メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:デイヴ・ムステイン

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    デビュー前のデモ・テープ『No Life 'Til Leather』のカセット復刻版を行うメタリカ。今回はメタリカの曲が初めてレコードに収録されたコンピレーション・アルバム『Metal Massacre』の制作秘話を。収録曲「Hit The Lights」のリードギターをつとめたロイド・グラントの(2015年2月27日に行われた)インタビュー。BLABBERMOUTH.NETさんのインタビュー文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    lloyd-grant

    −どのようにしてメタリカと関わっていったのか

    何が起きたのかいろいろと違った説明がなされているね。私の見解では、私とラーズがカリフォルニアのオレンジ・カウンティーでジャムっていた。私たちと何人かでジャムったり、一緒にジャム・セッションしてくれる他の人たちを探していたんだ。そして、私たちは出会ったんだ・・・リサイクラーという週間紙を通じてね。あれを通じて出会ったんだ。それが始まりさ。

    私たちは長いことプレイしていた。彼は私のアパートにやってきては、私に一緒に来てバンドでジャムをしようと頼み続けていたんだ。でも私は他のことをやるのに本当に忙しくってね。私は根負けして彼らと一緒にやったんだ・・・私と彼とジェイムズ、その3人だけでね。ジェイムズはベースを弾き、私はギターを、ラーズはドラムを叩いていた。そして私たちは「Hit The Lights」をリハーサルした。しかし、そうなる前にラーズは私にあの曲を聴かせてくれた。私たちはサッカーを見てつるんでいた。彼は「俺、コイツに会ったことがあるんだぜ」とかベラベラ喋っていた。そして「彼はまさに俺たちが一緒にジャムしたいヤツだ」と言っていた。そして彼はこの1曲を弾いた。素晴らしかったね。それが「Hit The Lights」との出会いだよ。その後、何回か私たちはジャム・セッションをした。それから彼は私に電話してきて、彼らがコンピレーション・アルバム(『Metal Massacre』)に参加するつもりで、4トラックで録音した「Hit The Lights」のテープを渡したと言っていた。それでそのためにいくつかソロを弾いて欲しいということだった。彼らは4トラック録音機を持ってきて、録音だけすると、それをコンピレーション・アルバムで出したんだ。


    −2011年12月にフィルモアで行われたメタリカ結成30周年ライブに参加したことについて

    あぁ、あれは私の生涯で最高の経験だったね。あそこに行ったら、オジー、ギーザー・バトラーといったロック・スターたちが姿を見せていたんだから・・・。誰もが本当によく知っている、そんなロック・スターが私が立ったその夜の同じステージにいたんだ。あれはかなり素敵な経験だったよ。あの人たちはそのステージのために本当に懸命に取り組んでいたよ。つまり、彼らは午前中には着いていて、セットリストに載っている弾くつもりの曲を全曲弾いていたんだ。数回は練習していた。午前中にリハーサルをスタートして、ショーが始まる直前でやめたのさ。そんな感じで彼らは本当に懸命に取り組んでいたんだよ。ホントよくやっていた。彼らは一生懸命やっていた。それだけじゃない。それだけじゃなくって、彼らは本当に親切だったね。正直言ってあれは素晴らしい経験だよ。本当にいい経験だった。

    BLABBERMOUTH.NETより(2015-03-28)

    さらにBLABBERMOUTH.NETさんの記事の続きでは、別の側面からこのあたりのエピソードを取り上げていました。

    ハードロック・ジャーナリストのK.J.ドートンによるメタリカの伝記本『Metallica Unbound』のなかでは、ロイド・グラントとメタリカについて次のように書かれています。

    ラーズとジェイムズは決めた。「Hit The Lights」のデモ提出期限のたった数時間前に、第2ギタリストによる第2のリードギターが必要不可欠であると!ラーズはロイド・グラントという名前の手の空いたジャマイカ人ギタリストを知っていた。そこで、ブライアン・スレイゲルが『Metal Massacre』の他の曲のミキシングを既に終えていたハリウッドのビジョウ・スタジオ(Bijou Studio)までの道すがら、バンドはグラント家の私道に車を停めると、4トラック録音機を部屋に運び込み、彼が第2ソロをぶちかますのを見守った。こうして「Hit The Lights」のレシピは完成した。

    ジェイムズは土壇場の苦悩を回想する。「この4トラック録音機のことは覚えているよ。ドラム、ベース、ギターとボーカルはあった。曲のある部分ではボーカルがなかったから、ボーカル・トラックにリードギターが入れられた。思い出すよ。別のソロを入れたいと思っていたんだ。だからロイドの家に車を停めて、あのアンプをつないで、ソロだけ録ったんだ。最初のテイクだったよ。それからスタジオに行って、あのソロをレコードに入れたんだ。クソ素晴らしいソロだったね!」

    多くの話がグラントが実際にメタリカのメンバーだったということを物語っているにも関わらず、ジェイムズはこのシングルのずさんな出会いが彼がバンドに関わった唯一の時間だったと主張している。他の仲間はグラントが味のあるリードを心得た、才能あるデルタ・ブルースのギタリストだったと記憶している。ジェイムズはこう語る。「彼はマザーファッカーみたいなリードを弾くことができた。でも彼のリズムギターはあまりタイトではなかった。」

    『Metal Massacre』第2、第3プレス盤の「Hit The Lights」ではグラントではなく、デイヴ・ムステインがリードギターをつとめている。

    BLABBERMOUTH.NETより(2015-03-28)

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします

    関連記事
    メタリカ、デビュー前のデモ・テープ『No Life 'Til Leather』の復刻版をリリース

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』を、ラーズ誕生から『Kill 'Em All』のリリースまで何回かに分けてこれまで紹介してきました。先ごろ出版されたスコット・イアン(アンスラックス)の自叙伝『I’m the Man: The Story of That Guy from Anthrax』でちょうど時代的に重複する部分が抜粋公開されている記事を発見。管理人拙訳にてご紹介します。

    scott-ian-credit-clay-patrick-mcbride
    Scott Ian (Photo Credit: Clay Patrick McBride)

    1980年の大晦日、俺たちは友だちのリッチー・ハーマンの家でデカいパーティーをやっていた。彼は家の1階で生活していて、親父さんがいつも留守にしてたから、彼の家で50人か60人くらいで俺の誕生日を祝っていたんだ。俺は興奮しててさ。飲んでもいたけど、もう時効だろ。俺は17歳で超高級なウォッカ、ポポフで作った大量のスクリュードライバーを飲んでた。もし使い古しのロシアの漂白剤みたいな味がしてたら、グレイグース(訳注:フランス産の最上級ウォッカ)やティトズ(訳注:テキサス産ウォッカ)と同じくトップクラスだ。俺はそれを間違いなく12杯は飲んだね。そして女の子とヤっちゃってる記憶がうっすらある。吐き気がしたんでキスをやめたんだ。食道までゲロが来ているのを感じて離れたんだけど、彼女にぶちまけちまった。それからリッチーのバスルームで吐きまくった。

    俺は階段を這いつくばって、母さんのアパートまで飛んで帰って寝て、次の日起きたらまだ吐いていた。2、3日は具合が悪かったよ。その後、長い間、酒のにおいだけで吐き気を催してた。振り返ってみると、それが良かったんだ。アンスラックスを結成していく間にそれほど多く飲まないで、活動に集中し続けることができたからね。バーに行っても、ビールを1杯2杯程度。Alcoholica(大酒飲みだったメタリカ)チームの一員じゃなかったし。メタリカを見ていると、彼らは本当に劇的に変わったよね。彼らの音楽は、ずぶずぶに酔っ払っていた時でさえも充分な強さを維持していた。デイヴ・ムステインがバンドにいた時でも、彼らは本当に「Four Horsemen」だったよ。全員が強力で全く違う個性を持っていた。ジェイムズ・ヘットフィールドは実際、壁の花(訳注:パーティーで誰にも相手にされずに独りぼっちで壁際にいる人)だった。彼は(アンスラックスのドラマー)チャーリーみたいに寡黙で、ユーモアのセンスもあったけど、ロックスター的な人格をまだ表には出していなかった。彼は人付き合いが不器用に見えたね。でもギターを抱えて、マイクに叫んでいた時は慣れたものだったよ。それが彼のあるべき場所だったんだ。ステージ上で何も喋らなくても。そういうことは全部デイヴがやっていた。

    ムステインはバンドの本当のフロントマンだった。彼がステージで全てを喋っていたし、ロックスターとしての性格を持っていた。彼はコントロールの効かない意地の悪い酔っぱらいでもあったけどね。でも鋭いユーモアのセンスがあった。ラーズも可笑しかったね。彼はいくらでも喋ることができた。彼は(バンドを)始めた時、本当に何も弾けやしなかった。ジェイムズの曲をジャムることで学んでいったのさ。そうやって良くなっていった。ラーズが他のどんなバンドにいるかなんて想像しがたいけど、メタリカのドラマーとしては彼がピッタリだったんだ。彼はバンドが始まったその日からバンドの代弁者でもあった。

    もし俺がメタリカにコイツはいないだろうって思うヤツを一人選ぶとしたら、それはクリフだろうね。アンスラックスとメタリカは、タイトなジーンズ、ハイカットのナイキシューズかコンバースのスニーカー、メタルTシャツに革のジャケット、あるいは革ジャンの上にデニムっていう格好だった。それがクリフときたら、ベルボトムにカウボーイ・ブーツ、R.E.M.のTシャツにレイナード・スキナードとミスフィッツのピンの付いたデニムジャケットなのさ。彼は間違いなく変わり者だった。でもそれが彼の流儀で、俺たちの中で一番メタルだったんだ。自分の旗を掲げ、最も才能のあるミュージシャンだったからね。もしかしたら今まで俺が会った中でも一番かもしれない。(アンスラックスのオリジナルメンバーのベーシストである)ダン・リルカよりもね。彼はベースの名手だったし、音楽とその理論をわかっていた。彼と比べたら、俺たちなんて原始人みたいなもんだ。彼はとても超然としていたけど、だからといって打ち解けないヤツじゃなかった。クールでサバサバしていた。50年代のキャラクター、ドラマ「Happy Days」に出てくるフォンジーによく似ていた。フォンジーがモリー・ハチェット(訳注:70年代から活躍するサザンロックバンド)をやった感じだね。クリフは立ってタバコを吸って、クリント・イーストウッドみたいにニヤリとして言うのさ。「最近どうだ?」ってね。

