メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:デンマーク

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    ラーズ・ウルリッヒが2017年5月26日、母国デンマーク王室からダンネブロ勲章のひとつ、ナイトの爵位(ridderkorset af Dannebrogordenen)を授与されたとのこと。

    今回ラーズが受けた爵位はイギリスのナイトとは違い、デンマークでは第三等級。日本で言う紫綬褒章にあたり、日本人ではベーカリー「アンデルセン」の創業者である高木俊介氏など外国人の受賞例もあります。

    今回の授与についてラーズはダラス州のラジオ番組「97.1 The Eagle」のインタビューのなかで次のようにコメントしています。BLABBERMOUTH.NETの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    この数日、今回のことについてたくさんのことを聞いてきたよ。イギリスは剣があって、前にひざまずいてどうとかってね。デンマークではもうちょっとカジュアルなものなんだ。でもさ、この国には500万人いるんだぜ、わかる?この国ではそう起こることじゃないし、とてもクールなことだし、実際とても感謝しているんだ。

    超クールな王太子殿下は、デニムジャケットを着ていたんだ。あれは不意打ちだったね。あんな感じとは知らなかったよ。でも殿下はデニムジャケット、俺は白いシャツを着て、突然殿下が部屋にいるデンマークを去った誰かについて話し始めた。クールだと思ってたら、俺のことを話しているんだと気付いたんだ。そこには剣も何もない。でも今や俺は正式にデンマークの爵位を得たナイトなんだ。だから今、俺は馬を必要としていてね・・・本当にそういうことになっちゃったんだよ。叙勲のメダル授与に同行する馬が必要なんだ。

    王室は全ての国々で叙勲をしている、だからここ(アメリカ)でやるんだと思う。おそらくは、ケネディ・センター名誉賞(訳注:毎年アメリカで優れた芸術家に贈られる賞)を毎年授与しているとことか・・・大統領自由勲章(訳注:議会名誉黄金勲章と並んで文民に贈られる最高位の勲章)はどこで授与されているのか・・・俺は知らないけど・・・全ての国でこういったものがある。どういうわけか、イギリス版のひざまずいて肩に剣を置いてとかそういうものが、この手の典型例になってるようだけどね。でもアメリカ人も何らかの形でそういうことをやってるだろうし、デンマーク人はもうちょっと気軽な感じでやってるんだ。ベルギー人と話したら、ベルギー版のものがあるはずだよ。

    バカげてるように聞こえるのと同じくらいクールなことだよ。だって鼻タレ小僧でヘヴィメタルバンドのドラマー、そんなヤツがこんな栄誉を授与するか?かなりクールだね。とても嬉しいし誇りに思うよ。さっき言ったように小さな国だから余計クールだ。

    BLABBERMOUTH.NET(2017-06-17)

    メタリカのinstagramには、デニムジャケットのフレデリク王太子と勲章をつけたラーズの姿がアップされています。(さすがに髭は剃ってますね)
    lars_jokun

    インタビュー全編動画はこちらから。


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    更新が滞ってしまいましたが、心配なニュースをひとつ。公式サイトのアナウンスを管理人拙訳にてご紹介します。

    20170205_postpone

    残念なことに土曜日になってもジェイムズの健康、特に喉の調子が改善されず、彼が一音も歌ってはならないとの医師の厳重注意の下にあることをお伝えしなければならないことを申し訳なく思います。悲しいことに明日(2/5)のロイヤル・アリーナでのショーは2017年9月2日に延期することをご報告しなければなりません。

    今週のコペンハーゲンについては、デンマークの友人たちだけでなく我々にとっても、新しいアリーナのこけら落としを祝うことを本当に楽しみにしており、ずいぶん前からカレンダーに丸をつけていた特別なイベントでした。昨日(のライヴで)お会いした皆さんには、我々が(公演を)続行するよう励ましをいただきありがとうございます・・・我々にとってかけがえのないものとなりました!我々は皆、最大限のメタリカ体験をお届けすることができず、本当に残念に思っています。これまで経験した中でも最も困難なショーのひとつでしたが、あなた方の愛とサポートで乗り越える事が出来ました。

    多くの人が我々と週末を過ごすため旅行計画を立ててくれたことは承知しています。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません。9月のコペンハーゲン公演でまた来てくれることを願っています。延期後のギグでは、もちろん最高のショーとともに、あなたにとってかけがえのない何かで皆さんへの埋め合わせをするよう全力を尽くします!そして日曜日の前座に投票で選ばれたバンド、Aphyxionには9月に出られることを願っています。

    デンマークではいつもお世話になっていることに改めて感謝します。我々はまた戻ってきます!

    注記:2月5日分のチケットは、(延期後の)9月2日のショーで有効となります。

    もしデンマークにすでにお越しいただき、2月7日もしくは9日のいずれかのショーにご参加いただける場合は、非常に限られてはいますが、チケット交換のために最善を尽くすべくチケットマスター・デンマークにご連絡ください。もし予定変更された9月2日にご参加できない場合は、3月1日までにチケットの払い戻しを行ってください。連絡先(servicecenter@ticketmaster.dk)

    払い戻しについては、ご購入された取扱先でのみ適用となり、チケットマスターにあなたのクレジットカード下4桁によってチケットの所有権を確認する必要があります。チケット額面金額は返金されますが、手数料等は返金されません。

    追記;我々はジェイムズの声を日々監視しています。状況についてはこちらで更新します。

    Metallica.com(2016-02-03)

    同じくデンマークのコペンハーゲンで2月3日に行われた公演ではいつもより2曲少ない公演となっており、アップされた動画もジェイムズの声の調子がかなり悪そうです。。


    早く回復して、無事に続きの日程をこなせることを祈っています。(でも無理はしないで欲しい。。)


    【追記】
    2月7日のコペンハーゲン公演は無事に行われました。まだジェイムズの喉は完全復調ではないようですが、しっかり歌いきっています。

    Whiplash


    Anesthesia (Pulling Teeth) + Orion


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    前回記事のRolling Stoneによるラーズ・ウルリッヒへの長尺インタビュー後編です。映画、音楽、本など話題は多岐に及んでいます。管理人拙訳にてどうぞ。

    lars___

    −あなたが生きている上で一番重要なルールとは何ですか?

