メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

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    俳優/プロデューサーのディーン・デルレーが毎週月曜日にMCを務める「Let There Be Talk」のなかで、メタリカ草創期最大の功労者のひとり、ブライアン・スレイゲルのインタビューが行われました。インタビューでは、メタリカについても触れていたので、UltimateGuitar.comの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    metallica_adam_brian
    写真左からラーズ、ネルガル(Behemoth)、ジェイムズ、ブライアン
    −メタリカを初めて目にした時

    彼らの初めてのライヴは見逃してしまったが、2回目の(サクソンと一緒に行った)ライヴで、ヘットフィールドは(ギターを弾かずに)歌っているだけだった。彼らはヘットフィールドがそんな状態でもう一回くらいギグをやったかもしれない。それから彼がギターを弾くようになり、ギターを争っていたんだ。

    面白いのは、当時の彼はメチャクチャ恥ずかしがり屋だったってことだね。はじめの頃のギグで喋っていたのは全てムステインで、ヘットフィールドは本当に一言も口をきかなかった。彼がギターをプレイし、全ての曲を書いて、それはちょっと変わったんだ。彼らがどうしてそうしたか覚えていないが、「歌っているあいだに俺にギターをよこせ」と彼がなるまで長くはかからなかったね。


    −シャイなジェイムズがフロントマンに

    シンガーがいなかったから彼が歌っただけだ。彼らがデモを録った時、ラーズがドラムをやってジェイムズが他のもの全てをやった。それで彼は事実上シンガーになったってわけだ。LAで彼らとウマが合った唯一のバンドはアーマード・セイントだったってのはよく知られた話でね。彼らは一緒にギグをやり、よくつるんでいた。それでメタリカは(アーマード・セイントのシンガーである)ジョン・ブッシュに「俺たちのバンドに加われよ!」といつも誘っていたが「いや、俺は仲間と一緒にやるよ」と返していたね。

    −メタリカの歴史の面白いところ

    私にとっては、座って2秒考えただけでいまだにクレイジーだと思うよ。ラーズと私は、彼らがロックの殿堂入りを果たした時にちょっと時間が取れたんだが、彼が私を見てこうさ。「これは一体全体どうしてこんなことが起きてるっていうんだ?」って。

    とても奇妙だったよ。私たちは以前、16歳と18歳のキッズで友人だったからね。2人とも音楽業界で長いキャリアを持つなんて誰が思っただろう?それについて考えると、とても信じられないよ。


    −メタリカの潮目の変化

    オジーの前座をするまでは、これは本物だと私のなかに記されることはなかった。着実に毎晩毎晩オジーをぶっ壊していた。「わぁこれは本当にビッグになるぞ」ってね。あれで「これは政権交代だ。このバンドはツアー後にビッグになるだろう」と私は思ったよ。レコードもよかった。本当に変わった。ラジオやMTVでのエアプレイなしにね。彼らはあの時点で超ヘヴィなバンドとしてそれをやってのけたんだよ。

    UltimateGuitar(2017-10-06)

    インタビュー全編はこちらから。
    https://soundcloud.com/deandelray/379-brian-slagel-founder-and

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    ボストンのラジオ局「98.5 The Sports Hub」の番組「Toucher & Rich」で行われたカーク・ハメットへの電話インタビュー。「Enter Sandman」のリフを思いついた時のエピソードについて語っていました。BLABBERMOUTH.NETの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    kirkhammettmetallicabaltimore2017

    −「Enter Sandman」のリフを思いついた時の思い出はある?

    とても詳細にね。すごくハッキリした思い出があるよ。あれは深夜2時か3時くらいだった。俺がサウンドガーデンのアルバム『Louder Than Love』を聴いていたんだ。その頃はまだサウンドガーデンが少しアンダーグラウンドでインディーのレーベルにいた時だったね。俺はあのアルバムが大好きなんだ。サウンドガーデンの素晴らしいアルバムだよ。で、そのアルバムを聴いていたら、触発されて自分のギターを手に取ってあのリフが思いついたってわけ。

    クールなリフだった。リフがクールだってことはわかる。演奏してみてクールなリフだったら、すぐにでもノれるからね。だから、おぉこれはかなりクールだぞ、いいフィーリングでいいサウンドでいい音の組み合わせだって。

