メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:クリフ・バートン

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章5回目。有志英訳を管理人拙訳にて。クリフ・バートンの紹介から、メタリカにさらなる変化をもたらす2人、カーク・ハメットとジョニーZが登場します。

    - レコード契約(前編) -

    ラーズはクリスマスの19歳の誕生日を祝った。1983年2月中旬、ただの子供だった彼がようやく永久的に実家を出た。そして気が付くと自分が今、すごい集団にいたのだ。彼らは静かな通りの小さな家、具体的に言うとバークレー大学から北のエルセリートにあるカールソン大通り3132番地の新しい家を「メタリマンション(The Metallimansion)」と名づけた。(この地域はデッド・ケネディーズが先頭切った目まぐるしいイーストベイのアンダーグラウンド・パンク・シーンの本拠地でもあった。)

    彼らがリハーサルをしたこの家のガレージはカーペットと卵トレーで敷き詰められ、壁にはモーターヘッドやその他何百ものメタルバンドのポスターが飾られた。ツボルグのプレートがドアの反対側にあるリビングに置かれ、その部屋はバンドのパーティールームとなった。

    メタリマンションでは絶え間なく、リハーサル、ジャム・セッション、パーティー、飲酒、そして曲作りが行われていた。クリフ・バートンが入ったメタリカはもはや各々が自分の創造的なアイデアを持つ4人で成るバンドとなった。クリフはその基礎的な音楽のバックグラウンド、音楽理論、ハーモニーに関する知識によってバンドに大いに貢献した。

    ラーズがポテトチップスを食べながら(訳注:デンマークの)ブレンビュベスターでNWOBHMのレコードを聴いていた頃、またイギリスのパンク革命が世界中のヘッドライナーをかっさらっていた頃、16歳の学生、ベーシストのクリフ・バートン(1962年2月10日、カリフォルニア州カストロバレーにて、高速道路の建築士レイと教師であり教育者のジャンとの間に生まれる。)は音楽教師スティーヴ・ドハーティーによってクラシックからジャズまでありとあらゆる音楽スタイルを仕込まれた。寡黙だが親切で優しいクリフは高校で3つの音楽の授業に現れた時にはいつも耳を研ぎ澄ませ、予習をしっかりしてきた。そしてカストロバレー高校を1980年に卒業した。おそらく、この若き音楽フリークの最も特筆すべきことは地元の電動装置機器のレンタル店、カストロバレーレンタルズで働いていた頃の話だろう。カストロバレーレンタルでクリフは最も若い従業員で、長髪だったことから、同僚からもたくさん苦情を受けていた。彼らはクリフを怒らせることは一度もなかった。ただ笑って「いつかアイツはあの長髪でもって金儲けするだろうさ。」と答えていた。

    クリフはミュージシャンを志し、前述したバンド、トラウマに高校卒業後すぐに加入した。高校ですでにクリフはEZストリートというバンドにいた。そのバンドには(後にフェイス・ノー・モアとなる)ギタリストのジム・マーティン、(後にフェイス・ノー・モア、オジー・オズボーン・バンド、さらに再結成ブラック・サバスに参加する)ドラマー、マイク・ボーディンがいた。EZストリートはレッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ローリング・ストーンズのカバーに加えて、自分たちが試作した曲を弾いていた。

    彼らの出会いは1978年。ジム・マーティンは音楽的にも社会的にもクリフの最も重要な知り合いのひとりだった。ドラマー、デイヴ・ドナートと共にマックスウェル・ランチと呼ばれていたサンフランシスコのダウンタウンにある空家に集まってよくジャム・セッションをしていた。3人の少年にとってその場所はビールも飲めてマリファナをキメて長い時間ジャム・セッションをできる楽しい安息の地であった。

    クリフの人生にはたくさんの音楽が存在していたが、ホラー・パンク・バンドのミスフィッツほど彼を深く感動させた音楽はなかった。クリフの腕には彼らのロゴのタトゥーが彫られていた。彼は車に乗ると自作のミスフィッツのテープを流してはいつも狂ったようにハンドルを叩いて叫んで運転中でもヘッドバンギングをしていた。もちろん彼はロック、パンク、メタルが大好きだったが、ウェザー・リポートのベーシスト、ジャコ・パストリアスも大好きだった。そして「バッハは神だ」と考えていた。(クラシックの作曲家のことであり、メタリカと同年代のスキッド・ロウのクレイジーなフロントマン(訳注:セバスチャン・バック、スペルが一緒)のことではない。)クリフは20年代から30年代にかけてホラー小説のシリーズを書いた小説家、H.P.ラブクラフトのファンでもあった。そのような文学から得たものは初期の何曲かにハッキリと見受けられる。

    人としてミュージシャンとして、クリフはまさしくラーズとジェイムズが探し求めていた人物だった。この新しいメンバー編成でメタリカは1983年3月5日と19日の2回、ストーンで凱旋公演を行った。2回目の公演はメタリカが撮影された初めてのビデオによって不朽の名声をメタリカに与えることとなった。

    しかし依然としてバンドには問題が浮上していた。デイヴ・ムステインである。彼は、公演中のギターソロ、ステージ上でのほとんどのMCを負っていた。飲酒の時においても彼はリーダーだった。もちろんバンドで飲むことはよくあることだったが、ムステインは度を越えていた。彼は他のみんなが機嫌がいい時は典型的な暴力男になった。そしてしばしばジェイムズと音楽的な意見の不一致というより個人的な理由によって争っていた。

    3月のある夜、ラーズはジェイムズとマーク・ウィテカーと話し合いをしていた。マークが持ってきたエクソダスの最新デモテープをメタリマンションでよく使っていたカセットプレーヤーに入れて。エクソダスは何回かメタリカの前座を務めており、ラーズとジェイムズは彼らのことをよく知っていた。その会話の間、ラーズの鍛え抜かれたメタルな耳が突然、エクスダスの速くてアグレッシヴなメタルのリズムにタイミングよく織り挟まれたギターソロを捉えた。彼の関心はプレーヤーの中にあるデモテープへとすぐに移っていった。ラーズとジェイムズは同意したのだ。このギタリスト、カーク・ハメットは速くてアグレッシヴなヘヴィメタルにおいて何か特別なものを持っている、こいつがメタリカでプレイすると。

    「このカーク・ハメットってヤツが何かを持っているってことは明らかだった。」ラーズはそう振り返る。「本当にクールでメロディックなギタープレイでシェンカーやUFOみたいだった。彼はとても頼りがいがあると思えた。否定的なものは何もなかった。」

    しかし、カークがラーズとジェイムズと出会い、メタリカに加入するまでには、もう数ヶ月要することになる。

    デイヴ・ムステインは何も知らなかった。しかしメタリカは間違いなく、もうひとつのメンバー交代への道を歩んでいた。

    しかし、ラーズの慎重かつ意欲的な『No Life 'Til Leather』の流通後、バンドはアンダーグラウンドのメタル・シーンでどうだったのだろうか?

