メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:クリフ・バーンスタイン

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    メタリカのマネジメント、Qプライムのクリフ・バーンスタインが、ストリーミングによる音楽業界への影響やアーティストを売り出す手段などについて語っていました。管理人拙訳にてご紹介。

    qprime_2
    メタリカのマネージャー、ピーター・メンチ(左)とクリフ・バーンスタイン(右)
    −ストリーミングによってあなたがアーティストのために働くやり方にどんな影響がありましたか?

    間違いなく、我々は統計的なことを気にしているし、とても負けず嫌いだ。No.1のレコードを持ち、ラジオでたくさん曲がかかり、最大限の観衆に届けたいと思うのと同じように、できるだけ多くのストリームを生み、できるだけ多くのプレイリストを作成している。ダウンロード販売絶頂の頃、我々はiTunesと仕事をしていた。そして今はApple MusicとSpotifyで同じことをしている。媒体は変わるかもしれないが、同じアプローチを取っているよ。

    私はビニール盤、8トラック、カセット、CD、ダウンロード、そして今はストリーミングと多くのフォーマットを経るほど歳を取った。そしていつも同じことをやっているのだ。素晴らしい才能をみつけて、それを扱うレーベルをみつけ、ツアーをたくさんやって、できる限りの最高のレコードを作るよう後押しする。35年間これらのことを全てやってきた。(音楽を)届ける方法が何であるかに関わらず、これからも続けるだろう。

    ストリーミングでは、いつでもたいていは最もストリームされた50曲のうち49曲はヒップホップから成っている。大げさかもしれないが、盛りすぎでもない。でもSpotifyだけで約10億以上のストリームを誇る8組のアーティストがいる。それはつまり、我々が担当するバンドはたくさんの曲が好きな大ファンを抱えているというかなり良い指標でもある。ヒップホップのアーティストはいないが、我々はそれで満足だ。

    覚えておいて欲しい。アメリカは我々が担当するアーティストの世界的な売上げのわずか3分の1に過ぎない。例えば、ラテンアメリカには実際にレコードを購入したことが一度もなく、ストリームで聴いている人たちがたくさんいるんだ。


    −あなた方が担当するアーティストは公平なストリーミング収入を得ていると思いますか?

    もちろん「公平」は客観的な指標ではない。ある人の「公平」は別の人からしたら「不公平」だ。メジャーレーベルと契約を結んだアーティストの多くは、ストリーミングがたくさんの契約のもとでシングルトラックの売上げと同じように扱われているために実際には公平な分け前を得ていないと言えるだろう。

    パイ全体(を見直すこと)から始めなければならない。ストリーミング会社によって生み出された収入を取り出し、そこからその分け前がレーベルに払い出される。その割合はとても高かった。でもその割合を3%程度カットしたとしても膨大な金額になる可能性がある。我々が物理的な製品で長年に渡って抱えてきた卸売価格や小売価格に相当する比率からすれば、総額は公平だと言える。デジタルダウンロードでも売上高のほぼ同じ割合がレーベルに行っていたんだ。

    しかしストリーミングのビジネスモデルは、Spotifyがまだ十分な利益を上げていないために、その全てをレーベルに払っても本質的に大儲けとはいかない。だからストリーミング会社にとってそれは公平だろうか?SpotifyはApple Musicと同じく不公平だと言うかもしれない。私の見解では、アーティストがSpotifyからレーベルに入ってくる収益の15%しか得られないのであれば、公平ではないように思える。何があるべき割合なのか正確なところは私にもわからない。場合によるだろう。あるレーベルはアーティストのためにほとんど全てを行っている。一方で他のアーティストにはほとんど何もやっていない。事実、音楽界がストリーミングに完全に基づいているなら、レーベルは製造と流通のコストがほとんどかからず、アーティストが15%を得て、残りの85%をレーベルが得ても私からしたら公平ではないように思える。


    −ツアーは、特にロックバンドにとって、演者の成功のために重要な役割を担ってきました。しかし、自身のツアーを行うか、フェスティバルの出演回数を増やしていくか、ラジオ局コンサートを行うか、いずれかを選択しなければならないとしたら、あなた方が担当するアーティストにとって最善のものをどのように把握するのでしょうか?