    ラーズがリフを聴いたら「最初の部分を4回繰り返してくれ」って言ってね。俺がやってみせたら「そう、それだ」ってラーズが言ったんだ。


    BLABBERMOUTH.NET(2017-09-13)

    インタビュー全編はこちらから。カークがコレクションした映画ポスター展、失くしたiPhone、Alcoholicaと呼ばれていた時期の話などをしています。
    http://boston.cbslocal.com/audio/toucher-rich/kirk-hammett-interview/



    LouderThanLove
    Louder Than Love


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    メタリカ草創期最大の功労者のひとり、ブライアン・スレイゲルが自らのレーベルMetal Bladeを興し、音楽に身を捧げた半生を綴った『For the Sake of Heaviness: The History of Metal Blade Records』を2017年8月29日に上梓。

    ForTheSakeOfHeaviness

    この著書の中でクリフ・バートン、ジェイソン・ニューステッドをメタリカ加入に繋げた逸話について語られていました。billboardの抜粋記事を管理人拙訳にてご紹介します。

    1982年の後半、私(ブライアン・スレイゲル)は『Metal Massacre II』をリリースしようと楽曲を集めていた。受け取った投稿のひとつにサンフランシスコのトラウマ(Trauma)というバンドからの3曲入りデモがあった。かなり専門的に録音されていて、彼らのマネジメントは(訳注:ハリウッドの伝説的クラブ)トルバドール(Troubadour)でショーをするためにやってきたのだと私に告げていた。そして私に彼らを見に来たらどうだと提案されたのだ。

    ショーに出かけた結果、バンドはまぁよかったが驚くべきものはなかった。ただベーシストはこの世のものとは思えないものだった。彼がいるステージ側では何かが完全に狂っているのを見る事ができた。青いデニムのベストとベルボトムを着ていて、本当に飛び抜けている。私は彼の名前がクリフ・バートンだということを掴んだ。

    クリフには大層感銘を受けてね。トラウマの「Such a Shame」を『Metal Massacre II』に収録することを承諾した。それがリリースされる少し前に、私はラーズ・ウルリッヒと出会って、彼から「新しいベーシストが必要なんだ」と聞かされたんだ。

    Trauma Such a Shame


    より多くの練習して、ミュージシャンとしての各々の能力を磨き始めてみて、メタリカのメンバーはベーシストのロン・マクガヴニーだけが進展していない唯一のメンバーだと気が付いてしまった。ロンは素晴らしい男だったし、すごくクールではあったが、ラーズは自分たちが書いていた新しい楽曲からすると、ロンは技術的観点からそこまでに達していなかったと私に話していた。そしてラーズは私に他に誰かピッタリの人物を知っているか尋ねたんだ。

    私はこう答えた。「そういえば、サンフランシスコのトラウマってバンドのベーシストは目を見張るものがあったね。彼らはまた別のショーでやって来るから、行ってチェックしてみるべきだよ。」とね。

    トラウマの次のLAのショーでラーズとジェイムズに会った。ライヴが始まって5分くらいで、ラーズは私に向かって笑みを浮かべて「あいつが俺たちの新しいベーシストになる」と言っていたよ。

    ・・・新しいバンドを見つけるための主な情報源のひとつは、Metal Bladeに所属する他のバンドたちからだった。例えば、ビッチ(Bitch)がフェニックスでショーをするために出ていて、戻ってきたら彼らがこう言うんだ。「俺たちの前座がフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam and Jetsam)ってバンドだったんだけど、あいつらすごいぞ。チェックするべきだよ。」

    彼らは当時『Metal Shock』というデモテープを持っていたんだが、私はそれを聴いて恋に落ちたね。それから彼らのライヴを観るためにフェニックスに行ったんだ。彼らはビッチが言っていたようにすごかった。フェニックス滞在中にそのエリアのもうひとつのバンド、セイクレッド・ライク(Sacred Reich)を見出し、Metal Bladeの名簿にサインすることになった。

    当時、レーベルには熟練のバンドがたくさんいたけど、フロットサムのメンバーは既存のバンドよりも経験豊かなようだった。私はすぐにレコードを作るという考えについて彼らと話した。我々には提供する資金があったおかげで、アルバム『Doomsday for the Deceiver』をレコーディングして1986年7月にリリースできた。

    doomsday
    Doomsday for the Deceiver


    フロットサムのアルバムに費やした1万2000ドルはそれまでにレコードに投資した最大の予算だった。我々は彼らが素晴らしい未来の可能性を秘めていると信じていたから、本当に良いと思っていたんだ。実際、それは非常にうまくいった。

