メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:ジェイソン・ニューステッド

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ジェイソン・ニューステッドの続報。2016年7月22日(金)昼12:00(日本時間2016年7月23日朝4:00)からFacebookのWebcastに出演し、ロブ・タッカー(Rob Tucker)と新たに立ち上げたアコースティック・プロジェクト「Would And Steal」について語るとのこと。

    jasonnewsted_20160722

    Webcastはこちらのページから。
    https://www.facebook.com/events/149911188749626/

    BLABBERMOUTH.NETで公開された「Would And Steal」のバンドロゴはこちら。
    wouldandsteallogo_newsted

    さらに2016年8月5日、6日には未公開のメンバーとともにカリフォルニア州ラフェイエットの楽器店「Mighty Fine Guitars」にて音楽教育支援団体「Little Kids Rock」のために慈善コンサートを行うとのこと。


    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ジェイソン・ニューステッド、ヴォイヴォドのライヴにゲスト参加
    ジェイソン・ニューステッド、地元でアコースティックライヴ開催
    ジェイソン・ニューステッド「レミー・キルミスターは俺にとって救世主だった」
    ジェイソン・ニューステッド、公式ウェブサイトを一時閉鎖?

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    2016年7月15日、ジェイソン・ニューステッドが自宅のあるカリフォルニア州ウォールナットクリークでライヴを行った模様。会場はRed Houseと呼ばれる音楽施設。

    まずはライヴチケットの販売サイトによる説明を管理人拙訳にて。
    jasonnewsted_2016

    1992年、チョップハウス・バンド(The Chophouse Band)は、グラミー賞を6回獲得したロックの殿堂入りベーシスト、ジェイソン・ニューステッドによって、サンフランシスコのベイエリアでチョップハウス・スタジオとレコード会社を設立した際に始まった。

    1991年のメタリカのブラックアルバムでの成功に続き、チョップハウス・スタジオは、厳しいツアースケジュールや予定から離れて、空いた時間の音楽のため、純粋に音楽を楽しむ特別な場所を持とうと、他のグループや活動をしている同志や友人を集めるためにニューステッドによって考案されたものだ。

    25年経ち、多様なジャンルから多種多様なタレントのホストとして、チョップハウス・バンドは、このような他にないセッションや個人的なプロジェクトで味付けされ、ブレンドされたスタイル、創造性を奨励し、音楽の境界を試す、信頼に足る純粋で完璧なレシピを提供する音楽の味をようやく共有していく・・・それがチョップハウス・バンドだ。

    (後略)

    TicketFlyより

    ジェイソン自身が設立したチョップハウス・レコード(Chophouse Records)に付随するバンドとしての出演だったようです。当日の模様を写した写真がこちら。
    jasonnewsted_20160715

    ボブ・ディランに影響を与えたフォーク歌手ウディ・ガスリーの「This Land is Your Land」のカバーを披露しています。


    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ジェイソン・ニューステッド、ヴォイヴォドのライヴにゲスト参加
    ジェイソン・ニューステッド「レミー・キルミスターは俺にとって救世主だった」

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    2014年9月からSNSや公式サイトを閉じてしまい、レミー・キルミスターの追悼コメントをラジオの電話インタビューの形で残す以外は近況がわからなかったジェイソン・ニューステッドの話題。

    去る2016年6月8日、ジェイソン・ニューステッドがメタリカ脱退後にジェイソニック(Jasonic)の名で2002年から2008年までメンバーとして活動していたヴォイヴォド(Voivod)のライヴにゲスト出演していました。参加曲はバンド名でもある「Voivod」。
    jasonnewstedvoivodjune2016

    ライヴが行われたのはサンフランシスコの「Slim's」。ジェイソンがメタリカとして1996年6月にMetClubのメンバー限定ライヴを行ったところでもあります。
    https://metallica.com/tour/10070
    https://metallica.com/tour/10071

    ファン撮影の写真や映像はこちらから。




    @gleesinが投稿した動画 -








    プロ撮影の写真も。


    なかなか音沙汰がないので心配していましたが、ステージ上の動きを見る限り元気いっぱいのようです!

    cowboybluesさん情報ありがとうございます。

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ジェイソン・ニューステッド「レミー・キルミスターは俺にとって救世主だった」
    ジェイソン・ニューステッド、公式ウェブサイトを一時閉鎖?
    ジェイソン・ニューステッド、メタリカを脱退した経緯を語る
    ジェイソン・ニューステッド、「Blackened」作曲エピソードやジャスティスアルバムのリマスターについて語る。
    ジェイソン・ニューステッド直筆アンケートの回答が泣ける件。

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    前回の続き。ラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット、そしてプロデューサーのフレミング・ラスムッセンがクリフ・バートンとの思い出や、30年経った今『Master Of Puppets』がどういう位置づけにあるのか語ってくれました。管理人拙訳にてどうぞ。