    デンマーク本国のメタルレコード店で、ケン・アンソニーは若きヘヴィメタルの子分が今や「彼のバンド」メタリカにいることにニヤリと笑う。メタルショップの仕事に加え、ケン・アンソニー自身も活動的だった。ミュージシャンとしてではなかったが、若いデンマークのメタルバンド、プリティ・メイズや前述したブラッツやマーシフル・フェイトやその他のバンドのマネージャーとして。ケンは自分の担当するバンドのデモテープをレコード会社に配って、その多くを実際にレコード会社の契約までこぎつけていた。したがって彼はヘヴィメタル界の多くの知識としっかりとしたネットワークを築いていたのだ。しかし、ケンはどうやってもメタリカの将来性を持ってして自分が商業的に関与してお金をどうこうすることはできないことを知っていた。その代わり彼は当時デンマークで一番大物のヘヴィメタル・プロモーター、エリック・トムセンに連絡をした。

    「俺は彼にデンマーク人のいるアメリカのバンドでこれからビッグになるバンドがあるから気を付けないといけないよって言ったんだ。でもエリックはそれを信じなかった。」ケンはそう振り返る。

    その代わり、デモテープはニューヨーク市郊外に住む元証券仲買人の注意をひいた。彼の名前はジョニー・ザズーラ。ジョニー・ザズーラ(ジョニーZとしてよく知られている)と長年連れ添った妻マーシャはウォール街の競争に飽き飽きし、個人的に充実したもっとゆったりとした実りある人生に専念したいと思ったのだ。夫妻はニュージャージー州東ブランズウィック国道18号線のインドア・マーケットにあったレコード店で取引をした。そこで2人のベテランの音楽ファンは店の隅っこで自身の店を開くことを許可された。ジョニーZは自分でも音楽を演奏していたし、マーシャは素晴らしいレコードのコレクションを持っていた。2人とも60年代の大きなロック革命の間に青春を迎えていた。そしてドアーズ、グレイトフル・デッド、MC5のような草分け的なロックバンドやチック・コリア、ジョージ・ベンソンのようなジャズ・アーティストのファンだった。まもなくザズーラ夫妻の音楽的嗜好は変わっていき、もっとヘヴィな方向へと向かっていった。

    夫妻は棚にあった180ドル相当のLPレコードから始めた。しかし7ヵ月後には仕事で80,000ドル相当のレコードになっていた。いまや「ロック天国」として知られるようになった。誰もが全国で買えるようなメインストリームのレコードに集中する代わりに、ザズーラ夫妻はヘヴィメタル、とりわけヨーロッパのものに集中することを選んだ。ロック天国はこのようにしてすぐに音楽を買いに行く場所もない、あるいはたむろしたり情報を得たり他のファンと会う場所もない何百もの若いメタルファンからヘヴィメタル天国として知られるようになった。元証券仲買人は東海岸のヘヴィメタル文化を引っ張る成果を確立したのだ。

    反旗を翻す生々しいメタル音楽に対する夫妻の企業家精神と興味は徐々に膨らんでいき、彼らは新しい考えを思い浮かべた。まもなくジョニーZはニュージャージーからマンハッタン、ブルックリンまでのメタル・ショーの出演契約交渉担当者としても知られるようになった。ジョニーの熱意は、音楽の自己出版の可能性についてさえ話したようにメタルバンドのマネージャーさえも始めたかもしれない。

    しかしながら、レコード店は依然としてあった。最新アルバムを買いに来るファンは、居心地の良い雰囲気の中たむろしたり、ヘヴィメタルを聴いてシーンの最新情報を共有することが大好きだった。ある午後、その客のうちの一人が店にテープを携えてやってきた。おそらくそのファンはカリフォルニアまでの旅の間にテープを買ったのだろう。その音楽は目を見張るほど素晴らしいから、ザズーラのロック天国でこのテープを流さないといけないと思ったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    cliff_kirk
    クリフ・バートンとカーク・ハメット

    次々とメタリカのステップに関わる人物が登場してきて、それぞれの点がつながって線になっていく展開。次回はデイヴ解雇、カーク加入、そして『Kill 'Em All』のリリースまで。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章4回目。有志英訳を管理人拙訳にて。メタリカの大きな転機となるバンド拠点の移動とクリフ・バートン加入について。

    - ヘヴィメタルへの誓い(後編) -

    新しいシンガー加入の代わりに2つのギグが1982年夏後半のメタリカの経歴に大きな影響を与えることになった。1つはハリウッドのクラブ「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」で行われたギグ、もう1つはサンフランシスコのクラブ、「ストーン」で行われた自然と沸き上がったパフォーマンスだ。後者がまず先だった。

    「ブライアン・スレイゲルが『Metal Massacre』の宣伝のためにサンフランシスコで3つのバンドを手配した。その『Metal Massacre』参加3バンドのうちの1つ、キリス・ウンゴル(Cirith Ungol)が11時間前に出演をキャンセルしたんだ。」ラーズはそう語る。

    「俺たちには何にもなかった。(『Metal Massacre』に参加できたこと自体が)ジョークだったのさ。でもブライアンはショーの1日か2日前に俺たちに電話をかけてきた。彼は俺たちに何をやらせても俺たちがろくに文句も言えないと思っていたのさ。そして彼は「サンフランシスコに行って、ショーを開きたいか?」と言ったんだ。俺たちは言ったよ。「Yes!」ってね。それがいとも簡単に人生が変わる出来事になった。俺たちは2、300人のサンフランシスコのヘヴィメタル・フリークの前に行って演奏をしたんだ。そしたら突然…わぉ!って感じだった。みんな俺たちの演奏する曲を知っているんだよ!バッジ付きのデニム・ジャケットにアイアン・メイデンの黒Tシャツに身を包んだ人たちがいる光景があった。LAのクソみたいなものの代わりにね。当時、グラムなんていうクソみたいなものは全部LA発だったんだ。」

    「40分のステージを終えてステージを降りると、人生が変わる体験みたいだった。急遽、俺たちはとにかくサンフランシスコだ!ってなった。こんなレベルの出来事が起きたのは初めてだったから、俺たちは毎月サンフランシスコでギグをブッキングし始めたんだ。」ラーズはかなり浮かれながら当時を振り返った。

    そんな驚天動地のコンサートの後、メタリカの初めてのアフターショー・パーティーが始まった。バンドはラーズの車であるライトブラウンのペーサーを運転して、U-ホールで借りた音楽機材と共にロサンゼルスの家まで帰ることに忙しくすることはなくなった。ケースごとビールをかっぱらって、(ライヴ会場の)ストーンから数ブロック離れた小さなホテル、サム・ウォンズ(Sam Wong's)でパーティーを開いた。その日以前にメタリカのメンバーは、開いたビール缶を手に持って歩いていて逮捕されたことがあったため、パーティーは室内で行われた。ホテルではファンがサインをもらって写真を撮り、メタリカは「Young Metal Attack」のTシャツを売った。