    メタリカのクリフ・バートンがその年の後半に悲劇的な死を遂げた時、私はラーズ・ウルリッヒから電話をもらった。「あぁ、ベーシストが必要なんだ」と悲しそうに言っていた。それはクリフが死んでちょうど2週間後のことだった。「誰か知ってる?」私はすでにアーマード・セイント(Armored Saint)のジョーイ・ヴェラが(メタリカ加入に)興味がないと言うのを聞くまでは彼を(メタリカのベーシストに)と考えていた。ラーズがその質問をした時、私はすぐにフロットサム・アンド・ジェットサムでプレイしていたジェイソン・ニューステッドを考え付いた。「キミのために完璧な男を私は知っている」そう彼に言ったんだ。

    同じ頃、エレクトラのA&Rでメタリカとサインをしたマイケル・アラゴがフロットサムのレコードを聴いて、本当に気に入っていた。マイケルと私は双方ともメタリカのメンバーにその楽曲を送っていたんだ。「うん、彼は面白そうだ。俺たちに繋げてくれないか?」と彼らが言ったんで「もちろん、最初に彼に話をさせてくれ。彼が(メタリカ加入に)興味を持っているか確認したい。」と答えたよ。

    私はジェイソンがメタリカの大ファンだということを知っていた。私が電話した時、彼は心底びっくりしていた。でも彼が難しい立場にあるということも言えた。フロットサム・アンド・ジェットサムは彼のバンドだった。彼が曲を書き、全てのことをこなしていた。私にとっても少々ほろ苦いものだった。素晴らしいバンド(フロットサム・アンド・ジェットサム)が素晴らしいレコードを出したばかりなのにってね。でもメタリカのメンバーたちは私の良い友人だったし、彼らにとって明らかにジェイソンは完璧にハマる人物だった。私はジェイソンにとっても、メタリカにとっても、ベストなことを望んでいたが、それを実現するためには何かを失うということもわかっていた。

    「一晩考えさせてくれ」ジェイソンはそう私に言った。翌日、彼は私に電話をして、メタリカ加入の道に進むことを私に告げた。彼はメタリカのために私が引っ張ってきた2番目のベーシストだった。しかし私は物事がどのように進む可能性があるか彼に正確に伝えた。なんと言おうが彼はまだ若く、23歳の子供だったからね。ジェイソンは本当に賢かったが、このメンバーの移行というのは彼にとって簡単なものではないということを私はわかっていた。彼は自分で全てをコントロールしていたバンドからメタリカに行ったんだ。そこでは何についてもコントロールできない。私はこう言ったのをハッキリと覚えているよ。「このバンドにはジェイムズとラーズがいるということを知っておく必要がある。キミは何も言えないだろう。キミはただのベーシストになる。キミはそれでOKとしなければならない。何も貢献できないかもしれない。バンドの方向性に関して何の介入もできないだろう。キミはステージに立ってただベースを弾くことになる。」

    彼は最初はそれでよかったが、15年後に彼がバンドを去る主な理由のひとつはわかっている。身体的にボロボロになっていた事実を除けば、自分自身の楽曲を書き、自分自身のことをすることができなかったということだ。彼は自分の運命をコントロールしたいと思っていた。でも彼が持ちえた功績とキャリアがどれだけ素晴らしいものだったか!

    ジェイソンと彼らを繋ぎ合わせたことは、私とメタリカとの正式な関係の終焉を告げることとなった。我々はいつも親しい友人のままだし、彼らはいつも彼らのキャリア面においてMetal Bladeが果たした役割について信じられないほど感謝してくれている。私がジェイムズに会うたびに、彼は「俺たちにスタートの機会を与えてくれてありがとう。もしあなたがいなければ・・・」と言ってくれるんだから。

    billboard(2017-08-21)

