メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    タグ:オジー・オズボーン

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    メタリカがアメリカの人気TV番組「The Tonight Show Starring Jimmy Fallon(通称:Fallon Tonight)」に出演。発表されたての新曲「Moth Into Flame」を披露しました。



    さらに同番組の楽屋裏で、各メンバーがツアーで起きたエピソードについて語った動画もアップされています。
    metallicatalesfromtourtonight




    メンバーが明かしたエピソードの概略は以下の通り。

    カーク・ハメット:『Ride The Lightning』のツアーの際に洗濯ついでに靴下を履きながらシャワーを浴びていた。

    ラーズ・ウルリッヒ:1988年『...Justice For All』のツアーでスペインに訪れた際、ツアーマネージャーもいないなか自分で真夜中にマドリッドに向かうためにタクシーを拾ったら、一車線の高速道路を400キロで走ってくれた。

    ロバート・トゥルージロ:1991年にインフェクシャス・グルーヴスとしてオジー・オズボーンとツアーを行っていた頃、オジーがライヴを行っている裏でケーブルの束にずっこけてPAシステムの電源を切ってしまった。

    ジェイムズ・ヘットフィールド:80年代にメタル・チャーチとカナダを廻っていた頃、大雪で移動バスが立ち往生し、外はひどく寒くトイレもいっぱいになっていたため、みんなでバスの周りをどれだけ長く用を足しながら回れるかという「おしっこゲーム」をした。


    ラーズの400キロはだいぶ盛ってる気もしますが(^^;

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    メタリカ、ファンクラブ限定ライブで「Moth Into Flame」をライブ初披露
    メタリカ、新譜『Hardwired...To Self-Destruct』から「Moth Into Flame」を公開

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    更新ご無沙汰しています。まずはBARKSでも報じられているこの話題。

    先日のロラパルーザの舞台裏でカリフォルニアのラジオ局「107.7 The Bone」のインタビューを受けたロバート・トゥルージロ。彼がステージ上で見せる「カニ歩き」は、オジー・オズボーンがきっかけであることを語っています。BLABBERMOUTH.NETさんの文字起こしを管理人拙訳にて。

    rob_crabwalk

    「あれはオジーがきっかけなんだ。ツアーで・・・あれは初日か2日目だったかな・・・彼と共演した2回目のショーだったと思う。ラスベガスでね、覚えているよ・・・。俺たちは(ブラック・サバスの)「Sweet Leaf」を弾いていて、彼はみんなに(ステージ上で)うるさく付きまとっていたんだ。良い意味でね。いろんなやり方で俺たちを挑発していたんだ。ステージの動きとかそういうことでね。だから俺はこの変てこな相撲みたいな動きをし始めたのさ・・・。それをみんなは「カニ歩き(crab walk)」って呼び出した。そんな感じだったのさ・・・。俺がオジーに振ってみせたら、彼も一緒にやってくれて、笑っちゃったよ。すごく面白かったね。それ以来、俺たちはやってるんだ・・・。でももう一緒ではないけどね。彼もまだやっているといいなぁ。やってるかは知らないけど。」

    「オジーと共演するなんて夢が叶ったようなもんだよ。俺たちはみんなブラック・サバスで育った。隠すまでもないことだ。メタリカのメンバーも、俺がこれまで加入していたどんなバンドのどんなメンバーでも、あるいは俺が一緒にやってきたどんなヤツでもそうさ。俺はいまだにブラック・サバスの曲を弾く。MASS MENTALの仲間ともジャムった。「War Pigs」だろ・・・「Fairies Wear Boots」だろ・・・俺たちは大好きなんだよ。今日までね。だからサバスはいつだって最高の音楽なんだ。グルーヴがあって、ファンキーで、ヘヴィで、(曲の展開に)たくさんの変化があるからね。ファストにもなれるし、最高のスローでパワフルなリフもある。メロディーも本当に重要だ。美しいよ。だから彼との共演は夢の実現なんだ。俺は80年代はじめにパーティーバンドに入っていた。そこでサバスやオジーの曲をラッシュやヴァン・ヘイレンとかそういう類の曲と同じだけ演っていたよ。だから彼と共演することは、もう一度言うけど、「えぇ!マジで!?」って感じだったのさ。そしてそれがあの時に笑っちゃった理由のひとつなんだ。俺が「カニ歩き」をしていて、オジーを見たら、現実とは思えなかった・・・俺にとっては神様みたいな、触れてはならない存在だったんだ。そんな彼が「カニ歩き」をしているんだからね。」


    BLABBERMOUTH.NETより(2015-08-03)

    インタビュー動画はこちらから。


    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ロバート・トゥルージロの新たなプロジェクトの詳細が明らかに
    ロバート・トゥルージロ、デイヴィッド・エレフソンの対談インタビュー前編
    ロバート・トゥルージロ、デイヴィッド・エレフソンの対談インタビュー後編

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    2014年9月6日にドイツで行われた「Warwick Open Day」にマス・メンタル(Mass Mental)として参加したロバート・トゥルージロ。同じイベントに参加していたメガデスのデイヴィッド・エレフソンとのインタビュー対談の模様がBassGearMagの「Metal on Metal」という企画でYouTubeでアップされていました。



    BassGearMagでインタビューの文字起こしもされていたので管理人拙訳にてご紹介します。

    davidellefson_roberttrujillo

    デイヴィッド・エレフソン(以下、DE)
    この「Warwick Bass Camp」でマス・メンタルをやったわけだけど、あれはどうやって集まったの?