    メタリカは 友人であるデンマークのオカルト・メタル・グループ、マーシフル・フェイトとパーティーを開くことによって、(アルバム制作の)セッションのあいだ、くつろいでいた。「俺たちはバーに出かけては飲んでいたよ。」ハメットは語る。「ライアーズ・ダイスのビッグゲームに夢中になったのを覚えているよ。終いには俺たちとマーシフル・フェイトで酔っ払いレスリング・マッチになったんだ。まったくバカ騒ぎだったね。俺たちはバーのなかでレスリングを始めて、どういうわけか通りまで出ていた。俺たちはずっと笑って、ただ飲んだくれて互いに傷つけることはなかった。それが俺たちが抱いていたモヤモヤやフラストレーションや先々の不安なんかを吹き飛ばす方法だったんだ。」ハメットはそう続けた。

    どんなにメタリカに不安感があっても、彼らはレコードでそれを表すことはなかった。『Master Of Puppets』の楽曲のなかで最も大胆なものの一つが8分半のインスト曲「Orion」だ。生々しい感傷的なベース音で幕を開け、軍隊のようなリズムギターのラインでフェイドアウトする前に、グルーヴを効かせたジャムに移行し、陰鬱と希望のあいだを行ったり来たりするソロもある。「クリフが本当に良いこのメロディー・パートを思いついたんだ。メロディーがとても強力だから、そこにボーカルは必要なかったんだよ。」ラスムッセンはそう語る。

    「俺にとって「Orion」はクリフ・バートンの白鳥の歌(訳注:普段鳴かない白鳥が死を前に美しい歓喜の歌を歌うという伝説がある)なんだ。あれは本当に素晴らしい楽曲だ。彼は全ミドル・セクションを書いていた。彼はどんな方向に向かっていくのか俺たちに視点を与えてくれた。もし彼が俺たちと共に(この世に)留まっていたら、彼はさらに先に行っていると思う。俺たちのサウンドは彼がまだここにいたら、違っていただろうね。」ハメットはそう語る。「彼は他のメンバーとは違った感覚とアプローチを持っていた。大歓迎だったよ。」彼はそう続けた。

    セッションを終えると、ラスムッセンはバンドのシビック・オーディトリウムのショーのために、ベイエリアに戻ることになったウルリッヒのドラムのフライトケースにテープを詰める手助けをした。そのショーで彼らは「Master Of Puppets」「Disposable Heroes」をアメリカで初披露した。次にバンドがショーを行った時には、『Master Of Puppets』がリリースされて数週間が経ち、その後のツアーがバンドを永遠に変えたのである。

    1986年3月から8月まで、メタリカはオジー・オズボーンの前座として「Damage Inc.」ツアーにそのほとんどを費やした。オズボーンは2009年に「彼らは常にとても良いバンドだった。俺たちは1つのツアーを一緒にやった。思い出すよ…俺は新世代にトーチを手渡せることができて光栄に思うよ。」と回想している。

    ヘットフィールドがスケートボードで腕を怪我するまでは、ツアーは順調に進んでいた。ローディーでメタル・チャーチのメンバー、ジョン・マーシャルがリズムギターを弾いて、メタリカはツアーを続行した。オジーのツアーが終わると、彼らは1か月のオフを取ってから、2週間に渡ってヨーロッパまでツアーの足を伸ばした。9月26日のストックホルムでのギグがフロントマンの腕が治り、この数ヵ月で初めて彼がリズムギターを弾いたライヴだった。そしてクリフ・バートン最後のコンサートにもなってしまった。

    ウルリッヒは言う。「『Master Of Puppets』から30年ってことは、今年はクリフの死から30年なんだな。クレイジーだね。30年だって?ファックだ。」

    ストックホルムのショーの後、メタリカのメンバーとクルーたちはツアーバスで次のコンサートのためにコペンハーゲンに向かっていた。朝6:30頃、車は道路の外へとスリップした。ハメットは寝台から投げ出されて黒目を損傷し、ウルリッヒはつま先を怪我した。バートンは車の窓から投げ出され、車両が彼の上に転倒し下敷きとなった。彼は24歳だった。

    運転手は過失致死罪で起訴されたが、有罪判決にはならなかった。事故は道路に張っていた薄氷のせいとされた。『Metallica Unbound』によると、ヘットフィールドとハメットは運転手に向かって叫んだという。クレーンでベーシストからバスを持ち上げるのを彼らが待っているあいだ、ヘットフィールドはスリップさせたものを探しに道を駆け出して行った。ヘットフィールドはその夜、2つのホテルの窓をぶち壊した。ハメットは事故でとても動揺していたため、電気をつけたまま眠りについた。Guitar Worldはベーシストの葬儀が10日後にベイエリアで行われ、葬儀のあいだ「Orion」が流されていたことを報じた。

    「クリフは本当にユニークだった。彼は猛烈に自分自身というものを保持していたんだ。カメラマンは「クリフはそんなダブダブのベルボトムを履くべきじゃない」とか何とか言ったかもしれないが、彼は自分自身というものを守り続けたんだよ。」ウルリッヒはそう語る。



