メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:ピーター・メンチ

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    マネジメント会社Qプライム創業者でメタリカのマネージャーでもあるピーター・メンチが、2014年にBBCで行われたインタビューで昨今の音楽業界について語っています。BLABBERMOUTH.NETさんの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    petermensch2014

    −レコード業界は、この30年で変わってきた

    まぁビジネスモデルは間違いなく当時は素晴らしかった。たとえ数年稼げなかったとしても、ある程度の時間とエネルギーを投資していた。成功を収めたアルバムを出せば出すほど、レコードとアルバムの販売促進をしてくれるたくさんの人がいたわけだ。今やレコード・ビジネスは契約だ。レコードとストリーミングの売上げは落ちてきているし、そこで廻っているお金は少なくなっている。だから我々がやらなければならないことは、基本的には、我々のマネジメント会社を、ほとんどレコード会社と同じようなところまで(業態を)広げるということだった。さまざまな国の独立系レコード会社と取引し、その会社たちは我々のレコードを個別に取り扱うことができる。グローバルビジネスは砕け散りつつあるね。


    −減少していくレコード売上げと、バンドをより長い期間ライヴツアーに出させることについて

    以前がそうだったように、間違いなくツアーに出なくても十分なほどレコードを売り上げてきていたし、次のレコードを作ったり、あるいはレコード制作とツアーの両方をやる十分なお金があった。おそらく90年代までなんだが、レコード売上げと同じだけツアーで稼いでいたんだ。今やレコードやストリーミングの売上げは10分の1しか稼げない。新しいレコードを出していくというビジネスの最大の問題は、ファンが誰かわからないということなんだ。ファンは何かのために実際にお金を払ってくれる人たちだ。チケットを買ったりね。もはやアルバムにお金を払わないとしても私はあまり気にしない。どうしようもないということがわかっているからね。でもチケットを買わないというのは、本当にファンではないということだ。だから私のバンドはそこまでお金を稼ごうとはしていない。33歳の時は状況を鑑みて「この通りの先のサイモンおじさんのカーディーラーに加入する時が来た」となったかもしれないが。

    −ヘヴィメタルのファンはどこに行ったのか

    音楽の黄金世代は、60年代あるいは70年代、80年代、90年代だったろう。多くの人たちがやっていることは、大好きなライヴに通い続けるということだ。たまたまわかったんだが、さまざまな(イギリスの)議員が40代、50代でもヘヴィメタルのショーにまだ行っているんだ。私は首相を(アメリカのシンガーソングライター)ジリアン・ウェルチの公演で観たことがある。彼はレコードが好きだからね。だからもし音楽好きなら、未来でも熱中していることだろう。新しいレコードを買わないということはしないだろうね。

    −今日のビジネス状況で新しいアーティストがブレイクするのは易しくなったのか難しくなったのか?

    道はより困難になった。今日、コンサートに出かけたり、持っている1曲を観るために雨のなか、グラストンベリー(フェス)でぶらついたりすることを大事には思わないかもしれない。各アルバムを個別に買えるからね。だから私の仕事は、私が販促する興味のあるバンドが、アルバムのバンドであり、生涯ファンとなるようなバンドだと納得してもらうことなんだ。

    −ハードロックの魅力と今後について

    ハードロックの魅力はシンプルだった。私はそれがまだあると思っている。その魅力を持ち続けているクオリティを持つ新しいハードロックバンドがいないことを除いてね。ハードロックは魅力があった。基本的には、ニキビ顔で両親が嫌いで女の子にも好かれず不満の募っていた平均的な15歳の男性にとってね。そして驚いたことに、自分のような人たちが他に1万人もいたというわけだ。問題は、興味深いことにハードロックでは、我々はいつだってこう頼んでいるってことだ。新しいメタリカはどこにいるんだ?頼む、そこらに25歳以下のハードロックバンドで誰かいないか、私に連絡してくれ。我々はキミたちを必要としている。

    −『This Is Spinal Tap(邦題:スパイナル・タップ)』(1984年)で描かれている音楽業界のパロディーはまっとうか

    もちろん。ハードロックバンドと住んでたわけじゃないけどね。信じて欲しいのは、オルタナティヴ・ロック・バンドはあんな感じだったよ・・・対応してたのは面白かったけど・・・当時は同じように可笑しかったね。でも違ったやり方だった。

    BLABBERMOUTH.NET(2015-07-03)