    ロバート・トゥルージロ(以下、RT)
    そう。マス・メンタルは実際はファンキーで妥協知らずの集合体で、カメルーンの驚異的なベーシスト、アルマンド・サバルレッコと組んだバンドなんだ。彼とは1993年に(楽器製造メーカーの)ディーン・マークレイの宣伝の仕事で出会った。それでサンノゼに連れて行かれたんだ。行きの飛行機ではお互い知らなかったけど、帰りの飛行機では親友だったよ。その時、ケースに入ったビールを俺たちに持ってきてくれて、絆が生まれたのさ。その後すぐに、俺たちは曲を書き始めた。今日演った曲の多くは90年代に俺たちによって書かれたものなんだ。今回が俺たちの6回目のショーだよ。Warwickのプロデューサーから俺にこの素晴らしいイベントで演奏してくれないかと依頼がきたんだ。俺は「やるよ、でもアルマンドと、このプロジェクトのシンガー、ベンジーと一緒にやりたい」と言ったんだ。楽しかったよ。基本的に俺の友だちの多くは、何年も一緒に曲をレコーディングしたり、書いたりしてきた人たちなんだ。どんな機会でも彼らとまた一緒にやれるっていうのは素晴らしいことだよ。アルマンドと俺はサウンドトラックも手がけたし、マス・メンタルとして何回かやってきたことにはアニメの曲も含まれているんだ。俺がマス・メンタルに加入した時、実際に俺がやっていた・・・

    DE
    「加入」だって!?

    RT
    失礼!俺がメタリカに加入した時、やっていたことはマス・メンタルだったんだ。

    DE
    キミがメタリカを「組んで」、マス・メンタルに「加入した」ってわけかい?(笑)

    RT
    (笑)それで、俺はオジーとも仕事ができた。素晴らしいよ、カムバックできる何かがいつもあって、それを楽しめるんだから。そういう頃合いがきて、俺たちはやったわけだし。

    DE
    キミがスラップを弾いてるのをまた観れてクールだったよ、そうじゃないかい?だって最近のキミの仕事では、あれほどたくさんはやってないだろうからさ。

    RT
    そうだね。

    DE
    1993年の俺たちが写った写真を持っているよ。メタリカ、メガデス、スイサイダル・テンデンシーズが写ってた。キミと俺たちの仲間、ジミー・デグラッソ(訳注:1992年から1995年までスイサイダル、1998年から2002年までメガデスで活動)が一緒に演っていた。キミの姿で覚えているのはステージ中を動き回ってスラップしていたところだよ、そうだろ?あれをまた観れてクールだったよ。どうやったらあんなダイナミックにやれるんだい?

    RT
    クールだね、しばらくぶりだったよ。俺の昔のバンド、インフェクシャス・グルーヴスとして4、5ヶ月前にウイスキー・ア・ゴー・ゴーで演奏したんだ。あのスピリットに自分が繋がった感じだね。楽しいし、別物だった。別のヴァイヴがあったし、グルーヴも健在だった。キミたちもああいうグルーヴを持っているよね。スレイヤーもしかり、メタリカもしかり。

    DE
    いい機会だし、よかったよ。キミがあのなかで保っているものだね。

    RT
    ジェイムズ・ブラウンしかり、グルーヴが全てなんだ。グルーヴが何にでも機能するようになると、本当にアティテュードとかエッジになっていくんだ。

    DE
    インフェクシャス・グルーヴス、またやって楽しまなきゃね。あれが初めて出てきた時、俺たちメタル野郎はみんな耳を傾けたよ。あれは本当にエクストリームだったし、度を越えてたね。

    RT
    あぁ楽しかった。本当に実験的だった。スイサイダル・テンデンシーズに加入した時、マイクと俺はベースを中心に展開する曲を書き始めたんだ。何が起こるかわからなかったけど、俺たちは本当に作られるはずのなかったアルバムを作った。エピック・レコードがマイク・ミューアのソロアルバムを出したのはクールだったね。当時としては大金じゃない7万5000ドルでアルバムを作ったんだ。アルバムは普通・・・

    DE
    何十万ドルとかかるよね・・・

    RT
    そう、大金だ。俺たちは何とかオジー・オズボーンにも参加してもらった。

    DE
    オジーとのギグで得たものって何かな?

