニーから転落し、オジーのライヴ中に怪我が元で死亡したというもうひとつの悲劇的な側面もあった。そしてそれから2ヶ月と経たないうちに信じられない悲劇がメタリカを襲うこととなる。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/
    metallica-ozzy-86
    メタリカとオジー・オズボーン(1986年)

    ちょっとずつ訳しためていたものを一気に放出してしまったので、続きはまたしばらく先になりそうです。しばらくお待ちください(汗)

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