    「彼はこう言うだろうね。「まぁ、とにかくまたファッション界が(ベルボトムに)戻ってくるまで俺は履くよ。それに俺、これが好きだし。」ってね。彼は私が会ったなかで最高に素晴らしい人物のひとりだ。紳士な偉人さ。でも(他に)誰が80年代にベルボトムを着ていたんだい?」ラスムッセンはそう語る。

    ウルリッヒは言う。「彼はユニークであり、自律的だってことを表に出していた。それが明らかにメタリカの大きなメッセージのひとつになっていた。あんなヤツ、他にいないよ。」

    ドラマーは最近、バートンについてたくさんのことを考えるようになった。彼は『Kill 'Em All』と『Ride The Lightning』のデラックス・リイシューと共に(『Master Of Puppets』制作当時について書かれた)書籍『Back To The Front』に取り組み、昔の写真をじっくり見るようになった。「実際、別の日に俺たちが昔の写真を漁っている時、カミさんに言ったよ。「彼はピッタリした照明を当てればとてもイケメンだったんだ」ってね(笑)」ウルリッヒはそう言って笑う。「あの当時を振り返ると、俺たちはみんな野暮ったくて、何か剥奪されていた。「イケメン」がかつてメタリカにいたかは俺にはわからないけど、彼がとてもハンサムでイケメンな写真がいくつかあるんだ。彼は惹きつけるものを持っていたし、彼が望んだようにとても魅力的な性格をしていたよ。」

    バートンの死からまもなく、メタリカは活動続行を決めて新しいベーシストを探し始めた。彼らは数十もの見込みある四弦を使う人物をオーディションしたが、最終的には、それ以前はフロットサム・アンド・ジェットサムでプレイをしていた23歳のアリゾナ州フェニックスのミュージシャン、ジェイソン・ニューステッドに決めた。

    1986年11月の最初の週に『Master Of Puppets』はメタリカのレコードで初のゴールド・ディスクとなった。それ以降、アメリカだけで600万枚以上を売り上げることとなった。その同じ週、1986年11月8日にメタリカは「Damage Inc.」ツアーを再開した。それはニューステッドにとって初めての公式のショーとなった。「クリフは芸術的なアプローチを持っていた一方、ジェイソンはとてもテクニカルだった。彼は完璧に演奏していたよ。クリフはもっと音楽的だった。」ラスムッセンはそう語る。

    2016-metallica

    ニューステッドは2001年までバンドに在籍した。彼の在籍中、バンドは1988年の『...And Justice For All』の「To Live Is To Die」に未使用だったバートンのリフを組み込んだ。2003年、元スイサイダル・テンデンシーズ、オジー・オズボーンのベーシスト、ロバート・トゥルージロが加入。しかし誰がバンドに入ろうとも、ウルリッヒはバートンと過ごした時間を大切にしている。

    ドラマーは言う。「彼についてはたくさんのことを考えるよ。あの編成のサウンドという点であの3枚のレコードで俺たちがやってきたことはとてもユニークなことだった。ジェイソン・ニューステッドに神のご加護を、ロバート・トゥルージロに神のご加護を。彼ら自身とクリフの死からメタリカにもたらしてくれたものに。でもクリフは本当に彼自身がキャラクターだった。それは1ミリも変えられない。ますますそのことは明らかになっているよ。」

    10年前、メタリカは『Master Of Puppets』を創り上げた時のやり方を評価し始めた。メタリカが彼らの最新アルバムである2008年の『Death Magnetic』の曲作りを始めた時、プロデューサーのリック・ルービンが『Master Of Puppets』を制作した頃に聴いていたレコードについて考えるよう求めたのだ。「それを再作成しようとせずとも何か触発されたり影響を受けたりすることができる。」ウルリッヒによると彼はそう言った。(このプロデューサーは先月「彼らと一緒に仕事をする上で主な目標は、彼らにメタリカを再び受け入れさせるということだった」とRollingStoneで語っている。)明らかに触発されたバンドは2006年のヨーロッパツアーで『Master Of Puppets』の完全再現をやることを決めた。それはバンドにとってのターニング・ポイントとなった。

    ウルリッヒはこう語る。「大いに楽しませてもらったよ。俺たちはノスタルジアなことにはちょっと慎重だったんだ。でもやってみたら本当にクールだった。自分たち自身をバックミラーで見ることを許し、過去にやったことについて気分良く感じるのは初めてのことだった。俺たちはいつも繰り返しになることを恐れていたし、ほとんど過去を否定していたと言ってもいい。でもあれは良いと感じたんだ。」

    ハメットが発見したのは、『Master Of Puppets』の伝説がユニークな方法で成長を続けているということだった。「最も驚かされたことは、俺がラジオであのアルバム収録曲の何かを聴いた時に起きた。それ以前、それ以後に生まれたその他全ての音楽の中心に、いまだにあのサウンドがある、どれだけ現代的でモダンなんだって驚いたね。あれには感謝しているよ。あんなことはいつも起きるわけじゃない。」彼はそう言う。