    RT
    助けになってくれたと思うよ。「Therapy」って曲があるんだけど、オジーは気に入っていたね。



    DE
    ベーシストへの注意書き「他のミュージシャンとつるめ」

    RT
    あぁその通り。俺たちはオジーと同じデボンシャー(Devonshire)っていうスタジオでレコーディングしていたんだ。本当に素晴らしいスタジオでね。オジーがそこでレコーディングしたし、もう俺たちと一緒に演ることのできない素晴らしきベーシスト、ジャコ・パストリアスもウェザー・リポートと一緒にそこでレコーディングしたんだ。俺はアース・ウィンド&ファイアーの大ファンなんだけど、彼らもそこでレコーディングした。だからこの誉れ高き要素に入れたのは最高だったよ。

    DE
    どこで魔法が起きたんだ・・・

    RT
    それにオジーは俺たちがインフェクシャスとしてレコーディングしていたのと同時期にそこにいたんだ。あれはオジーがどうかしてた時だった。ひとつ事件を覚えているよ。当時のオジーのバンドのベーシストだったマイク・アイネズが彼女を連れてきていたんだ。彼女に良い印象を与えたかったんじゃないかな。それで彼女をデボンシャーのスタジオのなかに連れてきた。オジーは正気じゃなかった。オジーは最初に彼女にタックルをかましたのさ。彼女はカウボーイブーツを履いていたんだけど、そのブーツの上から下まで実際にかぶりついたんだ。彼女のくるぶしまでね。俺はそれを目撃した。

    DE
    そりゃあヘビに噛まれるより最悪だな。それでキミもカウボーイ・ブーツを履いてるのかな。

    RT
    その通り。俺は叫び声を聞いた。出入り口に脚が2つ伸びてて、カウボーイ・ブーツを履いてた。床にオジーの背中が見えて、次にわかったことは彼らは駐車場にいたってことだ。オジーじゃなくマイクと彼のガールフレンドがね。どうにかしようとしていたんだろうね・・・。

    DE
    こちらが彼の新しいボスねってことだろ?仕事の時は奥さんに家にいてもらうことだな。

    RT
    オジーはあの頃、いろんな人に噛み付いてたんだ。

    (続く)

    BassGearMagより

    恐るべしオジー・・・。続きはまた後日。

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ロバート・トゥルージロ擁するMASS MENTALが期間限定で再結成
    ロバート・トゥルージロがジャコ・パストリアスについて語るロング・インタビュー

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の管理人拙訳を久しぶりに再開。前回までで『Ride The Lightning』のリリース、Qプライムとのマネジメント契約、メジャー大手のエレクトラとのレコード契約を果たしたメタリカ。『Master Of Puppets』の制作から始まる第5章の1回目です。

    - メタル・マスターの悲劇 -

    1984年から1985年頃、メタリカは「唯一の」ハードで騒々しい「スラッシュメタルバンド」として見られていた。それ自体、メタルの外にいた人々には真剣には受け取られていなかった。しかしラーズはその状況を心配していなかった。多くの出来事が過去3年に渡ってバンドに起きていたのだ。自発的に行った「Hit The Lights」のレコーディングから、ガタガタな一連のデモテープ、最初のギグで感じた絶望を経て、メジャー・レーベル、そしてマネージメント契約まで至ったのである。

    純粋なビジネスと戦略的立ち位置から、バンドはラーズやその他のメンバーが望んだ状態に整備された。メタリカはすでにインディペンデント系ヘヴィメタルバンドとして信じられない数のアルバムを売っていた。そして真っ当な会社にいる真っ当な人々はバンドの将来性をそこに見ていたのである。ラーズとバンド、そして彼らの弁護士は、国際企業であるエレクトラ・レコードとバンドの今後の作品との関係において意識的に芸術的自由を確保していた。

    ラーズ・ウルリッヒは前述したMM誌のインタビューをこう締めくくっている。「だから俺たちはもうレコード会社やマネージメントのせいにできない。彼らがうすのろなんじゃない。うまくいかなかったら、それはもう俺たち自身のせいなんだ。」(MM誌1984年11月10日号)

    バンドの3rdアルバム時代の到来はラーズの必須要件を課すものでもあった。その時代は全くの対照をなす出来事を含むこととなる。つまり「バンドの芸術的頂点と実際の躍進」 vs 「バンド最大の個人的悲劇」である。

    『Ride The Lightning』時代はまだ終わってなかった。1985年前半、メタリカは有名なヘヴィメタルバンド、W.A.S.P.の前座を含む『Ride The Lightning』ツアーを続けていた。これだけがバンドとアルバムのプロモーションを行う唯一の方法だった。ビデオとラジオ向けシングルはまだバンドのプロモーション戦略を担ってはいなかったのだ。メタリカはきっちりアメリカのツアーに集中し、バンドの拠点であるメタリマンションから車でわずか20分のオークランドの巨大な野球場で8月31日に行われたプロモーター、ビル・グラハム主宰の伝説的コンサート「Day On The Green」でクライマックスを迎えた。

    数日後、8月から9月になり、ラーズとジェイムズは(訳注:デンマークのコペンハーゲン空港のある)カストルプに上陸し、フレミング・ラスムッセンの待つスウィート・サイレンス・スタジオの近所にやってきた。重要な3rdアルバムは事実上、メタリカのカレンダーのうち、1986年の残りを全て費やした。

    この時、アマー島のスウィート・サイレンス・スタジオは、バンドの最初の選択肢ではなかった。夏に行われたメタリカのツアーの合間にラーズとジェイムズとフレミングは、一週間でロサンゼルスのさまざまなスタジオをチェックした。