    インタビューのフル動画はこちらから。


    『スパイナル・タップ』は80年代当時の架空のバンド「スパイナル・タップ」が活躍する、バンドで起きそうないかにもなエピソードをふんだんに詰め込んだフィクション・ドキュメンタリー映画です。詳しくはWikipedia参照。

    メタリカとピーター・メンチの出会いやピーター・メンチが語る当時のヘヴィメタルの置かれていたビジネス状況については関連記事からどうぞ。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章2回目。『Master Of Puppets』を完成させ、舞台はいったん、ラーズの地元デンマークで行われた老舗フェス「ロスキレ・フェスティバル(Roskilde Festival)」へと移ります。管理人拙訳にて。

    - ロスキレ・フェスティバルの舞台裏 -

    1986年6月下旬、メタリカはオジーのツアーから3週間の休みを許された。この休止期間にメタリカは大西洋を飛んで、ヨーロッパの複数のフェスティバルで演奏する機会を得た。それにはオレンジの張り出した屋根が象徴的なロスキレ・フェスティバルが含まれていた。メタリカは日曜日の夜、最後から二番目のバンドとして登場した。実際にHR/HM以外のバンドが参加するコンサートはメタリカにとって初めてのことだった。86年のロスキレで、バンドはエリック・クラプトン、エルビス・コステロ、フィル・コリンズのようなスターたちとポスターの名前を分かち合ったのである。逆に言えば、メタリカはロスキレ・フェスティバルの歴史において初の海外のヘヴィメタルバンドとしてその名を刻んだのだ。(そして間違いなくヘヴィメタルのバンドを入れるかどうかというのが、このフェスティバルの恒例の議題となった。)

    1986年のロスキレ・フェスティバルの日曜日(訳注:1986年7月6日)は素晴らしかった。太陽が一日中顔を出し、すでにとても馴染んでいたメタリカの青年たちはフェスティバルの会場をうろついていた。ジェイムズとクリフは馴染みのツボルグの緑色のビンを手に持って、彼らの仲間であるアーティレリー(Artillery)や一部のファン、そしてファンジンの記者と楽しい時間を過ごしていた。ラーズはどこにいたのか?メタリカについて言いたいことが山ほどあったため、ラーズは(訳注:バンドの控え室である)トレーラーのなかでメディアとやり取りを始めていた。そこで「Scum」「Metallic Beast」といったデンマークのヘヴィメタル・ファンジンや(新聞社の幸せな新入社員ステファン・ヨンガスンに代表される)地元ロスキレの記者にインタビューを受けていたのだ。

    メタリカはデンマークではアンダーグラウンドな存在だった。しかし『Master Of Puppets』のアメリカでの衝撃的な成功によって、ヨーロッパの大手レコード会社から大きな後押しを受けていた。メタリカがロスキレに到着する前にも関わらず、バンドはオランダを基盤とするポリグラム(Polygram)との契約を交わした。それはポリグラムがデンマークを含むヨーロッパで、次のアルバムのミュージック・フォー・ネイションズの配給を飛び越えることを意味していた。

    したがって、ポリグラムのデンマーク支社、マーケティング部のデニス・プログは特別な関心を持ってロスキレのコンサートに来ていた。

    「ロスキレはめちゃくちゃクールだった。地獄のようにキンキンしたけど、ものすごくよかった。」デニス・プログはメタリカのショーをこう語る。そこは(フォーリナー、ヨーロッパ、ボン・ジョヴィといった成功したバンドのクローンである)メロディックなスカギャラック(Skagarack)というバンドがポリグラムのデンマーク支社の獲得前に最後にやってきた場所だった。

    「私はポリグラムがメタリカとサインしたことを記すとってもハッピーな日だった。でも販促の人たちのなかには怖がっている人もいた。彼女はヘヴィメタルシーンには小さな子供にケチャップをつけて朝食で食べたり、夕食にプロモーション・ガールを食べるようなミュージシャンでいっぱいだと思っていたんだよ!私たちのなかでもメタリカのようなバンドとサインを交わすことはいい考えなのかどうか本当に意見の分かれるところだった。悪いPR以外のことは何もできないからといって、ポリグラムのなかでそういうジャンルからは完全に身を引くべきだと考える政治的圧力もあったよ。販売の観点から、ただのニッチにすぎないという根深い確信を持っていたんだ。」