    今回の上梓された著書についてラーズとジェイムズは次のようなコメントを寄せています。

    ラーズ・ウルリッヒ
    Metal Bladeはハードロック界 いつもシーンの最前線に立ち、時代と共に歩み、連勝街道ひた走り、動きの中に身を置き、全ての競合相手より生き永らえた。もちろん、Metal Bladeの中心はブライアン・スレイゲルだ・・・ブライアンの情熱、信頼性、メタルに関する全てのものへの献身は尋常じゃない。
    ジェイムズ・ヘットフィールド
    ブライアンって人はいつも・・・この種の音楽にあまりにも多くのことを果たしてきたから、俺は彼に最高の敬意を持っているよ。レコード業界の浮き沈みや音楽の人気の浮き沈みを通じて、ブライアンは戦い続けて、自らが正しいと感じることを続けているんだ。

    ForTheSakeOfHeaviness
    For The Sake Of Heaviness : The History of Metal Blade Records


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    バンクーバーのラジオ局「CFOX」のインタビューにてカーク・ハメットがジョー・サトリアーニから受けたギターレッスンについて語ってくれました。BLABBERMOUTH.NETの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。
    kirkhammettmetallicacfox2017

    −ジョー・サトリアーニのギターレッスンを受けるきっかけについて

    1981年に彼からレッスンを受けた。俺たちは前からお互いに知っていてね。カリフォルニア州のバークレーにある小さな音楽店でレッスンをしていたんだ。俺の友だちみんなが彼からレッスンを受けていて、彼らは文字通り一晩でとてつもないほどのギタリストになっていた。だから俺は彼をみつけて言ったんだよ。「俺も一晩でとてつもないほどのギタリストになりたい」ってね。それでしばらくのあいだ、約1年ほど彼からレッスンを受けたんだ。

    −ジョー・サトリアーニの最初のギターレッスンについて

    実際にはとても厳しいものだった。最初のレッスンではこうだ。「自分の課題を学べ。キミの時間を無駄にするな。俺の時間を無駄にするな。一週間で俺がキミに与えたもの全てがわかるようになる。」俺はもう「この人はマジだ。」って感じだった。でもどうなったか?俺はレッスンを受けてめった打ちだった。でもしばらくすると、俺は彼から週2回のレッスンを受けていたんだ。彼が用意した課題に対して俺は喉から手が出るほど切望するようになっていた。「さぁ来い!なるほどそういうことか!もっと学びたい!」って感じだったよ。

    ジョー・サトリアーニはいつもそういう風にプレーしていたと言わなきゃならないね。俺が初めて会って以来、彼はずっととてつもないプレイをしていたよ。誰もやったことないような、おそらくいまだに演奏されないような全ての音、全ての小節、タッピング、クレイジーなフレーズ。つまり彼はミュージシャンとして、それくらいユニークで個性的な人なんだ。


    BLABBERMOUTH.NET(2017-08-17)

    ちなみに2016年の「Classic Rock」誌のインタビューでジョー・サトリアーニは生徒としてのカーク・ハメットについて次のように語っています(管理人拙訳)。
    才能と熱意でいっぱいの子どもだったよ。カークは素晴らしい生徒だった。とても学習意欲があってね。彼の指は大きく動いていた。マイケル・シェンカーやウリ・ジョン・ロートみたいなギタリストのように素晴らしいセンスを持っていたよ。彼は間違いなく音楽の才能がある。

    BLABBERMOUTH.NET(2017-08-17)

    インタビュー全編はこちら。『Hardwired...To Self-Destruct』でやってて一番エキサイティングな曲は「Halo On Fire」であることやピーボディ・エセックス博物館で行われているカークのホラー映画ポスターコレクション展「It's Alive!」について語っています。


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    カーク・ハメットの映画ポスターコレクション展「It's Alive」プレビュー
    2017年8月、ピーボディ・エセックス博物館にてカーク・ハメット所蔵の映画ポスター展開催

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    Podcast番組「Alphabetallica」にて行われたメタリカのベーシスト、故クリフ・バートンの父親、レイ・バートンのインタビュー。Ultimate-Guitar.comの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

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    −受け取っている印税について

    私が受け取っている印税から、彼(クリフ)が通っていた高校、カストロバレー高校の音楽教育のために奨学金として寄付しています。だから奨学金を受け取った子供たちはそのことについて私に感謝している。

    クリフもおそらく自分のお金でそういうことをしていたでしょう。彼は何が何でも教育に逆らっていたわけじゃないですからね。学ぶことが大好きだったので。


    −クリフ・バートンが初めてメタリカで収入を得た時について

    あのアルバム(メタリカのデビューアルバム『Kill 'Em All』)がどんな意味を持つかなんて全く考えたことがなかった。クリフが初めて印税の小切手を受け取った時、これは大事になる可能性があると気付いたのです。