    「存在している全てのスタジオに行ったよ。」ラーズはそう語る。「次のアルバムをレコーディングできる場所をみつけるために毎日8つのスタジオを廻ったんだ。最高のスタジオはワン・オン・ワン(One On One)だという結論に至るまでね。俺たちは85年秋にレコーディングすると話したんだけど、彼らはオーバーブッキングしてやがったんだ。マヌケ野郎どもだよ。だから俺はフレミングに、デンマークに戻ってレコーディングして、50%近く経費削減した方がよくないか?って言ったんだ。」

    スウィート・サイレンス・スタジオは、ワン・オン・ワンに欠けていたおなじみの利点が全てあった。

    「俺たちはフレミング、スウィート・サイレンスの(スタジオのオーナーである)フレディ・ハンソンともとてもいい関係だった。」ラーズは語る。「スタジオルームではさらに良いセットアップになったと感じていた。できるだけ早くレコード会社を出て、できるだけ多くの時間をスタジオに費やす。それはとても重要だったんだ。だからワン・オン・ワンで7、8週間いる代わりに、フレミングとスウィート・サイレンス・スタジオに戻って4週間とれたことは最善だったんだよ。」

    最終的に、レコーディングする場所を決めたのはバンドそのものだった。はるかに安い料金のスタジオが、ニューアルバムのレコーディングにことのほかピッタリであることを証明した。そしてメタリカのメンバーはもはやスウィート・サイレンスの屋根裏部屋で一緒に寄り集まって寝泊りする必要はなくなった。

    「俺たちはアマー島のホテル・スカンジナビアに移ったんだ。そこはリッチー・ブラックモアやその他のアーティストがデンマークにいるときに住んでいたとこだったからね。」ラーズは70年代にノートとペンを持ってホテルの外で待っていたことを引き合いに出してそう話した。「俺たちにとって、デンマークでのレコーディングは経済的にも本当によかったんだ。(レートの良かった)ドルのおかげでもあるんだけどね。それで俺たちは角2つの互いに面したスイートを予約した。ジェイムズと俺でひとつのスイート、カークとクリフでもうひとつをね。あれはよかったよ。それが4ヶ月も続いたんだ。走り回ってたら、靴擦れまで出来たよ。ハッハッハ!(笑)」

    そんなことがありながらも、やっていたことのほとんどは完全にアルバム制作に集中していた状態だった。ラーズ・ウルリッヒとジェイムズ・ヘットフィールドは完璧なメタルアルバムを作ることに本当に集中していた。そして確かに完璧なアルバムでありながら、さまざまな感情表現、これらの表現が互いに息づく、耳目を引く特別なものであった。細部に宿る力は、いわばアルバムの駆動力をなしており、単純化した「スラッシュメタル」というラベルからメタリカは喜んで最後の一歩を踏み出したのだった。ラーズは、長きに渡って続く素晴らしいロックバンドは常に出自のサブジャンル以上のものになるということをよく知っていた。

    「スラッシュという言葉は、いずれにしろ俺たちには合っていなかったんだと思う。」とラーズは『Master Of Puppets』と題する次の新しいアルバムについて論じた。「たしかに俺たちはその手のスタイルの枠内だった。スピードもエネルギーも不快な感じも俺たちの曲にはあるからね。だけど、俺たちはいつもその限界の向こう側を見ていたし、メタルに対してヨーロッパ的なアティテュードを持ったアメリカのバンドという方が俺たちにはふさわしい定義だな。『Ride The Lightning』で、俺たちはペースがゆっくりになっても、充分パワフルでいられるのだということを学んだ。そして今、俺たちは音楽に繊細な部分があっても、充分ハードに攻撃できるということを理解したんだよ。」(マーク・パターフォード/ザビエル・ラッセル共著「Metallica : A Visual Documentary(邦題:Metallica 激震正史)」(1992)より)

    『Master Of Puppets』はその前作同様に成功したテンプレートとなっていった。『Ride The Lightning』のように『Master Of Puppets』は美しいアコースティック・ギターのイントロから始まり、モンスター級のスピードが後に続く「Battery」は、サンフランシスコのバッテリー・ストリートにあるオールド・ウォルドルフで行われたクラブ・コンサートについて歌っている。A面のタイトルトラックでもある「Master Of Puppets」は「Ride The Lightning」よりもはるかに良い編曲で、どれだけバンドの(特にラーズ・ウルリッヒの)アレンジセンスが早くに成長していたかを示すいい例だ。ヘットフィールドが全ての歌詞を書き、とりわけ薬物中毒者の依存症と無力感について歌った「Master Of Puppets」は強烈だった。この曲と幻想的なミドルセクションはメタリカが今やメタル、不快な音、ハーモニー、美しさ、哀愁、巧妙さのあいだの平衡を保つマスターであることを明らかにしている。

    A面(我々はまだLP時代にいるのだ)でも激しいバラード「Welcome Home (Sanitarium)」で静まっていき、B面では『Ride The Lightning』の「The Call Of Ktulu」のように明らかにクリフ・バートンが手がけたH.P.ラヴクラフトを参照した長編のインスト曲(「Orion」)が含まれていた。