    俺たちは同じ映画、同じ本、同じテレビ番組にハマったし、同じバンド全部が好きだった。だから俺たちはすぐに友だちになった。小さい頃から俺はスキナードのファンだったけど、R.E.M.は聴いたことがなかった。俺はクリフに彼らがどんなかを訊いたんだ。彼はジョージア出身のイカしたバンドだって言ってた。それで片面に『Murmur(邦題:マーマー)』、もう片面に『Reckoning(邦題:夢の肖像)』が入ったテープを俺にくれたんだ。俺はそれを家に持ち帰って、チェックしてみた。そう、彼は正しかったよ。あの初期のR.E.M.のものはクールだったね。クリフはものすごいイカしたヤツだった。それをみんなが知ってた。彼にはそういうオーラがあった。メタリカは全員そういうものを持っていたけどね。最初は彼らの間に衝突はなかったようにみえた。全員飲み仲間だったし、バカなこともやった。でもデイヴはちょっとだけ上を行くバカだったかな。彼は本当によく飲むんだ。ひどいクソ野郎になることもあった。深夜に彼が他のバンドのリハーサル室入口に山ほどゴミを捨てやがるから、次の日バンドが現れるとゴミの山でドアが見えないなんてこともあった。彼らはメタリカしかそこで寝ていたバンドはいないってことを知ってた。だからそういう目にあったミュージシャンはみんなメタリカのドアをノックして彼らをぶん殴ってやりたいと思ってたよ。

    1983年4月9日、俺はメタリカと一緒にいた。彼らがラムーア(L'Amour)でヴァンデンバーグとザ・ロッズとライヴをする時だった。ヴァンデンバーグが真っ昼間にサウンドチェックのためにステージに立っていた。ムステインはすでに泥酔していてね。彼は会場のど真ん中に立って、ヴァンデンバーグが曲を終えた途端、おまえら最悪だ、ステージを降りろみたいなことをわめき始めたんだ。(アンスラックスとメタリカのマネージャーだった)ジョニーZが彼を引きずり出したんだよ。でも俺はそんなクソみたいなことはどれも彼をバンドから追い出すには充分だとは思わなかった。アイツは間違いなくスラッシュメタルの生みの親だよ。『Kill ’Em All』の中の多くのリフは彼が書いているし、『Ride the Lightning』の何曲かだってそうさ。デイヴ・ムステインがいなかったら、スラッシュメタルはこの世に存在しなかったかもしれない。少なくとも最初のうちは彼が原動力だったんだ。芸術的な面においてね。

    その翌日か2日後、起きて(訳注:メタリカが寝泊りしていた)ミュージック・ビルディングまで車で行ったら、クリフが外でタバコを吸っていた。
    (訳注:そしてクリフのいつもの挨拶)「最近どうだ?」
    「何もないよ。そっちは?」俺はそう答えた。他の日と同じように。
    「別に。俺たち、デイヴをクビにした。彼はサンフランシスコへ帰るグレイハウンドのバスに乗っているよ。」
    俺は笑ったね。だってクリフはいつも皮肉で痛いところ突くようなところがあったから。「そりゃ可笑しい。ほら、俺はアンプを何とかしないといけないんだ。その口調はあまり感心しないね。2階に上がらせてもらうよ。」俺がそう言うと「全然冗談なんかじゃないぜ。2階の部屋に行ってジェイムズとラーズに話してごらん。」彼はそう言ったんだ。

    2階に上がって見回しても、デイヴはどこにもいなかった。「何かあったのか?」
    「クリフが話してなかったか?」ジェイムズはそう言った。
    「あぁ、彼は嘘ついてるんだろ?違うか?」
    「いや、俺たちは今朝デイヴをクビにした。」

    俺はまだ、そんなこと出来っこない、こいつら俺を騙してるんだと思ってた。「マジで言ってるのか?」
    「大マジだ。」今度はラーズがそう答えた。
    「何てこった。おまえらこれからギグだってあるし、来月にはアルバムを作るんだろ。ジョニーZは知ってるのか?」
    「あぁ、何日か前に彼には言った。」ラーズは続けて「俺たちはジョニーが(この件について)何も言わないと約束させた。デイヴに知られたくなかった。アイツが何をするかわからなかったから。」

    彼らは軍隊の爆撃みたいな正確さで全行動を計画していた。ラムーアでのザ・ロッズとのショーがデイヴのトドメの一発になってしまった。彼らはLAまでバスの片道切符を買って、デイヴが本当に酔っ払う夜を待っていたんだ。彼らはもう長くないことを知っていた。グレイハウンドの停留所はミュージック・ビルディングのすぐ隣にあった。彼らはデイヴを起こし、まだほとんど寝ぼけているような状態でクビにしたんだ。彼は服を着て出て行ったから、服を着せる手伝いをする必要はなかった。彼らはデイヴのものを集めて、その大部分はすでにバッグに詰め込んであったけど、文字通り彼が何が起きているのか理解する前にバスに乗せたんだ。それから彼らはデイヴの機材を送る計画を立てた。

    俺はポカンと口を開けたまま何も口にできずに突っ立っていた。クリフが後ろからやってきて「そう、だから言ったろ。」と言ったんだ。

    「じゃあ、これからのショーやレコード制作はどうするんだ?」
    「サンフランシスコのバンド、エクソダスからひとりこっちに来るんだ。」ラーズが答えた。「彼は飛んできて、バンドに入る。彼はもうほとんどの曲をわかってるし、リードギターを学んでいる。」

    そうして彼はやってきた。カーク・ハメットはとんでもなく頼りになるヤツだった。あの時のメタリカとアンスラックスみんなのアティテュードはこうさ。「ファック、公園のベンチで新聞の上に寝かせてくれ。気にするものか。俺たちはレコードを作るんだ。」

    俺は19歳だった。他のみんなもだいたい同じ年齢だった。何としても曲を作る、それ以外何も気にしちゃいなかった。でもそういうライフスタイルに適応することは、カークにとって他のヤツらよりも難しいことだった。彼は確かに4人の中で一番繊細だったんだ。そういう生活へのストレスが見えることがあった。サンフランシスコに戻れば、自分が始めたばかりのバンド(訳注:エクソダス)がいる。彼には留まる場所があった。彼は汚いリハーサル室で寝泊りなんてしてこなかった。でも決して文句を言ったり怒ったりはしなかったね。彼は俺がこれまで会った中で一番いいヤツだ。彼は何があっても変わらなかった。彼ほどのお金や名声を得ても。彼はサンフランシスコから到着して俺に会った日から変わらず、かわいい子供のままさ。

    (後略)

    radio.com(2014-09-30)

    ちなみにクリフに似ていると言われていた「フォンジー」はこんな顔。
    fonzie_henry_winkler_happy_days

    うーん、微妙な気がしますがどうでしょう(^^;

    スコット・イアンがメタリカのメンバー交代を後から知るこの場面はこれらの本でも記載があります。

    cliff_indexmaju_index

    しかし、この2つの本に出てくるダン・リルカの証言より、今回のスコットの証言の方がより生々しいですね。(微妙な証言の食い違いはさておき(^^;

    こちらの自叙伝が日本語化される日は来るんでしょうか?

    scottianbookcover


    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(4)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(5)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(6)

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章完結編。有志英訳を管理人拙訳にて。前回予告どおり、デイヴ・ムステインの解雇、カーク・ハメットのメタリカ加入、そして『Kill 'Em All』のリリースまで。

    - レコード契約(後編) -

    言い伝えによれば、ジョニーZはすぐに店を飛び出し、電話ボックスをみつけて、この明らかに(どこのレコード会社の契約)サインのないバンドを探し始めた。さらに言い伝えによると、ジョニーZはそれからメタリカに興味を示していることを昔からの仲間でありファンジン編集者のロン・クインターナに伝えたという。ロンは、メタリマンションにいたラーズとバンドにその情報を提供した。そこにはギタリスト、マイケル・シェンカーのクールなポスターはあったが、ひとつの電話もなかったのだ。すばらしいことだが、メタリカの経歴の最も重要なこの部分のあまりにドラマ仕立てにされた説明でもある。少なくともラーズ・ウルリッヒはジョニーZが自分を造作もなく見つけたと振り返る。

    「俺たちはメタリマンションで電話を持っていた。でも電話代を払っていなかった期間だったかもしれないね(笑)通常、電話を持っていた時には、俺たちまでたどり着くのはそんなに不可能なことではなかった。」ラーズはそう語り、自分の考えるレコード契約への道のりについて続けて語る。

    「ジョニーZが電話してきた時、彼は2つのことに本当に熱心になっていた。(1つは)俺たちに東海岸でコンサートをさせたがっていた。そして、俺たちに東海岸でレコードを作らせたがっていた。俺たちはちょっとした旅行の準備くらいメチャクチャできていた。さらに俺たちが興味を持ったのは、彼の働きかけでヴェノムが4月にニューヨークでライヴをすることになりそうだってことだった。俺たちはヴェノムの大ファンだったからね。その当時俺たちはテープのトレードがうまくいきだして、東海岸からのファンメールも届き始めていた。だから俺たちはそこで始まろうとしていることにもう夢中になったよ。それにジョニーZは面白そうな人だったしね。俺たちがつかんだチャンスだった。俺たちは契約も何もなかったから。」

    メタリカにはお金はなかったが、大きな野心があった。『No Life Til Leather』が好評だったことと、とりわけジョニーZが野心を植えつけてくれたおかげで。選択肢はもはや明白だった。4月1日、バンドはUホールで車を借りて、アメリカ大陸の向こう側、もっと具体的に言えば、エルセリートのメタリマンションから4,726キロ離れたクイーンズにあるミュージック・ビルディングに向かった。

    ラーズ・ウルリッヒ「ジョニーZはいくらかお金を送ってくれた。ほんの少しのお金だったけど、Uホールで車を借りて自分たちの持ち物を突っ込むには充分だった。バンの後ろはたぶん5から6フィート(訳注:1.5〜1.8メートル)くらいあったかな。そこに自分たちの機材、スーツケース、安いマットレスを入れたんだ。全然豪華じゃなかったよ。ジェイムズとデイヴが前に座って運転して、クリフとマーク・ウィテカーと俺が後ろのマットレスの上でマーシャル・アンプとか俺のドラムセットに囲まれて、横になったり寝たりしていた。俺たちが出入りできたのは、誰かが後部ドアを開けた時だけだ。運転中、12時間暗闇の中で過ごした。唯一の明かりはクリフのライターだけだったね。そんな感じでサンフランシスコからニューヨークまでちょっと刺激的でハッピーな数日があったんだ。」