    (笑)人生は複雑だね。我々は歳を取っているので、そこまで単純にはいかない。我々を手助けする多くの人材を雇っているが、パートナーのピーター・メンチと私は、いまだにここで最終的な決定を下すことに主要な責任を担っている。我々はこれまで以上に多くの策を練る必要がある。全ての可能性をはかり知る必要があるし、それぞれ個々のアーティストにとって正しいことを各段階で実行する必要があるんだ。それは時にオファーを断らなければならないことを意味する。それは一部の人たちを不幸にさせてしまうだろうが、アーティストが行くべき場所へのビジョンを維持しなければならない。その時にはたとえどんな金銭的対価だろうと貫き通さなければならない。

    大局的・長期的に考えると、フェスティバルに出演することで、3つか4つの違う都市でヘッドライナーを務めることができなくなるかもしれないから、時にはフェスティバルの良い日取りを自ら進んで諦める必要がある。

    統計的には、少なくともロックミュージックでは、この50年の間のどんな時よりもヘッドライナーは少なくなっている。もしそうであるならば、なぜなのか訊ねる必要がある。ロックは以前ほど人気がなくなったのか?そうなのかもしれない。でもフェスティバルに参加することによって、人々が特定のバンドを見に来るのではなく、単に(フェスという)環境そのものの一員になりに来ているのも事実かもしれない。フェスティバルやラジオショーの一員として、さまざまなアーティストのヒット曲を聴くだけで楽しい時間を過ごすために来ている場合、そこからどのようにファンになってもらえるだろうか?どうやってファン層を構築していくだろうか?これらは全て主観的な質問であり、それぞれに答える新しいアプローチを考え出す必要があるね。


    −もしあなたがツアーをブッキングしなければならない場合、特定の市場で新たなオンエアをフルに生かすためにどのような日取りをブッキングするのでしょうか?

    それはアーティストによるよ。メタリカ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ミューズがどれだけ前もってブッキングされているか話そうか。彼らの観衆はどこにでもいる。いわば「ユビキタス」的な存在だ。彼らのために前もって何年も前からブッキングしなければならない。利用可能な建物やスタジアムはたくさんあるけど、同時にスポーツチームや他の主要なイベントでもブッキングされるからね。

    でも比較的新しいイギリスのバンド、フォールズ(Foals)ぐらいの知名度ならば、より短期間でもっとターゲットを絞り込んだ小さな会場をブッキングすることができる。半年や1年前に前もってブッキングする必要はない。フォールズはすでに世界的な存在になっているから、イギリス、アメリカ、オーストラリア、ヨーロッパのフェスでやる期間を決めなければならない。

    腰を据えて、1年から18カ月前までの期間を把握しなければならない。でも必ずしもアメリカの各都市で先にブッキングする必要はない。我々にはまだもっと多くのオンエアをしている市場にブッキングするという贅沢がある。ブッキング過程における佳境はプロモーションのチームが我々に意見を伝えた後なんだ。彼らは数と統計を見て、特定の市場における観衆がそのアーティストや曲について実際にどう感じているのか、そのアーティストがラジオ番組のコアになれるのかといった定性的な情報を提供してくれる。

    我々が誰かを連れてライヴをやるとなったら、その全てを考慮に入れる。2ヶ月で35回公演しか行えないかもしれないが、選択肢は60から90の市場のなかからだ。そこから最良の35の市場を考慮する。低いランクの市場を含むかもしれないが、その市場においてバンドの観客動員の可能性をより多く持ったところをね。聴衆に届くのに早すぎるってことはない。バンドとともに成長できるように早めにバンドを観て欲しい。そしてそうするには、バンドを早く自分の流れに乗せて、ある程度の関心を抱かせる必要があるね。


    All Access(2018-01-30)
    何年も前からブッキングするということですが、2019年と噂されるメタリカの来日公演も具体的に動いているのでしょうか。。。

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    メタリカのマネージャー、ピーター・メンチ「新世代のメタリカ、出てきてくれ」

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    11月5日にニューヨークで行われたインタビューでラーズ・ウルリッヒが90年代のグランジ・ブームやマスター音源を自分たちの手に取り戻したことについて語っていました。管理人拙訳にてご紹介。