    表面的には、このアルバムは『Ride The Lightning』とある種の類似性を持っていたが、それにもかかわらず強力な価値を持っていた。バンドが革新的な『Ride The Lightning』によりすでに富を得て、エレクトラとの契約により制作期間の延長が可能となった。『Master Of Puppets』は、この2つの要因によって創造力に富む雰囲気のなか創られたのだ。85年秋の創造的な特典として、メタリカが自分たちの音楽、そしてヘヴィメタルそれ自体も新たな高みへと突き動かしていく巨大な力を持っていた。『Master Of Puppets』という驚くべきメタルの作品がもたらしたこれらすべての要因が、速さと技巧のバランスのとれたメタリカ自身のスタイルを完成させた。

    『Master Of Puppets』のレコーディングのため、ジェイムズとラーズがコペンハーゲンに前ノリしたのは、主にひとつの事柄のせいだった。盗まれたアンプがみつからず、ジェイムズがまだ適切なギターサウンドをみつけるために奮闘していたのだ。それまでに確保しておかなければならないプロセスもあった。ラーズが自身のドラムを揃えてもらうようマネージャーのピーター・メンチと彼のもうひとつのクライアントであるデフ・レパードの助けを必要としていた。その年のはじめにデフ・レパードのドラマー、リック・アレンはオートバイ事故によって片腕を失った。メンチはリック・アレンのLUDWIGの特注ブラック・ビューティー(手作りの黒く塗装されたドラム)をロンドンからコペンハーゲンに持ってきたのだ。

    しかしラーズはコペンハーゲンの店で生産終了になろうとしていたまさに同じモデルのスネアドラムを見つけた。たとえ古い「1978」の値札がついていたとしても。(訳注:デフ・レパードのレコードデビューは1980年のため、リック・アレンのニセモデルと思われる。)一方、リックは足で操作できるユニークなオペレーティングシステムによって失った片腕の代わりを務める自身のドラムキットを設計していた。

    ギターサウンド、スネアドラム、その他万事整って、『Master Of Puppets』のレコーディングが始まった。

    「私たちは本当に一生懸命やったよ。日に12時間から14時間、それを3ヶ月毎日さ。」プロデューサーのフレミング・ラスムッセンは振り返る。彼はスタジオで争いがあったことも思い出していた。「でも兄弟・姉妹喧嘩よりひどいことはなかったよ。私たちは家族のような関係だったからね。」フレミングはそう付け加えた。彼はすでにメタリカと最初に共作した頃から「親父(Dad)」とあだ名で呼ばれていた。

    さらにメタリカファミリーにおいては明確に定義された役割があった。フレミングは回想する。「クリフがベースにまつわることに対して中心に置かれながらも、ラーズとジェイムズの手中にあった。ラーズとジェイムズはスタジオでは独裁的権力は持っていなかった。でも彼らの言葉はある種の重みを持っていたね(笑)」フレミングは外交的な言い回しで笑いながらそう言った。

    さらにメタリカのマネージャーとして、ラーズが初期に果たした役割は『Master Of Puppets』のレコーディングのあいだ、ますます顕著になっていた。

    「ラーズは純粋にプロのドラマーとして非常に進歩していた。」ラスムッセンはそう語る。「でも彼はまた、物事のビジネス面において、とりわけビッグバンドの一員として、明らかに著しく素晴らしい掌握力を持っていたよ。『Ride The Lightning』から『Master Of Puppets』までにたくさんの進歩があったわけだけど、ラーズはほとんどの時間を電話に費やしていた。ジェイムズが理想のギターサウンドを探し求めていた頃、多かれ少なかれ彼自身がバンドを管理していたんだ。ラーズはツアーやTシャツやその他もろもろのために可能な限りの場所に連絡を取っていた。」

    アマー島にいるラーズとマンハッタンにいるクリフ・バーンスタイン、あるいはロンドンにいるピーター・メンチとのあいだで交わされたたくさんの会話は、来るべきツアーに向けての戦略に焦点を当てていた。前述の通り『Master Of Puppets』のレコーディングの前日、バンドは有名な「Day On The Green」で6万人のハードロックファンを前に自らの力量をテストすることが出来たし、ベイエリアに戻って、メタリカはスコーピオンズやラット、Y&Tのようなバンドの前座を務めてもいた。この経験は、メタリカに小さなクラブや会場の親密さよりも、幾分大きな場所で全力を傾けることができるという感覚を与えた。ラーズとQプライムの計画は自身がヘヴィメタルのアイコンであるオジー・オズボーンのサポートアクトとなることだった。彼は86年の春と夏を通じて、15000人から20000人収容のホッケーやバスケットボールの最も大きなアリーナで全米ツアーをしていた。そしてメタリカは最後までそのツアーに帯同することとなった。

    ソロアーティストとして、オジーは『Blizzard Of Ozz』『Bark At The Moon』アルバムを出して熱狂的ファンを増やしていた。よって(そんなオジーのファンを迎える)タフなギグがメタリカを待っていたのだ。しかしタイミングは絶好だった。この戦略は正しいことを証明した。ラジオ向けシングルやビデオは、86年当時のメタリカの選択肢ではまだなかった。オジーとブラック・サバスが70年代初頭にヘヴィという定義そのものを打破するためにこういったプロモーション手段を必要としなかったのと同じように。そしてある程度、『Master Of Puppets』は、オジーとサバスの時代の『Black Sabbath』から『Paranoid』『Sabotage』までの一連の陶酔感以来、最もクラシックな傑作アルバムとなった。