    ジェイムズ、ラーズ、クリフ、マークがバンドのトラブルメーカーにうんざりする日もあった。デイヴ・ムステインは自分が運転しなければならない時でさえ、かなり酔っ払っていた。酔っていると、雪だまりにバンを突っ込んだり、マークにケンカをふっかける時さえあった。

    ラーズ「西海岸から東海岸への旅で俺たちはデイヴ・ムステインの邪悪な面を見た。彼はあまりに予測不能で、あまりに飲酒その他もろもろ羽目を外しすぎたんで、おそらくそこで俺たちが決めたんだと思う。ジョニーZに会ったその日に、たしか俺はジョニーに、バンドあるいはバンドのうちたった一人のメンバーが東海岸に戻る交通費を払ってもらわないといけないと伝えなければならなかった。俺たちはデイヴをクビにしなくちゃいけないかもと考えていたからね。」

    もうひとつの「実務上の問題」もあった。ザズーラ夫妻は既に彼らの2人の子どもと共にいくつかのバンドにスペースを占有されていた。メタリカはミュージック・ビルディングに引越し、地元ニューヨークのバンド、アンスラックスとリハーサル室を共有した。彼らとメタリカはすぐに友だちになった。アンスラックスはこの貧乏なメタルバンドをヒーター、冷蔵庫、ある時は少しの食べ物によって手助けした。ミュージック・ビルディングの地区に出回っていた麻薬はバンドにとって大きな関心を寄せるものにはならなかった。

    彼らのヘヴィメタルの野心は、明らかに低予算の宿泊施設に基づいていた。特にヘレルプとその他の世界に慣れていた若者にとっては。しかしミュージック・ビルディングの半ば哀れな生活はラーズと今や有望株の彼のバンドにとって最も差し迫った問題ではなかった。日曜の夜、ヴァンデンバーグとザ・ロッズのサポートで行われたバンドのショーの後、バンドにおけるムステインの将来はもはや論議することではなくなった。手に負えないデイヴを追い払わなければならなかったのだ。しかしそれを誰が彼に告げるのか?次の日の朝、バンドはジェイムズをその役に選んだ。ジェイムズは寝ているデイヴの肩をつつき、手厳しい言葉で起こした。「俺たちは決めたんだ・・・おまえはもうこのバンドの人間じゃない!」西に向かうグレイハウンズの始発バスが出発する2時間前だった。長い別れへの理由は何もなかった。彼らは全員先へ進んだのだ。

    ラーズはこの悲しくも必要だったエピソードについて説明する。「時おり彼はちょっと羽目を外すことがあった。(そんな状態で)彼が予測もできなかったことに直面したらどうなっちまうんだろう?ってね。それで俺たちは彼を早朝に起こして、サンフランシスコ行きのグレイハウンドのバスにできるだけ早く乗せた方がいいと決めたんだ。彼が何が起きようとしているのか完全に理解する前にね。それで彼はバンドから放り出されて、4時間のフライトの代わりにあの忌まわしいバスで3日間不機嫌に過ごさなければならなかった。でも当時、俺たちには(航空)チケットを買うお金がなかったんだ。俺はデイヴと一番仲が良かったし、おそらく彼と一番緊密な友情関係があったと思う。だから俺にとって彼にそんなことを告げるのはあまりに難しいことだと思っていた。クリフはまだ新メンバーでバンドに来て5、6週間しか経っていなかった。だから俺たちが言わなくちゃいけないことを言う資格はなかった。そうしてジェイムズが担当者として選ばれた。でも俺たちはみんなジェイムズと一緒にいたんだ。ジェイムズ一人でやることじゃないからね。」

    しかしながら、ラーズ、ジェイムズ、クリフ、そしてマークにとって悲しい状況だった。とりわけ、その経験と紛れもないギターの才能によって確かな成果をバンドに持ち込んでくれたデイヴと1年以上過ごしたラーズとジェイムズにとっては。創造性とユーモアで満たされたギャングな日々はそう多くなかった。全員マンハッタンの観光に行き、変わっていったメンバー編成のなかでも飲み続けていた物、ウォッカを飲んで酔っ払った。

    しかしメタリカは運を持っていた。タイミングが良かったのだ。バンドが優先したギタリストの選択肢、カーク・ハメットはチャンスをつかむ準備ができていた。エクソダスにいた彼の人生も悪くなかったが、メタリカと共にアルバムをレコーディングするためニューヨークに飛ぶことを考えた彼は完璧なキャリアアップを果たした。カークはデイヴが去った同じ日の夜に到着した。ミュージック・ビルディングで行われたカークのオーディションはほとんど形式的なものだった。これより数週間前にラーズとジェイムズはカークが『No Life Til Leather』デモを手にできるよう適切に手配した。彼らはカークの特質や音楽の好み、そしてギター・プレイはメタリカの相性や展望によく合っていると確信していた。そして彼らは正しかった。

    「カークは彼のギターとマーシャルのアンプと共にやってきた。デイヴを追い出した日と同じ日に彼とジャム・セッションをしたんだ。俺たちがやった最初の曲は「Seek And Destroy」だった。ソロの途中でジェイムズと俺は互いを見て同時にうなずいたよ。そうやって(オーディションが)行われたのさ。俺たちがムステインを追い出した時、カークはバンドにいなかった。彼は間違いなく最初の選択肢だったんだ。俺たちはそれがうまくいくとかなり自信を持っていたよ。でも月曜日の夜のジャム以前は彼はバンドにいなかった。そこで俺たちは互いに親指を立てて(OKサインを出して)彼にバンドに加わるか尋ねたんだ。」そうラーズは付け加えた。

    カーク・ハメットのジャム・セッションのデビューは最高だった。1週間しないうちに彼はニュージャージー州のドーバーでメタリカとしてのステージ・デビューを果たす。

    カークもメンバー編成の中でサンフランシスコ出身だ(カリフォルニア州サンフランシスコ出身1962年11月18日生まれ)。彼は悪名高いヘイトアシュベリー地区でヒッピー生活を送っている年上の親族と共に育った。そしてその期間にジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、そしてグレイトフル・デッドのような音楽のビッグネームと出会った。15歳でカークはギターを弾き始め、そこで70年代のシン・リジィ、キッス、UFOのようなハードロックバンドに自らのアイデンティティーを見つけた。後にカークはセックス・ピストルズや暴力的なパンクに夢中になった。しかし同時に名手ジョー・サトリアーニを師にもっていた。そこでカークはメロディー、テクニック、スピード、そして攻撃性のあいだの完璧な共生関係を有効に探すことができた。1981年、カークは初めてのバンド、レジェンド(Legend)を結成する。これは後にエクソダスとなった。

    ジェイムズのように、カークは離婚した家庭の生まれだ。カークの父親は飲んだくれだった。そして、しばしばカークとカークの母親を殴っていた。16歳の誕生日、彼が父親からもらったのは尻に大量に見舞われた蹴りだけだった。カークの父はその後すぐに家からいなくなった。そして母親がカークと彼の妹を育てるためにしっかり奮闘しなければならなかった。彼が10歳の時、カークは隣人に性的虐待を受けた。したがってギターを弾くことはカークにとって間違いなく癒しとなった。トラウマとなった全ての体験は彼を攻撃的で激しいヘヴィメタルの上に立つ怒りへと向かわせた。

    メタリカは最初のアルバムのための大部分の曲を『No Life Til Leather』の曲に基にして書いていた。ついにミュージック・ビルディングで、来たるべき東海岸でのバンドのギグのためにバンドの曲をたくさんリハーサルする時が来たのだ。一方、ジョニーZはレコーディングに使えるスタジオをみつけた。ジョーイ・ディマイオというジョニーZが担当するニューヨークのバンド、マノウォーのベーシストがジョージ・イーストマンのコダック社でよく知られるカナダ国境近くのニューヨーク州ロチェスターにあるスタジオを薦めてきた。そのスタジオは「ミュージック・アメリカ」と呼ばれるマンハッタンのとても(使用料の)高いスタジオ以外の地元のスタジオよりもさらにずっと安かった。ミュージック・アメリカの2階にある大きなホールはラーズのドラムの音に完璧に合っていた。なぜなら「ラーズは不明瞭なドラムの音を出していた」からだとジョニーZは彼を見ていてそう打ち明けた。

    若く熱心なメタルファンがホールでドラムを叩いている間、ジョニーZはニュージャージー州の家に戻って予算に対処するよう頼まれた。ミュージック・アメリカとそのオーナーであり、プロデューサーのポール・カーシオ(に払う金額)はニューヨーク価格からすれば安かったが、全てがそれほど安いわけではなかった。メタリカは5月末まで6週間アルバムをレコーディングした。そしてホームのロック天国で得たレコード売上げから超過金をロチェスターのアルバム制作陣に渡した。ザズーラはこのバンドに本当に一か八か賭けたのだ。しかし、アルバムのセールに関して誤算していた。タレント・スカウトやあらゆる種類のレコード会社にいるA&Rの人々との数え切れないほどのミーティングは何の実りのなく終わった。ジョニーZが身銭を切ってメタリカのアルバムを出さなければならないことが明白となったのだ。

    自身のレコード・レーベルの設立は、ジョニーZの膨大な計画においてこれまでやってこなかったところだった。だが、もはや引き返せない。彼は「この1つのアルバムのために」Megaforceを始めたのだ。ジョニーZ、そしてラーズと彼のバンドにとって幸いなことに、Megaforce Recordsは2つの善意あるディストリビューターと接触した。アメリカのRelativityとニュー・ブリティッシュ・ヘヴィメタル会社、Music For Nationsだ。この会社はニューヨークのバンド、ヴァージン・スティールのリリースでその前の年に始まったレーベルだった。しかし前者は、せっかちな若者がロチェスターでエネルギーをぶちまけた後に思いついたアルバムのタイトルに問題を抱えていた。そのタイトルは『Metal Up Your Ass』だ。