    たしか1500ドルでした。彼(クリフ)は「母さん、父さん、これが俺が初めて受け取った印税小切手だ。さぁ今夜はディナーに連れて行くよ。」と言ってね。「OK、では行こう!」と。カストロバレーのすぐそばにあるヘイワードで、彼が大好きなお寿司の店に行ったんです。それが将来大きくなるかもしれないと思った最初の出来事だったかもしれない。


    −メタリカとしてのクリフ、そして現在のメタリカについて

    ジェイムズとラーズ、そしてデイヴ・ムステインを初めて観たのは、サンフランシスコのストーンでのライヴでした。(妻の)ジャンと私はクリフが新しいバンドで演奏するのを観に行き、彼らはとてもうまく行っていた。彼らは皆、止まらないモップのような髪の毛をしていて、とても楽しませてくれる。そして素晴らしいことに、彼らはいまだに楽しませてくれます。

    私はメタリカのコンサートに行くのが大好きです。音楽は私の好きな(ジャズの)ビッグバンドではないけれども、面白い。音楽というものは楽しいものであるべきで、彼らは確かにそうですからね。

    ジェイムズはシンガーとしてもフロントマンとしても素晴らしい仕事をしている。彼はまさしく完璧な適任者です。一度、彼に高校でチアリーダーだったか訊いたことを覚えてますよ。大笑いしてましたね。彼はチアリーダーとは程遠かったと。

    いつも私を驚かせてくれました。言ってみれば、とても無口で目立たなかった子が、まず素晴らしいギタリストへと変化を遂げて、自身のヘヴィメタルの曲を歌い、群衆を巻き込むようになったのですから。

    −息子クリフ・バートンについて

    彼は格別の子どもだった。私たちにとっては一人の良い人間でしかなかったけど、彼は決して私たちに何か問題を起こすようなことはなかった。ドラッグにはハマっていなかった。ただ、ビールとアルコール類は例外でした。

    一度だけ彼が(友人でドラマーの)デヴィッド・ディドナートと酔っぱらって帰ってきてね・・・(笑)深夜2時にドアがノックされて、(クリフの母親の)ジャンが応対に出た。すると会話が聞こえてくる。ジャンが「レイ、こっちに来て!」と言うので、起きて行ってみると家のなかでデヴィッドがクリフと取っ組み合いをしていた。私たちはクリフを彼の部屋に連れて行った。彼はひどく酔っぱらっていたよ!(笑)

    とにかくジャンは全てのことを心配していた。だから私はジャンに「何回かあったことだから、後は私がやるよ。ベッドに戻りなさい。」と言ってね。クリフをベッドに座らせると、シャツを脱がせて彼が寝る準備をして。彼は18歳かそこらでした。

    私が彼のシャツを脱がせて寝させると、彼は顔に酔った笑みを浮かべて「あなたは世界で最高の父さんだ!」と(笑)アルコールでどうなってしまうのかというのは面白いものだね。

    そんな風に私が本当に素敵な父親であるかのように扱われたから、私はいつもそうあり続けた。もちろん、それは私がそうなりたい、そうしようと思っていたところですが。

    母親、父親との関係にとても好意的な子どもを持つと、子どもについて何もとやかく言えないものだよ。まさにそれがジャンと私の場合でした。

    Ultimate-Guitar.com(2017-08-09)

    インタビュー全編はこちらから。


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    クリフ・バートンの父、メタリカ加入時のクリフの様子を語る

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    Podcast番組「Alphabetallica」にて行われたメタリカのベーシスト、故クリフ・バートンの父親、レイ・バートンのインタビュー。Ultimate-Guitar.comの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    ray burton

    −メタリカ加入時のクリフの様子について

    おそらく1982年かそのくらい、83年だったかもしれない。息子は(母親の)ジャンと私のところにやってきて、「母さん、父さん、5年間サポートしてくれて本当にありがとう。」と言ったんだ。私たちはそれほどではないにしても確かに彼をサポートすることができた。すると息子は「もしうまくいかなかったら、スタジオ・ミュージシャンになろうと思うんだ」と言っていた。