    さらにストーンで行ったギグはメタリカに好意的なコンサート批評をもたらした。「Northwest Metal」の第2号で、ブライアン・ルーは最初にこう書き出した。「これぞまさしくと言った夜だった!アメリカでAランクの一番ヘヴィなバンド、メタリカはサンフランシスコで暴れまわった。1906年の大地震よりも多くの破壊をもたらした!(中略)彼らの圧倒的な激しさはとてつもない!彼らの狂気によってモーターヘッドとヴェノムの猛烈な狂気を融和させ、バンドはノンストップで速くて超凄まじいヘヴィメタルの曲で観衆をぶちのめした。」

    自身の記録帳で、ラーズは熱くなって書き残している。「初めての本当にすごいギグだった。本物のヘッドバンガー、本物のファン、本物のアンコール。メチャクチャすげぇ週末だ。たくさんのステージを無駄にしてたぜ!!」

    伝統的にリベラルでヒッピーの街のメタルファンはメタリカのメタルをヘッドバンギングと歓迎をもって受け入れていった。LAではソフトになったグラムロック文化にメタルシーンが支配されていた一方、サンフランシスコはアメリカのヘヴィメタルの温床になっていたのだ。

    これで終わりではなかった。サンフランシスコで初めてのメタリカのショーが行われたのとほぼ同時に、サンフランシスコで酔っ払ったジェイムズとラーズの2人にカリスマ的ベーシスト、クリフ・バートンが存在を露わにした。2人が数え切れないほどの夜をハリウッドのロック・クラブで過ごしている間に。

    ラーズ・ウルリッヒ「俺たちが「サンフランシスコ・ヘヴィメタル・ナイト」のイベントでウイスキー・ア・ゴー・ゴーにいたら、その夜演奏した3つのバンドのうち1つがトラウマってバンドだった。そこであの変わり者がベースを弾いてヘッドバンギングをしていたのを見たんだ。ジェイムズと俺はあんなのはこれまで見たことなかった。ベーシストを探しに行ったわけじゃなかったけど、そこでクリフ・バートンのヘッド・ハンティングが始まったのさ。それはその後数ヶ月に及んだ。」

    不屈で外交的なラーズはすぐに長髪でワイルドで才能溢れるクリフに接触し、メタリカとの「リハーサル」を提案した。しかしクリフはまだサンフランシスコでトラウマに貢献することに集中していた。したがってメタリカはサンフランシスコで数回のショーを至急ブッキングする十分な理由ができた。ラーズはクリフにメタリカの次の出演について伝えることに注意を向けていた。それは10月18日の「メタル・マンデー・ナイト」コンサートだった。

    「11月に俺たちはサンフランシスコで何回かギグをやった」ラーズは語る。「マブヘイ・ガーデンズ(Mabuhay Gardens)(サンフランシスコのダウンタウンにあるクラブで、俳優ロビン・ウィリアムズが1978年初めてスタンダップ・コメディでヘッドライナーを務め、後にパンクやニューウェーブのクラブとなった場所)で追加ギグを行った伝説的なツアーだった。そこから俺たちはコンサートに来た女の子とヤリ始めたんだ。本当に楽しかった。そうして俺たちは何百人ものヘヴィメタルファンと全音楽シーンを知って学んでいったんだ。ロンバート・ストリートにあるホテルでアフター・パーティーをやった時のことを覚えているよ。俺とデイヴ・ムステインが一緒に何人かの女の子をゲットしたんだ。たくさんの(女の子の)身体が横たわる場所にいたのはそれが初めてのことだった。ベッドに誰かがいて、ほかのベッドにも誰かいて、部屋の隅やらクローゼットにも誰かいるんだ。俺たちがモーテルの部屋をひとつ取っていただけの頃だったから、次の日の朝起きたら20人が床に寝ていることもあった。夢のようだったね…あれはクールだった。俺たちがそれまで夢見ていたこと全てかそれ以上の出来事だったよ。」

    しかし、他の問題が間近にあった。みんなが夢を共有していたわけではなかった。というより、むしろ、みんなが夢の中にいたわけではなかった。

    ラーズ「何が起きたか本当に覚えていないんだ。でもロン・マクガヴニーのガールフレンドが俺とジェイムズがクリフについて何か言っているところを立ち聞きしたんだと思う。とにかく彼女はそれをロンに話したんだ。俺とジェイムズがクリフのこと、そしてロンについての陰口を話していたことに気がついてひどく怒っていた。彼は怒って「ファック・ユー!」と言って去っていった。それが12月の始めのことで、クリフはまだ(メタリカ加入に)Yesと言っていなかった。でも俺はクリフを獲得するためにホントに奮闘していたよ。毎日毎日彼に電話してさ。集中的な「彼を俺たちのバンドに今すぐ入れよう」キャンペーンが始まったのさ。」

    「マクガヴニーがバンドを去った時、ヘットフィールドは家を追い出されたんでデイヴ・ムステインと一緒にハンティントン・ビーチに引っ越してきた。俺たちはリハーサルも何もしなかった。でも、クリスマスから82年の年明けまでの間に、俺はようやくクリフが俺たちと一緒にジャムることを説得できた。12月の27日か28日頃だったかな、俺たちはエルセリトまで行った。マーク・ウィテカーの家のリビングでジャム・セッションをしたんだ。彼はエクソダスのマネージャーだった。彼と親友になって、俺たちのためにメタル・マンデー・ショーを何回か開いてくれていた。マークはすげぇいいヤツで、俺とジェイムズとムステインは何日間かそこで寝泊りしてもいいってね。それで俺たちはそこでクリフとジャムったんだ。素晴らしい時間だったよ。」

    「俺たちがLAに戻ると、年明けにクリフは俺に電話してきてバンドに入ると言ったんだ。昨日のようにその会話を覚えているよ。「OK。オマエらがサンフランシスコに引っ越したら、俺はバンドに入るよ。それが唯一の条件だ!」「OK。」と俺は答えた。「俺たちは5週間でそっちにいることになる。いくらか金を稼いで、カーペットを買わないとな!」」

    クリフとの初めてのジャム・セッションの途中、「Seek And Destroy」を弾いて、ラーズもジェイムズもデイヴもクリフがメタリカにうってつけの男であることを誰も疑うことはなかった。つまるところ、サンフランシスコはバンドにとってうってつけの本拠地だったのだ。クリフのポジティヴな反応は、サンフランシスコに戻ってくる前に、まだLAでいくらか活動をしていたラーズ、ジェイムズ、ムステインにとって最高のニュースだった。