    「それからスカギャラックと契約したんだ。彼らは我々が後を追うべきバンドのごとく、素晴らしくより値打ちがあるように見えた。みんなメタリカよりスカギャラックに賭けたんだ。はるかにキャッチーだったからね。ラジオでは彼らの曲は流しても、メタリカは一切流さなかった。そしてメタリカの音楽ジャンルは、どれだけ肩入れしようともこれ以上売れないという閾値の下にあると考える人もいた。我々の組織のなかでも最後までメタリカとサインを交わすのはいい考えかどうかハッキリ分かれていたんだ。信じられないほど分裂していたよ!」


    それにもかかわらず契約は疑う余地がなかった。ポリグラムにとってもメタリカにとってもそしてバンドのマネジメントにとっても。ポリグラムはすでにQプライムと非常に良い関係だった。交渉を行ったピーター・メンチはメンチとQプライムの最強の有名バンドのひとつであったデフ・レパードでのポリグラムのマーケティング販促の仕事に強い感銘を受けていた。何をおいても、ポリグラムのメタリカ獲得は、さまざまな従業員の好みとその結果生じた疑問ではなく、純粋でシンプルなビジネス、そして先見の明だった。

    ピーター・メンチ「ひとつ理解しなければならないことがある。個人的にヘヴィメタルを好きだったレコード会社なんてひとつもなかったんだ。彼らはプロとして好きだった。なぜかって?売れるからだよ。これはビジネスだ。我々はポリグラムと契約を勝ち取った。我々はすでにシーンで大きな仕事をしてきたからね。メタリカはヨーロッパでサインをしなければならなかった時、ワーナーかポリグラムという2つの選択肢があった。ワーナーは私が取引してきたなかで最悪の国際企業だと言えるね。私が彼らのオファーを受け入れるチャンスはなかった。それくらいマヌケだったんだ。ポリグラムはかつてシン・リジィのようなロックバンドを担当していた。デフ・レパードでたくさんレコードを売ってもいた。私はワーナーブラザーズのオファーよりも少ない額の基本契約をポリグラムと交わしたんだ。」

    今にして思えば、この契約はポリグラムにとって素晴らしい契約であることを証明した。『Master Of Puppets』時代のメタリカはロック界で広く人気があったわけではなかったとはいえ、新しいレコード・レーベルのなかでも全く知られていなかった。ポリグラムのコペンハーゲン支社にはすでにプレッシャーがあった。ボン・ジョヴィの1stアルバム『Slippery When Wet』も86年にリリースされたが、概算でスウェーデンで6万枚、ノルウェーで4万枚売れたが、デンマークでは2800枚しか売れていなかった。今、ポリグラムはメタリカのような難解なケースを取り扱わなければならなかったのだ!ポリグラム・デンマークに少し懐疑的な人がいても不思議ではなかったのである。

    デンマークは間違いなくロックの市場ではなかった。しかしたくさんの人がはるかに賢くなろうとしていた。すでにメタリカのことを確信していた人たちでさえも。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    このロスキレ・フェスの公演の模様はありがたいことにYouTubeで全曲視聴が可能です。最後の最後で映像が途切れていますが、当時の熱気が伝わる素晴らしい映像です。


    ロゴマーク無しはこちらから。
    https://www.youtube.com/watch?v=RFQaQ9qQqZw

    セットリストはこちら。
    http://www.metallica.com/tour/jul-6-1986-roskilde.asp

    「オレンジの張り出した屋根」という記載がありますが、このロスキレ・フェスティバルは現在でも張り出したオレンジ色の屋根がフェスのシンボルとなっており、張り出し屋根(Canopy)の「Canopy Scene」、もしくは「Orange Scene」と言ったらロスキレ・フェスのことを指しています。
    Orange_Stage

    当時のポスターでもこの屋根のデザインが挿入されています。
    1986_roskilde_poster

    次の項ではあの忌まわしい事故について・・・。

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    ラーズ・ウルリッヒ伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の続き、第4章完結編です。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。今回はメタリカの活躍を支えることとなるQプライムとの出会いについて。(読み方がわからない地名等はアルファベット表記のままにしています。)