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    −90年代のグランジのブームが与えたメタリカへの影響について、ストレスに感じたことはあるのか

    いいや、何よりも刺激的だったよ。メタリカで良いところって、いつも完璧に自立していると感じるところなんだ。俺たちが何かに属していると感じたことはない。だからその良いところっていうのは、何にも属していると感じたことがないってことで、他で何が起きようとも、まだ自分たちの世界のなかでちょっと何かが終わったと感じるだけ。それでそういう(周りで起きていた)ものが霧散したとき、俺たちはその一部になることはなかった。俺たちは今こうして自分たちのことをやっている。

    アリス・イン・チェインズが大好きで、最初の2枚のレコードは91年から92年のあいだ、俺のCDプレイヤーから離れることはなかったね。1992年に俺が聴いていたのはアルバム『Dirt』だけだったと思うよ。ニルヴァーナも大好きだし、サウンドガーデンの最初の数枚のアルバムは触発させるものがあった。だからそういうものに対して脅威とは
    全く感じていなかったよ。

    alice-in-chains-dirt
    Dirt


    −自立的というテーマからマスターテープの所有権についての重要性を語るラーズ

    (メタリカのマネージャー)クリフ(・バーンスタイン)とピーター(・メンチ)は最初の20年のキャリアの終わりにおいて主な報酬がマスター音源だと予見するには十分なほど賢かった。つまりマスター音源、レコーディング・テープ、レコードだ。

    自分たちのレコードの所有権を得るってことが、みんなにはちょっと奇妙に聞こえるのもわかるよ。「じゃあ前は誰が所有してたんだ?」ってね。それはレコード会社のものなんだ。レコード会社は基本的に・・・レコードを制作するためのお金を支払ってレコードの権利を所有し、そこから永遠に所有し続ける。だからピーターとクリフは言ったんだ。「よし、マスター音源を自分たちの手に取り戻そう」当時は(マスター音源を持っているアーティストは)本当に誰もいなかったんだ。(ブルース・)スプリングスティーンとか、プリンスとか、そのレベルのアーティストぐらいなものだ。でもそれが俺たちが求めようとしたものだった。

    いや驚いたことに、俺たちはマスター音源を取り戻すことができた。だからメタリカが5年だか7年前に自分たちのレコード会社となったとき、突然俺たちのビジネスモデル全体が変わったんだ。今、全てを自分たちで実行しなければならないからね。

    だから俺たちは北カリフォルニアに拠点を置いて、そこでこれまで以上に管理してくれるたくさんの人たちがいて、HQと呼んでいる傘下に素晴らしい人たちが住んでいる。それが俺たちのレコード会社であり、ツアーやマネジメントのスタッフがいる。俺たちのマネージャーのQプライムはここニューヨークに大きなオフィスを持っている。LAにもスタッフがいるよ。

    ビジネスの観点から、全てのやり方で貫かれているものがある。それはつまり「自立性」ってこと。俺たちは自由で自立的であろうとしている。メタリカにとって、そして自分たちの進む道にとって、何が正しいかってこと以外のことで意思決定をするなんてないんだ。

    BLABBERMOUTH.NET(2017-11-14)
    UltimateGuitar(2017-11-17)

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    ラーズ・ウルリッヒ「5年後には次のアルバム制作に没頭できていればいいなと思っている」

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章4回目。クリフが亡くなった後、バンドの継続を決断するメタリカ。有志英訳を管理人拙訳にて。

    ジェイムズとカークが酒に酔い、悲しみ、絶望、そして怒りを叫んでいた頃、ラーズは静かにショックと痛み、そして想像を絶する事態に対処しようとしていた。ゆっくりと容赦なく重苦しい時間が9月の日々を暗く覆っていくなか、ラーズは会ったばかりの女性、デビーについて考えていた。