    (笑)俺は一般的に言ってルールで動くヤツじゃない。ずっと前から言っていることだけど、ルールは自分で作るし、望めばいつだってそのルールを破ることができる。俺はそれを守ってきているね。でも俺が何かを遂行していくのには、いつもこのことを思ってきた。言ったらやる。言ったらそういうことだ。それがルールなのか俺のDNAの一部なのか周りの誰かからパクってきたのかさえわからないけどね。

    −世界で好きな都市はどこですか?

    サンフランシスコ、それに僅差でコペンハーゲンかな。でもサンフランシスコには人生で楽しむすべての要素が詰まっている。それは将来もそうだと思うけど、詳細で歴史的な過去を持っている。俺にとっては、北米で一番ヨーロッパ的な場所だよ。とてもヨーロッパ的な文化的、社会的美学を持っている。水とワインが身近な場所。週末のお出かけにはたくさんの選択肢がある。世界でもっともスマートな人たちがここに住んでいる。ヒッピー運動とかグレイトフル・デッドのような素晴らしい豊かな文化がある。それはニューヨークはLAにはない。俺は仕事でそういった都市とも関わっているけど、そこでは気を休めることはできないんだ。

    −あなたはデンマークで育ちました。あなたが一番デンマーク人だなと思うところは何ですか?

    俺の広いおでことか?(笑)俺のカミさんは居心地のいい男だと言っているよ。デンマーク語で「hygge」っていう言葉があるんだけど、緩く訳すと「居心地のいい」になる。デンマークの「hygge」なことっていうのは、人を招待してキャンドルを照らしてワインを飲みながら談笑っていう感じ。もう一方で、自分を卑下しているところもある。既成概念を超えるような現状に対する少しばかりの反論も俺にはあるんだ。ちょっと面白いよね。デンマーク人を理解するうえでなくてはならないものだよ。

    −ルーカス・グラハムはデンマークで昨今最も有名なミュージシャンとなりました。彼はコペンハーゲンの自由な街、クリスチャニア(Christiania)で育ちました。彼についてはどう思いますか?

    俺は彼をフォローしてきたよ。彼らは数ヵ月前にサンフランシスコでライヴをしていたんだけど、俺は他の所用ができて見逃したんだ。でもデンマークの誰かとインタビューをするたびに、いつも彼についてどう思うか尋ねられる(笑)。彼は現在最も海外で成功したデンマーク人だろう。俺たちが一度も会ったことないのによく知っているように感じるよ。でも全てのデンマーク人はどういうわけかお互いに関係を持っている。だから俺は彼のことを知っているように感じるんだろうね(笑)。俺たちのなかの一人って感じでさ。

    −あなたが列挙したヒーローのなかにあなたのお父様がいらっしゃいます。どのような人生訓を教えてくれましたか?

    特定の原則の要素、規格外で漂うこと。彼の仕事はテニスの世界にあった。50年代・60年代、テニス界はとても保守的だったんだけど、長い髪と髭の男ってことでテニスに異端なものをもたらした者として目立っていたんだ。ほとんど哲学的なアプローチだよ。

    −父親であることと音楽的キャリアのバランスについてはどのようにして学んでいったのでしょうか?

    俺たちはいくつかの境界線とルールを一定の場所に置いている。このバンドに起きた最善のことは、俺たち全員がほぼ同時期に親になって、同時期にその方向に進んでいったということだよ。率先してね。2人が父親になって、もう2人がろうそくを燃やし続けるってことはなかった。だからメタリカと家族のあいだの優先度という点においては切り替わったんだ。家族と子供たちと伴侶を優先するようになった。勇気をもって俺たちのマネージャーを呼んで何かをするつもりはないとかツア―時には一週間家に戻るとかハッキリと言うところまでには数年かかったよ。内部スケジュールを見ることができたら、誰それの春休みだ、誰それが一週間スキーだ、誰それが休日でお出かけだって具合になっている。俺たちのスケジュールにメタリカを織り込んだってわけ。

    −「hygge」の他に何をやってリラックスしていますか?

    リラックス?それどういう意味?(笑)俺は映画に情熱を持っている。音楽とかアートとか文学よりも映画を追っかけているよ。夢中なんだ。映画についての記事を読んだり、映画を観たり。映画館にも行くし、家でも映画を観る。オンデマンドでね。公開前の映画素材も入手することもあるし、映画監督を追っかけて彼らが発言したことを読んだりもしている。映画って創造的な過程での最も不可欠な形だと思っているんだ。あれは人が取り組むのに新しい未開の地がある最大の場所だよ。

    −最近観たお気に入りの映画は何ですか?