    それは彼が私たちに提案したものだった。もちろん私たちは「思うようにやりなさい!外に出て試してみなさい。私たちは出来る限りオマエをサポートするつもりだ。」と言ったよ。それはかなりうまいこといった。

    クリフが生きていたら、どうだっただろうとよく考える。彼が好きだった音楽をいまだに演奏しているであろう姿がありありと目に浮かぶね。


    一度、彼にスタンダードなベース演奏について口にしたことがある。彼は「そうだね、それについては考えていたんだ。いつかはそれに取り組むよ。」と言っていた。このことは彼が音楽の演奏能力を広げようと考えることができることを私に示してくれた。

    −メタリカに加入してクリフは変わったか

    クリフはまったく変わらなかったよ。彼はとても謙虚な人間だった。彼は人気が出た時のロック・ミュージシャンがなるみたいな調子付くタイプが気に入らなかった。

    ヘヴィメタルを荒々しくプレイすることが好きなだけで、決して変わることはなかった。彼は道やレストランで高校の友だちに会ったら、椅子から立ち上がって彼らに挨拶に行くだろう。常にその点で変わったことがないんだ。いつも友だちに感謝していた。だから全く変わらなかったんだろう。

    彼はジャンとかなり頻繁に電話で話をしていた。何回か私が彼と話したことはあったが、彼女が一番彼と話していた人だったね。彼ら(メタリカ)は見事にやってのけた。サポートを得られたのは素晴らしいことだ。彼はそれをとても感謝していたよ。


    Ultimate-Guitar.com(2017-07-28)

    インタビュー全編はこちらから。



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    メタリカ、『Master Of Puppets』30周年記念フォトブック『Metallica: Back to the Front』の新たな紹介動画を公開

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    前回の続き。「Metal Hammer」2016年6月号のインタビューを管理人拙訳にてご紹介。

    metallica_earlydays

    ■No Remorse

    ラーズ
    「No Remorse」はかなり飾りつけされた曲なんだ。俺たちが最初にこの曲や「Phantom Lord」「Four Horsemen」「Seek & Destroy」を書いた時からね。でもあの曲は他の曲の制作と劇的な違いはないよ。明確なヴィジョンがあった。いったん何かがうまくいけば、うまくいった。「やべぇ、俺たちスゴイな。もう何も変える必要はない」とはいかなかったけどね。でも何かがうまくいけば、うまくいったんだ。

    全てが本能的で直情的で瞬間的なものだった。今、腰を据えてレコードを制作していて、一日とかひと月とか自分のレーダーでもって全てのものを見ていくと、別物の選択肢が重なり合ったものなんだ。過重な負担がかかって、どうしたらいいかと腰を据えて考えているとこうさ。「クソッ、カリフォルニアのエルセリートでジェイムズとデイヴ・ムステインといた時は全てが簡単に事が運んだのに。俺たちは30分のレコードを作るのに、午後の半日でやべぇ曲を書いてたじゃないか」とかいった戯言だよ。本当はそう容易くはなかった。でもそうやって曲を練っているよ。


    ■Seek & Destroy

    ラーズ
    あのメインのリフはヘットフィールドの定番のリフだね。デモ・ヴァージョンだと、「Seek & Destroy」は2つのコード、2つのヴァージョンで中間部もちょっとだった。メタリカの受けた影響について語る時に欠くことのできないバンドのひとつがマーシフル・フェイトだ。彼らには全く違う雰囲気とダイナミズム、光と影を持った長い曲があった。彼らには俺たちの曲を長くした責任があるよ。マーシフル・フェイトを聴きだして半年もする頃には、俺たちは追加の節、追加のコーラスを加えて、アレンジをもっと長くし始めた。もっと良くしようとしていたんだよ。そう思う。

    −35年後もまだその曲を演奏しているという意識はありましたか?