    「クリフが死ぬ2週間前に、ロンドンのナイトクラブで彼女に出会った。彼女はいつも一緒にいたんだ。」ラーズはそう語る。「彼女は最悪であり最高だった。俺はそれまで深夜のお出かけに本当についてくるような女の子に出会ったことはなかったんだ。彼女は完全に夜型人間だったし、ルートビアやら何やらよく飲んでいた。だから彼女はえらく調子がよかった。事故の前、イギリスのツアーのあいだ、何回か俺のことを訪ねてきた。あのひどい事故が起きた後、彼女は叔父のヨルゲンと叔母のボーディルと数日間滞在していたコペンハーゲンまでやってきて、一緒にいてくれたんだ。それで俺がアメリカに戻る時、デビーに一緒に来てくれるか尋ねたんだ。なぜなら・・・彼女が必要だったからね。」

    暗闇の中の一筋の光だったのだろうか?ラーズは確かにデビーをサンフランシスコに連れて行った。近くのノース・ビーチの雰囲気漂う、サンフランシスコのストックトン・ストリートのアパートにこのカップルは移り住んだのだ。そしてジェイムズも同時期に近くに越してきた。

    ラーズ、ジェイムズ、カークが直面したような個人的な難局に、誰もが生まれつき対処できるようにはできていない。彼らは23歳の少年で、(バンドとして)始動したばかりのあいだは厳しく困難な状況ではあったが、このツアーに向けた最初のリハーサルの日から大抵は大いに楽しいものだった。バンドは芸術的に、創造的に、かつ商業的に彼らのやり方でここまでやってきた。バス事故は単純に存在そのものへの問いを投げかけられた。メタリカを続ける価値はあるのだろうか?と。

    Qプライムのパートナー、バーンスタインとメンチはそういった悲劇を伴う経験を実際に味わっていた。ピーター・メンチは1980年2月の破滅的な朝、AC/DCと働いていた。それはリード・シンガーのボン・スコットがロンドンで夜に深酒をした後、車のバックシートでアルコール中毒で死んだ時であった。また1984年の大晦日には(デフ・レパードの)ドラマー、リック・アレンが交通事故に遭い、前述の通り片腕を失うという事態も経験していた。AC/DCとデフ・レパードはすぐに再結成をし、大きな成功を収めた。そのうえ、(AC/DCの場合)続いて出したのが『Back in Black』という名盤である。Qプライムのパートナーたちの考えは、メタリカにも至急同じことをしてもらうことだった。

    クリフの葬儀の前日、ジェイムズとラーズとカークはサンフランシスコでバーンスタインとメンチに会った。このミーティングは、メタリカを続けていくべきかどうかよりも彼らがどう前に進んでいくのかについて話し合われた。この感情的で苛立たしい期間の真っ只中で、スケジュールとタイムテーブルのプログラミングにあてたラーズの焦点はバンドを助けることになる。こうしてラーズとメタリカは、忠誠心が極めて強いファンがいる、伝統的にヘヴィメタルが愛されている国、日本で初めてのツアーのブッキングを(とりやめずに)継続することにした。未来都市、東京の渋谷公会堂で初めてのコンサートまで半月もなかったが、ツアースケジュールを変えることなく、彼らは新ベーシスト問題に対する明確な期限を持つことにもなった。

    クリフ・バートンという傑物が埋葬される前日に彼の代わりについて考えるというのは皮肉に見えるかもしれない。しかし残されたメタリカの3人のメンバーにとって、「メタリカ」の話題は、単にバンドとして生き残ることだけでなく、彼ら自身の精神的健康を保つことでもあったのだ。バンドは彼らの人生そのものであり、クリフの存在も同様だ。そしてこの向こう見ずな男は同じ状況になったら一番にメンバーを励まし元気付けたことだろう。

    ラーズが直後にマスコミに説明したように。「俺はクリフのことをわかっている。バンドのメンバーの誰よりもクリフが、まず俺たちに蹴りをいれるだろうし、俺たちが手をつかねて何もしない状態でいることを彼は望まないだろう。それが彼が望んでいることだと思う。」

    ラーズは、騒々しいヘヴィメタル・トリビュートであるバンドの1stアルバムについて言及していたのかもしれない。アルバムA面の終わりには、歪んで生々しいにも関わらず、卓越したクリフ・バートンのベースソロ(Anesthesia (Pulling Teeth))が超高速曲「Whiplash」の前に収録されていた。「Whiplash」の最後の節は、初々しい83年の春、そして悲劇的な86年秋当時に、バンドがどうであったかについて説いていた。