    1988年のLP『...And Justice For All』の共同プロデューサーとしてメタリカと組んだラスムッセンは、『Master Of Puppets』を強奪されて聴くこともままならなかった。文字通りに。「まさか自分で『Master Of Puppets』のCDを持つことになろうとは思わなかったよ。子供たちが私の『Master Of Puppets』を盗んでしまうんだ。ウンザリしたけど、彼らがあれを聴きたいと思うのは気分がいいね。」

    ウルリッヒは今秋に予定されている『Back To The Front』の発売をただただ熱望している。「あれは本当にヤバいよ。著者のマット・テイラーは映画『ジョーズ』についての本を出したんだ。こいつはそのステロイド入り強化版ってわけだ。」

    それどころか、彼はその本、そしてメタリカの他のアーカイヴ・プロジェクトに取り組む体験に感謝している。その時代の写真を再び見て、メタリカがどのようにして今の姿になったのか考える理由ができたからだ。「俺たちはただのガキだった。そして音楽シーンやムーブメントの一部になった。その時、俺たちはその可能性について気づいちゃいなかった。俺はいつもニューヨークやLAのミュージシャンってのは“うまいことやる”ためにバンドに入りたがって、“ロックスター”になって、ビバリーヒルズのでっかい豪邸を買って、女の子をゲットするもんだと思っていた(笑)」彼はそう言って笑う。「俺はそんな戯言を考えていたなんて覚えちゃいない。ただ音楽をやって、ビールを飲んでいたのさ。」

    RollingStone(2016-03-02)

    序盤でカークが語っていた「ライアーズ・ダイス」についてはこちらから。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95_%28%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%29

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします

    関連記事
    メタリカ、リリース30周年を迎えた『Master Of Puppets』を振り返る(前編)
    メタリカ、リリース30周年を迎えた『Master Of Puppets』を振り返る(中編)
    『Master Of Puppets』30周年記念豪華本『Metallica: Back to the Front』のAmazon予約開始
    メタリカ、ブラックアルバム20周年を振り返る(まとめ)
    30周年を記念してメタリカが『Ride The Lightning』を振り返るインタビュー
    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    SNSから一切手を引いて近況が全くわからなかった元メタリカのジェイソン・ニューステッドが昨年12月29日、アメリカのラジオ番組「Ozzy's Boneyard」で電話インタビューに答えていました。インタビュー前日に亡くなったモーターヘッドのレミー・キルミスターとのエピソードを語っています。BLABBERMOUTH.NETさんの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    jasonnewstedfingers

    ―レミー・キルミスターについて

    俺はいくつか素晴らしい本物のレミー体験をしたよ。そんなに長い時間を(レミーと)過ごしたわけじゃないけど、俺たちがやった強烈なヤツは―少なくとも俺にとってだけど、ザ・レミーズをやった時だね。―メタリカが自分たちのことをそう呼んで(レミーの楽曲を演奏して)ロサンゼルスで(レミーの)50歳の誕生日(パーティー)をやったこと。俺たち全員にとって、とても特別なひと時だったと俺は思うよ。


    レミーについて何を言おうか考えていたけど、言葉が出てこないよ。みんな、楽曲や曲のタイトルやそういう意味あるものを引用していたけど、“俺が”だの“俺に”だの“俺の”とかそういうクソみたいなことを言いたくないんだ。俺は本当にそんなことしたくない。でも彼は俺たちの大きな部分を占めていた。俺が関わってきたバンド全てにおいてね。特にピックを使っているベーシストとして、彼はある意味、俺の救世主だった。なぜならみんな俺のことを指で(ベースを)弾くべきだと思っていたけど俺がやらなかったことで、俺はいつも大変な思いをしていたからね。でも彼はこれでいいんだと、俺にとってあの当時とても特別な何かがあった。それこそ彼が俺を感動させてくれたところなんだ。みんながそれぞれ(レミーと)自分たちの話を持っているが、それが俺の直接的な関係だ。それからもちろん、彼はメタリカにバンドとしてもアティテュードの点でもみんなにとって影響を与えた。でもそれが俺の個人的に感銘を受けたところなんだ。

    ―モーターヘッドの楽曲との出会い

    当時ミシガン州のカラマズーにいて、とても小さなレコード店にいくつかのバンドとかそんなものしかなかった。地元のブギーレコード店に廃盤のコーナーがあって、7枚か9枚のレコードがあった。そのうち2枚か3枚がモーターヘッドのレコードだったんだ。俺はいつもあのゴミ溜めにすぐに行ったよ。最初に手に入れたのは『The Goden Years』EPだったと思う。あれには「Stone Dead Forever」と他いくつかの曲が収録されていた。それから1stの『Motorhead』、そしてイギリスからミシガンに『Ace Of Spades』の輸入盤がすぐに出てきたんだ。あの距離感も特別だったよ。遠く離れたところにあったからね。いろんな意味で強烈だった。