    ラーズ「俺たちはリハーサルとか何かをする場所を何も持っていなかった。だから1983年の1月・2月は朝の新聞配達を2コース廻っていた。ひとつは俺が住んでいた複合ビルのマンションで、そこで大きなカーペットを取り替えていた。ジェイムズとムステインが一週間、俺と外で過ごしたことを覚えているよ。俺たちはジェイムズのトラックを使って、巨大なコンテナに捨てられていた中古のカーペットを全部自分たちのものにしていた。」

    「俺たちはマーク・ウィテカーに取引をもちかけた。もし俺たちのマネージャーになったら、俺とジェイムズを彼の寝室のひとつに住まわせてくれるようにね。ムステインには部屋がなかった。彼はまだ…部外者だったんだ。だからデイヴは代わりにクリフのお祖母ちゃんの部屋を借りたんだよ。それで俺たちは使い古しのカーペットをトラックに放り込んで、2月中旬にサンフランシスコに引っ越した。俺は両親にさよならを言った。俺が実際に実家を離れて住むのは初めてのことだったんだ。」

    ラーズの両親との別れは、凍えるような寒さだったコペンハーゲンでの1963年のクリスマス2日目から一緒だった小さな家族の分裂を意味していた。

    ラーズ「俺が家を出た後、母が重荷になって親父も実際に家を出たんだ。彼女は家族は一緒にいて歳を取っていくものと考えていた。だからあの時期は特に彼女にとってはおかしなことだったんだ。俺と親父の両方が同時に出て行ったんだから。とてもキツかっただろうね。」

    「あの時は本当に理解できなかった。おそらく本当は気付いていなかったんだ。俺の親父は、家族がそこにいて、俺が家族の一員でいる間は家族を養う責任があると考えていた。そうなると俺がいったん家を出たら、、親父は何ら責任を持たないってことだったんだ。それから実際にそうなったんだけどね。親父はたくさんのことに興味を持っていた。仏教を勉強していて、そういったこと全てに興味を持ち始めていた。母親はしばらくニューポート・ビーチに住み続けて、それからその地域の周囲に引っ越した。そこには友だちがいて、そのうちの1人か2人と暮らしていた。おそらく俺に戻って欲しいとか、トーベンがいつか戻ってくることを望んでいたと思う。彼女にとってはつらい時期だった。俺はそんなこと何も見えちゃいなかった。19歳として理解できるものじゃなかった。俺はただ…前だけ見ていた。「さぁ俺たちはメタリカとしてスタートしてやるぜ!」とかそういうことだけだったんだ。」


    トーベンとローンのウルリッヒ夫妻は公式には離婚していない。しかしトーベンは、ワシントン州シアトル出身の30歳近く年の若いジャーナリスト、モリー・マーティン(Molly Martin)と共に引っ越していった。しかし両親は「いつもどうにか友人のままでいようとしていたよ。」とラーズは語る。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    lars_guitar
    クリフが加入したギグの後のバックステージにて

    アフターパーティーで売られていたという「Young Metal Attack」のTシャツは現在もMetStoreで売られているこれのことですね。以前の記事の写真でもムステインが着ています。
    T336
    改めてクリフのメタリカ加入条件がメタリカにとっても渡りに船だったことがわかります。そしてメタリカの活動が軌道に乗る中で、ラーズの門出が家族の間のズレをハッキリさせてしまったのですね…。

    ラーズがやたらカーペットにこだわるのは防音のためなのか、映画界に憧れていた隠喩なのか(笑)

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    メタリカ活動初期写真集「The Club Dayz 1982-1984」届きました。
    80年代スラッシュメタル写真集、『MURDER IN THE FRONT ROW』が届きました。

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    このほどスコット・イアン(アンスラックス)出版した自叙伝『I'm The Man: The Story Of That Guy From Anthrax』に絡んで波紋が起きている模様・・・。

    scottianbookcover

    ことの発端は2009年7月にRollingStoneで行われたデイヴ・ムステインのインタビューから。(以下、引用部、管理人拙訳)

    RollingStone.com
    「あなたが知る限り、クリフ・バートンが亡くなる前最後のメタリカのツアーで、ツアーの終わりにメタリカがラーズ・ウルリッヒを解雇しようと計画していたというのは本当ですか?」

    デイヴ・ムステイン
    「それはスコットが俺に話してくれたんだ。彼はメタリカがツアーから戻った時にジェイムズとクリフとカークがラーズをクビにしようとしていたって言ってた。」

    RollingStone(2009-07-29)

    ここでいうスコットはもちろん、アンスラックスのスコット・イアンのこと。この大佐の発言に対してアンスラックスの公式ツイッターは否定コメントを掲載。

    scott_true
    BLABBERMOUTH.NET(2009-07-29)

    しかし、今度はMetalHammerの質問メールに対して、スコット本人が返したメールはアンスラックスの公式コメントを否定したかのような内容でした。

    スコット・イアン
    「俺はアンスラックスのツイッターで否定コメントを発表していない。あれはウェブマスターがやったことだ。俺は自分の(ツイッター・アカウント)を持っている。」

    BLABBERMOUTH.NET(2009-08-07)

    さらにデイヴ・ムステインは、ClassicRockのインタビューの中でこの件についてこう語っていました。

    「いいや。スコットが俺に話したことだ。俺は彼が自叙伝を宣伝するのを手伝おうとしたんだ。俺はスコットのことは大好きだし、彼を傷つけるつもりなんか全然なかったんだ。絶対に。でもあれは彼が俺に話したことだし、他にそれを聞いたヤツも知っている。今回のことがネットに流れて、スコットがひどい目にあっているのも知ってる。みんなこう言い始めたんだ。「俺たちはデイヴを信じる。スコットは嘘つきだ。彼はダン(ネルソン、アンスラックスと論争の上、脱退)についても嘘を言っていた。」とね。そんなことは俺が望んだことじゃない。俺はスコットが大好きなんだ。こんなことは消え失せさせてしまいたかった。でも俺はそのことについて(最初のインタビュー以降は)言わなかったのに、彼はそうしたんだ。」

    ClassicRock(2009-09-16)

    そして今回、スコットはコロラド州のラジオ局の番組で、大佐の発言の真否について改めて質問されました。自叙伝で、この件について触れられてはいないようで、スコットはこう話しています。

    「たくさんの人がこの件について訊いてくるよ。あの話は実際、長い間ずっと存在していた。俺はこの件を本に書いていない。それは俺の意見じゃない。俺の本は暴露本なんかじゃない。そういう類の本じゃないんだ。」

    「でもまぁ、この話は彼らが変化を起こしたくて、新しいドラマーを獲得するプランを立てていたということだ。俺たちはみんな、それでぶっ飛んだよ。あの4人あってのメタリカだからね。「えぇ!マジかよ?」って感じだった。それで彼らは「あぁ。ツアーが終わったら、新しいドラマーをみつけるんだ。」って。」