    エレクトラ・レコードとの交渉に先立ち、ラーズとバンドは自分たちのキャリアの中で重要な仲間と関わっていた。夏の間、ラーズの友人であり『Kerrang!』の記者でもあるシャビエル・ラッセルは、ラーズにあのピーター・メンチがラーズとバンドに連絡を取りたがっているとロンドンで知らせていた。このピーター・メンチという男はQプライムのロンドン支社長だとわかった。メンチと彼の仲間であるニューヨーク本社の代表、クリフ・バーンスタインはある日、ロンドン有数のヘヴィメタル・レコードショップであるシェイズ・レコードに行くと、そこにあったメタリカのTシャツ、ブートレグ、シングルの膨大なセレクションに圧倒されてしまった。2人のマネージャーは『Kill 'Em All』からメタリカを観続けていたが、その巨大な可能性を感じたのはそこからだった。彼らはその可能性を実現しなければならない。一時もそれを疑うことはなかった。

    ラーズはピーター・メンチに連絡を取り、クリフ・バーンスタインと共にニュージャージー州で会う約束をした。ローズランドのコンサートまで、メタリカはニュージャージー州にいるジョニーZの友人の家に滞在していたのだ。だからラーズとバンドにとってニュージャージー州ホーボーケンへの小旅行はとても容易いことだった。ここはフランク・シナトラが最初にスターダムの夢を見た地区であり、今この小さな、グレーのあごひげをたくわえた、機を見るに敏なクリフ・バーンスタインとの会合後にメタリカが自らを方向付けることとなる地区でもあった。

    ラーズは、バーンスタインがNWOBHMのお気に入りバンド、デフ・レパードのマネージャーであったのに、大富豪の住む郊外ではなく「たわいのないスラム街」に住んでいることに驚いた。しかし、バーンスタインの家はQプライムとメタリカとの間の交渉をさらに進める決定要因ではなかった。決定的な要因は彼らとの間にケミストリーがあり、戦略的なビジョンにおいて双方とも合意したことだった。しかし、メタリカが正式なコラボレーションを始める前、つまり、新しいもっと実入りの良いレコード契約へとジャンプする前に、ジョニーZおよびクレイズド・マネージメントとメタリカとのレコード契約上の法的な決着をつけなければならなかった。

    ラーズ・ウルリッヒはこう説明する。「俺たちはメガフォースとジョニーZに契約で縛られていたから、ちょっと複雑になっていたんだ。俺たちは自由契約じゃなかった。他の契約を得る前に、契約外になっていたんで、84年秋の数ヶ月は俺たちはグレーゾーンにいたんだ。Qプライムがそんな状態を手助けしてくれたんだけど、ジョニーZとの契約が終わる前に俺たちのマネージャーとしては動けなかった。俺たちもポリグラムとか他の興味を持ち始めたレーベルと話をしていた。当時のアメリカあるあるだね。誰かが興味を持つとすぐに、他のところ全部も興味を持つんだ。彼らは他のヤツらが興味を持ったってだけで興味を持つんだよ!」

    最終的にジョニーZはさまざまな契約によって「買収」され、エレクトラとの契約にサインをした。すでに売れ行き好調の『Ride The Lightning』は新しい会社によって再リリースできるようになった。メタリカもマンハッタン7番街にあるQプライムの公式クライアントとなった。

    Qプライムは、すでに経験豊富なマネージャーであったクリフ・バーンスタインとピーター・メンチがパートナーとして、これより2年前に設立された。2人はロック革命期の60年代を10代として過ごし、今や専門的なマネージメントを行っている、ただの音楽ファンであった。しかし、バーンスタインとメンチは高学歴な人物でもある。バーンスタインはペンシルベニア大学で経済学と人口統計学の学位で卒業していた。そして1973年、ニューヨークのレコード会社、マーキュリーで自らのキャリアをスタートさせた。その後、1980年にコンテンポラリー・コミュニケーションズに入社し、ピーター・メンチと出会ったのだ。ピーター・メンチはシカゴ大学で都市研究とマーケティングの学位を持っていた。コンテンポラリー・コミュニケーションズに入る前、メンチはエアロスミスのツアー中の会計士として、1979年のAC/DCのあの『Highway To Hell』ツアーではマネージャーとして働いていた。2人とも同社を1982年に退社し、自らのマネージメント会社、Qプライムを始めたのである。

    スタートから、QプライムはAC/DCとデフ・レパードというハードロックのビッグネームを抱えて安定し、それから1984年、高い見識と忍耐で構築されたであろうメタリカと契約した。(契約に際して)とりわけラーズの耳に響いたことのひとつは『Ride The Lightning』の販売促進のためにメタリカにツアーをたくさんやってもらおうという彼らの考えだった。Qプライムのボスたちは、MTVでビデオを流しまくるという80年代のポップ/ロックネームたちがやってきたように成功要因を増やす道へアクセスするためだけに、急ごしらえのヒット曲を強いたり、ビデオ出演を課したりはしたくないと思っていたのだ。