    俺は世界と何かしら繋がっていると感じた。そして世界が大きいんだとね。世界は自分が思っているよりも大きいんだと気付かされた。世界は広かったと気付かさせてくれた最初のひとつだったんだ。長い距離を経てやってきたあのレコードのために追加料金を払わなきゃならなかったからね。彼らとレコードはイギリスから真っすぐやってきたってわけさ。


    ―ベーシストとしてのレミーから受けた影響

    俺はいつもリードシンガーでベースを弾くようなヤツになりたかった。俺に起きたことは、俺が指弾きをしていた最初期の頃、ずいぶん長い間指弾きができなくなるほど指にひどい怪我を負ったんだ。それでピック弾きにしなければならなくなった。それで必要に駆られて自分のスタイルを開発したんだ。でも俺はいつもギターアンプで弾いていた。それが当時使えたもの全部だったから。だから俺はギターアンプとピックでもって弾いていたんだ。そんなわけで俺のサウンドはすでにああいう(モーターヘッドのような)ものになっていたんだよ。だからあんな風に(レミーが)レコーディングしていると伝わると、そのことで…俺はちょっと得意気になってたね。彼が出現してすぐに。彼が知らぬところで何かしらの俺の後押しになってくれたんだよ。


    ―レミーとの初めての出会い

    俺が昨晩(レミー逝去の)ニュースを耳にした時、妻と話していた。本当に悲しかったし、少し取り乱していたからね。俺は彼女にメタリカに加入した最初の数か月のことを話したんだ。俺は飛び入りで入って、バンドでツアーを廻って戻った時のことだ。北カリフォルニアにほんの数日戻った。(その時ちょうど)モーターヘッドがバークレーでライブをしていたんだ。(メタリカの他のメンバーは)すでに(レミーとは)旧知で彼はメンバーを知っていた。彼はジェイムズのことをジミーとかそんな風に呼んでいて、(ジェイムズは)嫌がっていたけどね。でも俺はレミーに会えて本当に興奮していた。本当にテンションが上がっていたよ。なにしろ俺のヒーローだったからね。メンバーは「紹介するよ、紹介するよ。」って具合だった。俺たちが後ろに下がると、俺はただ口ごもってしまってね。でも俺は前に進み出て自己紹介をした。「ジェイソン・ニューステッドです。今はメタリカでベースを弾いてます。」と言ったら、彼は「オマエのことは知ってるよ、クソアマ!」ってそんな具合さ(笑)。俺はあの言葉を決して忘れないよ…永遠にね。絶対に忘れないといいな。この話を今から一万年先も気になるヤツに誰にでも話せたらいいのに。「レミーが俺のこと知ってるってよ!」ってね。俺にとってそれだけ大きな出来事だった。それが最初の、物理的なレミーとの出会いさ。彼は俺を抱きしめてくれた。40秒間彼の腕のなかさ。彼のハートのなかと言うべきかな、そんな感じだ。確かにあの瞬間、俺のハートのなかに彼がいたんだ。

    BLABBERMOUTH.NETより(2016-01-20)

    ジェイソンの熱いレミー愛を感じます。ジェイソン自身の近況も知りたいところですが、とりあえず元気そうで何よりです。

    newsted_cd
    Heavy Metal Music / NEWSTED


    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします

    関連記事
    モーターヘッドのレミー・キルミスター死去。メタリカから追悼メッセージ。

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章6回目。ジェイソン・ニューステッドの経歴とメタリカとしてのデビューライヴについて。有志英訳を管理人拙訳にてご紹介。

    metallica1986

    ジェイソンは当初、慎ましやかな新しい家としてリハーサルルームで「Jeppe on the Mountain」(訳注:17〜18世紀のデンマークの劇作家ルズヴィ・ホルベアによって書かれた喜劇)のように寝起きすることに満足していた。1年前、フェニックスの州立劇場でメタリカがコンサートを行った際、彼は最前列近くに立って友人とモッシュピットで暴れていた。それが今やバンドと共に日本に旅立とうとしているなんて!

    間違いなくジェイソンはただの熱心なファンではなかった。とても音楽に没頭していたし、キッチリ練習を重ねていたし、バンドを組む経験もしていた。実際に彼はフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam And Jetsam)で作曲と作詞の両面で立役者となっていたのである。それは間違いなくラーズ・ウルリッヒのベストスタイルであった。ラーズもまたプロモーター、出演交渉担当者、その他もろもろの役割を務めていたのだから。

    ジェイソンが音楽や新しいバンドのためにやってきたことは、彼自身の非常に本格的な音楽との関わりによってなされてきたことだった。ジェイソン・ニューステッド(ミシガン州バトルクリーク出身1963年3月4日生まれ)はミシガン州の馬の農場で育った。その場所は音楽を演奏する上で大きな役割を果たすこととなる。ニューステッド家は音楽をよく聴き、地元の劇場でよくミュージカルを観に行く家庭だった。