    ラーズ
    (笑)意識していなかった、一切ない。全くないね。俺が俺がと打ち鳴らすことなく、いつも等しく楽曲を扱っていた。「Seek & Destroy」以前の曲に俺たちはそう感じていた。あの曲以後、良い曲として扱った。俺たちがやらなかったひとつは、たくさんの曲から選ぶということだった。『Kill 'Em All』は1983年に俺たちにあったベスト10曲なんじゃない。1983年時点であった10曲なんだ。他のバンドのインタビューを読んだらこうさ。「あぁ、俺たちは20曲を書いて、レコードのために10曲を選んだ」それは俺たちのやり方じゃなかった。レコードに収録するのに十分良い曲が書けなかったらどうするんだ?『Ride The Lightning』のために残しておいた7曲なんてものはなかった。全てのシングル曲は俺たちが書いて聴けているものなんだ。

    ■Metal Militia

    ラーズ
    間違いなく「Metal Militia」みたいな曲はその後数年に渡って思い浮かべてきたものとは違った歌詞の雰囲気を持っていたね(笑)。「レザーとメタルが俺たちのユニフォーム(Leather and metal are our uniforms)」だぜ?35年後には冗談みたいなことになってるぞって教えてやりたいね。でも1980年代初頭のカリフォルニア南部でそんな皮肉は多くはなかったよ。すごいマジになりすぎた例のひとつだね。18歳でなんとかしようともがき、理解しようと努めていたんだ。HR/HMで別世界の詩的なものを書くヤツはそう多くはなかった。歌詞の主題はほとんど音楽の次の話だ。歌詞は楽曲が続くようにそこにあったってだけだったよ。

    −かなり早い段階でバンドはそういった歌詞から離れて行ったと言ってもいいでしょうか?

    ラーズ
    それが正確だと言っていいだろうね。自分たちがやっていることを理解し始めて、意図的にヘヴィメタルの決まり文句からは離れて行ったよ。剣とか魔術のイメージ、革と鋲とかそういったもの全てからね。次の一連の曲を書く時までに、恐怖とか操作とか逃れることのできない状況に陥れられたというアイデアとかいったことを取り上げ始めたんだ。

    カーク
    俺たちは曲を録り終えて、グレイハウンドのバスに乗って急いでサンフランシスコに戻ったんだ。素晴らしい気分だったね。ついにアルバムを作って、ビニール盤になって、実際にそれをつかんで、アルバムジャケットを見て、どれだけ興奮しているか帰途に着く間ずっとクリフと話したのを覚えているよ。ふと彼はこう言っていたよ。「2ndアルバムはどうなるんだろうな?3rdアルバムはどうなるんだろうな?」ってね。

    −『Ride The Lightning』が『Kill 'Em All』の1年と2日後に出されました。最近ではあのペースは恋しいですか?

    カーク
    もしやるとなったら、どうなるかわからないな。あのペースは今じゃ相当早いよ。他にもやることはたくさんあるからね。一日24時間しかないんだ。メタリカに6時間を充てて、14時間を他のことに充てる。18歳の頃より52歳になった今では他にもやらなきゃならないことがたくさんあるんだよ。

    Metal Hammer 2016年6月号より

    まだまだカークには語られていないクリフとのエピソードがありそうです。昨年、「Metal Militia」がセットリストに組まれることが増えたのは、もしかしたらリマスター盤の制作段階で改めて演ってみたいとラーズが思ったのかもしれませんね。

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    英HR/HM雑誌「METAL HAMMER」でメタリカの『Kill 'Em All』特集
    ラーズ・ウルリッヒ、『Kill 'Em All』『Ride The Lightning』の制作秘話を語る

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    前回の続き。「Metal Hammer」2016年6月号のインタビューを管理人拙訳にてご紹介。

    metallica_1984_1118

    ■Jump In The Fire

    ラーズ
    あの曲は「Mechanix」みたいに元々はセックスを暗示していたんだ。でもそれはデイヴ・ムステインのものだった。彼はクールで自信家だったし、クールな髪型をしていた。俺たちが連れ立って彼のアパートに行くと、そこには女の子たちがいた。ジェイムズと俺が風変わりでちょっと不器用で剥奪されたティーンエイジャーだった頃、彼は世界の男の中の男だったんだ。

    −あなた方は曲について議論したりしましたか?