    実際、オジーとメタリカはお似合いのペアだった。オジーと彼のクルーはメタリカにまともな待遇を施し、ツアーの最後にはメタリカを観た昔からのサバスファンのなかでゴッドファーザー(訳注:オジーのこと)のセット中におむつをつけることでオジーに感謝の意を示すものもいた。

    『Master Of Puppets』のレコーディングは1985年のクリスマス・イヴに完了し、その後3人のアメリカ人たち(訳注:ラーズ以外のメタリカのメンバー)はアメリカへ帰っていった(ジェイムズのみ、デンマークを学ぶ試みとして伝説的な「スノー・ビール」ツアーを行った後で)。一方、ラーズは母親の住むコペンハーゲンの家でクリスマスと自身の22歳の誕生日を祝った。ラーズとフレミングはその後、スタジオ入りし、ラーズがサンフランシスコへ去る前に最後のドラムのレコーディング処理をしていた。サンフランシスコでメタリカは、カリフォルニアの新たな熱狂的なメタルシーンから出てきた仲間たちと大規模な新年コンサートのブッキングがあったのだ。83年以来初めて、ラーズ、ジェイムズ、クリフは以前のギタリストで今や自身のバンド、メガデスのフロントマンであるデイヴ・ムステインとステージを共にすることになった。カークの前のバンド、エクソダスもそこにいた。オジーとの今後のツアーで重要な役目を果たすこととなるジョン・マーシャルがギタリストとして在籍するメタル・チャーチ同様に。

    『Master Of Puppets』がアメリカでマイケル・ワグネルによってミキシングされていた頃、ジェイムズとクリフはホームであるサンフランシスコでお遊びバンド、スパスティック・チルドレンを組んで楽しんでいた。ラーズは1986年3月7日のアルバムのリリースまで熱心にメディア取材ツアーを行っていた。ラーズは話題がメタリカとなり、メイントピックが『Master Of Puppets』となるといつも夢中になっていた。バンドは著名なハードロックの出版物のなかで、表紙を飾る存在となっており、購入者からの反応は目に見える形で現れた。リリース最初の週に『Master Of Puppets』はアルバムヒットチャートTOP30まで登りつめたのだ。(メタリカが86年夏の終わりにオジーとのツアーを終えた時点で、アルバムはアメリカでゴールドディスク、つまり50万枚を売り上げた。)

    そんなわけで、3月27日から始まったカンザスシティーのオジーとのツアーは確かにメタリカのための春といえた。1時間のセットを終え、シャワーを浴びたら、バックステージでアルコホリカ・パーティーの始まりだ。忘れてはいけないことは、彼らのアイドルのコンサートを毎夜タダでそしてベストの位置で見られるということだった。

    1986年のツアーのあいだラーズはこう語っている。「俺たちはこのギグ以上のサポートを得るなんて望むべくもないことだよ。オジーは本当に度を越えた観衆を魅了していた。俺たちは最も度を越えた新進気鋭のハードロックバンドのひとつなわけで、理想の観衆のためにキッチリ演奏する機会を得たってわけだ。バンドは55分のセットを毎夜やって、本当にクールに迎え入れられた。メタリカもオジーのクルーからファーストクラス級の扱いを受けたんだ。」(マーク・パターフォード著『Metallica in Their Own Words』(2000年刊行)より)

    しかしメタリカのビーカーに苦味が数滴落とされた。『Master Of Puppets』の最後の曲に触発され公式ツアーのタイトルは「Damage Inc.」だった。この超高速の曲はこの当時のメタリカで支配的なムードを完璧に捕らえていた。ステージ上でもバックステージでも彼らのキャリアの面でも。しかし情け容赦ない運命は、全くツアータイトルの文字通りのごとくとなっていくのである。

    ニュージャージーのメドウランズ・アリーナ(現アイゾッド・センター)で、オジーの観衆が凶暴化し、機材が壊され12万5千ドルの被害に遭ったこともそのひとつであり、一方でロングビーチアリーナでファンがバルコニーから転落し、オジーのライヴ中に怪我が元で死亡したというもうひとつの悲劇的な側面もあった。そしてそれから2ヶ月と経たないうちに信じられない悲劇がメタリカを襲うこととなる。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/
    metallica-ozzy-86
    メタリカとオジー・オズボーン(1986年)

    ちょっとずつ訳しためていたものを一気に放出してしまったので、続きはまたしばらく先になりそうです。しばらくお待ちください(汗)

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(2)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(3)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(4)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(5)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(6)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(7)
    ラーズ・ウルリッヒの原点を巡る(8)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカへの布石(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(3)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(4)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(5)
    ラーズ・ウルリッヒ、メタリカ結成へ(6)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(2)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(3)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(4)
    ラーズ・ウルリッヒ、コペンハーゲンからの快進撃(5)

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    更新ちょいご無沙汰です。まずは小ネタを。

    オジー・オズボーンとその妻シャロンがパーソナリティを務めるラジオ番組『Ozzy's Boneyard』のなかで“究極のギターゴッド”特集を組み、メタリカについて語りました。