    「俺に何ができたと思う?彼らはみんな友人なんだ。俺は「ラーズにとっては残念なことになっちまったな、クソッ」って感じたよ。と同時に、友人関係が続けられて、彼らが自分たちのやりたいことをできるといいなと思ったね。」

    「言うまでもなく、メタリカの歴史はまったく違うことになった。そして彼らはおそらく地球上で一番ビッグなバンドのひとつとなった。だから俺は嬉しいんだ・・・。自分の友だちがみんなうまく事が運んだわけだからね。クリフが死んだバス事故っていう最悪の悲劇があったわけだけど。」

    「この件で俺が言えることは、俺たちはたくさんいたガキだったってことだけさ…。俺たちは自分のキャリアの早い時期に出会ったガキで、数年後にはヨーロッパを一緒にツアーしていたんだ。みんな20代前半で、本当に人生と自分のバンドに実際に起きていたことを謳歌していた。そしてあのバス事故があった。その後、物事は彼らのふさわしい場所に収まった。優先順があっという間に落ち着くべきところに落ち着いたんだ。俺はいまだにそのことは頭にしまい込めないでいた。」

    「正直、(クリフの事故がなくてもラーズのクビは)起きなかったと思う。なぜなら俺を信じて欲しいんだけど、俺はかなり長年に渡ってそれについて考えてきたんだから。ツアーが終わったら、正直言って冷静な頭が勝ると思うんだよ、きっと。メンバー変更は起きなかったと思う。俺はそう信じているよ。」


    BLABBERMOUTH.NET(2014-10-14)

    ちなみにスコット・イアンの自叙伝の序文はカーク・ハメットが執筆しています。スコットはこの本の中でアンスラックス初期の頃を「自分にとってアンスラックス最悪の時期」と書いており、元アンスラックスのニール・タービンに「(どうせフィクションなら)ロード・オブ・ザ・リングぐらい良いものじゃないと。」と皮肉られていますが・・・。

    BLABBERMOUTH.NETより(2014-10-10)

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    表紙がそのまんますぎて思わずニヤけてしまった「Guitar World」誌の『Ride The Lightning』30周年記念号。カーク・ハメットが「Ride The Lightning」についてたっぷり語ってくれました。クリフ・バートンとの逸話と併せてBLABBERMOUTH.NETさんの部分引用を管理人拙訳にて。

    kirkhammettguitarworldrideligthning

    −30年経って『Ride The Lightning』時代について、見方は変わりましたか?

    「おもしろいよね。ちょうど今朝、子供たちに今日何をしようとしているか話してきたんだ。『この人たちが電気椅子に座ったパパの写真を撮っているんだよ!』ってね。もちろん2人ともまだ幼いから『何で?
    って言ってた。それで俺たちには「Ride The Lightning」という曲があるからなんだってことをちょっと違う言い方で説明したんだ。『電気椅子で感電死させちゃうぞ!って言ってから、あの曲を弾いて歌詞を歌ってみせた。子供たちは座って俺の方を見てわぉ』だって(笑)。それで子供たちとそこに座って「Ride The Lightning」のギターソロを聴かせたんだ。そこにこんなハーモニーを効かせるなんて全く記憶にないぜって感じだったね(笑)。」

    「あの曲を形にしたときは、イントロのリフ、序奏部、コーラス、間奏まではあった。全てが減速した後にギターソロを入れるってなって、すぐにそのまま、あのソロのほとんどを弾いたのを思い出すよ。」

    「1984年にあれをレコーディングしたとき、俺は21歳だった。クレイジーだよ。1984年にあんなギターソロなんてたいしたもんだ。もしあの当時起きていたことに身を置いたら、とてもモダンなサウンドだったと思う。もちろん現在から見たら、クラシックなロックのように聴こえるけどね(笑)。至るところにアルペジオと32分音符があるみたいな昨今の基準じゃなかったから。今朝あれを聴いたとき、
    あのアルバムのサウンドはいまだに良いと実感したってことも言っておかなきゃね。これだけメチャクチャ年月が経っても、音楽的に持ちこたえているんだ。」

    さらにカークは『Ride The Lightning』の前衛的な方向性へバンドを推し進めるのにクリフ・バートンが重要な影響力となったことについて語った。

    「クリフは全てにおいて異例づくしだった。今日この日まで、いまだに俺は彼と体験した全てについて解き明かそうとしている。彼はベーシストであり、ベーシストのようにプレイしていた。でも、何てこったい、そこからギターサウンドが出てくるんだ。たくさんギター中心のものを書いていた。彼はいつもダウンチューニングされた小さなアコースティック・ギターを持ち歩いていたんだ。一度、俺はそのギターを手にとって「これってCコードにも合わせられるの?」って言ったら、弦を曲げることができるから、そのギターを気に入っているんだと説明してくれた。いつもあのアコースティック・ギターでハーモニーを思い付いていたよ。俺がそこらに座ってギターを演奏していると、彼がベースを持ってきてすぐにハーモニー・パートを弾き始めるんだ。歌ってハモってみせたこともあった。イーグルスがラジオで流れたときなんか、曲のハモるところ全てを歌っていたからね。もちろん主音じゃない方を。」

    BLABBERMOUTH.NETより(2014-06-20)

    8歳と6歳の息子を持つカークの父親の側面が垣間見れるエピソードやクリフとの逸話が微笑ましいですね。ちなみにこの号の「Guitar World」誌はこちらから購入可能です。
    http://guitarworld.myshopify.com/collections/guitar-world/products/guitar-world-august-2014-kirk-hammett

    Ridethelightning

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    更新大変ご無沙汰しています。

    管理人が北欧ツアーからの帰国後に体調を崩してしまい、情報収集もままならずしばらくお休みさせていただきました。ようやく快方に向かってきたので徐々に更新を再開していきたいと思います。

    さて、毎度告知が遅くて申し訳ありませんが、メタリカナイトを開催します。

    開催日は2014年6月15日(日)。

    内容は主に「帰国報告会」です。「'Tallica Japan」チャプターヘッドのShiggyさんがメタリカとサンフランシスコジャイアンツのコラボイベント、本家「METALLICA NIGHT」。そして、わたくし情報局管理人らがメタリカ北欧ツアー(ストックホルム公演、オスロ公演)について現地レポではお伝えしきれなかった話をできればと考えています。

    特に今回はライヴの感動はもちろんのこと、メタリカファミリーとの触れあい、そしてクリフ・バートンが亡くなった事故現場付近に建てられたモニュメントを訪れることのできた特別な旅となりました。そんな旅を写真を交えながらご紹介します。

    1432

    以下、詳細。

    ■日時 2014年6月15日(日)

    Open/Start 17:00

    ■場所
    BAR EL PUENTE (バル エル プエンテ)
    http://www.facebook.com/pages/El-Puente/214096195273923
    Twitter @yokohama_puente