    10月と11月は映画にとって最高の2ヶ月で、俺みたいな映画オタクには素晴らしいことがたくさんあるんだ。先週は『La La Land』を観たよ。『Whiplash(セッション)』の監督脚本を手がけたデミアン・チャゼルの次の映画なんだ。12月に公開される。あれはたくさんの人の心を揺さぶるだろうね。素晴らしいよ。ミュージカルなんだ。数日前には『Toni Erdmann』っていうドイツ映画を観た。カンヌで大ヒットした映画でね。あれにはぶっ飛んだよ。ドイツのコメディー映画っていうとても珍しい組み合わせなんだ。レアなジャンルだよね(笑)。また数日前にはブラッド・ピットの制作会社「Plan B」の『Moonlight』って映画を観た。この映画はマイアミで育ったアフリカ系アメリカ人が子供時代に起きた様々なことが描かれている。子供時代、高校時代、大人時代の3段階があるんだ。ファンタスティックな映画だね。それとケン・ローチ監督の『I, Daniel Blake(わたしは、ダニエル・ブレイク)』っていうすごい映画を最近観た。この映画はカンヌ映画祭でパルム・ドール賞を獲得している。イギリスについての、イギリスの社会制度に関する素晴らしい映画だ。とても重たい映画だね。

    −どんな音楽があなたを最も感動させるのでしょうか?

    自分の人生の体験が埋め込まれているもの。ボブ・マーリーの『Babylon by Bus』は俺の人生でいつでもある種の重要性を持ったレコードにおそらくなるだろうね。あれを聴き始めたのは'78年に出た時だった。あのなかにはデンマークのロスキレ・フェスティバルで録音されたものがある。あれはいつも立ち戻るレコードのなかのひとつに含まれているよ。『Kind Of Blue』みたいなものもある。座ってジャズとか(ジョン)コルトレーンとか(チャーリー)パーカーとかデクスター・ゴードンとかの話をすることができる。もし時系列逆さまにして聴けるレコードをひとつ挙げろと言われれば、『Kind Of Blue』だね。最初に聴いた時と同じくらい素晴らしいサウンドだと思う。(ディープ・パープルの)『Made in Japan(ライヴ・イン・ジャパン)』もそんな風に感じる。初めて聴いたのは1973年で、あのマジックは(今でも)失われていない。(ブラック・サバスの)『Master of Reality』を聴くと、13歳の頃を奇妙な形で思い出す。友だちと自分の部屋で初めてブラック・アフガニスタン(大麻の一種)を吸っていた記憶をね(笑)。それとインドのラーガ音楽を聴くといつも心を揺さぶられるんだ・・・時おり聴くような(ピアニスト)グレン・グールドのピアノみたいな古典的なものの解釈を持っているね。

    babylonbybuskindofblue

    Deep_Purple_Made_in_JapanMasterOfReality

    −子どもの時には何を読んでいましたか?それについてどう思っていたのでしょうか?

    親父とアメリカに旅行した1976年に『Mad』って雑誌を教えられた。あれにはたくさんのアメリカ文化が紹介されていたんだ。俺がいつもアウトサイダーであること、自主的あること、メインストリームにはやや皮肉っているところ、そういったものは『Mad』がもたらしたことだ。

    子どもの頃だったら他には『Tintin』『Asterix』『Lucky Luke』っていうヨーロッパのコミック本。でもあれは雑誌というよりは本の形式だった。全てに共通していたのは、全部冒険的で、奇妙な珍しい状況に身を置いて、独創的でどうにかして何かを起こしてやろうと考えていたってところだね。

    −今は何を読んでいるんですか?

    2週間前にスプリングスティーンの本をダウンロードしたよ。『Rolling Stone』や『Vanity Fair』での話も読んで、(テレビ番組)『60 Minutes』も見て、チェックするべきだと思ったんだ。彼の書きっぷりは大好きだよ。彼の書く歌詞みたいでさ。信じられないくらい詩的なんだ。自身のうつ病に関してのオープンなやり方が気に入っているよ。

    ※訳注:ブルース・スプリングスティーンは最近出した自伝『Born To Run(ボーン・トゥ・ラン)』のなかで自らがうつ病だったことを告白している
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    −あなた自身の回顧録を書くことは考えませんでしたか?

    それについては時おり考えるけど、それは差し迫ったものじゃないね。誰かによって書かれた本を読むと、特に知っている人が書いている人のだと「ちょっと待ってくれ、そんなことは全然起きてない」とか「それはもうちょっと18禁なことが起きてたよ」なんてことが読んでいて何回もある。俺はいつもそういう類のことで難しいと感じるよ。自分のこととなると、デンマークの部分なんかでそういうことがあったとしたら本当のことを書かなきゃならないからね。そして本当のことを書こうものなら、周りの人たちが外に出したくないかもしれないことがそこに含まれているかもしれない。

    もし自分のことを書いていたら、レベルを下げたものにしたくないと思っているけど、同時に、もし1988年のあれとこれについて何かやって、俺たちがこのクレイジーな冒険を一緒にやってきたとすると、俺はその人がその話をされたがっているのは当然だと思うべきじゃないんだ。ちょっとしたソーシャルメディアみたいなもんだね。「あの人はその写真を掲載してもいいってことを了解しているの?」(笑)それは他人のプライバシーや選択肢を尊重するということなんだ。まぁ俺は300ページのクレイジーなお話になると言っているわけじゃない。他の誰かが共有して欲しくないと思っていることを言っていないかいつも心配しているから、(回顧録を)書けるとは思っていないって言っているだけなんだ。これは俺の親父から得た原則だよ。

    −あなたが一番ムダ使いした買い物は何でしたか?

    俺の人生にはいろんな期間がある。それほど最近のことじゃないけど、服にたくさんのお金を費やしていた。スーツに3000ドル費やして、2年後にタンスの肥やしになっているのを見るんだ。「クソッ、これは俺が自分で買ったものじゃないか。1回も着てないぞ。まだタグもついているじゃないか。」なんてことがある。ありがたいことにもうそんなことは起きていないけどね。

    −若き日の自分にどんなアドバイスをしますか?