    The show is through, the metal's gone, it's time to hit the road
    Another town, another gig, again we will explode
    Hotel rooms and motorways, life out here is raw
    But we'll never stop, we'll never quit, 'cause we're Metallica

    ショーが終わってメタルは去った 旅立つ時が来たようだ
    他の場所 他のギグで また爆発してやる
    ホテルとハイウェイの繰り返し 荒れ果てた暮らし
    でも止まらねぇ やめやしねぇ だって俺たちはメタリカだから


    クリフの葬儀は10月7日に執り行われた。まずフォーマルな葬儀が行われ、数日後に音楽の探求のために使っていた彼の愛した場所、マックスウェル・ランチで非公式な集まりが催された。クリフの遺灰が山盛りに置かれ、出席者がそれぞれ遺灰を一掴み取って、彼に言い残したことを言いながらマックスウェル・ランチに撒いた。

    クリフ・バートンの後継者を見つけるのは簡単なことではない。どんなに音楽的能力と人間力が素晴らしくとも、クリフ・バートンの後継者となるのは確かに簡単なことではなかっただろう。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    ラーズが救いを求めたデビーという存在。下世話ながらデビーとされる写真を2つ(真偽不明)。後にラーズは、このデビーと結婚することになります。

    debbie-ulrich-pictures
    Metal Injectionより

    lars-ulrich-debbie-ulrich
    cinemarxより

    次の項は後任ベーシスト、ジェイソン・ニューステッドの登場です。続きはしばらくお待ちください。

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    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、『Master Of Puppets』の完成とその後の悲劇(3)

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    ラーズ・ウルリッヒ伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の続き、第4章完結編です。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。今回はメタリカの活躍を支えることとなるQプライムとの出会いについて。(読み方がわからない地名等はアルファベット表記のままにしています。)

    エレクトラ・レコードとの交渉に先立ち、ラーズとバンドは自分たちのキャリアの中で重要な仲間と関わっていた。夏の間、ラーズの友人であり『Kerrang!』の記者でもあるシャビエル・ラッセルは、ラーズにあのピーター・メンチがラーズとバンドに連絡を取りたがっているとロンドンで知らせていた。このピーター・メンチという男はQプライムのロンドン支社長だとわかった。メンチと彼の仲間であるニューヨーク本社の代表、クリフ・バーンスタインはある日、ロンドン有数のヘヴィメタル・レコードショップであるシェイズ・レコードに行くと、そこにあったメタリカのTシャツ、ブートレグ、シングルの膨大なセレクションに圧倒されてしまった。2人のマネージャーは『Kill 'Em All』からメタリカを観続けていたが、その巨大な可能性を感じたのはそこからだった。彼らはその可能性を実現しなければならない。一時もそれを疑うことはなかった。

    ラーズはピーター・メンチに連絡を取り、クリフ・バーンスタインと共にニュージャージー州で会う約束をした。ローズランドのコンサートまで、メタリカはニュージャージー州にいるジョニーZの友人の家に滞在していたのだ。だからラーズとバンドにとってニュージャージー州ホーボーケンへの小旅行はとても容易いことだった。ここはフランク・シナトラが最初にスターダムの夢を見た地区であり、今この小さな、グレーのあごひげをたくわえた、機を見るに敏なクリフ・バーンスタインとの会合後にメタリカが自らを方向付けることとなる地区でもあった。

    ラーズは、バーンスタインがNWOBHMのお気に入りバンド、デフ・レパードのマネージャーであったのに、大富豪の住む郊外ではなく「たわいのないスラム街」に住んでいることに驚いた。しかし、バーンスタインの家はQプライムとメタリカとの間の交渉をさらに進める決定要因ではなかった。決定的な要因は彼らとの間にケミストリーがあり、戦略的なビジョンにおいて双方とも合意したことだった。しかし、メタリカが正式なコラボレーションを始める前、つまり、新しいもっと実入りの良いレコード契約へとジャンプする前に、ジョニーZおよびクレイズド・マネージメントとメタリカとのレコード契約上の法的な決着をつけなければならなかった。