    シャロンは番組でメタリカの「Battery」を流す前に次のように語っています。(以下、管理人拙訳)

    sharonosbournelarsulrich

    「私たちは彼らの親のような気持ちよ。彼らが若いときから知っているし、成長して、それぞれ家族を持つのを見てきた。特にロバートはね・・・彼はオズボーン・ファミリーの一員よ。ロバート・トゥルージロがメタリカに加入してから、私たちはより絆が深まったの。ファミリー、彼らはファミリーよ。わかるでしょ。メタリカのことはすごく尊敬しているの。個人的にも彼ら全員、一人一人のことが大好きよ。」「ラーズはちょっとビッグマウスなのよ。彼には時おりビンタが必要ね。でも私たちは彼らのことが大好きなの。」


    2008年、ラーズはオジーについて次のように語っていました。

    「1986年、オジーはツアーに俺たちを(前座として)連れて行ってもらって、ここアメリカで初めてのブレイクをもたらしてくれた。だからプレイしようとか集まろうと電話をもらったらいつだって、もちろん俺たちの答えは「ファックイエー!いつどこでやるのか教えてくれれば、そこに行く」ってもんだ。」

    ロバートはオジーのバンドを離れメタリカに加入したことについてMTVのインタビューで次のように語っています。

    「俺はこの仕事(メタリカ加入)のオファーを受けて有頂天だった。でも同時に心の奥底にオジーとシャロンへの気持ちもとても強く存在していた。彼らは俺にとってこの数年とても重要な人たちだったからね。とても尊敬しているし、俺の人生を変えてくれた。ロサンゼルスに行くとすぐにシャロンに呼ばれて、俺たちは夜遅くに会ったんだ。とても感情的だった。それから3、4日後にオジーは俺を呼んで、(メタリカ加入を)賛成してくれて、とても前向きだったんだ。彼は「俺のもとでよくやってくれた。祝福しているよ。おまえに怒ってなんかいないんだ、ロブ。これまでよくやってくれた。おまえは今まで演ってきたなかで最高のベーシストの一人だ」とね。」

    BLABBERMOUTH.NETより(2015-05-25)

    BIG4のうち、メタリカ以外の3バンドが参加することになった今年のラウドパーク。その後に行われるオズフェスト・ジャパンに向けての秋波を送っていると思うのは思い過ごしでしょうか。(もうヘッドライナー決まってるし、ないか・・・)

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    メタリカ、ロックの殿堂25周年記念コンサートでオジー・オズボーンらと共演。
    メタリカ、オジー・オズボーンと慈善コンサートに参加予定
    Metallica オズフェストのヘッドライナーに!

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    2014年5月12日に行われた「MusiCares MAP」基金の10周年コンサートでアコースティック・カバーを披露したメタリカ。同基金からスティーヴィー・レイ・ヴォーン賞を受賞したオジー・オズボーンを称賛するために駆けつけました。この日行われたLoudwireによるカーク・ハメット独占インタビューを管理人拙訳にて。

    musicares-2014-5887
    Kathy Flynn, WickedGoddessPhotography.com

    Loudwire
    カーク、今日ここでオジーを称賛することがどういうことか少し話してもらえますか?

    カーク・ハメット
    信じられないほど名誉なことだよ。こんな形でオジーが必要としている支援をここでこうして出来たというのが本当に嬉しい。「MusiCares MAP」はたくさんの友だちに支援されている素晴らしい団体だ。このイベントの一部として参加できたことは本当に名誉なことだよ。

    Loudwire
    メタリカ自身がレジェンドとなっているなかで、オジー・オズボーンのようなこの世界のアイコンの近くにいることでインスピレーションを得ますか?

    カーク・ハメット
    他のミュージシャンの近くに身を置くことはいつだって感化されるよ。オジーがこうしてやってきて、他のミュージシャンもいるというのは俺を後押ししてくれると思う。ミュージシャンとして良くなろう、ミュージシャンとしても人としても成長していきたいと背中を押してくれるんだ。俺はまだ自分の楽器(ギター)を上達させること、新しいことを学ぶことに貪欲だ。それがバンドを長く続けることの手助けになると思っている。バンドの4人全員がこういう考えで共に前を進んでいけたらと思うね。

    Loudwire
    メタリカの次のアルバムはどんな状況ですか?

    カーク・ハメット
    ニューアルバムはまだ制作初期段階なんだ。つまり、俺たちにはたくさんのリフがある。リフがあまりにたくさんありすぎるという呪いに恵まれている。だから、もう少し辛抱してもらわないといけないね。でもこれは良い呪いだ。俺たちにはおそらくアルバム3つ、4つ分の素材がある。でも俺たちは本当に良いアルバムをひとつ作りたいんだ。1曲にそいつを全部ぶち込んで、全てのリフでもって9分の曲を作るかもしれないね!