    「ゆっくりやれ。全てを受け入れろ。そんなに急がないで起きていることに感謝しろ」デイヴ・グロールが言っているのと真逆だね。「やり遂げたら次だ」ってね(訳注:フー・ファイターズの曲「All My Life」の一節「Done, Done and I'm onto the next one」のこと)80年代・90年代に俺が一度も取り入れなかったたくさんの経験があった。91年にソビエト連邦崩壊の真っ只中のロシアにいた。もう少し目を開けていたらって思うよ。俺の周りで起こっていたことを思い出せないからね。後悔はしていないけど、今日ではちょっと立ち止まって「うわぁこいつはかなりクレイジーだ」って感じで全てを受け入れることができるんだ。

    RollingStone(2016-11-06)

    映画のことになると話が止まらなくなるのは、観ているジャンルは違えどカークとそっくりです(笑)含蓄のある言葉も多いインタビューでした。

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    バンド内不和、ナップスター、クリフバートンの死− ラーズ・ウルリッヒが振り返るメタリカの暗黒時代

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    ニュースが立て続けなので順番に。。まずはメタリカから来年のツアー日程の発表がありました。デンマークのコペンハーゲンにて2017年2月3日、5日にロイヤル・アリーナ(Royal Arena)にて、こけら落とし公演を行うとのこと。

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    今回は下記追加特典が付いたVIPチケットも発売する模様。

    ・早期入場特典
    ・バンドメンバーとの交流
    ・メタリカ・ミュージアム
    ・VIPラウンジアリーナ席

    VIPチケットのさらなる詳細は後日こちらで発表とのこと。
    http://www.cidentertainment.com/events/metallica-copenhagen-2017/

    チケット販売はMetClub会員先行が現地時間9月28日朝10:00から9月30日朝9:00(日本時間9月28日17:00から9月30日16:00)もしくは売り切れまで。(Metallica.comのMetClub会員ページで後日お知らせがあります。)

    一般販売は9月30日朝10:00(日本時間9月30日17:00)からTicketMasterで開始とのこと。
    http://www.ticketmaster.dk/

    Metallica.comではツアーの予告映像も公開されています。
    https://metallica.com/blog/news/433803/worldwired-tour-travels-to-copenhagen

    今回のツアーは「WorldWired Tour」ということになりそうですね。はぁ行きたい。。

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    メタリカ、2016年の中南米ツアーの日程発表

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章8回目。『Master of Puppets』リリース後のラーズの母国デンマークの反応など。

    アメリカに戻り、メタリカ初の中規模クラスのアリーナ会場でヘッドライナーを務めるツアーが始まった。彼らの友人であるメタル・チャーチがサポートバンドとして参加し、4000〜6000人収容のマイナー・ホッケー・ホールを一杯にした。アイスホッケーの試合での楽屋部屋をバンドは最大限使ったが、インディアナであったようなジェイムズのスケートボード事故は二度と起きなかった。このツアーはとても寒い冬のアメリカで行われたことから「永遠の暗黒ツアー(the Eternal Blackness Tour)」と名付けられた。

    新年を迎えても冬は厳しい寒さを衰えさせることはなかった。メタリカが凍てつく冬のコペンハーゲンを訪れた時、日中の気温はマイナス20度から25度だった。幸いなことにメタリカのメンバーたち(の滞在する場所)はスウィート・サイレンス・スタジオの屋根裏部屋から快適なホテルの部屋と暖房の効いたリハーサル・ルームへと改善されていた。彼らはおよそ4ヶ月前に悲劇的に中断されたヨーロッパ・ツアー再開のためにそこに集まって練習を重ねていた。

    バンドは新しい編成で初めてデンマーク/ヨーロッパ向けの記者会見を行うことにした。メディアは特に手配されていなかった。出席したマスコミはバンドの宿泊するホテルの大きなエリアに集まり、バンドと何の関係のない人々がそこに座っていった。3月の『Master of Puppets』のリリースから、デンマークのメディアのメタリカに対する関心がわずかに増していたことが明らかとなった。

    『Master of Puppets』は、デンマークではバルビュー(Valby)郊外のSkelmosevej沿いに慎ましやかにある独立系レーベルのメドレー・レコード(Medley Records)からリリースされた。デンマークのポップ・デュオ、レイド・バック(Laid Back)が海外でヒットしてから、メドレー・レコードは海外のレコード会社のライセンスを取得することにしたのだ。小さな会社の共同プロモーション、そしてミック・クリステンセンは、1985年にデンマークにおけるミュージック・フォー・ネイションズの全ての商品をメドレー・レコードで行う出版権を確保していた。そのときミックはメタリカのことは知らなかった。しかし、すぐに(メタリカのことを)「当時支配的だった80年代のヘヴィ・ポップが好きな人たちに対する反発と攻撃的な声明」と考えるようになった。

    「メタリカはストリート・ネームだったんだ。」ミック・クリステンセンはそう語る。「彼らはヘヴィー・シーンで異常なまでに高い信頼性を持っていた。でも、一歩その環境から出ると誰も彼らのことは知らなかったんだ。彼らのファンはとても忠実だ。私たちがメタリカのピクチャー・ディスクとかそういったものを出すと、お客さんたちがいつもすぐにお店に現れた。『Master of Puppets』のための我々のマーケティングは、フライヤー、ポスター、そしてメタル・ファンジンへの広告といった街頭キャンペーンに基づいていた。加えてRock Uglenと(ラーズにさまざまなヘヴィメタルを教えた)ケン・アンソニーのいたHMVみたいな専門店がメタリカの宣伝をしてくれたんだ。彼らはさながらバンドの特命大使のようだったよ。」クリステンセンはそう思った。