    ジェイソンは学校でサックスを吹き始め、その学校でロックとも出会った。彼が初めてベースとアンプを手にしたのは13歳で、初めてレッスンを受けたのは16歳の時である。ジェイソンの兄弟も音楽を演奏していたが、そのほとんどがミシガン地域では重要な遺産と伝統であるモータウン・ミュージックだった。

    ジェイソンが10代の頃、ミシガン州カラマズーに引越してから、ヘヴィメタルが彼の耳を捕らえ始めるようになった。当時のほとんどの若者と同様、キッスに強く惹かれていった。ジェイソンの初めての「バンド」は、ただキッスをプレイする4人の若者で構成されていた。数年後、彼は気がつくとテッド・ニュージェント、AC/DC、そして当然キッスといったパーティーロックを演奏していた。バンドの名前が家で叫ばれることはなかったが、我々はこう呼んでいる。ギャングスター(Gangster)だ。

    ギャングスターのリーダー、ティム・ヘルムリンを手本として、ジェイソンはロックの楽しさを経験したいと決めた。ヘルムリンとバンを借りて出発した。この旅の最終的なゴールはロサンゼルスだったが、ジェイソンは天使とグラムロックの街へとドライブを行うことを途中でやめ、結局フェニックスに落ち着いた。

    10月下旬のことだったが、ミシガン出身のフェニックスに落ち着いた少年は頬に熱い砂漠の風を感じていた。街で何人かの若い仲間に出会うことも出来た。ジェイソンは大したお金も持っていなかったが、サンドイッチのお店で仕事をみつける。そしてすぐにドラマーのケリー・デヴィッド・スミスと共にパラドックス(Paradox)というバンドに入る。しかしそれも真剣なものではなく、そのハチャメチャにスウィングしていたグループは、新しいバンド、フロットサム・アンド・ジェットサムに見いだされた。そしてジェイソンはケリーと共にスコッツデールに移り住んだ。(フェニックスでも最も裕福な層が住み、テニスやゴルフ場で知られる。さらにアリス・クーパー、ロブ・ハルフォード、そしてあのデイヴ・ムステインといったハードロックの住人がいることでも知られている。)

    ジェイソンは、フロットサム・アンド・ジェットサムとしての活動はブライアン・スレイゲルのメタル・ブレイド・レコーズからアルバム『Doomsday for the Deceiver』(1986)をリリースして終わった。フロットサム・アンド・ジェットサムで最後のギグをハロウィンに行い、その数週間後、カリフォルニア州レセダ・カントリークラブで300人を前にバンドの忠実な友人であるメタル・チャーチというサポートバンド付きでメタリカとしてデビューしたのである。

    その夜のカントリークラブでのメタリカは緊張で張り詰めていた。もちろん、特にジェイソン・ニューステッドにとっては。実際、ジェイソンには重要かつ命運を左右するテストが残されていた。技術的にもパフォーマンスに関しても、両面伴ったライヴを行えるのかと。(必要なことは)昔から激しいバンドの崇拝者であり、ファンでさえあった楽曲のタイトなビートを保つだけではなかった。クリフ・バートンはステージ上では真の怪物であったし、ほとんどの点でクリフが優れていることをジェイソンは知っていた。彼は1年半前にフェニックスの州立劇場でのショーに行き、クリフがショーを引っ張っているのを目にしてさえいたのだ。

    クラブに詰めかけた300人のうち、ブライアン・スレイゲルも間違いなく胸のつかえを抱えていた。彼は有望なバンドのひとつのリーダーをヘッドハントしたのだ。だからこそジェイソンはわざわざより良いとされるメタリカと共にしたいと思ったのである。

    「ジェイソンは私の生涯見てきた人物のなかでも最も神経質な方だった。」スレイゲルはそう語る。「彼はおびえていた。これは彼のオーディションだった。彼はバンドにいたが、私はこれが彼が充分に足るかを知るための通過しなければならない最後のテストなんだと思った。」(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    それはバンドもほぼ間違いなくわかっていた。ラーズはこの次のメタリカファンクラブ会員に向けたニュースレターのなかで、このショー全体の雰囲気について言い表していた。

    「このショーを通じた雰囲気は、俺たちみんなクソ緊張していたってこと。でもエネルギーに関しては、このギグはこれまでやってきたなかでも最も楽しいものがあったよ。」

    数日後、メタリカはアナハイムの小さなクラブ、イザベルズ(Jezabelle's)でも同じようにプレイした。このときはゲストにデンマークからフレミング・ラスムッセンが来ていた。