    ラーズ・ウルリッヒはこう説明する。「俺たちはメガフォースとジョニーZに契約で縛られていたから、ちょっと複雑になっていたんだ。俺たちは自由契約じゃなかった。他の契約を得る前に、契約外になっていたんで、84年秋の数ヶ月は俺たちはグレーゾーンにいたんだ。Qプライムがそんな状態を手助けしてくれたんだけど、ジョニーZとの契約が終わる前に俺たちのマネージャーとしては動けなかった。俺たちもポリグラムとか他の興味を持ち始めたレーベルと話をしていた。当時のアメリカあるあるだね。誰かが興味を持つとすぐに、他のところ全部も興味を持つんだ。彼らは他のヤツらが興味を持ったってだけで興味を持つんだよ!」

    最終的にジョニーZはさまざまな契約によって「買収」され、エレクトラとの契約にサインをした。すでに売れ行き好調の『Ride The Lightning』は新しい会社によって再リリースできるようになった。メタリカもマンハッタン7番街にあるQプライムの公式クライアントとなった。

    Qプライムは、すでに経験豊富なマネージャーであったクリフ・バーンスタインとピーター・メンチがパートナーとして、これより2年前に設立された。2人はロック革命期の60年代を10代として過ごし、今や専門的なマネージメントを行っている、ただの音楽ファンであった。しかし、バーンスタインとメンチは高学歴な人物でもある。バーンスタインはペンシルベニア大学で経済学と人口統計学の学位で卒業していた。そして1973年、ニューヨークのレコード会社、マーキュリーで自らのキャリアをスタートさせた。その後、1980年にコンテンポラリー・コミュニケーションズに入社し、ピーター・メンチと出会ったのだ。ピーター・メンチはシカゴ大学で都市研究とマーケティングの学位を持っていた。コンテンポラリー・コミュニケーションズに入る前、メンチはエアロスミスのツアー中の会計士として、1979年のAC/DCのあの『Highway To Hell』ツアーではマネージャーとして働いていた。2人とも同社を1982年に退社し、自らのマネージメント会社、Qプライムを始めたのである。

    スタートから、QプライムはAC/DCとデフ・レパードというハードロックのビッグネームを抱えて安定し、それから1984年、高い見識と忍耐で構築されたであろうメタリカと契約した。(契約に際して)とりわけラーズの耳に響いたことのひとつは『Ride The Lightning』の販売促進のためにメタリカにツアーをたくさんやってもらおうという彼らの考えだった。Qプライムのボスたちは、MTVでビデオを流しまくるという80年代のポップ/ロックネームたちがやってきたように成功要因を増やす道へアクセスするためだけに、急ごしらえのヒット曲を強いたり、ビデオ出演を課したりはしたくないと思っていたのだ。

    そう、メタリカのワールド・ツアーだ。それはQプライムが望んだことだったし、ラーズとメタリカが望んだことでもあった。既に強烈な売上げとなっていた『Ride The Lightning』、そしてメタリカについたエレクトラとQプライムにより、彼らは最大の楽しみであった、もっと良いホテルでのシングルルームという望みさえ叶った。彼らはまずヨーロッパに焦点を当てた。ヨーロッパには後に「スラッシュメタル」と分類される新しいヘヴィメタルに対する観衆がいたのだ。12月11日、ラーズは故郷で初めてのコンサートを行った。1年前に『Kill 'Em All』がリリースされた後、ケン・アンソニーはもう一度エリック・トムセンに話そうとしたが、このデンマークの大手ヘヴィメタル・プロモーターはメタリカにはまだ二の足を踏んでいた。

    「俺はレコードを送ってまでして、エリックと連絡を取って言ったんだ。「今、アンタが聴いているのすげぇだろ、ビッグになりそうだろ!」そしたら彼はただこう答えたよ。「黙れ。なんだこの生半可パンクは!?」ってね。」

    それでもなお、トムセンは経過を見ていた。1年後、彼はメタリカが初めてデンマークで行うショーのブッキングを担当した。

    「あれからメタリカを信じるようになった。」エリック・トムセンはそう語る。「だから私は最近ブライアン・アダムスが218人の観客でコンサートを行った500人収容のSaltlageretじゃなく、約1300人収容のSagaをメタリカのデンマーク初のコンサート会場として押さえたんだ。」