    最初は仮タイトルだったが、バンドは最終的に選んだタイトルとして、もはや本気になっていた。彼らは断固として譲らなかったが、ラーズと彼のバンド、メタリカに音楽業界の本当の状況について少し学ぶ時が来た。メッセージは明らかだった。どうあってもタイトルを『Metal Up Your Ass』することも、提案された妥協案『M.U.Y.A』やその他頼んでもないのに送りつけられた提案に乗ることもできなかった。怒ったクリフは制約を課してくるディストリビューターに対する感情を露にした。「あいつら全員殺っちまえ・・・とにかく殺っちまえ」

    それがタイトルになった。『Kill 'Em All』だ。

    『Kill 'Em All』は7月に発売された。ジェイムズ・ヘットフィールドによってデザインされたバンド・ロゴと無検閲の一節「Metal Up Your Ass」とともに。アルバムは9曲から成り(『No Life 'Til Leather』からさらに発展した6曲を含む)、クリフのソリッドなベースソロも収録されていた。リフを基調としたヘヴィメタルの速い曲が次から次へと繰り出され、使える場所があればすぐにテンポの変化や燃えるようなソロが差し込まれ、メタリカがアメリカのシーンから無視されていると感じてきたヘヴィメタルへの愛の大々的な声明を抒情詩調の領域でもって表現していた。

    全世界的にラーズとメタリカと同じ意見を持った人々がいた。2週間以内で『Kill Em All』は20,000枚近く売れた。それは独立系レーベルのリリースでは全く聞いたことのない数字だった。

    「それまで書いてきた最初の9曲をこのアルバムに使った。次のアルバムでは次にできた9曲を使う。そしてその次も・・・ってね。それがメタリカの世界征服計画なんだ。」とは、ものすごい熱意とものすごく若く陽気な、ほとんど絶え間なくメタリカについて話していそうなラーズの言だ。

    ラーズは明らかに正しかった。そのウィットに富んだ「世界征服」という言葉は。そのうち、曲やレコーディング、メディアやレコード会社とのミーティング、リハーサル、スタジオ(数ヶ月、それから数年)、家からの電話やファックス(時おり)、バンクーバーや全世界へのロードにおける、世界征服への戦いはそう容易くはなくなった。

    しかし、ラーズは全ての準備ができていた。重要な利点である疲れを知らない献身と固い決心を彼は持っていた。最も重要なのは、彼は1983年夏、ついに完全なバンドを持ったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    dave-and-kirk
    メタリカ時代のデイヴ・ムステインとエクソダス時代のカーク・ハメット

    ラーズの認識と裏腹に、カークはこの時点でハッキリと正式メンバーと言われたわけではなかったようで、しばらく自分が正式メンバーなのか助っ人なのかわからなかったそうです(苦笑)

    女手ひとつでカークを育てたお母さんとは今年(2014年)2月のFearFestEvilにいらしていてお会いすることができたのですが、非常にパワフルで可愛らしい方で「この方があのカークを生み育てたのかぁ、なるほど。」と妙に納得したのを覚えています。

    そしてデイヴ・ムステインの解雇については、スコット・イアンが自叙伝で語っているところがあるので、後日紹介します。

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(2)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(3)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(4)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(5)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(6)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(7)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(8)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(3)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(4)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(5)
    メタリカ活動初期写真集「The Club Dayz 1982-1984」届きました。

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章4回目。有志英訳を管理人拙訳にて。メタリカの大きな転機となるバンド拠点の移動とクリフ・バートン加入について。

    - ヘヴィメタルへの誓い(後編) -

    新しいシンガー加入の代わりに2つのギグが1982年夏後半のメタリカの経歴に大きな影響を与えることになった。1つはハリウッドのクラブ「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」で行われたギグ、もう1つはサンフランシスコのクラブ、「ストーン」で行われた自然と沸き上がったパフォーマンスだ。後者がまず先だった。

    「ブライアン・スレイゲルが『Metal Massacre』の宣伝のためにサンフランシスコで3つのバンドを手配した。その『Metal Massacre』参加3バンドのうちの1つ、キリス・ウンゴル(Cirith Ungol)が11時間前に出演をキャンセルしたんだ。」ラーズはそう語る。

    「俺たちには何にもなかった。(『Metal Massacre』に参加できたこと自体が)ジョークだったのさ。でもブライアンはショーの1日か2日前に俺たちに電話をかけてきた。彼は俺たちに何をやらせても俺たちがろくに文句も言えないと思っていたのさ。そして彼は「サンフランシスコに行って、ショーを開きたいか?」と言ったんだ。俺たちは言ったよ。「Yes!」ってね。それがいとも簡単に人生が変わる出来事になった。俺たちは2、300人のサンフランシスコのヘヴィメタル・フリークの前に行って演奏をしたんだ。そしたら突然…わぉ!って感じだった。みんな俺たちの演奏する曲を知っているんだよ!バッジ付きのデニム・ジャケットにアイアン・メイデンの黒Tシャツに身を包んだ人たちがいる光景があった。LAのクソみたいなものの代わりにね。当時、グラムなんていうクソみたいなものは全部LA発だったんだ。」

    「40分のステージを終えてステージを降りると、人生が変わる体験みたいだった。急遽、俺たちはとにかくサンフランシスコだ!ってなった。こんなレベルの出来事が起きたのは初めてだったから、俺たちは毎月サンフランシスコでギグをブッキングし始めたんだ。」ラーズはかなり浮かれながら当時を振り返った。

    そんな驚天動地のコンサートの後、メタリカの初めてのアフターショー・パーティーが始まった。バンドはラーズの車であるライトブラウンのペーサーを運転して、U-ホールで借りた音楽機材と共にロサンゼルスの家まで帰ることに忙しくすることはなくなった。ケースごとビールをかっぱらって、(ライヴ会場の)ストーンから数ブロック離れた小さなホテル、サム・ウォンズ(Sam Wong's)でパーティーを開いた。その日以前にメタリカのメンバーは、開いたビール缶を手に持って歩いていて逮捕されたことがあったため、パーティーは室内で行われた。ホテルではファンがサインをもらって写真を撮り、メタリカは「Young Metal Attack」のTシャツを売った。

    さらにストーンで行ったギグはメタリカに好意的なコンサート批評をもたらした。「Northwest Metal」の第2号で、ブライアン・ルーは最初にこう書き出した。「これぞまさしくと言った夜だった!アメリカでAランクの一番ヘヴィなバンド、メタリカはサンフランシスコで暴れまわった。1906年の大地震よりも多くの破壊をもたらした!(中略)彼らの圧倒的な激しさはとてつもない!彼らの狂気によってモーターヘッドとヴェノムの猛烈な狂気を融和させ、バンドはノンストップで速くて超凄まじいヘヴィメタルの曲で観衆をぶちのめした。」

    自身の記録帳で、ラーズは熱くなって書き残している。「初めての本当にすごいギグだった。本物のヘッドバンガー、本物のファン、本物のアンコール。メチャクチャすげぇ週末だ。たくさんのステージを無駄にしてたぜ!!」

    伝統的にリベラルでヒッピーの街のメタルファンはメタリカのメタルをヘッドバンギングと歓迎をもって受け入れていった。LAではソフトになったグラムロック文化にメタルシーンが支配されていた一方、サンフランシスコはアメリカのヘヴィメタルの温床になっていたのだ。

    これで終わりではなかった。サンフランシスコで初めてのメタリカのショーが行われたのとほぼ同時に、サンフランシスコで酔っ払ったジェイムズとラーズの2人にカリスマ的ベーシスト、クリフ・バートンが存在を露わにした。2人が数え切れないほどの夜をハリウッドのロック・クラブで過ごしている間に。

    ラーズ・ウルリッヒ「俺たちが「サンフランシスコ・ヘヴィメタル・ナイト」のイベントでウイスキー・ア・ゴー・ゴーにいたら、その夜演奏した3つのバンドのうち1つがトラウマってバンドだった。そこであの変わり者がベースを弾いてヘッドバンギングをしていたのを見たんだ。ジェイムズと俺はあんなのはこれまで見たことなかった。ベーシストを探しに行ったわけじゃなかったけど、そこでクリフ・バートンのヘッド・ハンティングが始まったのさ。それはその後数ヶ月に及んだ。」

    不屈で外交的なラーズはすぐに長髪でワイルドで才能溢れるクリフに接触し、メタリカとの「リハーサル」を提案した。しかしクリフはまだサンフランシスコでトラウマに貢献することに集中していた。したがってメタリカはサンフランシスコで数回のショーを至急ブッキングする十分な理由ができた。ラーズはクリフにメタリカの次の出演について伝えることに注意を向けていた。それは10月18日の「メタル・マンデー・ナイト」コンサートだった。

    「11月に俺たちはサンフランシスコで何回かギグをやった」ラーズは語る。「マブヘイ・ガーデンズ(Mabuhay Gardens)(サンフランシスコのダウンタウンにあるクラブで、俳優ロビン・ウィリアムズが1978年初めてスタンダップ・コメディでヘッドライナーを務め、後にパンクやニューウェーブのクラブとなった場所)で追加ギグを行った伝説的なツアーだった。そこから俺たちはコンサートに来た女の子とヤリ始めたんだ。本当に楽しかった。そうして俺たちは何百人ものヘヴィメタルファンと全音楽シーンを知って学んでいったんだ。ロンバート・ストリートにあるホテルでアフター・パーティーをやった時のことを覚えているよ。俺とデイヴ・ムステインが一緒に何人かの女の子をゲットしたんだ。たくさんの(女の子の)身体が横たわる場所にいたのはそれが初めてのことだった。ベッドに誰かがいて、ほかのベッドにも誰かいて、部屋の隅やらクローゼットにも誰かいるんだ。俺たちがモーテルの部屋をひとつ取っていただけの頃だったから、次の日の朝起きたら20人が床に寝ていることもあった。夢のようだったね…あれはクールだった。俺たちがそれまで夢見ていたこと全てかそれ以上の出来事だったよ。」