    〒220-0024
    横浜市西区西平沼町8-8 和幸ビルB1F
    TEL:045-628-9888

    相鉄線西横浜駅から徒歩1分
    改札を出て真っ直ぐ。道なりに階段をくだり、短い横断歩道を渡って左へ。
    郵便ポストの脇に入り口があります。

    大きな地図で見る

    ■食事・チャージ
    食事は軽いスペインタパス(500円)&本格的インドカレーナン付(1200円)
    ドリンク500円〜

    今回はチャージはZEROですが、いろいろ飲み食いしていただけると今後も開催しやすくなるのでご協力お願いします。

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    自ら主催するホラー・コンベンション「FearFestEviL」についてRevolverのインタビューでカーク・ハメットが饒舌に語ってくれました。最後の方では同じ趣味をもっていたクリフ・バートンがいた頃のエピソードやホラーとメタルの関係にも触れています。超ロングかつマニアックなインタビューなので時間のあるときにどうぞ。※管理人拙訳

    Kirk-Hammett-Screen-Shot-2014-01-14

    Revolver
    「なぜFearFestEviLを開催したいと思ったんですか?」

    カーク・ハメット
    「基本的にはOrionフェスで俺がやった「Kirk's Crypt」の拡張版なんだ。あれは最高に楽しかった。そして驚くほど素晴らしい時間だった。だから自分自身に問いかけてみたんだ。なんでここでやめる?ここで終わるのか?ってね。これを続けるべきと思ったんだ。だからこのイベントはOrionフェスでやった「Kirk's Crypt」の拡張版なのさ。これがただ大好きでね。基本的に俺にとってはあまりに楽しすぎたからOrionフェスで行う、絶対にやめたくないものなんだ。さらにもっとクールなものにしてみたかった。Orionフェスでは特定の制約のなかでやっていたから、そこでやったものよりもっとクールなやり方でね。これは俺自身がやりたいことを全力でやってみる機会なんだ。いっちょやってみるかってね。フェスはまだ行われていない。まだ全てをまとめて、計画しているところさ。こういったことのひとつひとつが楽しいよ。本当に素晴らしいことだね。」

    Revolver
    「どのようにしてさらにクールなものにしていきましょう?」

    カーク・ハメット
    「自分のコレクションを(Orionフェスよりも)もっと多く持っていくよ。個人的なおもちゃのコレクションやポスターのコレクションもね。たくさんのオリジナルのアートがそこにはある。フランケンシュタイン、ドラキュラ、狼男の等身大フィギュアも持っていくつもりだよ。俺にとってあれは、さながら究極の逸品なんだ。たくさんのゲスト、パネル、ベンダー、音楽のゲスト満載さ。素晴らしいことになるよ。俺たちは同じゲストでのホラー・コンベンションは通常ではありえないと思えるようなユニークなものにしたい。あらゆる分野から異なるベンダーを呼ぼうとしているよ。音楽のステージもやるつもりでいる。地元のバンド(エクソダス、デス・エンジェル、オーキッド)がライヴをするために呼んでいるのも気に入っている。そこにカーカスだぜ、信じられないよ。俺はもう待ちきれないよ。素晴らしいものになるよ。このジャンルに同じくらい多大なる興味を寄せているミュージシャンも招待している。スラッシュはその目的でやってくる。これも同じくらい本当に待ち切れないね。ここ数ヶ月かそこらでこれだけクールなことが決まっていったんだ。俺はもう完全におたくモードだよ。」

    Revolver
    「あなたがラヴクラフト(※)のファンであることを知っていますが、彼の著作は明らかにメタリカに影響を与えていますよね?」

    カーク・ハメット
    「そうそう。H.P.ラヴクラフトね。もし彼が生きていたら、すぐにでもこのイベントに呼んでいたね(笑)。また別の著者か誰かを呼ぼうとしているよ。クライヴ・バーカー(※)の関係者と話していたんだ。彼が会場に現れるのはとても難しいけど、展示しようとしているたくさんのオリジナルのアートワークがあるんだ。スティーヴン・キング(※)とも話したけど、シャイで悪名高い人だから、たぶん難しいかな。と、まぁこんな風にいろいろたくさんのところをあたっているよ。遠方からのホラー・コンベンション参戦者となったら、行くところひとつで全てを行ったことになるってことを俺はわかっている。(だから)いろいろ混ぜたいんだよ、わかるでしょ?コンベンションはいっぱいあるから、音楽的な催しは俺たちにとっていい口実になる。普通のコンベンションは6時か7時に終わる。それからホテルのバーかどこかで終えることになる。このコンベンションなら、夜の間中までやってるし、素晴らしいことになるよ。最高に楽しいものになる。」

    ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(Wikipedia)
    クライヴ・バーカー(Wikipedia)
    スティーヴン・キング(Wikipedia)

    Revolver
    「カーカスが来るのは最高ですね。あなたも大ファンだと思っています。どのようにして来ることになったんですか?どういった経緯で指名したんでしょう?」

    カーク・ハメット
    「彼らは来れるってことだったし、クソすばらしいアルバム(訳注:『Surgical Steel』)をちょうど出したところだったからね。(12月にFearFestEviLサイトで先行公開した)新しいミュージック・ビデオを見たら、なんてこった、完璧になすすべなしって感じだったね。でも彼らは来れるってことだったし、彼らのレコード・レーベル、Nucluear Blastと俺はつながりがあった。少しばかり取引をして、実現したんだ。俺にとってカーカスを呼べたのは、それが実現できるってだけでも待ちきれないし、コンベンションを違うレベルにまで持っていくんだ。そりゃあすごいクールだよ。」

    Revolver
    「これまで会ったことのないゲストはいますか?」

    カーク・ハメット
    「以前に会ったことなくて、ゲストとしてやってくる予定の人は相当いるよ。でも今はそれについて本当は話せないんだ(笑)。そういう人たちのなかには来てもらえるかどうか、確定するのを待っている人もいるからね。ブルース・キャンベル(※)を呼ぼうとしていて、呼べると思っている。俺は会ったことないんだけど、ずっと来て欲しいと思っているよ。『Re-Animator(訳注:H.P.ラヴクラフトの原作を元にした1985年公開の映画)が好きで、その出演者にこのコンベンションに来て欲しいんだ。ジェフリー・コムズ(※)、バーバラ・クランプトン(※)も呼ぼうとしているよ。まだ交渉段階だから、うまくいけば実現できるね。『ウォーキング・デッド(※)の製作総指揮者、グレゴリー・ニコテロも呼んでいる。実際には、俺は彼のことを25年かそこらぐらい前からずっと知ってるんだ。」

    ブルース・キャンベル(Wikipedia)
    ジェフリー・コムズ(Wikipedia)
    バーバラ・クラプトン(Wikipedia英語版)
    ウォーキング・デッド(Wikipedia)
    グレゴリー・ニコテロ(Wikipedia)