    コペンハーゲンのホヴェドガールドの近く、ヴェスター通りに面したSaga旧映画館はトムセンによって建てられ、別名ETプロモーションのコンサートで、少しオールドスクールなヘヴィメタルたち、アクセプト、サクソン、そしてスコーピオンズといった多くのバンドが使っていた。トムセンは正しかった。まさに正解だ。当時のメタリカの周りのメディアの盛り上がり不足もあって、メタリカのコンサートのチケットがほぼ売り切れたことは本当に驚くべきことだった。全てがアンダーグラウンドの世界で起きたことだった。文字どおり、ヘヴィメタルファンたちがケン・アンソニーのレコード店のアンダーグラウンド(地下フロア)でそのニュースを知ったのだ。

    注目すべき例外はあった。最も優秀な類のジャズとロック愛好家向けのまともで信頼性の高い月刊誌『MM』が1984年12月号でラーズ・ウルリッヒのインタビューを掲載していたのだ。「ライトニングはエネルギーを乗せてやってくる」と題されたインタビューはかろうじて1ページを埋めていた。最初に目を引いたのは−そのタイトルと共に−写真だった。(訳注:コペンハーゲンにある)ノアポート駅に降り立ち、革ジャケットとタイガーズ・オブ・パンタンのTシャツを着て、スポーツマンらしい人懐っこい笑顔を浮かべた若きデンマークの少年がそこにいた。それは2つのメタリカのアルバムで見たものとは全く違っていた。それぞれ、薄い口ひげをした粗野な若者(『Kill 'Em All』)、ドラムの後ろにいるワイルドな男(『Ride The Lightning』)だったのだから。

    インタビューで、ラーズはバンドの成り立ち、テニスのこと、「スラッシュメタル」という狭いサブジャンルの決まりごと、そしてバンドの新しいメジャーレーベルとの契約について詳しく語っている。Sagaで行われる予定のコンサートについても言及した。それにはちゃんとしたわけがあった。ヘレルプの大のメタルファンが初めて自分の故郷でパフォーマンスをするなんてことはこれまでなかったのだ。

    Sagaでのコンサートはユニークで強烈な事件だった。「Fight Fire With Fire」のアコースティックのイントロがショーの進行中に流れるとそこからすぐに長いお楽しみが始まった。その夜の大きな衝撃となったのはクリフが『Kill 'Em All』収録の「Anesthesia (Pulling Teeth)」として知られるベース・ソロを弾いた時だ。筆者も他の多くの人も他のヘヴィメタルバンドのギター・ソロ同様、ギター・ソロだと思い、まさかリード・ベース・ソロだとは思わなかった。しかしメタリカは他のバンドとは違った。クリフ・バートンは確かに他のベーシストとは違った。ベース・ソロ、これ以上何を言おうというのか。

    コンサートの数時間後、ヴェスターブロのエリアは、素晴らしいコンサートに押し寄せたヘヴィメタルのファンのアフター・パーティーで大いに盛り上がった。全員長髪でブルーのジャケットや服をまとった人々の中で、この暗くも夜には明るいコペンハーゲンで、何か新しい歴史的なことを体験できたという感覚が漂っていた。爽やかなラーズと、少しシャイで笑顔のカークは、そこではもはやロックスターではなかった。イステゲーゼを歩き、自分でホット・チョコレートとホットドッグを調達したのだ。

    1984年12月11日は、メタリカが勝利の寿司を、アルコホリカが勝利の日本酒を味わう前のことだった。来日前の2年弱は、バンドの生存に関する決定的で不変のポイントとなっていくのである。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    PeterMensch-CliffBurnstein
    ピーター・メンチ(左)とクリフ・バーンスタイン(右)

    『MM』誌に掲載された爽やかなラーズの写真、ネット上にないか探してみましたが残念ながら探し切れませんでした(苦笑)

    2011年に書かれたものですが、クリフ・バーンスタインが為替変動の影響がツアー日程にどう影響するかについて語っている非常に興味深い記事をみつけました。彼らの仕事のひとつとしてご参考までに。
    http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/355982

    私事でドタバタ続きのため、この伝記本翻訳はしばらくお休みします。再開までお待ちください。

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