    そう、メタリカのワールド・ツアーだ。それはQプライムが望んだことだったし、ラーズとメタリカが望んだことでもあった。既に強烈な売上げとなっていた『Ride The Lightning』、そしてメタリカについたエレクトラとQプライムにより、彼らは最大の楽しみであった、もっと良いホテルでのシングルルームという望みさえ叶った。彼らはまずヨーロッパに焦点を当てた。ヨーロッパには後に「スラッシュメタル」と分類される新しいヘヴィメタルに対する観衆がいたのだ。12月11日、ラーズは故郷で初めてのコンサートを行った。1年前に『Kill 'Em All』がリリースされた後、ケン・アンソニーはもう一度エリック・トムセンに話そうとしたが、このデンマークの大手ヘヴィメタル・プロモーターはメタリカにはまだ二の足を踏んでいた。

    「俺はレコードを送ってまでして、エリックと連絡を取って言ったんだ。「今、アンタが聴いているのすげぇだろ、ビッグになりそうだろ!」そしたら彼はただこう答えたよ。「黙れ。なんだこの生半可パンクは!?」ってね。」

    それでもなお、トムセンは経過を見ていた。1年後、彼はメタリカが初めてデンマークで行うショーのブッキングを担当した。

    「あれからメタリカを信じるようになった。」エリック・トムセンはそう語る。「だから私は最近ブライアン・アダムスが218人の観客でコンサートを行った500人収容のSaltlageretじゃなく、約1300人収容のSagaをメタリカのデンマーク初のコンサート会場として押さえたんだ。」

    コペンハーゲンのホヴェドガールドの近く、ヴェスター通りに面したSaga旧映画館はトムセンによって建てられ、別名ETプロモーションのコンサートで、少しオールドスクールなヘヴィメタルたち、アクセプト、サクソン、そしてスコーピオンズといった多くのバンドが使っていた。トムセンは正しかった。まさに正解だ。当時のメタリカの周りのメディアの盛り上がり不足もあって、メタリカのコンサートのチケットがほぼ売り切れたことは本当に驚くべきことだった。全てがアンダーグラウンドの世界で起きたことだった。文字どおり、ヘヴィメタルファンたちがケン・アンソニーのレコード店のアンダーグラウンド(地下フロア)でそのニュースを知ったのだ。

    注目すべき例外はあった。最も優秀な類のジャズとロック愛好家向けのまともで信頼性の高い月刊誌『MM』が1984年12月号でラーズ・ウルリッヒのインタビューを掲載していたのだ。「ライトニングはエネルギーを乗せてやってくる」と題されたインタビューはかろうじて1ページを埋めていた。最初に目を引いたのは−そのタイトルと共に−写真だった。(訳注:コペンハーゲンにある)ノアポート駅に降り立ち、革ジャケットとタイガーズ・オブ・パンタンのTシャツを着て、スポーツマンらしい人懐っこい笑顔を浮かべた若きデンマークの少年がそこにいた。それは2つのメタリカのアルバムで見たものとは全く違っていた。それぞれ、薄い口ひげをした粗野な若者(『Kill 'Em All』)、ドラムの後ろにいるワイルドな男(『Ride The Lightning』)だったのだから。

    インタビューで、ラーズはバンドの成り立ち、テニスのこと、「スラッシュメタル」という狭いサブジャンルの決まりごと、そしてバンドの新しいメジャーレーベルとの契約について詳しく語っている。Sagaで行われる予定のコンサートについても言及した。それにはちゃんとしたわけがあった。ヘレルプの大のメタルファンが初めて自分の故郷でパフォーマンスをするなんてことはこれまでなかったのだ。

    Sagaでのコンサートはユニークで強烈な事件だった。「Fight Fire With Fire」のアコースティックのイントロがショーの進行中に流れるとそこからすぐに長いお楽しみが始まった。その夜の大きな衝撃となったのはクリフが『Kill 'Em All』収録の「Anesthesia (Pulling Teeth)」として知られるベース・ソロを弾いた時だ。筆者も他の多くの人も他のヘヴィメタルバンドのギター・ソロ同様、ギター・ソロだと思い、まさかリード・ベース・ソロだとは思わなかった。しかしメタリカは他のバンドとは違った。クリフ・バートンは確かに他のベーシストとは違った。ベース・ソロ、これ以上何を言おうというのか。