    しかし、他の問題が間近にあった。みんなが夢を共有していたわけではなかった。というより、むしろ、みんなが夢の中にいたわけではなかった。

    ラーズ「何が起きたか本当に覚えていないんだ。でもロン・マクガヴニーのガールフレンドが俺とジェイムズがクリフについて何か言っているところを立ち聞きしたんだと思う。とにかく彼女はそれをロンに話したんだ。俺とジェイムズがクリフのこと、そしてロンについての陰口を話していたことに気がついてひどく怒っていた。彼は怒って「ファック・ユー!」と言って去っていった。それが12月の始めのことで、クリフはまだ(メタリカ加入に)Yesと言っていなかった。でも俺はクリフを獲得するためにホントに奮闘していたよ。毎日毎日彼に電話してさ。集中的な「彼を俺たちのバンドに今すぐ入れよう」キャンペーンが始まったのさ。」

    「マクガヴニーがバンドを去った時、ヘットフィールドは家を追い出されたんでデイヴ・ムステインと一緒にハンティントン・ビーチに引っ越してきた。俺たちはリハーサルも何もしなかった。でも、クリスマスから82年の年明けまでの間に、俺はようやくクリフが俺たちと一緒にジャムることを説得できた。12月の27日か28日頃だったかな、俺たちはエルセリトまで行った。マーク・ウィテカーの家のリビングでジャム・セッションをしたんだ。彼はエクソダスのマネージャーだった。彼と親友になって、俺たちのためにメタル・マンデー・ショーを何回か開いてくれていた。マークはすげぇいいヤツで、俺とジェイムズとムステインは何日間かそこで寝泊りしてもいいってね。それで俺たちはそこでクリフとジャムったんだ。素晴らしい時間だったよ。」

    「俺たちがLAに戻ると、年明けにクリフは俺に電話してきてバンドに入ると言ったんだ。昨日のようにその会話を覚えているよ。「OK。オマエらがサンフランシスコに引っ越したら、俺はバンドに入るよ。それが唯一の条件だ!」「OK。」と俺は答えた。「俺たちは5週間でそっちにいることになる。いくらか金を稼いで、カーペットを買わないとな!」」

    クリフとの初めてのジャム・セッションの途中、「Seek And Destroy」を弾いて、ラーズもジェイムズもデイヴもクリフがメタリカにうってつけの男であることを誰も疑うことはなかった。つまるところ、サンフランシスコはバンドにとってうってつけの本拠地だったのだ。クリフのポジティヴな反応は、サンフランシスコに戻ってくる前に、まだLAでいくらか活動をしていたラーズ、ジェイムズ、ムステインにとって最高のニュースだった。

    ラーズ「俺たちはリハーサルとか何かをする場所を何も持っていなかった。だから1983年の1月・2月は朝の新聞配達を2コース廻っていた。ひとつは俺が住んでいた複合ビルのマンションで、そこで大きなカーペットを取り替えていた。ジェイムズとムステインが一週間、俺と外で過ごしたことを覚えているよ。俺たちはジェイムズのトラックを使って、巨大なコンテナに捨てられていた中古のカーペットを全部自分たちのものにしていた。」

    「俺たちはマーク・ウィテカーに取引をもちかけた。もし俺たちのマネージャーになったら、俺とジェイムズを彼の寝室のひとつに住まわせてくれるようにね。ムステインには部屋がなかった。彼はまだ…部外者だったんだ。だからデイヴは代わりにクリフのお祖母ちゃんの部屋を借りたんだよ。それで俺たちは使い古しのカーペットをトラックに放り込んで、2月中旬にサンフランシスコに引っ越した。俺は両親にさよならを言った。俺が実際に実家を離れて住むのは初めてのことだったんだ。」

    ラーズの両親との別れは、凍えるような寒さだったコペンハーゲンでの1963年のクリスマス2日目から一緒だった小さな家族の分裂を意味していた。

    ラーズ「俺が家を出た後、母が重荷になって親父も実際に家を出たんだ。彼女は家族は一緒にいて歳を取っていくものと考えていた。だからあの時期は特に彼女にとってはおかしなことだったんだ。俺と親父の両方が同時に出て行ったんだから。とてもキツかっただろうね。」

    「あの時は本当に理解できなかった。おそらく本当は気付いていなかったんだ。俺の親父は、家族がそこにいて、俺が家族の一員でいる間は家族を養う責任があると考えていた。そうなると俺がいったん家を出たら、、親父は何ら責任を持たないってことだったんだ。それから実際にそうなったんだけどね。親父はたくさんのことに興味を持っていた。仏教を勉強していて、そういったこと全てに興味を持ち始めていた。母親はしばらくニューポート・ビーチに住み続けて、それからその地域の周囲に引っ越した。そこには友だちがいて、そのうちの1人か2人と暮らしていた。おそらく俺に戻って欲しいとか、トーベンがいつか戻ってくることを望んでいたと思う。彼女にとってはつらい時期だった。俺はそんなこと何も見えちゃいなかった。19歳として理解できるものじゃなかった。俺はただ…前だけ見ていた。「さぁ俺たちはメタリカとしてスタートしてやるぜ!」とかそういうことだけだったんだ。」


    トーベンとローンのウルリッヒ夫妻は公式には離婚していない。しかしトーベンは、ワシントン州シアトル出身の30歳近く年の若いジャーナリスト、モリー・マーティン(Molly Martin)と共に引っ越していった。しかし両親は「いつもどうにか友人のままでいようとしていたよ。」とラーズは語る。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    lars_guitar
    クリフが加入したギグの後のバックステージにて

    アフターパーティーで売られていたという「Young Metal Attack」のTシャツは現在もMetStoreで売られているこれのことですね。以前の記事の写真でもムステインが着ています。
    T336
    改めてクリフのメタリカ加入条件がメタリカにとっても渡りに船だったことがわかります。そしてメタリカの活動が軌道に乗る中で、ラーズの門出が家族の間のズレをハッキリさせてしまったのですね…。

    ラーズがやたらカーペットにこだわるのは防音のためなのか、映画界に憧れていた隠喩なのか(笑)

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(2)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(3)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(4)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(5)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(6)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(7)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(8)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(3)
    メタリカ活動初期写真集「The Club Dayz 1982-1984」届きました。
    80年代スラッシュメタル写真集、『MURDER IN THE FRONT ROW』が届きました。

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    このほどスコット・イアン(アンスラックス)出版した自叙伝『I'm The Man: The Story Of That Guy From Anthrax』に絡んで波紋が起きている模様・・・。

    scottianbookcover

    ことの発端は2009年7月にRollingStoneで行われたデイヴ・ムステインのインタビューから。(以下、引用部、管理人拙訳)

    RollingStone.com
    「あなたが知る限り、クリフ・バートンが亡くなる前最後のメタリカのツアーで、ツアーの終わりにメタリカがラーズ・ウルリッヒを解雇しようと計画していたというのは本当ですか?」

    デイヴ・ムステイン
    「それはスコットが俺に話してくれたんだ。彼はメタリカがツアーから戻った時にジェイムズとクリフとカークがラーズをクビにしようとしていたって言ってた。」

    RollingStone(2009-07-29)

    ここでいうスコットはもちろん、アンスラックスのスコット・イアンのこと。この大佐の発言に対してアンスラックスの公式ツイッターは否定コメントを掲載。

    scott_true
    BLABBERMOUTH.NET(2009-07-29)

    しかし、今度はMetalHammerの質問メールに対して、スコット本人が返したメールはアンスラックスの公式コメントを否定したかのような内容でした。

    スコット・イアン
    「俺はアンスラックスのツイッターで否定コメントを発表していない。あれはウェブマスターがやったことだ。俺は自分の(ツイッター・アカウント)を持っている。」

    BLABBERMOUTH.NET(2009-08-07)

    さらにデイヴ・ムステインは、ClassicRockのインタビューの中でこの件についてこう語っていました。

    「いいや。スコットが俺に話したことだ。俺は彼が自叙伝を宣伝するのを手伝おうとしたんだ。俺はスコットのことは大好きだし、彼を傷つけるつもりなんか全然なかったんだ。絶対に。でもあれは彼が俺に話したことだし、他にそれを聞いたヤツも知っている。今回のことがネットに流れて、スコットがひどい目にあっているのも知ってる。みんなこう言い始めたんだ。「俺たちはデイヴを信じる。スコットは嘘つきだ。彼はダン(ネルソン、アンスラックスと論争の上、脱退)についても嘘を言っていた。」とね。そんなことは俺が望んだことじゃない。俺はスコットが大好きなんだ。こんなことは消え失せさせてしまいたかった。でも俺はそのことについて(最初のインタビュー以降は)言わなかったのに、彼はそうしたんだ。」

    ClassicRock(2009-09-16)

    そして今回、スコットはコロラド州のラジオ局の番組で、大佐の発言の真否について改めて質問されました。自叙伝で、この件について触れられてはいないようで、スコットはこう話しています。

    「たくさんの人がこの件について訊いてくるよ。あの話は実際、長い間ずっと存在していた。俺はこの件を本に書いていない。それは俺の意見じゃない。俺の本は暴露本なんかじゃない。そういう類の本じゃないんだ。」

    「でもまぁ、この話は彼らが変化を起こしたくて、新しいドラマーを獲得するプランを立てていたということだ。俺たちはみんな、それでぶっ飛んだよ。あの4人あってのメタリカだからね。「えぇ!マジかよ?」って感じだった。それで彼らは「あぁ。ツアーが終わったら、新しいドラマーをみつけるんだ。」って。」

    「俺に何ができたと思う?彼らはみんな友人なんだ。俺は「ラーズにとっては残念なことになっちまったな、クソッ」って感じたよ。と同時に、友人関係が続けられて、彼らが自分たちのやりたいことをできるといいなと思ったね。」

    「言うまでもなく、メタリカの歴史はまったく違うことになった。そして彼らはおそらく地球上で一番ビッグなバンドのひとつとなった。だから俺は嬉しいんだ・・・。自分の友だちがみんなうまく事が運んだわけだからね。クリフが死んだバス事故っていう最悪の悲劇があったわけだけど。」

    「この件で俺が言えることは、俺たちはたくさんいたガキだったってことだけさ…。俺たちは自分のキャリアの早い時期に出会ったガキで、数年後にはヨーロッパを一緒にツアーしていたんだ。みんな20代前半で、本当に人生と自分のバンドに実際に起きていたことを謳歌していた。そしてあのバス事故があった。その後、物事は彼らのふさわしい場所に収まった。優先順があっという間に落ち着くべきところに落ち着いたんだ。俺はいまだにそのことは頭にしまい込めないでいた。」