    「当時の新聞やラジオでは難しかった。でもバンドの「ビデオなんて作りたくはない」っていうアティテュードが、彼らをこの時点であるべき姿よりももっと見えにくいものにしていたんだ。ラーズは『Master of Puppets』のプロモーションでSkelmosevejの私たちのオフィスに数回やってきた。彼がここに来て2日目のことを覚えているよ。彼はデンマークのマスコミにほとんど話せなかったんだ。1日のあいだにたった3つのインタビューしか受けなかったんだから!たとえすべき仕事があまりなくとも、彼はここに来てよかったよ。でも彼はそうは考えてはいなかったようだ。彼は家にいるのが最高だと考えていた。家族と会い、街にビールを飲みに出かける。ラーズはとても誠実で地に足の着いたヤツだよ。彼は音楽のためなら何でもするハッピーボーイさ。ロスキレ・フェスティバル後に(HR/HM以外の)他のメディアが来るようになった。ロスキレのショーが全てを変えたんだ。」クリステンセンはそう付け加えた。

    晩秋、再びメタリカのチケットには大きな需要があった。1987年1月8日の新年のショーは(デンマークの)サガではブッキングされなかったが、ほぼ2倍の収容を誇るファルコナー劇場(Falconer Theatre)で行われた。その翌日、メタリカはオルステブロ・ホール(Holstebro Hall)でもブッキングされた。そして両公演とも売り切れとなったのである。

    ファルコナーでは「Whiplash」の前に切り込むジェイソンのベースソロが山場のひとつとなった。オルステブロではラーズ自身が「当時俺たちが演った最もクールなショーのひとつ」と呼ぶライヴそのものが特徴的なものとなった。すなわち、サポートバンドのメタル・チャーチがステージに現れてから、メタリカのアンコール曲「Damage Inc.」「Fight Fire With Fire」まで、ユトランド半島出身のメタリカファンが作り出した激しい雰囲気を経験し、群集がすでに戻ったこの場所でメタリカを観たり聴いたりする経験そのものだ。

    ラーズとバンドにとっての勝利だけでなく、何年も孤独にメタリカの良さをレポートしてきたデンマークのアンダーグラウンドなヘヴィメタルの勝利でもあった。

    1987年2月13日、メタリカは「Damage Inc.」ツアーをスウェーデンのヨーテボリ公演で終えた。その公演では昔からのインスピレーションの源であり、仲間であるキング・ダイアモンドと、彼と同じ名前の新しいバンドと共にジャム・セッションを行った。

    ラーズとメタリカはこのようにして、よろめきながら創造的な頂点に達し、キャリアにおけるたくさんの山場を経験した一方、友人であり同志でありベーシストでありいろいろな意味でジェイムズ、ラーズ、カーク(そして実際ジェイソン)にとって音楽的なメンターであったクリフ・バートンを失う痛みによって青年たちの夢が完璧に奈落の底へ突き落とされるという相反する両極端な出来事を経験した時代を終えたのだ。

    そしてこれら全て、1年未満に起きたことだったのである。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    文中に出てきたデンマークのHR/HM専門店「Rock Uglen」。まだ現役でデンマークに存在しており、今でもデンマークでは聖地のような扱いのお店のようです。Facebookページはこちら。
    https://www.facebook.com/rockuglen

    そしてこちらがデンマーク公演の後で行われた当時のドイツ公演のポスター。
    metallica-grugahalle

    この画像は当時の公演のサポートをつとめていたメタル・チャーチのメモラビリアを集めた下記のページから拝借させていただきました。87年当時のメタリカのサインも見れる貴重なサイトです。
    http://www.metallipromo.com/mchurch.html

    これにてこの章は完結。次は最終章で、英訳元が完結しているかもまだわかっていないですが、この伝記シリーズも残りあと2回になります。このペースで何とか今年中には終わらせたいところですが、いましばらくお待ちください。

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    2014年10月26日(日)にコペンハーゲンにてラーズ・ウルリッヒが父親トーベン・ウルリッヒとライヴを行った模様。

    lars_torben01

    共演はコペンハーゲンが会場のWundergrund Festival 2014で実現。その他のバンドメンバーは地元デンマークのミュージシャンで、(カタカナ表記がわからないので記載そのまま)ピアニストで作曲家のSoren Kjargaard、ドラマーのClaus Boje、ベースのPeter Friis Nielsen。

    lars_torben09

    ラーズとのライヴ動画はみつけられませんでしたが、過去に撮られたトーベンさんとSoren Kjargaardの共演動画を拾ってきました。




    いやぁ前衛的ですね。ちなみにこの2人でこれまで3枚のアルバムを出しているとのこと。

    『Suddenly, Sound: 21 Songlines』 (2009)
    『Alphabet, Peaceful, Diminished: 29 Proposals From The Towers Of Babble』 (2010)
    『Meridiana: Lines Toward A Non-Local Alchemy』 (2014)

    ここで紹介してきたラーズ伝記本に何回も登場してきたトーベンさん。息子よりも多才なイメージがありますが、今も現役なんですねぇ。この感じだとラーズとの共演も『Lulu』の時みたいに即興演奏に近いものなのかしら。

    当日のその他の写真はこちらからどうぞ。
    http://gaffa.dk/galleries/gallery/56277

    BLABBERMOUTH.NETより(2014-10-28)


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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。前回同様、有志英訳を管理人拙訳にて。大きな家に住んでいたことによって、ラーズの性格形成に及ぼした影響について。なかなか音楽の話が出てこない、マニアックなラーズのルーツをどうぞ。