    「私が事故以来バンドを観たのは初めてだった。ショーはそれはそれはクールだったね。」フレミングは熱を帯びて17年後にそう振り返った。

    メタリカにはまだ熱意の余地があったが、バンドを続けていくことを余儀なくされた過程でのことである。カウンセリングもセラピーも無かったことに加えて、いつも音楽表現が付いて廻っていた。そして今度、メタリカは日本へのロードに向かう。「Damage Inc.」ツアーは再びトラックに戻り、スウェーデンの悲劇からわずか6週間。しかしこれはバンドに強制されたものではなかった。それは彼らが望んだことだったのだ。

    ピーター・メンチは9月27日早朝、サウンドエンジニアのビッグ・ミックの電話で起こされた。こう説明する。「間違いなく私はそのメッセージに愕然としたよ。コペンハーゲン行きの飛行機を取り、スウェーデンまで運転した。恐ろしいことだったが、このような状況下でどう振舞うべきか話したんだ。プレスリリースを発行し、それから新しいベーシストを探した。今振り返ると、1年間は議論しているかもしれないね。でもバスに乗っていた誰かがそうすべきと私に言ったとは思わない。サウンドエンジニアのミックでさえ、私に言ったことは我々がすぐにツアーに戻っていなかったことへの後悔だった。我々は葬儀に行って、なすべきことをした。そしてバンドをやめようとはしなかった。それが全てだ。」ピーター・メンチはそう語った。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

    メタリカとしての初コンサートを迎えたジェイソンを写した写真など。

    http://eddiemalluk.photoshelter.com/gallery/METALLICA-1985-1986/G0000qc96ffJ8u0M/C0000toV.S5Y1s2k

    そして、ジェイソン加入から2回目のショーとなったアナハイムのイザベルズ(Jezabelle's)の公演もブート映像が存在しており、ほぼYouTubeで視聴可能です。音響システムのトラブルに見舞われていますが、とにかく凄まじいエネルギー量です。


    次回はメタリカ初来日の様子など。

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(2)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(3)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(4)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(5)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(6)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(7)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(8)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(3)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(4)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(5)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(6)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(3)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(4)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(5)
    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇
    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(3)
    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(4)
    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(5)

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    2015年8月28日の17:10からCS音楽チャンネル「ミュージック・エア」でメタリカのスタジオライヴが放送されるとのこと。

    james_BBC_1996

    以下、ミュージック・エアのサイトより引用。
    メタリカ:スタジオ・ライヴ

    史上最も成功を収めたヘヴィ・メタル・バンド、メタリカのスタジオ・ライヴ集をお送りします。全米初登場1位を記録した96年作品『Lord』よりシングル・カットされた「Mama Said」と「King Nothing」を含む3曲を披露!

    放映時間
    2015/08/28 17:10

    オンエア曲目リスト
    Wasting My Hate
    King Nothing
    Mama Said


    MusicAir(2015-07-15)

    曲目とスタジオライヴであることしか書かれていませんが、おそらくジェイソン・ニューステッド在籍時代である1996年11月にBBCで放映された音楽番組『Later... with Jools Holland』(邦題:ジュールズ倶楽部)と思われます。

    参考リンク
    http://www.bbc.co.uk/programmes/p005lp5f

    演奏部分はYouTubeにも上がっていますが、TVでしっかり観たい方はぜひ。

    Wasting My Hate


    King Nothing


    Mama Said


    メタ地獄さん情報ありがとうございます。

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ジェイムズ・ヘットフィールドのインタビューをNHKが放映予定。
    MTVでメタリカのライヴを放送していた件。
    サマーソニック2013、WOWOWで放送決定

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章5回目。ジェイソン・ニューステッド加入にいたるお話。有志英訳を管理人拙訳にて。

    ラーズがつま先を負傷していたため、彼らは新しい曲のリハーサルができなかった。そこで葬儀後の数週間、ラーズはもっぱら公式お気に入りツール、電話を使うこととなった。昔なじみのヘッドバンガー友だちやクリフのメタリカ加入を手助けした男、ブライアン・スレイゲルに電話をかけていたのだ。メタリカが急速にキャリアの勢いを増しているあいだ、ブライアンは自身の情熱を傾けたプロジェクトであるメタル・ブレイド・レコーズ(Metal Blade Records)というレコードレーベルをゆっくりだが着実に進展させていた。スレイゲルは最新の有望なアメリカのメタルバンドと別の『Metal Massacre』のコンピレーション盤をこの1年前にリリースしている。そのバンドのなかにはアリゾナ州フェニックス出身のフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam And Jetsam)がいた。ブライアンはこのバンドのベーシスト、ジェイソン・ニューステッドがメタリカにふさわしい男かもしれないと考えていた。

    ジェイソン自身が売り込んでいるバンドからヘッドハントすることにスレイゲルは少し悩んだが、ジェイソンがメタリカの大ファンであることを知っていたし、時宜を得たといってメタリカに接触を図ろうとするような残忍な考えはジェイソンにはおそらくなかっただろう。そして、もちろんラーズはスレイゲルの昔なじみの仲間であった。ラーズは、特にこのような状況下で彼の助けを必要としていた。