    Revolver
    「彼とはどのようにして出会ったのですか?」

    カーク・ハメット
    「俺たちは1987年かそこらのホラー・コンベンションに入り浸って、彼はギターも演奏していたんだ。「…And Justice for All 」ツアーにもやってきた。俺たちはギターを弾いてはスティーヴィー・レイ・ヴォーンを聴いて、おたくモードになってたよ。彼は『Day of the Dead(邦題:死霊のえじき)』『Dawn of the Dead(邦題:ゾンビ)』というこれら素晴らしい80年代のトム・サヴィーニ(※)の映画に関わっていたんだ。それからLAの特殊効果の会社に行った。彼は長いことそこに留まっていて、今もまだそこにいる。そして『ウォーキング・デッド』のシリーズ製作総指揮者となった。彼はすごいクールで、ホラーの大ファンなんだ。昔はよく一緒にブラついていたし、いまだにそうだね。『ウォーキング・デッド』が大好きだから、彼が来るのが本当に待ちきれないね。あれは今まで作られたなかでも最高のTV番組のひとつだよ。」

    トム・サヴィーニ(Wikipedia)

    Revolver
    「あなたはトム・サヴィーニも呼んでいますよね。彼との対話はどうでしたか?」

    カーク・ハメット
    「彼は本当に素晴らしい人だよ。ホラー映画に関していえば、何から何までね。彼は30年代、40年代といった昔のホラーものが大好きなんだ。本当にそういうものが大好きで、本当にとんでもない情熱をもっている素晴らしい人だ。」


    Revolver
    「初めて公開される、または初めて人に見せるエキサイトさせる何かがあったりしますか?」

    カーク・ハメット
    「『Bride of Frankenstein(邦題:フランケンシュタインの花嫁(※))』のジオラマを再現しようとしているよ。今までやったことないけど、実際にシーンを再現するためにね。俺は再現映画で研究員の役を実際にやるつもりなんだ。俺の本(Too Much Horror Business)が出た後で本に載っていない特定の映画の小道具が手に入ったから本当に興奮しているよ。」

    フランケンシュタインの花嫁(Wikipedia)

    Revolver
    「その映画はあなたのお気に入り映画のひとつだという記事を読みました。」

    カーク・ハメット
    「あぁ、素晴らしい映画さ。あれは実際はコメディーなんだ。皆があの映画について話す時、普通はホラー映画としてというよりコメディー映画として話すんだ。たくさんコミカルな場面があるし。」

    Revolver
    「また別の本も制作し始めているというのを目にしました。どういうものを出すんでしょう?」

    カーク・ハメット
    「まだ始めてもいないよ。間違いなくもう1冊、本を出したいとは思っている。60年代のポップ・カルチャーのおもちゃやTV番組のキャラクターについて多くを割くことになりそうかな。たぶん俺たちがアルバム制作を終えた後でいつか取り組みことになると思う(笑)まずアルバムを作らないと。アルバムと本に同時に取り組むなんて俺には出来ると思ってないからね。俺たちはメタリカのアルバムを作らないといけない。それが出来たら、もう1冊の本に俺の焦点を振り向けることができる。」

    Revolver
    「アルバムであなたが取り組んでいることについて何か話せることはありますか?」

    カーク・ハメット
    「まったくない。俺たちがジャムったものが少しあるだけで、まだ曲になってない。それが今現在の状況だね。」

    Revolver
    「メタリカの他の誰かであなたと同じくらいホラーのファンは誰ですか?」

    カーク・ハメット
    「ロブは自分の子供をこういうコンベンションにたくさん連れて行っているよ。ロブは子供の時にコミック本と過ごしてきたからね。彼は実際に本当に素晴らしいイラストレーターであり、アーティストなんだ。彼はアニメも本当に大好きだし。彼は少しばかりこういうものへの憧れは持っていると思う。クリフ・バートンは間違いなくそうだね。クリフ史上一番お気に入りの映画は『Dawn of the Dead』だったから。」

    Revolver
    「昔の映画については、彼があなたに関心を持たせたのでしょうか?」

    カーク・ハメット
    「いや。俺はこういうものを子供の頃からハマっていたからね。だから彼がこういうものが好きだと知って逆に驚いたんだ。」

    Revolver
    「もしかしたらあなたが彼をこういうものに関心を持たせたのかもしれませんね。」

    カーク・ハメット
    「もしかしたらね。彼とはよく一緒にいたから。83年の夏に俺たち4人全員でニュージャージーのドライヴインで『Evil Dead(邦題:死霊のはらわた)(※)』を観に行った時のことは忘れられないよ。少なくとも俺にとっては特別な時間だったよ。俺はバンドに加わったばかりで、どデカい半ガロンのジョッキいっぱいに入ったウォッカを持っていた。俺たちは『Evil Dead』を観るのはこのときが初めてだったんだ。俺は本当にクールだと思った。みんな夢中になっていたからね。あの映画は俺にとっては最高のもてなしだったし、彼らもこういったものが好きだと知った。少なくとも通りがかりでね。」

    死霊のはらわた(Wikipedia)

    Revolver
    「グレゴリー・ニコテロは『Evil Deal』も手がけていますよね。」

    カーク・ハメット
    「実際に彼はやったんだ。彼は地下室で女の悪魔だった。彼があれを演じたんだ。あのコスチュームを着てね。」

    Revolver
    「Orionフェスに行って、あなたのものを全て観ましたが、あれを家のどこに置いておくんですか?」

    カーク・ハメット
    「その多くは倉庫にあるよ。多くはキャビネットのなかや密閉された状態になっている。ほとんど誰も行き着くことの出来ない安全な場所にあるんだ。」

    Revolver
    「なぜこんなことをきいたかと言うと、あなたは子供がいて、もしああいったもので怖がったりしないかと思ったんですよ。」

    カーク・ハメット
    「でも俺は子供たちにああいったものを植えつけようとしている。子供たちはあれに夢中になっているし、俺に言わせればより大きなパワーとなっているよ。もしあれで嫌な思いをしなかったのなら、それは俺の子供たちだ。」

    Revolver
    「Cryptや今回のことでこれをまとめていた時に、持っていたことを忘れていたもので何か発見したものはありますか?」

    カーク・ハメット
    「持っていたことを忘れたものは数点あった。もう何年も見なかったものだね。俺が行ったところにそういうものが少しあって、わぉ、すっかりこれを持っていたことを忘れてた!なんてクールなんだ!ってね。数回はそういうことがあったね。察しのとおり、俺にとって、持っているものをまたチェックして、本当にクールなものを全て味わう素晴らしい機会になった。もう一度楽しめたよ。それは俺にとって自分のコレクションを再度違った視点から見るやり方なんだ。」

    Revolver
    「あなたはホラーとメタルのあいだに何か関係性があると思いますか?」

    カーク・ハメット
    「あぁ。同じ構成要素でできている。それは人生のダークサイドなのさ。ヘヴィメタルは、知ってのとおり、もし飛んでいる象のことを歌っていたら、うまくいかない。ムードに合う主題を持たなきゃならない。これは以前にも言ったんだけど『いいホラー映画はいい曲のようであり、いい曲はいいホラー映画のようだ』ってこと。それが俺の見方だよ。」