    Loudwire(2014-05-15)

    インタビュー最後の言葉はカーク流の冗談でしょうか(笑)そろそろリフから曲へと形作って欲しいです。ツアーの合間もこうしたアコースティック・ライヴや他のミュージシャンとの交わりのなかでまたいろいろと刺激を受けているようです。新譜にどう生かされるのか楽しみなところ。

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    メタリカ、慈善コンサートでアコースティック・カバーを披露
    メタリカ、オジー・オズボーンと慈善コンサートに参加予定
    ジェイムズ・ヘットフィールド、サミー・ヘイガーらと慈善コンサートに参加予定

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    Metallica.comにてアナウンスがありました。オジーとステージ上での共演となるとロックの殿堂25周年以来でしょうか。管理人拙訳にて。

    Metallica-Ozzy-Osbourne1

    5月12日(月)にロサンゼルスで行われる「MusiCares MAP」基金の10周年慈善コンサートに参加することを誇りに思います。親愛なる友人オジー・オズボーンはそこでスティーヴィー・レイ・ヴォーン賞を受賞します。オジーが我々の全人生を通じて大きな存在であることは隠すまでもないことです。この特別な夜をオジーと過ごせることに大変恐縮するとともに光栄に思っています。

    「MusiCares MAP」基金は、音楽コミュニティならびにツアーやビジネスのサポートメンバーにアルコール中毒回復治療や禁酒生活の援助を受けられるよう働きかけています。ジェイムズは2006年にこの賞を受賞しました。そして我々はMAP基金が行っている素晴らしい業務のサポートを続けてきたことを誇りに思います。オジーに敬意を表することに我々も加わり、ケブ・モ(ブルース音楽家)とオジーとそのツアー・バンド、スラッシュのギターを含むメンバーでスペシャル・パフォーマンスを行います。ジョー・ウォルシュ(イーグルス)がオジーに賞を贈るプレゼンターとして出席し、ジェフ・グリーンバーグ(ヴィレッジ・スタジオのオーナー兼CEO)がクレイグ・ファーガソン(アメリカのテレビ司会者)から「From The Heart」賞を授与される予定です。

    このイベントはロサンゼルスのクラブ・ノキアで行われ、バルコニー席の自由席チケットが50ドルでAXS(www.axs.com)を通じてのみ購入可能です。チケットはただいま発売中。

    10席限定のスペシャル・ディナー・コンサート・リビング・ルームのチケットは12500ドル、フロアの個人席は1250ドル、フロアの立見席は500ドル(VIPの軽食含む)、バルコニーの限定VIP席が200ドル。(中略)イベントとチケットの詳細についてはwww.musicares.orgをご覧ください。

    Metallica.com(2014-03-17)

    日程的にはヨーロッパツアーの前。休暇を終えてそろそろやったるかという時期です。

    慈善コンサートってこともあるんでしょうけど、12万円の席なんてのも用意されてるんですね。まさにVIPが集まる席ということでしょうか。オジーに加えて、スラッシュとも共演ということで、バックステージでカークとホラー映画談義でもするのかしらと妄想を巡らせた管理人でした。

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    メタリカ、ロックの殿堂25周年記念コンサートでオジー・オズボーンらと共演。
    ロックの殿堂コンサートのベスト盤にメタリカが演奏したブラック・サバスのカバー「Iron Man」収録
    ロバート・トゥルージロ、ブラック・サバスのトリビュート慈善コンサートに参加
    ロバート・トゥルージロらが参加したブラック・サバスのチャリティー・トリビュート・コンサートのファン撮影映像が公開

      このエントリーをはてなブックマークに追加
    映画『メタリカ・スルー・ザ・ネヴァー』の一般公開が近づき、メタリカのメディア露出がちらちらと増えてくるようで。

    2013年11月20日
    に発売される「TV Bros.」にてジェイムズ・ヘットフィールド&ラーズ・ウルリッヒのインタビューが掲載予定とのこと。

    表紙画像がアップされたら差し替え予定。
    HBTVB
    TV Bros. 2013年11月23日号


    TV Bros.のサイト上で掲載されている概要はこちら。

    次号概要:『さまぁ〜ずライブ9』DVD発売記念特集、日焼け特集、メタリカ登場!ほか
    『さまぁ〜ずライブ9』DVD発売を記念して、さまぁ〜ずのお二人が本誌登場!!
    また、お二人に合わせて(?)冬だけど<日焼け>特集も予定。
    そして、カーカスに続き次号はメタリカ?というラインナップでお届けいたします。どうぞお楽しみに〜。

    TV Bros.(2013-11-06)

    何で「?」が付いているのか、若干不安ではありますが(苦笑)

    ちなみにこの記事を書いている時点(2013年11月6日)の最新号では表紙にも書かれている、面白い漫画を勝手に表彰する「ブロスコミックアワード2013」の他、『LOUD PARK 13』にも出演したCARCASSのインタビューが掲載されています。

    tvbros1109
    TV Bros. 2013年11月9日号


    「TV Bros.」では以前、オジー・オズボーンのインタビューも掲載されていたことあったし、メタル畑の方が編集部にいるのかしら?
    TVBros_2010_22

    このぐらいインパクトのある表紙が欲しいとこですが、次号予告の力の入れ具合的にはさまぁ〜ずが表紙かな。

    ブログランキングに参加しています。
    応援クリックをヨロシクお願いします。

    関連記事
    「ヘドバン vol.2」にて“俺たちのMETALLICA御柱祭”特集
    BURRN!12月号にラーズ・ウルリッヒ&ロバート・トゥルージロのインタビュー掲載
    週刊SPA!でラーズ・ウルリッヒのインタビュー掲載

    このページのトップヘ