    - 人とは違う毎日の生活 -

    たとえラーズが長期間旅行に出て欠席をしていたとしても、クラスメートから特別レッテルを貼られるようなことはなかった。彼はあまりに違うリズムの生活をしていたのだ。それは両親の国際人的な生活のためだけではなかった。

    Lundevang通り12番地の自宅には、慌しい朝もなければ、時間通りにしろとしつける両親もいなかった。朝食はもっぱら独りで食べ、早朝には時計から目を離さないようにしていた。

    ラーズは語る。「両親とかに何かしら反抗を示すようなことはなかったね。親友みたいなもんさ。でもあの頃を思うと、俺はかなり早くに完全に独りで何とかすることを学んでいた。俺は朝のルーティーンを独りで確実にやり始めていた。7時に起き、オートミールを作るために階下に降りる。毎朝同じことをね。母さんはいつもオレンジジュースを絞って前夜に冷蔵庫に入れてくれていた。だから果肉はいつも底に沈んでいた。俺はいつもちゃんと混ざっているか確かめていたっけ。でもあの一杯のオレンジジュースは最高だったよ。オートミールを作れるようにSolgryn(訳注:オートミールの商品名)と計量カップは大概出しっぱなしだった。皿とかバターのかけらとかも・・・。母さんは俺が学校に行く前に摂る昼食を前の晩にいつも詰め込んでいた。」

    自分への躾の結果として、ラーズは日付・時間・数・早く着席することに集中した。学校へ行く途中、家からMaglegaard小学校のあいだにあるヘラルプ駅の時計をいつも見ていた。

    「俺が自転車で駅を7:53に通れば、ぴったりに着くんだ。もし7:54だったら、ちょっと遅れている。7:55だったら、よろしくないね。」とラーズは言う。

    「彼は時間通りに着くことに集中していた。集中するのは本当にすごかったね。」従兄弟のステインはそう付け加えると、すぐに別の例を引き合いに出した。「ラーズは、10歳から12歳の頃には、アメリカン航空の運航スケジュールをそらで暗記していたんだ!あんなものをわかってたんだぜ!俺に112ページぐらいに載っている、日に4回あるいは今と同じくらい運航していたシアトル発サンフランシスコ行きの便について俺に言ってみせるんだ。あいつはいつも自分を管理していたし、管理しなければならなかったんだ。」

    ラーズはヘラルプ駅から中央駅までのあいだ、本当に時間のことで頭がいっぱいだったのを思い出していた。自分のとても計画的なふるまいや熱情をコントロールしてきたことは、子供の頃に放っておかれたところから来ていると今日でも彼は信じている。ざっくり言えば、彼は自分の人生をコントロールし続けなければならなかったのだ。両親が何かしてくれるとは期待できなかったために。

    「でも否定的な意味で(親が)必要ないっていうわけじゃないんだ。両親は彼を放っておいたわけじゃないからね。」ステイン・ウルリッヒは語気を強めた。「彼の両親は別のことに重きを置いていた。例えば、「おまえはこれを見なきゃダメだ!」と言って彼をジャズのコンサートに連れて行ったり、ジャズについて教えたりすることで彼の面倒をみていたんだ。だから、彼の面倒をみていなかったから、必要ないってわけじゃない。彼の両親は別の生活リズム、別のやり方で子育てをしていたんだ。」

    自立した子供時代に、ラーズは自分で何とかやっていき、後に自分をコントロールすることを学んだ。それは1973年10月に起きた、かのオイルショックも彼の理性ある基本的感覚に長く影響を及ぼした。オイルショックはガソリンと燃料不足を引き起こした(これに従い、デンマークではいわゆる「車無しの日曜日(カー・フリー・サンデー)」が導入された)。その現象はLundevang通り12番地の大きな家にも特にあてはまる事態となった。

    ラーズ「俺たちは大きな家を持っていた。もちろんオイルショックのあいだ、暖房は節約した。寝室とバスルームと階下の家族の部屋だけ暖房をつけた。そのときにドアをちゃんと閉めることを学んだんだ。そんなだから、今じゃアメリカ人といるときは特に(ドアを閉めてくれと)あがくはめになっているよ。ドアを開けなければならないときは、熱を逃げさないように再び閉めなければならないことを意味するってことを叩き込まれたんだ。暖房のかかっていない部屋がたくさんある家のなかでは、ドアを閉めることをすぐにでも学ぶってわけ。

    俺にとってはいまだにその影響があって、部屋を出るときはドアを閉めて明かりを消すのもそうさ。それで妻とさえ問題が起きる!家では、英語で言うところの「Shutting the House Down(窓閉め/電気を消す)」が進行中なのさ。毎晩寝る前に俺は家をくまなく廻って電気を消し、ドアを閉めていく。誰もやらないからね。アメリカでは部屋に入って電気をつけて、また部屋を出るときは電気を消さない。俺はそれとはまったく真逆なところで育った。1973年のいまいましいオイルショックから端を発しているのさ。」


    ラーズに影響を与えた子供の頃の家について、もうひとつ付け加えるならば、彼は幾度も大きな家で独りでいたということだ。父親がツアー中は通常、母親は祖父母の住むローウラライ(Raageleje)にいたのだ。

    「暗いところは怖くなかったけど、不気味な妄想にとりつかれた。いつも何てことないこともチェックしなければならなかった。ドアを閉めて、クローゼットの中から何から全てチェックしていた。俺がこの話をすると父は大げさだって言うんだけど、少なくともかなり早くから自立する方法を学んだ。週末36時間は独りで家の中をぐるぐる移動していたよ。