    「正直、(クリフの事故がなくてもラーズのクビは)起きなかったと思う。なぜなら俺を信じて欲しいんだけど、俺はかなり長年に渡ってそれについて考えてきたんだから。ツアーが終わったら、正直言って冷静な頭が勝ると思うんだよ、きっと。メンバー変更は起きなかったと思う。俺はそう信じているよ。」


    BLABBERMOUTH.NET(2014-10-14)

    ちなみにスコット・イアンの自叙伝の序文はカーク・ハメットが執筆しています。スコットはこの本の中でアンスラックス初期の頃を「自分にとってアンスラックス最悪の時期」と書いており、元アンスラックスのニール・タービンに「(どうせフィクションなら)ロード・オブ・ザ・リングぐらい良いものじゃないと。」と皮肉られていますが・・・。

    BLABBERMOUTH.NETより(2014-10-10)

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします

    関連記事
    アンスラックスのスコット・イアン、改めてBIG4ツアーについて語る。

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章3回目。有志英訳を管理人拙訳にて。※カタカナ表記がわからないところはアルファベットのままにしてます。デイヴ・ムステインが加入した後もバンドメンバー構成で二転三転していたところを。

    - ヘヴィメタルへの誓い(前編) -

    メタリカのデモテープの音楽は相当速かった。6つのオリジナルのリフを中心とした、生々しく、アグレッシヴな曲が狂気じみたペースで演奏されていた。音楽にしても曲名にしても、ダイアモンド・ヘッドとモーターヘッドの両方を思わせ、4人のヘヴィメタルへの宣誓を貫く楽しげな表明ともとれる「Motorbreath」「Seek And Destroy」「Jump In The Fire」「Phantom Lord」そしてヘヴィメタル・アンセムの「Metal Militia」があった。もちろんそこにはデイヴ・ムステインの新しいソロが加わった「Hit The Lights」も。

    NWOBHMからのインスピレーションは、メタリカの初めての楽曲の構成や速いテンポのなかに明白にある。しかし、メタリカは新しいインスピレーションも発揮し始めていた。それはイギリスからではなく、ロイヤル・コペンハーゲンからであった。ビズオウア通りのキム・ベンディクス・ピーターセン(キング・ダイアモンド)とRene Krolmark(ハンク・シャーマン)がまったく新しい草分け的なヘヴィメタルを始めたのだ。

    ラーズ・ウルリッヒ「おかしなことにヘヴィメタル・ケンが1980年に制作されたアルバムのデモを俺に送ってくれたんだ。彼らはブラッツ(Brats)と呼ばれていて、1981年にマーシフル・フェイトとして活動を始めた。1981年、ケンは彼らのマネージャーだったんだ(さらにバンド名をつけることになる)。そうして送ってもらったデモはマジですごいものだった。ジューダス・プリーストと他のヘヴィなものを混ぜたようなものだった。俺たちはただただ本当にクールだと思ったよ。マーシフル・フェイト、モーターヘッド、ダイアモンド・ヘッド、そしてヴェノム。彼らは当時の俺たちにとってのインスピレーションの中心だったんだ。「Motorbreath」はモーターヘッドから影響を受けたものだし、「Seek And Destroy」はマーシフル・フェイトへのハッキリとわかる初めての賛同の表れだった。あれは「Doomed By The Living Dead」「Corpse Without Soul」のようなマーシフル・フェイトの初期の曲に影響を受けたものだったんだ。」

    それは決定的なデモテープとなった。メタリカは形となり、楽曲、スタイル、そして凄まじい楽曲は『No Life Til Leather』というタイトルの元に集められた。そのタイトルは最初の曲の最初のセンテンスだ(もちろんジェイムズの冒頭の「ウォーー」は別として)。

    No life til leather/we're gonna kick some ass tonight/We got the metal madness/when our fans start screaming/its right/when we start to rock/we never want to stop again

    それからジェイムズのけたたましい声でコーラスが響く。

    Hit The Lights...Hit The Lights...Hit The Lights

    『No Life Til Leather』のどこを切ってもメタル、音楽、ライフスタイル、そして高揚感が中心にあった。そのデモテープによって、バンドが軌道に乗り、有名になっていく方向転換が始まったのだ。ラーズ・ウルリッヒに象徴される積極的な宣伝販促マシーンとして。彼は造作もなく伝言したりテープをコピーするメタルファンのいる場所でテープを配っていった。そして、メタル雑誌(あるいはファンジン)でテープやバンドのことを掲載させることさえできた。このようなメタリカを広く伝えるラーズの努力は1982年からだった。レコード契約を得るには充分に足るものだった。しかし、最初にメタリカを真に称賛する記事が掲載されたのは1982年4月、(最初のデモテープである)『Power Metal』をリリース後に(Metallicaと呼ばれるかもしれなかった)ファンジン「Metal Mania」のなかであった。

    「メタリカはアメリカのメタルゴッドになる可能性を秘めている」ジャーナリストのパトリック・スコットは82年6月の記事のなかでそう書いている。しかしこの予言のほとんどは、デモテープの音楽からというよりはむしろ、おしゃべりで熱狂的なメタリカのドラマー兼広報の家で熱狂的かつ親しげに交わされたヘヴィメタル話から得た直観に基づくものだった。

    メタリカと『No Life Til Leather』のデモを広める活動中においても、ラーズは決してここ数年のメタルの源を忘れてはいなかった。コペンハーゲン、そして特にラーズがまだ存在を知らなかったバンドからひらめきを得る助けを知らず知らずのうちにしていたケン・アンソニーのことを。2人のデンマークのメタルファンは離れていても、やはり大まかな連絡を取り合っていた。しかしラーズが電話で最新の音楽への情熱について話す時、ケンは本当に驚いたものだった。

    「ある日、電話で話していたら、ラーズが音楽をやり始めるつもりでドラムキットを手に入れたって言ってたんだ。「おぉ!いいね!」と思ったよ。そしたらあくる日、ラーズが電話してきて「俺たちデモを録ったんだけど、聴いてみたいかい?」って言ったんだ。聴いてみたいって言ったよ。まだ『No Life Til Leather』は持ってなかったしね。それでテープを俺に送ってくれたんだ。「俺のバンド:メタリカ」と言葉を添えてね。」

    「驚いたよね。ドラマーだって??俺は彼がドラムをやってるとは思いもしなかった。彼にリズムの才があるなんて少しも思わなかったよ。家で狂ったようにエアギターとかエアドラムをすることはあっても、それはそれでしょ。バンドを始めるってことさえ・・・ねぇ!?」

    取り巻きの外側、すなわち、ブライアン・スレイゲルと地元LAのメタルファンの中では、ラーズは自分のドラムへの関心やバンドに抱く野心については全く口外しなかった。ラーズのメタリカとしての突然の活動にケン・アンソニーだけが驚いたわけではなかった。憧れのダイアモンド・ヘッドと一緒に過ごしていた間もラーズはバンドで演奏したいという話は一切していなかった。当時、彼はジェイムズ・ヘットフィールド、ヒュー・タナーと初めてのジャムを行っただけだった。

    「おかしいのは、当時彼はバンドを始めるなんてことは一言も言わなかったことさ。」ダイアモンド・ヘッドのギタリスト、ブライアン・タトラーはそう振り返る。(『Metallica 激震正史)』(1992)より)「(中略)テニスのことばかり話すこともあったし、自分の好きなバンドの話になると止められなかった。でもメタリカのことについては一切何も言わなかったんだ。」

    それはメタリカに至る構想がどれだけ自然に生まれてきたか明白にあらわしている。実際ラーズがいろんなドラムとドラムスティック、そして音楽で何かしたいと動き始めたのは1981年夏のイギリス滞在後だった。

    話は戻って、1982年夏、ラーズとメタリカに関する噂はヘレルプのPhilester通りのテニスコートにまで届いていた。ステイン・ウルリッヒはある日、叔父で名付け親でもあるトーベンと一緒にテニスをしていた時のことを振り返る。「ある人がトーベンのところにやって来て言うんだ。「ラーズは音楽を始めたんだって?」彼がロッカールームに行くと今度は彼にこう尋ねるんだ。「トーベン、キミは昔からミュージシャンじゃないか。息子のやってる音楽は知っているかい?あの子たちは良いものを持っているかい?」トーベンはその問いに対してこう答えた。「あぁ・・・まぁ・・・でもベースを演奏している子は別の楽器をやるべきだね!」ってね。」

    昔からの熱狂的ジャズファン・評論家からの本当に的を射た指摘だ。彼はその後何年にも渡って、初期あるいはメタリカの曲となる前の楽曲に関する息子の審判となった。ロンは実際、他がますます強力になっていく4人組の中で最も弱い部分となっていた。ややモチベーションに欠け、暇を持て余し気味のマクガヴニーの代わりをラーズとジェイムズが見つけるまで数ヶ月しか要しなかった。

    この頃、メタリカの主要メンバー2人(ラーズとジェイムズ)はバンドメンバー構成に関する新しい考えがあった。ジェイムズはバンドが2人目のリズム・ギタリストを雇うまでリズム・ギターを演奏する方を選んだため、全面的にボーカルに集中することができた。しかし、1982年夏に起きた問題は別にあった。

    ラーズはその時のバンドの考えを大まかに話した。「どういうことかというと、ジェイムズが初めてリズム・ギターを演奏し始めた時、それを容易にこなせたってことさ。彼に本当にぴったりハマっていて、それだけの才能があったんだよ。彼とムステインが一緒になったらとてもすごいことになった。ジェイムズはこう言ってたよ。「クソッ!俺がステージを駆け回って歌う代わりに別のシンガーを一人見つけようぜ!俺がリズム・ギターを弾けば、マルコム・ヤングかルドルフ・シェンカーみたいじゃないか。」ってね。1982年夏、後半の数ヶ月は、ギタリストじゃなくて、リードシンガーを探していたんだ!それで何人か試した。有名なヤツはいなくて、地元のファンだけだったけど。そこにはアーマード・セイントもいた。LAで俺たちみたいなヘヴィメタルをやっていた他では唯一のバンドさ。彼らはジューダス・プリーストやアイアン・メイデンの影響を強く受けていて、俺たちよりメロディックだった。それでも彼らは他のバンドなんかより幾分ラウドだったしヘヴィだったね。俺たちは彼らと何回かギグをやったんだけど、彼らは本当に可笑しかったよ。ジョン・ブッシュっていうシンガーがいて、俺たちは才気溢れるヤツだと思った。」