    Revolver(2014-01-15)

    前半は知らないことが多すぎて、これほど訳に手間のかかるインタビューはありませんでしたが(苦笑)、FearFestEviL予習用にはかなりタメになるインタビューではなかったかと思います。再現映画は他ではやってくれるんでしょうか(笑)

    そしてインタビューで言及されている映画、『Re-Animator』に関しては映画のポスターと同じ写真を自分で撮っているぐらいだからよっぽど好きなんでしょう(笑)
    kirk_doc_p

    しかし、こういうことになるとカーク先生もよくおしゃべりになるようで(笑)

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    タイトルが意味ありげですが、ネタを更新しそびれたので3つまとめて1つの記事したというだけです(汗

    まずは1つめ。
    クリフ・バートンのシグネチャー・モデルのベース・ギターが世界限定生産250本で発売とのこと。現地時間25日正午から発売開始なのですでに購入は可能です。お値段は税込み¥588,000也。ちなみに生産元は日本のメーカー「Aria Guitars」です。

    sbbng_ad

    ヘッド裏にはクリフのサインが印刷され、父親レイバートンのサイン入り認定証が付属。詳しい仕様は下記リンク先からどうぞ。
    http://www.ariaguitars.com/jp/01topics/13/sbbng.html

    2つめはジェイソン・ニューステッドの最新インタビュー。
    先ごろ発表したソロ・プロジェクトの『Metal』EPやメタリカについてMetal Forcesのインタビューで語っています。本編は超ロングインタビューなので和訳をあきらめてたところ、音楽ニュースサイトBarksさんが一部を和訳してくれたので一部転載します。

    彼は『Metal Force』のインタビューでこう話した。「もし俺がメタリカにいたら、メタリカはもはや生存していなかっただろう。バンドではなくなっていただろう」「これまで誰にも言ったことなかったけど、君には言うよ。俺は加入したときにメタリカを救った。そして、バンドをやめたときに彼らを救った。俺がその両方をやったから、彼らはいまでもいるんだ。俺だけの力でそうなったわけじゃない。だから、勘違いしないでくれ。独力じゃないんだ。俺の手柄だって思っているわけじゃない」

    また、メタリカへの復帰を望むファンの声を聞くものの、その気はないそうだ。「“バンドへは戻るの? お願いだから復帰してくれ”とか言われるが、それはあり得ない。俺はもうあのバンドにいたんだ。俺のバンド人生の半分を一緒に過ごした。俺はいまいい感じだ。彼らのバンドのいまいましさの中にいる必要はない(笑)。すでにあのバンドにいたんだよ」

    Barks(2013-01-24)
    実際、ジェイソンの加入そして脱退なしにメタリカが存在しえたかどうか考えるとジェイソンの発言はかなり考えさせられます。

    元々のインタビュー原文はこちらから。
    http://www.metalforcesmagazine.com/site/feature-newsted-01-13/

    オフィシャルのPVもアップされてました!
    NEWSTED - Soldierhead


    そして、3つめはロバート・トゥルージロ、、ではなく、ハルク・ホーガンの話題。

    以前、ハルク・ホーガンはクリフ・バートンが亡くなった後、メタリカのベーシストに電話で立候補したと語り(2009年)、その後もラーズとは友人でありメタリカ加入を誘われたと発言をエスカレートさせていました(2012年)。

    ところがラーズ本人からまったく記憶にないと一蹴されたホーガン。。

    このラーズの発言を受けてどう応えるのか??
    「Kerrang!」誌が突撃インタビューです。

    以下、管理人拙訳にてどうぞ。

    ハルク・ホーガン
    「あの噂はいろんな方向に捻じ曲げられてしまった。俺がオーディションを受けただの、俺が嘘をついただの。俺はオーディションなんて全く受けてないし、彼らは俺に興味をもたなかったんだよ。真実はレスリングに没頭する前は長いあいだ音楽を演奏していたってこと、そしてメタリカがベーシストを探していると聞いて、レスリングをやめて(指をパチンと鳴らし)メタリカに入りたいと思ったことだ・・・。彼らがベーシストを探していると聞いて、俺は昔やってたバンドからテープを集めて、サイモン・コーウェル(オーディション番組『アメリカン・アイドル』の審査員で知られるプロデューサー)と俺でプロデュースしたいくつかのテープを手に入れたんだ。GREEN JERRYってバンドで昔なじみのゲイリー・グリッター(70年代活躍したグラムロック歌手)が歌った「Leader Of The Gang」って曲をサイモンとね。サイモンがプロレスで使われる曲でプレイクを果たして、巨大なモンスターになるずっと前のことだ。

    俺はかき集めたものをメタリカに送ったが、彼らからは一言もなかった。そう、彼らは俺に何も返事をしてこなかった。彼らが俺を取るに足らないものと考えたか、いたずらかと思ったか、俺じゃないと思ったか。俺のことを良くないと思ったか。でも俺は彼らから何も返事を聞いたことがない・・・。俺はトライしたんだ。でも俺はメタリカのオーディションは受けたことがない。受けられたらいいなとは思ったけどね。でも彼らが捕まえたベーシストはとても良かったよ。なんてこった!」

    Kerrang!のインタビューの模様はこちら。


    BLABBERMOUTH.NET(2013-01-25)

    これって、、、結局、ラーズの友人だったとか、加入は誘われたなんてことはなかったってことですね。

    クリフの死後、どれだけの人がメタリカへの加入の申し出をしたか分かりませんが、テープを送っただけだったらラーズに記憶がないこともうなづける。

    メタリカのベーシストに関する記事なのに現ベーシストの鶴次郎が出てこなくてすんません(汗

    関連記事
    ハルク・ホーガンがメタリカのベーシスト募集に立候補していた。
    ハルク・ホーガン、メタリカに加入を誘われていたとのたまう
    ハルク・ホーガン「メタリカ加入を誘われていた」ラーズ・ウルリッヒ「覚えていない」

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    9月27日のクリフ・バートンの命日に合わせて、クリフ在籍時のライヴ音源がオフィシャルにて無料ダウンロード可能になりました。公開されたライヴは、1984年9月27日にフランスのトゥールーズで行われた『Ride The Lightning』ツアー中の公演。ダウンロードにはLivemetallicaのログインが必要です。

    この公開されたセットリストはこちら。

    01. The Four Horsemen
    02. Cliff Solo
    03. For Whom The Bell Tolls
    04. No Remorse
    05. The Call of Ktulu
    06. Seek & Destroy
    07. Whiplash
    08. Creeping Death
    09. Kirk Solo
    10. Metal Militia

    ダウンロードはこちらから。

    cliff

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    クリフ・バートン回顧録、入手しました。

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