    もちろんジェイソンはスレイゲルの言葉に大喜びだった。その後すぐにラーズは電話に出て、このジェイソンという男がオーディションのためにサンフランシスコに飛んでくる日に合意した。

    ジェイソンは人生を賭けたオーディションに集中して準備した。ガレージで何時間もメタリカの全曲を練習した。車でフェニックス・スカイハーバー国際空港へ行き、飛行機で天国のようにヘヴィな目的地、メタリカのリハーサルルームに向かうまで。

    短くも集中したその期間で、40人以上の有望なベーシストたちがメタリカのオーディションを受けた。そのうち2人だけまた戻ってくるよう言われた。その1人が充分に準備を重ね、意欲充分なジェイソン・ニューステッドだった。

    この2次オーディションの後、メタリカの3人のメンバーはジェイソンをサンフランシスコ、ダウンタウンにある伝説的なビストロバー、トミーズ・ジョイント(Tommy's Joynt)に連れて行った。しばらくして、ラーズ、カーク、ジェイムズはみなトイレにたち、用を足してジェイソンについて評議した。ラーズの心はすでに決まっていた。ジェイソンは「クール」だ。だが他のメンバーはどうなのか?ジェイムズとカークは完全に同意した。ジェイソンこそがその任にふさわしいと。

    彼らがテーブルに戻ると、ラーズはジェイソンをみつめて尋ねた。「仕事が欲しいか?」わずかに緊張し不安だったジェイソンは無意識のうちに、ラーズ、カーク、ジェイムズ、そしてこの小さなバーで近くのテーブルにいた全ての客の耳をつんざくデカイ雄叫びを上げてその言葉に反応した。ジェイソン・ニューステッドはメタリカに加入した。メタリカはベーシストをみつけ、アルコホリカは新しいビール愛好家の兄弟をみつけたのだ。サンフランシスコで最も品揃え豊富な場所のひとつと認められるこの店ほど彼ら4人がいた場所としてふさわしいものはないだろう。

    トミーズ・ジョイントで長い夜を過ごしたが、新ヴァージョンのメタリカは、その翌日からライヴ・セットのリハーサルを行っていた。かの日本公演の日程はラーズ、ジェイムズ、カークにとって精神的な救いとなっていた。彼らは緊急の課題の真っ只中だったが、バンドはバートンの家族について忘れていなかった。日本へ出発する前夜に、ジェイソン・ニューステッドと来たるツアーのセットリストを弾いていたリハーサルルームをバートン夫人(訳注:クリフ・バートンの母)が訪ねてきた。トーベン・ウルリッヒもそこにいた。バンドが曲を演奏しているあいだ、トーベンは彼女をハグしていた。親として彼ら2人は、子供たちが大きく広がった世界を旅するなかで、子供たちのパフォーマンスと無事を心配することが自然と染み付いていた。トーベンが語ったように、彼とラーズの母ローンの心配は、ラーズがテニスアカデミーをあきらめて、このようにテニスのキャリアをドラムに変えたことではない。彼らの心配事は「長いリハーサルからの帰途にラーズが運転する車が溝に落ちること」のようなものだった。

    今、そのような心配事がバートン夫人にとって実際に起きた悪夢になってしまった。彼女が受けた最大の犠牲は人生二度目で(クリフが13歳の時、3歳違いの兄スコット・デヴィッドが亡くなっている)数週間前に24歳の息子を埋葬したが、彼女はこうして立ち、リハーサルルームで割れんばかりに鳴っている亡き息子とその友人の曲を聴いていた。リハーサルが終わると、バートン夫人はメンバーに歩み寄り、ジェイソンとハグをした。それによってメタリカの仕事は彼女の静かで思いやりのある祝福を受けたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    管理人は昨年、FearFestEvilで渡米した際に文中で登場するトミーズ・ジョイントを訪れることができました。夜にはいっそう目立つ外観。
    TommysJoynt

    たしかにビールの種類が豊富で、Alcoholicaにとってはこれ以上ないお店です。
    TommysJoynt_Beer

    ジェイソンがフロットサム・アンド・ジェットサムで参加した『Metal Massacre VII』はこちらから。
    metalmassacre7
    Metal Massacre VII


    01. Impulse / Heretic
    02. Sentinel Beast / Sentinel Beast
    03. I Live, You Die / Flotsam and Jetsam
    04. Rented Heat / Krank
    05. Backstabber / Mad Man
    06. Widow's Walk / Detente
    07. High 'n' Mighty / Commander
    08. In the Blood of Virgins / Juggernaut
    09. Reich of Torture / Cryptic Slaughter
    10. The Omen / Have Mercy
    11. The Awakening / Titanic
    12. Troubled Ways / Lost Horizon

    Flotsam And Jetsamは9:37から。


    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(2)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(3)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(4)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(5)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(6)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(7)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(8)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(3)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(4)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(5)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(6)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(3)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(4)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(5)
    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇
    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(3)
    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(4)

    このページのトップヘ