    そしてそこから不気味な妄想に行き着くんだ。いまだにそういうものがある。今日も家に帰ったら、全ての部屋と窓をチェックして、クローゼットに誰かいないかチェックするんだ。長い手順になるよ、特に今みたいな大きな家に住んでいるとね。3つあるゲストルームのクローゼットの中とかそういう諸々に誰もいないことをチェックする。家全体を見廻るには毎晩15分はかかる(笑)」


    ラーズは子供の頃からとりつかれた妄執を心から笑う。もちろんあの家は、主に人々と暖かさにあふれていた。ユニークなウルリッヒ家はたしかに退屈することはなかった。

    音楽、テニス、旅行の繰り返しというおなじみのラーズの人生を飛び越え、父親が不在中に母親としばしば養われたずっと見落とされてきた情熱もあった。映画である。

    「俺は映画にいつだって興味を抱いていた。父が4、5、6週間とツアーで不在のとき、母と一緒に映画館に行っていた。いとこのカレンはトライアングル・シネマのチケット売り場で働いていたから、いつも俺たちのために無料チケットを用意してくれていた。もちろん70年代の話だけど、あの頃は毎日新しい映画が上映されていた。75年・76年の夏休みなんかは週5回は映画館にいたね!PG-12とかR15とかは俺のいとこが入口にいるときには大して意味がなかった。もちろん俺たちはホールの真ん中でチケットをもらうんだ。

    母と俺は上映前に食事をとっていた。Osterbro通りの右側にあるカフェテリアに駆け込んで食べていた。ベアルネーズソースとグリーンピースが入ったハンバーガーを買ってね。家を6:15に出て、ハンバーガーを食べて、トライアングル・シネマの7時台の上映回で観るんだ。

    『The Olsen Gang』(訳注:シリーズ化されたデンマークのコメディー映画)を観にパレスシネマまで行ったのを覚えているよ。あの映画はいつも秋休みの金曜日に公開で、最初の2時の回の上映には映画館にいられるように最後の数時間の授業をすっ飛ばさなきゃならなかったんだ。

    後に俺は独りで映画を観に行くようになった。ひっきりなしに上映されていた信じられないようなバカげた映画を全部観たよ。『ワイルド・ギース』とか『ナバロンの要塞』とか『激突!タイガー重戦車 最後の砲火』とか『史上最大の作戦』とかそういう戦後に作られたヤツ。あとジョン・ヴォイトが出てた・・・『オデッサ・ファイル』ね!そういう映画ばっかりさ(笑)」


    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/6/

    larsulrich_student
    ありし日のラーズ

    さりげなくデカい家に住んでいるところを自慢するのはさすがラーズです(笑)クローゼットまでチェックするのは、後の「Enter Sandman」の歌詞に反映されたのかな等と思ったり。

    ちなみに『オデッサ・ファイル』は管理人がずっと観たいと思っていた(まだ未見の)映画のひとつなんですが、ラーズの中では馬鹿げた映画(stupid movies)にカテゴライズされているんか・・・。

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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。前回同様、有志英訳を管理人拙訳にて。前回はラーズの生家にまつわる恵まれた音楽環境についてがメインでしたが、今回は父親トーベン・ウルリッヒがラーズに施した「教育」についての面白いエピソードが書かれています。長文にてお時間あるときにどうぞ。

    - グローバルな子 -

    Lundevang通り12番地は、心地のよい近隣者に囲まれた不思議で素敵な場所だったが、トーベンとローンのウルリッヒ夫妻は世界中を仕事で飛び回っていた。頻繁に夫妻がツアーに出ていたとき、トーベンとローンには確固たる地盤がなかった。トーベンはまだ世界トップクラスのテニス選手だった。彼は60年代後半からベテラン・トーナメントに参戦し、世界を飛び回り、生計を立てることのできた唯一のデンマーク人テニス選手だったのである。

    ラーズは人生最初の1年で、すでに世界を飛び回る赤子であった。

    「俺たちはよく旅行に行った。」ラーズは回想する。「60年代最後の数年は、ヨーロッパ中を廻ったし、アメリカは何回も行った。オーストラリア、フィジー、タヒチまで行ったよ。68年頃にはデンマーク人家族とヨハネスブルグ(訳注:南アフリカ共和国)に住んでいたんだ。どうやら俺はアフリカーンス語(訳注:南アフリカとナミビアで話される、オランダ語の方言から生まれた言葉)を学んでいたらしい。4、5歳の子供にとっては朝飯前みたいなものだったんだな!」

    1970年8月、ラーズはゲントフテ(Gentofte)のMaglegaard公立小学校に通い始めた。シンプルで良きデンマークの学校だ。だがラーズは出席日数についてはあまり気にしていなかった。教室で起きている事よりも、ラーズの両親こそが教育における必須要素であり、真っ当な学習手段だったのである。

    彼の両親は旅行を、ラーズの「教育」の一部とみなしていた。そして家族が家に戻ると、トーベン、ローン、あるいは広大な家にやってくる多くの友人誰しもがラーズに音楽について教えたり、テレビで放送されたことをあれやこれや議論したりするのに時間を割いてくれた。それはしばしば夜遅くまで続き、夜12時をまわることさえあった。そんなわけで、ラーズは時おり数時間遅刻したため、トーベンとローンはラーズの学校への連絡帳に遅刻を正当化する理由を書かなければならなかった。

    「親父は俺が遅刻するのが大好きだったんだ。」
    ラーズはニヤリとしてそう語る。「俺たちは台所に座って音楽を聴くか、何かについて話しながら、親父は連絡帳にこう書くのさ。『ラーズは今日は学校に4時に到着します。これは私どもが彼に深夜までジャズをしっかりと聴かせることが重要だと考えているからです。そして彼のためには寝坊することも重要なことなのです!』」