    ラーズ
    俺の記憶ではないかな。それは新たなメタリカのレコードを制作している今、俺たちが苦労しているところだ。俺たちに議論は必要ないけど、さらに良くするためにたくさんの意見があるからね。ジェイムズがリフを弾いている時にはいつも、もっと速く弾くこともできるし、ゆっくり弾くこともできる。半分の時間でも弾けるし、スラッシュメタルのスタイルでも弾ける。俺たちはそこで言うんだ。「こうしてみよう、ああしてみよう・・・ドロップDで弾いてみよう・・・俺はそこでスラッシュビートで叩いてみよう」とかね。そこで腰を据えて、こういう全ての意見を頭の中にグルグル巡らせるんだ。始めのうちはこういう選択肢を持つなんてことは覚えていないな。俺たちはただこなしたってだけだった。

    ■(Anesthesia) Pulling Teeth

    ラーズ
    Anesthesiaは、ただ「Bass Solo」と呼ばれる代わりに1曲に見せかけたベースソロだった。ギーザー・バトラーがブラック・サバスでやっていたようにね。彼は気の利いたクールなタイトルをつけたんだ。

    カーク
    彼が何者とも離れてベースソロをレコーディングしていたのを覚えているよ。彼は何もない上の階の空き部屋に行って、たった独りで、彼とアンプだけで立っていたんだ。みんながすぐ下のコントロールルームで彼の音を捉えていた一方、俺は彼を観ていた。15分か20分後、彼は音を正しくチューニングしてから俺を見てこう言ったんだ。「出て行ってくれ、これから演ろうとしているから」それから彼は一服してハイになって、かがんでビールを飲んでいた。俺は急いでそこから立ち去ったよ。

    −クリフのバンドへの音楽的な影響は何だったと思いますか?

    ラーズ
    クリフは別の音楽的背景をもっていた。彼はダイアモンド・ヘッドが誰なのか知らなかったし、タイガース・オブ・パンタンも知らなかった(訳注:いずれもメタリカに影響を及ぼしたNWOBHMのバンド)。彼は腰を据えてレーナード・スキナードやイーグルスやイエスやサイモン&ガーファンクルを聴いていた。俺はサイモン&ガーファンクルは知っていたけど、聴いたことはなかった。聴いたことがあっても、それとわかる前にスイッチを切っていただろうね。『Kill 'Em All』で彼は作曲を担ってはいなかった。彼が加入した時にはもう全ての曲は基本的にどうするか形になっていたからね。でも彼の影響と貢献は、『Ride The Lightning』の楽曲でかなり重大になっていくんだ。

    カーク
    クリフは音楽を勉強していた。彼は俺なんかより音楽的なレベルが違った。俺が理解できなかった概念があると、彼はそれを知っていて俺に説明してくれたんだ。関係調とかその他もろもろをね。

    ■Whiplash

    ラーズ
    Whiplashで俺たちはできる限り速く、理に適うように努めた。俺たちが聴いていて、「Whiplash」に影響を及ぼしたのはヴェノムだった。最初のレコード(『Welcome To Hell』(1981年))の「Angel Dust」「Live Like An Angel (Die Like A Devil)」は、大きなインスピレーションになった。彼らはモーターヘッドがやっていたようなエネルギーとスピードでもって、よりヘヴィメタルにしたんだ。モーターヘッドはもう少しパンク寄りのアティテュードだったからね。メタリカの草創期の話をする時、ヴェノムはもっとその名前を持ち出す必要があるね。

    −バンドの誰がメタリカを最高速度まで押し上げたのですか?

    ラーズ
    俺たちみんなで一緒にやったことだよ。ただ腰を据えて「俺がこうやった、アイツがああやった」っていうものじゃない。俺たちは同じビールを飲み、同じ酷い食べ物を食べ、同じ音楽を聴いた。18、19歳の頃みたいにね。俺はこれについて誰か1人が他の誰かよりも重要な位置を占めたとは思わない。俺たちはただもっとヘヴィでもっとファストで度を越したものにしようとしていただけなんだ。

    ■Phantom Lord

    ラーズ
    あきらかに俺たちがやったことは全てイギリスのサウンドを使って、2つのギターっていうイギリスで行われていたようなやり方だった。アメリカではもともと全部、1つのギターでもうちょっとルーズだった。(俺たちには)誘導灯があった。ダイアモンド・ヘッドの『Lightning To The Nations』、モーターヘッドの『Overkill』『Ace Of Spades』『No Sleep 'Til Hammersmith』・・・アイアン・メイデンの1stレコード、ジューダス・プリーストの『British Steel』、サクソンの『Wheels Of Steel』、タイガース・オブ・パンタンの『Wild Cat』・・・これらは俺たちがやってきたものに流れ込んだ青写真なんだ。

    Metal Hammer 2016年6月号より

    続きはまた後日。

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