    コンサートの数時間後、ヴェスターブロのエリアは、素晴らしいコンサートに押し寄せたヘヴィメタルのファンのアフター・パーティーで大いに盛り上がった。全員長髪でブルーのジャケットや服をまとった人々の中で、この暗くも夜には明るいコペンハーゲンで、何か新しい歴史的なことを体験できたという感覚が漂っていた。爽やかなラーズと、少しシャイで笑顔のカークは、そこではもはやロックスターではなかった。イステゲーゼを歩き、自分でホット・チョコレートとホットドッグを調達したのだ。

    1984年12月11日は、メタリカが勝利の寿司を、アルコホリカが勝利の日本酒を味わう前のことだった。来日前の2年弱は、バンドの生存に関する決定的で不変のポイントとなっていくのである。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    PeterMensch-CliffBurnstein
    ピーター・メンチ(左)とクリフ・バーンスタイン(右)

    『MM』誌に掲載された爽やかなラーズの写真、ネット上にないか探してみましたが残念ながら探し切れませんでした(苦笑)

    2011年に書かれたものですが、クリフ・バーンスタインが為替変動の影響がツアー日程にどう影響するかについて語っている非常に興味深い記事をみつけました。彼らの仕事のひとつとしてご参考までに。
    http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/355982

    私事でドタバタ続きのため、この伝記本翻訳はしばらくお休みします。再開までお待ちください。

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    やたら意味深なコメントの多いインタビュー記事。

    【メタリカ、フロイドの「The Wall」に匹敵するステージを計画中】

    メタリカのマネージャー、ピーター・メンチは、
    2011年のバンドのプランについて暴露した。

    「来年のメタリカのツアーは、きっとウットリする
    だろうとだけ言っておこうかな。メタリカは10都市
    のみの公演になるんだけど、これは大仕事だよ。
    メタリカ版「The Wall」になるんだ。」


    この暴露話は「Classic Rock」誌記者、
    ピーター・マコースキーがロック界で最もパワフルな
    男たち(メタリカ)についての記事のため、
    ピーター・メンチとのインタビューのなかで飛び出した。

    マネージャーとしての役割とは何なのか訊いてみよう。

    「ライブが面白くなるようにアイデアを出していくんだ。
    馬鹿げたアイデアをどんどん出すだけさ。
    ここだけの話、いくつか25年も前にやったことを再利用
    しているんだけど、それが再利用したものだなんて
    誰もわからないだろうね。
    それでこんな感じで言うんだよ。
    『「The Wall」みたいにプレイするってアイデアがある。
    ここにあるアイデアに対してボクが正気かどうか訊くことが
    できる専門家を呼ぶことができる』ってね。
    さながら他の誰かが描き足していくキャンバスを
    用意するみたいな感じだね。」

    ふーむ。とすると何か昔のアイデアを
    新しくしたものになるのだろうか?
    メタリカ版「The Wall」?他に何かヒントは?

    もちろん、単なる話題そらしかもしれない。
    しかし、メンチはマコースキーがアメリカのオペラシンガー、
    レニー・フレミングをYouTubeでチェックしていたことに対し、
    しつこいほど訊いていた。

    ソプラノ歌手として名高いことは別として、
    想像上の言語、Sindarin語で歌った歌で
    「ロード・オブ・ザ・リング」のサウンドトラックにも参加している。

    Classic Rock(2010-03-15)


    最後のソプラノ歌手のくだりはうまく訳せているのかどうか。。
    謎の多い記事です。。

    気になる方は原文をどうぞ。

    参考までにレニー・フレミングはこんな方。



    引き合いに出されているピンク・フロイドの「The Wall」
    についてはツアー内容のこの部分についてを念頭に置いた
    発言のようです。

    演奏途中から観客席と舞台の間に実際に壁を構築し、
    そして構築された壁が最期の曲である「Outside The Wall」
    の直前で完全に崩れ去るという大規模なもので評判を呼んだ
    (但し規模が大きすぎて経費手間が掛かりすぎ、
    全世界で4都市のみの公演に留まった)。

    Wikipedia - 「ピンク・フロイド」より抜粋

    またお金をかけたセットで何やら企んでいるようですね。
    しかし、予算的にあまり多くの場所は廻れないようで。。


    で、いつ日本来るんすか。


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    メタリカライブ講座公開。

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