    「俺たちは実際数ヶ月の間、ジョンに対して、騎士の鎧を身につけてステージを駆け回るような、アーマード・セイントがやっているクソみたいなことで時間を無駄にする代わりに真っ当なヘヴィメタルバンドに加わるべきだと言って説得を試みた。でも彼は何も話を聞こうとはしなかった。アーマード・セイントはLAでは俺たちより大物だったからね。それに実際俺たちは彼らのサポートを何回かやっていたし。でも俺たちは本当のヘヴィメタルがどんなかってことをわかってたし、(相手が大物だろうが)そんなことは気にもしなかった。俺たちはただジョンに俺たちのバンドに加わるべきだと伝えたんだが、彼はそれを望まなかった。そんなわけでヘットフィールドは歌い続けているんだ。」

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    ちなみにアーマード・セイントも『Metal Massacre』に参加したバンドのひとつですね。鎧を着たメンバー集合写真が画像検索で見られると思います。ジョン・ブッシュが後にアンスラックスのボーカルとして加入することになるのも何かの縁でしょうか。

    johnbush_metallica
    メタリカ結成30周年のフィルモア公演にて実現したジョン・ブッシュがボーカルのメタリカ

    そして、ギターを弾いているうちにリズム・ギターの才能が開花してしまうジェイムズ!(笑)結局、新しいボーカルを加入させるのは諦めることになりますが、この後もメタリカの運命を大きく変える出来事が起こります。

    次回、クリフ・バートン登場予定。

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(2)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(3)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(4)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(5)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(6)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(7)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(8)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(2)
    爆音収穫祭「メタリカ・スルー・ザ・ネヴァー」プレミア上映会レポ

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章2回目。有志英訳を管理人拙訳にて。メタリカ草創期に欠かせないデイヴ・ムステインが登場。訳していてニヤニヤしてしまったエピソードをどうぞ。

    - メタリカ結成(後編) -

    「俺たちはあの曲「Hit The Lights」を書いたんだ。」ラーズは語る。「あれは2つの組み合わせだった。曲はジェイムズがレザー・チャームにいた頃に書いた。曲の後半のアウトロは、俺がかつて初心者たちと会っていた時に1、2週間で出来た。そうして「Hit The Lights」を持ち寄ってロン・マクガヴニーの家でレコーディングしたんだ。」

    この頃のラーズとジェイムズのふるまいの特徴は、自発的に組んだこのバンドのなかでベーシストを少し脇に置いておくという具合だった。

    「ロンは公式にはバンドにいなかったかもしれない。でも彼がいた時、彼はベースを弾き、よくつるんでいた。」ラーズはそうコメントし、「Hit The Lights」の最初のバージョンでベースを弾いたのはジェイムズだったと認めた。だが、ジェイムズは曲のためのソロを弾くことができなかった。当時、彼はギターを弾くことにそれほど集中していなかった。歌うことにエネルギーをより傾けていたのだ。そこでバンドはヘヴィメタルの本質を構成するソロを弾ける誰かを確保しなければならなかった。このプロジェクトのほとんどと同様、それは同時並行で行われた。ラーズとジェイムズはブライアン・スレイゲルのスタジオに行く途中でギタリストのロイド・グラントに会い、ソロをレコーディングしてくれるよう頼んだのだ。

    「そう、彼はやって来た。」ラーズは認めた。「彼は自分のソロを弾いた。充分の出来だったよ。そうして俺はブライアン・スレイゲルにテープを渡したんだ。」

    ブライアン・スレイゲルはそれを聴いて衝撃を受けた。「あぁ、本当に素晴らしかったね。彼らが一緒にやったものだとは信じられなかった。」それこそがスピードを増したエネルギーの放出、かつ『Metal Massacre』の最も速いパートに対するブライアンの最初の自然な反応だった。(クリス・クロッカー著『The Frayed Ends Of Metal』(1993刊行)より)

    しかしながら、「Hit The Lights」のプロダクションにはちょっとした問題があった。ブライアンは少ない予算から曲のサウンドを調整できる技術者のために50ドルを費やさなければならなかった。だがラーズとその友人たちとブライアンはこの曲について本当にいいものだと実際に感じていたようだった。

    「本当に「ガレージ」だったよ。」ラーズは振り返る。「他のバンドと比べると、サウンドはクズみたいなものだった。でも本当にある種のエネルギーと誠実さがテクニックの欠如を補っていたよ。「プロダクション」ってのは当時は本当に大げさな言葉だったんでね(笑)。」

    彼はついに最後の手段であった小さなグループを任された。バンドの名前はコンピレーション盤のために必要不可欠なものだった。そこでラーズはすぐにとてもいい提案をした。と、伝説は語る。実際、真実に近かったのは、ラーズとよくつるんでいたサンフランスシコのメタルファンでヘヴィメタルのファンジンをまとめようと奮闘していたロン・クインターナという人物の提案だった。ロンはラーズにファンジンの名前候補のリストを見せた。そのなかに明確なビジョンのある名前があった。ファンジン向きではないが、ラーズのバンドにぴったりな名前「Metallica」だ。(もし彼がそうなるよう動いていたとしたら、素晴らしい日だ。)ロンに「Metal Mania」という名前を提案するくらいの人の良さはラーズにもあった。

    その名前はアメリカ西海岸のメタル・アンダーグラウンド・プロジェクトの名前となった。メタリカファンはおそらくその選択について祝うことができるだろう。Metallicaという名前がヘヴィだったというだけでなく、ロン・クインターナのリストにはBleeder、Blitzer、Grinder、あるいは暫くのあいだラーズのお気に入りだったThunderfuckというゾッとするような名前まで載っていたのだから。

    だが、バンドの名前、Metallicaは目新しいものだった。それゆえ、『Metal Massacre』のレコードには「Mettallica」と印刷されてしまった。さらに最新メンバーの名前もスペルを間違われた。ロイド・グラント(Lloyd Grant)は「Llyod Grant」に、ロン・マクガヴニー(Ron McGovney)は「Ron McGouney」に。しかしこれらについて彼らは何もすることはできなかった。

    ブライアン・スレイゲルは説明する。(『Metallica 激震正史)』(1992)より)「その時は既にアルバム用に用意してあった2000ドルも使い切っていたんで、もうそれでおしまいだったよ。もちろん、当時はそんなに大事なことだと思わなかったからね・・・。」

    しかし、バンドにはまともなヘヴィメタルのバンドとして最も重要な要素が欠けていた。ライヴ・パフォーマンスである。ラインナップの点でも、メタリカにはその場所がしっくりきていなかった。ラーズとジェイムズはすでに自身をバンドの中心軸に据えており、ロン・マクガヴニーは傍観者としての位置に置かれ、ロイド・グラントはバンドの雇われ人にすぎなかった。初のギグを試みようと、メタリカは初めてのデモテープをレコーディングした。そのテープは「Hit The Lights」と2つのカバー曲から成っていた。ラーズお気に入りのNWOBHMシーンの「Killing Time」(スウィート・サヴェージ(Sweet Savage)の曲)と「Let It Loose」(サヴェージ(Savage)の曲)である。

    「俺たちがソロのギタリストを加入させる前に、ロイド・グラントは1stデモのテープでソロを弾いた。だから彼はメタリカに一時的にいたことになる。でも本当はリズムをキープしていくこともできなかった。」とラーズは語る。

    ジェイムズは本当はギタリストよりもシンガーとしての役割を貫きたかった。ラーズとともに代わりをみつけるまでリズム・ギターを弾くだけだと思っていた。そこで2人は再び「Recycler」に募集広告を載せた。

    ラーズは1982年の1月か2月まで時計の針を戻した。「ある日、俺の家の電話が鳴った。「Recycler」の広告を見たというデイヴ・ムステインというヤツからだった。俺たちはまだギタリストを探していたんだ。そしてデイヴ・ムステインは・・・単刀直入にこう言った。「俺は機材を全部持っているし、本当にいいぜ。運転手もいるし、カメラマンもいる。それに・・・」とアイツは全てをなんだかんだと口走っていたよ。それから俺はジェイムズに電話して言ったんだ。「彼はいい意味でどうかしてるみたいだから、会ってみなきゃダメだ!わかるだろう?」とね。デイヴはノーウォークから手持ちの機材全てを持ってやってきた。」

    「アイツはとても感じがよくて魅力的だった。当時、俺たちのほとんどはまだ女の子ともお付き合いしたことのない18歳のシャイなガキだった(笑)。これは本当のことだけど、俺は童貞をアイツの元カノに捧げたんだからね!俺たちはそんな負け組だったんだ。そして鋲付きブレスレットを身につけた真のヘヴィメタルなヤツになり始めたんだ。でも特にヘットフィールドはとんでもなくシャイだった。デイヴは胸毛があって、見た目もよかった。ハンティントンビーチで大麻の売人をやっていた。いつも周りには取り巻きがいた。すでにパニック(Panic)というバンドもやっていた。そのバンドは何回かギグをやっていて、ファンも少しばかりいたんだ。だからデイヴをバンドに入れたら、突然レベルが上がったのさ。ウチの母親もあの子は美しいなんて思っていた。俺の母親と話す時、アイツはとても気楽で本当に魅惑的に話すんだ。「お元気ですか?ウルリッヒさん。」とね。」

    「当時、ヘットフィールドはまだ人の目を見ることができなかった。本当にシャイで、顔中にキズが残るようなニキビもあった。それにロン・マクガヴニーはスターという素材じゃなかった(笑)。そこへ胸毛と度胸を持ったムステインが現れたわけだ。」


    「彼は凄かったね。自分のアンプとペアのギターとかそういうものを持っていた。ダイアモンド・ヘッドを知らなかったけど、よく人の話は聞くし、いとも簡単に新しいことを身につけていった。俺が「Am I Evil」を聴かせると、アイツはそれを10分で手に入れていた。前後左右裏表を完璧に学んでいたのさ。ギターを弾く生まれ持っての才能を本当に持っていたし、物事を理解しようとする意志があった。アメリカではまだ誰も知らないダウンピッキングを理解したからね。」