    ラーズはいったん話を止めると、さらにニヤニヤしながらこう語る。「俺の連絡帳は本当に見事なもんだった(笑)。『すいませんが、ラーズは昼休みも出席できません!!』とかね。親父と俺は同じオルガー・ザイアー(Holger Thyrre)先生だったんだ。だから通学最初の1年、親父は(自分の先生だった)彼にメッセージを書いていたんだよ。」

    さらに学校期間の数年は、尋常じゃないほど多くの旅行に出かけていたが、トーベンは学校に連絡を取り続けていた。

    ラーズは言う。「親父が、俺の教育にとって1ヶ月のアメリカ旅行がどれだけ重要かを説明し、(授業に出れない分の)算数、国語、ドイツ語を追いつけるようしっかり確認するということを書いた手紙を学校査察官のヴィクター・ラインヴァルトさんに送った。だから俺は両親とアメリカに1ヶ月行っているあいだ、母親と一緒にドイツ語や算数の教科書と格闘していたんだ。毎日ね。

    4、5年生になるまでにたくさん旅行をした。1、2回は学校期間のあいだに3週間はここ、5週間はあそこなんてこともあった。刺激的だったし、もちろん最高だった。でも5週間もアメリカにいた後で、学校に戻って、自転車をラックに停めて、「Hej Hej(デンマーク語でHey)」なんて言うのは奇妙な感じだった。

    俺はMaglegaard小学校のCクラスにいる他の生徒みんなとはちょっと違う状況だった。でも、問題なかった。ある意味、全然目立たなかったんだ。特別称賛されるものでもなかったし、ましてやそれで俺が特別クールになったわけでもなかった。だから、振り返ってみると、クールでもなかったし、アウトサイダーでもなかったし、いじめられたようなこともなかった。「へぇ!ラーズがアメリカに3週間行くってよ!」みたいな感じかな・・・(笑)。まぁそんなもんだった。俺が知る限り、それが俺の現実さ。俺はそれがとても変わっているとは思っていない。それがずっと続いていたしね。」


    学校側からすれば、睡眠はラーズに必要というトーベンのドラマチックなスタンスには、おそらくそこかしこで驚かれたことだろう。しかし、教員陣もほとんどの場合、ラーズ・ウルリッヒとその特別なライフスタイルに大きな反対はしなかった。彼の物理学教師、フレミング・ステンサー(Flemming Stensaa)(戦後、ジャズを弾くトーベンの熱心な聴衆の一人でもあった)は回想する。「あの当時、すでに彼はずいぶん学校を欠席していた。(沈黙後)しかし、彼は非常に楽しい生徒だった。勤勉ってタイプじゃなかったが、丁寧で礼儀正しかったよ。彼も両親と家族の良いところを受け継いでいた。」(1994年2月取材)

    かなり特別な彼の両親は、教育において有益でさえあったのだ。

    ラーズは思い出していた。「俺にはかなりイカした先生がついていた。3年間俺についたその先生はジョン・ピーターセン(John Petersen)って人だった。彼は流行に敏感で、親父と一緒にいろんなことに夢中になってた。あるとき、現代社会の時間で教室にウッドストックのアルバムを持ってくるように頼まれた。俺たちがベトナム戦争に抗議するジミ・ヘンドリックスのアメリカ国歌を教室で聴けるようにね。あれは家族が所有しているものだと言っても先生の耳には届かなかったから、俺はあのアルバムを自分のところに持っておかなきゃならなくなった。彼はそういったことでは本当に新奇な人だったよ。Maglegaard小学校の保守的な生徒はたぶん彼はちょっと左寄りすぎると思ったかもしれないけどね。でも彼は本当にそういったものに夢中だったんだ。

    学校に通っていた最後の数年間で、突然そういう右とか左とかってことを理解し始めたんだ。ある時期には核兵器「賛成」か「反対」かどっちだと決め付ける人たちがいた。それで7年生ぐらいに俺たちは核の力についてヤンチャで収拾のつかない議論をしたんだ・・・。俺たち何歳だったと思う?12歳だよ!!でも俺たちは核の力とその将来についての答えをもつ人となったんだ。」

    ラーズが女の子に興味を持ち始めたのも、その歳だった。

    「俺にはたくさんガールフレンドがいた。もちろんそこには同じ学校の子もいた。チネとカトリーヌとは手紙のやりとりなんかしてた。そして、ターストラップ(Taastrup)から来てたマリアンヌ・ハンセン(Marianne Hansen)に首ったけだったね。俺が15歳ぐらいだったかな。彼女は実際にアメリカまで何回か俺を訪ねてきてくれたんだ。後に俺がコペンハーゲンでレコーディングしたときにも通りがかった。彼女はとってもとっても可愛かったね。」

    しかしラーズは18歳になるまで女の子と寝たことはなかった。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/6/

    愛されてるなぁラーズ・・・。
    larsulrich_childhood
    ラーズ・ウルリッヒ、両親と共に

    本人はそれほど変わってないと言ってますが、かなり特殊な家庭環境だったことがこのエピソードからも、うかがい知れます。

    ちなみに文章中に出てきたジミ・ヘンドリックスのアメリカ国歌はこちら。


    その時代に起きていたことをすぐに題材にするなんて何とも楽しげな授業です。

    ざっと見た限り、しばらく続く第1章はデンマーク編のため、ラーズのコイバナは出てこない模様(笑)。やる気が出れば、さらに続きも紹介できればと思いますが、続きメチャメチャ長すぎ・・・。

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