    「個人的には最初の数ヶ月のあいだは少し奇妙な感じだった。俺はニューポートビーチに住んでいて、アイツはウチから10分のハンティントンビーチに住んでいた。だから俺が毎日アイツを迎えに行ったんだ。アパートに迎えに行くと俺はいつも中庭で待っていた。アイツはアパートのなかでソファに座って、10人くらいに囲まれていた。ミニ・スカーフェイス(訳注:麻薬の売人がのし上がるギャング映画『Scarface』(1983)のこと)みたいだったよ。ただ座って、大麻の入ったいろんな袋を売りさばいていた。最初にジェイムズと俺にとって、それはちょっとおかしいなと思ったことは、明らかにデイヴが俺たちのバンドに加わったはずなのに、俺が迎えに行ったら、中庭にいた俺に向かって「あれが俺の新しいドラマー、ラーズだ!」と言ったことだ。本当に理解できなかった。「俺のバンド、メタリカだ!」とも言っていたよ。驚きだね!」

    「アイツはクールなものを持ち合わせていた。本当に個性的な魅力を持っていた。カリスマだ。周りにはいろんな女の子がいたし、俺の母親はアイツに首ったけさ。だから俺たちはアイツをNWOBHMへと溺れさせるんだ。でもそれはアメリカでより保守的な傾向を持った人たちとの初めての遭遇にもなった。俺とジェイムズはヴェノム(Venom)に熱中していて、彼らのアルバムが81年の8月に出たんだ。そのレコードをデイヴに渡しに持っていったら、アイツはいらないだとさ・・・。悪魔主義じゃないか!だと。最初は怖がっていたみたいだよ。でもヴェノムを除けば、俺が聴かせた音楽はアイツにとっては皆とてもクールだったようだ。」

    このカリスマ的な赤毛の人物(カリフォルニア州ラ・メサ出身、1961年9月13日生まれ)はヘヴィメタルにものすごい熱意を持ち、強固なギター・プレイにより、メタリカはダイアモンド・ヘッドの曲のソロだけではなく、セットリスト構成の範囲を広げ、初めてのコンサートを待ちわびるまでになった。

    1982年のロサンゼルスでは、ソロを演奏するエネルギッシュなムステインのいるラインナップを持ってしても、ヘヴィメタルの力で自己主張するのはかなり難しいことだった。当時のロサンゼルスの問題は、ハードロック・シーンがますますメロディックでグラムロック寄りのソフトなヘヴィメタルによって支配されていたということだった。

    街でギグをやるのも難しかった。一つには、ほとんどのクラブでバンドはオリジナル曲を演ることを要求されていたし、さらにもう一つはメタリカの音楽が、メタルのクラブにとっては速すぎてパンクだったし、パンクのクラブにとってはメタルすぎたからだ。(これらの互いに異なる要素は、それからまもなくして、共生して大きな成功を収めていく。)しかし、メタリカは最初の問題を解決した。「Hit The Lights」は別として、ダイアモンド・ヘッド、ブリッツクリーグ、スウィート・サヴェージといった内輪以外にはまだ知られていなかったNWOBHMバンドのカバー曲が彼らのセットリストに含まれていることを誰にも言わないことによって。クラブでギグをやるためのもう一つの問題も、大きなネットワークと最初の好機に飛び乗ったおかげで解決した。最初のライヴは1982年3月14日アナハイムのレディオシティで行われた。デビューのショーはデイヴがオープニング曲「Hit The Lights」の演奏中に弦が切れ、経験不足のバンドは皆、彼が弦を直すまでバックステージに引っ込むという意図しない滑稽な幕開けとなった。

    記録魔のラーズは「メタリカのギグ」と呼んでいた緑色の学校仕様の小さなノートにメタリカとして初めてのショーの印象をこう書き残している。「これまでで初めてのライヴ。とても緊張した。ワンマンライヴ。デイヴが最初の曲で弦を切った。演奏はまぁまぁ!!!かなり良いとまではいかなかった。」

    ラーズの記録によると「おおよそ75人」の見物客が9曲のセットリストを観たとある。(この75人の熱狂者たちはみんな、誇りを持ってそこにいたと後に認めたことだろう。)さらにラーズはデビューしたギグでバンドは15ドルの報酬(訳注:当時のレート換算で3000円ちょっと。)を得たと書いていた。

    しばらくして、ラーズのヒーローでイギリスのNWOBHMのスターであるサクソンが、ヘッドライナーを飾るハリウッド西端のサンセット・ブルバードにある伝説的なロッククラブ「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」で行われる2つのショーでサポートバンドを必要としていた。アナハイムで最初のパフォーマンスで失敗したことに怖気づかず、メタリカはそこへ現れた。彼らは同じ日に2つのサポートアクトをこなしたのだ。

    ラーズの記録帳は初めてのショーと数え直されていた。「サクソンのサポート。サウンドチェック無し。サウンドはひどかった。デイヴはチューニングずれっぱなし。自分の演奏はよく出来ていた。でもバンドは全体としてクソだった。OKレベル以下。」もう1つのライヴでは「サクソンのサポート。今回はいいサウンド。デイヴと俺の演奏はよかった。ロンとジェイムズはまぁまぁ。かなり良いとまではいかなかった。楽しかったけど、サクソンには全然会えなかった。」

    一ヶ月ほど後にメタリカはLA中心街とサンディエゴのあいだ、コスタメサにあるコンサート・ファクトリーで50人を前にライヴをした。この時メタリカは初めて5人組として登場した。ブラッド・パーカーという名前の友人がリズム・ギターとして参加したが大きな成功は得られなかった。次のギグはラーズの学校であるバックベイ高校のホールで生徒たちの昼休み中に行われた。メタリカはもう一度5人組を試した。しかしラーズの記録帳にはこの記憶すべきライブについて言及されていない。1982年5月25日のページにはひどい動揺が記録されていた。「完全に忘れ去りたい日だ!!演奏もクソ、ライヴもクソ、サウンドもクソ。本当に最悪だ。」

    アナハイム、ハリウッド、そしてコスタメサで行われたショーで、メタリカはパフォーマンスによる爆発的なスタートを切ることはなかった。しかし、それらのギグによって彼らの野心が突き崩されることもなかった。そしてまもなく、いつも野心的で積極的なラーズ・ウルリッヒはブライアン・スレイゲルの元にやってきた。メタリカは絶対にアルバムを作らなければならないとラーズは考えていた。ブライアンは反対だった。彼は自身のレコード・レーベルを運営していくに充分な仕事があったし、現金収入はあったが額は低かった。(収入の1つには『Metal Massacre』が1982年6月14日に4500枚リリースされるからであった。)だからアルバム制作に必要な8000ドルは融資できなかったのだ。その代わり、ラーズとメタリカは自分たちの野望を少し抑えなければならなかった。アルバム制作とレコード会社との契約へのもっと自然の道を進むこと、つまりデモテープによって。

    むしろ、それが適切だったのだ。デイヴ・ムステインの加入後、まだメタリカはこの時の楽曲をまとめたいわゆる「Power Metal」と呼ばれるデモテープしかレコーディングしていなかった。(デモテープ・ネットワークにちなんで名付けられ、ラーズの名刺にも「Metallica - Power Metal」と書かれていた。)

    ただし、最新の機材でより良くプロデュースされたデモ、あるいは少なくともかなり良いデモにもお金がかかる。しかし、運命が良い助けをたぐり寄せる。メタリカは他の場所でスタジオに時間を費やすことができた。独立系レコード会社「High Velocity Records」にいたケニー・ケーンという熱狂的なパンクファンがメタリカのライヴ録音を聴いていたのだ。ケニー・ケーンにとってそれは十分に良いものだと確信していた。速くて荒削りでガチャガチャした「パンク・ノイズ」のEPをプロデュースしたいと思っていたのだ。しかし、彼はスタジオでレコーディングし終えたものを聴いてガッカリしてしまう。彼にとってこれらの楽曲は「ヘヴィメタル過ぎ」たのだ。なぜ彼がライヴで聴いた曲をレコーディングしなかったのだろう?

    「そりゃあ、あれはカバー曲だったからだよ。」バンドはそう答えた。

    スタジオ代はすでに払われていたので、「High Velocity Records」が提案したEPのプレスを断念しているあいだにメタリカは自分たちの新しいデモテープを自分たちの元へ持ってくることができた。

    そしてそのデモテープは、持って帰るには、そして世界中に送るには充分の出来だった。こうしてラーズ・ウルリッヒと彼のバンド、メタリカは1982年7月に本当の意味で始まったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

    hetfield-mustaine-ulrich-metallica-198
    デイヴのメタリカ在籍時の一枚(左からジェイムズ、ラーズ、デイヴ)

    ミュージシャンとして(あるいはフロントマンとしても?)、すでに抜きん出た才能のあったデイヴには、メタリカに加入した当初からメンバーをリードしている自覚があったからこそ「俺のバンド、メタリカ」発言につながっていったのかなぁ。ラーズにとっては相当不愉快に感じたであろう不用意な発言でしたが(苦笑)

    こんな話を読みつつ、ロイド・グラントとデイヴ・ムステインの弾くソロを聴き比べてみるのも一興です。

    『Metal Massacre』収録の「Hit The Lights」


    デモ『No Life Til Leather』収録の「Hit The Lights」


    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(2)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(3)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(4)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(5)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(6)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(7)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(8)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    まだコメントの返信も、サマソニの振り返りもちゃんとできていませんが、こちらのニュースから。

    サマソニでのメタリカの公演の裏ではミラクルが起きていました。

    GIGANTOUR 2013の最終日となった8月11日、メガデスと非定型肺炎から復帰したジェイソン・ニューステッドが「Phantom Lord」で共演したとのこと。「Metal Militia」練習してるって言ってましたやん・・・大佐・・・。とまぁツッコミはさておき、映像と写真をどうぞ。

    newstedmegastage





    ジェイソンはベースを抱えてではなく、マイクを手に持ってのボーカル専念スタイル。しかもメガデスTシャツを着ての登場!まさにファンのために行われた企画ですね。素晴らしい!

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ジェイソン・ニューステッド、GIGANTOURにてデイヴ・ムステインとメタリカの楽曲を披露?
    デイヴ・ムステイン、ジェイソン・ニューステッドとメタリカの楽曲での共演に乗り気の模様。
    ジェイソン・ニューステッド率いるニューステッドのフルレングスアルバム『Heavy Metal Music』国内盤発売へ
    デイヴ・ムステインがジェイソン・ニューステッドと共演するメタリカの楽曲を「Metal Militia」に決定したみたいだけど

    このページのトップヘ